目次
- ゲスト紹介テキスト / 動画
- 発覚から告知までテキスト / 動画
- 治療から現在までテキスト / 動画
- 家族についてテキスト / 動画
- 学校についてテキスト / 動画
- 恋愛・結婚についてテキスト / 動画
- 妊よう性についてテキスト / 動画
- お金・保険についてテキスト / 動画
- 辛い・克服についてテキスト / 動画
- 後遺症についてテキスト / 動画
- 医療者へテキスト / 動画
- 過去の自分へテキスト / 動画
- cancer giftテキスト / 動画
- 夢についてテキスト / 動画
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- 今、闘病中のあなたへテキスト / 動画
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インタビュアー:岸田 / ゲスト:山田
- 42歳CMLサバイバーの山田さん―現在も晩期合併症治療中の「生きた体験談」
- 「背筋の肉離れ」診断が遅らせたCML発見―町医者の的確判断で一転救命
- 妹のフルマッチ移植から再発、社会復帰へ―「トイレマップ」で副作用と闘った学生・就活時代
- ドナーとなった妹への想い、妻との「いい距離感」―普通に接してくれることへの感謝
- 【学校生活への復帰】2年休学から1年生やり直し―「学食行かない?」の声かけが変えた大学生活
- マッチングアプリで病歴開示、2カ月待った告白の返事―「自分の選んだ道は自分の責任」と言ってくれた家族
- 【妊よう性と向き合う】20歳時の保存断念からTESE手術まで
- 家族がん保険で救われた19歳、総額数千万円の治療費―高額療養費制度の重要性
- 【つらい時期と克服】初発治療の不安、就活の壁―友人の存在と障害者手帳で見つけた希望
- 「できないこと」より「今できること」を―後遺症と共に歩む新しい人生
- 【医療者への感謝と要望】23年間で出会った医療スタッフへの想い―忙しい中で時間を割いてくれた対話の力
- 【過去の自分へ】「結果に一喜一憂せず、今できることを」―23年後の自分が伝えたい闘病との向き合い方
- 【Cancer Gift】「がんになってよかったことは一つもない」―それでも心から感謝する出会いとつながり
- 「病気と共に過ごした時間」が人生の半分を超えて―80歳まで働き続けたい理由
- 激しい浮き沈みを乗り越えた23年―一人で抱え込まずに歩んだ道のり
- 【今、闘病中のあなたへ】「あなたが通っている道は、みんなが通っている道」―看護師の言葉が救った孤独感
42歳CMLサバイバーの山田さん―現在も晩期合併症治療中の「生きた体験談」
岸田 本日のゲストは、山田さんです。まずは山田さんの自己紹介をお願いします。
山田 山田裕一と申します。長野県出身で、現在は東京都在住です。来月で43歳になりますが、今は42歳です。慢性骨髄性白血病(CML)のサバイバーで、現在も晩期合併症の治療を続けているため、「治療中」というステータスにしています。よろしくお願いします。
岸田 よろしくお願いします。さっそくコメントも届いていますね。「山田ちゃん見てるよ」と、お友達からでしょうか。そして「信州のザザ虫パワーで頑張ってね」とも書かれています。……ザザ虫って何ですか?
山田 川の石の裏についている虫です。虫というより、生き物であり食べ物です。それを甘辛く煮た「つくだ煮」にして食べます。
岸田 なるほど、それをザザ虫と呼ぶんですね。
山田 はい。地元の名産です。
岸田 名産なんですね。
山田 ただ、私は食べたことがないんですけどね。
岸田 地元の方でも食べたことがないんですね(笑)。まあ、今日はそのザザ虫パワーで頑張っていただければと思います。ちなみに、普段から「山田ちゃん」と呼んでいるので、今日もそう呼ばせていただきます。この写真は、走っているときのものですか?
山田 いえ、これは会社のイベントに参加したときに、国立競技場で初めてピッチに立った記念として撮った写真です。走ってはいません。
岸田 走ってはいない、と。
山田 はい。あくまで記念撮影です。
岸田 ありがとうございます。そんな山田ちゃんですが、19歳のときにがんを発症されたそうです。コメントでも「山田さんと同じCMLです」という声が届いています。CMLとは慢性骨髄性白血病の略称なんですよね。
山田 はい、そうです。
岸田 何の略でしたっけ?
山田 ……そこはちょっと曖昧です。Lは“leukemia”(白血病)のLで、CとMは“chronic myeloid”——つまり慢性骨髄性のことだと思います。
岸田 ありがとうございます。なお、医療情報については必ず「がん情報サービス」や主治医など、信頼できる情報源で確認してください。こちらではあくまで経験談をお話ししますので、その点をご理解いただきながらご覧ください。
「背筋の肉離れ」診断が遅らせたCML発見―町医者の的確判断で一転救命
岸田 では次に、発覚から告知までの経緯について伺いたいと思います。山田さんは、どのようにしてがんだと分かったのでしょうか。
山田 分かりました。私は1浪して、2000年に大学に合格しました。5月頃から学生生活を頑張っていたのですが、だんだん疲れやすくなり、背中あたりに痛みも出てきました。整形外科を受診すると「背筋の肉離れ」と言われ、そのまま様子を見ていたんです。
ところが、ある日アルバイト中に突然目の前が暗くなり、座り込んでしまいました。「これは少しおかしいな」と感じたのが、最初のきっかけです。
岸田 背筋の肉離れって、そもそもあるんですか?
山田 実はないんです。その後分かったのですが、私の慢性骨髄性白血病(CML)は、症状が悪化すると脾臓と腎臓が腫れます。それが背中の痛みの原因でした。
中学・高校とバスケットボールをしていて体力には自信があったので、「背中が痛いなら整形外科だろう」と受診したら、ビタミンB12のような薬を処方されただけで、血液検査はありませんでした。
岸田 えっ、そうだったんですか。
山田 はい。整形外科だからというのもあったのかもしれませんが、そのせいで発見が遅れた理由の一つになったと思います。
岸田 最初は内科ではなく、整形外科に行ったんですね。
山田 そうです。病気になるなんて思っていなかったので、「筋肉系の痛みだろう」と考えていました。でも実際は全然違いました。
岸田 アルバイト中には貧血も起きていたんですよね。
山田 当時は貧血だとは思わなかったのですが、目の前がふっと暗くなり、立っていられなくなりました。検査を受けると、血液データに明らかな貧血の状態が出ていました。
岸田 その血液データに、白血病の兆候はあったのですか。
山田 ありました。その後、地元の病院に行ったときの検査で「芽球」という白血病細胞が、通常の人の約25倍もあり、非常に危険な状態でした。データを見れば明らかに血液の病気だと分かる数値でした。
岸田 記録にも「高熱が出て地元の病院へ」とありますが、どのくらいの熱だったのですか。
山田 38.5℃から39℃近い高熱が、3〜4日間続きました。さらに首も動かせなくなったんです。
岸田 首が動かないというのは、腫れのせいですか。
山田 はい。リンパ節が腫れて曲がらなかったのですが、そのときは「寝違えた」と思っていました。
岸田 普通はそう思いますよね。
山田 ただ、その後は足も動かしづらくなり、「これはさすがにおかしい」と感じて、6月に町医者へ行きました。たまたま消化器系のクリニックだったのですが、そこで採血とエコー検査を受け、医師から「大学病院で検査を受けたほうがいい」と紹介されました。当時住んでいた場所から少し遠い都内の病院を紹介されたのですが、「近くに大学病院があるのでそこでは?」と聞いたところ、「あそこは病院はやめたほうがいい」と言われたんです。後から分かったのですが、その近くの大学病院には血液内科はあるものの、骨髄移植の設備がありませんでした。おそらく医師は、移植が必要と判断し、設備の整った病院に行かせるためにそう言ったのだと思います。つまり、移植前提で治療できる病院を優先してくれた、ということだったのでしょう。
岸田 それは地元の病院の先生が判断してくれた、ということですか?
山田 はい、多分本当にそうだと思います。
岸田 その先生は何科の医師だったんですか。
山田 消化器内科です。
岸田 なるほど、さっきの整形外科とは違うんですね。
山田 そうです。整形外科に行っても首や背中の痛みでは原因が分からないでしょうし、貧血気味だと感じたので、内科も診ている消化器内科に行ったのは正解だったと思います。
岸田 そのときは、「これは整形外科じゃないな」と自分で判断して行ったわけですね。
山田 はい。さすがに貧血だったら整形外科ではないだろうと。
岸田 確かにそうですね。そしてその消化器内科の先生が、近くの大学病院ではなく、血液内科があり骨髄移植が可能な大学病院を紹介してくれたと。
山田 そうです。
岸田 次の段階というのは、採血とエコーのあと、その大学病院へ行くことになったということですか。
山田 はい。紹介状を書いていただきました。地元の病院に行ったのは土曜日だったのですが、「月曜日にすぐ行きなさい」と言われました。そして日曜日、当時一人暮らしだった私の家に突然チャイムが鳴って、玄関を開けると、心配そうな顔をした地元の病院の先生が立っていたんです。
岸田 えっ、それはちょっと怖いですね。
山田 怖いですよ。事情が分からないので、「なぜ来たんだろう」と思いました。病気だとは思っていなかったので、「大丈夫です、大丈夫です」と言って帰ってもらいました。もちろん本当は大丈夫ではなかったんですけど。
岸田 せっかく心配して来てくれたのに、帰ってもらったんですね。
山田 はい。当時は本当に大変な病気だとは思っていなかったので、何か悪いことでもしたのか、くらいの気持ちでした。
岸田 でも、お医者さんがわざわざ家まで来てくれるなんて、すごいことですよね。
山田 そうですよね。今まで生きてきて、医者が自宅まで訪ねてきたのは後にも先にもその一度きりです。
岸田 確かに、今の時代だと個人情報保護の観点から難しそうですしね。
山田 そうですね。でも当時は2000年でしたから、まだそういう感覚も今ほど強くはなかったのだと思います。
そんな経緯があって、私は大学病院に即入院するまで病名を知らされませんでした。紹介を受けて大学病院に行ったとき、私より先に親や親戚が病名を知ったという形です。
岸田 時系列を整理すると——まず地元の病院に行き、その先生から血液内科と骨髄移植が可能な大学病院を紹介される。その間に先生が自宅まで様子を見に来てくれた。そして大学病院へ行き、即入院になった——こういう流れですね。
山田 そうです。
岸田 大学病院へ行くまでの期間はどれくらいでしたか。
山田 地元の病院に行ってから、3日後くらいです。
岸田 そんなに早かったんですね。
山田 はい。紹介状の力です。
岸田 そして近くではなく、移植ができる大学病院に行って、そこで初めて告知を受けたわけですね。
山田 そうです。そのときは、まず「急性リンパ性白血病」と言われました。リンパが腫れて首が曲がらなかったこともあり、初期症状からそう診断されたのだと思います。しかし血液やその他の詳しい検査の結果、「慢性骨髄性白血病が急性転化した状態」と説明されました。
岸田 慢性なのに急性、というのはどういうことですか。
山田 慢性骨髄性白血病は、ある時期に急激に悪化することがあります。それを「急性転化」と言い、その段階では急性白血病と同じように治療をしなければなりません。
岸田 つまり慢性骨髄性白血病が急性転化を起こしていた、ということですね。
山田 はい。
岸田 そして大学病院に行ったその日に、即入院になったと。
山田 そうです。
岸田 入院するかもしれないと思って、準備はして行きましたか。
山田 全く持って行きませんでした。親は「念のために持って行ったほうがいい」と言っていたのですが、私は嫌で断りました。移動中の車内で急にぐったりしてきて、「これはまずいな」と思いました。
岸田 入院と同時に病名の告知も受けたわけですね。
山田 そうです。
岸田 そのとき、どんなお気持ちでしたか。
山田 23年前のことですが、今でも覚えています。当時の主治医(最近までお世話になった先生)が「決して治らない病気ではないから、頑張りましょう」と言ってくれました。
でもそれを聞いた瞬間、逆にとても怖くなったんです。「治らない病気ではない」ということは、「治らない可能性もある」ということだと感じてしまって。体調は最悪で、熱もあり、首も曲がらず、足を引きずる状態だったので、「どうなってしまうんだろう」と強く不安を覚えました。今振り返れば励ましの言葉だったと分かりますが、そのときは「死んでしまうかもしれない」と思いました。
岸田 ご家族は、そのとき一緒にいらっしゃいましたか。
山田 はい。ただ、家族は私より先に町医者から「白血病で、移植しないと危険な状態」と聞かされていたようで、私の前で動揺することはありませんでした。陰では不安を抱えていたかもしれませんが、少なくとも私には見せませんでした。
岸田 動揺を見せなかったのですね。
山田 私自身も体調が悪くて精いっぱいで、家族の顔をじっと見る余裕はありませんでした。少なくとも視界の中で、取り乱した様子や不安そうな表情は一切見ていません。
岸田 ありがとうございます。そこから入院して治療が始まったわけですね。
山田 はい、そうです。
妹のフルマッチ移植から再発、社会復帰へ―「トイレマップ」で副作用と闘った学生・就活時代
岸田 次は、治療から現在までについてのお話を伺いたいと思います。治療から現在まで、どのような経過をたどったのでしょうか。山田さんは。
山田 入院して3日後に、深部静脈血栓症になってしまいました。簡単に言うと、エコノミークラス症候群のようなものです。
岸田 聞いたことがあります。飛行機のエコノミー席にずっと座っていると発症するやつですよね。
山田 そうです。本当にそれに近い状態でした。高熱が続き、身動きがほとんど取れなかったことが原因だと思います。入院3日目で深部静脈血栓症を発症しました。
岸田 それは、血栓が深い部分の静脈にできるということですか。
山田 そうだと思います。私の場合は左足に血栓が大量にできていました。もしそれが脳に飛べば脳梗塞、心臓に飛べば心筋梗塞になる危険がありました。私はたまたま足で済みましたが、緊急で血栓除去手術を行うことになりました。白血病の治療と並行して、血の塊を取り除く手術を受けました。
その頃には、体調が回復したら骨髄移植を行うという治療方針が決まっていましたが、同時進行でドナー探しも始まりました。私は3人きょうだいで、姉と妹がいます。次女の妹が「私が絶対に合っていると思うから、私から先に検査して」と言ってくれ、その結果、本当に一致して移植が可能であることが分かりました。
岸田 ちょっと待ってください。
山田 すみません。
岸田 大丈夫です。整理すると、入院してすぐ、治療方針としては白血病の治療を行ったあと、体調が整ったタイミングで移植を行うという提案が先生からあったということですよね。
山田 はい。まずは白血病細胞を減らす治療をして、体調が良いときに移植を行ったほうがいい、という提案でした。
岸田 その「体調が良いとき」というのは、どういう状態のことですか。
山田 入院当時はかなり体調が悪く、すぐには移植できる状態ではありませんでした。血栓の状態が落ち着き、ある程度体力が戻った段階を想定していたと思います。
岸田 なるほど。
山田 血栓の除去手術を行ったあと、妹がドナーとして適合していることが分かりました。白血病のHLA型が一致したので、その骨髄を移植するための準備が始まりました。2000年9月ごろ、入院から約3か月後には体調が少し戻り、移植前の「前処置」を行う段階になりました。本来は移植の4日前から行うところ、再発が判明したため1週間前から実施しました。前処置では強い抗がん剤と放射線治療を行い、体調は大きく悪化しました。
岸田 前処置でそういう治療を行ったということですね。
山田 そうです。それが2000年9月です。緊急入院から約3か月後に、妹からの骨髄移植を行いました。
岸田 妹さんは完全一致、いわゆるフルマッチというやつですか。
山田 はい。全て一致するフルマッチでした。
岸田 なかなか珍しいことですよね。
山田 そうですね。本当に運が良かったと思います。
岸田 それが分かった瞬間は、やはりうれしかったですか。
山田 うれしかったですが、同時に自分の体調も精いっぱいで、本当に移植までたどり着けるのか不安もありました。骨髄を提供すると、まれに体調を崩す人がいると聞いていたので、妹のことが心配でした。自分の体調が悪いのに、妹までそんなことになったらどうしようと考えてしまって。母を通して妹と話し、それでようやく前向きに臨もうと思えました。
岸田 自分のことも心配だけど、妹さんの体調も心配になったということですね。
山田 はい。同じ時期に二人とも体調を崩してしまえば、母にも大きな負担がかかります。入院当初よりは、少し気持ちに余裕があったのかもしれません。
岸田 ありがとうございます。そこで前処置として、放射線治療などを行ったということですね。ただ、移植前に再発と記録されていますが。
山田 はい。調子が良くなってきた段階で前処置に入る予定でしたが、ほぼ毎日行っていた血液検査で再発が判明しました。「山田さん、再発してしまったので、移植の処理を前倒しにします」と告げられました。
岸田 そうでしたか。
山田 通常は4日前くらいから前処置を始めるのですが、私は7日前くらいから始めました。その時点で体調はかなり悪かったです。
岸田 そういう状況でも移植はできるんですね。
山田 治療を行う背景や患者の状態は人それぞれなので、私の場合は、それをやるしか方法がなかったのだと思います。
岸田 そういうことですね。そこで造血幹細胞移植を実施するわけですね。
山田 はい。
岸田 造血幹細胞移植というのは、なかなか聞き慣れない言葉ですが。
山田 そうですね。骨髄移植の場合は、ドナーの骨髄から直接採取しますが、造血幹細胞移植は少し違います。ドナーである妹に、移植に必要な白血球を増やす薬を注射します。それによって血液中の造血幹細胞が増えるので、献血のように腕の両側から血液を採り、機械で成分を分離して必要な細胞を取り出します。それを私の体内に点滴で入れる、という方法です。骨髄移植よりも体への負担は少ない方法だったと思います。
岸田 ありがとうございます。その造血幹細胞移植は、どれくらいの時間がかかったのですか。
山田 多分20〜30分もしなかったと思います。
岸田 そんなに短いんですか。
山田 はい。本当に輸血のような感覚です。あの袋に入った液体を自分の体に入れるだけで、30分もかからなかったかもしれません。
岸田 なるほど。それで移植を行い、その後の経過としては、9月に移植してから10月、11月、12月、1月、2月……5か月後くらいに退院できた、ということですか。
山田 はい。本当は12月ごろ、2か月ほど早く退院できそうだったのですが、移植後に拒絶反応、正式にはGVHD(移植片対宿主病)という合併症が肝臓に出てしまいました。肝機能の数値が非常に悪くなり、胆汁が出なくなったのです。分かりやすく言うと、本来茶色いはずの便が、白っぽくなってしまいました。
岸田 白っぽい便ですか。それは出たとき驚きますよね。
山田 驚きました。でも、肝機能の数値が回復してくると、便の色も元に戻ってきました。
岸田 つまり、胆汁がきちんと出るようになったということですね。
山田 はい。そのとき、改めて臓器一つひとつに意味があるのだと実感しました。
岸田 その後、薬で症状は改善していったのですか。
山田 そうです。ステロイドなど、副作用や合併症を抑える薬を使いながら治療を続け、ようやく退院できました。
岸田 退院は翌年の2月でしたよね。
山田 はい。
岸田 その後、主治医から「再発した」と電話があったのですね。
山田 そうです。
岸田 どういう状況で電話がかかってきたのですか。
山田 普通に自宅で生活していました。移植後は、外来に行くたびに骨髄検査(マルク)で白血病細胞が残っていないかを確認していたのですが、次の外来の5日ほど前だったか、1週間前だったかに「予定を早めて病院に来てください」と連絡がありました。病院に行くと、遺伝子レベルで白血病細胞が見つかり、「再発の状態なので、これから治療方法を検討しましょう」と告げられました。
岸田 そう言われたときの気持ちはどうでしたか。
山田 最初は何のことだか分かりませんでした。初発のときは体調が非常に悪く、病名を告げられた瞬間に落ち込む気持ちになったのですが、このときは体力も回復しつつあったので、「なぜこんなに元気な状態なのに再発してしまったのか」と思いました。お酒も飲まず、たばこも吸っていないのに、なぜだろうという気持ちが最初に来ました。
岸田 そうですよね。そこからはいろいろ気を付けて生活していたのに。
山田 そうなんです。ただ、もちろん一日で悩みが消えたわけではありません。1週間くらいはいろいろと考えました。慢性骨髄性白血病は、数年経つと悪化して再び強い治療が必要になる可能性があります。もし治療がうまくいかなければ命を落とすかもしれない――そう考えると、毎日「死ぬこと」ばかりを考えてつらく過ごすよりも、自分のやりたいことを少しでもやってから死にたい、そう思うようになりました。
岸田 主治医から電話があってから、そういうふうに考えるようになったのですね。
山田 そうです。
岸田 そこで分子標的薬の服用を開始した。
山田 はい。私が再発する前には、海外ではすでに保険適用されていた分子標的薬がありました。それを使って経過を見ましょうということになり、服用を開始しました。効果がなければ、また別の治療法を検討するという方針でした。
岸田 少し話が戻りますが、「悔いなく生きたい」と思ってから服用までの間、何かやったことはありますか。
山田 再発する前の話になりますが、私は大学を休学していました。
岸田 大学生だったのですね。
山田 はい。2年間休学していたんです。その間、何もしていなかったので、復学前に「これを頑張った」と言えるものが欲しいと思い、簿記の勉強を始めました。簿記3級です。会社の財務や経理に関する資格ですね。
岸田 はい、分かります。
山田 試験に合格できれば、自分でも少しは頑張れたと言える気がしました。そうやって勉強を続けました。復学後は、とにかく授業を一生懸命受けようと決め、薬を飲みながらも、授業では教室の前の席に座ってノートを取っていました。
岸田 前のほうで?
山田 はい、前のほうで。
岸田 しっかり受けていますよ、というアピールもあって?
山田 そうです。サークルや課外活動をする元気はなかったので、とにかく勉強を頑張って卒業だけはしたいと思っていました。
岸田 学校のことは後ほどまた詳しく伺いたいと思いますが、そのように治療を続けながら生活していたのですね。
山田 はい。
岸田 ありがとうございます。では次、副作用が強く、非常に苦労しながらも勉強を頑張ったというお話です。
山田 そうですね。先ほども少し話しましたが、「悔いを残さないように生きよう」と決めたので、勉強は続けました。しかし、再発後に飲み始めた分子標的薬の副作用が本当につらかったんです。薬を飲んで20~30分すると嘔吐の症状が出てしまい、うまくコントロールできない。朝に飲まなければならないので、通学時間と重なり、特に大変でした。電車の中や駅で気分が悪くなることもありました。そこで、自分の中で「トイレマップ」を作って、どの駅のトイレなら空いていてすぐ使えるかを把握していました。
岸田 患者さんあるあるですね。トイレを探すというのは。
山田 そうです。それでつらくなって判断力が落ちてしまうと困るので、「この駅まで行けばトイレが複数あるから大丈夫」と、自分の中で安心材料を作っていました。吐くために安心するというのも変な話ですが、そうやって状況をコントロールしていました。それでもつらかったです。いろいろ試す中で、朝食に変化をつけたら副作用を少し抑えられることに気付きました。当時は朝に固形物をあまり取らず、ヨーグルトやバナナ程度でしたが、おにぎりやパンなどをしっかり食べてから薬を飲み、30分は横にならずに過ごすようにしたら、症状がだいぶ和らぎました。
岸田 そういうことって、どうやって気付くんですか? 何度も試してみて、「こうすると副作用が緩和する」と分かる感じですか。
山田 そうです。あとは、外来の看護師さんに相談したら、「薬を飲んですぐ横になるから気分が悪くなるのかもしれない。30分だけでも椅子に座って我慢してみて」とアドバイスをもらいました。それも大きかったと思います。
岸田 じゃあ、同じようにつらい思いをしている方は、外来の看護師さんなどに相談したほうがいいということですね。
山田 そうですね。聞くだけでもアドバイスをもらえることがありますし、自分だけで考えるのには限界があります。相談するのはとても大事なことだと思います。
岸田 ありがとうございます。そこからは就職活動で苦労したと。
山田 そうですね。
岸田 かなり大変でしたか。
山田 私は1年浪人し、さらに大学を2年間休学していたので、就職活動の場では「3浪した人」と同じように見られることもありました。
岸田 そうか。
山田 しかも、病歴を書かないと「この3年間、何をしていたのだろう」と思われてしまう。休学とだけ書くよりも、正直に「病気の治療をしていました」と説明しました。病気や治療のことも包み隠さず話しましたが、そのせいかどうかは分かりませんが、なかなか内定をもらえませんでした。大学4年生の9月には、友人たちは内定が決まり翌年4月からの社会人生活を待つばかりでしたが、私にはまだ就職先がなく、かなり遅れた状態でした。
岸田 言うか言わないか、難しい問題ですよね。ただ、山田さんの場合はブランクがあるので言わざるを得なかった部分もありますよね。そこからは就職活動で苦労しつつも、卒業はできたわけですね。
山田 はい、卒業はできました。
山田 内定はもらえませんでしたが、大学の同級生の親御さんが経営する運送会社に就職でき、4月から社会人になりました。
岸田 運送会社というと、体力的にも大変そうなイメージがありますね。
山田 そうですね。しかも私はその会社で初めての新卒社員だったので、周りもどう接してよいか分からなかったと思います。病気の治療をしていた人を迎え入れた経験があまりなかったのかもしれません。
岸田 そして、就職から3〜4か月後に退職してしまうんですね。
山田 はい。職場まで自宅から片道2時間半かかっていました。1人暮らしは体調面で不安があり、引っ越さずに通っていたのですが、仕事の覚えも悪く、効率が落ちていました。質問の仕方も分からないなど、社会人として未熟な面が多く、業務をキャッチアップするのが遅れ、残業が増えて体調を崩しかけました。このままではいけないと思い、申し訳なかったですが退職しました。
岸田 やはり体調が第一ですからね。
山田 はい。
岸田 退職後、肺炎で入院したのはそのすぐ後ですか。
山田 そうです。7月31日に退職し、その1週間以内に体調を崩し、カリニ肺炎で入院しました。
岸田 それは以前お話に出た、GVHDなど免疫系の影響ですか。
山田 それもあると思います。加えて働き過ぎの影響もありました。移植後、関節が動かしづらい、皮膚が突っ張るなどの症状が出ており、その治療のための点滴が免疫力を下げる副作用を持っていました。そういった要因が重なったのだと思います。
岸田 原因は特定できないけれど、肺炎になったと。
山田 はい。1か月ほど入院しました。
岸田 1か月も。それは大変でしたね。
山田 そうですね。
岸田 入院後は体調は戻りましたか。
山田 はい、回復しました。
岸田 そこから社会保険労務士の資格勉強を始めたんですね。
山田 はい。営業職は難しいと感じていたので、「事務職ならこの人に仕事を任せられる」と可視化できる資格を持とうと思いました。大学時代に人事系のゼミに所属していたので、社会保険労務士は以前から興味がありました。
岸田 大学時代から社労士に興味があったのですね。
山田 そうです。一度試験勉強を始めたのですが、全然面白くなくて途中でやめてしまいました。でも「もう自分にはこれしかない」という気持ちで、再び勉強を始めました。
岸田 どんな試験なんですか。
山田 労働基準法や労災保険、例えば退職後にもらえる失業保険、年金制度などです。人々の生活や給与に関する幅広い知識を学びます。資格を取って独立すれば、いろいろな形で仕事ができる可能性がある試験です。
岸田 つまり、人事関連の知識を網羅できるのが社労士ということですね。
山田 そうです。当時は網羅できると思い、勉強を始めました。実際、今も人事の部署で働いていますが、学んだことは無駄にならず、しっかり役立っています。
岸田 社労士試験の勉強を始めて、その後はどうなりましたか。2008年12月は不合格だったそうですが。
山田 はい。1回目の試験はほとんど勉強せずに受けたので、当然落ちました。2回目は「絶対に合格しなければ」と必死に勉強しましたが、総合点で1点足りず不合格でした。午前と午後の試験があり、午前で失敗したことを引きずってしまったのが原因だと思います。当時28歳で、「このまま受からないのでは」と不安になりました。合格率も5〜8%程度と難関資格です。定職にも就けず、「社労士を取るぞ」と言っているだけではいけないと思い、事務職に就こうと考えました。2006年に障害者手帳を取得していたので、その枠でメーカーに入社しました。
岸田 障害者手帳は簡単に取得できるものではないですよね。
山田 そうですね。治療開始から3日目に深部静脈血栓症を発症し、左足首が動かなくなりました。その状態が改善せず、機能障害として等級に該当したためです。
岸田 白血病そのものではなく、足首の障害が理由だったんですね。
山田 はい。がんではなく足首の機能障害で取得しました。その手帳を使って障害者雇用枠で入社しました。
岸田 入社後はどうでしたか。
山田 28歳で初めての本格的な勤務だったので、学ぶことは多かったですが、部署の皆さんは優しく接してくれました。通院もしやすく、非常に助かりました。
岸田 そして社労士試験に合格。
山田 はい。人生でも上位に入るくらいの嬉しさでした。その資格を生かして人事の仕事がしたいと思い、当時の会社で異動を打診しましたが叶わず、2012年に今の会社に転職して人事部で働くことができました。
岸田 金融機関で、念願の人事の仕事ですね。
山田 そうです。少しずつ担当範囲も広がり、これからも頑張っていこうと思っています。
岸田 そして2015年、他のがん患者さんとの交流を始めた。
山田 はい。3年働いて生活に余裕が出てきた頃、病気や仕事で悩む人を支援できないかと思い、Facebookなどで患者会を探して交流会に参加しました。立場は違っても、それぞれ悩みを抱えながら生活している人たちと出会い、野球観戦など趣味を一緒に楽しむこともありました。自分が経験したことを伝えることで誰かの役に立てると感じましたし、逆に自分も元気をもらえました。2017年には岸田さんとも出会っています。
岸田 そうですね。
山田 そういった活動から自分の行動範囲も広がっていきました。
岸田 その広がりと同時に、彼女との交際も始まったと。
山田 そうです。
岸田 恋愛や結婚のことは後ほど詳しく伺います。そしてその後、ご結婚され、2020年7月に舌に腫瘍が見つかったのですね。
山田 はい。以前から移植の副作用で、口内炎のような白くざらつく症状が口の中や舌にできては消えることを繰り返していました。2015年頃から口腔外科で経過観察していましたが、舌のピリピリ感が強くなり、妻にも勧められて受診しました。そこで組織を採取して検査することになりました。
岸田 検査の結果は上皮異形成だったと。
山田 はい。悪性腫瘍になる一歩手前の状態です。
岸田 一歩手前と言われますよね。
山田 そうです。その診断でした。
岸田 その時に舌を切除したのですか。
山田 舌の表面を削り、他の組織を貼り付ける治療を行いました。
岸田 怖かった出来事ですよね。
山田 怖かったです。結婚して家族ができたことで、自分だけでなく妻のことも考えるようになりました。将来どうなるのか、悪化したら何も残せないのではないかと不安になりました。
岸田 治療としては、腫瘍を削って取り除く方法を選んだのですね。
山田 はい。その後も生検で詳しく調べましたが、結果は異形成でした。
岸田 じゃあ、その腫瘍は取り切ったということですか。
山田 はい。取り切りました。ただ、舌のピリピリした感覚は今でも続いています。
岸田 そうなんですね。
山田 口内炎のような症状が繰り返し出るので、たぶん一生、口腔外科に通うことになると思います。
岸田 それは怖いですね。いつ上皮異形成から次の段階に進むか分からないわけですし。
山田 はい、怖いです。3か月に1回は口腔外科で診てもらっています。
岸田 ありがとうございます。そこから2022年12月にTESE手術を受けたということですが、これはご自身の精子で子どもができるかどうかを確認する手術だと聞きました。具体的にはどんな手術ですか。
山田 まず、自分に子どもをつくれる精子があるかを調べます。精液からではなく、直接精巣にメスを入れて精子を採取します。
岸田 精巣から直接、精子を。
山田 はい。そうやって採取した精子が子どもをつくれる状態かどうかを確認します。手術は1泊2日か2泊3日でした。
岸田 ありがとうございます。妊孕性については別のコーナーでも詳しくお話しいただきたいと思います。治療を経て、いろいろなことがありましたね。
山田 本当に長かったです。
岸田 そうですよね。それだけの期間がありますからね。ここで、治療の前後の写真を2枚ご紹介します。
岸田 まず1枚目は何のときの写真ですか。
山田 これは移植した病棟で、移植から2か月くらい経った頃です。
岸田 山田さんはどれですか。
山田 紺色のジャージを着ているのが私です。バスケットボール部だったので、遠征や試合前に着ていたものです。本当はパジャマを着ればよかったのですが、格好をつけてジャージを着ていました。
岸田 このときはどんな状況だったんですか。
山田 予備校時代の友人がお見舞いに来てくれたときです。
岸田 移植の前ですか、後ですか。
山田 移植の後です。ステロイドを少し飲んでいて、顔がむくんでいました。
岸田 顔が今とは少し違う印象ですね。では次の写真です。こちらもジャージを着ていますね。
山田 はい。これは高校のときの運動着です。パジャマを着るのが嫌だったので、こういう服を着ていました。この頃は肝臓の数値が良くなく、黄疸が出ていました。
岸田 治療後ですね。
山田 はい。先ほど話した白っぽい便が出ていた頃です。
岸田 写真を見ると、皆さん笑っていますが、山田さんは笑えていないですね。
山田 そうですね。移植直後で疲れていたと思います。友人と会うのも10分、15分が限界でした。
岸田 そういった山田さんの治療のお話でしたが、コメントもいただいています。Mさんからは「町医者の判断が的確で素晴らしいですね」と。
山田 本当にそう思います。的確でした。
岸田 山田さんからは「白血病は山口百恵さんのドラマや夏目雅子さん、本田美奈子さんのイメージが強く、自分より周りが驚いていました」と。周りの反応はどうでしたか。
山田 そうですね。「山田が白血病になった」と、高校時代の同級生で伝えていなかった人にも話が広まりました。
岸田 そうですよね。誰か1人に伝えると、いろんな人に広がってしまいますよね。
山田 はい。当時は病気になるまで詳しく調べることもなく、スマホもなかったので、インターネットはパソコンから見る時代。自宅にはそうした設備がなかったので調べられず、大変でした。
岸田 今ならもっと早く広まるでしょうね。
山田 そう思います。高校の同級生には1人しか伝えなかったのですが、そこからどんどん広まりました。
岸田 あまり知られたくなかったのですか。
山田 はい。体調が悪く、「大丈夫か」と言われても面会をしていると疲れてしまう。来てもらっても申し訳ないし、弱っている姿を見られるのはつらかったです。恥ずかしいというより、本当につらいという感覚でした。
岸田 なるほど。
山田 だからほとんど連絡はしませんでしたが、結局は皆に知られてお見舞いに来てくれました。心配してくれていたことが分かりました。
岸田 ありがとうございます。ほかにも、「薬を飲んでつらい中、副作用対策をしっかりしていてすごいですね」や、「山田ちゃんの生放送に間に合った、応援してます」、「試練が多いですね」「波瀾万丈ですね」というコメントも届いています。
山田 ありがとうございます。
ドナーとなった妹への想い、妻との「いい距離感」―普通に接してくれることへの感謝
岸田 ここからは、いくつかのテーマごとに山田さんの経験を伺っていきます。まずは「家族」について。親や妹さん、奥さまとの関係についてお話しいただけますか。がんを伝えたときの反応や、ドナーが妹さんだったときのやりとりなども教えてください。
山田 私の場合、病名は自分からは伝えていません。入院前に、町の診療所から親へ「こういう病気なので、一緒に病院へ行ってください」と連絡があったので、親はすでに知っていました。妹もその場にいたことがあり、直接伝える機会はありませんでした。
ドナーが妹に決まったときは、本当にうれしかった反面、とても心配でした。骨髄を採取した後に体調を崩す人がいると聞いていたからです。妹は別の場所で高校生活を送っており、携帯電話もなかったため直接話す機会が少なく、母を通じて「提供をお願いするかどうか」というやりとりをしていました。
岸田 妹さんとは直接よりも、お母さまを通じての会話が多かったんですね。
山田 はい。当時は携帯電話はありましたが、体調的に使うことが難しく、話をするときは面会のときか、家族を介して伝えてもらう形でした。
岸田 サポートでうれしかったことはありますか。
山田 親も妹も、忙しい中でも普通に接してくれたことです。後から聞いたのですが、母は私の高校時代のアルバムを見て泣いていたそうです。それでも私の前では平静を装ってくれていたことが、今ではありがたく感じます。
岸田 では、奥さまとの関係はいかがですか。
山田 妻とは出会ったときから病気であることを前提に話していました。必要以上に病気のことを聞かず、私がつらいときは自分から話すと分かってくれている。その「いい距離感」が心地よいです。言葉にすると抽象的ですが、日々の会話や過ごし方から生まれる感覚だと思います。
岸田 半径○メートルと決められるものではないですよね。
山田 そうですね。距離を数字で表すのは難しいですが、自然に保てていることが大切だと思います。私にとって一番ありがたいのは、家族も妻も「普通に接してくれること」でした。
【学校生活への復帰】2年休学から1年生やり直し―「学食行かない?」の声かけが変えた大学生活
岸田 次は学校についてです。当時、大学を2年間休学していたと伺いました。復学の流れや、学校との関わり方について教えてください。
山田 緊急入院が決まったとき、治療が長引くと分かっていたので、親が休学の手続きをしてくれました。2001年2月に退院したのですが、4月からの新学期までに通える自信がなく、正直に親に相談してもう1年休学しました。当時は休学にも授業料の一部が必要で、負担は大きかったと思います。
復学したとき、元の同級生たちはすでに3年生で校舎も変わっており、ほとんど会う機会はありませんでした。私は1年生のクラスからやり直し。杖をつき、日焼け防止のために帽子と日傘を使っていたので、周囲からはかなり目立っていたと思います。体育の授業も受けられず、早く帰る日も多く、最初は友達ができませんでした。
岸田 そこから友達はどうやってできたのですか。
山田 ある日、今でも仲の良い友人が突然「学食行かない?」と声をかけてくれたんです。それがきっかけで少しずつ交流が広がりました。私自身、どう声をかければいいか分からず、声をかけられるのを待っていたのだと思います。
岸田 見ている方の中には、当事者ではない方もいらっしゃると思いますが、声をかけられるのを待っている人もいるということですね。
山田 そうですね。あのとき、声をかけてもらえたことは本当にありがたかったです。
マッチングアプリで病歴開示、2カ月待った告白の返事―「自分の選んだ道は自分の責任」と言ってくれた家族
岸田 次は、恋愛や結婚についてお伺いします。先ほど奥さまの話がありましたが、出会いはどのような形だったのでしょうか。
山田 いわゆるマッチングアプリです。
岸田 最近は利用する方が多いですよね。そのとき、プロフィールに病気のことは書いたのですか。
山田 はい、書きました。彼女がほしいというよりは、収入も安定してきて、1人で生活する自信がついた頃に、「このままずっと1人でいいのかな」と考えるようになったのがきっかけでした。女性とどうやって知り合えばいいか分からなかったので、まずは食事を一緒にするくらいの気持ちで始めました。
相手と会う前に病気のことを知ってもらったほうが、お互いに安心して関われると思い、プロフィールに「過去にこういう病気を経験した」と記載しました。
岸田 そして、そのプロフィールを見て会ってくれた方が、今の奥さまということですね。
山田 そうです。初めての食事では病気の話はほとんどせず、私が好きな野球選手が経営するカフェで盛り上がりました。
その後、3回目に会ったときに「付き合いたい」と告白しました。その際、「結婚を考えるなら、私は子どもを授かる可能性が非常に低い。それでもよければ付き合ってほしい」と率直に伝えました。
岸田 奥さまは同い年ですか。
山田 4歳下です。告白の返事はすぐにはもらえず、約2カ月後でした。それまでの間も食事には行きましたが、進展については私から聞くことはありませんでした。そして2カ月後、「付き合おう」と返事をもらいました。
結婚にあたって奥さまのご両親に会うときは緊張しましたが、奥さまが事前に病気のことを伝えてくれていたため、「20歳を過ぎたら自分の選んだ道は自分の責任」という考えで受け入れてくださいました。想像していたよりもずっと安心して話を進められました。
【妊よう性と向き合う】20歳時の保存断念からTESE手術まで
岸田 妊よう性(子どもを持つ能力)については、どのように考えてこられたのでしょうか。
山田 20歳のとき、手術前に「精子を採取して保存しますか」と言われましたが、当時は体調が悪く、病院外に行かなければ保存できない仕組みだったため諦めました。移植前はほとんど寝たきりで、お風呂にも数回しか入れないほどだったので、とても動ける状態ではなかったのです。
結婚後、妻に「可能性があるなら調べたい」と伝えました。子どもを持つかどうかは別として、自分の状態を知っておきたいと思ったからです。将来、「子どもがいてもいいかも」という話になったときに備えたかったのです。
妻も一緒に泌尿器科で説明を受け、「可能性は低い」と理解した上でTESE(精巣内精子採取術)を受けましたが、結果は精子はありませんでした。現在は特別養子縁組や精子バンクといった方法について、情報を集めています。
ただ、このような話は家ではしづらいこともあります。静かすぎて切り出しにくいので、居酒屋など少し賑やかな場所で「どう思う?」「この場合はどう考える?」と話すようにしています。環境を変えることで、少し気楽に率直な話ができるのです。妻からも意見をくれるので、とても助かっています。
家族がん保険で救われた19歳、総額数千万円の治療費―高額療養費制度の重要性
岸田 妊よう性のことを包み隠さず話してくださり、ありがとうございます。続いて、お金や保険について伺います。山田さんは19歳で発症されたとのことですが、そのときご自身では保険に加入していなかったのですか。
山田 はい、入っていませんでした。ただ、親が家族で加入していたがん保険があり、私もその契約に含まれていました。20歳でがんを発症したとき、その保険を引き継ぎ、入院すると給付金が出る仕組みを利用できました。
岸田 家族加入の保険があったのですね。
山田 はい。その保険は23歳までに罹患すると、罹患後も継続できるものでした。自分では新規加入できません。最近まで分子標的薬を服用していたため、条件を満たさず、今も入れていません。一部の保険会社では分子標的薬もがん治療とみなされるため、服薬中は加入が難しいのです。
岸田 薬代も含めると、治療費はかなりの額になりますよね。
山田 はい。2018年ごろまでは、月に約12万円(自己負担3割)かかっていました。高額療養費制度で戻ってくるため、実際の負担は月3〜4万円ほどになりましたが、それでも生活への影響は大きかったです。生きるために働いて、稼いだお金は治療費に消える、そんな時期もありました。
岸田 これまでの総額はどのくらいになりますか。
山田 移植費用も含めると、数千万円になると思います。10年間、毎月12万円かかっていた計算ですから。初発のときは、親が親戚からお金を借りてくれました。当時は差額ベッド代も1泊3万円以上かかり、それが何十日も続きました。高額療養費の給付が振り込まれてから返済できましたが、急な入院で経済的な準備が整っていなかったため、本当に大変でした。
【つらい時期と克服】初発治療の不安、就活の壁―友人の存在と障害者手帳で見つけた希望
岸田 これまでで特につらかった時期はいつですか。
山田 初発の治療中です。体の痛みや先の見えない不安で、どうすればいいか分からなくなっていました。ただ、お見舞いに来てくれる友人がいて、「また一緒に外で遊びたい」という気持ちが希望になりました。病気のことを考えるだけでなく、楽しいことを想像することで、気持ちを持ち直せたのだと思います。
岸田 気持ちの持ち方が大きかったのですね。
山田 はい。あとは就職活動がうまくいかなかった時期もつらかったです。そのときは、選択肢を広げるために障害者手帳を取得し、応募できる仕事の幅を広げました。行政のサポートや相談窓口を利用し、自分の状況を整理できたことが、乗り越える大きな力になりました。
「できないこと」より「今できること」を―後遺症と共に歩む新しい人生
岸田 ありがとうございます。続いて、後遺症について伺います。現在、どのような後遺症がありますか。先ほど少し触れていましたが、分子標的薬は今はやめているのですよね。
山田 はい。腎機能が低下してきたため、半年前から服用を中止しています。今のところ再発の兆候はありません。薬はやめた状態で経過観察を続けています。
岸田 他に残っている後遺症はありますか。
山田 はい。まず、骨髄移植後の副作用で腎機能が低下しています。また、口内炎のような症状が出やすく、口腔内に不快感があります。さらに、甲状腺機能の低下があり、現在も甲状腺ホルモン薬を服用しています。
加えて、日常生活で最も影響が大きいのは、入院3日目に発症した深部静脈血栓症による左足の可動域制限です。足が十分に曲がらず、踏み込みが必要なスポーツはほぼできません。装具(インソール)を使えば歩行は可能ですが、もともと運動好きだったため、大きな制限となっています。
岸田 バスケットボールもされていたとおっしゃっていましたね。
山田 はい。バスケはもちろん、踏み込む動作が多いスポーツは難しくなりました。ただ、自転車であれば足への負担が少なく、ロードバイクなどで50〜60キロ走ることもできます。時間があるときは積極的に乗っています。紹介してくれた友人には感謝していますし、「できないこと」にこだわるより、「今できること」を探すことが大切だと感じています。
岸田 たとえ障害があっても、できることは必ずあるということですね。
山田 そうですね。
【医療者への感謝と要望】23年間で出会った医療スタッフへの想い―忙しい中で時間を割いてくれた対話の力
岸田 次に、医療者へのメッセージについて伺います。これまで多くの医療者と関わってきた山田さんだからこそ、「こうしてほしかったこと」や「感謝していること」などはありますか。
山田 治療中も、現在のフォローアップでも、本当に多くの医療者の方にお世話になっています。一言で表現するのは難しいのですが、振り返ってみると、忙しい中でも主治医や看護師さんをはじめ、さまざまな医療スタッフが時間を割いて話を聞いてくれました。アドバイスをもらったり、自分の気付きを得られたりして、前を向くことができました。本当に感謝しています。
岸田 逆に、「これはちょっと…」という出来事はありますか。
山田 今は特にありませんが、昔は少しだけありました。
岸田 差し支えない範囲で教えてもらえますか。
山田 入院中、深部静脈血栓症で身動きが取れず、排泄も瓶などを使わなければならない状態でした。何をするにもナースコールで来てもらわないとできないのですが、ある時、「お盆で人が少ないから、あまり押さないでほしい」と言われたことがありました。そのときは、「申し訳ない」という気持ちと同時に、「放置されてしまうのでは」という不安を感じました。
もちろん、病院の体制上やむを得ない部分があったと思いますし、そのスタッフの方も疲れていたのかもしれません。今になって振り返れば、どちらか一方が悪かったという話ではないと理解していますが、当時はつらかった記憶があります。
岸田 もう20年以上前の話ですね。
山田 はい、23年前ぐらいです。
【過去の自分へ】「結果に一喜一憂せず、今できることを」―23年後の自分が伝えたい闘病との向き合い方
岸田 次は「過去の自分へのアドバイス」です。山田さんが過去の自分に何か伝えるとしたら、どのタイミングで、どんな言葉をかけたいですか。
山田 そうですね。つらいことはいろいろあると思いますが、結果に一喜一憂せず、今できることを着実にやっていくことが一番大切だと伝えたいです。毎週の血液検査で数値が悪いと落ち込むこともありましたが、日常は続いていきます。良い結果が出ることもありますが、長い目で見れば、それだけに振り回される必要はありません。将来、自分が何をできるかを考えながら生活したほうが、きっと気持ちが楽になる——そのことを、もっと早く教えてあげたかったですね。
【Cancer Gift】「がんになってよかったことは一つもない」―それでも心から感謝する出会いとつながり
岸田 ありがとうございます。「一喜一憂しない」というお話に続いて、次は Cancer Gift についてです。がんによって失ったものも多かったと思いますが、あえて「得たもの」を挙げるとしたら、何でしょうか。
山田 正直、がんになってよかったと思えることは、今も一つもありません。ただ、治療やその後の人生を通じて経験できたこと、出会えた人たちや生まれたつながりには、心から感謝しています。それは病気になったからこそ気付けたことであり、今も大切にしていることの一つです。
岸田 がんになった後の経験や出会い、ということですね。
山田 そうですね。
「病気と共に過ごした時間」が人生の半分を超えて―80歳まで働き続けたい理由
岸田 ありがとうございます。では、山田さんの今後の夢について教えてください。
山田 20歳で病気になり、3年前には「病気と共に過ごした時間」が、元気だった期間を上回りました。これからは、まずは80歳くらいまで生きて、できれば死ぬまで仕事を続けていたいと思っています。
岸田 すごいですね。
山田 病気を経験して、人と接する時間が自分にとってとても大切だと気付きました。そして、自分にとってその時間は、仕事を通じて社会と関わることでもありました。だからこそ、ずっと仕事を続けるほうが、きっと自分にとって楽しい人生になると思っています。
岸田 いわば“社畜”ということですね。(笑)
山田 そう、そんな感じです。仕事を頑張りたいです。
岸田 ずっと続けられるように、こちらも応援しています。ありがとうございます。
山田 ありがとうございます。
激しい浮き沈みを乗り越えた23年―一人で抱え込まずに歩んだ道のり
岸田 ではここからは「ペイシェントジャーニー」です。さんのこれまでの歩みを、画面共有を使って振り返っていきましょう。
大学入学(1浪)後、疲れやすさなどの症状から地域のクリニックを受診。医師の的確な判断で大学病院を紹介され、がんの告知を受けます。その後、造血幹細胞移植を実施し、退院。しかし再発を経験します。再び復学し、分子標的薬による治療を続けながら学生生活を送りました。
就職活動では苦戦しましたが、一度は就職。しかし退職を経て、障害者手帳を取得し、メーカーに再就職。並行して社労士試験に挑戦し、合格。社労士資格を活かして就職し、患者さんとの交流も増えていきました。
その後、現在の奥さまと交際を始め結婚。舌に腫瘍が見つかり「上皮異形成」と診断され、現在も定期的に口腔外科に通院中です。また、妊孕性の検査で精子がないことが分かり、将来についても考え続けています。
岸田 ここまでを振り返って、何か補足や伝えておきたいことはありますか。
山田 いえ、作っていただく過程で、自分の人生は浮き沈みがとても激しいと感じました。でも、つらい時にどう乗り越えるかは、自分一人で抱え込まず、他の人と話し合いながら決めることが大切だと気付きました。こうして整理する機会をいただき、ありがとうございます。
【今、闘病中のあなたへ】「あなたが通っている道は、みんなが通っている道」―看護師の言葉が救った孤独感
岸田 山田さん、最後に「今、闘病中のあなたへ」というテーマでコメントをお願いします。山田さんに色紙で書いていただいた言葉がありますので、読んでいただけますか。
山田 『あなたが通っている道は、みんなが通っている道』と書きました。これは、移植後の副作用(GVHD)で体調のコントロールが難しかったとき、外来でフォローしてくださっていた看護師さんに相談した際にかけてもらった言葉です。
この症状は自分だけではなく、同じ治療を受けている人なら誰もが通る道だから、一人じゃない。だから、そんなに落ち込まずに前向きにいこうね――。そう言われて気持ちがとても楽になり、救われた感覚がありました。前向きになれた大切な言葉なので、今回選びました。ありがとうございます。
岸田 本当にそうですね。山田さんの波瀾万丈な経験があるからこそ、説得力があるメッセージだと思います。その言葉は今も思い出しますか。
山田 はい、思い出します。体調が悪くなると、つい「自分だけがこんな状況なのでは」と考えてしまいがちです。でも、みんな同じ道を通って乗り越えてきたと知ることで、「心配しすぎなくていいんだ」と思えました。
岸田 ありがとうございます。
山田 本当にその時は体調が悪かったので…。
岸田 長時間にわたり、山田さんには本当にさまざまなお話をしていただきましたが、いかがでしたか。
山田 あっという間でした。
岸田 これだけご自身のことをお話しいただく機会は、なかなかないですよね。後遺症や恋愛・結婚、つらい時の向き合い方など、多くの学びをいただけました。出演していただき、心から感謝します。
山田 ありがとうございます。
岸田 最後に、コメントでRさんから「社労士の勉強会で初めて会ったとき、山田さんから声をかけてくれたのを覚えているよ」とのメッセージが届いています。
山田 まじですか。覚えていなくて申し訳ないです。
岸田 学生時代は待ちのタイプだった山田さんが、社労士になってからは自分から声をかけられるようになった…という成長でもありますね。
山田 そうかもしれません。ありがとうございます。
岸田 改めて、長時間お話しいただきありがとうございました。また次回の「がんノート」の配信でお会いしましょう。それでは、終了です。皆さん、お疲れさまでした。
山田 ありがとうございました。
※本ページは、経験者の体験談を扱っております。治療法や副作用などには個人差がございますので、医療情報に関しましては主治医や、かかりつけの病院へご相談、また科学的根拠に基づいたWebページや情報サイトを参照してください。
*がん経験談動画、及び音声データなどの無断転用、無断使用、商用利用をお断りしております。研究やその他でご利用になりたい場合は、お問い合わせまでご連絡をお願い致します。