性別 | 女性 |
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がん種 | 乳がん |
治療方法 | 手術, 抗がん剤 |
ステージ | ステージllb |
罹患年齢 | 40代 |
目次
- 【発覚から告知まで】テキスト / 動画
- 【治療から現在まで】テキスト / 動画
- 【遺伝】テキスト / 動画
- 【家族(親)】テキスト / 動画
- 【家族(パートナー)】テキスト / 動画
- 【家族(子ども)】テキスト / 動画
- 【仕事】テキスト / 動画
- 【お金・保険】テキスト / 動画
- 【辛い・克服】テキスト / 動画
- 【後遺症】テキスト / 動画
- 【医療者へ】テキスト / 動画
- 【得たこと・気づいたこと】テキスト / 動画
- 【夢】テキスト / 動画
- 【 ペイシェントジャーニー】テキスト / 動画
- 【今、闘病中のあなたへ】テキスト / 動画
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インタビュアー:岸田 / ゲスト:岡崎
岸田 配信開始ということで、『がんノートorigin』スタートいたしました。変なテンションかもしんないですけども、裕子さん、めちゃくちゃ後ろのやつ、おしゃれですね。
岡崎 もうずっとこのカーテンなんですけど、オレンジ色です。
岸田 オレンジ色で。拘りがあるんですか、何か。
岡崎 何でしょう。何かあんまりお部屋、暖かい感じにしたくて、暖色のカーテンの色にしてみました。ちょっと西日が差さってて、すごい逆光ですね。すいません。お願いします。
岸田 よろしくお願いします。まあ裕子さんは、陶芸家でもあるので、そういったところのおしゃれなセンスがあるかなと思ってます。それでは、まず、がんノートの説明をちょっとさせていただければなということを思っております。
岸田 がんノートは、がん経験者さんのインタビューをインターネットで発信しております。今日は、originということで、ロングインタビュー。今日は、裕子さんをゲストに、もう根掘り葉掘り、いろんな闘病経験を聞いていければなと思っています。それが、今、闘病中の方の誰かの見通しになればなという思いで活動している次第でございます。
岸田 ではですね、私のちょっと自己紹介をさせていただけたらと思っております。私、がんノート代表理事の岸田と申します。僕は二千十、ごめんなさい、忘れた。2012年とか3年に胚細胞腫瘍というがんになりまして、首と胸とお腹にできたがんを取り除き、そして、その後、再発で精巣に、がんができて、それを摘出して、今現在に至っております。
岸田 当時の経験から患者さんの情報っていうのは大切だなという思いで、2014年から、がんノートというものをスタートして、今回が、がんノートorigin、133回だと思いますけれども、それぐらいざっとやってまいりました。がんノート代表理事をしております。今日は、よろしくお願いします。
岡崎 よろしくお願いします。
岸田 それでは、岡崎さんの自己紹介をしていただければなと思っております。こちら、ちょっと自己紹介をお願いしてもいいでしょうか。
岡崎 岡崎裕子といいます。東京都出身で、今は神奈川県に住んでいます。44歳です。乳がんステージ2Bを経験していて、発覚したのは2017年、当時、40歳の時で、術前抗がん剤と手術をして、今、経過観察中という状態です。
岸田 この中で、いろんな、もうお話を聞いていけたらと思います。まず、陶芸家っていったところは、ちょっと気になるんですけれども、陶芸家っていうのは、どんなことしてるんですか。
岡崎 陶芸家としては、まあ私、23歳から28歳まで茨城県の笠間市というところで、陶芸の修行をしていたんですけれども。それで修行が終わってから、自分で窯を持ったら、陶芸家と名乗ってよいというか。
岡崎 自分で窯焚き。でも、貸し窯で焚いてても、陶芸家の方もいるから、窯を持ってればっていうことでもないと思うんですけれど、やっぱり自分で窯を焚けて初めて、陶芸家っていうふうにいう、自称。でも、陶芸家って、自分で陶芸家ですって言ってしまえば、陶芸家みたいなことなので難しいんですけど、私の場合は、それで自分で窯を持ったのが、2007年、30歳で。
岸田 2007年。そうなん。
岡崎 うん。それで、そこから2009年に初めての個展をやって、今は展覧会を中心に活動しているっていう感じです。
岸田 そうなんですね。いや、じゃあ、もう何年経つ? 13、14年はもう。
岡崎 いやいやもう、だから、修行の時期も入れたら、12年ですね。
岸田 修行入れたらね。
岡崎 23歳の時に始めたので、今年45歳になるから、22年かな。
岸田 すげー。
岡崎 気付けば、こんなにやっております。
岸田 すごい。いや、本当、有名な陶芸家でもある岡崎さんに、今日、来ていただいて、ちょっと陶芸の授業をしていただければなと。違いますね。ごめんなさい。陶芸の授業でなく、がんの経験をちょっとお伺いしていければなということを思っています。
【発覚から告知まで】
岸田 そんな裕子さんの闘病経験、今、発覚から告知までどういうふうに進んでいったのかといったところをちょっとお伺いしていきたいなと思っています。裕子さん、発覚は、どのようにがんが発覚していったんでしょうか。
岡崎 発覚は、もう本当、ある日、ふと左胸を触ってみて、自分のしこりに気が付いたっていう感じなんですけれど、当時、私、40歳で、下の子の授乳をちょうど終えるぐらいの断乳期に入ってたので、それで、ちょっとやっぱり胸が張りやすかったので、自分の胸にお風呂に入った時に触ってみたら、すごい大きな塊が左胸に触れて、何だろう、これと思って。
岡崎 それで、ちょっと母乳が詰まって、しこりみたいになることがあるんです。それを今まで2人、子育てしている中で経験していたので、もしかして、そういうことなのかなと思ったんですけど、そういう場合って、すごい熱を持って腫れるんです、胸が。その母乳が詰まった場合は。
岡崎 でも、なんかそういうのがないし、母乳が詰まってるんだったらと思って、マッサージ、自分でしてみても、全然それが小さくならないので、なんか変だなと思って、近くの乳腺外科があるクリニックに電話で相談をして。たら、「直ぐ、エコーを撮るから来てくれていいですよ」って言っていただいて、翌日の夕方ぐらいには行って、エコーで見ていただいて。そしたら、「ちょっとマンモも撮っていいですか」って言われて、マンモも撮って。で、「明日、乳腺の先生、来るんで、もう一回来てください」って言われて帰されたんです。
岡崎 もう、なんかその時点で、え? 何それみたいな。そんな明日も来なきゃいけないってことは、なんか簡単なことじゃないんだなっていうふうに思い、結構、先生とかに「どういうことですか」みたいにして聞いたんですけど、「明日、乳腺の先生来てから聞いて」みたいな。「私からは、ちょっと確定診断出来ないから」みたいな感じて言われて。
岡崎 翌日、もう一回乳腺外科の先生が外来で来てる時に、その近所のクリニックに行ったら、もうその場で、針生検しましょうということで、針生検をしていて。その生検の後に、もう先生から、「私の経験則で言うと、もうほぼがんで間違いないと思うので、その生検の結果が出る前に、どこの病院、紹介するか家族で相談して、次、来てください」っていうふうに言われたので、発覚から告知までが、それがほぼ告知ですので、もう2日とか3日とかのペースで告知をされてしまい、すごく動揺しました。
岸田 だから、もう数日で全部決まってったって感じなんですね。
岡崎 うん、そういう感じでした。
岸田 ありがとうございます。本当ちょっと聞いていきたいんですけれども、もっとフランクにちょっと、月1で久し振りでやると、ちょっと凝り固まった口調になってしまうんで、裕子さんとお呼びさせてください、いまさらながら。裕子さんに聞きたいのが、発覚、さっき、乳房の乳腺が詰まるっていうふうな話、されてたじゃないですか。それは、よくあって、それが左乳房よね?
岡崎 そう。しこりがあったのは、左。
岸田 左乳房ね。それだと最初思ってたよね。
岡崎 でも、それだとしたら、なんかもっと痛いんですよ、母乳が詰まると。もっと痛みがあるの。あと胸も熱を持ったり、ともすれば、本当に発熱しちゃったりするんですよ、母乳が詰まるときって。
岸田 そうなんだ。
岡崎 乳腺炎っていうんだけど。なんかそういう感じじゃないし、どういうことかしらっていう。でも、ちょうど断乳してる時期だし、きっとそうだろうみたいな、そういう感じの気持ちでクリニックには行きました。
岸田 行って。それでクリニック、翌日でしたっけ。先生が来るからといったところで。その時に、めちゃくちゃ検索したりとかした? それは、もう翌日まで待った?
岡崎 めちゃくちゃした。もう取りあえず、ありとあらゆる検索をして、もうサブタイプとかについても。そこで、その先生が生検をしている時に、私が、そうやって画像上で、ほぼ、がんだって先生が分かるのであれば、じゃあ、先生の見立てで一体ステージとかって、どれぐらいだと思うんですかって聞いたの、その場で。
岸田 すげー。
岡崎 そしたら、先生に、ステージも、さることながら、実はサブタイプっていうものが非常に重要であると。まあホルモンタイプとHER2タイプとトリプルネガティブタイプとあって、ステージの1、2、3、4よりも、そのタイプが非常に重要で、トリプルネガティブタイプっていうのは、すごく厄介な悪性度の高い、進行の速いがんだから、トリプルネガティブっていうことだと、どちらかというと、今、あなたが気にするべきは、ステージよりもサブタイプみたいなことを言われたの、そこで。
岡崎 私が、じゃあ、そのトリプルネガティブっていうのは、だから、なんか乳がん自体は、そんなに、あなたの年で、この乳がんで、そんなに動揺するにしても、そこまでとても怖がるようなことではないんだが、しかし、トリプルネガティブだと、ちょっと厄介なんですよねみたいなことを言われて。帰って、もうすっごいそのサブタイプのいろんな治療のなに。
岸田 いっぱいあるよね。HER2陽性とか。
岡崎 いろんなタイプによって治療法が違うから、なんかそれとかすごいネットで調べて、行ったら、トリプルネガティブだったっていう、結果的に。
岸田 トリプルネガティブっていうことを言われたら、なかなか、さっき言った、進行速くてとかっていう話もあって、その時、受け止め方としては、どうでした? 頭、真っ白になるのか、それとも、「よしっ」じゃないけど、頑張ろうみたいな。
岡崎 そう、やっぱり生検結果が出るまでを待ってる間って、すごいアップダウンがあるんですよ。もう不安と、楽観視しようっていう思いと、それのすごいうじゃうじゃ過ごしてて。その中で、やっぱり最悪の状況、まあ自分にとっての想定し得る最悪の状況っていうのを、ある程度、覚悟して行ったので、何となくそういうふうに言われるんじゃないかなみたいな気持ちが、どっかに多分あって、準備出来てたのかもしれない。
岡崎 なんかそこは、なるほど、分かりましたという感じで受け止めていたけれども、もうやっぱりすごい、これは、とても大変なことになってしまったなっていう気持ちにはなりました。その前に、そうやって先生も散々トリプルネガティブは大変みたいなことを私に言ってて、残念ながら、トリプルネガティブでしたみたいな感じの言われ方だったから、もう先生も、そっからは、いや、でも、こういう希望がみたいなことも何もおっしゃらないし。
岸田 えー、そうなんや。
岡崎 それは、もう全て分かりました。受け止めますみたいな感じになるしかなくて、逆に言うと、とても悲観していました、だから、もう。ちょっとこれは本気で自分の人生を終える覚悟をしないといけないのかなというふうに思ってました、その時は。
岸田 そっか、やばいんじゃないかと。その告知受けて、一番大変なっていうふうなところを、そのまま受けてっていうふうなところであったといったところで、ちょっと今、コメントもいただいておりますので、読ませていただきます。きょうは、ちょっとスマートフォンでコメントを読ませていただきます。
岡崎 どうぞ。
岸田 よしさん、きょうも楽しみですと。カーテン素敵ですというコメントをいただいてます。
岡崎 ありがとうございます。
岸田 あとミカさんですか。こんにちは。ニシムラさん、こんにちはと。ジツハラさんも、こんにちは。岡崎さん、お美し過ぎるということで。
岡崎 いいえ、ありがとうございます。
岸田 エヌさんは、ご自身で気が付かれて病院に行かれたのは、正しい判断でしたよねということです。
岡崎 そうですね。あの時に、すぐに行ったのは、まあ結果、衝撃的な事実を知ることにはなりましたけど、今となっては、あそこで先延ばしにしなくて本当に良かったなと思う。
岸田 いや、そうね。結構すぐ病院に行くタイプ? 裕子さん。
岡崎 今までは、まあそうでもなかったんだけれど、やっぱり育児をするようになってから、お母さんが倒れちゃうと、本当に大変だから、ちょっとの不調でも、直ぐに薬を飲んだり、直ぐに対応してもらうほうがいいっていう考え方には、ちょっと寄ってはいました。
岸田 そういうことね。
岡崎 だから、乳腺炎になったりした時も、直ぐ産婦人科に行って、そこで助産師さんに、乳腺マッサージしてもらって、治してもらったりとかもしてたから。
岸田 助産師さんって、そういうこともしてくれんの?
岡崎 うん、してくれる。
岸田 なんか本当に、もうお産を手伝う人ぐらいの。
岡崎 そんなことないの。すごいもう懐の深い皆さん、いろんなスキルを持ってらっしゃる、ちゃんと助産師さんは。
岸田 そうなんや。助産師さんも深いな。ちょっと全然知らんかった。ありがとうございます。
岡崎 いえいえ。
岸田 そして、発覚から告知までが短かったですが、その間の時間は長いほうが良かったと思いますか。それとも、短いほうが良かったと思いますか。
岡崎 そうですね、やっぱり、がんですって言われるまでは、すごく短かったんですけど、そっから自分がトリプルネガティブなのかとか、ステージがどれぐらいなのかっていうのは、多分3週間ぐらい、私、待ったんです、その針生検の結果が出るのに。
岸田 あー、そうなんや。
岡崎 たまたまちょっと先生が学会で忙しいとか、そういう事情で。
岸田 いや、本当あるよね。
岡崎 3週間後とかで、自分が、がんだって分かってから、そのサブタイプを知るまでが3週間ぐらいあって、その時間が、もう猛烈につらかったので、そこと比べて考えると、かなり急ではあったけど、早いほうが良かったなと思う。
岸田 いや、だって、3週間、そっちのほうが大事やでって言われて待たされるって、がんを持ってて待たされるの、めっちゃ不安よね。
岡崎 めっちゃ不安。もうだから、ステージ2Bですって言われた時、もうやったーみたいな感じだったもん。謎な喜び。もう本当にすごいやばいんじゃないかと思ってたから、なんだ、ステージ2Bですかみたいな。なら、何とかなるかもしれないみたいな気持ちでした。
岸田 いや、本当分かります。まじで。まあ先生も、お仕事だから仕方ないけどね。学会で休むにしても、1週間ぐらいにしてほしいよね、本当。
岡崎 そう。待ちました。だから、さっきのは、早いほうがいいと思いました、知るのは。
岸田 知るのは、早いほうが良い。あと、トリプルネガティブを正面から受け止められたんですねっていう言葉もいただいております。
岡崎 ありがとうございます。
【治療から現在まで】
岸田 ありがとうございます。じゃあ、告知まで行ったところで、こっから波乱万丈なのが、次、治療から現在までといった中で、どういうふうな治療をやってきたのかといったところ、きょうは、フリップ、こちらを用意しております。こちらになります。ありがとうございます。2014年の9月、第2子の出産。さっき言った、左胸にしこりがあると言われるも、これは助産師さんに言われたんですか。
岡崎 まさに乳腺炎になって、出産直後に。その時に助産師さんに母乳マッサージをしてもらった時に、「左胸に取れないしこりがあるから、ちょっと気にしておいてください」って言われたんだけど、それがまさか、がん化するっていうイメージは全然無かったんですよね。
岸田 いや、そうよね。その時、全然そんな思わないもんね。その言われるも、ということは、裕子さんは、もう無視したと。
岡崎 無視したん、私。それが、がんかもよって言ってくれりゃいいのに、「なんか取れないしこりがありますよ。そこだけ気を付けていてください」しか言われなかったから、もうきれいにスルーしました。
岸田 きれいにスルーして、そして、2017年。それから、3年後なんや。
岡崎 そうなのよ。3年もほったらかしちゃったのよね、だから。今になって思い返せば。
岸田 当時は、もうがん検診とかは、どうやったん?
岡崎 がん検診は、普通は40歳からなんです、市町村の。
岸田 そうなんや。
岡崎 2017年に、私、40歳だから。
岸田 あー、そっか。
岡崎 そうなの。30代だったからね。
岸田 そういうことね。
岡崎 しかも、人間ドックは受けてたんだけど、授乳中だったり、妊娠中だったから、マンモグラフィーが飛ばされてたんですよ、前まで。
岸田 そういうのあるのね。授乳中とかって飛ばされるの。
岡崎 そうなの。まあエコーで見ていただけるように、最近、私が受けてる人間ドックのところも変えてくださったけど、当時はマンモだったから、授乳中の人はできませんっていって、毎回スキップされちゃった。
岸田 そういうこともあんのか。そして、2017年の2月に、さっき言った、しこりがあるからクリニックへ行って、がん告知を受け、そして、術前の抗がん剤がスタートしていくというふうな形になります。もうこれは告知受けて、その後すぐ? 抗がん剤スタートは。
岡崎 告知を受けたのが、2月の末で、3月に針生検の結果が分かって、3週間待った・・・。
岸田 待って、分かって。
岡崎 それで、そっから、もう有明のがん研に推薦状を書いていただいて、がん研に行きます。そこで、担当医の先生に、4月の頭から術前抗がん剤をスタートさせましょうということを言われて、4月の頭から、術前抗がん剤がスタートしました。
岸田 術前抗がん剤する人と、しない人とか、いるやん。それは、もう裕子さんの場合は、しましょうっていう、その1通りの選択肢?
岡崎 そう。多分、これ、病院の方針にかなりよるところがあって。どちらかというと、私はもうノーチョイスだったんだけれども、割と早期の方は、術後抗がん剤というか、早期の方は先に取るけど、もう直ぐ取れるオペが空いてないって言われて、術前抗がん剤して手術だったら、出来ますよみたいな、そういう感じでした。
岸田 術前抗がん剤していった中で、術前抗がん剤、どうでした? 抗がん剤、結構、治療、大変でした?
岡崎 今でも思い出すのは、セフ療法っていうんだよね、有明の場合は。でも、本当はFEC療法なのかな。FECの3回目の時が、ものすごくつらくて。
岸田 そういう療法があるんですね、抗がん剤に。
岡崎 抗がん剤のレジメンの話ですね。
岸田 3つ?
岡崎 なんかFECの抗がん剤、フェックって、皆さん、いうけど、それを始めて、1回目は、割と結構、最初なので、そこまでダメージなくて。2回目で脱毛して、3回目で、なんかすっごくその時が、とってもつらくて。もう4回目行きたくないとかって、ブーブー言いながら行って、4回目やったら、意外と大丈夫だったりして。
岸田 4クール目ってことね。
岡崎 そう、4クール目。
岸田 入院じゃなかったんや、行くってことは。
岡崎 通院、そうなの。通院です。
岸田 通院か。
岡崎 うん、そう。だから、夫に運転してもらって、車で行って、2時間とか3時間、点滴打って。最初に採血じゃない? 採血して、出来るかできないかチェックして、1時間後から抗がん剤やって、2時間とか3時間とか点滴終わったら、車で帰るみたいな感じで、通院でした。
岸田 通院でね。2回目で、2クール目で髪が抜けてきたってあったと思うんですけど。
岡崎 脱毛しました。
岸田 結構、女性、まあ男性もそうやけど、髪の毛が抜けてショックな人とショックじゃない。ショックじゃない人って言い方、変やけど、なんかあるやんか。裕子さんの場合は、どうでした?
岡崎 私、実は、これ、すごいちょっとぶっ飛び過ぎてて、あまり参考にならなさそうなんですけど。
岸田 じゃあ、もう参考にしないでくださいね。お願いします。
岡崎 実は陶芸家を目指すっていうふうになった時に、23歳の時に、自分で丸坊主にしてるんですよ。
岸田 うそ。陶芸家の道、結構もうなんか修行、野球王みたいな感じやん。
岡崎 そう。なんかもう修行するのに山こもるぞぐらいの勢いで、ちょっと形から入ろうかなと思って。
岸田 すげー。
岡崎 1度、そういう丸坊主も経験してるから、そんなにそこはダメージなくって感じでした。
岸田 そうなのね。3クール目の、本当にダメージがちょっと大変でっていった時は、どんな感じ?
岡崎 倦怠感ですよね。
岸田 倦怠感。
岡崎 吐き気は、おかげさまで結構、イメンドっていう薬が、とっても・・・。
岸田 いや、僕も、それにすごく助けられた。
岡崎 助けられて、吐き気は、あんまりなかったんだけど、やっぱ倦怠感は、すごくて。もうつらい、どうしようみたいな感じで嫌でした。
岸田 けど、ちゃんと4クール目もやって、完遂して、そしたら、どうでした? がんは、ちっちゃくなった?
岡崎 そう。でも、私、実際は8回なのよ。だから、FEC療法が最初の4回で、その後、ドセタキセルの抗がん剤で、本当は8回なんですけど、ドセタキセルでアナフィラキシーみたいになっちゃって、ちょっと7回で終わり。だから、要は、FECが4回で、ドセタキセルが3回で、もう治療を終えたんだけれども、でも、FEC療法をやってる時点で、もう自分で触って分かるぐらい、見る見る小さくなっていってて。結構、その術前抗がん剤、賛否ありますけど、私は、すごい術前抗がん剤が効いてくれたおかげで、すごく治療に至っては、やる気が出たとか、前向きになれたかなと思う。
岸田 えっと、アナフィラキシーショックがあったっていうのは、どんな感じで?
岡崎 ドセタキセルを打ったら、もうなんか目がぶわーって充血してきて、この辺とかも腫れてきて。抗がん剤室で、直ぐ看護師さん呼んで、「なんかちょっと私おかしいですよね」つったら、「いや、すごいおかしいから先生呼んでくるね」っつって先生呼ばれて。でも、その腫瘍内科の先生は、一応やりたいから、ステロイド打ちながら、やりましょうっていって、ステロイドの点滴打って、それでそのまま続けてたんだけど、2回目も、やっぱり同じ感じになって、ステロイドの点滴を打ちながらやって。でも、患者の気持ちとしては、やっぱり4回やりたかったんですよ。
岸田 そうね。全部やりたいよね。
岡崎 全部やりたい。うちの夫は、すごい結構、怒ってて、もうそんなんでやるなんて、終わらせろみたいな感じで言ってて。結構、夫婦間で意見が割れて、どうしようと思っていたところに、乳腺外科医の診察が間で入ったタイミングで相談したら、先生が、もうやめよう。よく逆に続けたねみたい。こんなん続けて、がんじゃないことで死んじゃうかもしれないから、もう僕は打ち切りたいっておっしゃってくださって。で、うちの夫も納得して、私は、ちょっと不安はあったけど、もう主治医がそこまで言うならと思って、結局3回でやめました。
岸田 そうなんだ。アナフィラキシー。だって、その前の2回や3回は、そういうアナフィラキシーの症状は、無かったってことですよね。
岡崎 だから、呼吸困難は無いんだけれども、もう顔も真っ赤に腫れてきて、目も充血してみたいな感じで、それを毎回ステロイドで抑えながら、抗がん剤を打ってた。
岸田 それを毎回ステロイドで抑えてたのか。
岡崎 それを、もう主治医の乳腺外科の先生のほうが、4回目やって、本当にもう呼吸困難とかなっちゃったら、どうするの? もう、それは駄目ですって言って止められちゃった。
岸田 見てる方は、自分の主治医の方と治療の方針については、よく相談して下さい。裕子さんの場合は、そういうちょっと副作用のほうが、結構、大変だったということであったと。じゃあ、術前抗がん剤が、それで終わりましたといった中での、この次のスライド、こちらになります。ほー、ちょっと待って。HBOC確定、オラパリブ治験ということで書いてますけども、術前抗がん剤終わって、そっから手術とかじゃないんや。
岡崎 術前抗がん剤をやってる最中に、当時、そのオラパリブの第3相治験というのが、トリプルネガティブタイプのステージ2か3の患者さんに適応されていて、この治験で、まず遺伝子検査をしませんかということを、有明の治験コーディネーターからお話があって。私も、やっぱり治療方針に関わるっていう話だったので、全摘にするのか、温存にするのかとか、あとは、その抗がん剤のレジメンも、HBOCだった場合、選択肢が広がる可能性があるとか、もちろんそのオラパリブは効く可能性もあるっていうことも含めて、じゃあ、もう希望しますっていうことで。そこで遺伝子検査をしたら、HBOCであるってことが分かり、オラパリブの治験に入ったということです。
岸田 またちょっと後でも遺伝の話するので、そこで詳しくお伺いしますけれども、HBOC遺伝性乳がん卵巣症候群ってやつですかね。
岡崎 乳がん卵巣がん症候群。
岸田 卵巣がん症候群。ちょっとまた後で、これについても、お伺いしていきたいと思います。じゃあ、治験に入ったってこと? 治療。
岡崎 うん、入りましたよ。だから、遺伝子検査も治験で受けさせていただいた。
岸田 これ、さっき途中からって言ってたやんか。
岡崎 うん。
岸田 術前抗がん剤の途中から入ったってこと?
岡崎 それは、なんで途中からかっていうと、もう一番最初から先生からは勧められてたんだけど、私が決心ができなかったの・・・。
岸田 あー、そっちね。
岡崎 だから、抗がん剤2回目か3回目ぐらいのタイミングで、じゃあ、やりますって言ってっていう。その後半の抗がん剤に変わる前に分かっておくと、治療方針が変わるかもっていう期待を込めて。
岸田 あー、そういうことね。
岡崎 前半の時に調べていただいたんだけど。
岸田 じゃあ、このオラパリブをどっかでやった?
岡崎 オラパリブっていうのは、飲み薬で、治験だから、プラセボか、PARP阻害剤っていう、もう今は普通にではないんだけれども、条件があるけれども、処方もしていただける薬になったようなんですが、そのPARP阻害剤っていう術前抗がん剤を8回ないし、標準治療に即したレジメンでやって、手術をして、その後、半年間、飲み薬をするっていう治験だったの。
岸田 そういう治験なんや。
岡崎 そう。だから、手術までは治験で何か特別な薬をやるんではなくて、終わった後に飲み薬を、そのプラセボなのか試薬なのか、分からないけれども、どちらかを半年間飲み続けるっていう治験だったの、もともと。
岸田 ていう治験ね。了解。そこのタイミングで遺伝子検査もできたということで。そして、2017年の9月、それから、3カ月後、手術していって、左乳房の全摘リンパ節郭清と、全摘してリンパ節郭清をして、そして、10月に完全奏功し、治験から外れるとありますが、これ、手術まで3カ月以上ではないのか。抗がん剤・・・。
岡崎 だから、最初の抗がん剤が4月でしょう。8回やってるから、半年かかるの。だけど、結果、7回だったから、まあ5カ月半ぐらいになっちゃったので、4、5、6、7、8、9、まあ5カ月で、それで手術。
岸田 に手術して。
岡崎 うん。で、10月に完全奏功したっていう病理結果を伝えられたと。
岸田 ありがとうございます。手術といったところで、全摘するかどうか問題とかもあるやん?
岡崎 そうなの。だから、実は、すごいしこりが小さくなってるから、通常であれば、恐らく温存ができる手術だっていうふうに先生から言われたんだけれども、しかし、私は、その遺伝性乳がん卵巣がん症候群なので、今後のリスクを考えて、全摘っていう選択肢になりますよって感じでした。
岸田 で、全摘をしたんやね。左乳房全部、全摘して。ただこの時に同時再建とかをせんかったん?
岡崎 実は、お医者さまから、術後の放射線の可能性を指摘されていて。
岸田 あー、めっちゃ大変やな。
岡崎 そう。だから、本当は放射線治療もやる予定だったので。
岸田 そうなんやね。
岡崎 だから、当時、再建は出来ませんっていうふうに事前に言われていた。
岸田 じゃあ、全摘、まずは全部取って。
岡崎 うん、そう。
岸田 で、その後、この完全奏功し、治験から外れるってことは、どういうこと? もう効いて、がんもないから。
岡崎 そう。なんかそのオラパリブの治験の条件が、完全奏功した場合は外れるっていう条件だったので、先方の製薬会社から。治験の条件から、もう外れちゃったから、治験からも外れ、放射線治療も無しってことになっちゃった。なっちゃったって言うと、あれなんだけど。
岸田 それは、繋がってんの? 放射線治療と治験は。
岡崎 要は、完全奏功していて。
岸田 してるから。
岡崎 リンパ節の転移も、ほぼ完全奏功し。リンパ節も完全奏功しているという診立てにより主治医から放射線治療はなしっていうふうに言われ、そして、完全奏功したことによって、治験からも自動的に、もう外れてしまった。だから、本来は、術前抗がん剤して、手術して、放射線やって、オラパリブって思ってたのが、手術で終わっちゃったの、急に。もうその先の二つがなくなったっていう。
岸田 ちょっと完全奏功っていうのが、多分、今回、数ある歴史の中で、裕子さんが初めてか2回目かの言葉。一応、ちょっと完全奏功について、今、ググってお伝えすると、治療効果の指標であり、がんが全て消失したことを意味しますということで、complete response。なんで英語で言ったんか分かんないけど、全てがんが取り切れたということよね、認識としては。
岡崎 そういうことだったんですよね、まあ病理結果によるとということですけど。
岸田 なんかそれで治験から外れるってね、そうなんやな。まあ遺伝子検査できたから、受ける側としては、ラッキーなのかもしれへんけど。
岡崎 なんかちょっとね。
岸田 なんかちょっとね。
岡崎 まだ治療が続くと思ったものが、全部すぱっと無くなって、本来は喜ばしいことなんだけど、少し不安も残っているような状況でした。
岸田 ありがとうございます。そして、その後、治ったんちゃうんかいと思って、完全奏功ちゃうんかいと思ってんねんけど、2017年12月セカンドオピニオンに行くと。
岡崎 そうなんです。これは、もうそもそも私の状況、最初の診断では、さっきもちょっとお伝えしたけれど、術前抗がん剤をやって、手術をやって、放射線治療をやって、オラパリブの治験でPARP阻害剤を飲むかもみたいにして言われてたのが、半分になったわけじゃないですか。
岸田 確かに。
岡崎 四つの治療のつもりが。二つで終わっちゃったから、本当に放射線、まあオラパリブは治験から外れちゃってるから、そこは、ちょっとゴネられないのは仕方ないとしても、放射線治療、本当にやらなくていいんでしょうかっていうのが、とても気になってしまって。
岸田 そうやね。だって、そのために再建もせずにやってたのに。
岡崎 そう。なんかとてもそれが、モヤモヤしてしまっていて。で、主治医の先生に勇気を振り絞って、ちょっとセカンドオピニオンで、そのことについて聞いてきていいでしょうかっていうふうにご相談をして、紹介状を書いていただいて、セカンドオピニオンに行ったと。
岸田 セカンドオピニオン先は、どうやって決めたん?
岡崎 遺伝性だってことが分かった時点で、いろんな本を読んだり、学んだりしていく中で、聖路加の山内英子先生が、この非常に遺伝子・・・。
岸田 有名なね。
岡崎 うん。遺伝性乳がん卵巣がん症候群についてのご本も出されてたんで、先生に聞けたらなと思って、自分が遺伝性であるってことも含めて、どういうふうにお考えになるのか、先生のご意見をちょっと聞きたいなと思い、山内先生にお願いしました。
岸田 そうすると、どんなんって言われたんですか。その後、放射線出てへんから、大丈夫なのかなと思いつつも。
岡崎 そう。結局、有明のほうから資料を渡されて、普通に聖路加のセカンドオピニオン外来に電話をして、自分の状況を話したら、やはりそのHBOCであるならば、山内先生にお話を聞いたほうがいいだろうというふうに、担当した、電話を取ってくださった方が言ってくださって。そんなふうに先生の意見を聞けると、ちょっと実は半分思ってなかったんで、すごく嬉しかったんだけれども。
岡崎 山内先生と12月に面談をして、お話を聞いたら、放射線治療は私も要らないと思いますっていうご意見であると同時に、右乳房と卵巣に関しては、どういうふうにお考えなんですかっていうことを山内先生からそこで聞かれて。私としては予防切除をしたいと思っているんだけれどもっていう話を取りあえずして。
岸田 していったと。
岡崎 有明も、もちろんそれを推奨というか、卵巣に関しては取ったほうがいいっていうふうに言ってくださってたんだけれども、有明は、卵巣を取るための手術をどこかでして、右乳房に関しては、自分で触れることが出来るから、ちゃんと定期的に観察して、しこりができたら、手術して取るんでいいんじゃないのっていう。要は、右乳房に関しては、予防切除に対して、そんなに前向きなご意見ではなかったんだよね、有明では。
岡崎 でも、私は、やはりちょっと小さい子どもを育てている中で、いつまた自分が、そういうがんになるか分からないっていう状況を残しておくのが、とても不安だったので、出来れば、どちらも予防切除したいっていう気持ちでいたの。で、それを山内先生にお話ししたら、聖路加にもし転院出来るのであれば、科をまたいで、同じ同日に一緒に全部手術出来ますよっていうふうにおっしゃってくださって。2回入院しなくていいっていうのは、とても大きな、私にとっては、メリットだから、じゃあ、転院させていただこうかなと思って転院しました。
岸田 じゃあ、転院したんね。
岡崎 転院したの、結局。
岸田 結局、セカンドオピニオンを受けて転院をして、その後、2018年6月、7月に右乳房にがん変あり、生検で、生検は良好とありますけど。
岡崎 この辺は全部、聖路加での話です、だから。
岸田 聖路加でね。
岡崎 うん。
岸田 結局、右は、じゃあ、取らんかったってこと?
岡崎 取ったの。
岸田 どういうこと?
岡崎 だから、結局、右乳房も卵巣も、じゃあ、取りましょう。
岸田 取りましょう、一緒にね。
岡崎 2018年の、私が最初の左乳房を取ったのは、2017年の9月だったので、1年後ぐらいで取りましょうかみたいな。実は、山内先生的には、もう2018年の4月に取る手術をしましょうとおっしゃって下さってたんだけど、ちょうど上の子が、小学校に入学が4月だったので、そのタイミングで私が入院して不在になるのは、ちょっとかわいそうだから、夏休みにさせてくださいっていうふうにお願いをして、7月の夏休みに、じゃあ、取りましょうってことになった。
岸田 そういうことね。それまでに右乳房に、なんか変異があったってこと?
岡崎 そう。それで、結局、予防切除する前に、MRIとか、全部一通り検査をするの。その時に右にDICSっていう、レベル0ぐらいのがんがあるっていうふうに、エコーで言われて。
岸田 DICSって、グレード的な?
岡崎 ググると出てくるけど、要は、レベル0にもなってないくらいの本当に初期の乳がん。
岸田 前がん病変みたいなんかな。
岡崎 かな。まあ、ほぼ、がんなんだけど。だから、レベル0っていう、ステージ0みたいなことなのかなっていうふうに言われて。ものすごい衝撃を受け、でも、山内先生と話して、もう結局7月に予防切除するから、そこで病理見るんでいいんじゃない?みたいな。取りあえず針生検していただいて、それで良性だったんだけど、まあいずれにしても、全体を見るのに、どっちにしてもというと、あれなんだけど、もう全摘するから、その時に、ちゃんと調べるから、もうちょっとそこまで待ちましょうみたいな話になりました。
岸田 で、生検の結果は良性ということであったということで、これは問題なくというふうに、ここでちゃんと右も取って、卵巣もここで取ったと。
岡崎 卵巣、卵管も取りました。
岸田 そうなんですね。ありがとうございます。メッセージもいただいているので、ちょっとだけ読ませていただきます。IABさん。初めて視聴します。今、術後3週間で、お話、参考にさせていただきたいですという、今、術後3週間目の方、ありがとうございます。
岡崎 ありがとうございます。
岸田 参考になるかどうかは分かんないので。
岡崎 そうですね。なったらいいな。
岸田 なったらいいなぐらいでトークしております。妊娠中や授乳中は検査出来なかったんですねということだったりとか、ミカさんは、乳がんではないですが、結果は生検後1カ月ぐらいかかりますよねとか。そうですね。
岡崎 そう。その時期、本当に皆さん、不安を抱えて過ごされてるだろうなと思います。
岸田 本当、いや、そう。そして、アアちゃんさん、久し振りに見にきました。母もトリプルネガティブ乳がんですという言葉とか、丸坊主にしたこともあるんですねだったりだとか、すぐ手術が出来ないと言われた時に、他の病院で、直ぐに手術してもらおうとか考えませんでしたかとか。
岡崎 あんまりそういうのは、無かったです。最初に有明のがん研で、その主治医とお会いした時に、私、前回のその前のクリニックでトリプルネガティブ乳がんは、とってもたちが悪いみたいことを言われて、ものすごい打ちひしがれて、その先生に、「トリプルネガティブ乳がんでステージ2とか3で、お元気にされてる方っているんでしょうか?」って真剣に聞いたんです。もう今となっては、何言っちゃってんだって感じなんですけど、本当にそう思えてなかったので。
岡崎 そしたら、主治医が「そんなの、いっぱいいますよ」って、にこにこして言ってくださった言葉が、めちゃめちゃ救いになったので、もうその先生についていきますって感じで、全然、他は考えてなかったです。
岸田 無かったということね。あとステロイド抑えながら、抗がん剤考えただけでも怖いですということだったり、あと、オニヤンマさんが、こんにちはということで、完全奏功、素晴らしい。そして予防切除って、どれくらいの方がされるんでしょうねっていうことで。
岡崎 ちょっと私も医療者ではないので、その辺は分からないんですけれども、どうなんでしょう。今、保険が適用されるようになったので、私の頃は実費でしたけど。
岸田 あー、そっか、実費や。
岡崎 全適用されてるので、多分それによって、随分増えてるんじゃないかなとは思いますけれど。
岸田 変わってるんじゃないかな。ありがとうございます。そして、次のスライド、こちらになります。2018年10月、両股関節の痛みから整形外科を受診していったということで、これは、何? 両股関節が、いきなり痛みだした?
岡崎 もうこの辺のこの二つに関して言うと、やっぱりどれだけ完全奏功していようが、何年経っていようが、不安は、いつまでもつきまとうっていうことよねって思うんですけど。本人は、もう大真面目にどうしようと思っていて、なんか車に乗り降りするだけでも、股関節が痛くて。
岡崎 何なんだろうって、ずっと思ってて。でも、何なんだろうって、ずっと思ってても、自分じゃ分からないし、運動しようにも、痛くて運動出来ないし。それで、もう悩んでても、しょうがないからと思って、私は、割とすぐ相談するタイプなので、聖路加のブレストに連絡したんです、電話して。
岸田 ブレストセンター?
岡崎 ブレストセンターの受付に。こういう症状なんですけどっていって言ったら、両側が痛いってことはないので、仮に、そういう骨転移とかっていうことを心配されてるんであれば、やっぱ片側からっていう可能性が、すごく高くて、いきなり両側、同じように痛いっていうのは、あんまり聞かないから、まず整形外科を近所で受けてきてくださいって言われて。行ったら、結局は、なんだかよく分かんなかったんですけど、多分、運動不足による、筋肉が減って、痛くなったみたいな、そういうことだったみたいで。
岡崎 でも、せっかく整形外科を受診したので、私、卵巣も、もう無くて、いわゆる女性ホルモンも何も出てないので、骨のケアは、すごく注意したほうがいいみたいなことを、いろんなとこから言われてたので、ちょっとついでに、じゃあ、骨密度を測ってくださいみたいな話になり、そこからは骨粗しょう症予防のエディロールっていう薬をずっと処方していただいて、毎日、今も飲んでる。ていうのが、この両方股関節の痛みの話ね。
岸田 骨密度が少なくなんの?
岡崎 そうなの。凄い少なくなるの。もう今、私、超骨粗しょう症予備軍で、もう最近、注射も始まっちゃったの。それは、私も勢い付いてっていうと、あれだけど、予防切除して、がんの恐ろしさから解放されたいと思って、解放されたものの、やっぱりそういうこともあるよねっていうふうに、最近ちょっと思ってます。
岸田 そして、その下が、リンパが痛んで受診。
岡崎 そう。これも左の罹患した側の鎖骨下が、すごく痛くなってしまって、なんか触ってると固い感じもして。もうこれはリンパが腫れてると思って、またブレストセンターに電話したんですよ、聖路加の。
岸田 ちなみに、今、ブレストセンターってどんな機関ですかって来てるんですけど。
岡崎 聖路加国際病院の乳腺外科のことです。
岸田 名称。よく乳がんとか、乳房の何かしらを診てると、ブレストセンターっていうのを立ち上げて、その専門的に見ますっていうふうなところが、聖路加さんだったりとか、あと昭和大学さんだったりとか、あとNTT東日本関東病院さんとか、そういったところにできてたりとかしてます。
岡崎 すいません、ちょっと分かりづらい言い方して。聖路加国際病院の乳腺外科の受付に電話をして、その罹患した側のリンパ節が痛いんですって言ったら、これは、もう明後日、来てくださいみたいな話になったんです。もうちょっと緊急で入れますんで、診ますって。で、エコーで見ていただいたら、全然腫れてません。単なる使い過ぎ。
岸田 使い過ぎ。
岡崎 筋肉痛みたいな。「本当すいません」って言いながら。「でも、分かんないもんね」みたいな。
岸田 分からへんわ。
岡崎 「どういう痛みとかがまずいのか分かんないから、しょうがないわよ」なんて、先生に笑われながら。
岸田 しゃあない。いや、不安やから、しかも。
岡崎 そんな大騒ぎをしております。
岸田 いや、分かりました。そして、次のスライド、こちらになります。2020年、去年の8月、触診で、しこり発見。
岡崎 もうびっくりしたんですけど、これは先生が、その経過観察で、私、3カ月に一遍、病院行ってて、そこで問診と触診だけされるんです。その時に触診されて、「何これ?」とか言われて。え、「何これ?」って何これ?みたいな。で、もうそこから3カ月、本当は、もう半年に一遍になってもいいぐらいの期間だったんですけど、まあちょっとやっぱりちゃんと診ようってことで、エコーをやったり、MRIをやったり、大きさは大きくならないかっていうことを、きちんと診ていきたいっていうふうに言われて、昨年の8月から今年の4月まで結構、頻繁に。
岸田 経過を。
岡崎 うん、経過を見てました。
岸田 で、この術後の何ちゃらと診断って書いてある。
岡崎 だから、要は、何回も切ってるので、最初に全摘して、その後、エキスパンダー入れて、またシリコン入れてっていって何回か切ってるので、その切った所の傷口が、ちょっと皮膚が厚くなっちゃってるっていうことだろうっていうことでした。
岸田 えっ、ちょっと待って。今、エキスパンダー入れてっていう話も、ちらっとありましたけど、乳房再建したってこと? どっかで。
岡崎 そう。それは、予防切除のタイミングでエキスパンダー入れていただきました。
岸田 そういう、そこね。聖路加で予防切除を一緒にやる時に、その時に。
岡崎 右は同時再建でしょう。右は、もう予防切除だから、右は全部全摘して、そのままエキスパンダー入れてもらって。左は何も入ってない状態で、全摘しかしてなかったんだけど、そこにエキスパンダーも入れていただいて、その時に。
岸田 だから、乳房を膨らませたってことね、それで。エキスパンダーっていうものでね。
岡崎 そう。
岸田 そうなんや。じゃあ、そこで再建をしたんやね。
岡崎 そう、そこで再建しました。再建も一緒にしました。
岸田 どう? 結構リアルなもんとは違うけど、違和感とかどうですか。もみ心地っていったら、絶対、禁句になるから、なんて言ったらいいの?
岡崎 まあやっぱり堅いとか、冷たいとかっていうし、実際それありますけど、私は、もうあんま気にしてないです、全然。かなり日常に。
岸田 かなり日常に近い?
岡崎 日常的に何か、最初のエキスパンダーの時は、もう肩凝りがすごくて。やっぱり皮膚伸ばしてるから。エキスパンダーの時は結構つらかったんですけど、今は、シリコンになってからは、随分楽かな。
岸田 そうなんですね。良かった。そして、その2021年10月。
岡崎 最近です。
岸田 右乳輪下に、しこり発見、クリニックで。
岡崎 そう。これも、まあ乳輪だけ残してるんですよね、右は。左は、もう全摘した時に乳輪も、乳頭も、全部取っちゃってるんですけど、右側は乳輪だけ温存したので、ほんの少しだけ乳腺残っちゃってるんです。そこの部分が、なんかしこりみたいになってたので。
岸田 怖い。
岡崎 慌てて、また聖路加のブレストセンターに相談をしたら、うちでも診れるけど、提携してるマンマリア築地っていうクリニックがあるんです。マンマリアのほうが早く診れると思うから、マンマリア行ってみてって言われて、マンマリア行って。取りあえず違いますねっていう、今のところ。
岸田 今のところ。じゃあ、原因分からんけど、取りあえず、なんかしこりは、ある。
岡崎 そう。
岸田 すごいな。裕子さんの本当に、もう闘病は、しこりばっかりやな。
岡崎 もうなんか嫌よね。
岸田 いや、すごいわ。
岡崎 早く安心したいけど、安心出来る境地には、いつ達せるんでしょうかっていう。やっぱり一つに、自分の初発のがんだけではなく、遺伝性っていうことをはらんでいるので、右の乳房にできるとしても、これは新しいものだろうっていう部分での不安が、すごくできやすい。がん化しやすいっていう意識があるので、そういう意味で言うと、なかなかずっと消えることは無いだろうなと思います、この不安は。
岸田 ありがとうございます。コメントは、あちこちに痛みが出たら、全てがんによるものではと思ってしまいますよねということで、本当思いますよね。
岸田 そうなんですよね。
岸田 そして、ちょっとね、一通り闘病は、もうこれ以上、大丈夫ですよね。最近の10月やからね。この後、ちょっとその当時の闘病前と闘病中と闘病後のお写真をいただいておりますので。まず闘病前のお写真、こちらになります。わー、すごい。なんかもういい親子っていう形での。
岡崎 元気いっぱい。でも、この時、実は、もう多分がんですって言われて、そのサブタイプを待ってる時期なので、ちょっとあんまり顔が笑ってないですよね、私だけ。
岸田 これ、そのタイプ待ってる時の顔ね。
岡崎 そう。あえてちょっとそこにしてみた。家族でスキーの予定も入れちゃってて、ちょうど2月だったし、もうそれには行ってるんだけど、顔、笑ってないみたいな。
岸田 愛想笑いで精いっぱいというふうな。
岡崎 不安に、もう、まみれてた時期だよね。
岸田 じゃあ、お子さん、お二人とも女の子かな。
岡崎 女の子。そうです。
岸田 そうなんですね。じゃあ、かわいいお嬢さんたちということも、コメントいただいております。
岡崎 ありがとうございます。
岸田 そして、闘病中、こちらの写真になります。
岡崎 闘病中、どん。
岸田 どんと。ちょっと左、真ん中、右で、ちょっと説明していただきたいんですけれども。
岡崎 左は、長女の幼稚園のお誕生日会に夫婦で参加して。
岸田 いいですね。
岡崎 もうこれは脱毛しちゃってて、ウィッグですね。
岸田 ウィッグ、自然。
岡崎 ウィッグです。長女の誕生日の時は、まだ前半の薬剤だったんですけど、真ん中は、ドセタキセルになって、やっぱステロイドを一緒に点滴してるせいか、すごいむくみが激しくて、顔、結構もうむくんじゃってますけど、これは次女の保育園の誕生日会で、これもウィッグで。
岡崎 一番右は、手術が終わった直後ぐらいかな。なんかドセタキセルの時に、私、謎に髪の毛生えてきたんですよね。そんな人、あんま聞かないって言われたんですけど、そこでちょっと生え始めてたので、術後、娘たちと一緒に撮った写真です。
岸田 全然なんか、こういう言い方すると、よくないのかもしれない。似合ってますね、坊主頭ね。
岡崎 ありがとうございます。
岸田 もうなんか修行で慣れて、全然普通の。
岡崎 そう、そんな・・・。
岸田 タコタコさんからコメントが。初めまして。サブタイプ待つ時、ドキドキしますよねっていう。
岡崎 本当。
岸田 本当ね。そして、闘病後の写真が、こちらになります。
岡崎 もう最近ですね、これ。
岸田 最近、いきなりなんか家族、家族って出てきて、いきなり1人ってなってる。
岡崎 そうだね。そうだね。
岸田 これは、なんの?
岡崎 これは、なんか雑誌に提供しなきゃいけない写真があって、ちょっと娘に、みなとみらいで撮ってもらった写真です。
岸田 どういう写真? 雑誌への提供しなあかんなっていう時の写真ね。
岡崎 そう。
【遺伝】
岸田 ありがとうございます。今は元気にされているといったところで。そんな中で、ちょっと闘病の後の、遺伝について、ちょろちょろ出て来たじゃないですか。遺伝についてお伺いしたいんですけど、さっきHBOC、遺伝性・・・。
岡崎 乳がん卵巣がん症候群。
岸田 そう、そういうやつ。皆さん、多分、初めて聞かれた方に関して、アンジェリーナ・ジョリーさんとかが予防的に切除したとかで、ちょっと一時、メジャーや有名になったかなと思うんですけれども、これ、先にちょっと遺伝についてお伺いしたいのが、さっき治験に入るっていったところで、その遺伝子検査をして、自分が、そのHBOCと、Hボックとか、いろんな言い方を、みんな、してるけど。
岡崎 言いますね。
岸田 て言ったところで分かった時って、遺伝やってなったら、どう思うん? やっぱ。
岡崎 なんかその時は、すごく、でも、合点がいったっていうか。合点がいったって言うと、変な言い方なんですけど、やっぱりがんになった方って、少なからず自分の生活習慣とか、なんかいろんなことを考えるじゃないですか。
岸田 考えが、今までの生活は、よくなかったんじゃないかとかね。
岡崎 そう。なんかお酒飲み過ぎちゃったかなとか・・・。
岸田 誰かに呪われてんのかなとかって。
岡崎 うん。なんかジャンクフード食べ過ぎちゃったかなとか、いろいろ考えるじゃない。多分それって、殆どそんなことないんだけど、でも、やっぱりそう考えてしまう。それに私も、凄くとらわれていたので、特に40歳で罹患に気が付くけれど、その前を振り返れば、30代の後半で、恐らくがんになっていたっていうことを考えると、ちょっと年齢も若いし、しかもトリプルネガティブで、なんでみたいなところで、HBOC確定して、なるほど。じゃあ、もうこれは、しょうがないみたいな。なんかそっちのほうが、どっちかっていうと、大きかったです。
岸田 大きかったんや。その遺伝のところで、言いたくないとかあれば、全然言ってください。やっぱ両親のこととか、子どものこととかって考える?
岡崎 そうね。やっぱりうちの場合は、母も父も、がんには、なってないんですよ、全然2人とも。やっぱり一番考えたのは、子どもたちのことだったけれども、図らずもというか、こういう形で私は自分の体質を知ることになって。
岡崎 娘たちが遺伝している可能性っていうのは、あくまでも2分の1であるということなので、私と夫の遺伝子が、がんにかかりやすい体質になってしまってる部分で、どっちのを引き継いでるかが分からないので、2人とも大丈夫な可能性も、もちろんあるし、どっちかっていう可能性もあるし、両方っていう可能性もあるし、もうそれは分からないんですけれども。知ってるっていうことは、対処出来るっていうことだよねというふうには、ちょっと思っていて。
岸田 おー、そう捉えてね。
岡崎 なんかやっぱり私、知らなかったから、自分が、そういう体質だっていうことを。30代でも、そうやってマンモグラフィー飛ばされても、何とも思ってなかったし、市の健診が40歳からだったら、そこからやればいいと思ってたから。でも、子どもたちには、そうじゃないっていうことを早くから教えることが出来るっていうことが、まあ重要であって。
岡崎 かつ、やっぱりすごく私の中で、子どもたち、どうしようっていう気持ちがある中で、聖路加の山内先生しかり、遺伝カウンセラーの先生しかりに、やはりお嬢さんたちが乳がんを心配する頃には、もっと、もっと私自身が受けた治療よりも良くなっているから、そんなに恐れるような病気ではなくなっていると、我々は信じているので、そこをそんなに不安に思うことはないと思いますよみたいにして励ましていただいたこともあって。2人に1人が、がんになるっていわれてるんだから。
岸田 そうなんですよね、確かに。
岡崎 もうこういうことだからっていう感じですかね。
【家族(親)】
岸田 逆にね。知ってると、対処出来る、大切ですねというコメントもいただいております。ありがとうございます。それでは、ちょっと次のテーマに移っていきたいということを思っております。まず、家族。ちょっとここから家族テーマに入っていくんですけど、家族、まず、さっきあった両親にどう伝えたかとか、どういうサポートがあったのか、ちょっとお伺いしてもいいでしょうか。
岡崎 両親は、私が、がんであるってことを伝えたんですけれども、それは有明に移ることが決まってから伝えました。最初に言われた時は、伝えなかったんですけど、それは、やはりちょっと高齢であるってこともあって、ちょっと受け止められないんではないかというふうに私は思っていて。有明に、もう移ることは確定して、がんだっていうことも分かって、サブタイプも分かったタイミングで伝えたところ、やはりちょっと受け入れられなかったというか、受け止め切れなかったので、うちの両親は。
岡崎 ただ、治療に関しての金銭的なサポートは出来るよっていうふうな話で。なので、メンタルというよりは、そういう金銭面で少し助けてもらう。特に私の場合、予防切除が実費だったりしたので、そこをちょっと両親のほうに助けて貰ったりしました。
岸田 そういった形ね。やっぱ受け入れる、両親もね、それ、受け入れがたかったの。
岡崎 もうやっぱり自分の悲しさが先立ってしまって、常に私が両親を慰めなくちゃいけないような状況だったので。
岸田 若い世代あるあるね。
岡崎 なんかもう私は、やっぱり自分の闘病に向き合うことに必死で、ちょっと両親のケアまで出来る状況になかったので、かなり疎遠にしてました、その時。
【家族(パートナー)】
岸田 大事。自分のでいっぱいなのに、いろんな人を考えなあかんていうのは、ちょっとそこはね。でも、裕子さん、そういうふうに対処されたというか、そういう形でされたといったことで。ちなみに、家族の中のパートナーについてといったところについても、お伺いしたいんですけど、さっき旦那さんが、ちらっと出てきて、旦那さんやとか見守ったんですけど、まず旦那さんとは、どういう出会いで。
岡崎 え? そっから?
岸田 いやいや。
岡崎 そんな、そこは割愛するとして、夫は、もうめちゃくちゃ凄いサポートしてくれました。もうとにかくお互い、その病気について知らないうちは、治療方針とか、がんという病気に対しての喧嘩もあったんですけれど、いざ治療が始まると、主治医との診察には必ず一緒に来て、全部メモも取ってたし。もう全てご飯も私が作れない時は、夕飯も全部作ってくれたし。
岸田 まじで、すごい。
岡崎 もう週末も、子どもたちを連れて公園に遊びに行き。
岸田 すごい。
岡崎 そういう意味では、かなり驚きの展開で、素晴らしいサポートをしてくれました。
岸田 それは、ちょっと僕も男性として聞きたいというか、がんになる前からも、結構サポート的だったのか、がんになってからっていう。
岡崎 がんになってから。もうこれは、本当にびっくりな展開で、超ワンオペで子ども育てて、どっちかというと、不満だらけだったんだけれども、すごい、まあ、両親にも頼れず、周りにも、私、言わないで仕事も続けてたから、周りにも打ち明けられず、なんかよれよれになってる私を見て、流石に、これは俺がやってあげないと、可哀そうって、多分、思ってくれたんだと思う。
岸田 それ、そこで変わったという形なんだね。
岡崎 うん、本当に。
岸田 いいご主人ですねとか、ご主人のサポート、凄く素敵で大事ですよねっていうことで。それ、今も結構ご主人も、いろいろサポートして。
岡崎 そうですね。やっぱ子どもと、そこで、すごい仲良くなったので。
岸田 良かった。
岡崎 今日も、私が、これがあるからって、3人で出掛けてもらってますけど、仲良くしてます。
岸田 じゃあ、今、この状況、インタビューさせていただいているのも、旦那さんのおかげということですね。
岡崎 子どもがいると、ちょっと話が出来ないので、すいません。
【家族(子ども)】
岸田 ありがとうございます。そして、そのお子さんのことといったところ。お子さんにはどう伝えた、伝えないとか、結構みんな、熱いけど、どうしました?
岡崎 私は、もうやっぱり隠すことで、むしろ、不安を感じさせるんではないかというふうに思って、夫と相談して、真っ先に子どもに話しました。
岸田 真っ先に。
岡崎 がんであると。ただ、これは幸か不幸かというか、当時、上の子が5歳で、下の子が2歳だったんです。そうすると、がんっていう病気の恐ろしさも、よく分かってないし、なんで、がんとは言わなかった。ママは、ちょっと胸に、すごい悪いものが出来てしまって、それを治療するために、すごい強いお薬をしないといけなくなっちゃう。
岡崎 その強いお薬で元気なくなったり、髪の毛抜けたり、ちょっと皆なが心配に思うようなことがあるかもしれないけど、これは、よくなるための治療なので、不安に思わないようにっていうことを夫婦で話して聞かせました。
岸田 どう? お子さんは納得というか、理解度的にはどう?
岡崎 「死んじゃうの?」みたいにして聞かれて、「いや、大丈夫。死なない」みたいな。まあそんなの、はっきり言って、分からないけど、でも、もうそこは、そう言おうと思ってたので、大丈夫。ちゃんと治療をするっていうだけだから、心配は要らないよっていうふうに話していました。
岸田 けど、治療中とか、子どもと一緒に病院行くとかじゃなかったん?
岡崎 それは、だから、幼稚園の先生と保育園の先生には、お話をして。もうすっごい協力していただいた。だから、ちょっともう遅れちゃうときとかは、預かり保育もあったから、幼稚園で、もう遅くまで預かっていただいたり、保育園の先生が預かってくださったり。
岸田 じゃあ、そこにサポートしてもらったってことね。
岡崎 そう。あとは、夫に先に帰ってもらって、その日だけ私が電車で抗がん剤治療やって帰るとか、そういうことは、してました。
岸田 そうされてたんですね。お子さんには伝えたほうがいいと思いますとか、私は伝えなかったので、とても不安でしたというコメントをいただいております。塞翁が馬ですねということで、人間万事塞翁が馬っていう諺ですね。意味をちょっと僕は忘れましたが。なんか終わり良ければ全て良し的な、何かあったら良かった的な。
【仕事】
岸田 では、次のセッション。次は、お仕事のことということで、さっきちらっと、お仕事は、何も、職場っていうか、周りには伝えなかったっていうのを聞いたんですけど、仕事、どうしたんですか、その後。
岡崎 私、やっぱりフリーランサーというか、もう仕事の依頼が来て初めて仕事が成立するような職なので、自分が大きな病気であるっていうことを言ったら、もう依頼が来なくなるなと思って。なので、もうこれは敢えて公言するのは、止めようと思って、言っていませんでした。ただ、ちょうど治療が開始した年に個展が決まってたんです。そこは、もうすごい長いお付き合いの場所だったので、多くは言わなかったんですけれど、ちょっと家の事情で、このタイミングで展覧会は出来ませんっていうふうにお話はしました。
岡崎 だから、そこだけお断りしたんですけど、そこの取引先も最終的には、こうでしたっていうお話はしました。けど、とにかく治療中は、一切周りには、取引先とか、仕事関連の方たちとか、幼稚園のママ友とか、保育園のママ友にも一切。
岸田 でも、幼稚園の先生には、だから、言わないかんけど。
岡崎 先生達には、お話しした。先生たちには、やっぱり子どもの様子を見てて欲しかったし、サポートしていただきたかったので、お伝えしましたけど、ママ友には言わず。ただ1家族だけ、この家からすぐ近くに住んでいる、すごい家族で仲良くしていて、うちの夫の高校時代の同級生の家族がいて。そこのお宅にだけは話をしていて、そこのお宅には、すっごくお世話になりました。
岸田 ただずっと言わなくて、言うタイミングっていうのは、今、こうやって、がんノート出てくれてるっていうことは、どっかで言ったと思うんですけど、どこのタイミングで職場っていうか、仕事関係に伝えた?
岡崎 予防切除が終わって、術後1年過ぎたあたりで、SNS上で、Facebook上で公開をして。でも、Facebookは、私、クローズドなので、もうそこに取引先の方とかもいたので、それで皆さん知ることになったって。
岸田 それは、なんで伝えようと思った?
岡崎 そのCancerXの活動を始めようと思う、CancerXって、がんの社会課題に向かって、みんなで取り組んでいこうみたいな活動をしている、岸田君も手伝ってくれて、一緒にやらせていただいてますけど。
岸田 僕、一緒にやらせてもらってますけど。
岡崎 その活動もスタートするっていうのもあったし、やはりその遺伝ということを考えたときに、なんか私が感じた生きづらさみたいなものを、隠している私がいる限り、社会も変わらないみたいな気持ちになっちゃって。仕事の方にも、ちゃんとお伝えして。要は、ちゃんとリカバー出来るからね。治療中は、もう仕事も戻れないんじゃないかって思ってたけれど、1年たって、予防切除も終わってみたら、もう、ろくろも引けるし、窯も焚けるし、ちゃんと元通りの仕事が出来ていたから、じゃあ、言っても良いかなっていう感じで。
岸田 周りの反応も特に大丈夫でした?
岡崎 全然大丈夫でした。むしろ、本当に大変だったね、良かったねみたいな感じの。かなり私もポジティブな形での発信をしたので、それは大丈夫でした。
岸田 さっき、ろくろ回してってあったけど、やっぱ陶芸家って、結構、繊細なやつが求められると思うんですけど、手術した後遺症だったりだとか、抗がん剤のなんかで、ちょっとみたいなとこはなく、大丈夫?
岡崎 お陰さまで、手先の痺れとかの後遺症は無いんだけれども、やはり左側の腕の筋力が戻るのは、凄く時間がかかっていて。やっと今、4年で、ようやくかなっていう感じです。だから、最初の頃は、ろくろ引いたり、窯出ししたり、頑張り過ぎちゃうと、すごい重たく、だる重くなっちゃって、自分で、さすったりとかしてました。
岸田 そうなのね。今、ようやく4年かけて、ちゃんともう大丈夫になってきたと。
岡崎 うん、そうですね。随分戻って来てるなと思う。
【お金・保険】
岸田 ありがとうございます。そして、その次のこのお金や保険といったところ。まずこの保険って入ってました?
岡崎 いや、入ってなかったんですよね、私。入ってないんですよ。
岸田 お子さんが出来たタイミングで入る人たち、多いようなイメージだったけど。
岡崎 実は入ってたんだけど。
岸田 入ってたんや。
岡崎 入ってたんだけど、ちょうど本当にがんが発覚する直前ぐらいに解約しちゃったの。
岸田 ウオー
岡崎 ・・・感じなんだけどね。
岸田 そうなんや。じゃあ、保険は、そういうものでは出ず、お金は、どれぐらいかかりました? 治療費。
岡崎 お金は、いわゆる健康保険で払う部分と実費等があって、私の場合、予防切除も含めたら、最初のがん研での手術が50万とか60万円ぐらいかな。普通の初発の治療。
岸田 普通の治療がね。
岡崎 で、その後、聖路加での予防切除が90万、98万、100万円ぐらい。
岸田 いや、100万ぐらいいくよね。
岡崎 その後、また再建のシリコンの入れ替えで30万とか、そういう感じ。
岸田 あれ再建は保険適用じゃないの?
岡崎 左は保険適用だけど、右は保険適用じゃないの、予防切除は。
岸田 そっか。左は保険で、右は自費っていう。
岡崎 そう、そうなの、当時は。もう今の方は多分、違いますよ。ちゃんと今の方は、健康保険で、きちんとカバーしていただけるんだけれど、私が手術した時は、そうじゃなかったので、夫の会社の高額医療制度には、すごい助けられて、健康保険でカバーされる部分は。実費の部分は、先ほどもちょっと言いましたけど、両親にサポートしてもらってっていう感じ。
岸田 100万超えていくしね、いろんな。いや、結構、今は大丈夫だけど、当時、自費でっていったところだったから。
岡崎 そう。全部実費だからね。まあ遺伝子検査だけでも、治験だったから、いいかなっていう・・・。
岸田 確かに。普通に遺伝子検査しようと思ったら、保険適用とか、がん研、入れんかったら、58万とか60万ぐらいするし、普通のやつ。
岡崎 そうね。でも、当時、実費で35万円ぐらいと言われたと思うんだ。
岸田 ほんまに。
岡崎 うん
岸田 じゃあ、また違うあれか。了解。それで、治験やったから大丈夫やったということね。
岡崎 うん、そうです。
【辛い・克服】
岸田 そして、お金のことが終わりまして、その次、つらい・克服というところになります。これ、肉体的にと精神的にあると思うんですけど、肉体的につらい時、どう克服したか、精神的につらい時、どう克服したかといったところを、ちょっとお伺いできますでしょうか。
岡崎 私の場合は、遺伝っていうキーワードが、すごい治療の中で外せなくて。子どもたちが将来、罹患する可能性があるんだと思うと、自分ごとというよりは、もうやっぱ娘たちが治療に向かってる私に対して、どういう印象を持つだろうということが、すごい重要だと思っちゃってて。子どもたちが、もしかして罹患するっていうことが、将来あった時に、あんな恐ろしい病気って思わないようにしたいっていう、なんか謎な気合が、そこに入っていて。あんまり自分のつらさに向き合うというよりは、子どもたちが見た時に、つらいって思われないようにしようっていう感じで、凄い気張っていたので。幼稚園行ったり、保育園行ったりしてる時間帯は、かなり自分を甘やかして、ダラダラしてたけれど、帰って来たら、結構、普通に過ごすように努めてしまっていて。それで、それが謎な気合となって克服出来ちゃったみたいな。
岸田 それが、逆にそういう演技じゃないけど、そういうふうに見せんようにしようと思ってたら、逆に克服出来てた。
岡崎 そうかなと思う。
岸田 精神的に落ちたこととかないの? 裕子さん。
岡崎 いや、精神的に落ちたのは、抗がん剤3回目で、物凄いつらくて、それは、もうこのまま治療続けらんないかもしれないと思って、すっごい落ち込んで、もうへこみまくってたけど。あとは、自分の病気と向き合った時に、やっぱり不安と向き合わなきゃいけない時が何度かあると、落ち込んだりはしていたけれど。多分もともと結構その辺は、深くその日は考えるけど、もう次の日は考えないでいられるタイプなんだと思います。
岸田 僕もそんな感じです。翌日には結構。
岡崎 そうじゃないと、本当やっていけないよね、もう。
【後遺症】
岸田 いや、そう。どっかで、もう切り替えてかないとっていうか、無理やり切り替えないとっていうのはありますよね。次、後遺症のことといったところで、ちょっとお伺いしたいんですけれども、後遺症。他っていうか、いろんな後遺症あると思うんですけど、今、話してない中で、この後遺症あるなっていうの、あったりとかしますか。
岡崎 だから、やっぱり左腕のちょっと、こう、違和感、何となく。
岸田 違和感。
岡崎 やっぱりリンパ節取った後の、このちょっと後ろのほうの違和感とか、痺れっていうのは、まだあるのと、あとは先ほども、ちょっとお話したけど、骨のそういうの。
岸田 そうね。骨粗しょう症。
岡崎 骨が弱ってしまっているっていうことは後遺症なんだろうなというふうに思う。
岸田 だから、骨にも気を付けないといけないですもんね。
岡崎 うん、骨。
【医療者へ】
岸田 ありがとうございます。そして、次、こちら。医療者へといった中での、医療者の方に本当にありがとうでもいいし、こうしてくださいでもいいですし、何か覚えあるエピソードとかあれば、ちょっと教えていただきたいなと思うんですが。
岡崎 私の場合は、やっぱりセカンドオピニオンをお願いした時に、有明の先生が、凄く本当に暖かく、勿論書きますよみたいな感じで、直ぐ紹介状を書いて送り出してくださって。あと本当、最初の主治医の先生に、いろんな精神的にも、気が多分、相性が合ったっていうのはあるんですけど、いろんな質問にも、きちんと真摯に向き合って答えてくださって、凄く助けられたので、そこは本当に感謝してます。
岸田 大体セカンドオピニオンっていったら、うん?みたいな医療者とかいますからね。
岡崎 かなっていうイメージだったんだけれど、全然そんなことなくて、本当に気持ちよく送り出してくださって。ご自身と、その山内先生の関係性が仲良しなんだよみたいにして、凄いお話してくださったりして。凄い優しかったので、本当にそこは、有難いなと思っています。
岸田 で、その後、転院になる。転院ってなったら、どうなんの? そこは、もうそのやりとりは書面になんの? もう一回、有明に行ってなの?
岡崎 うん、山内先生のほうから、転院をお勧めしました。あとは、ご本人の意思に任せますみたいなお手紙をもらって、セカンドオピニオンのその結果みたいなものを、また渡されるから、それを今度、もともとの有明の先生に渡すの。それで、先生が、「なんかそうやって書いてあるけど、どうすんの?」って言われて。ちょうどその先生、その翌年の3月でいなくなられることも決まってたの、実は。
岸田 そうなんや。
岡崎 そう。先生もいなくなっちゃうしみたいな。「ちょっと転院しようかなと思うんですよね」とか言ったら、「そうなの。分かった。じゃあ、そうしていいよ」って感じでした。
【得たこと・気づいたこと】
岸田 そういったこともあって、転院もしたといったことです。ありがとうございます。そして、次、得たこと、気付いたことと。今までちょっとキャンサーギフトという言葉にちょっと使ってたんですけれども、やっぱりキャンサーギフト、イコールなんですけれども、がんになって得たこととか、気付いたことって何ですかといったところで、ちょっと。
岡崎 そうですね、やっぱり当時のタイミングで、すごい家族仲は、夫と子どもたち含め、凄く良くなったので、それは本当に良かったことだなと思います。
岸田 家族仲ね。いや、やっぱ旦那さんが、すごくそうやって協力的になったのは本当ね。
岡崎 有難かったです、凄く。
【夢】
岸田 本当ありがとうございます。そして、次、この夢といったところになります。今後、岡崎家は、どうなっていくのかということ。
岡崎 どうなんでしょう。子どもたちと一緒にいろんなところ行きたいですね。今、ちょっとコロナ禍もあって、なかなかいろんな場所、行かれないですけれど、海外も含めて、いろんなとこ行きたいなと思います。
岸田 いろんなとこ行きたいし、陶芸家としては?
岡崎 やっぱり1回予防切除のちょっと前にパリのジャパンエキスポにも参加させていただいたりして、少し海外の方にも見ていただく機会があったので。
岸田 パリ。
岡崎 うん。
岸田 すごっ。
岡崎 ねえ、なんかヨーロッパのほうでも、作品持っていきたいななんて思います。
【 ペイシェントジャーニー】
岸田 ワールドワイドに、日本だけじゃなくて。流石、岡崎さんのこの陶芸をいろんな世界各国にといったところは、素敵だと思います。ありがとうございます。そんな今までのペイシェントジャーニーといった中で、今まで話をちょっと自分の感情の曲線を描いて、ちょっと岡崎さんに聞いておりますので、こちら。纏めとして、ちょっと見ていただければと思います。裕子さん、この中で、しゃべり足りてないとか、忘れてたなと思うことがあったら、全然適宜言ってくださいね。
岸田 まずちょっと第2子の妊娠、そして、その出産で、しこり。これは、助産師の方が、しこりを発見するけど、スルーしたということで。上に行けば行くほど、ポジティブで、下に行けば行くほど、ちょっとネガティブで、赤色がポジティブ、青色がネガティブ、灰色が治療で、白色は、どちらでもないというふうな形になります。その中で個展の再開をしていく。だから、この再開をした中でのしこりに気付いて、クリニックへ行くと、乳がんの告知っていうことね。
岸田 数日で告知受けたけれども、ちゃんとサブタイプが分かるのが、結構、時間かかったといった中で。で、そして、薬物療法で術前の抗がん剤をしていきます。その次にHBOCが確定して治験に入っていく。そして、手術。左乳房の全摘でリンパ節郭清も、手術していくと・・・。あっ、ごめんなさい。郭清のカクセイ、僕、間違っちゃったかもしんない。すいません。漢字がね。治療が奏功していくといった中で、この時が結構、一番高い値ですよね。やっぱ治療奏功した時、結構、ヤッホーみたいな。
岡崎 そうですね。もうそこがやっぱり一番最高潮ですよね。もうやったーみたいな。
岸田 そうだね。だって、そっから下がっていくというか、セカンドオピニオン、ちょっと下がってんのは?
岡崎 これは、奏功したのが、あまりに高過ぎて、そういうふうに・・・。
岸田 そういう感じね。セカンドオピニオンを受けて、そして、また下がっていくと、次、右側の乳房に病変がありということで、当時は、それは問題無いということでしたけど、やっぱ左の後に、次、右になった時、この時のつらさって、乳がん告知の近いねんね。
岡崎 そうね。やっぱりなんでまだ前回の抗がん剤から1年も経ってないのに、そんな右に病変が出来るなんて、どういうことっていう、抑え込めてなかったのかなっていう怖さですかね、その時は。
岸田 怖さ。ただ、それが良性の診断で良かったといったところで、それで、さっきの言っていただいたパリのジャパンエキスポに行って。じゃあ、ここん時って、もう本当に治療終わって。
岡崎 実は、ジャパンエキスポ行って帰ってきて予防切除したの。
岸田 あっ、そうなのね。じゃあ、その後に予防切除があったということ。その後、先ほどあった両股関節の痛み。これは、骨量の減少傾向があるからといったところでの経口薬を開始していくと、骨のところで。そして、その後、またリンパの痛みといったところで、それが実は筋肉痛だったということもあって。
岸田 まあ何かしら痛かったら、病院行って、いや、大事、大事。だって、ただでさえ、やっぱ遺伝性乳がんってなると、本当に気になると思うんで、それが大事だと思うよ。そして、いきなりサーフィン再開ってあんねんけど、ちょっと待って。サーフィンってワードが、今まで1回も出てへんけど。
岡崎 全く出てないで、突然突如、現れましたけど、がんが分かってから、無性に私、サーフィン再開したいってすごい思ってて。30代の前半にやってたんですけど、妊娠、出産で遠のいてたんです。乳がんの治療をしてる頃から、やっぱり海に行きたいとか、サーフィンしたいとかって、ずっと言ってて、それを実現させたって感じですね。でも、リンパ節郭清してるから、どうなるんだろうと思いつつ、でも、最初のうちは、左、全然ちゃんとパドル出来なかったんですけど、少しずつリハビリサーフィンで始めました。
岸田 リハビリサーフィン始めて。そんな中で、しこりをまた発見していくけど、さっきの、やばい。何?
岡崎 肥厚ね、肥厚。
岸田 肥厚ね。ちょっと熱くなってる、いろんなことをしたためにっていうふうな診断で、良かったといったところで、次のしこりの発見が、前のしこりの発見よりも低いのね。
岡崎 そう。このしこり発見は、お医者さまの触診で発見されたんだけど、何となくそうかなみたいな感じだったんだけど、今回の10月のしこり発見は、自分で見つけたから、すごい落ち込みました。
岸田 そういうことね。自分で見つけたほうが。右側にちょっと残ってるやつよね、乳輪のところ。
岡崎 そう、そう。
岸田 確かに。ただ、大丈夫だろうといったところで、経過観察見ていこうといったところで、その後、終日のサーフィンが出来るようにということ。
岡崎 それが今の一番の、仕事よりも何よりも、そっちかいって感じなんだけど、この間、ちょっと1日、終日サーフィンしてみたけど、できて、それが、嬉しかったです。
岸田 もうさっき左腕が、ちょっとなんか厳しいみたいなことを言ってたけど、パドリング? パドル?
岡崎 パドル。問題なく出来るようになった。
岸田 出来るようになってね。漕げるようになってといったところで。ただ、今は、まだ安心とは言えない日々ということで、全部で5年は、もうすぐ?
岡崎 そう、来年の9月が5年なの。だから、あと10カ月ぐらいですかね。
岸田 全然まだやった。ゴメン。あと1年弱ぐらいで5年になるといった中になります。ありがとうございます。では、ちょっとここから少し協賛の企業さんの紹介をさせていただければと思います。「『生きる』を創る。」のAflac様、グローバル企業のIBM様、そしてI-TONGUE様にご協賛いただいております。ありがとうございます。また、見てくださってる皆さまも、本当コメントくださったり、いろいろありがとうございます。
岸田 そして、ちょっと皆さんにお願いがあります。アンケートのご回答のお願いとなります。この番組終了後に、動画の概要欄、あとチャット欄にあるURLをちょっとアクセスしてもらったら、嬉しいなと思います。ここにアンケートをちょっと、簡単なアンケートになりますけれども、そこ入力していただいて、あとちょっとコメントを書けける部分があります。
岸田 その書ける部分を、岡崎さんへみたいな書ける部分なので、それをちょっと入力しいただいたら、後で、後日、裕子さんにメッセージをお届け出来たらなと思いますので、もし良かったらご入力お願いいたします。といった中で、もう、あっという間の本当に80分以上も経って。
岡崎 すいません。
岸田 全然。あともう少しに時間がなって参りました。そんな中で、その前にコメントをいただくと、裕子さんの作品見てみたいですというコメント。
岡崎 ありがとうございます。
岸田 裕子さんの写真って、どうやったら見れる? 写真じゃないわ、作品って。
岡崎 作品ホームページがあります。岡崎裕子で検索していただくと、出てきます。
岸田 検索して。個展?
岡崎 次は、個展は12月の11日から葉山まで展覧会をやるので、もし、ちょっと都内は、来年の2月までないんですけれども。
【今、闘病中のあなたへ】
岸田 定期的に個展とかもされていらっしゃいますので、ぜひホームページを見ていただければということを思っております。そんな裕子さんに最後お伺いしたいことがあります。それがこちらになります。どんと。今、闘病中のあなたへということで、今日も、コメントで、術後3週間です、だったりだとか、本当にいろんな方もコメントいただいております。そんな、今、闘病中の人に向けて、裕子さんからこの言葉をいただきました。こちらになります。裕子さん、じゃあ、この言葉と一緒に、ちょっと説明をお願いできますでしょうか。
岡崎 「いろいろ無いけど元通り」という言葉にさせていただいたんですけれども、治療を経て乳房も無くなり、卵巣も無くなり、リンパ節も無くなり、色々取りましたけど、でも、なんか自分としては、治療が始まる前に、どれぐらい自分の日常って戻せるんだろうとか、自分の身体って、どれぐらい戻るんだろうって、凄くそこが不安だったんですけれど、4年たってみて思い返すと、かなり今は、もう以前の自分の動きとか体力とかに戻っているなというふうに思ったので、いろんなものは、無くなっちゃいましたけど、元通りになって来ているなっていうふうに感じるので、それを、今、がんの治療闘病中の方にお伝え出来たらなと思いました。
岸田 ありがとうございます。いろんな、本当無くなるもんというのは、いっぱいあるけれども、もう4年以上経った中では、だんだん元通りにもなって来て。乳房も再建して、いろんなものが元通りになって来ているという。なので、今、闘病中の方も、安心して下さいとは気軽に言われへんけれども、こういった裕子さんみたいな方もいらっしゃるので、見通しを持っていていただけたらなということを思っております。そういった中で、本当にもう今日、裕子さん、いろいろお話しいただきまして、ありがとうございました。
岡崎 こちらこそありがとうございました。
岸田 裕子さん、どうでした? 久し振りに自分の話を長編にわたって。
岡崎 そう。こんなに長いことお話させていただくこと、中々無いので、何かいい振り返りになったなっていう感じですけど、やっぱりいろいろ大変だったなっていうふうに、ちょっと思い返してました。
岸田 ただ、ここから、裕子さんがいろんな活躍をしていく中で、また乳がんの方たち、もしくは他のがんの方たちに向けての本当に見通しになったりとか、そういう裕子さん、頑張ってるから頑張ろうと思ってもらえるような人が1人でも多くいらっしゃれば、嬉しいなと、がんノートとしても思っています。そんな中で、今日のがんノート、以上となります。本当に今日は皆さん見ていただきまして、ありがとうございました。
岡崎 ありがとうございました。長々すいません。ありがとうございます。
岸田 いいえ。それでは、皆さん、またお会いしましょう。それでは、バイバイ。
岡崎 さようなら。