目次
- ゲスト紹介テキスト / 動画
- 発覚から告知までテキスト / 動画
- 治療から現在までテキスト / 動画
- 再発・転移テキスト / 動画
- 家族(パートナー・子供)テキスト / 動画
- 仕事テキスト / 動画
- 辛い・克服テキスト / 動画
- 後遺症テキスト / 動画
- 医療者へテキスト / 動画
- 死生観テキスト / 動画
- Cancer Giftテキスト / 動画
- ぺイシェントジャーニーテキスト / 動画
- 今、闘病中のあなたへテキスト / 動画
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インタビュアー:岸田 / ゲスト:高田
- 看護師から教員へ、そして患者へ 53歳で迎えた人生の転機
- わずか5ミリのピンク色の出血 体からのサインを見逃さなかった判断力
- 『がんがありました』検査中の突然すぎる告知に頭が真っ白に
- がん専門病院への転院決断『一人じゃない』と感じた安心感
- 卵巣転移で破裂寸前『未来は予測不可能』余命を超えたライブ参戦
- 『手術すれば大丈夫だよね』家族それぞれが示した愛情とサポートの形
- 『働くなってことだな』―がん告知で退職決断、制度活用で生活を支える
- 92回の抗がん剤を支えた『先にある楽しみ』痛みの先の解放感という発想転換
- 大腸半分切除でも『全く不具合なし』人間の体の素晴らしさを実感した後遺症体験
- 『あなたでよかった』と思われるスタッフに 医療者育成者が伝える感謝と要望
- 『明日死んでも悔いのない日』を心がけて 死への恐怖から解放感への転換
- 『がん=始まり』がんで得た自分のための時間と無数の夢
- 『本当に濃い6年間』上向きのペイシェントジャーニーを振り返って
- 延命でなく『今を生きるため』の治療 92回の抗がん剤で得た幸せな人生観
看護師から教員へ、そして患者へ 53歳で迎えた人生の転機
岸田 本日のゲストは高田さんです。茨城県ご出身で、現在はS市にお住まいとのこと。元・看護教員で、現在は無職。看護師としてもご勤務されていたということでよろしいですか?
高田 はい、そうです。看護師として臨床で勤務した後、看護学校に転勤して教員をしていました。
岸田 転勤で教師になるっていうのは珍しいですよね。
高田 実は看護師時代に、教員になるための研修を受けていたんです。それもあって、グループ内にある看護学校に異動、というかたちで教員になりました。
岸田 なるほど。看護師から看護教員って、教える立場になるわけで、患者さんとの関係とはまた全然違いますよね。大変だったんじゃないですか?
高田 本当に大変でした。
岸田 やることも話す相手もがらっと変わりますからね。患者さんに向き合っていたところから、今度は看護師を目指す学生さんたちに教える立場になるわけで。
高田 はい。
岸田 そんな高田さんですが、大腸がんステージⅣのご経験者。発覚が2017年、53歳のときとのことで、手術や薬物療法などを経て、現在も治療中とのことですね。内容としてはこちらで合っていますか?
高田 はい、合っています。
岸田 ありがとうございます。ではここから、高田さんのお話を伺っていきたいと思います。どのような経過をたどってきたのか、感情の浮き沈み、そういったものをグラフにしてお伝えをしていければと思っております。
まずは「発覚から告知まで」というテーマでお聞きします。最初のきっかけは2017年3月。看護教員として、学生たちの卒業式・謝恩会に参加されたときですね。その朝に「排便後、ごく少量の出血があった」とのことですが、このあたりのことからお伺いしてもよろしいでしょうか?
わずか5ミリのピンク色の出血 体からのサインを見逃さなかった判断力
高田 数年前から、おなかの不快感とか、張る感じはあったんです。でもストレスのせいだろうと、自分で勝手に判断して、検査も受けずに過ごしていました。そして、3月。学生たちの卒業式が終わって一段落したところで――3月7日の朝だったんですけど、排便のあとに、本当にティッシュにうっすら付くぐらいの少量の出血がありました。これは体からのサインだなって思って、受診しようと決めました。
岸田 それはトイレットペーパーに付いてたってことですよね?
高田 はい、そうです。
岸田 すぐ病院へ行こうと思われたんですね。僕だったら、「拭きすぎたのかな?」って思って終わっちゃいそうなんですけど……。
高田 私も「痔かも」とか、良いほうに考えたりはしましたけど、でも数年前からおなかの違和感もあったし、「やっぱり来たか」と思いました。
岸田 なるほど。ちなみに、その出血の色ってどういう感じだったんですか? 血って、どす黒いのもあれば、鮮血もあるし。
高田 うっすらピンク色で、ほんの5ミリぐらい。本当に少量でした。
岸田 その5ミリのピンク色で、「行こう」と思ったんですね。
高田 はい。覚悟を決めました。
岸田 すごいですね……。そして、「健康診断での便潜血はマイナス」って書かれてるんですけど、それはそのときの健康診断ですか?
高田 はい、その出血があった翌週に健康診断があって、便潜血検査も受けたんですけど、結果は陰性でした。でも、最初からちゃんと病院に行こうって決めていたので、結果にかかわらず受診しました。
岸田 なるほど。出血を見て「これは病院行かないと」と思って、数日後に行かれた。そして、健康診断では便潜血が陰性だった――。
高田 そうです。
岸田 病院では、最初どんな検査を受けられたんですか?
高田 そのときは診察だけで、検査の予約を取っただけでした。お尻を診られる覚悟までして行ったんですけど、先生は「じゃあ、検査しましょうか」みたいな、わりと軽い感じで(笑)。
ちょうどそのころ、食道のあたりにも違和感があって、食道がんかも……とも思っていたので、胃と大腸の両方の内視鏡検査を予約しました。
岸田 検査はそのときじゃなく、後日の予約だったんですね。
高田 はい、予約だけでした。
岸田 なるほど。そして、その後の健康診断で便潜血が陰性だったんですね。普通だったら「じゃあ大丈夫かな」と安心して病院に行かなくなることもあるけど、それでも行くのはすごい勇気ですね。
高田 怖かったし、もう覚悟を決めてましたから。
岸田 ウォシュレット使ってたら、出血に気づかないこともあったんじゃないですか?
高田 私、ウォシュレット使ってます。たぶんウォシュレットしたあとに、ティッシュで拭いたときに気づいたと思います。6〜7年前のことなので、記憶が曖昧ですが……。
岸田 それでも気づいたんですね。そして、後々分かったこととして、がんの部位は上行結腸だったと。あそこって、あまり出血しない部位ですよね?
高田 そうなんです。肛門から一番遠いところなので、出血しにくい場所です。
岸田 上行結腸って、腸の右側を上に登っていくところですよね。
高田 はい、右の上に向かう腸です。
岸田 そこから出血していた可能性がある……でも、それだとピンク色の血っていうのは不思議な気もしますね。
高田 そうなんです。あれが本当に血だったのか、偶然なにか赤っぽいものが出たのかも分からないです。
岸田 なるほど。
さて、その後、内視鏡検査を受けて、がんの告知をされたとのことですが……その場で言われたんですか?
高田 はい。検査中に先生が突然、「あ、がんがありました」って言ったんです。
岸田 えっ、急に?
高田 はい。得意げに「がんがありましたねー」って。
岸田 それって、検査中のまさに……カメラが入ってる状態ですよね?
高田 はい、意識のある状態で、検査をされてる最中でした。
岸田 それで、モニター見せられて……。
高田 そうです。「外科の先生呼びますね」って言われて、すぐ来られて。でも、私は頭が真っ白で、何が何だか分からなくなってました。
岸田 それはそうですよね。横になったままで、そんなこと言われて。こわい。
高田 本当に、「がーん……って、こういうことなんだ」って。がんって字から来てるのか?って思うくらい、頭が真っ白になりました。
岸田 がん告知、しかもひとりで受けたんですよね。
高田 はい、1人でした。
『がんがありました』検査中の突然すぎる告知に頭が真っ白に
高田 数年前から、おなかに不快感があったり、張る感じが続いたりしていたんです。でもそのときは、きっとストレスのせいだろうって、自分で勝手に判断してしまって。検査も受けず、そのまま放置して過ごしていました。
それで、3月に子どもの卒業式があって、ようやく一段落ついたんです。ちょうど3月7日の朝でした。排便のあとに、ティッシュに本当に少量の出血が付いていて……。そのとき、「これは体からのサインだ」と直感して、真剣に受け止め、病院を受診する決意をしました。
岸田 その出血っていうのは、トイレットペーパーに付いて気づいたんですか?
高田 はい、そうです。
岸田 僕だったら、「拭きすぎたのかな?」とか思ってしまいそうですが……。
高田 私も最初は「痔かな?」とか、できるだけ良い方向に考えたんです。でも、おなかの不快感がずっと前からあったし、「やっぱり来たか」と、どこかで覚悟していたんだと思います。
岸田 ちなみに、そのときの血の色って、どんな感じだったんですか?どす黒いとか、鮮血っぽいとか……。
高田 うっすらとしたピンク色でした。本当に少しで、5ミリぐらいの大きさでした。
岸田 それでも、ちゃんと「受診しよう」と思えたんですね。
高田 はい。「これは放っておけない」と、覚悟を決めました。
岸田 すごい判断力ですね。ちなみに、そのあと受けた健康診断では、「便潜血陰性」と書かれてますけど、あれはどこで受けたんですか?
高田 その出血があった翌週に、ちょうど会社の健康診断があって、便潜血検査も受けたんです。でも、結果は「陰性」でした。一瞬、「あれ、大丈夫かな?」とも思いましたけど、最初から「今回はちゃんと診てもらおう」と決めていたので、きちんと病院に行きました。
岸田 なるほど。その出血をきっかけに、「やっぱり受診しよう」となって、数日後に病院に行かれたんですね。
高田 はい、そうです。
岸田 その病院での検査はどんな感じだったんですか。
高田 病院では特に診察があって、検査の予約をするだけでした。私、本当に覚悟して行ったんです。お尻を見られるんじゃないかって。でも行ってみたら、「分かりました、じゃあ検査しましょう」っていう、ちょっと軽いノリの先生で(笑)。そのとき、実は食道にも違和感があって、食道がんかもしれないと思っていたので、胃の内視鏡と大腸の内視鏡の両方をやりましょうということで、予約を取りました。
岸田 そのときは検査の予約だけだったんですね。
高田 そうです。
岸田 予約を取って、その後の健康診断では陰性。そして、予約した病院で大腸内視鏡の検査を受けに行ったという流れなんですね。でも、陰性だったらほっとして、それで病院行くのやめそうですが、高田さんは検査には行かれたんですよね。
高田 行きました。
岸田 それは、やっぱり怖かったからですか?
高田 怖かったし、ある程度、覚悟を決めていこうと思っていたので。
岸田 なるほど。ウォシュレットを使用していたら、出血に気づかなかった可能性もあると思いますが、どうですか?
高田 私、ウォシュレットを使っているので、多分ウォシュレットした後だったと思うんですよね。その後に血が付いたと思います。6〜7年前のことなので、正確な記憶はないですけど。
岸田 ウォシュレットを使っていても、血が付いていたということなんですね。
高田 しかも、私の場合は後々分かるんですけど、がんの場所は上行結腸だったんです。そこって、実はあまり出血しないと言われている部位で。一番、肛門から遠いところなんですよね。
岸田 上行結腸って、腸が「く」の字に折れ曲がってる右上の部分ですよね。
高田 はい、右側の上に向かっている腸です。だからあまり出血はしない場所だそうです。
岸田 腸って上に行って、横に行って、下に行くという流れですよね。その最初の「上に行く」部分で出血していたということですね。
高田 はい。でも、出血だったのかは正直分からないです。たまたま赤っぽいものが出ただけかもしれないし。今となっては判断できないですね。
岸田 たしかに、そのあたりからの出血なら、ピンク色っていうより、もっと変化した色になりそうな気もしますよね。その後、病院に行って、大腸内視鏡検査中にがんの告知を受けられたということなんですが。
高田 はい。
岸田 その病院で内視鏡検査、受けていたわけですよね、高田さん。どのようにがんの告知を受けていたんでしょう。
高田 検査中に突然、先生が「がんがありました」って急に言い出しまして。
岸田 急に。
高田 「がんがありました」って得意げに言われました。
岸田 それはなんでしょう。お尻入れてるときに。
高田 そうです。
岸田 高田さん、もちろん意識はあるわけですよね。
高田 意識はありました、そのとき。
岸田 意識あって、されてるときに「がんがありました」って言われて。そのときは、それで取り切るよ、みたいな感じのことを言われたんですね。「今ちょっと取りますね、ポリープ取りますね」みたいな感じで。
高田 そのときポリープはいくつかあって、取りながらだったんですけど。それは本当にがんだって分かったらしくて、「がんがあります」って言われて、モニターを見せられて、「外科の先生呼びますね」っておっしゃられて、外科の先生もやってきて。でも私、もう頭が真っ白で、何が何だか分からないような状況でした。
岸田 そうですよね。それ、横になりながら全部言われてっていうことですかね。
高田 そうです。
岸田 外科の先生、呼ばれて、見せられて。横になりながら。
高田 そうです。
岸田 気が気じゃないですよね、そのときはね。
高田 本当に「頭が真っ白」ってこういうことだなって。本当に「がーん」って。「がーん」って、がんからきたんだよな、きっとって今思うんですけど。本当に「がーん」で真っ白で、何が何だか分からないですね。
岸田 何がなんか分からないですよね、本当ね。そんな中でがん告知を受けていって、そのときは自分一人で受けたってことですね、がん告知は。
高田 そうです、1人です。
がん専門病院への転院決断『一人じゃない』と感じた安心感
岸田 そこから、治療が始まり、現在に至ります。がんの告知を受けた翌月には、がん専門病院で受診し、手術を受けました。ところで、その病院では検査などは行ってくれなかったのですか?治療はその後どのように進んでいったのでしょうか。
高田 検査などはやってくれました。総合病院だったので、外科の先生にも診てもらえました。ただ、私はその時点で「この病院で手術を受けよう」という気はまったくありませんでした。
岸田 それは、どうしてですか?
高田 やはり、がん専門の病院で一日も早く手術してもらいたいという気持ちが強かったからです。その総合病院が専門じゃないというわけではないのですが、やはり「がんに特化した病院で一度診てもらわなければ」と思っていました。
岸田 なるほど。総合病院でも手術はできるけれど、やっぱり専門の病院で診てもらいたかったということですね。でも、専門病院に紹介してもらうと、受診までに時間がかかりませんか?
高田 いえ、思ったより早かったです。翌週には受診できて、そこから約3週間後には手術の予定も決まりました。とてもスピーディーでしたね。
岸田 すごい。
高田 そうなんです。スピーディーです。がん専門病院に行ってよかったことって、その病院にたくさんの患者さんがいて、この人たちみんな、がんなんだと思ったときに、すごく勇気が湧いてきたというか。こんなに同じ病気の方がたくさんいるんだなって、やっぱりここに来てよかったなって思いました、とても。
岸田 全員ががん患者さんですもんね、そういった場合ね。確かに。この人たち、がんなんだって、1人じゃないなと思ったことですね。そのがん専門病院では、総合病院の先生に、「行きたいんですけど」っていって。その紹介状書いてもらって行って。受診して、手術日が3週間後というふうに順調に決まっていくわけですよね。
高田 そうです。「3週間後で大丈夫ですか」って伺ったんですけど。大腸がんはゆっくり進行するがんで、7、8年前ぐらいから出来上がっているものだから。3週間や1カ月で変わるものではないですよということをおっしゃっていただけて、ちょっと安心はしました。
岸田 数週間の違いではそれほど大きな変化はない、ということで、すぐに手術を受けることになったんですね。手術にも開腹手術や腹腔鏡手術などいろいろありますが、今回はどのような手術でしたか?
高田 腹腔鏡手術でした。
岸田 腹腔鏡手術だったんですね。整理すると、最初の内視鏡検査のときにポリープはすべて取り除いたけれど、その後がんが見つかって、そのがんは通常の処置では取りきれないタイプだったということですね。
高田 はい、そのとおりです。
岸田 それで手術を受けることになり、がん専門病院で診てもらって、すぐに手術日も決まったと。看護師として多くの患者さんを見てきた高田さんでも、ご自身ががんと診断されたときは、やはり頭が真っ白になるものなんですね。
高田 本当にそのとおりです。臨床の現場でいろんな経験を積んできたつもりでしたが、その瞬間は全く役に立ちませんでした。一気に“ひとりの患者”になったという感じです。どんなに医療に携わっていても、ショックの大きさは変わらないと思います。
岸田 看護師の立場の高田さんがそうおっしゃると、本当にリアリティがありますね。やっぱり、実際に経験してみないと分からないことって、たくさんあるんですね。もちろん、看護師の皆さんは勉強してたくさんの知識を持っていると思いますけど、経験して初めて実感できることもありますよね。
高田 実は、がん専門病院に行ってから、もう一度内視鏡検査を受けたんです。そのとき、上行結腸から少し曲がった「横行結腸」という部分に、ごく初期の病変を見つけてもらいました。「ここにも初期の病変があります」と言われたんですが、それは前の病院では見つからなかった場所だったんです。もう一度丁寧に検査してもらって、その場で見つけてもらえた。結果として、上行結腸だけでなく、横行結腸も半分ほど切除することになりました。
岸田 それも腹腔鏡手術で行ったんですね。
高田 はい、そうです。
岸田 がん専門病院でもう一度診てもらって、本当によかったですね。
高田 本当にそう思います。
岸田 もちろん、総合病院でもう一度精密検査をしていたら見つかっていた可能性もあるとは思いますが…。
高田 そうですね。でも、大腸って、特に初期の病変は見つけるのがとても難しいらしいんです。だからこそ、年に一度は内視鏡検査を受けたほうがいいですよって、医師からも勧められました。
岸田 そして手術を終えて、5月には「補助化学療法を1回で挫折」とありますが、これはどういうことでしょうか?
高田 手術の結果、ステージはⅢbで、リンパ節にも多数の転移がありました。そのため、補助化学療法を8回行う予定だったんですが、1回目を受けたときにアナフィラキシーのような症状が出たり、副作用がとても強く出てしまって…。結果的に1回でやめてしまったんです。正直、挫折したという気持ちでした。
岸田 補助化学療法というのは、手術のあと、体内に残っているかもしれないがん細胞をたたくために行う抗がん剤治療のことですよね。
高田 そうです。
岸田 補助化学療法を受けて、アナフィラキシーのような症状が出てしまって、1回で治療を断念されたんですよね。アナフィラキシー反応が出るというのは、なかなか珍しいことではないですか?
高田 そうですね、正確には“ショック”とまではいかないかもしれませんが……外来での治療だったんです。治療が終わって帰ろうと、駅に向かう途中でだんだん呼吸が苦しくなってきて。駅に着く頃には、ほとんど声も出せないくらいの状態で、酸素も取り込めない感じになってしまって。急いでタクシーで病院に引き返しました。
岸田 それは大変でしたね……。
高田 病院に戻ると、少し楽にはなったんですが、「それは副作用なので大丈夫です」と言われて、そのまま帰されました。
岸田 帰されたんですね……。
高田 はい。自宅も遠かったんですが、その後の副作用が本当にひどくて、1週間くらい寝たきりになってしまって。せっかく手術して元気を取り戻したのに、こんな状態が続いたらとても耐えられないなと思い、抗がん剤治療はやめようと決心しました。
岸田 そのことを主治医の先生に伝えたとき、嫌な反応などはありましたか?
高田 「やったほうがいいんですよ」とは言われましたが、「でも、つらすぎて無理です」と正直に伝えたら、「分かりました」と納得してくれました。
岸田 そしてその後、6月に「がんサポートコミュニティに入会」とありますが、これは患者会なんですね?
高田 はい。抗がん剤をやめて、「私はもうがんだから、このまま静かに人生を終えていこうかな」と思っていた時期だったんです。再発への不安や孤独感、死の恐怖などが一気に押し寄せてきて……そんなとき、インターネットで「がんサポートコミュニティ」という団体を見つけて、入会しました。
岸田 実際に入ってみて、どうでしたか?
高田 ここでいろいろな支援を受けることができました。私は大腸がんのグループに入り、大腸がんを経験した方や、再発して抗がん剤治療を続けている方たちと出会って、少しずつ視野が広がっていったんです。気持ちも少しずつ落ち着いていったように思います。
岸田 そして2017年、「再発・転移、そして腹膜播種。余命2年」とありますが、これはどのような経緯だったのでしょうか?
高田 手術から半年後の2017年11月、CT検査で再発と転移が見つかりました。さらにPET-CTを撮ったところ、腹膜播種があることも判明しました。ただし手術の適応外ということで、抗がん剤治療が提案され、「何もしなければ余命半年、治療しても2年程度」と告げられました。
岸田 腹膜播種というのは、がん細胞が腹膜に散らばっている状態ですよね。しかも余命2年と言われたら、かなりショックだったのではないですか?
高田 もちろんショックでした。でも、不思議なことに、最初にがんを告知されたときのほうが衝撃は大きかった気がします。
岸田 それは、どうしてですか?
高田 「もう再発の心配をしなくていいんだ」と思えたんです。
岸田 再発してしまったから、それ以上の再発はないと。
高田 はい。それに「2年も生きられるんだ」と思えたことも大きかったです。初発から半年が経って気持ちも落ち着いていたので、ショックを受けつつも、どこか前向きな気持ちが出てきました。
岸田 すごく前向きですね!余命2年と告げられたら、多くの人は動揺してしまうと思いますが。
高田 私の中では「がん=死」というイメージが強かったんです。でも「2年ある」と言われて、「その2年で何ができるだろう」と考え始めました。
岸田 その考え方、本当に素晴らしいです。コメントでも「健康診断もろくに受けていない私はとてもお話が刺さります」といった声が届いています。ほかにも「CTで再発・転移が見つかるまで、自覚症状はありましたか?」という質問が来ています。
高田 自覚症状としては、下腹部にチクチクするような痛みがありました。それが腹膜播種によるものだったかは分かりませんが。
岸田 それ以外では、生活に支障はなかったんですね。
高田 まったくありませんでした。
岸田 「再発してしまったから、もう再発の心配をしなくていい」とおっしゃっていたのが印象的です。逆説的ですが、とても新鮮な考え方ですね。
高田 それほど「再発すること」が自分にとって怖かったんだと思います。
岸田 その後、セカンドオピニオンも受けられたとのことですが、それはどこで?
高田 腹膜播種は通常、手術の適応外ですが、日本国内には手術を行っている病院もあって。西日本にある2つの病院でセカンドオピニオンを受けました。そこで「手術可能です」と言われたのですが、その手術が非常に大がかりなもので、腹腔鏡手術では対応できない規模でした。私は「とても耐えられない」と思い、最終的に手術は受けず、抗がん剤治療を選びました。
岸田 大腸がんの腹膜播種は、本来手術適応外なんですね。けれども西日本の病院では対応してくれるところがあって、実際に2カ所で意見を聞いたけれど、どちらでも「耐えられないかもしれない」と判断されたと。
高田 はい、その通りです。
岸田 そして『2017年12月 転院』とありますが、がん専門病院では治療は続けなかったのですか?
高田 はい。がん専門病院は自宅からかなり遠くて、私はS(地名)に住んでいるので、都内まで通院するのが大変だと思いました。
岸田 都内のがん専門病院だったんですね。
高田 そうなんです。これから先の治療を考えると、自宅の近くで受けたいと思って、Sの近くにある総合病院へ転院しました。ちょうどその病院に、私の教え子が勤務していて、良い先生を紹介してもらえたんです。
岸田 教え子の存在、心強いですね。そういうつながりがあるのは本当にすごいです。
高田 はい。本当に感謝しています。
岸田 そして、抗がん剤治療を開始されたんですね。どのような治療だったんですか?
高田 SOX療法という治療で、オキサリプラチンとTS-1の内服薬、そしてアバスチンという分子標的薬を併用しました。
岸田 3種類の抗がん剤を同時に使ったんですね。そして、その治療の期間中に合唱団にも参加されたとか。
高田 はい。転院したおかげで治療がとてもスムーズに進みました。朝に病院へ行けば、昼には治療が終わるという感じで、負担も少なく、本当に感謝しています。そして余命2年と告げられたとき、「何か新しいことを始めたい」と思って、がんサポートコミュニティの合唱団「いきのちから」に参加しました。
岸田 患者会の合唱団に入って、合唱活動を始められたんですね。ありがとうございます。コメントで、「西日本の腹膜播種の手術をする病院は、どうやって見つけたのですか?インターネットですか?人脈ですか?」という質問が来ています。
高田 インターネットです。
岸田 ご自身で調べられたんですね。
高田 はい。息子が検索してくれたり、闘病ブログなども参考にしました。
岸田 ブログも活用されたんですね。ちなみに、そのとき教え子のネットワークは使わなかったんですか?
高田 西日本には教え子がいなかったんです。関東にはいたんですけどね。
岸田 そして2019年、ちょうど2年後のお話になります。ウクレレとギターのレッスンを始めたとありますが、新しい挑戦だったのでしょうか?
高田 はい、そうです。
岸田 なぜ、ウクレレとギターを始めようと思われたんですか?
高田 当時は余命あと1年と言われていた時期で、前から憧れていた音楽の先生がいたこと、そして息子が宮古島で結婚式を挙げることになって、「その場でウクレレが弾けたらいいな」と思ったのがきっかけでした。
岸田 レッスンを始めて、その翌月には抗がん剤の一時休薬もありましたが、それは音楽に専念するためだったのですか?
高田 いえ、そうではありません。経過がよかったため、担当の先生から「一時的に薬を止めて、体から薬を抜いてみるのもいいかもしれません」と提案されたんです。
岸田 経過が良好だったんですね。そしてその翌月には、息子さんの結婚式で宮古島へ行かれたと。どんなお気持ちでしたか?
高田 宮古島は本当にきれいなところで、海も素晴らしくて、「天国ってこんな感じなのかもしれない」と思いました。心に残る、特別な思い出です。
岸田 余命2年と告げられていた高田さんが、「天国ってこんなところかな」と感じられた――その言葉に重みがありますね。本当に実感がこもっているのが伝わってきます。ありがとうございます。そしてすみません、こうして高田さんとご一緒させていただいているからこそ冗談も言えるんですが、初対面でこれを言っていたら怖いですよね(笑)。高田さんのご理解とご許可のもとでお話しさせていただいていますので、ご了承ください。
そして、その翌月、2019年6月ですね。
高田 はい、そうです。その年のことです。
卵巣転移で破裂寸前『未来は予測不可能』余命を超えたライブ参戦
岸田 2019年6月に「卵巣への再発・転移」とありますが、これはどういう状況だったのでしょうか?
高田 薬を中断していた時期にPET-CTを撮ったところ、卵巣に転移していることが分かりました。
岸田 腹膜播種で腹膜にがんが散らばった状態から、さらに卵巣にも転移していたということですよね。そのときのお気持ちはどうでしたか?
高田 本当に驚きました。「これで私は死ぬんだろうか」「いよいよその時が来たのか」と思いました。でも「手術ができる」と聞いて、「それならまだ大丈夫かもしれない」と思えました。ただ、卵巣の腫瘍は日に日に大きくなり、腹水も溜まっていって、何度か「卵巣が破裂して死ぬんじゃないか」と不安になりました。
岸田 それほど大きくなっていたんですね。
高田 はい、日に日に膨らんでいくのが分かりました。
岸田 最終的にはどれくらいの大きさになったのでしょう?
高田 破裂寸前だったと思います。自分でもそう感じていました。
岸田 再発と転移が分かって、翌月には手術を受けられたとありますが、両側の卵巣が腫れていたのですか?
高田 最初は右側だけでしたが、次第に左側も腫れてきたので、両方を一緒に取ることになりました。
岸田 両方取ることになったんですね。事前に説明はあったんでしょうか?
高田 正直、はっきり覚えていません。最初から「両方取る」と言われていたのか、右だけと言われていたのか曖昧です。でも左も腫れていたので、取ることに異論はありませんでした。私も当時50歳を過ぎていましたしね。
岸田 卵巣を両方取ることで、ホルモンの問題は出ませんでしたか?
高田 まったくありませんでした。
岸田 手術は、抗がん剤治療を受けていた病院で行われたのですか?
高田 卵巣転移が分かったとき、治療先の病院にも婦人科はありましたが、「いつ手術になるか分からない」と言われました。そこで、大腸の手術をしていただいた病院の主治医に紹介状を書いてもらい、そちらに戻ることにしました。2年ぶりに主治医に会ったとき、「元気でしたか?」と声をかけられましたが、元気じゃないから来ているんですよね(笑)。
岸田 先生のブラックジョークですね。
高田 本当に忘れられません。「元気だったら来ませんよ」と返しました。地元のS(地名)に戻ったことも快く受け入れてくれて、翌週には手術を入れてくれました。大腸の先生が卵巣の手術もしてくれたんです。
岸田 転院して両側の卵巣切除手術を受け、その後、抗がん剤治療を再開されたんですね。
高田 はい、その通りです。
岸田 卵巣への再発転移が分かって、またがん専門病院に戻り、大腸の先生が卵巣の手術もされたというのは驚きですね。
高田 そうです。
岸田 そのことに対して不安はなかったですか?
高田 全くなかったです。卵巣が原発かもしれないと言われて不安でしたが、大腸の先生が「これは大腸の転移で間違いない」とはっきり言ってくれたので安心しました。
岸田 手術はうまくいったんですね?
高田 はい、開腹手術で無事に終わりました。
岸田 抗がん剤治療も再開したと。
高田 そうです。S(地名)の病院で抗がん剤を再開する予定でしたが、主治医がとても心配してくださり、もし今後何かあったときに対応できなくなるかもしれないから、S(地名)のがんセンターに移るよう勧められました。先生同士で連携して紹介状を書いてくれて、がんセンターに転院して抗がん剤治療を再開しました。
岸田 なるほど。都内のがん専門病院から地元のがんセンターへ転院して治療を続けたということですね。都内の先生も理解してくれていたと。
高田 はい。都内の先生は手術だけで、抗がん剤は地元で続ける形を了承してくれていました。
岸田 高田さんは転院を繰り返すことに抵抗感はありましたか?
高田 いえ、主治医が今後のことを考えて、対応できる病院へ移るのがベストだと考えてくれていたので、本当にありがたいと思いました。がんサポートのスタッフにも、先生同士の連携で病院を移れるのは珍しいと言われました。がんセンターも家から近くて通いやすかったです。
岸田 通いやすいのは大事ですね。抗がん剤は通院治療で、どのくらいの頻度で受けていたんですか?
高田 この時もSOX療法で、オキサリプラチンの点滴とTS-1の内服、アバスチンを3週間に1回受けていました。
岸田 その後、約2カ月後に余命とされていた期間が終わり、ライブに参戦されたと。治療しなければ2年という余命が終わったということですね。
高田 はい。
岸田 その時の気持ちはどうでしたか?
高田 余命の期間が終わり、元気にライブに行けることが本当に嬉しかったです。未来は誰にも予測できない、予測不可能だという言葉がこの時に生まれました。
岸田 ご自身の中でそう感じられたんですね。どんなライブに行かれていたんですか?
高田 藍井エイルさんのライブです。
岸田 藍井エイルさんといえば、アニソンシンガーの方ですね。どうして藍井エイルさんのライブに?
高田 藍井エイルさんのサポートギターを担当している方が私の推しだったので、その関係で行くようになりました。
岸田 ギターの推しから藍井エイルさんの方に?
高田 そうです。でも藍井エイルさんの歌もとても好きで、励まされました。
岸田 良い曲が多いですからね。
高田 何度も救われました。
岸田 ギターを習っていたから、そういう推しができたんですね。
高田 そうですね。14~15年前はライブハウスにも通っていました。
岸田 それはすごいですね。看護教員をしながらライブハウスに?
高田 はい、夜にライブハウスに行っていました。
岸田 かっこいいですね。ライブハウスで「先生!」って言われるのも面白いですね。
岸田 では次のスライドに移ります。2021年、2019年から2年後の記録に「CTで増悪あり」とありますが、「増悪」とはどういう意味なんでしょう?
高田 たぶん、腹膜播種の状態が悪化したんだと思います。私は怖いので、CTの結果はあまり詳しく聞かないようにしているんです。
岸田 いや、ちゃんと聞いてください(笑)。先生に確認しないとダメですよ。要するに、CTの結果で状態が悪化していた、ということですね。
高田 そうですね。遠隔転移があったわけではないですが、腹膜播種が少し大きくなってきていたようで。腹水も溜まり始めていたと思います。9月頃だったかもしれませんが、その影響で抗がん剤が変更になりました。
岸田 なるほど。以前の抗がん剤は3週間に1回とか、飲み薬もありましたよね。それが変わったことで、通院頻度などにも変化があったんですか?
高田 はい。このときから2週に1回の通院になりました。
岸田 飲み薬は続けていたんですか?
高田 いえ、飲み薬は終了して、点滴だけになりました。
岸田 点滴のみを2週間に1回というスタイルに変わったんですね。そしてその翌年、2022年の9月には再び「増悪あり」と。がんが進行してしまったということですね。
高田 そうですね。
岸田 そして、分子標的薬の変更があったんですね。
高田 はい。2021年の時点で薬が変わりましたが、その後、腫瘍マーカーが毎月じわじわ上がっていて……1年かけてCTにも変化が現れ、分子標的薬を変更することになりました。
岸田 分子標的薬は抗がん剤の一種ですが、具体的にどのように変更されたんですか?
高田 アバスチンという薬から、ベクティビックスという薬に変更されました。
岸田 ベクティビックスは何週間に一度の治療になるんですか?
高田 それも2週間に1回です。
岸田 2週に1回、病院で点滴を受けるという形ですね。後ほど副作用の話も出るかと思いますが、何か変化はありましたか?
高田 抗がん剤のひとつであるイリノテカンは2021年から継続して使っていたので、副作用は多少ありました。ただ、分子標的薬のベクティビックスは皮膚障害が有名で……
岸田 皮膚障害? どんな症状があるんですか?
高田 肌が乾燥したり、発疹が出たり、指先に亀裂が入ったりですね。あとは「爪囲炎」といって、爪のまわりが炎症を起こしたりします。
岸田 聞いたことありますね。それから脱毛もあったんですよね?
高田 はい、2021年から脱毛が始まりました。
岸田 今日もウィッグを着けていらっしゃいますよね。とても似合っていて素敵ですけど……これ、お高いやつですか?(笑)
高田 はい、今日は一番高いやつを着けてきました。私、ウィッグ大好きなんです。
岸田 どれくらい持ってるんですか?
高田 6個か7個ですね。
岸田 すごい! 値段の幅ってどれくらいあるんですか?
高田 一番安いもので3,000円くらい。今日着けているのは、最初に買ったちょっとお高めのもので、だいたい10万円くらいです。
岸田 すごいレンジですね。場面に応じて使い分けてるんですね。
高田 そうです。でも、美容院に行かなくていいので、むしろ元が取れますよ。
岸田 逆に!? そういう発想、初めて聞きました!
高田 そうですか?(笑)
岸田 いやー、いろんなタイミングで使い分けるの、いいですよね。そして2023年4月。現在は治療を受けながらも、活動的な日々を送っていらっしゃると。さっき「3,000円のウィッグ」とおっしゃってましたが、昨日ジムに行かれたときはそれを着けていたそうですね?
高田 はい、そうです。
岸田 しかも皆さん、驚かれると思いますが、高田さん、今はフィットネスジムにも通っているんですよね。とても活動的な毎日を送られています。このあと写真を見ながらいろいろ伺っていきますが、その前にコメントもいただいているので、ご紹介します。
Yさんから:「お元気でしたか。未来は予測できない。高田さんから印象に残る言葉が多くて、勉強になります」とのことです。
高田 ありがとうございます。
岸田 「ウィッグとてもお似合いです」という声もありますよ。それから、「試練が多すぎる闘病生活のように感じます。ご家族の理解や支えも相当あったのではと思います。それに、がんノートにはどのようなきっかけで出演されたんですか?」というご質問もいただいています。がんノート出演のきっかけ、教えていただけますか?
高田 はい。実は2月に、相談支援センターの方々の学会で講演させていただいたんです。そのとき、岸田さんのお名前を拝見して興味を持ち、調べていくうちに「がんノート」にたどり着きました。YouTubeでがんノートを視聴しているうちに、「私も出てみたい!」と思うようになって、応募したんです。夢みたいでした。本日それが叶って、本当にありがたいと思っています。
岸田 ありがとうございます。大腸がんの治療や腹膜播種、さらには卵巣への転移といった大変な状況を経験しながらも、今なお精力的に活動されている。さて、ここからは高田さんにいただいた写真をご紹介していきます。まずは「過去の写真」ですが、これはどんなときのお写真でしょうか?
高田 これは卒業式ですね。これはこの子たちと私、教員になって初めて担任をしたクラスだったので。お別れが寂しくて卒業式を。これから毎年、私、卒業式は号泣してるんですけど。本当に学生とのお別れがつらい。つらくて。
岸田 これ真ん中が高田さん。
高田 そうです。
岸田 両サイドが学生さん。
高田 そうです。かなり前の写真ですけど。
岸田 教えて、そのときに周りは泣いてるけど、高田さん毅然としてると。
高田 私も泣いてましたね。ぼろぼろ。
岸田 ごめんなさい。うそです。みんなで泣いてといったところの、お仕事されていたとき。上にまだナースキャップある時代だから。
高田 大昔。
岸田 今はナースキャップとかないですね。
高田 今はしてないですね。
岸田 卒業式だけそういう授与式みたいなのあるんですよね、確か看護学校で。
高田 そんな学校もありますよね。でも今は一切してないですね。
岸田 ありがとうございます。そして治療中の写真がこちらになります。また遠い所から撮っていただいて。これはなんの写真です?
高田 これは抗がん剤をしてるんですけど。まだ前の総合病院のときで、点滴で入ってるんですけど。がんセンターに移ってすぐにポートを入れましたので。今はポートから点滴をしてもらってます。
岸田 ポートっていうのは、胸にポートってやつを入れて、抗がん剤とかを入れやすくするというか。胸に入れてるってことですね、ポートをね。これが治療中のときの写真。そしてその後の写真が、こちらになります。
高田 これ宮古島ですね。
岸田 その天国と評された宮古島。
高田 ここは前浜ビーチなんですけど、本当に天国みたいな場所だなと感じます。私はどこでも天国を感じられるタイプなんですけどね。
岸田 確かにすごく綺麗ですよね。ここで弾いたウクレレは素晴らしかったんでしょうね。
高田 習い始めてまだ3カ月なんですけど。
岸田 楽譜が風で飛ばされないか心配になりそうですね。
高田 そうなんです。
岸田 これは息子さんの結婚式の写真ですね。治療が始まった後、休薬中の頃でしょうか。
高田 たぶん休薬中だったと思います。この頃には多分、卵巣に転移が芽生えていたんじゃないかな。
岸田 卵巣がんへの転移ですね。
高田 全く知らずにいました。
岸田 次の写真、左側が旅行の写真で、右側がギターの写真ですね。どちらから話しましょうか。
高田 じゃあ、旅行の写真からご紹介します。
岸田 これはどちらの写真ですか?
高田 最近行った場所で、ブルーのコートを着ている写真は千葉神社と稲毛海岸です。私の“推し”の聖地なんです。聖地巡礼に行ってきました。
岸田 推しの聖地!? ギターの推しですか?
高田 はい。ブログに写真が載っていた場所なんです。
岸田 なるほど。推し活、素敵ですね。
高田 ずっと行きたかった場所で、ようやく念願が叶いました。
岸田 僕もアニメの聖地巡礼が好きなので、気持ち分かります(笑)。
右側の写真はギターですね?
高田 はい。その上の写真は玉川温泉です。
岸田 玉川温泉といえば、がん患者さんがよく訪れることで有名ですよね。科学的根拠はともかく、湯治として効果を期待している方が多いと聞きます。
高田 私もその一人でした。天然の岩盤浴のようで、本当に地球からの恵みを感じる場所でした。まるで天国のようでした。
岸田 どのくらい滞在されたんですか?
高田 2泊3日で、昨年は2回行きました。
岸田 長期で滞在される方は何ヶ月もいるそうですね。
高田 そうみたいですね。自炊をしながら滞在されている方もいらっしゃいました。
岸田 ありがとうございます。では、改めて右側のギターの写真について。
高田 最近はエレキギターも弾くようになりました。
岸田 ウクレレからエレキギターへ!?なかなか聞かないパターンですね。
高田 エレキギターを弾くおばさんって、珍しいですよね(笑)。
岸田 いや、ほんとに“おばさま”のロック魂、すごいです(笑)。新しいことにどんどんチャレンジされていて本当に素敵です。コメントも届いてますよ。「ウィッグすごく素敵です」「推しの巡礼もアクティブですね。エレキギターも素晴らしい」とのことです。
高田 ありがとうございます!
岸田 今はエレキギターでどんな練習をされているんですか?
高田 今は、いろんなかっこいいストロークの弾き方を教わっています。
岸田 すごいなぁ。僕なんてCコードくらいしか弾けなくて、Fコードになると指が絡まってしまうタイプです(笑)。
岸田 では、このあとはいくつかの項目に分けて、どんどん質問させていただきますので、覚悟してくださいね!
高田 はい、よろしくお願いします!
『手術すれば大丈夫だよね』家族それぞれが示した愛情とサポートの形
岸田 ではここから、少し深い話をお聞きしていきたいと思います。ご家族やパートナー、お子さんとの関係についてです。がんの告知を1人で受けられたということでしたが、その後、どのようにご家族に伝え、どのようなサポートを受けたのか。逆に「こうしてほしかったな」と思ったことなどがあれば教えてください。まずはご両親のことからお伺いしてもいいですか?
高田 はい。両親はすでに他界していたので、そこは私にとって少し安心できる部分でした。もし生きていたら、すごく心配をかけてしまっていたと思うので……亡くなったあとでよかった、と正直思いました。
岸田 なるほど。では、パートナーやお子さんには、どのように伝えられたんでしょうか?
高田 告知を受けたその日に、それぞれにLINEで「大腸がんになっちゃったよ」と送ったんです。
岸田 LINEで!? 高田さんだったら、面と向かって言いそうなイメージがあったので意外です。でも、家族LINEじゃなくて、それぞれ個別に?
高田 はい、別々に送りました。
岸田 みなさんの反応は覚えていますか?
高田 あまり細かくは覚えていないのですが、「手術すれば大丈夫だよね」といった返信があったと思います。
岸田 それぞれ、落ち着いて対応されたんですね。LINEでさらっと告げられても、きっと驚かれたでしょうけれど。その後のご家族の関係性としては、特に変わったり、気を遣われるようなことはありましたか?
高田 驚いたとは思いますが、特に腫れ物に触るような感じではなく、自然に接してくれました。特に息子はすぐに病気のことをインターネットで調べたり、病院の情報を探したりしてくれて、いろいろ協力してくれました。
岸田 当時、息子さんはおいくつくらいでしたか?
高田 27か28歳だったと思います。
岸田 頼もしいですね。しっかり調べて、支えてくれたと。ところで……旦那さんの話が今まで出てきてない気がするんですが(笑)。
高田 あぁ、そうですね(笑)。夫は、そのときは「へえ」みたいな感じで。あまり感情を表に出すタイプじゃないんです。
岸田 気づかないうちに、いろんなサポートをしてくれてたのかもしれませんね。ご家族からのサポートで、特に「これはうれしかったな」ということはありますか?
高田 息子は、私が入院していたとき、仕事のあと毎日必ず面会に来てくれたんです。夜、欠かさずです。
岸田 それは素晴らしい! すごく優しい息子さんですね。
高田 同室のおばあさんに「まぁ、旦那さん?」と勘違いされて、本人がものすごく怒っていたのが面白くて(笑)。いまだにその話をすると怒ります。
岸田 息子さん、完全に“おちゃめな勘違い”の被害者ですね(笑)。
高田 夫はというと、手術の翌日にお見舞いに来てくれました。ちょうど私が術後の吐き気でぐったりしていて、看護師さんに叱られていたところを目撃されちゃって……それ以来、「看護師さんに怒られてたね」って、笑い話にされてます(笑)。
岸田 旦那さん、ナイスキャラですね(笑)。
高田 でも今では、月2回の通院にも休みを取って毎回付き添ってくれています。もう3年、欠かさず一緒に来てくれてるんです。
岸田 それは本当にありがたいですね。
高田 温泉に連れて行ってくれるのも夫なんですよ。
『働くなってことだな』―がん告知で退職決断、制度活用で生活を支える
岸田 では次に、お仕事についてお伺いしたいと思います。たしか、がんが発覚したのは、看護学校で教員をされていたときでしたよね?
高田 はい、そうです。
岸田 そこからお仕事はどうされたんですか?
高田 自分ががんになったことで、とても仕事と両立できる状態ではないと思いました。実はがんになる前から「仕事がきついな」「そろそろ辞めようかな」とは感じていたので、病気をきっかけに退職を決断しました。
岸田 辞める際には、上司や学校長に「がんで辞めます」とお伝えされたと思いますが、職場の反応はどうでしたか?
高田 みなさん、やっぱり驚かれていましたが、「あなたが納得できるようにしていいよ」と、温かく送り出してくれました。
岸田 なるほど。特に未練はなく、気持ちよく辞められたということですね。
高田 はい。私にはとても両立できる仕事ではないと思ったので、すっぱり辞めました。
岸田 人によっては仕事を続ける方もいますが、高田さんの場合は「辞める」という選択だったと。そして、その後のお金や保険のことですが、どうされたんですか?
高田 まずは「傷病手当金」を1年半ほど受け取りました。その後、「失業保険」も半年くらいもらいました。
岸田 失業保険ですね。
高田 はい。でも、私の場合、働こうとすると不思議と再発するんです。手術して半年経って「働けるかな」と思ったら再発して……また治療が落ち着いて「働けるかな」と思ったら今度は卵巣に転移していて。これはもう「働くなってことだな」と思いました(笑)。それで障害年金の手続きをして、現在はそちらもいただいています。
岸田 障害年金、今は何級ですか?
高田 3級です。
岸田 そうやっていろいろな制度を活用しながら生活を工面されたんですね。ちなみに保険には入ってました?
高田 入ってはいたんですが、がん保険には入っていなかったんです。医療保険で入院特約や手術給付金が付いていたので、それで多少は助かりました。
岸田 「多少」ということは、すごく大きく助かったわけではないんですね。
高田 はい。これをご覧になっている方の中には、まだがんになっていない方も多いと思いますが、がん保険には本当に入っておいたほうがいいです。がんは突然やってきますから。
岸田 皆さん、念のためお伝えしておきますが、高田さんは保険の営業ではありません(笑)。
高田 はい、私、何の回し者でもありません(笑)。実体験として、そう感じたということです。
岸田 ちなみに、医療保険でどれくらい支給されたんですか? 数十万円くらい?
高田 入院特約で1日5,000円、手術給付金は1回につき2万5,000円〜5万円くらいだったと思います。
岸田 なるほど。だから「多少助かった」という表現だったんですね。実際の治療費や生活費は、傷病手当や失業保険、障害年金などで支えていたと。そして、これだけ多くの治療をされてきたわけですが、トータルの治療費はどのくらいかかりましたか?
高田 正直、トータルで計算したことはないんです。
岸田 イメージでも大丈夫です。毎月の支払いベースだと?
高田 今は「限度額適用認定証」を使っているので、自己負担が抑えられています。
岸田 それで毎月の上限が大体4万4,000円くらい?
高田 私はもう少し少ないです。
岸田 なるほど。でも、それがずっと続いているということですよね。ありがとうございます。
92回の抗がん剤を支えた『先にある楽しみ』痛みの先の解放感という発想転換
岸田 次に、辛いことや克服についてお伺いしたいと思います。高田さんが精神的や肉体的に特につらかったとき、どのようにそれを乗り越えてこられたか教えていただけますか。
高田 肉体的につらいのは、これからのほうが大変だと思っています。病状が悪化していくと、もっとつらい症状が出てくるのかなと。手術後はもちろんつらかったのですが、特にイリノテカンの初回のときに、これまで経験したことがないほどの強い腹痛がありました。入院中で、あの痛みは相当でしたね。でも、お薬を使ってもらって症状は改善しました。
そのときに感じたのは、あの痛みが消えたときの解放感や気持ちよさです。あの痛みがあったからこそ、その解放感を味わえたんじゃないかと思うこともありました。つまり、つらい経験の先にある「抜け出したときの気持ちよさ」のために、痛みを乗り越えているのかな、と。
岸田 まるでドMの発想みたいですね。それで大丈夫ですか?
高田 大丈夫です(笑)。
岸田 その開放感を味わうために、あのつらさを耐えていると思っていたと。
高田 そうですね。
岸田 それはすごいですね。あと抗がん剤は何回くらい受けているんですか?
高田 私、今までに92回受けています。
岸田 92回!?
高田 はい。数えてみたらそうでした。もしかしたらもう少し多いかもしれません。抗がん剤の副作用はとてもつらいとよく聞きますし、「あんなにつらいなら死んだほうがまし」という話も時々聞きます。でも私は、抗がん剤の先にある楽しみを考えていました。
例えば、「抗がん剤の後には合唱の練習がある」「サポートがある」「ギターのレッスンがある」など、そういった楽しみを思い描きながら治療に臨んでいたので、副作用のつらさよりも先にある喜びのほうが大きかったんです。だからこそ92回も続けてこれたのだと思います。
岸田 抗がん剤の先にある目標や希望を支えにして、乗り越えてこられたんですね。それは本当に大切なことだと思います。ありがとうございます。
では次に、高田さんの後遺症についても伺いたいのですが。92回も抗がん剤を受け、手術も経験されて、さまざまな後遺症があると思います。今現在、どのような後遺症がありますか?
大腸半分切除でも『全く不具合なし』人間の体の素晴らしさを実感した後遺症体験
高田 手術の後遺症は全くありません。本当に人間の体ってよくできているなと思います。私、大腸の半分がなくなっているんですけれど、それでも何の不具合もなく普通に生活できています。
ただ、後遺症としては、オキサリプラチンという抗がん剤のしびれが有名で、それが足の指先に残っています。長時間立っているとしびれが強くなって、足の感覚がなくなったりするんです。でもオキサリプラチンのしびれは取れにくいらしく、私は9回の治療でやめてもらいました。
ただ、しびれを我慢して治療を続ける患者さんもいると先生から聞きました。あまり我慢しすぎないほうがいいかもしれませんね。
岸田 高田さんは我慢せずにやめられたんですね。
高田 先生が9回でやめようと言ってくれたので助かりました。しびれで歩けないとか日常生活に支障が出るほどではなかったです。
あとはアピアランスの問題、脱毛ですね。まつげが抜けたり眉毛が半分なくなったり。
岸田 そうなんですね。メイク道具でカバーされている感じですか?
高田 眉は描きますけど、まつげは指の動きが悪くてつけまつげを付ける勇気がなくて。しかも外れてしまったら笑われそうで怖いですね。
岸田 確かにそれは周りも困っちゃいますよね。ちなみに足先のしびれでつまずいたりはしますか?
高田 気をつけないといけません。私はもともと転びやすいタイプなんですけど、しびれもあって転びやすくなっています。
岸田 そうなんですね。コメントで「大腸が半分の状態で生活上不便なことはありますか?」という質問が来ていますが。
高田 全くないです。
岸田 便通は普通ですか?
高田 普通ですね。抗がん剤で一時的に下痢になることはありますが。
大腸がんは便が細くなることが多いんです。腫瘍で大腸が細くなってしまうので、私も発症前は便が細かったと思います。手術後に腸の機能が落ち着いて、普通の便が出るようになったときは驚きました。
岸田 細い便に慣れてしまっていたんですね。
高田 はい。だから便通はよく観察したほうがいいですよ。
岸田 なるほど。横行結腸と上行結腸を切って、下行結腸が残っているので肛門にはつながっているということですね。腸閉塞(イレウス)はなかったですか?
高田 一度もありません。本当にありがたいことです。
岸田 素晴らしいですね。Mさんという方から「とてもアクティブに過ごされていて素敵です。先生らしい時間をこれからも過ごしてください」とのコメントも届いています。
高田 ありがとうございます。Mさんはもしかしたら卒業生かもしれません。
岸田 そうなんですね。慕われているんですね。素敵です。
『あなたでよかった』と思われるスタッフに 医療者育成者が伝える感謝と要望
岸田 そして次は医療者へです。高田さんは医療者を育てる立場でもあり、ご自身ががんを経験してから感じたこと、医療者に伝えたい「ありがとう」や「こうしてほしかったな」といったことはありますか?
高田 手術室の看護師さんたちは本当に親切で優しく、安心して手術を受けられました。手術室の看護師さんには感謝の気持ちを直接伝えられていなかったので、この場でお伝えしたいです。
また、手術後も素晴らしい看護ケアを受けられて、安心して入院生活を送り、回復できました。2回目の手術の時は吐き気が全くなかったので、麻酔科の先生にもとても感謝しています。
大腸の主治医には2回も手術をしていただき、ドクターにも感謝しています。
手術後はおなかが空っぽの状態で何日も禁食でしたが、その後に出される食事が本当に美味しくて。がん専門病院の食事は美味しくて、おかゆなんて大好きになるくらいでした。
その栄養が体に染み渡り、日に日に元気に回復していけたので、栄養科の皆さんにも本当に感謝しています。
さらに、病院で生活を支えてくれる看護助手さんや清掃スタッフさん、お薬の説明を丁寧にしてくれた薬剤師さんなど、医療従事者への感謝は医師や看護師に偏りがちですが、私は全ての医療スタッフに感謝の気持ちでいっぱいです。
こんなに感謝される仕事って、とても価値があるものだと思っています。要望もあるんですが、長くなってすみません。
岸田 感謝のお話を先に聞けて嬉しいです。手術室の看護師さんにはお礼を言われる機会が少ないですし、看護助手さんのことまで考えられているのはさすがですね。ベッドメイキングやその他いろいろやってくださる看護助手さんにまで目が届いているのはすごいです。栄養士さんへの感謝も、本当に先生らしいです。
本当に医師や病棟の看護師さんに感謝が集中しがちですが、薬を作る薬剤師さんや清掃スタッフさんなど、病院で支えてくれる全員に感謝することは大事ですよね。
『病院の看護師さんも「看護師の先生」と聞くと緊張感があったかも』『職業を聞いていたら対応が違ったかも』というコメントもありますし、『うちの母が看護助手でした』という声もいただいています。
では要望はありますか?
高田 患者は担当の医師や看護師を選べませんよね。本当に「あなたでよかった」と思われるようなスタッフになってほしいです。当たり外れがなく、どの患者さんにも同じ質の対応をしてほしいと思います。
岸田 当たり外れ、ありますよね。私も分かります。皆さんが皆さんらしく使命を持って取り組んでいただければ大丈夫だと思います。ありがとうございます。
それでは次、いつもしないことに挑戦してみたいと思います。死生観についてです。
高田さんは余命2年の宣告を受け、今もステージⅣで、治る見込みは難しい状況ですよね。
高田 はい。
『明日死んでも悔いのない日』を心がけて 死への恐怖から解放感への転換
岸田 今の考えや、がんと宣告された当時の気持ちなど、死生観についてお聞きしたいと思います。高田さんは死についてどう感じ、どう考えていらっしゃいますか?
高田 私は職業柄、死はとても身近な存在でしたが、自分の死についてはあまり考えていませんでした。どこか遠いものだと思っていたんです。
しかし、がんと診断されて、その遠かった死が急にすぐ近くにやってきて、とても恐怖を感じました。
職業柄、死を理解しているつもりでしたが、自分の身に起こると本当に怖くてたまらなかったです。再発を何度か経験するたびに、その恐怖を繰り返し感じました。
今は、死はがんの痛みやつらさ、恐怖から解放されるものであり、むしろその時に楽になれると考えています。だから、死をそんなに恐れる必要はないのではないかと思うようになりました。
死を恐れすぎると、生きることができなくなると思います。何より「生きていること」が大切で、限られた時間の中で死があるからこそ、生きることが輝くのだとも感じています。今のところ、そういう死生観です。
岸田 死を意識するからこそ、今の生活が輝いているということですね。高田さんはいろいろなことにチャレンジされて、ウクレレやギター、合唱団などもされています。
一番死を強く意識されたのは、初めてがんと宣告されたときですか?
高田 はい。
岸田 そのときはがん=死と思ったとおっしゃっていましたね。再発したときはそれほど考えなくなったと。
高田 そうですね。死はより現実的になってきますが、今は生きていることのほうが大切で、毎日「明日死んでも悔いのない日」を心がけています。
岸田 ありがとうございます。本当に高田さんらしい素敵な考え方だと思います。新しい薬も出て、より良い方向に向かうことを多くの人が願っていると思います。
コメントにも「高田さんの死生観は永久保存版ですね」「めっちゃ刺さりました。ありがとうございます」といただいています。
高田 ありがとうございます。
『がん=始まり』がんで得た自分のための時間と無数の夢
岸田 次は「Cancer Gift」についてお伺いします。がんになって失ったものも多かったと思いますが、逆に得たもの、得たことがあれば教えていただけますか?
高田 私は、がんになったら人生はマイナスになるものだと思っていました。いろんなものを失っていくのだと。でも、それは大きな間違いでした。
がんになったことで得られたものは、本当にたくさんあります。がんを通して出会えた方々や経験できたこと。今日のように「がんノート」に出演できたことも含めて、すべてが私にとっての「Cancer Gift」だと思っています。
「がん=死」ではなく、「がん=始まり」。そこから始まる経験の中で、今こうして健康に生活できていること。命の期限があるからこそ見えた自然の美しさや、人の優しさへの感謝。今を大切に生きることの大切さ。日常がどれほどありがたいものか、心から感じられるようになりました。
それから、自分の人生を「自分のために生きられる時間」になったことも大きいですね。ある方が、「“ありがたい”というのは“難”があるから“有り難い”。何もなければ“無難”な人生。難があるからこそありがたい人生になるんだ」と教えてくれたんです。その通りだと思っています。だから、すべてが私にとってのCancer Giftなんです。
岸田 Cancer Gift。高田さんの言葉は、本当に心に響きますね。さっき「永久保存版」ってコメントもありましたけど、「高田さんだからこそ言える言葉だ」と、たくさんの方が感じていると思います。
Wさんからもこんなメッセージをいただいてます。
「先生の生徒として看護観を学び、またこのような形で先生のお話を聞き、人生について、看護について、生き方について深く考えさせられました。高田先生は永久に私の先生です。これからも応援しています。」
高田 ありがとう……泣けます……。
岸田 泣けますね、これは……。
高田 本当にありがたいです。
岸田 あとで画面に涙のエフェクト付けときますね(笑)。
高田 ありがとうございます(笑)。
夢
岸田 さて、次は「夢」について伺いたいと思います。高田さんの今後の夢、どんなことを考えていらっしゃいますか?
高田 「明日死んでも悔いはない」と言いながらも、実は夢はたくさんあるんです(笑)。
まず一番の夢は、新薬や新しい治療法が開発されて、がんが治るようになること。そして、3年後のWBC(ワールド・ベースボール・クラシック)を見ること。
岸田 意外とミーハーですね(笑)。
高田 それから、パリオリンピックを見ること(笑)。
岸田 いいですねぇ。
高田 あとは、ギターの先生と舞台で共演すること。
岸田 ちなみにそのギターの先生は推しではないんですよね?
高田 はい、違います(笑)。
岸田 じゃあ別枠の夢ということで(笑)。
高田 そうです。あと、ウクレレのオファーが来ることとか、看護学生の「受け持ち患者さん」になることも夢です。
岸田 受け持ち患者さん、いいですね。今の病院ではそういう機会はあまりないんですか?
高田 治療室には学生さん、来ないんですよ。なので、どこかの先生、もし見ていたらぜひ計画してください! 私、待ってます(笑)。
あとは、私の経験が誰かの役に立ってくれること。それが何よりの願いです。夢はたくさんありますね。
岸田 「欲張りでいきましょう」というコメントもいただいていますよ。
Pさんからは、「私も生死に関わる職業です。高田さんのお話、すべてに納得・共感です」とも。
WBCもパリオリンピックも、全部見ましょう。むしろ、パリに行ってるかもしれませんね。そういえば最近、どこか旅行に行かれましたか?
高田 最近では、2月に福島、1月には函館に行きました。
岸田 函館でしたか。いろいろと旅もされていて、素晴らしいです。夢、ぜひ全部叶えてください。本当に応援しています。ありがとうございます。
『本当に濃い6年間』上向きのペイシェントジャーニーを振り返って
岸田 それでは次のテーマ、「ペイシェントジャーニー」に進みたいと思います。患者さんの旅路という意味で、ここまでさまざまな経験をされてきた高田さんの歩みをご紹介させていただきます。
こちらが高田さんのペイシェントジャーニーです。画面に映っている図は、時系列に沿って出来事が並んでいて、上がポジティブな感情、下がネガティブな感情を表すような構成になっています。
はじまりは、職場での卒業式の直後。排便後に少量の出血があり、健康診断では異常なしとされたものの、大腸内視鏡検査でがんと診断されました。
その後、がん専門病院で手術を受け、薬物療法を開始。副作用などで挫折を経験しつつも、患者会に参加し、気持ちが上向いていきます。しかし再び再発・転移が見つかり、腹膜への転移では「何もしなければ余命2年」と告げられます。そこからセカンドオピニオンを受け、新たな薬物療法を開始。地元の病院へ転院し、合唱団へ入団。ウクレレやギターのレッスンを始めるなど、音楽の世界にも広がっていきます。
一時的に休薬して、宮古島で息子さんの結婚式にも出席。その後、卵巣への再発が判明し、再手術と薬物療法を受けました。
高田 この2度目の手術は、本当に卵巣が破裂寸前だったので、手術を受けられたことがありがたく、感謝の気持ちでいっぱいでした。
岸田 ありがとうございます。そしてその後、「余命2年」を乗り越え、推しのライブに参加。薬の副作用で体調が悪化し、薬の変更をしながらも、現在は活動的な毎日を送っていらっしゃいます。
改めて、高田さん、この6年間のペイシェントジャーニーを振り返って、今どんなお気持ちですか?
高田 本当に濃い6年間を過ごしてきたなと、つくづく感じています。
岸田 濃いですね。今が上向きというのは素晴らしいですし、高田さんが“今”を本当に楽しんでいらっしゃるのが伝わってきます。
延命でなく『今を生きるため』の治療 92回の抗がん剤で得た幸せな人生観
岸田 ここで最後に、この言葉をいただきたいと思います。
「今、闘病中のあなたへ」
高田さんから、こちらの言葉をいただいています。読み上げていただき、思いをお聞かせいただけますか?
高田 はい。
「今を生きる。そしてチャレンジ」
病気になると、つい過去の後悔や未来の不安にとらわれがちになります。でも、今生きていることこそが、最も大切なことだと思っています。
今、生きているからこそ、いろんなことにチャレンジできる。悔いのない人生にするためにも、「今を精一杯生きる」ことが大切だと思います。
岸田 今を生きる――本当にその通りですね。高田さん自身も、まさに今を生き、チャレンジされていて。次のチャレンジ、何か考えていることはありますか?
高田 次のチャレンジは……オファー次第ですね(笑)。
岸田 なるほど(笑)。ウクレレでもギターでも、何かオファーがあればすぐ挑戦されると。ちなみに体力を維持するために、ジムにも通ってるそうですね?
高田 毎日ではないですが、行けるときは通っています。
岸田 体力維持をしながら、毎日チャレンジしていく。その姿勢が本当に素敵です。
そして最後に、もう一つ伝えたいことがあるとおっしゃっていましたね。
高田 はい。私はこれまで抗がん剤治療を92回受けてきましたが、それは「延命のため」ではなく、「今を生きるため」の治療だと思っています。
副作用のつらさよりも、「今を生きている喜び」のほうがずっと大きい。だから、耐えられているんです。病気であっても、私は“幸せな人”でいたいと思っています。
そして、今病気でない方々には、ぜひお願いしたいことがあります。
検診を受けてください。
体調に異変があれば、必ず病院で検査を受けてください。
そして、がん保険に入っておいてください。
がんは、誰にでも起こりうることです。備えがあるとないとでは、その後の人生が大きく変わります。
6年間、がんと向き合ってきた私からの、心からのお願いです。
岸田 ありがとうございます。本当に深いお言葉でした。「今を生きるための治療」――それがどれほど大切な考え方か、痛感しました。
今日、高田さんからいただいた数々の言葉、どれも本当に貴重でした。今後もまた、Nightなどでお話をうかがえたらうれしいです。
高田 そのようなお話があれば、ぜひまた出演させていただきたいです。よろしくお願いします。
※この配信は患者さんの経験談に基づいています。情報が美化されていたり、年月の経過で記憶があいまいになっていることもありますので、医療的な情報は主治医や信頼できる情報源をご参照ください。
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