目次
- 【オープニング】テキスト / 動画
- 【ゲスト紹介】テキスト / 動画
- 【ペイシェントジャーニー】テキスト / 動画
- 【大変だったこと→乗り越えた方法】テキスト / 動画
- 【メッセージ】テキスト / 動画
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インタビュアー:岸田 / ゲスト:松谷
【オープニング】

岸田 はい。がんノートmini、スタートしていきたいと思います。きょうのゲストは 松谷君 です。よろしくお願いします。
松谷 お願いします。
岸田 今日はがんノートminiということで、松谷さん のお話をお伺いしていきたいなということを思っているんですけれども。まず 松谷さん のゲスト紹介ということで。松谷昴星さん という、好青年になります。出身が島根、居住地も島根ということで。
岸田 お仕事は市役所の職員をされていらっしゃいます。趣味が、運動・筋トレ・洋画の映画というふうな形。かっこ洋って書いてるからには、結構何かしらのこだわりが、邦画じゃねえよみたいな感じの、こだわりがあると思うんですけれども。何かお薦めとかあったりしますか、松谷さん。
松谷 自分がよく見るのはアイアンマンとか、ああいうシリーズ。
岸田 マーベル?
松谷 とか。あとインターステラっていう宇宙系のSFとか、そっち系がすごい好きで。割と1人でも映画館に行って見たりすることが多いです。
岸田 日本の製作費じゃできへんやつね。
松谷 迫力がすごいやつを、でっかい映画館で見たいっていう感じですね。
岸田 ありがとうございます。そういう映画が好きと。運動、筋トレというところは多分後で出てくるので、そのときに分かってもらえると思います。松谷さん はリンパ腫がんの経験者で、ステージが3。28歳のときに告知され、今29歳ということは1年前ですね。告知されて、薬物療法と放射線、移植まで行っていると。
【ペイシェントジャーニー】
岸田 それではペイシェントジャーニーについて説明します。縦軸が気持ち(上がポジティブ、下がネガティブ)、横軸が時間の経過を示しており、吹き出しの色でポジティブ・ネガティブ・どちらでもない感情、さらに治療内容が色分けされていますので、こちらを参考にしながら振り返っていければと思います。

岸田 その中で、これが松谷さんのペイシェントジャーニーという形になります。なかなか、10みたいにめちゃくちゃ高い・低いがガーッと動くというより、平均マイナス2〜3あたりをいく感じですね。
松谷 そうですね。あんまり気持ちの起伏はないほうかなっていう。
岸田 それは何か理由があるんですかね。
松谷 そうですね。
岸田 ちょっとそのあたりを聞いていきたいと思うんですけれども。ではまず、2020年のところから。「社会人アスリート5年目」ということで……結構長い期間、アスリート生活をされていたんですか?
松谷 そうですね。自分で“アスリート”というのも恥ずかしいんですけど、ばりばりスポーツをしてました。
岸田 何のスポーツを?
松谷 中学校からずっと――今も現役のつもりなんですけど――陸上競技で、やり投げという種目です。
岸田 やり投げね。ピョッと投げてピョッと刺さるやつね。
松谷 そうです。実際見たらもっと迫力あると思います。
岸田 めっちゃすごいもんな、あれ。オリンピックとかで見たりします。ありがとうございます。
そんなアスリート5年目の 松谷 さんですが、ここで少し気持ちが下がっています。何かあったんでしょうか……お母さまががんになった?
松谷 はい。一昨年の9月ぐらいです。自分は当時、鹿児島で銀行の仕事をしていたんですけど、実家から連絡があって、母が貧血のような症状で倒れたと。病院で検査したら、すぐに手術という話になって、そのとき胃がんが発覚しました。
岸田 胃がんが発覚して……。そしてそこから「市役所の追加募集」があったと。
松谷 そうですね。母のがんが分かったとき、父や祖父も体調を崩していたので、地元にUターンしようと考え始めました。妻とは九州で暮らしていましたが、最終的に「帰ってあげなよ」と後押ししてくれて、島根に戻ろうと決めました。そのタイミングで、地元の市役所の追加募集が奇跡的にあって、応募したという流れです。
岸田 応募して、今の職場に至ると。そして、そのタイミングで当時お付き合いされていた彼女と結婚されたと。
松谷 はい。帰る前の3月頃に九州で結婚式を挙げました。ただコロナの影響で式を1年ほど延期していて、ようやく挙げられたんですが……母の体がしんどかったので、父と母にはオンラインで参加してもらいました。
岸田 そういう形だったんですね。ちなみに今の奥さまとは大学で知り合った?
松谷 はい、大学の同じ陸上部の同期です。
岸田 なるほど、理解も深い相手と結婚されたわけですね。そしてUターンして市役所に就職、と。
松谷 はい、1月から働いています。
岸田 このとき、まだご自身のがんの話は出ていませんが、体は元気だった?
松谷 もうバリバリ元気でした。地元に帰ってからも普通に筋トレしてましたし。
岸田 そしてその後、また下がります。お母さまが胃がんで他界されたということで……。
松谷 はい。4月半ばから最後の入院になって、看護ケアに入りました。父と2人で泊まり込み、最期まで見取りました。母が亡くなったのが、自分の誕生日の朝で……最後まで頑張ってくれたと思っています。
岸田 そしてお母さまを見送って……その後、少し上向きますが、ここで「頭痛」と「首のしこり」。体調の変化があったんですね?
松谷 そうですね。8月半ばです。トレーニング中に突然、動けないぐらいの強い頭痛がして……その日の夜に家で何気なく首を触ったら、下のほうに豆粒みたいなしこりがあったんです。ネットで調べたら「リンパのがん」ってワードが出てきて、すごく心配になって。その日のうちに地元の総合病院の夜間に行って診てもらいました。
岸田 夜間で診てもらって、どうでしたか?
松谷 そのときは一応、「月単位で様子を見たら変わってくるかもね」という感じで、気になるなら他の耳鼻科に行ってみて、と言われた程度で、すごく簡単に終わりました。
岸田 簡単に終わったんや。多分、当直の先生が耳鼻科じゃない専門やったんやろな。
松谷 そうだったと思います。
岸田 怖いなそれ……。で、そのあと地元の総合病院で検査してるけど、これはさっき緊急で行ったのとは別?
松谷 そうですね、別です。最初に夜間に行ってから、1週間たたないくらいで、左側の首――耳の下あたりがパンパンに腫れまして。顎の輪郭が見えないぐらいになって、耳鼻科に3回くらい通ったんですけど、それでも分からなくて……。ようやく紹介状を書いてもらって、9月の少し過ぎた頃に総合病院へ行き、詳しい検査を受けることになりました。
岸田 「分からなくて」っていうのは、最初の耳鼻科でも原因が分からなかった?
松谷 そうです。血液検査でも特に異常はなくて、ただ腫れがあまりにもすごいから先生も驚かれて、紹介状を書いてもらいました。
岸田 で、その紹介状を持って大学病院に行った、と。
松谷 そうです。まず地元の総合病院で生検をしました。最初は細い針で腫れている部分の細胞を採って、「1週間くらいで結果が出ます」と言われたんですが……「量が少なくて、はっきり分かりませんでした」と。
岸田 そんなことある!?
松谷 あったみたいで……。「細かいところまでは分かりませんでした」と言われました。
岸田 いやもうちょっとちゃんと取ってくれよな……!
松谷 結局ここ(首)を5センチくらい切って、手術でしっかり生検して細胞を取り、大学病院に送ることになりました。その後も、検査→結果待ち→また検査……と続いて、10月に入ってようやく本格的な治療ができる大学病院への紹介状が出た、という流れです。
岸田 ようやく大学病院に行って、そこで「悪性リンパ腫」という告知を受けたんだよね。
松谷 はい。ただ、大学病院に行った時点ではまだ“恐らく悪性リンパ腫だろう”くらいのぼんやりした段階で。とりあえず明らかに腫れているから治療を始めて、効果が出るかどうかを見ながら進めていく、という方針でした。
岸田 そんな感じやったんや……。
松谷 はい。でも治療を始めて1週間くらいで、目に見えて首の腫れが引いてきました。
岸田 それはよかった。
松谷 大学病院でも、CTを取ったり、鼻の中の粘膜をピンセットで“ぶちっ”とむしり取って検査したり……。あれも生検だと思うんですけど、そっちの細胞のほうが診断に有効かもしれないと言われ、いろんな検査をしました。入院して1週間ほど経って、ようやく病名が確定した、という感じです。

岸田 だってもう2021年の話やん? それが。
松谷 そうですね。
岸田 分からんまま治療に入っていくこともあるんやなと、改めて驚いています。さて、悪性リンパ腫の告知を受け、大学病院に移られたところが、ペイシェントジャーニーでは“ポジティブ”として記されているんですよね。これはどうしてなんでしょう?
松谷 自分が異変に気づいたのが8月の半ばで、大学病院に入ったのは10月を過ぎてからでした。はっきりするまでに1〜2カ月かかって、その間はずっと「まだかな……」という不安な時間が続いていたんです。でも、ようやく大学病院で治療が始まり、しかも1週間ほどで目に見えて効果が現れたので、「やっとスタートできた」という前向きな気持ちになれたんです。
岸田 それまでずっと不安やったけど、ようやく“治すためのスタート”が切れたと。さすがアスリートやな……いや関係ないか、ごめん(笑)。
松谷 最初に始めた治療がSMILE療法で、複数の抗がん剤の頭文字を取った名前なんです。担当の先生がこのSMILE療法の論文を書かれた方で、2014〜2015年ごろに確立された比較的新しい治療でした。僕の診断は“節外性NK/T細胞リンパ腫・鼻型”というタイプで――。
岸田 リンパ腫も種類めちゃくちゃ多いもんね。
松谷 本当に多いです。僕のはその中でも3%くらいしかない希少がんで、だから診断も時間がかかったのかなと。鼻の細胞を取ったという話も、鼻型の特徴から来ているそうです。
岸田 あ、鼻(HANA)じゃなくて鼻(鼻腔)のほうの“鼻型”ね。
松谷 そうです、そっちの鼻です。
岸田 そしてSMILE療法を始めていくわけやけど、その後は一気に下がっています。ここ、“メンタル崩壊”と書かれているけど……抗がん剤がつらかった?
松谷 実は抗がん剤そのものは、僕の場合は副作用がほとんどなくて。吐くこともありませんでしたし、体調を大きく崩すこともありませんでした。つらかったのは“メンタル”のほうで、それは3回目の入院のときでした。
10月・11月・12月と3週間ずつ入院したんですけど、同じ治療が続くので流れが読めてしまうんです。「あと2週間」「あと1週間」というカウントダウンが始まると、逆に時間が全然進まないように感じてしまって……。
岸田 分かる。終わりを意識し始めると、余計にしんどくなるよね。
松谷 はい。病室の中をうろうろしたり、寝るときに足をバタバタさせたり……。自分でもコントロールできないような、そわそわした状態になってしまいました。治療期間で一番しんどかったのは、この時期だと思います。
岸田 副作用というより、精神的な消耗が大きかったんやな。そしてそこから一気に上がるのが“退院”。
松谷 12月末に退院できました。心も体も疲れ切った状態ではありましたが、家で過ごす1カ月ほどの時間で、かなり心は回復していきました。
岸田 よかった。そしてまた上がっていくところで“末梢血幹細胞採取”と書いてある。
松谷 移植の準備ですね。血液のがんなので、血を作る元になる“末梢血幹細胞”を、先に自分の体から取り出して保存しておくんです。このあと大量の抗がん剤を使うと、白血球などがほぼゼロになるので。先に細胞を採取しておいて、治療のあとに戻す――という流れでした。
岸田 移植にはいろいろな方法があるけれど、松谷さんの場合は“自家末梢血幹細胞移植”ということですね。そしてそのあと大量化学療法。
松谷 はい。この入院は32日間でした。最初の1週間で、これまでとは別種類の強い抗がん剤を使って、全身のがん細胞を徹底的に叩く治療でした。
岸田 そして少し下がっていく部分が……ここから“移植”か。
松谷 はい。大量化学療法が終わった段階で、事前に採取していた幹細胞を戻す処置を行いました。戻すと言っても、点滴でカテーテルから入れるだけで、15分ほどで終わるものです。ただ、このあたりで大きく気持ちが落ち込んでしまって……。抗がん剤やステロイドの影響だと思うんですが、とにかく“眠れない”んです。
夜中に看護師さんが巡回してくる物音でも目が覚めてしまって、ほとんど1週間ほど眠れないような感覚でした。日中は逆に強い倦怠感があって動けないし、何をする気にもならない。そんな日が1週間以上続いて、精神的にもかなりつらかったですね。
岸田 寝られないって、メンタルにも直で来ますもんね。それは相当しんどかったでしょう……。ただ、それは時間が経てば落ち着いていった感じですか?
松谷 その頃からリハビリが始まったんです。理学療法士の方が毎朝10時頃に来てくださって、少しずつ体を動かす生活に切り替えていきました。「とにかく生活リズムを戻さなきゃ」と思い、自分でも無理やり談話室に行って作業したり、動いたりして、とにかくモチベーションを上げようとしていました。そのあたりから、少しずつ眠れるようにもなっていきましたね。
岸田 リズムを整えていったら眠りも戻ってきたわけですね。よかった。そしてその後、退院していくわけですが……ここでまた少し下がる項目が“親知らず・抜歯”。がん治療とは少し違う系統に見えるけど、これも治療の影響なんですか?
松谷 そうなんです。単純に痛いのが嫌いっていうのもあるんですけど(笑)、親知らずを残したままだと、歯の奥に菌がたまりやすくて感染の原因になるらしくて。本来は抗がん剤治療の前に抜いておく予定でした。でも、僕の場合は治療開始を急ぐ必要があったので後回しになって、このタイミングで抜歯することになりました。
この1年間の治療の中で“一、二を争ういやな処置”だったかもしれません(笑)。
岸田 痛いんやね、やっぱり。
松谷 とにかく痛かったです(笑)。
岸田 本来なら抗がん剤の前に済ませるところを、治療優先で後ろ倒しになったということですね。そして次は放射線治療。
松谷 はい。3月末から放射線が始まりました。1日10分ほどの短い治療なんですけど、平日25回当てる必要があると言われて。大学病院まで自宅から片道2時間かかるので、さすがに毎日通うのは無理だと思い、病院近くに1カ月だけ部屋を借りました。
そこから徒歩20分くらいで通院して、10分放射線を受けてまた歩いて帰る――そんな生活を1カ月ほど続けました。リハビリも兼ねていい運動にはなりましたね。
岸田 距離も時間もかかると通院費も大変ですもんね。でも「しっかりした治療を受けたい」という思いで、その選択をされたんですね。
松谷 はい、少し迷いましたが、そのほうが安心できました。
岸田 そして無事に放射線治療が終了して、通院も終わり。今は“異常なし”。いよいよ社会復帰へ向かっている、と。
松谷 そうですね。放射線が終わったのが5月で、ずっと“早く復帰したい”と思っていました。来月、6月に最後の精密検査が予定されていて、そこでも問題がなければ「完全寛解」と言われる見込みです。
ただ、まだ治療を終えたばかりなので、まずは時短勤務から復帰しつつ、少しずつ体を慣らしていければと思っています。
岸田 いや、本当にちょうど今月まで治療してたところやもんね。そんな中で――皆さん、驚かれると思いますが、松谷さんの髪、それ……ウィッグなんですよね?
松谷 はい、これウィッグです。2カ月前に買ったばかりで、まだ少し慣れていないんですが……。
岸田 いや、めちゃくちゃ自然! ほんまに分からんかった。似合ってるよ。
松谷 ありがとうございます。元々は横や後ろを刈り上げるスタイルだったので、この長さに自分が慣れてなくて(笑)。でも、人前に出るときに坊主だと抵抗があるかなと思って、ウィッグをつけています。
【大変だったこと→乗り越えた方法】
岸田 すてきですね。さて、松谷さんのペイシェントジャーニーを振り返ったところで、続いては「ゲストエクストラ」の項目についてお伺いしていきたいと思います。大変だったこと、困ったこととして挙げていただいたのは──「田舎の病院のため、なかなか検査が進まずもやもやしていた」「長期入院中のメンタル維持が難しかった」という点。そしてそれを乗り越えた方法として、「病気や制度について調べる時間にあてた」「治療終了の時期に期待しすぎないようにした」「周りから聞かれたときには“余裕だった”と言うようにした」と書いていただいています。それぞれ詳しくお聞かせいただけますか。
松谷 僕が住んでいるのは島根県の中でも特に山のほうで、本当に田舎なんです。病院の数も多くありませんし、専門的な検査がすぐにできる設備のある病院となると、どうしても遠くに行かなければならない。そのため、最初の頃は検査がなかなか進まず、「一体いつ分かるんだろう」と、ずっともやもやしていました。
ただ、待っているだけだと気持ちが落ちてしまうので、せっかくなら時間を有効に使おうと思って、自分の病気について調べたり、治療に関係する補助制度、保険の見直しなどを一つずつ確認する時間に充てました。
岸田 不安な時間を“調べる時間”にしていったということなんですね。
松谷 はい。そのほうが気が紛れましたし、知識が増えることで安心感も出てきました。
岸田 では、長期入院中のメンタルの維持については、どうやって乗り越えていったのでしょう。
松谷 一度、心がガクッと落ちた時期がありました。ちょうど「次で治療が終わるかもしれない」と期待ばかりしてしまって、逆にそれが自分を追い詰める結果になってしまったんです。
それで、「期待しすぎるのはやめて、気長に治療していこう」と考え方を変えました。そうすると、気持ちがだいぶ楽になりました。
岸田 期待しすぎないというのも、大事な視点ですよね。そして……気になるのが、“周りに聞かれたときには余裕だったと言う”という部分なんですが、これはどういうお気持ちからなのでしょう?
松谷 はい。周りの人たちは僕のことをすごく気遣ってくれて、いろいろサポートしてくれました。でも、その優しさに対して「本当はめちゃくちゃつらかった」と言うと、自分の中でその経験が“つらい思い出”として強く残ってしまいそうな気がしたんです。
だから、自分の口からは「余裕でしたよ」とあえて言うようにして、記憶を“つらいもの”にせずにおこうと意識していました。言葉の力って結構大きいので。
岸田 なるほど。“辛い経験”として刻み込まないために、あえて前向きな言葉を使っていくということですね。
松谷 そうですね。自分の中での印象を少しでも軽くしておく、という気持ちがありました。
【メッセージ】

岸田 自分の中でも大きな気付きがありましたよね。ありがとうございます。では最後に、松谷さんから視聴者の皆さんへいただいたメッセージをご紹介したいと思います。ぜひお願いいたします。
松谷 僕からのメッセージは、「最悪を想定して最善を尽くす」という言葉です。最悪のケースを一度想定しておければ、いざというときに心が大きく揺れにくくなると思っています。病気について細かいことまで知る必要はないと思いますが、万が一に備えて、最低限の準備はしておくべきだと感じました。
僕は今29歳ですが、とくに若い方には、社会に出る前の段階で、国の制度や保険、お金の知識などをしっかり学んでおいてほしいです。そうした準備ができていれば、起きてもいないことに必要以上に怯える必要もなく、安心して、より幸せに生きられると思います。
そして、僕自身はこの病気を経験しましたが、治療中のつらさは、今では本当に「他人事のよう」に感じるくらい薄れてしまっています。まして母が闘病していたときの気持ちは、今も想像しきれません。今はSNSなどで個人が自由に発信できる時代ですが、苦しんでいる人の気持ちというのは、他人が勝手に想像して語れるものではない──そのことを、この経験を通じて強く感じました。
岸田 ありがとうございます。「最悪を想定して最善を尽くす」。本当に大切なことですね。制度やサポートについても、知っているかどうかで大きく違いますよね。
松谷 はい。僕は以前の仕事柄、制度について知っていた部分もありますが、もし別の仕事をしていたら、きっと何も知らなかったと思います。
岸田 皆さんも、ぜひ松谷さんのお話のように、備えをしておくことの大切さを意識していただければと思います。
本日は、がんノートminiにご出演いただき、本当にありがとうございました。これにて松谷さんの闘病経験談を終了したいと思います。皆さん、またお会いしましょう。 松谷さん、ありがとうございました!
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