目次
- 【オープニング】テキスト / 動画
- 【ゲスト紹介】テキスト / 動画
- 【ペイシェントジャーニー】テキスト / 動画
- 【大変だったこと→乗り越えた方法】テキスト / 動画
- 【がんの経験から学んだこと】テキスト / 動画
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インタビュアー:岸田 / ゲスト:矢作
【オープニング】
岸田 がんノートminiスタートいたしました。きょうのゲストは、矢作さんです。よろしくお願いいたします。
矢作 よろしくお願いいたします。

岸田 よろしくお願いいたします。矢作さんのご経験はとてもボリュームがあるので、さっそくプロフィールの自己紹介から入っていきたいと思います。
矢作さんは、出身は埼玉県、現在も埼玉県にお住まいです。お仕事は自営業をされているとのこと。趣味はウォーキングということで……ウォーキングは、自宅周辺の散歩というよりも、けっこう本格的に歩かれるんですか?
矢作 自宅の周りを歩くこともありますし、少し遠出して10キロ、20キロと歩くこともあります。
岸田 すごいですね。本格派のウォーキング。
そして、がんの種類は大腸がん、ステージは4。告知されたのが47歳のときで、現在は53歳とのこと。治療は薬物療法と手術を受けられたということで、そのあたりも後ほど詳しく伺っていきたいと思います。
【ペイシェントジャーニー】
岸田 そんな矢作さんのペイシェントジャーニーが、こちらになります。上に行けば行くほどハッピー、下に行けば行くほどネガティブ、といった気持ちの変動を表すグラフになっています。

岸田 そんな矢作さんが、がんを経験してどのように感情が動いたのか──それを可視化したのがペイシェントジャーニーになります。ここから、いろいろお話を伺っていきます。
まず最初は「心身ともに楽な時期」。この時期は、自由でとてもハッピーに過ごされていたと思うのですが……そこから一気に下がっていきます。検診で大腸がん発覚。がん検診を受けられたんですか?
矢作 そうなんです。川口市に住んでいるので、市のがん検診を受けたところ、陽性が出てしまって。そこから大腸カメラを受けました。
岸田 大腸カメラで発覚したんですね。見つかった瞬間のお気持ちはいかがでしたか?
矢作 大腸カメラは初めてだったんですが、ちょうど長女が医療関係の道を目指していたので、「勉強になるだろう」と思って、検査医の先生に“モニターだけ娘に見せてもらえませんか”とお願いしたんです。
そうしたら先生が気を利かせてしまいまして……カメラを入れるところから全部見せちゃったんです。
岸田 えっ……そこまで!?
矢作 そうなんです。「いや、そこまではお願いしてないんですけど……」と思いながらも、お願いしてしまった手前断れなくて。娘に全部見られてしまい、とても恥ずかしかったです。
岸田 大腸の検査は、そういうところ……(笑)。
でもそこで、がんが見つかったわけですよね。
矢作 はい。しかも、カメラを入れるときに新米の先生が担当で、とても痛かったんです。痛みで力んでしまって涙が出るくらいで……。
そうしたらベテランの先生が「力を抜くのは君だよ」と若い先生に言って交代してくださって。代わったら全然痛くなくて。その“痛みから解放された安堵”が強すぎて、がんが見つかったショックとごっちゃになってしまい……もう何が何だか分からない状態でした。
岸田 いろんな感情が一気に押し寄せてきたんですね。
ありがとうございます。
そしてその後、手術──上行・横行結腸の摘出とありますが、これはがんの部分を含めて広めに取られたんですか?
矢作 そうなんです。私は横行結腸にがんがあったんですが、「少し多めに取っておこう」ということで、上行結腸も含めて切除しました。手術後、家族が取り出された大腸を見たらしいんですけど、「こんなに取ったの?」と驚くほどで……50センチくらいあったと言っていました。
岸田 50センチ……すごい量ですね。
その手術の項目に“里子にがんを告白”とありますが、突然出てきた“里子”という言葉──どういうことなのでしょう?
矢作 私は“養育里親”をしているんです。
岸田 養育里親。すみません、あまり詳しくなくて……どういう制度なんでしょう?
矢作 一般的に知られているのは“養子縁組を目的とした里親”だと思うんですが、養育里親は戸籍上は他人のままで、実親さんに事情があって育てられないお子さんを、一時的に育てる親のことです。
岸田 育ての親としてお子さんを預かって生活されているんですね。その里子さんにがんを告白されたとき──反応はいかがでしたか?
矢作 無表情でした。発達障害のある子だったので、気持ちの伝わり方がそもそも難しいところもあって……。
それに、最初は“病気のことを里子に伝えなくてもいいんじゃないか”とも思っていたんです。治ればいいし、わざわざ言わなくても、と。
でも、ネットや書籍で「親ががんになったときは、子どもにきちんと伝える必要がある」という情報を知り、それが正しいなと思って、伝えることにしました。
岸田 しっかり伝えてくださったんですね。
その後、薬物療法に入っていきます。オキサリプラチン、ゼローダ。ここで副作用にかなり苦しまれたと伺っています。どんな副作用がありましたか?
矢作 一番最初の副作用は“しゃっくり”でした。
岸田 ありますよね。しゃっくり、結構つらいやつ。
矢作 最初は副作用だとは思わなかったんですが、どんどん頻度が増えていって……最終的には10秒に1回。もう全く止まらないんです。
岸田 しゃっくりって軽視できないですよね。地味にめちゃくちゃつらい。
矢作 でも相談すると笑われてしまうんですよ。「あはは」みたいに。でも夜も止まらない。3日目、寝られない日が続いたときは、本当に“しゃっくりで死ぬかもしれない”と思って病院に行きました。
そしたら主治医が「人はしゃっくりでは死なないよ」と……いやいや、こちらは苦しいんですよ、と泣きついて、薬を処方してもらいました。少し軽くなりましたが、それでも辛かったです。
岸田 その薬は飲み薬ですか?
矢作 はい。プリンペランという薬で、胃腸の動きをよくする薬なんですが、しゃっくりにも少し効果がありました。
岸田 ありがとうございます。でも、そのあとさらに気持ちが下がっていく出来事が……“遠隔転移の発覚”。どこに転移が見つかったんですか?
矢作 薬物療法が終わった後は順調で、血液検査のマーカー値も正常だったので、主治医も安心していたんです。CT検査で異常なければ経過観察……というはずだったんですが、抗がん剤が全く効いておらず、肺と気管に遠隔転移していました。
主治医も驚いていましたし、私自身も“治ると思っていたのに……”と、かなり厳しい宣告を受けました。
岸田 それは……ショックが大きいですよね。
矢作 「この抗がん剤が効かなかったのだから、次の抗がん剤が効く保証はない。あなたの場合、緩和ケアだけという選択肢もある。来週までに、緩和ケアにするか、積極的治療にするか考えてきてください」と言われました。
岸田 それが、“次の抗がん剤選びに悩む”へとつながっていくんですね。
矢作 はい。家族から「積極的に治療してほしい」と言われたので、私も治療を受けたいと伝えたら、主治医が分子標的薬3種類、抗がん剤3種類──合わせて6種類の説明とパンフレットを渡してくれました。
その中から“一つずつ選んでください”と言われました。
岸田 それ……選べないですよね。分からないし。
矢作 本当に分からないです。「先生、どれが効くんですか?」と聞いても、「私にも分かりません。全部効くかもしれないし、全部効かないかもしれない。でも、あなた自身に選んでほしい」と。酷だなと思いながらも、自分で決めるしかありませんでした。
岸田 矢作さんは、どういう視点で選ばれたんですか?
矢作 相当悩みました。パンフレットも読み込みましたが、“薬の作用機序”は書いてあっても、“自分にどう効くか”は分からない。
3日悩んで……4日目に、もうどうしようもなくて、サイコロを振って決めました。
岸田 最終的には、人生最大の賭けみたいな感じで、一発勝負……。
岸田 そして、その一発勝負で矢作さんが選んだ治療がこちら──イリノテカン、フルオロウラシル、ベバシズマブ。
矢作 はい。FOLFIRI療法+ベバシズマブです。
岸田 これに決めた理由というのは、サイコロと……?
矢作 それに加えて、主治医がいろいろ調べてくれていたんです。ちょうどその頃出た論文で、「上行・横行結腸のがんには、こちらの治療のほうが効きやすい可能性がある」と示したものを見つけてくれて。偶然にも、その主治医の推し治療と、私のサイコロの結果が一致したんです。悩んだ分、腹が据わったというか……覚悟が決まりました。
岸田 ありがとうございます。視聴者の皆さんには、主治医としっかり話し合っていただきたいですし、また、矢作さんの治療は2016年当時のお話なので、今では治療法も情報も変わってきている可能性があります。そこは常にアップデートしていただければと思います。矢作さんの場合は、あのとき、そうした選択だったということですね。ありがとうございます。
そしてここから、気持ちが少し上向いていく……と言いたいところですが、その前にもう一段、気持ちが下がる出来事がありました。“自営業、休業”。自営業とのことですが、お仕事はどうされたんですか。
矢作 家の隣に作業場があったんですが、抗がん剤が効かなければ余命が1年ほどかもしれない──そんな説明を受けていました。そうなると、来年、自分がいなくなるかもしれない。工場の片付けを妻ひとりに任せることになってしまう。それは忍びないと思い、自分の手で片付けを進めました。
岸田 それは……本当に重い決断ですよね。
矢作 厳しかったです。抗がん剤の副作用もあって、業者にも手伝ってもらったんですが、工場が解体されていくのを見ていると、自分の存在が全否定されているような気持ちになって……布団にくるまって、心がついていきませんでした。
岸田 想像を超える苦しさだったと思います。
そんな中で、気持ちが少しだけ上がる出来事がありました。“エンディングノートを書く”。これは、とても大きなテーマですよね。どういう思いで書かれたのでしょうか。
矢作 私の父がほとんど“突然死”だったんです。昼間に具合が悪くなって、その日のうちに亡くなってしまいました。
親が突然いなくなると、本当にいろいろな面で大変なんです。生活も、仕事も。だから、家族に同じ思いをさせたくない……そう思って、エンディングノートを書こうとしました。
でも、市販のエンディングノートって、お金のことばかりなんですよね。
岸田 そうなんですか。
矢作 そうなんですよ。「自分の気持ち」を書く欄はあまりない。だったら市販のものに頼らず、普通のノートに、自分の思い出や、家族に伝えたいことを、とりとめもなく書いていこうと思いました。そして書いていく中で、ある“気付き”があったんです。里親が子どもに血縁関係がないことを伝える――“真実告知”と呼ばれる場面があるんですが、子どもの過去を肯定して伝えることで、子どもは未来へ進んでいける。それは、エンディングノートにも通じるところがあって。自分の過去を肯定しながら文字にしていくと、「これからの時間をどう生きたいか」が、少しずつ見えてくる。それがすごく救いになりましたし、心の支えになりました。ありがたい時間でした。
岸田 エンディングノートに、そんな深い意味が……。すごく大切な視点ですね。ありがとうございます。
そしてその後、大きく上がっていきます。“CT検査、効果あり”。抗がん剤が効いたということですか。
矢作 抗がん剤を始めて1年ほど経ったとき、初めて“効いている”という結果が出ました。本当に嬉しかったです。「もう少し生きられる」と思えました。
岸田 それは、心強い結果でしたね。そしてさらに、ここからまた上がっていく出来事がありました。“里子さんの励まし”。これはどんな励ましだったのでしょうか。
矢作 ちょうど抗がん剤の副作用で吐き気に苦しんでいたときのことです。発達に課題のある里子が、駆け寄ってきて「いいんだよ」と言ったんです。“何がいいんだろう?”と思ったら──「生きてるだけで、いいんだよ」って。
岸田 ……その言葉は、すごいですね。
矢作 子どもには、がんに関する三つの真実を伝えていたんです。“これはがんなんだ(キャンサー)”、“うつらない(ノットキャッチ)”、“誰のせいでもない(ノットコースト)”。伝えたとき、理解してるのかしてないのか分からない表情をしていましたが……そのとき、「うつらないんだよね、大腸がんなんでしょう?」と、自分の言葉で理解して話してくれたんです。そして、「生きてるだけでいいんだよ」。れを聞いた瞬間、もう号泣してしまいました。
岸田 本当に……胸に来る言葉ですね。無理に励ますのではなく、自分の言葉で、理解した上で伝えてくれる。その存在自体が、支えになったんだろうなと感じます。
矢作 本当に、嬉しかったです。
岸田 そんな中で、ここから少し気持ちが下がっています。“里子のがん教育の必要性を訴える”。一見すると良いことにも思えますが、どういった背景があったのでしょうか。
矢作 子どもに病気のことを“伝える大切さ”を、里子との経験から強く実感したんです。だから、ほかの里親さんにも「隠すのではなく、ちゃんと伝えることが大事なんだ」と知ってほしくて、養護施設の先生方にもお話ししました。すると先生方から、「とても良いことですよ」と言われました。
というのも、施設で暮らす子どもたちは、“具合の悪い大人”を見る機会がほとんどないんですよね。職員の方が風邪をひいても、施設を休まれる。すると子どもたちは“大人はいつも元気だ”と勘違いしてしまうんです。
それに比べて、里親家庭では、里親が体調を崩す姿も自然に目に入る。そうすると、子どもの中に「大丈夫?」「助けたい」という優しい気持ちが育まれていくんです。
先生方に「家庭は、子どもの優しさが育つ場として素晴らしいですよ」と励ましていただきました。だからこそ私は、里親家庭でのがん教育の必要性を伝えたかった。でも、当時はまだ“そんなもの必要ないよ”と、経験豊富な里親さんにも言われてしまいました。
その後も機会があるたびに伝えましたが、なかなか受け入れてもらえず……。そういう“思いが届かないつらさ”が、このグラフの下がりに出ているんだと思います。
岸田 そうだったんですね……。とても大切な視点なのに、なかなか届かない。胸が痛むお話です。しかし、その後、気持ちがまた上向いていきます。“患者会の参加”、そして“がん・ピア・サポーター講座”。いよいよ次の段階に進んでいかれたんですね。患者会はどのように知り、参加されたんですか?
矢作 里親仲間にはうまく伝えられなかったので、「同じがん患者さんに聞いたらどうなんだろう」と思って参加したのがきっかけでした。里親というテーマは患者会ではあまり話題にはなりませんでしたが、さまざまながん種の悩みがあり、大腸がんの中でも結腸がんと直腸がんでは治療が違うことなど、たくさんのことを学びました。
岸田 そして“ピア・サポーター講座”も受講されたんですね。
矢作 そうなんです。でも、埼玉県にはピア・サポーターの養成講座がなくて……。当時まだ抗がん剤治療も続いていましたし、「来年は自分にはないかもしれない」と思い、最短で受けられる場所を探したら京都府でした。京都府に電話したら「休まず通えるなら大丈夫ですよ」と言ってもらえたので、京都府の税金で受講させていただきました。京都府の皆さん、本当に感謝しています。
岸田 休まずということは、何日間か受講があるんですか。
矢作 週に一度、3日間の講座でした。そのために1週間おきに京都へ通いました。
岸田 それは……すごい行動力ですね。そして、その後“治療の休止”。これは、良い意味での「休止」なんですね。
矢作 そうなんです。主治医からは「抗がん剤は効いても耐性がつくから、一喜一憂しないほうがいい」と言われていて、自分もそう思っていました。がんは順調に小さくなっていて、CTでも“見えにくくなってきたね”という結果が出ていました。でも、副作用が本当につらかった……。それで「一度休ませてほしい」とお願いしたんです。
主治医には「あなたの状態なら続けるのが普通ですよ」と言われましたが、「再発したらまた始めればいい。今は少し休みたい」と伝え、認めてもらえた。治療を休めたことが、本当に嬉しかったです。
岸田 体調も気持ちも大切ですからね。主治医と納得したうえでの休止なら、とても大事な選択だと思います。
そして“障害年金の受給”という出来事もありますが、これは受給できたということですね。
矢作 はい。患者会で障害年金の存在を知り、社会保険労務士さんにお願いして申請しました。おかげで受給に至りましたが……その過程ではショックなことも多かったです。医師が書く診断書は“受給可能なレベル”に合わせて書かれるので、「自分はこんなに悪い状態なのか」と突きつけられるようで落ち込みました。年金機構からは追加の書類や確認事項が次々と来る。それに対して社労士さんが丁寧に対応してくれたおかげで、なんとか受給できました。お金が入ってきたときは、本当にありがたかったです。
岸田 そしてCNJさんの“がんナビゲーター講座”も受講され、その後、“教師向けの小学校でのがん教育”へとつながっていきます。しかしグラフは下がっています。これはどういった背景があったのでしょうか。
矢作 はっきり申し上げて、小学校でのがん教育は“うまくいかなかった”というのが正直なところです。娘が小学校に通っていた頃で、私ががんに罹患したことを学年主任の先生に伝え、娘に何か変わった様子があれば教えてほしいとお願いしていました。
ちょうど学校でも「がん教育をどう進めるか」という時期で、学年主任の先生が私を推薦してくださり、「やってみましょう」という流れになりました。
ただ、私自身“がん教育とはどう進めるものなのか”が分からず、当時所属していた患者会の仲間と一緒に授業を行ったのですが、正しく伝わらなかった部分がありました。
たとえば、“拠点病院”や“標準治療”という大事な言葉を伝えたつもりだったのに、子どもたちの感想文にはその言葉が一つも出てこなかったんです。そこで、私が通っている川口市立医療センターのがん相談支援センター室長さんと相談し、理解を助けるプリントを作り、訂正を行いました。
「伝えることの大切さ」を学ぶと同時に、「正しく伝える難しさ」も深く実感した出来事でした。
岸田 伝えたいことと、実際に子どもたちへ伝わることは必ずしも一致しないですよね。そして、その頃に“がん友との別れ”があったと伺っています。
矢作 はい……。かなり落ち込みました。この頃から、知り合ったがん仲間が次々と旅立ってしまい、自分が先にいくと思っていたのに、仲間のほうが先に亡くなってしまう。その悲しみが重なり、とてもつらい時期でした。
岸田 本当につらい経験ですよね。その後、“がんピアサポーター講座”も受講されたのは、さらに学びを深めるためですか。
矢作 そうです。小学校でのがん教育がうまくいかなかったこともあり、「もっと学ばなければ」と思い、NPO法人がん患者団体支援機構さんのピアサポーター養成講座を受講しました。とても勉強になりましたし、実際に病院でのピアサポート活動にも参加でき、本当に貴重な経験となりました。
岸田 そして次が“100キロ歩く”。一気にジャンルが違いますが……ウォーキングがお好きなんですよね。
矢作 そうなんです。抗がん剤の影響で膝が弱くなり、走ると翌日歩けなくなるほど痛むようになってしまいました。でも、“歩く”分には問題なくて。ふさぎ込んでいた私を励まそうと、妻が100キロウォークのイベントを探してきてくれたんです。
小田原城から国立がん研究センターの隣にある朝日新聞本社まで歩くイベントで、私はてっきり夫婦で参加するのかと思ったら、「私は出ないわよ、あなた1人で頑張って」と(笑)。驚きながらも参加しました。
歩いている最中は本当につらかったです。でも、抗がん剤のつらさとは違い、“歩けば前に進む”という分かりやすさがあって、心が救われるような感覚がありました。100キロを26時間かけて、ほぼビリでゴールしましたが、その瞬間は涙が出ました。“生きている実感”を強く感じましたね。
岸田 がんを経験したからこその重みがありますね。そして最後の“AYA世代の里親・養親にも体験談を”とは?
矢作 ずっと「里親のがん教育は必要だ」と訴えてきましたが、この時期になって、ようやく耳を傾けてくださる方が増えてきたんです。勉強を続ける中でAYA世代(思春期・若年成人)の課題について学ぶ機会も増えました。
AYA世代にも、ぜひ里親制度を知ってほしい。がんであっても、治療しながら子どもを育てる選択肢があってほしい。そう思って発信し続けています。
ちょうどコロナ禍でオンラインが普及した時期だったので、地元にとどまらず全国の皆さんとつながり、理解してくださる方も増えました。今は、同じ思いを持つ仲間たちと、里親にもがん教育を広める活動を進めています。
【大変だったこと→乗り越えた方法】

岸田 ありがとうございます。常に次へ、次へと行動を起こしてこられた矢作さんですが、ここで「ゲストエクストラ」として、矢作さんが 大変だったこと、そしてそれを どう乗り越えたか を伺っていきたいと思います。
大変だったこととしては、「命の限りを知ったこと」、そして「気持ちを理解されなかったこと」。乗り越えた方法としては、「エンディングノートを書く」「可能な限り情報を探した」と挙げていただいています。それぞれ、詳しく教えていただけますか。
矢作 病気になるまでは、“自分はずっと生きていける”という感覚を当たり前のように持っていたんです。でも余命を告げられると、本当に人間って死ぬんだなと痛感しました。そこから、自分の気持ちを周囲にどう伝えるか、残された家族のために後継者を育てなければならないのではないか……など、考えることが一気に増えていきました。精神的には、とても大変でした。
気持ちを理解されなかったこと、という点では──里親ががんになるというケースは、やはり周囲にはなじみがありません。患者会や支援団体でも、「その悩みはちょっとジャンルが違うよね」と言われてしまうことが多かったです。
岸田 ジャンルが違う、というのは……どなたに言われるんですか?
矢作 がん患者の仲間や、支援団体の方々ですね。専門家の方からも、「里親の問題と、がんの問題は別のジャンルだよね」と言われることがありました。
そう言われてしまうと、「じゃあ自分の悩みはどこで話せばいいのだろう」と感じてしまって。
岸田 それをどう乗り越えていったのでしょうか。やはり “情報を探すこと” が大きかったんですか?
矢作 そうですね。とにかく、考えられる限りの情報を探しました。ただ、探してもほとんど見つからない。里親をしながらがんを経験した方は確かにいるのですが、皆さん情報発信まではしていないんです。
「どうすればいいのか」と思ったときに、最終的には “自分が発信するしかない” という答えに行き着きました。
ただ、養育里親には情報発信に制約があるんです。実親さんが “自分の子どもを取られたのでは” と誤解してしまうリスクもあります。だから、発信する際には細心の注意が必要です。
でも私は、きちんと背景や意図を説明し、誤解のないように丁寧に発信すれば、里親にも、がんにも理解が広がっていくのではないか。そう信じて取り組んでいます。
【がんの経験から学んだこと】

岸田 ありがとうございます。そして、そんな矢作さんが “がん経験から学んだこと” として挙げてくださったのが、こちらの三つです。
「生きてるだけでいいんだよ」
「四十にして、囲わず──枠組みを超える大切さ」
「他人が言う限界を超えろ」
それぞれについて、お話しいただけますか。
矢作 はい。まず「生きてるだけでいいんだよ」ですが、これは里子ちゃんに言われた言葉なんです。私自身、治療が進むにつれてできないことが増え、しゃっくりが止まらなかったり、手がしびれたり……どんどん落ち込んで、自分の価値が下がっていくように感じていました。そんなときに、「生きてるだけでいいんだよ」と言ってくれた。その言葉に、本当に救われました。子どもに、心から感謝しています。
次に「四十にして、囲わず」。孔子の言葉で「四十にして惑わず」が有名ですが、金田一秀穂先生の講演で、“当時は『惑う』という字がなく、本来は『囲わず』だったのでは” という話を聞いたんです。四十歳になると物事の常識が分かってくるけれど、その枠にとらわれず、枠を越えていくことが大切なんだ──という意味だそうです。私自身、がんと里親という二つの枠のど真ん中にいて、理解者が得られない時期がありました。でも、その枠を越えて情報発信し、理解してくれる人を探していくことの大切さを、強く学びました。
三つ目の「他人が言う限界を超えろ」。これも “枠を越える” こととつながっています。医療者でもないあなたが情報発信していいのか、と言われたこともあります。でも、私には私が直面している問題がある。例えば、LGBTの方やAYA世代の方にも、それぞれ本人にしか語れない悩みがある。それを「そんなもの」と片付けず、蓋をせず、自分の言葉で発信し、理解を求めていくことが大切なんだと思っています。
岸田 ありがとうございます。本当に、課題というのはいろいろな形で存在して、一見違うように見えるものの中にも共通点がありますよね。「生きてるだけでいいんだよ」という言葉も、そして枠組みを飛び越えていく大切さも、私自身とても学びの多いお話でした。ありがとうございます。
矢作 ありがとうございます。
岸田 それでは今回のがんノートminiは、矢作さんの経験談をお届けしました。矢作さんは大腸がんステージ4を経験され、治療は今お休み中ですが、まだいろいろな不安や恐怖とも向き合っておられる中で、ご出演いただき、本当にありがとうございました。
矢作 ありがとうございました。
※本ページは、経験者の体験談を扱っております。治療法や副作用などには個人差がございますので、医療情報に関しましては主治医や、かかりつけの病院へご相談、また科学的根拠に基づいたWebページや情報サイトを参照してください。
*がん経験談動画、及び音声データなどの無断転用、無断使用、商用利用をお断りしております。研究やその他でご利用になりたい場合は、お問い合わせまでご連絡をお願い致します。