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インタビュアー:岸田 / ゲスト:二宮・原

「お酒が好き」「娘が選んだネクタイ」―まずは自己紹介から

岸田 ご紹介しました「がんノート10周年記念キャラバン」ですが、今回は第4回目の開催となり、ここ福岡で実施させていただいております。
それではここから、ゲスト紹介に移らせていただきます。本日はお二人のゲストをお招きしています。まずは二宮さんからお願いできますでしょうか?

二宮 ありがとうございます。二宮みさきと申します。現在38歳で、岸田さんとは年齢が近いですね。

岸田 そうですね、ほぼ同世代です。

二宮 はい、まさに同世代ですね。私は現在福岡に住んで5年目になりますが、出身は福島県です。就職を機に京都に移り住み、治療中もほとんど京都で過ごしていました。

岸田 そうなんですね!

二宮 はい。なので、当時はかなり近いところにいたんだなと感じています。5年前に福岡へ移住してきて、今はのんびりと暮らしています。仕事は「フリーランス」とざっくり表現しているんですけれども、実際は色々やっていまして、たとえばコンサルティングファームでマーケティングの仕事をしたり、オンラインのがん相談サービス「キャンサーウィズ」の運営にも携わっています。それから、仕事というよりはボランティアに近い活動として、先ほど井本さんからも触れていただいた「AYAウィーク」にも関わっています。今年(2025年)は、実行委員長を務めさせていただいています。
病気についてお話しすると、私は2015年、28歳のときに乳がんと診断されました。ステージは2で、手術・薬物療法・放射線治療と、いわゆる“フルコース”の治療を受けました。
来年でちょうど、がんを経験してから10年になります。現在はホルモン治療だけを続けながら、経過観察中という状況です。
今日はどうぞよろしくお願いいたします。

岸田 よろしくお願いします。二宮さんのことをもう少しだけ知りたいなと思います。二宮さんが今ハマっていることやご趣味を教えてほしいです!

二宮 ありがとうございます。実はお酒が大好きで(笑)

岸田 いいですね!

二宮 お酒を飲むのが大好きで、昨日も天神で2軒くらいはしごして、お酒を楽しんでました(笑)。

岸田 お酒といってもいろんな種類がありますけど、何が好きなんですか?

二宮 何でも比較的飲みますけど、最近ハマっているのはワインですね。あとはたくさん飲みたい時はレモン酎ハイとか、そのあたりです。

岸田 なるほど。お酒が好きってことは、やっぱり強いんですよね?(笑)

二宮 うーん、どうだろう……自分ではよくわからないです(笑)。

岸田 二軒、三軒と行かれるくらいなので、かなりお好きなんだろうなと(笑)。まぁ「お酒大好き」っていうレッテルを貼るのもどうかと思いますが、そういうご趣味があるということで。今日会場にいらっしゃる方の中にもお酒好きな方がいれば、ぜひ後ほど二宮さんとお話してみてください!ありがとうございました!

岸田 続いて、原さんにご登場いただいております。自己紹介をお願いできますでしょうか?

 ありがとうございます。原利彦と申します。今日の服装、緑のネクタイはちょっと趣旨から外れてしまってまして……(笑)。本当はロックな感じの緑のTシャツを着てくる予定だったんですけど、直前になぜかネクタイを締めてしまいまして。ただこれは娘が選んでくれたネクタイなので、そのあたりはご容赦いただければと思います(笑)。

岸田 どんなアピールなんだろうと思いましたけど(笑)、でも娘さんが選んでくれたというのは大事ですね。

 現在52歳です。福岡県出身で、学生時代は関西で過ごしていましたが、今は福岡に戻って会社員をしています。 職業は映像ディレクターで、テレビ番組やCM、動画の制作・演出をしています。また、患者会の活動にも関わっておりまして、「がんばってん元気隊」という、福岡では比較的歴史のある団体に所属し、ピアサポートを中心に、がん患者さんや遺族の方の支援を行っています。会社員という立場もあり、働き方や就労支援といったテーマで活動することもありますし、娘がお世話になったご縁から、学校教育の現場で「がん教育」に関わる機会もいただいています。
病気についてですが、7年前、ちょうど45歳になる直前の年に、まず甲状腺がんが見つかりました。かなり転移していた状態で、ステージは4。その治療が終わったわずか1か月後に、中咽頭がんも見つかりまして……。先生も「これはミラクルだ」と驚かれていました(笑)。そこから手術、抗がん剤、放射線と、いわゆるフルコースの治療を受け、4か月半ほど入院、会社も半年ほどお休みしました。喉への治療が大きかったこともあり、今も少し声に難があるのですが、「そういうもんなんだな」と思って聞いていただけたらありがたいです。今日はどうぞよろしくお願いいたします。

岸田 よろしくお願いします!そんな原さん、最近ハマっていることやご趣味はありますか?

 趣味は、仕事の延長でもあるんですが、映画と音楽が好きですね。……ただ最近は、妻に言われて、できるだけ家で食器を洗うようにしています(笑)。気づいたときには自分からやるようにしていて、そんな家庭内の事情もあったりします。

岸田 いやいや、家庭内の事情は特に聞いてないですよ!(笑)。

 趣味、食器洗い(笑)。いやでも、本来の趣味としては今言ったように映画と音楽ですけど、そんなに面白い話ではないかもしれません。

岸田 そんなことないですよ(笑)。おすすめの映画とか、ぜひ教えてください。

 最近は韓国映画をよく観ています。ちょっと暴力的で好みが分かれるかもしれませんが、アクション映画が特に面白いんです。やっぱり韓国は兵役制度がある影響もあってか、アクションの質がとても高いんですよね。一方、日本ではそういった背景がない上に、コンプライアンスの問題もあって、激しいアクションものってなかなか作りにくい。だからどうしても穏やかな作品が多くなる中で、エンタメとして楽しむには、韓国のアクション映画に魅力を感じています。

岸田 なるほど。アクション映画が好きってことはわかりましたけど、作品名は一つも出てこなかったですね(笑)。でも、韓国映画のアクションを最近よく観ているということで、ありがとうございました!

がん告知後の病院選びと治療法の決め方

岸田 ではここから、本題に入っていきたいと思います。スライドをご覧いただけますでしょうか。「病院と治療の選択」というテーマで、お二人ががんの告知を受けてから、どのように治療や病院を選ばれたのかをお聞きしていきたいと思います。
まずは二宮さんから、がんと告知されてから治療に至るまでの流れを、少し振り返っていただけますでしょうか。

20代での乳がん発見―健康診断オプション検診の重要性

二宮 はい、もう10年近く前のことなので、ちょっと記憶が曖昧な部分もあるんですけど……。思い出しながらお話しすると、私が乳がんと診断されたのは28歳のときでした。その年齢だと、定期的な乳がん検診の対象にはなっていないんですよね。でも、2015年の年明け頃、なんとなく違和感というか、しこりというほどではないんですけど、胸に少し気になる感覚があって。
当時勤めていた会社の健康診断には、希望者向けに乳がん検診をオプションで追加できる制度があったので、「つけてみようかな」と思って追加しました。その健康診断を受けたのが、たしか2015年の4月頃だったと思います。
検診ではマンモグラフィーではなく、エコー(超音波)を選びました。エコーを受けていたとき、最初は技師さんが一人だったんですが、途中で「ちょっとお待ちください」と言われ、もう一人技師さんが来て、急にわちゃわちゃした雰囲気になったんです。そのときに、「これはあまり良くないかもしれないので、健康診断の結果は後日郵送されますが、それを待たずに早めに病院へ行ってください」と言われました。その場で「これはまずいかも」と思い、自分でネットで調べて、乳腺外科の口コミなどを参考にしながら、評判の良さそうな病院を探して、1週間も経たないうちに精密検査を受けに行きました。
「まあ大丈夫だろう」と思いながら病院に行ったんですけど、そこで改めてエコーとマンモグラフィーを受けたところ、「やっぱりちょっと怪しいですね」と言われて、そのまま針生検(組織検査)を受けることになりました。

そこから1週間から10日ほどで、がんの告知を受けました。本当に、気づけばあれよあれよという間に告知に至った、という感じでした。

岸田 そのとき、乳房の腫れはどのあたりだったんですか?

二宮 左側でした。女性の方なら分かるかもしれませんが、下着をつけるときに触るじゃないですか。しこりっていうほどではないんですけど、なんとなく「いつもと違うな」という違和感があって……。 乳房って基本的に脂肪だから柔らかいんですけど、そこがちょっと硬い感じがしたんですよね。でも当時は「まあ大丈夫だろう」と思っていました。
ただ、それが年明けくらいで、そこから2〜3ヶ月経った頃、胸を動かすと“くぼみ”が見えるようになったんです。

岸田 くぼみ?

二宮 はい。えくぼみたいな。ネットで調べると「これはけっこう怪しいかも」と思って……それで、実際に病院へ行って、告知を受けたという流れです。

岸田 なるほど。会社の健康診断のときに、ちゃんと自分でオプション検診を追加されて、さらに「病院へ行ってください」と言われた後も、ちゃんと行動されたんですね。病院は自分で探されたんですか?

二宮 そうですね、本来なら健康診断の結果を待てば「こんな病院がありますよ」というチラシが届いたりするんですけど、私はその結果を待たずに「早めに病院へ」と言われたので、自分でネットで調べました。

岸田 自分で。

二宮 はい。乳腺外科を探しました。

岸田 検索するときは「乳がん」とかで?

二宮 そうですね、「乳がん検診 精密検査」とか、そんな感じで調べて。自宅から通える範囲で評判が良さそうな病院を探して、ネットでググって、そこに行きました。

岸田 自分で電話して予約して、そこでエコーやマンモグラフィー、針生検などの詳細な検査を受けて、がんの告知を受けたということですね。では、その告知を受けたときの心境について、教えていただけますか?

二宮 ……そうですね、結果が出るまでに1週間くらいあったんですけど、その間ずっと「がんかもしれない」「いや、でも大丈夫かもしれない」って、気持ちがすごく揺れていました。でも実際に「がんです」と言われたときは……「ああ、やっぱりか」っていう感情のほうが大きかったです。

岸田 やっぱり?

二宮 はい。「やっぱ、がんだったか……」と。

岸田 先ほどのお話で、乳がんのステージはⅡAでしたっけ?それともⅡB?

二宮 ⅡAです。

岸田 ⅡAとおっしゃっていましたが、当初はまだステージがわかっていなかったんですよね?

二宮 はい、告知の時点ではまだステージは不明でした。その後、全身の検査や腫瘍の大きさを詳しく調べていく中でステージが決まりました。正確な腫瘍のサイズはちょっと忘れてしまったんですが、ある程度の大きさを超えるとステージ2になるんです。私の場合は、腫瘍がそこそこ大きくて、リンパへの転移はなかった、という感じでした。

温存か全摘か―28歳での選択と大学病院転院

岸田 そこから治療に入っていったわけですね。セカンドオピニオンは取らなかったんですか?

二宮 はい、セカンドオピニオンは取りませんでした。最初に診断を受けたのは、乳腺外科専門の小さな病院だったんですけど、当時私はまだ28歳で若くて、結婚はしていたものの子どもはいなかったんです。今後子どもを授かりたいと思う可能性もありましたし、乳房についても、温存か全摘かがまだ決まっていない段階でした。もし全摘して再建となれば形成外科の対応が必要になるなど、そういった幅広い選択肢を考えると、総合病院や大学病院のほうが良いのではないかと。もちろん、最初の病院でも治療は受けられるのですが、選択肢としてそういう施設もあると、最初の主治医が丁寧に教えてくれたんです。
それで、「あちこち自分で病院を回るのは大変だし、全部一箇所で対応できる大学病院の方が便利かもしれない」と思ったことがひとつ。もうひとつは、ちょうどその大学病院で、自分に合致しそうな治験をやっていたことです。場所もそんなに離れていなかったので、「それなら大学病院に行こうかな」と決めて、主治医に紹介状を書いてもらって大学病院に行きました。

そこで再度検査を受けて、結果的に2回検査を経て治療に入る、という流れになりました。

岸田 治療内容については、プロフィールにもあるとおり、手術・薬物療法・放射線療法などを受けられたんですよね。具体的にはどんな順番で進んでいったのでしょう?

二宮 まず最初に、手術の前に抗がん剤を6クール受けました。というのも、当初の腫瘍の大きさでは全摘しか選択肢がないと言われていたんですけど、抗がん剤で腫瘍が小さくなったことで、温存手術も可能になりました。悩んだ末に、私は温存を選びました。
ただし、温存手術をする場合は放射線治療が必須だと言われて、結果的に「抗がん剤 → 手術 → 放射線」という順番で治療を進めました。さらに、その後は分子標的薬の治療期間があり、その時期は分子標的薬とホルモン治療を並行して受けていました。現在はホルモン治療のみ継続中です。

岸田 治療のきっかけにもなったという、あの治験には実際に参加されたんですか?

二宮 はい、受けました。

岸田 そうなんですね。

二宮 はい。治験は、比較的早期の乳がん患者さんを対象に、新しい薬が効くかどうかを確認する内容でした。たしか第Ⅱ相かⅢ相の段階だったと思います。つまり、効果や安全性がある程度見えてきているタイミングの治験だったので、私はその治験に参加し、そこで使われていた抗がん剤を受けました。

岸田 なるほど。医療情報については、がんノートをご覧の方はご存知かもしれませんが、私たちはあくまで「経験談」をお伝えしている立場です。医療的な情報は、ぜひ主治医や医療従事者、がん情報サービスなど信頼できる情報源に確認していただければと思います。
改めてありがとうございます。今はホルモン療法のみ継続中ということで、ここまでが二宮さんの病院選びや治療についてのお話でした。

甲状腺がん発見のきっかけ―リンパ節転移からの診断


次に、原さんのお話も伺っていきたいと思います。原さんは2つのがんを経験されていますが、タイミング的にはほぼ同時期だったかと思います。その告知に至るまでの体調の変化や経緯など、お話しいただいてもよろしいでしょうか?

 はい、では時系列でお話ししますね。抗がん剤に入る前の段階までをお伝えすると、最初はすごくシンプルに、左耳の後ろに小さな“しこり”のようなものができたんです。
例えるなら、小さな薬のカプセルを埋め込んだような感触で、固くて、でも痛くもかゆくもない。だから最初は「なんだろう?」くらいに思って、特に気にせず放っておいたんです。
でも、2ヶ月くらい経ってもまったく変化がなかったので、「ちょっと気持ち悪いな」と思って、近所の内科、かかりつけ医に相談に行ったんですね。
そうしたら、「これは大ごと(おおごと)かもしれんよ」と言われて、別の病院を紹介され、さらにそこから総合病院へと回されました。
そこで検査を受けたところ、「甲状腺がんがリンパ節に転移して腫れている」と診断されました。
そこまでに「がんかもしれない」とは言われていたので、実際に診断を受けたときには、やはり「そうか……」という、ある種の納得のような感覚もありました。
最終的に診断をしてくれた若い先生が、「自分の師匠がいる九州がんセンターを紹介したい」とおっしゃってくださいました。頭や首のがんについては「頭頸科(とうけいか)」という専門の診療科があり、そこで改めて診てもらったところ、「反対側にも転移しています」「このあたりにも飛び散っています」と説明されて、即手術という流れになりました。
手術は、本当に優秀な先生が担当してくださったので、今は目立ちにくいですが、耳の後ろから首にかけて大きく切開して、甲状腺をすべて、そして飛び散っていたリンパ節も「郭清(かくせい)」という形で、ガッと取り除く大きな手術でした。「ビャーッと開けて、ガシャーッと取って、ガーッと80針縫った」と先生が表現していたくらいの大手術でした。
その手術で2週間入院し、一旦退院したのが、甲状腺がんに関しての第一段階、という感じです。

岸田 甲状腺がんだけでも、かなり大きな治療をされたんですね。病院選びについては、最初は近所の病院に行かれて「何かおかしい」と言われてから、紹介→紹介とつながっていって、最終的に九州がんセンターに行かれた、という流れなんですね。

 そうですね。九州がんセンターの一つ前に診てもらった先生がとても信頼できる方で。
私自身、仕事のこともあったので「包み隠さず、全部話してください」とお願いしていたんです。状況がどうなっていくのか、仮定の話でもいいから教えてほしいと。
その先生はとてもリアルに、丁寧に説明してくださって、「このような段取りで治療を進めていくと良いと思います」と、的確なアドバイスもくださったんです。
結果として、その先生の紹介で、九州ではかなり高い水準の治療を受けられる九州がんセンターを紹介していただき、そちらでお世話になりました。一旦手術が終わって、その後も治療が必要にはなりましたが、甲状腺がんに関しては、まずその段階でひと区切りがついたという感じです。

岸田 乳頭がんっていうのが書いてますけど、乳頭がんっていうのは一番厳しい種類ですよね・・・?

 4種類甲状腺がんってあるんですけど、まあ一番穏やかというか穏やかながんで、同じ甲状腺がんで未分化がんとあるんですけど、それだとかなり厳しい、死に関わるような状態というふうなこともあって、それは手術で、その後病理検査をしてみないと、組織を検査してみないとわからないと言われていたのでないだろうと思いつつも、やっぱりその結果が出るまで手術から1ヶ月ぐらいは、ちょっと生きた心地がしないというのは多少ありましたね。

中咽頭がん判明―2つのがんとの闘い

岸田 手術をしていって入院していって、その後同時期にこの中咽頭がんが?

 中咽頭がんは手術して取り出した組織を調べると、甲状腺がん以外のがんが混じって転移してますって話になって。

岸田 えーーーー!

 それで「かなり危険な状態なので、原発がどこか分からなくても治療を始めます。明日から入院してください」と言われたんです。「どのくらいの入院ですか? 2週間くらいですか?」と聞いたら、「いえ、2ヶ月です」と言われて。「無理無理無理!」って(笑)。明日から2ヶ月も仕事を休むなんて絶対無理だと。それで慌てて仕事の調整をして、即日は入院できなかったんですけど、1週間以内には抗がん剤の治療を始めることになりました。
その間に検査が進み、原発は「中咽頭」、つまり咽頭の真ん中、ちょうど扁桃腺のあたりだと判明しました。坂本龍一さんも中咽頭がんを患っていたそうですね。私の場合もそこが原発でした。ただ、原発自体は比較的小さくて、「放射線でやっつけられるでしょう」「臓器は温存しましょう」という方針に。ただしその分、放射線を集中的に当てる必要があり、補助的に抗がん剤も併用する形に。結果的に、放射線がメインとなる中咽頭がんの治療が始まりました。
放射線治療は39回、土日を除く毎日の治療で、3ヶ月ほどかけて行いました。このときは、正直綱渡りのような状況で、「もしかすると他の部位に遠隔転移しているかもしれない。覚悟してください」とも言われて。「それ、言っちゃうんだ」と思いましたが、可能性としては「喉を丸ごと取って、再建手術をするかもしれない」という話も出たりして……。
私は「全部教えてください」とお願いしていたので、先生は本当にすべて教えてくれました。ありがたかった一方で、正直びっくりしたし、怖かったです。
ちなみに、これは九州がんセンターに行く前に診てくれていた先生の話なんですが、私は一度、その先生のもとへ戻って相談をしました。ある意味でセカンドオピニオンのようなものですね。

岸田 わざわざ予約を取って?

 そうです。予約を取って、「今こういう結果が出てるんですが……」と相談したら、先生は一通り悩んだあとで、こうおっしゃったんです。「私が原さんだったら、先生の言う通り、その治療を受けますね」と。その言葉が決め手になりました。「この先生が言うなら、やろう」と決心して、「ありがとうございます」とお礼を伝えて、治療に踏み出しました。
九州がんセンターの先生や治療に不満があったわけではないんです。でも、やっぱり不安が大きかったので、一つ前の先生に背中を押してもらえたのが、すごく心の支えになったんです。「お勧めします」という言い方ではなく、「自分ならそうする」という伝え方だったのも良くて、気持ちがとても穏やかになりました。
実際、九州がんセンターでの治療は副作用もきつくて、後遺症もあります。特に口の中のがんだったので、いろんな影響が出るんですね。
治療を始める前に、「すぐに出る副作用」「1年後に出る副作用」「数十年後に出るかもしれない副作用」といった一覧表を渡されて、それを見ながら、何枚も分厚い同意書にサインしました。本当に迷いましたが、先生の言葉を信じて治療を受けました。治療から半年近く経っても後遺症や副作用は残っていますが、今は日常生活には支障がない程度に落ち着いて、経過観察中です。
実は、甲状腺がんのほうで「ヨード治療」も予定されていたんです。これは放射性物質のカプセルを飲んで、体の中から放射線を当てる治療で、完全に隔離された部屋に入れられます。「飴はOKだけどガムはダメ」とか言われて、つまり唾液がついたものは捨てられないからなんです。そういう徹底管理の下で行う治療です。でも、先に受けた放射線の影響で唾液腺が傷んでいて、唾液が出づらくなっていたんですね。その状態でヨード治療をやると、さらにQOL(生活の質)が下がる可能性が高い。そこで医師から「今はその治療は温存しておきましょう」と言われて、キャンセルすることにしました。
そのとき医師に「その治療を受けると、再発のリスクはどうなるんですか?」と聞いたら、「30年後に再発する可能性が30%から15%になります」と言われて。「遠いな……(笑)」って。じゃあその時にまた考えます、ってことで、今はやらずに済ませています。
そういった流れで、2つのがんに対してさまざまな検査や治療を受けて、現在に至っています。

岸田 本当に多くの治療を受けてこられたんですね。放射線治療が終わった今、薬物療法などはもう行っていないということでしょうか?

 治療そのものは終わっていますが、甲状腺がないので、ホルモンの薬は毎日飲み続ける必要があります。これは一生ですね。それと、最低でも年に1回は検査を受けるようにと、病院から指示されています。

岸田 ありがとうございます。つまり原さんの場合は、一つ前の主治医に相談して、その言葉が治療の選択を後押ししてくれたということなんですね。本当に貴重なお話をありがとうございました。

休職8ヶ月、時短勤務からの復帰―治療と仕事の両立の実際

岸田 続いてはこちらのテーマです。「仕事との両立」について、お二人ともお仕事を大切にされていた方だと思いますので、治療とどう向き合いながら働いてこられたのか、お伺いしていきたいと思います。
まずは、二宮さん。今のお仕事と、当時のお仕事は同じですか?

二宮 いえ、違いますね。当時は一つの会社に所属していた会社員で、IT企業に勤めていました。比較的若い会社で、創立から10年くらい。社員の平均年齢も30歳に満たないくらいの、若い人が多い職場でした。

岸田 僕の会社と同じような感じですね。

二宮 そうですね(笑)。若い会社だったので、実は「がんの治療を経験した社員」が誰もいなかったんです。だから会社にも前例がなくて、制度もほとんど整っていなかったんですよ。一応、就業規則上は「休職制度」がありましたが、実際にその制度を使った人もおらず、私自身もがんの治療に関して知識がなかったし、上司や人事の方もよくわからないという状況でした。
それでも、ありがたいことに柔軟に対応してもらえて。結果的に私は抗がん剤治療などで、8ヶ月ほど休職させてもらいました。
ただ、就業規則には「休職は最長6ヶ月まで」と書かれていたので、治療が長引きそうだと感じたときには「もしかしたら、もうダメかも」と不安に思ったこともありました。 実際、抗がん剤の途中で血液の状態が悪くなって治療が長引いた時期があって、会社に「半年で戻れると思っていたけれど、無理かもしれないです」と伝えたら、「柔軟に対応するから大丈夫だよ」と言ってもらえて、本当にありがたかったです。

岸田 会社側の理解がすごくあったんですね。

二宮 本当にそうです。感謝しかないです。休職もさせてもらえたし、復職のときも、いきなりフルタイムではなく、時短勤務からスタートさせてもらえました。当時はまだ2~3週間に1回、分子標的薬の点滴もあったので、そのときにはお休みも取らせてもらって。そうした柔軟な対応をしていただけたのは、本当にありがたかったですね。

岸田 ということは、治療中に社会復帰されたということなんですね。

二宮 はい、そうです。時系列で言うと、抗がん剤治療が3週間に1回で6クール。途中で治療が長引いたりもしたので、実質的には半年弱ほど治療して、そのあとに手術を受けて、さらに放射線治療もしました。その放射線治療が終わったタイミングで復職したんです。

岸田 なるほど!

二宮 その時点では、分子標的薬の治療があと半年ほど残っていたのと、並行してホルモン治療も続いている状態でした。そういう治療を抱えながらの復職でしたが、会社の支えがあったからこそできたことだと思います。

岸田 じゃあ実際にお仕事をお休みされていたのは、抗がん剤から手術、放射線までの約8ヶ月くらいだったんですね。

二宮 はい、そうです。抗がん剤・手術・放射線で8ヶ月お休みをして、そこからの半年間は社会復帰しながら治療も続けていて、時短勤務で少しずつ元のペースに戻していった、という感じです。

岸田 その期間、二宮さん的には「全然余裕でした!」って感じですか?

二宮 (笑)いや、余裕ってことはなかったです。一番余裕がなかったのは、やっぱり抗がん剤治療中ですね。

岸田 手術の前の時期ですね。

二宮 はい、そうです。その時は完全に仕事を休んでいましたし、体もしんどくて。逆に、手術は「めちゃくちゃ楽だ」と感じたくらいでした。もちろん嫌だったし、痛みもありましたけど、副作用もなく、ご飯も普通に食べられるし、吐き気もない。抗がん剤に比べたら、全然楽だなって思えたんですよ。

岸田 放射線治療のときはどうでしたか?

二宮 放射線も、もちろん通うのは大変でしたけど、生活に大きな支障が出るような感じではなかったので、仕事もいきなりフルタイムは無理でも「できるかも」って思える状態ではありました。

岸田 じゃあ、治療と並行しながら仕事にも復帰して、うまく両立されていたんですね。

二宮 はい。周りの方々にもすごく支えていただいて。会社の柔軟な制度や、同僚・上司が普段通りに接しつつも、配慮もしてくれました。そうした環境があったからこそ、復職は比較的スムーズに進んだと思っています。

岸田 まさに「うまくいったパターン」ですね。ありがとうございます。その後は、働く場所が変わって転職されて、今はフリーランスとしてお仕事をされているということですね。

二宮 はい、そうです。

岸田 ありがとうございます。では続いて、原さん。映像ディレクターというお仕事柄、「治療を少し先延ばしにしてください」とまでおっしゃっていたと聞いています。そこから実際にどれくらいお休みされて、どういうふうに復職されていったのでしょうか?

 結局、会社を休んだのは合計で半年か、もうちょっとくらいですね。その間、もちろん給料はなくて……。

岸田 えっ、ないんですか? 傷病手当金とかは?

 ゼロではないですよ(笑)。ゼロではないですが、あくまで保障の範囲内という感じで、通常の給料はやはり出ません。そこは誤解なきよう(笑)。
で、ここからは少し奇跡的な話なんですが、私、専門職なので、仕事を代わってもらうのが難しいんです。担当案件などもありますし。でも、ちょうど甲状腺がんが見つかる3ヶ月前に、私は肺炎になって病院に行ってたんですね。毎年のように肺炎になる体質で、その年もやっぱり肺炎で。
そのとき、ちょっと意地悪な先生がいて、「これは多分肺炎だと思うけど、抗生物質を打って1ヶ月後に影が消えなかったら、肺がんの可能性も頭に入れておいてください」と言ったんですよ。それを聞いて「えっ!?」と驚いて、すごく不安な1ヶ月を過ごしたんですが、その期間に「万が一のときはどうするか」を考えはじめていたんです。「もしがんだったらどうなるんですか?」と聞いたら、「肺を半分切って、復帰までに半年はかかります」と言われて。その間に私は、万が一のことを想定して、自分が抜けても現場が回るように引き継ぎの準備を進めていたんです。 「うちの医者がいじわるでね、万が一のときのためにさ〜」なんて冗談交じりに周囲に話しながら、実は本気で動いていました。

岸田 肺がんの可能性を示唆されたことで、事前に準備ができていたんですね。

 肺がんじゃなくて肺炎でした、と先生に言われたのがちょうど3ヶ月前で、ホッとした矢先に甲状腺がんが見つかったんです。
今では笑い話のようですが、本当に不思議な流れでした。
ただ、そのおかげで会社の業務はあらかじめ他の方に引き継ぐ準備ができていたので、スムーズに任せることができたんですよ。
入院中の半年間、「あ、自分がいなくても世の中って回るんだな」とちょっと寂しくなったりもしましたけど。

岸田 分かります、それ。自分がいなくても回っていく、あの感覚。

 そう、あの感覚。でもある意味、ラッキーだったとも言えるんです。
ただ、大変だったのはむしろ復職してからでした。
復帰後は、「私が病気を経験したことを知っている人」と「知らない人」が混在する職場環境になっていて。知っている人は「体調大丈夫?」と気づかってくれるけど、知らない人は「最近忙しそうだね、儲かってるでしょ?」なんて言うんですよ。そういう中で仕事をしていると、気をつかう人と、バリバリ働かせようとする人が同じ現場にいて。「原がいないと決まらない」「このあとの段取りどうするの?」なんていうプレッシャーもありましたし、夜遅くなる現場もありました。
それが結構きつかったですね。
しかも当時は治療を終えたばかりで、再発のリスクがまだ高い状態だったので、毎月の検査のたびに不安がありました。たとえば3ヶ月後の仕事の依頼をもらっても、「そのとき、自分は再発してるかもしれない」と思うと、引き受ける返事をするのがすごく怖かった。
迷惑をかけるかもしれない、という不安が常につきまとっていました。
結局、そのころの会社ではうまくいかずに辞めてしまったんです。今は新しい会社でいろいろ配慮していただいていますが、振り返ると、治療が終わって社会に戻ったあとが本当に大変だった。入院中は守られていた感覚があったけれど、外に出てからは「どう振る舞えばいいのか」「誰に話せばいいのか」がわからない。いわゆる“カミングアウト”をどうするか、自分の中で1年近く悩み続けました。隠れるように仕事をしていた時期もあって……。だから、「仕事」という意味では、退院後の方が本当にしんどかったです。

岸田 ありがとうございます。当時のことを振り返って、もし原さんが当時の自分に声をかけるとしたら、あるいは同じような状況の人に何か伝えるとしたら、どんな言葉をかけますか?

 難しいですね……。これは少し前にも触れた話なんですが、40代〜50代の男性って、やっぱり「がんで治療中です」とオープンにするのがすごく苦手なんですよ。私もそうでした。
「がんと知られたら、無理な仕事を任せてもらえないかもしれない」

「出世に響くんじゃないか」

そんな風に考えてしまって、言いたくても言えないんです。変なプライドもあって、患者会に行くことすら「俺はちょっと…」みたいに感じてしまう。だから声があげにくい。同じような状況の40代、50代の男性って、実際にはたくさんいらっしゃると思うんです。でも、そうした方々が声を出しにくい社会や環境にあるのが現実だと思っています。
私の場合は、職業柄こうして前に出て話す機会をいただいていますが、こういう場でも、私と同世代の男性が来る割合は本当に少ない。声もかけづらいんです。だからといって「みんなもっと表に出ましょう」とは、私は言いたくないんです。無理に「オープンにしたほうがいい」と押しつけることはしたくないし、それぞれが自分の気持ちに従って選べばいいと思います。
ただ、私みたいになってほしくない、という思いはあります。だから今は、企業さんにお伺いして“しくじり先生”的な立場でお話させていただいています。でも、「原みたいになればいい」と言いたいわけではなくて。皆さんには、それぞれの生活と仕事の中で、自分なりにがんと向き合って、うまく付き合ってほしい――。それが今、この場で私が伝えられる精一杯の言葉かなと思います。

岸田 ありがとうございます。本当に、人それぞれですよね。自分のことをオープンに話す方もいれば、上司だけに伝える方、周囲に一切話さずに過ごす方もいます。それぞれの状況に応じて、自分にとって一番いい方法を選んでほしい。そういった考え方が広がっていけば嬉しいですね。ありがとうございました。

パートナー、母、娘へ―大切な人にどう伝えたか

岸田 さて、次のテーマは「周りとの関係」についてです。ご家族やご友人、パートナーとの関わりについて、それぞれお話を伺えればと思います。家族・友人・パートナーと、少し広めのくくりではありますが、「周りとの関係」と聞いて、二宮さんはどなたのことが思い浮かびますか?

二宮 そうですね。仕事の話でも少し触れましたが、同僚や友人は比較的これまで通りの接し方をしてくれました。このトピックでお話しするなら、やっぱり夫と母の存在が大きかったですね。

岸田 ではまず、パートナーであるご主人について伺えますか?

二宮 夫とは、告知を受けた時点で結婚3年目でした。私が25歳で結婚して、28歳の時に病気が発覚したので。当時、主治医から「妊孕性(にんようせい)の温存」について説明がありました。まだ子どもがいなかったので、「将来子どもを望むなら、受精卵や卵子を保存する選択肢もある」と。結果的に、私は「子どもを産まない」という選択をしました。告知のときから夫と一緒に病院に行っていたので、一緒に説明も受けて、2人で考えて、そう決めました。
それまで、私は「子どもを産んだ方がいいのかな……でもどうしようかな」と心の中で迷っていたんです。夫がどう思っていたかは分からないけど、病気をきっかけに、2人で「これからは子どもを持たずに、2人で仲良く暮らしていこう」と気持ちを固められたのは大きなことでした。ある意味で、長年引っかかっていた「子どもを産むか産まないか」という悩みがなくなった。前向きな気持ちにもなれたし、それは病気をきっかけに得られた変化だったと思っています。

岸田 パートナーとの関係において、一つ大きな悩みが解消されたんですね。それでは、お母様についてはいかがでしょうか?

二宮 はい。当時私は京都に住んでいて、母は福島にいたので、がんの告知や治療のことは電話で伝えました。母は当時50代で、ちょうど乳がんを発症しやすい世代だったんです。電話で私ががんだと伝えると、母は泣きながら「なんで私がならなかったんだろう」「代わってあげたかった」と何度も言っていて。ありがたい言葉なんですけど、正直「そう言われても…」という気持ちもありました。仲は良かったので、母の気持ちはすごく理解できるし、心配してくれていることも分かっていたんですが、当事者の自分としては、その言葉を受け止める余裕がなかった部分もありました。
ただ、実際に抗がん剤治療が始まって、副作用でつらい時期に母が手伝いに来てくれたときは、本当に頼もしかったです。「絶対に大丈夫だから」と励ましてくれて、覚悟が決まった顔をしていて。母もその間に、自分の中で気持ちを整理してくれていたんだろうなと感じました。

岸田 お母様の心境の変化もあったんですね。ありがとうございます。

岸田 それでは原さん。ご家族については、娘さんの「ネクタイ」エピソードもありましたが(笑)、どんなふうに伝えていかれたんでしょうか?

 そうですね。まず両親に伝えるときは、実家に帰って、普通にご飯を食べながら話しました。「ちょっと話があるんだ」と言って、わちゃわちゃと食事中のタイミングで「実は、がんが見つかった」と言ったんです。そうしたら、もうピタッと手が止まって……本当にドラマみたいに静まり返ったんですよ。後から聞いた話ですが、母は心の中で倒れそうなくらい動揺していたらしいです。でも、私の前ではすごく気丈に振る舞ってくれて。一方で父は、もうおいおいと泣いてしまって……「こんな感じになるのか」と驚きましたね。
妻には、もちろんすぐに伝えました。「全部協力するから」と言ってくれて。ただ、娘にはどう伝えるかをかなり悩みました。当時、娘は中学2年生で、ちょうど部活の合宿に行っている間に私が入院することになっていたんです。手術直後は、喉を大きく切開されて、まるでフランケンシュタインのような見た目で。病院も「九州がんセンター」ですから、「これはさすがに“がん”ってことがバレるな」と思って。でも妻はうまく説明してくれて、「喉に腫瘍ができたから手術するけど、がんセンターにはいろんな人が入院してるんだよ」と言ってくれてました。
娘が私の傷跡を見たときの最初の反応は「へぇ!」とひと言。「○○くんに比べたら全然大したことないやん」と言ったんです。どうやら、同級生に胸に大きな手術跡のある子がいて、それを見慣れていたからか、あっさり受け止めてくれたんです。その後、中咽頭がんが見つかって、長期入院が必要になったときには、さすがに「これ、どう説明しよう……」と悩みましたが、娘が「学校で“2人に1人はがんになる時代”って習ったよ」と言ったんですね。
それを聞いて「あ、ちゃんと知識として持ってるんだ」と安心しました。それもあって、私は「治療すれば治るから、応援してくれ」と素直に伝えられました。今では、その時に娘の中学校にがん教育の授業に来てくださっていた団体に、私自身も加わって活動しています。巡り巡って、娘にしてもらったことを、今度は私が次の誰かのために返していきたいと思って関わっています。

岸田 素晴らしいですね。

 ありがとうございます。あともう一つだけ、仕事仲間とのエピソードを紹介させてください。
がんを伝えると、現場の空気ってどんよりするじゃないですか。 周りもがんの経験がない人が多くて、言葉に詰まってしまう。「うちの母が…」「おじが…」と親族の話をしてくれる人もいれば、何も言えないまま沈黙する人もいます。
そんなときに、あるアイデアを思いついたんです。「ごめん、入院が長くなるから、応援メッセージを携帯に送ってくれない?」って頼んだんです。そうしたら、急に「原ちゃん頑張れ!」「絶対治るよ!」って、言葉があふれてくる。今まで何も言えなかった人たちが、動画やメッセージで気持ちを伝えてくれるようになったんです。
これは本当に大きかったですね。職場を離れるときも、その応援動画で「じゃあ行ってきます」と挨拶できたし、戻ったときも「あの原ちゃんが帰ってきた」と迎えてもらえました。今でもそういう動画、いろんな現場で撮って残しています。一つのきっかけで、関係性が変わる。そういう経験でした。

岸田 具体的には、「僕(私)、がんなんです」と伝えたときに、その場がどんよりした空気になったら、「じゃあ、ちょっと動画撮ってもらっていいかな」ってお願いする感じなんですか?

 そうです。「入院中に見る応援メッセージとして送ってもらえたら、元気出るから」と伝えると、さっきまで沈黙していた人たちが、急に元気になって「原ちゃん頑張れー!」って言ってくれるようになるんです。そんな感じで、7年前は各所でそれを繰り返して、明るい空気で現場を離れて、治療に臨んでいました。もちろん、実際はすごく辛かったですけどね。

岸田 いや〜、コミュニケーション能力、高ぇなぁ(笑)。

 はは、そういうこともやってました(笑)。

岸田 すごいですね。そういう工夫ができるというのは、本当に素晴らしいですし、今ここにいる皆さんにも、そういった“工夫の一つ”として参考にしていただけたらなと思います。 僕自身、そういう方法を聞いたのは初めてだったので、とても勉強になりました。ありがとうございます。

がん経験で人生はどう変わる?変わらない大切なものとは

岸田 そして次は「変わったこと・変わらなかったこと」というテーマで、お話を伺っていきたいと思います。がんを経験して何が変わったのか、あるいは変わらなかったのか。すべてが変わることが正解というわけでもないですからね。お二人にお話を聞いていければと思います。
いつも二宮さんからなので、今回は……スタンバイできてますか?(笑)

二宮 急でしたけど(笑)、どっちでも大丈夫です。

岸田 じゃあ、原さんお願いします!

 変わらなかったことがほとんどない、というぐらい、すべてが変わったと思っています。

岸田 はい、では二宮さんに……(笑)

二宮 掘り下げてください(笑)。

 つまり、「すべてが変わった」ということですね。
がんになっていなかったら、今日ここにもいないですし、病院やいろんな場所での出会いもなかった。今でも、何かあるたびに「がんになっていなかったら自分はどうしていたんだろう」と考えてしまうんです。
身体的な面で言えば、神経や運動機能の影響で、重いものが持てなくなったり、かつて参加していた博多祇園山笠も厳しくなりました。バンド活動もやっていましたが、楽器を担いで高い声で歌うこともできなくなりました。付き合いも変わりましたね。
今、唯一続けているのが「仕事」です。でもそれも、いろんな思いを抱えながらで、元には戻れないし、なかったことにはできない。そんな日々を過ごしています。
変わらなかったことをあげるなら、「家族」ですね。特に娘の存在は大きいです。今、大学3年生なんですけど、私がぐずぐずしていた時に、「お父さん、見た目じゃ分からんけん、いいっちゃない?」って言ってくれたんです。
最初意味が分からなくて聞き返したら、「車椅子の人とか、片足がない人とかは見た目でわかるやん。でもがんって言わんかったら分からんやん。だったらいいやん」って。そのクールさが、良くも悪くもすごく支えになったんです。迷惑もいっぱいかけましたが、娘と妻の変わらない存在があったから、今の自分があると思っています。

岸田 娘さんの存在、大きかったんですね。ありがとうございます。

岸田 では二宮さん、いかがですか?変わったこと、変わらなかったこと。

二宮 そうですね。お話聞きながら、私もすごく共感していたんですけど、本当に「変わったことだらけ」だなって思います。
がんになって良かったと思ったことは一度もないですが、でも、がんになったからこそ、こうして呼んでいただく機会ができたり、自分の話を人にするようになった。「経験を価値に変える」ようなことを意識するようになったのは、大きな変化のひとつです。
あとは、いろんな我慢をやめようと思うようになりました。すごく小さな話ですけど、当時28歳だった私は、太るのが嫌でスタバのフラペチーノを我慢してたんです(笑)。

岸田 出ますね、季節限定のやつ。

二宮 そうなんですよ。ちょうど5月に告知を受けた頃に、ストロベリーフラペチーノが出てて。「私、がんになったのに、なんでこんな小さいこと我慢してるんだろう?」って思ったんですよね。そこから「食べたいものは食べよう」「飲みたいものも飲もう」って変わりました。もちろん健康は気にしますけどね。
嫌な仕事もそう。以前は、頼まれたことは全部やって、真面目に見せようとしてましたけど、そういう“よく見せよう”とする我慢もやめました。
それが変わったことです。

岸田 「我慢するのをやめた」ってことですね。

二宮 はい。逆に変わらなかったのは……やっぱり家族ですね。夫との関係は、がんになる前も仲良かったけど、抗がん剤で髪が全部抜けた時も「可愛い」って言ってくれたんですよ。

岸田 みんな、うんうん頷いてますよ(笑)。

二宮 本当に、自分では「見すぼらしいな」って感じていたけど、それでも励ましてくれました。それで、私はずっと「若さがあるから好きでいてくれたのかな」って勝手に思ってたんですけど、そうじゃなくて、ちゃんと“人間として”好きでいてくれたんだって気づけたのも大きかったです。

岸田 旦那さんとの関係が、変わらずに続いているってことですね。
ちなみに……今の髪はパーマですか?

二宮 これは地毛です(笑)。でも、今はパーマもかけてます。

岸田 治療のあと、くるくるの髪が生えてくる人もいますよね。

二宮 そうなんですよ、私は逆に直毛になってびっくりしました(笑)。

「人それぞれのペースで」「一歩踏み出してみて」―治療中・経過観察中の方へ


岸田 最後に皆さんにお伝えしたいのが、「メッセージ」になります。まずは二宮さんからメッセージをお願いします。

二宮 そうですね、「がんノート」をご覧になっている方は、すでにたくさんの経験談に触れてこられたと思うので、あらためて私からお伝えすることもないかもしれませんが…。やっぱり「がん」とひとことで言っても、本当に人それぞれなんですよね。
年齢も性別も違えば、同じがん種だったとしても治療法が違ったり、副作用や後遺症の出方もまったく違う。だから、誰かと比べて「自分はもっと早く見つけられたら…」とか、「この先もっと悪くなるんじゃないか」とか、私もいろんな思いに揺れましたけど――やっぱり比べずに、それぞれのペースで、自分らしく治療や経過観察、あるいはその後の人生を楽しんでいけるようになってほしいなと思っています。
私も来年で10年になります。10年経ったら、もっと人生楽しもうって思っています。

岸田 ありがとうございます。では原さん、お願いします。

 がんノートをご覧になっている皆さんは、がんに関心のある方が多いと思うので、細かい初歩的な話は置いておくとして…私が今、患者会で「ピアサポート」という活動に参加しているんです。がん患者さん同士やご家族、遺族の方が交流を通して、少しでも治療や生活を前向きにできるように支え合う、そんな場です。
私自身、そこに参加するまでに1年かかりました。最初の1年は正直ふさぎ込んでいて、社会とうまく接続できていない感覚があったんです。でも、ピアサポートの中で先輩方の話を聞いて、「あ、そういう考え方もあるんだ」「そういうふうに生きていけばいいんだ」と、すごく救われたんですね。
だから今度は自分が、次に続く誰かの力になれたらと思って活動しています。ぜひ皆さんも、一人で悩まずに、こういった「がんノート」のような経験者の声を聞いてみてください。その中に、自分に合うヒントがきっとあると思います。全国には他にもたくさんの患者会がありますし、オンラインでもつながれる時代です。ちょっと勇気を出して、一歩踏み出してみることで、がんともっと上手に付き合っていけるんじゃないかと思います。

岸田 ありがとうございます。 お近くの会や、オンラインでも色んな活動がありますので、ぜひご活用いただければと思います。

岸田 さて、それではそろそろ、今回のがんノート配信を終了したいと思います。
お二人、振り返ってみていかがでしたか? 1時間ちょっとでしたが。

二宮 いや〜、本当にあっという間でしたね。話したいこと、もっともっとあるし、原さんにも岸田さんにも聞きたいこともたくさんあって。

岸田 また、ぜひ!

 そうですね。次の機会や交流会で、またぜひお話できればと思います。

岸田 また個別にもご出演いただいて……二宮さんには、旦那さんとの馴れ初めなんかもね(笑)、聞きたいですし。原さん、今日はどうでしたか?

 ありがとうございました。本当に短く感じました。今日、たぶん誰にも話したことのないようなことまで、ここで話していた気がします(笑)。

二宮 すごくスムーズにお話しされてたから、用意されてたのかと思ったくらいです(笑)。

 長く入院していたので、右見ても左見てもいろんなことがあって……映画みたいな瞬間があちこちにあったんですよね。その中で、仲間の患者さんたちからも強く影響を受けたし、あの頃からすでに「ピアサポート」は始まっていたんだなと思います。また機会があれば、そういったお話も交えてお伝えできればと思います。

岸田 ありがとうございます。それではこれにて、「がんノート」の配信を終了いたします。ご視聴いただき、本当にありがとうございました!

※本ページは、経験者の体験談を扱っております。治療法や副作用などには個人差がございますので、医療情報に関しましては主治医や、かかりつけの病院へご相談、また科学的根拠に基づいたWebページや情報サイトを参照してください。
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