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インタビュアー:岸田 / ゲスト:奥村

32歳でステージ4スキルス胃がん診断 6年間闘病を続ける2児の父の現在

岸田 さて、今日は奥村さんに、いろいろなお話をうかがっていきたいと思います。それでは、自己紹介をお願いします!

奥村 奥村と申します。今日はよろしくお願いいたします。出身は神奈川県で、現在は東京都に住んでいます。年齢は37歳で、今年38歳になります。家族は子どもが2人で、下の子は3週間ほど前に生まれたばかりです。

岸田 そうなんですか!

奥村 そうなんです。

岸田 めちゃくちゃ大変な状況ですね。

奥村 そうですね。配信中に泣き声が入ってしまうかもしれませんが、そのときはご容赦ください。

岸田 全然ウェルカムです。

奥村 ありがとうございます。上の子は7歳で、4人家族です。スライドにもありますが、私は2017年にスキルス胃がんが発覚し、その時点でステージ4と診断されました。当時32歳という若さだったこともあり、さまざまな大変な思いをしながらも、現在は元気に過ごしています。治療は今も続けていますが、QOL(生活の質)は高い状態です。今日はこの5年間の経験を深く掘り下げていただけるとのことなので、見てくださっている方に少しでも気付きや希望を届けられるようなお話ができればと思っています。よろしくお願いします。

岸田 よろしくお願いします。1つだけ突っ込んでいいですか? めちゃくちゃいい写真をいただいていますよね。

奥村 そうですね。これはちょっとネタっぽい写真なんですけど、先々月くらいにビジネスフォトを撮りに行ったんです。そのとき、普通のスーツ姿だけでなく、「ワイルドな雰囲気でも撮りたい」と言われまして。そこで、ちょっとふざけながら影も付けてもらって撮った写真なんです。

岸田 ワイルド。すごくいいですね!

奥村 ありがとうございます。

検査「異常なし」から3カ月後に血を吐いて倒れるまで-スキルス胃がんの隠れた症状

岸田 ありがとうございます。ではここから、奥村さんのこの5年間の歴史を掘り下げていきたいと思います。まずは、がんがどのように発覚して告知されたのかという流れを伺います。発覚から告知まで、最初の状況についてお聞きしますね。2016年11月に転職をされたとのことですが、それまでの前職は結構激務だったんですか。

奥村 前職は社名は出せないんですけど、いわゆるゴリゴリの営業会社で、かなりの激務でしたね。朝9時に出社して、夜10時に退社。それが普通で、そこから「11時から飲みに行こうか」みたいな感じでした。

岸田 うわ、ゴリゴリの体育会系ですね。

奥村 そうですね、完全に。

岸田 その後、転職されて、今は会社員として勤務されているということですね。

奥村 はい、そうです。

岸田 そして2017年5月から8月にかけて、人生で初めて人間ドックを受けられたそうですが、若いので周りに受ける方はあまりいない気がしますが、なぜ受けようと思ったんですか。

奥村 確かに30代前半で受ける人は少ないと思います。ただ、家族で受けている人がいて、「若いうちからやっておいたほうがいいんじゃない?」と勧められたんです。正直そこまで関心はなかったんですが、言われるままに「じゃあ受けてみるか」という感じで受けました。

岸田 なるほど。若いうちは受けない方も多いですが、がん検診は20歳以降は子宮頸がん(女性)、40歳以降は大腸がん(男性)など、年齢ごとに適齢期がありますからね。そんな中で、奥村さんの場合は人間ドックでピロリ菌が発見されたそうですが、どんなふうに分かるものなんですか。

奥村 胃の粘膜をいくつか採取して、生検という検査を行いました。がんの有無を調べるものですね。その結果は陰性で「がんはありません」と。ただ、その生検でピロリ菌がいることが分かりました。

岸田 なるほど。その時点でピロリ菌はすぐに除去してもらえるんですか。

奥村 はい。ピロリ菌があると将来の胃がん発生リスクが高くなると言われ、薬で除去しましょうという話になりました。薬を服用して、その後の検査で除去できたと判定されました。

岸田 ピロリ菌除去って薬を飲むんですね。

奥村 そうです。確か服用後に検査をして、問題がないと判断されました。

岸田 服用は1回だけですか、それとも1週間くらい?

奥村 もう少し長く飲んでいましたね。1週間ではなく、もう少し期間をかけて除去したという感じです。

岸田 なるほど。その後「ピロリ菌はなくなったぞ」となったけれども、げっぷが止まらない症状が出たと。なんだか曲名みたいですね、「○○が止まらない」みたいな。

奥村 げっぷってあまりきれいな言葉じゃないですけどね(笑)。

岸田 (笑)そのげっぷが止まらないというのは、どんな感じでした?

奥村 最初はピロリ菌除去薬の副作用かと思っていましたし、当時の医師にもそう説明されました。ただ、それがいつまでも続いて、せり上がってくるような感覚がずっとあったんです。

岸田 それは人間ドックやピロリ菌除去の後のことだったんですね。

奥村 その後ですね。

岸田 げっぷが止まらない状態から、今度は食事が喉の奥で通りにくくなっていったんですね。

奥村 そうです。普通なら、咀嚼して飲み込んだら、あとはスッと胃に落ちていくと思うんですけど、落ちない感覚があって。食道に何かがたまっているような感じがして、それがまたげっぷと一緒に戻ってくるようなことが起きていました。今でも覚えているのは、ピロリ菌除去の病院から帰る途中、バス停でコンビニのおにぎりを食べたときに、また戻ってきて「おえっ」となったんです。確かその年の夏だったと思います。

岸田 一応、人間ドックは受けているから、そんなに悪いものではないだろうという認識ですよね。

奥村 そうですね。人間ドックも問題なし、がん検査も問題なし、ピロリ菌も除去済み。つまりクリーンな状態のはずだったので、「これは何だろうな」と思いつつも、「まあ問題ないだろう」と思っていました。

岸田 そうですよね。そして次の2017年9月には、つかえがさらにひどくなって、飲み込めなくなってきたと。

奥村 はい。初期の段階では、まだ時間をかければ食べ物が落ちていたんですが、9月になるとほとんど落ちなくなってしまって。もちろん少しずつは落ちていると思うんですが、落ちるスピードよりも、たまるスピードのほうが早くなってしまったんです。そうなると、たまりきったものが逆流してしまうので、毎食吐くようになりました。

岸田 毎食吐くって、かなりつらいですよね。

奥村 本当にきつかったです。朝も吐いて、会社に行って昼食を食べても、結局吐いてしまう。気持ち悪くなって、オフィスを出てビルのトイレや近くの草むらで…。

岸田 そんなに頻繁に?

奥村 そうなんです。自分なりの「吐きポイント」があって、いつもそこで吐いていました。ビルの管理の方には本当に申し訳なかったです。そんな状況だったので、妻も「何か異常があるんじゃない?」と心配していました。でも、検査結果が問題なかったので、「自分は大丈夫」という正常性バイアスが働いて、「俺に限ってそんなことはないだろう」と思ってしまい、胃カメラなどの精密検査を受けませんでした。

岸田 そうですよね。検査で大丈夫だと言われると、そう思ってしまいますよね。

奥村 そうなんです。お医者さんという権威のある方から「大丈夫」と言われたら、そのまま信じてしまう。でも、実際には体の中で異常が起きていました。

岸田 分かります。僕も会社の健康診断では何も問題がなかったのに、その数カ月後にがんが見つかりました。もちろん検査は大事ですが、異常を感じたら大きな病院で再度診てもらう、自分の体の声を聞くことが大切ですよね。

奥村 本当にそう思います。ただ、その瞬間になるとやっぱり怖いんですよ。もし胃カメラをやって、がんが見つかったら…と考えると、検査を避けてしまう。でも、当時の自分に言えるなら「早く検査しろ」と言いたいです。

岸田 そうですよね。しかも仕事をしていると、逆流性食道炎とかいろいろな症状があっても、「これが一人前の社会人だ」と思ってしまう人も多いですからね。

奥村 分かります。傷つきながらも戦っている“企業戦士”みたいな感じですね。本当は間違ってるんですけど。

岸田 そう。そんな状況で、毎食吐いて、本当にきつかった。そして、その1か月後には倒れてしまうんですね。

奥村 そうです。本当に異常な状態だったので、さすがにこれはまずいと思って、その週末に胃カメラの予約を入れていました。「見てもらおう」と。で、その週末の1つ前の週末にディズニーランドに行ったんですけど、そこでも吐きました。夢の国で吐くという、夢と現実のものすごいアンバランスな感じで…。楽しいんだけど吐いてる、みたいな状態でした。これは本当にやばいなと思って、月曜に出社したんです。朝からめまいがして、気持ち悪くて。電車通勤もつらかったし、会社に着いても治まらない。当時、朝礼があったんですが、その最中に意識を失って倒れました。しかも、吐いたら血が混じっていたんです。

岸田 マンガみたいな状況ですね。

奥村 本当にそうです。周りもすごく驚いたと思います。「奥村さんが倒れたぞ」「血を吐いたぞ」って感じで。これはまずいということで、救急車を呼んでもらいました。

岸田 でも、その前日にはディズニーランドに行っていたと。

奥村 そうです。チキンを食べて吐いてました。

岸田 今は笑って話せますけど、当時は全然笑えないですよね。

奥村 そうですね。当時は本当に笑えなかったです。

岸田 そして救急車で病院へ運ばれたわけですが、その場ですぐにがんが発覚したんですか。

奥村 救急車で運ばれた病院で精密検査をしました。大腸カメラや胃カメラなどですね。特に印象的だったのは胃カメラです。人生で2回目でした。初めては人間ドックのときで、今回は2回目だったんですが、ものすごく痛かった。というのも、先ほど言った「落ちない」という症状の原因である食道と胃のつなぎ目が、スキルス胃がんで硬くなってしまっていたんです。

岸田 そうなんですね。

奥村 はい。つなぎ目が硬くなって窮屈になっていたので、胃カメラがなかなか入らず、無理やり押し込むような形になって、それが本当に苦しかった。お医者さんも「これは何かおかしい」と話していて、「これは本当に異常かもしれない」と思いました。その日の夜、妻と二人で個室に呼ばれ、先生と若い先生が二人同席していました。本当にドラマのワンシーンのようで…。そして先生から「極めて悪性腫瘍の可能性が高い」と告げられました。最初は「悪性腫瘍って何?」という感じで、なんとなく「がんかな」とは思ったけど、すぐには結びつきませんでした。

岸田 そうですよね。専門用語だから分からないですよね。

奥村 はい。分からなかったです。でも「これはがんだろう」と感じて、「嘘だろ…」と。多分、同じようにがんを告知された方は、最初はみんな「まさか自分が」と思うんじゃないでしょうか。なぜ自分が、と。そんな気持ちでした。

岸田 なるほど。ちなみにスキルス胃がんって、あまり聞き慣れない方も多いと思います。詳しい情報は「がん情報サービス」などで確認していただくとして、奥村さんの理解の範囲で、どんながんなのか教えてもらえますか。

奥村 はい、私の理解の範囲でお話しします。普通の腫瘍は、がん細胞が一か所に集まって塊になりますが、スキルス胃がんは胃の中にがん細胞が散らばって存在しています。私も5月の時点で生検を受けて胃壁の細胞を採りましたが、そのときは陰性でした。つまり、がん細胞がない部分を採ってしまった可能性があるんです。だから早期発見が非常に難しい。見た目では分からない場合も多いし、特に若いと進行が早く、気付いたら転移してステージ4というケースも珍しくありません。若い方でも発症する、非常にたちの悪い、難治性のがんです。

岸田 胃がんの中でも少数例ですよね。

奥村 そうですね。AYA世代と呼ばれる20〜30代の方でも発症しますし、見つかったときにはかなり進行していることが多いです。

岸田 今、気付いたんですが、奥村さんのお名前の下に「スキル胃がん」と書いてしまっていました。本当にすみません。「スキルス胃がん」ですね。

奥村 スキルス胃がんです(笑)。

岸田 書き直しました。ちなみに告知のときは「スキルス胃がんです」と言われたんですか?

奥村 はい。「スキルス胃がんの可能性が高い」と言われました。胃カメラの映像も見せてもらったんですが、本当にひどい状態でした。普通の胃はピンク色で滑らかなんですが、私の胃はスキルス胃がんの特徴である“ひだ状”になっていて、硬くなり、血が出て青く染まっていました。青いのは染色液の影響かもしれませんが…。とにかく素人が見ても「これは異常だ」と分かる状態でした。その特徴からもスキルス胃がんの可能性が高いと言われたんです。

岸田 そうなんですね。がん、悪性腫瘍と言われてもピンとこなかったと思いますが、スキルス胃がんだと分かったとき、どんな心境でしたか? 頭が真っ白になったとか…。

奥村 本当に頭が真っ白になりました。それまでの32年間の人生の中で、「がん」というものは自分とは無縁だと思っていたんです。なのに、いきなり「あなたのことです」と言われて…。理解できないし、受け入れられない。ドラマや映画の中の話のようで、現実感がまったくありませんでした。

岸田 そうですよね。患者さんがよくおっしゃるのは、「誰の話をしているの?」という感覚。自分のことを言われているのに、自分ごととして受け止められない、ということもありますよね。

奥村 本当にそんな感じでした。

岸田 こうして、がんが発覚していったわけですが…。ここでコメントもいただいていますので、紹介しますね。

奥村 はい。

岸田 Yさんから「こんにちは」。Kさんから「奥村先輩、見てますよ」。Tさんからは「初めまして。いつもYouTubeで拝見していましたが、ライブは初めてです」と。Mさんからも「こんにちは」。別のMさんは「移動中なので音声だけですが聞いています」。Sさんが「よろしくお願いします」、Nさんは「ライブ初めてです」と。そしてKさんからは「第2子ご誕生おめでとうございます。むしろ泣き声が欲しいです」とコメントをいただいています。

奥村 ありがとうございます。

岸田 今日はご家族は別の部屋にいらっしゃるんですよね。

奥村 はい。泣き声が聞こえないよう、別室にいてもらっています。

岸田 すみません、そこまでしていただいて。泣き声も全然ウェルカムですよ。ありがとうございます。皆さん、気になることがあればコメントで気軽にお寄せください。
では、治療から現在までのお話に移ります。がんが発覚してから、まずどんな治療を始めたのか。2017年11月、いくつもの病院を回られたんですね。救急搬送された病院でそのまま治療、というわけではなかったんですか。

奥村 そうですね。運ばれたのは会社の近くの病院で、そこまで小さい病院ではなかったんですが、そこで治療するという選択肢はあまり考えませんでした。やはり素人考えですが、「もっと有名な病院のほうがいいんじゃないか」と思って。

岸田 治療件数が多いところとかですね。

奥村 はい。そういう病院を探して、4〜5か所回ったと思います。

岸田 セカンドオピニオンを取ったんですね。

奥村 そうです。セカンドオピニオンで。

岸田 最終的に、何を決め手に病院を選ばれたんですか。

奥村 治療内容や実績ではなく、先生との相性でした。担当してくださる先生との相性が、一番の決め手です。

岸田 相性は大事ですよね。コミュニケーションがちゃんと取れるかどうか。

奥村 そうですね。その先生のことは今でもよく覚えています。この5〜6年で20人近くの先生とお話ししてきましたが、その先生は特に印象的でした。何よりも、気持ちに寄り添ってくれたんです。「つらいですね」「大変でしたね」「奥さまも大変ですよね」といった言葉を、初めて掛けてくれた先生でした。

岸田 家族のことまで気にかけてくれるのは嬉しいですよね。お医者さんは忙しい方が多いですし。

奥村 そうなんです。パソコンを見ながら話す先生もいますし、人によってスタイルはさまざまですが、私たち家族にとっては、その先生は本当に信頼できる存在でした。そこで治療をお願いすることに決めました。

ステージ4から手術可能へ|8時間の胃全摘手術と肺塞栓を乗り越えた治療の軌跡

岸田 そこで治療先を決め、抗がん剤治療がスタートします。抗がん剤は何種類か使ったんですか。

奥村 はい。点滴薬と飲み薬の2剤です。

岸田 点滴と飲み薬で治療が始まったわけですが、すぐに仕事にも復帰されたんですよね。

奥村 そうですね。10月3日に倒れてから約1か月半は、病院に通ったり情報収集をしたりして過ごしていました。ただ、その生活を続けていると、社会とのつながりを感じられなくなってきて…。自己概念が崩れていくような感覚になったんです。お医者さんと家族以外と話さない日々が続くと、「自分って何者だったっけ」という気持ちになってしまって。これはまずいと思い、無理のない範囲で復帰することにしました。抗がん剤の副作用はありましたが、痛みはなく、副作用さえコントロールできれば仕事は普通にできました。

岸田 抗がん剤は入院ではなく通院で?

奥村 はい。通院で、点滴は2時間ほど。その後、数日間は気持ち悪さが残りますが、抜ければ普通に過ごせます。3週間で1クールだったので、2週間は仕事ができました。

岸田 社会とのつながりが絶たれるのはつらいですからね。

奥村 本当にそうですね。取り残されて、別世界に送られたような感覚がありました。

岸田 そして年が明け、2018年。腹腔鏡で腹膜播種がないことを確認し、手術ができることになったんですね。

奥村 はい。最初に見つかったとき、原発は胃でしたが、胃からこぼれたがん細胞が腹膜に転移していると言われ、ステージⅣでした。この状態では基本的に手術はできません。ただ、薬が効いてがんが小さくなれば手術できる可能性があると言われ、まずはそこを目指して抗がん剤を続けました。1月に全身麻酔で腹腔鏡を行い、おなかの中を確認したところ、がん細胞はなく、手術が可能と判断されました。

岸田 全身麻酔でカメラを入れたんですね。

奥村 そうです。おなかを少し切ってカメラを入れ、直接確認しました。

岸田 腹膜播種がないと分かったときは嬉しかったでしょう。

奥村 私も嬉しかったですが、妻と母は泣いて喜んでいました。麻酔から覚めて意識がまだぼんやりしている中、その姿を見たのを覚えています。

岸田 そして8時間の大手術へ。胃と脾臓、胆のうを摘出し、横隔膜の一部も取ったんですね。

奥村 はい。胃は全摘です。手術方法はいくつかありますが、私は胃を取って、食道と十二指腸を直接つなぐ方法でした。今は食道の次がすぐ腸です。

岸田 胃を飛ばして。

奥村 そうです。腸にとっては驚きですよね。本来は胃で消化された状態のものが来るはずなのに、直接大きな塊が来るわけですから。最初は腸もびっくりしていたと思います。

岸田 いろんな方のお話を聞くと、だんだん腸が胃のような働きをしてくれることもあるそうですね。

奥村 そうですね。科学的なエビデンスは分かりませんが、私もそういう話は聞きますし、実感としてもあります。今は普通に食べられます。

岸田 焼き肉も?

奥村 大丈夫です。ただし量は少なめです。あるラインを超えると気持ち悪くなりますが、一般成人の少食くらいは食べられます。

岸田 それは良かったです。そこから入院生活が続きますが、発熱や肺塞栓などのトラブルもあったそうで。

奥村 はい。8時間の手術後、体はぼろぼろで、起き上がるのもやっと。リハビリで少しずつ歩いていましたが、ほとんど寝ている状態でした。その間にまず発熱があり、原因はウイルス感染だったと思います。抗生剤で治まりましたが、その後に肺塞栓が起きました。

岸田 エコノミー症候群のような?

奥村 そうです。下半身を動かさない時間が長く、血流が悪くなって血栓ができ、それが肺に飛んで血管を塞いだんです。肺塞栓は命に関わることもある危険な状態で、息苦しさが数日続いた後に診断され、即日手術になりました。首の血管からカテーテルを入れ、心臓を通して肺まで進め、フィルターを留置して血栓をせき止める処置を行いました。

岸田 それは大変でしたね。入院中、ふくらはぎをポンプで圧迫する予防器具は使っていたんですか。

奥村 使っていましたが、それでも血栓はできてしまいました。

岸田 退院までにどれくらいかかったんですか。

奥村 1か月半ですね。退院後すぐではなく、1か月ほど空けて時短勤務で復帰しました。

岸田 その後は術後治療として、腹腔内に直接抗がん剤を投与する治療をされたと。

奥村 はい。おなかにポートを入れ、腹膜内に直接抗がん剤を入れる方法です。保険適用外なので自費でしたが、その治療ができる病院に通って行いました。通院で、おなかに針を刺し、2〜3時間かけて投与します。3週間で1クール、術後1年弱続けました。

岸田 その効果があったかどうかは分からないけれど、2019年3月、治療終了直前に細胞診でクラス5が出たと。

奥村 はい。腹腔内に生理用水を入れ、それを回収して病理検査するのですが、その結果、がん細胞が見つかったということです。

奥村 その水の中に異形細胞、つまりがん細胞がないかを調べるのを「細胞診」といいます。術後の抗がん剤治療中もずっと検査していて、結果は1や2、つまり「がん細胞はない」という状態が続いていました。調子も良かったので「もう少しで薬もやめられますね」という話になっていたんです。ところが、最後の細胞診でまさかのクラス5、明らかにがん細胞がありますという診断が出てしまったんです。もう「うそだろ…」という気持ちでした。やっと薬をやめられると思った矢先だったので、結局そこから治療を続けることになりました。

岸田 せっかくやめられると思ったときの、その気持ちは本当に「勘弁してくれよ」って感じですよね。

奥村 本当にそう思いました。

岸田 そこからSOX療法を再開。これは抗がん剤治療の名前ですか?

奥村 はい。TS-1という薬と、オキサリプラチンという薬を組み合わせた治療法です。手術前にもやっていたのですが、それをもう一度始めました。

岸田 そしてオキサリプラチンを終了したとありますが、これが奥村さんにとって鬼門だったんですよね。

奥村 そうですね。手のしびれや吐き気が強くなってきて、副作用がつらくなったので終了しました。

岸田 治療方針を変えるというより、副作用のためにやめたということですね。

奥村 はい。主治医と相談してやめることになりました。2019年3月から12月まで続け、その後はTS-1のみを継続しました。

岸田 そして2021年、休薬になったんですね。

奥村 はい。画像検査でも再発なし、血液検査でも異常なしだったので、主治医から「少し薬を休んでみましょうか」と提案されました。願ったりかなったりで、21年2月から抗がん剤をやめました。

岸田 その時点では画像上も問題なし。

奥村 はい、状態が良かったんです。

岸田 ところが1年ほど経ってから、腸腰筋と左副腎に再発が見つかります。

奥村 PET検査で異常が見つかり、去年の5月に再発と診断されました。

岸田 これは精神的にもきついですよね。

奥村 まさに「まじかよ…やめてくれよ」という感じでした。休薬していた1年間はQOLも高く、薬をやっていない安心感もあり、とても良い状態だったんです。それがまた抗がん剤か…という気持ちになりました。

岸田 しかも一度やめたオキサリプラチンまで再び使うことに。オキサリプラチン、オプジーボ、ゼローダを開始していったとありますが、アレルギーが出たそうで。

奥村 はい。オキサリプラチンには一定の割合でアレルギー反応が出ることがあるそうですが、私も延べ10回以上投与していて、2クール目のときに出ました。体が熱くなるような感覚で、「これはおかしい」とすぐに中断。その場で「アレルギー反応だね、もう投与はやめましょう」となりました。

岸田 アレルギーって怖いですよね。

奥村 怖いです。私は以前、CTの造影剤でもアレルギーが出てしまい、今は単純CTしかできません。

岸田 ああ、あの感じですね。

奥村 そうです。

岸田 分かります。

奥村 ぐーっと熱がせり上がってくる感覚がありました。人によってはかゆみや呼吸のしづらさも出るそうです。

岸田 頭がぶわーっとして、息苦しくなる感じですよね。すごく分かります。

奥村 まさにあの感覚で、「これはまずい」と思いました。

岸田 アレルギーが出たため、オキサリプラチンは中止し、オプジーボとゼローダだけで治療を継続されたんですね。その後、抗がん剤の副作用で手足のただれがあったと。これはゼローダの副作用ですか?

奥村 はい。ゼローダではよくある副作用らしく、手足の皮膚がただれたり硬くなって割れたりします。爪も割れやすくなって、布やタオルに引っかかってさらに割れることもありました。私の場合、10本のうち2本程度でしたが、それでもストレスでしたね。透明の保護剤を塗ってみましたが、効果はあまり感じられませんでした。

岸田 そこで薬を変更して、現在はオプジーボとTS-1を3週間1クールで継続中と。

奥村 はい。

岸田 最近はいつ治療に行かれましたか?

奥村 先々週です。再来週にまた行きます。

岸田 QOLが高い状態ということですが、生活や仕事は普通にできているんですか?

奥村 はい。今は2人目の子どもが生まれたばかりで育休中ですが、それ以外の期間は9時から18時までフルタイムで働けています。

岸田 ありがとうございます。32歳で発覚し、現在37歳。この5年間はあっという間でしたか?

奥村 あっという間ではなかったです。常に不安があり、つらい時期もありました。「一日一生」という言葉を大切に、1日ごとを刻んできたので、365日をひとまとまりで捉えることはできませんでした。本当に1日1日、一歩ずつでしたね。

岸田 その言葉、僕も大事にしています。では、お写真を見ていきましょう。まずはこちら、治療前の写真ですね。

奥村 はい。これはハワイのホテルで撮ったものです。ディズニーキャラクターがいるホテルで、宿泊中に出会いました。

岸田 ハワイにもディズニーキャラクターが来るんですね。

奥村 そうなんです。

岸田 左の写真は京都でしょうか?

奥村 はい。1人目の子どもと写っている写真です。

岸田 家族旅行のお写真ですね。では次に、治療中の写真です。

奥村 左は審査腹腔鏡という検査の後、全身麻酔が効いているときのものです。本格的な手術のときは、管や器具がたくさん体に付いていて、人造人間のようでした。

岸田 動くことも大変ですよね。

奥村 はい。右の写真は入院中に子どもが見舞いに来てくれたときのもので、これも本格的な手術の前だったと思います。

岸田 だんだんワイルドになってきてますね。

奥村 そうですね。ひげも伸び放題でした。

岸田 伸ばすというか、剃ってる場合じゃない感じですよね。

奥村 まさにそうでした。

岸田 次は現在のお写真ですね。かなりイケてる感じですが。

奥村 右の写真はおふざけですよ。

岸田 右は、冒頭でお話しされていたビジネス用の写真ですね。左はどんなお写真ですか?

奥村 2019年の年末、家族で宮古島旅行に行ったときのものです。

岸田 いいですね、宮古ブルーの海が背景にあって。この頃は休薬中でしたか?

奥村 いえ、治療中でした。ただ、副作用がきつくない時期は普通に動けたので、旅行にもよく行っていました。旅行はいい気分転換になりましたし、1年の中で予定を入れておくと、それに向けて頑張ろうと思えるマイルストーンになっていました。

岸田 お子さんや奥さまも顔は写っていませんが、すごく楽しそうなのが伝わってきます。

奥村 そうですね。

「情報収集は家族に任せた」患者が治療に集中できる家族サポートの理想形

岸田 いいお写真、ありがとうございます。ここからは、一問一答形式でカテゴリーごとにお話を伺っていきたいと思います。まずはご家族について。奥さまやお子さんの話は先ほども出てきましたが、ご自身の親御さんや兄弟との関わりについてもお聞きします。親御さんにはどのように報告されましたか。

奥村 2017年10月3日に倒れて、その夜、先生から診断を受けた後に電話しました。おそらく妻が先に「ちょっと大変なことになっている」と連絡してくれていたと思いますが、改めて自分の口で「がんになっちゃった」と伝えました。

岸田 親御さんの反応はどうでしたか。

奥村 母は泣いていました。「なんであなたが…」と。本当に“まさか”という反応でした。父も大きなショックを受けたと思いますが、割とすぐに切り替えて、「ここからどうするか」という方向で情報収集を始めてくれました。

岸田 ご兄弟はいらっしゃいますか。

奥村 はい。6歳下の弟が1人います。仲は悪くないですが、男同士なのでべたべたと頻繁に連絡を取ることはありません。弟は親から話を聞いたようです。

岸田 僕も兄がいますが、そんなに頻繁に連絡は取らないですね。家族からはどんなサポートを受けましたか。

奥村 本当に感謝しかありません。父、妻、義理の父、そして私の4人で「ワンチーム」のような形になり、支えてもらいました。私は自分の体に集中し、情報収集はしないと決めていました。なぜなら、ネットなどで得られるのはつらい情報が多く、いい情報は見つけにくいからです。情報収集は妻と父が担当し、義理の父は人脈を使って医療関係者に話を聞いてくれるなど、役割分担がうまくできていました。まさに「チームで病と向き合う」体制が取れていたと思います。

岸田 自分で病気のことを調べると、つらい情報ばかり目に入ってきますからね。僕も、それが嫌で「がんノート」でリアルな経験談を発信することを始めました。チーム体制で向き合えるのは本当に心強いですね。

奥村 ありがたいです。父は当時、教師をしていて、翌年からイギリスの日本人学校に校長として赴任する予定でした。実は私、生まれはオーストラリアで、小学生のときにはサウジアラビアにも3年間住んでいました。いずれも父の赴任によるもので、父は海外生活が好きだったんです。最後の大きな仕事としてイギリス赴任を控えていた中、私が病気になってしまい、その話を断ってくれました。公務員である父が、決まっていた赴任を息子のために覆すのはとても大変なことだったと思います。

岸田 本当にすごいお父さんですね。

奥村 ええ。本当に感謝していますし、一生頭が上がりません。

岸田 まさに「チーム奥村」ですね。

奥村 そんな感じです。

妻は一蓮托生、子どもは生きる理由-家族の支えと第2子誕生まで

岸田 という形で、ご家族との関わりを伺ってきました。その中には、もちろん奥さまもいらっしゃいます。一緒に告知を受けたとおっしゃっていましたが、お子さんにはどう伝えたのか、あるいはまだ伝えていないのか、そのあたりもお聞かせください。今、お子さんは7歳でしたよね。

奥村 はい、7歳です。妻はずっと一蓮托生で付き合ってくれて、本当に感謝してもしきれません。妻がいたから今の自分がある、そんな気持ちです。入院中もずっと付き添ってくれて、一生分の感謝を返さなければと思っています。
 子どもに関しては、発覚当時は1歳だったので、何も分かりませんでしたし、病気のことも伝えていません。ただ、病院にお見舞いには来てくれて、きゃーきゃー笑って楽しんでいました。それが逆に救いになりましたね。つらい現実を一瞬でも忘れさせてくれましたし、「何のために生きたいか」を考えたとき、突き詰めると「子どものため」でした。成長を見たい、子どものために生きたいと寝顔を見ながら思いました。だから、娘にもとても感謝しています。
 今は病名は伝えていませんが、「パパは病院に行って治療してるんだよ」「病気なんだよ」とは話しています。お風呂でおなかの大きな傷を見せながら「パパ、胃がないんだよ、ははは」とギャグにして、笑いながら過ごしています。

岸田 自虐を交えてコミュニケーションを取っているんですね。

奥村 そうです。

岸田 お子さんが理解できる年齢になったら、「パパ、そうだったんだ」と思う時が来るでしょうね。今は病院に行っている様子などで何となく分かっているかもしれませんが、本当に素晴らしいご家族の中で過ごされています。そして今は育休を取られて、第2子も誕生した。生きる意味がまた増えましたね。

奥村 本当ですね。もう諦めていたことでした。抗がん剤治療には生殖機能への影響もありますから、難しいと思っていたんです。たまたま休薬中に精子を冷凍保存しておいたものがあり、それを使って人工的な形で授かることができました。

岸田 そうだったんですね。妊孕性の温存という方法がありますが、それを実践されたんですね。本当におめでとうございます。コメントでも「家族分担しながらチームになって立ち向かうのは素晴らしい」「ご家族への感謝の気持ちを改めて感じました」「お父さんの覚悟がすごい」という声が届いています。本当にお父さんの心意気は素晴らしいです。ありがとうございます。

奥村 ありがとうございます。

転職1年後のがん発覚でも職場が全面サポート 時短勤務から始めた胃全摘後の職場復帰

岸田 では、次にお仕事のことを伺いたいと思います。コメントでも「転職して間もなくの発病だったと思いますが、職場の対応はどうでしたか? 休暇や復職の様子なども教えてください」といただいています。

奥村 2016年に転職して、1年ほどで病気が分かりました。本当に職場には便宜を図っていただきました。前提として、私の近しい人が今の会社で重要なポストについており、その方が動いてくれて、働きやすい環境を整えてくれたんです。手術後、「働きたいけど体が追いつかない」という状況でも、午前中だけの時短勤務を提案してくれたり、休職中も復帰しやすいように配慮してくれました。

岸田 大事ですね、それは。

奥村 本当にありがたかったです。別の会社文化だったら、柔軟に対応してくれなかったかもしれません。運も良かったと思います。

岸田 同僚の方の接し方はどうでした?

奥村 最初は「体調が悪い」とだけ伝えていました。がんと聞けばショックも大きいので。ただ、再発もあり、長引いてしまったのである時点で病名を伝えました。その時は皆さん驚いていましたが、声をかけてくれたり、心配してくれたり、かといって腫れ物扱いもせず、バランスよく接してくれました。

岸田 今まで通りに接してくれたんですね。

奥村 そうですね、変わらずという感じでした。

岸田 復職はリモートではなく出勤でしたか?

奥村 はい、コロナ前に復帰していたので出勤でした。行き帰りもしんどかったので、最初は短時間勤務から始めました。

岸田 体力はどれくらいで戻ってきました?

奥村 1年くらいかかりましたね。胃がないのでそもそも食べられず、米は特にダメで気持ち悪くなってしまって。パンやスープを食べていました。量も食べられないので、フルタイム勤務はなかなか厳しかったです。

岸田 ゼリー飲料は使いました?

奥村 はい、医療用の高栄養ゼリーも試しましたが、正直おいしくなくて続きませんでした。ウイダーインゼリーやカロリーメイトのゼリーのほうがまだ飲みやすかったです。

岸田 そうやって工夫して体力をつけ、お仕事を続けられたんですね。職場の理解や同僚の気遣いがあって本当に良かったと思います。ありがとうございます。

「入っていて本当に良かった」民間保険の威力-手術・再発・抗がん剤治療費も補償

岸田 では次に、お金や保険のことについてお伺いします。保険には入っていましたか? また、お金はどのように工面されましたか?

奥村 高額療養費制度など、国の制度はすべて活用しました。保険も社会人1年目から入っていて、人のつてで紹介されたもので、掛け金もしっかりした内容でした。

奥村 そうなんです。結構しっかりした保険に入っていました。まさか使うことになるとは思っていませんでしたが、本当に助けられました。手術もかなりお金がかかりますが、その大部分を保険で補填できました。外資系の民間保険だったのですが、「入っていて本当に良かった、こういうことか」と心から思いましたね。

岸田 手術ごとに給付金も出るんですよね。

奥村 そうです。

岸田 再発や抗がん剤治療もされていたので、それで助かったのは本当に大きいですね。

奥村 本当にそうです。掛け金もそれなりにしていましたが、入っておいて良かったと心から思いました。

岸田 他人から借りることなく、自分の保険で全て工面できたということですね。今も治療中なので、これからもお金はかかると思います。ありがとうございます。

 「苦楽を共にした仲間」に病気を打ち明けた理由|つらさの限界で見つけた心のガス抜き方法

岸田 では次に、「つらさの克服」について伺いたいです。精神的・肉体的、いろんなタイミングでつらいことがあったと思いますが、そのときどう考え、どう行動されたのか教えていただけますか。

奥村 まず肉体的な面では、一番つらかったのは入院中、とくに手術直後です。痛いし、気持ち悪いし、体も動かない。その底辺のときは、家族がお見舞いに来てくれても、話を聞くのもつらかったですね。声が耳に入ると、それを脳で理解しなければならない。それすらもエネルギーを使いたくない状態でした。ゲームやテレビで気を紛らわせればいいのかもしれませんが、それも情報処理なので疲れてしまう。なので、本当に呼吸だけに集中して、ただ耐える。それが唯一できたことでした。

 精神的な面では「人に話す」ことが大きかったです。発覚後の1カ月半ほどは家にこもり、話す相手は病院のスタッフだけ。つらさが限界に達したとき、親しい友人に打ち明けました。「実はこういうことになった」と。数人でしたが、話すことで気持ちが整理され、ガス抜きになりました。誰にでも話せることではないですが、本当に信頼できる人には話して、応援してもらいました。

岸田 話す相手って、すごく重要ですよね。

奥村 そうですね。

岸田 この人なら話せる、この人はちょっと…というのもあると思います。奥村さんはどういう基準で選びましたか?

奥村 人との関係の深さっていろいろあると思いますが、一番話せたのは「苦楽を共にした仲間」でした。私はNPOでミュージカル活動をしていて、20代はそれに打ち込んでいました。プロジェクトを一緒に進める中で、いくつも壁を乗り越えてきたコアスタッフが5〜6人いて、その人たちに話しました。

岸田 いいですね。家族だけじゃなく、仲間というもうひとつの「チームH」ですね。

奥村 まさにそうです。LINEグループを作って、その5〜6人に入ってもらい、すごく応援してもらいました。

岸田 そういう人たちが支えてくれて、克服してこられたんですね。ありがとうございます。

 胃全摘後のダンピング症状-急な発汗と意識混濁を黒糖で対処、術後1年で大幅改善

岸田 では次に、後遺症についてお伺いします。先ほど手足のただれや抗がん剤の副作用についてもお話がありましたが、現在まで続いている後遺症はありますか。

奥村 術後1年間が一番ありました。ひとつは、先ほども話した「物が食べられない」ということ。もうひとつは「ダンピング」です。胃を全摘した人にはよくある後遺症だと思います。詳しい仕組みは分からないのですが、症状としては、寝ているときに急に大量の汗をかき、意識がぼんやりしてしまうんです。そのときは糖分を摂らないといけないので、急いで黒糖をなめると、意識がクリアになっていく。こうしたダンピングが、最初の1年間は月に1〜2回ありました。

 ただ、その後は特に大きな後遺症はなく、今はほとんどありません。ダンピングも今では年に2〜3回程度です。食事も好きなものを食べられますし、制限もありません。量はあまり多く食べられませんが、問題はないです。もちろん、人によっては10年経っても食事がつらい方もいると思いますが、私は幸運にも大きな支障はありません。

岸田 それは良かったです。そういう後遺症が長く続く方もいらっしゃいますからね。

奥村 そうですね。

3週間ごとに訪れる「分岐点」を乗り越える日常-再発リスクと共に生きる患者の心境

岸田 ありがとうございます。では次に、奥村さんだからこそお聞きしたい「再発」についてです。治療を終え、休薬もして「もう大丈夫なのでは」と思っていたところで、別の場所に異常が見つかった。先ほども少し触れられていましたが、そのときの心境や、今後についてどのように考えたのかを改めて教えていただけますか。

奥村 もう少し詳しく言うと、100%「転移しています」「再発しています」と断定されたわけではなく、「その疑いが高い」という状態でした。

岸田 PET検査で反応が出た、という感じですか。

奥村 はい。しかも場所的に、針を刺して細胞を採取し、病理検査をすることができない場所だったんです。だから「可能性が非常に高い」という説明でした。正直、自分の中では「いやいや、そんなことはないだろう」と思い込みたい気持ちもありましたが、それでもやはりショックは大きかったです。
 向き合い方としては、まず未来を深く考えすぎないこと。これは初発のときと同じです。とにかく目の前のことに対処する。そして、ある意味「しょうがない」と思うようにしました。この病気にはこうしたことが付き物ですから、受け入れて付き合うしかない。QOL(生活の質)をできるだけ下げないようにコントロールして時間を稼ぎ、その間に医療の進歩で新しい治療法が出てくるのを待つ。そんな気持ちでやっていこうと考えました。

岸田 QOLをできるだけ下げないように、ということですが、先ほど「こういうこともある」という覚悟を持っているとおっしゃっていました。初発の治療のときから、最悪再発する可能性は頭の片隅にあったのでしょうか。

奥村 ありましたね。今も当然あります。今はうまくコントロールできていますが、いつ血液検査のマーカーが悪化したり、画像に異常が映ったりするかは分かりません。それが私の場合、3週間に1回のペースで検査があるんです。1年は50週ちょっとなので、それを3で割ると十数回、20回弱は、いわば「分岐点」が訪れる生活です。
 毎回緊張しなければならないのは正直しんどいですが、「まあ、そんなものかな」「仕方ないな」という感覚です。コントロールできていることは幸いなので、深く不安に思ったり考え込んだりしても仕方ありません。そういう事実はある程度無視して、一日一日を大事に生きています。

待ち時間2時間でも選んだ主治医の理由|医療者に求める「情報格差」を埋める説明力

岸田 では次に、「医療者へのメッセージ」についてお聞きします。奥村さんのがんノートは、医療者や、医療を目指す学生さんも多く見てくださっています。そういった方々に向けて、「こうしてもらえてよかったこと」や「もっとこうだったらよかったな」という点があれば教えてください。
 先ほど、主治医を選ぶときにコミュニケーション力を重視したとお話しされていましたが、医療者への要望や感謝の気持ちがあればお願いします。

奥村 まず感謝でいえば、先生方全員に感謝しています。当然のことですが、医師、看護師、そしてそれ以外の医療従事者の方々がいなければ、私は今この世にいません。命の恩人です。
 その中でも特に印象的だったのは、先ほどお話しした「気持ちに寄り添ってくれた先生」です。この病気の場合、他の病気もそうかもしれませんが、治療法は無限にあるわけではありません。ある程度は決まっているものだと思います。ですが、その治療をどう進めるのか、どのようなコミュニケーションを通して伝えるのか、提供するのかは、先生によって個性が出ます。
 私の場合、つらい気持ちや家族の気持ちに共感し、話をよく聞き、丁寧に説明してくださった先生でした。本当に感謝しています。もちろん、その先生は他の患者さんにも寄り添う方だったので、待ち時間がとても長くなってしまうというデメリットもありましたが。

岸田 確かに、それはトレードオフですね。

奥村 そうなんです。診察の効率を上げてどんどん進める先生だと、すぐ順番が回ってきます。でも丁寧に話を聞いて説明してくれる先生だと、1〜2時間待つこともあります。でも私は、その先生に感謝しています。

岸田 患者としては、やはり寄り添ってもらえる方が嬉しいですよね。

奥村 そうですね。要望で言うと、先生方はとてもお忙しいと思いますし、構造的な問題もあると思います。ただ、先生と患者の間には圧倒的な情報の非対称性があります。先生は病気や治療について詳しいですが、患者はほとんど知識がありません。医療の世界は専門用語も多く、内容も深いため、診察で説明を受けても分からないことだらけです。

 患者の側から質問したくても、そのための情報や理解がない場合もあります。だからこそ、できるだけ噛み砕いて、分かりやすく伝えてほしい。図を描いて説明してくれたり、専門用語をなるべく使わないようにしてくれると助かります。もちろん、そうしてくださる先生も多くいらっしゃいますが

 ただ、そうすると診察時間が長くなってしまうという難しさもありますよね。医療現場で生産性を上げることは大事ですが、命に関わる分野では、それを度外視してでも丁寧に対応してほしいと患者としては思います。

岸田 本当にそうですね。命が懸かっているからこそ、自分でしっかり納得したいし、分からないままにはしたくない。僕も主治医が図で説明してくれたときは、本当にありがたかったです。やはり、できるだけ分かりやすく説明していただけると嬉しいですね。ありがとうございます。

「過去の自分に『早く胃カメラをしろ』と言いたい」異変を感じた時の主体的検査の重要性

 岸田 では次に、「過去の自分へ」というテーマで伺います。奥村さんが、治療前・治療中・最近など、どのタイミングでも構いません。過去の自分にひと言伝えるとしたら、いつの自分に、どんなことを伝えますか?
 先ほども少しおっしゃっていましたが、改めてお願いします。

奥村 本当に2017年の7月か8月あたりの自分に言いたいですね。「早く胃カメラをしろ」と。つまり、早く検査を受けたほうがいい、ということです

 この5年間で、医療の進歩や医療の力はすごいと感じましたが、その一方で限界も感じました。先生が分かる部分と分からない部分、可能性が高いところと低いところなど、いろんなグレーゾーンがあります。だからこそ、自分の体の感覚もとても大事だと気づきました。

 当時の私は明らかに体調がおかしかったのに、先生が「大丈夫」と言うと、そうなのかなと思ってしまって。でもそこはもっとクリティカルに考えて、「本当にそうなのか?」という視点を持ち、自分から主体的に検査を受けるべきだったなと思います。

岸田 人間ドックも受けられていましたからね。それで安心してしまいがちですが、人間ドックで分かることと、分からないことがありますし、検査を受けたからといって100%安心というわけではないですよね。

奥村 そうですね。

岸田 本当にそう思います。だからこそ、早め早めに検査をしっかり受けることが大事ですね。

奥村 本当に。早く見つかるに越したことはないですから。

「死を思え」の実感が生んだ感謝の気持ち|がん体験で得た人生観の変化

岸田 ありがとうございます。では次のテーマ、「Cancer Gift」に移ります。がんになって失ったものは本当にさまざまあって、「そんなギフトなんてないよ」と思われる方も多いかもしれません。ですが、あえて伺います。奥村さんの場合、がんになって得たもの、得られたことは何でしょうか。

奥村 今を生きる力が高まったんじゃないかなと思います。ラテン語で「メメント・モリ」「カルペ・ディエム」という言葉があります。ご存じかもしれませんが、「死を思い、今を生きる」という意味です。誰もが頭では「いつか自分は死ぬ」と理解しているはずですが、多くの場合、それを実感としては持っていない。分かってはいるけど、実感はない、という領域の話なんですよね。
 でも私は、この病気を経験して、その実感を強烈に持ってしまった。まさに「死を思え」という感覚を、体で理解してしまったんです。 そして、終わりを深く理解できたからこそ、今の重要性も強く感じられるようになりました。毎日、今この瞬間を大事に生きる力が、この経験から身についたと思います。結果として、いろんなことに対する感謝の気持ちも、すごく高まったと感じます。

岸田 「メメント・モリ」や「カルペ・ディエム」という言葉は、僕も大事にしている言葉のひとつです。病気を通じて、「今、一瞬一瞬を考えて生きなければ」と本当に思いますよね。

奥村 本当に、そう思います。

病気は一つの個性にすぎない-がん患者が目指す「普通の世界」での成功

岸田 ありがとうございます。では次のテーマ、「夢」です。もちろん「治ること」が夢でもいいですし、今後の目標ややりたいことでも構いません。奥村さんの思う「夢」を教えてください。

奥村 今回、この機会をいただいてお話ししているのも、自分自身が5年前にがんになったとき、まったく希望が見えなかったからなんです。がんってものすごく怖い病気だという先入観もありましたし、しかも自分のがんはスキルス胃がん。5年生存している方は確率的にも少ないと言われる病気で、本当につらかったです。でも、いろんな方のサポートや幸運が重なって、今は6年ほど経っています。だから「そういう人もいる」という事実を、同じ境遇の方に伝えたいという思いがあって、こういう場にも出させてもらっています。これからもそれは続けたいと思っています

 一方で、自分ががんになったことを特別視はしたくないとも思っています。病気は一つの個性にすぎない。人間、生きていれば誰しも苦楽があって、見た目が元気そうな人でも、身体的・精神的な障害を抱えていることは珍しくありません。だから、それだけを前面に出して、その世界で頑張るという気持ちはありません。

 自分の夢としては、あくまで普通の世界、ビジネスの世界で圧倒的な成果を出して、「実は僕、胃がないんですよね」とか、「昔ステージⅣで臓器を三つ取ったんですよ」と後からさらっと言って驚かせること。それが夢です。

岸田 かっこいい。病気は一つの個性でしかない。圧倒的成果を出して、さらっと言う——いいですね。奥村さんにはぜひ成果を出していただくか、あるいは国を変える議員になってほしいくらいです。

奥村 本当に、それぐらいの気持ちはあります。でも、とりわけ病気をアピールしたいわけではないということです。

岸田 ありがとうございます。そして、今のようにご自身の経験を発信していくことも、きっと誰かの支えになると思います。これからもよろしくお願いします。

発覚から6年間の感情グラフ-山あり谷ありを経て現在に至るまで

岸田 ここまで長時間お話を伺ってきましたが、ここで「ペイシェントジャーニー」として、奥村さんのこれまでの経験を感情のグラフにまとめています。これを見ながら振り返っていきたいと思います。

 まず31歳のとき、転職後に人間ドックを受けましたが、そのときは特に問題はなし。ただ、げっぷが止まらず、毎食吐くような状態になりました。そして会社で倒れ、がんが発覚。そこから薬物療法を始めました。

 すぐに職場復帰もされましたが、腹膜播種がないことが分かり、手術を受けることに。ところが入院中に肺塞栓になるなど、大変な状況が続きました。それでも1カ月半後には退院し、再び職場復帰。術後は腹腔内で抗がん剤治療を行い、約1年後には「クラス5」と診断され、再び治療が始まりました

 やりたくなかったオキサリプラチンも受けましたが、アレルギーが出て中止。その後はTS-1を継続し、画像上がんが見えない状態となったため休薬へ。ところが再発が分かり、再び薬物療法を開始。治療法を変えながら、現在はQOLの高い状態で過ごされています。

岸田 以前がんノートに出演していただいたときは、休薬中でしたよね。

奥村 そうですね。

岸田 そこから再発を経て、現在に至るまでの道のりがあったわけですが、このグラフについて何か補足はありますか?

奥村 本当にこのグラフの通り、山あり谷ありでした。でも、今は安定しているので感謝の気持ちでいっぱいです。改めて眺めて、ありがたいなと思いました。特に補足はありません。

岸田 ありがとうございます。本当にいろんなことがありましたが、これからもこの状態が続くことを願っています。

がんノートに届いた奥村さんへのメッセージを紹介します。まずDさんから。「素晴らしいご家族です。私も同じ状況ですが、ひとり暮らしをしており、うらやましく思っています」とのことです。確かに、ひとり暮らしだと寂しい思いをすることもあるかもしれませんが、奥村さんのように、家族でも友人でもいいので、グループチャットを作るのはいいですよね。

奥村 そうですね。応援してもらえるのが分かりやすく見えるので、それはいいと思います。

「即今 当処 自己」 闘病中の方へ贈る「今ここで自分らしく生きる」メッセージ

岸田 ありがとうございます。では、奥村さんから、視聴されている皆さんへのメッセージをお願いします。今、闘病中の方も多く見てくださっていると思います。

奥村 やっぱり闘病は本当につらいですし、不安や恐怖を抱えている方もたくさんいらっしゃると思います。私が伝えたいのは、ここにも書いてある『今ここで、自分らしく生きよう』ということです。

 これは、私が一番つらかった2017〜2018年頃に思ったことです。過去を悔やんでしまうこともあると思いますが、悔やんでも過去には戻れません。そして未来については、ものすごく不安になります。仕事の不安とは全く質が違って、「死」というものへの不安は、経験したこともないほど大きく、怖いものです。でも、それを考えても、正直、どうしようもない。どうなるか分からないことを考え続けても意味がないと、自分に言い聞かせました。

 そこで、「今、自分らしく生きる。今この瞬間を大切にするしかない」と思ったんです。

 その背景には「即今 当処 自己(そっこん とうしょ じこ)」という禅の言葉があります。病気になってから宗教や精神性について学ぶようになり、たまたま手に取った禅の本に書かれていました。意味は先ほどの通り、「今、ここで自分を生きる」ということです。過去や未来に意識を向けすぎると、恐怖や後悔で立ち止まってしまいます。それは、せっかくの貴重な「今」という時間を台無しにしてしまうので、非常にもったいない。だからこそ、今ここからどうするかだけに集中する。それが大事だと思います。

 これは、病気を告知されたとき、治療がうまくいったとき、再発したときなど、どんな局面でも当てはまる考え方だと思います。つらい状況の中でも、小さな喜びや楽しみを見つけて、それを毎日積み重ねてほしい。私はそう思っています。以上です。

岸田 今日は随所で素晴らしいメッセージをいただきました。「即今 当処 自己」という言葉、本当に深く響きます。病気を経験していない方も、自分の「今」を生きることの大切さを感じていただけたのではないでしょうか。

 今日は長時間にわたってお話を伺いましたが、本当にあっという間でしたね。

奥村 そうですね。思ったよりもあっという間でした。

岸田 奥村さんがとても分かりやすく説明してくださったので助かりました。

奥村 いえいえ。

岸田 90分以上の時間でしたが、奥村さんにとってはいかがでしたか。

奥村 本当に貴重な機会をいただいたと思います。新しい発見があったというわけではありませんが、さきほども言ったように、世の中はつらい情報のほうが多い中で、私は今も完治したわけではないけれど、普通に生活できています。見た目は少し痩せた人くらいで、元気に生きて好きなことをしている。そういう人がいるという事実を、一人でも多くの人に知ってほしいし、希望を持ってもらいたい。そう思って今日お話ししましたので、この機会をいただけて本当によかったです。

岸田 こちらこそありがとうございました。今後も「がんノートnight」などにもぜひご出演いただければと思います。これからもチームHをみんなで応援していきましょう。

奥村 ありがとうございます。

岸田 では、これにて「がんノートorigin」を終了します。ご視聴いただき、ありがとうございました。それではバイバイ。

奥村 ありがとうございました。

岸田 ありがとうございます。

※本ページは、経験者の体験談を扱っております。治療法や副作用などには個人差がございますので、医療情報に関しましては主治医や、かかりつけの病院へご相談、また科学的根拠に基づいたWebページや情報サイトを参照してください。
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