目次

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インタビュアー:岸田 / ゲスト:三井

【告知・発覚】

岸田 本日は開始ということで、「がんノートorigin」をスタートしていきたいと思います。がんノートoriginは、これまでがんノートにご出演いただいたゲストの方に、約90分かけてじっくりとお話を伺う企画です。治療中に何を感じ、どのように対処してこられたのか、また、センシティブで普段なかなか聞けないことについてもお話を伺っていきたいと考えています。

岸田 本日のゲストは、メラノーマのご経験者でいらっしゃいます、三井さんです。よろしくお願いいたします。

三井 よろしくお願いいたします。

岸田 では、まず簡単に自己紹介をさせていただければと思います。私からよろしいでしょうか。

三井 はい、お願いします。

岸田 がんノート代表理事の岸田と申します。本日はMCを務めさせていただきます。私は25歳と27歳のときにがんを経験し、その体験をきっかけに、患者さんのインタビュー発信を始めました。本日はどうぞよろしくお願いいたします。

三井 よろしくお願いいたします。

岸田 それでは、三井さんの自己紹介をお願いいたします。

三井 三井里美と申します。北海道で教員をしています。34歳のときにメラノーマを発症し、その時点ではステージⅡでしたが、昨年ステージⅣに進行しました。現在は、メラノーマと脳腫瘍の、いわゆるダブルキャンサーです。本日はよろしくお願いいたします。

岸田 よろしくお願いいたします。本日は脳のことについても、じっくりお伺いできればと思っています。普段なかなか詳しく聞けないお話ですので、私自身も楽しみにしております。今日はリラックスした雰囲気で進めていければと思います。

三井 はい。

岸田 今日は帽子がとてもおしゃれですね。

三井 ありがとうございます。ただ、自分としては、今日は帽子の気分ではなかったんです。

岸田 すみません、いきなり踏み込んでしまいましたね。

三井 私は帽子ではなく、前回「がんノートnight」に出演させていただいたときもテーマにしていたのですが、ウィッグ愛好家なんです。本当はウィッグで、長い髪のスタイルで参加したかったのですが、現在治療中という事情があり、今日は帽子での参加になりました。

岸田 その「事情」についても、後ほどお話が出てくると思いますので、皆さん楽しみにしていただければと思います。三井さんは、今日は北海道からご参加いただいているんですよね。

三井 はい、札幌から参加しています。

岸田 札幌からありがとうございます。オンラインでこうしてお話ができるのも、今の時代の良さだと感じています。では早速ですが、三井さんのがんのご経験について伺わせてください。どのような経緯で発覚し、告知に至ったのか、お話しいただけますでしょうか。

三井 私は頭頂部にできたメラノーマ、いわゆる悪性のほくろがきっかけでした。もともとヘアアレンジが大好きで、髪を長く伸ばし、毎日アレンジして学校に出勤していました。土日も鏡を見ながら研究するほどでした。

岸田 土日に研究されるほどだったんですね。

三井 はい。インスタグラムなどで可愛いアレンジを見つけては、いろいろ試していました。あるとき、合わせ鏡で後頭部を見た際、つむじのあたりに大きなほくろがあることに気づいたんです。昔からあったものだったかな、と気になったのが最初でした。

岸田 それは、いつ頃のことだったのでしょうか。

三井 2018年の8月か9月頃です。

岸田 今から考えると、まだ数年前ですね。

三井 そうですね。最初は少し様子を見ていたのですが、だんだん大きくなっているように感じて、不安になりました。友人に見てもらったところ、「これはちょっとおかしいのではないか」と言われ、皮膚科を受診することにしました。

岸田 最初に受診されたのは、近所の皮膚科でしょうか。

三井 はい。札幌にある個人クリニックでした。そこで「ここでは判断しきれないので、大きな病院を紹介します」と言われ、大学病院を紹介していただきました。

岸田 「診きれない」と言われると、不安になりますよね。

三井 怖さはありましたが、そのとき医師から「手術で取って、きちんと生検をしたほうがいい。頭部は出血しやすいので、大学病院で行ったほうがいい」と説明され、大学病院で局所麻酔による手術を受けました。

岸田 メラノーマは、クリニックでは良性と判断されてしまうケースも多い印象があります。

三井 まさにその通りです。メラノーマは10万人に1人とも言われるほど稀ながんなので、最初のクリニックでも「たぶん大丈夫だと思うけれど」といった説明でした。大学病院でも、担当の先生は「おそらく良性だと思う」という見解でした。

岸田 そうだったのですね。

三井 はい。病理検査でも診断が難しく、病理の先生も迷われたそうです。ただ、私が通っていた大学病院には、たまたま本州からメラノーマの権威と呼ばれる先生が来ていた時期でした。その先生が「メラノーマとして治療しましょう」と判断してくださり、きちんと治療につながりました。本当に運が良かったと思っています。

岸田 その先生がいなければ、見逃されていた可能性もあったということですね。

三井 はい、そう思います。

岸田 本当に、タイミングが大きかったですね。メラノーマは悪性黒色腫とも呼ばれ、見逃されやすいがんですから、その判断に至ったことは非常に重要だったと思います。

三井 はい。

岸田 その段階では、まだ「良性かもしれない」という状況だったわけですよね。

三井 そうですね。「かもしれない」という段階でした。

岸田 そこから、どのようにがん告知に至ったのでしょうか。

三井 病理診断に時間がかかり、結果が出るまで2〜3週間待ちました。当時、通院は札幌でしたが、仕事は北海道のオホーツク地方でしていました。

岸田 オホーツク地方ですね。

三井 はい。冬には流氷が来る地域です。

岸田 北海道の右上あたり、網走のほうですね。

三井 はい、そうです。網走と言えば、イメージが湧く方も多いかと思いますが、その網走の近くで、冬には流氷が来る町で教員をしていました。札幌の病院で手術を受けた後、オホーツクに戻って通常どおり仕事をしていました。いつもどおり生徒にパソコンの授業を終えた直後、電話が鳴り、出ると「三井さん、悪性でした」と電話口で告げられ、その場で告知を受ける形になりました。

岸田 情報量が多くて、少し整理させてください。札幌の病院に通いながら、普段はオホーツクで生活されていたということですよね。教員のお仕事の関係ででしょうか。

三井 はい。単身赴任で、札幌から約300キロ離れたオホーツク地方で勤務していました。

岸田 なるほど。ただ、病院は札幌だったんですね。

三井 はい、そうです。

岸田 かなり距離がありますね。オホーツクにも病院はあったのではないですか。

三井 病院自体はありますが、家族が札幌にいました。主人も札幌に住んでいたので、何かあったときに家族がそばにいない状況で治療を受けるのは厳しいと感じ、病院は札幌に決めました。

岸田 そういう理由だったんですね。オホーツクで教員として勤務されている中で、仕事中に電話で告知を受けたと。

三井 はい。電話で「がんです」と言われて、こんな大事なことを電話で告げられるのかと、とても驚きました。4時間目の授業が終わった直後に告知を受け、その場で生徒がいなくなった後、泣き崩れてしまいました。それでも時間になったので給食に行きましたが、砂を噛んでいるような感覚で、味は全く覚えていません。

岸田 それは、よく給食を食べられましたね。

三井 当時は担任をしていたので、生徒と一緒に食べなければならなかったんです。

岸田 なるほど。食べないわけにもいかない状況だったんですね。

三井 はい。生徒たちは高校生だったので、異様な空気は感じ取っていたと思います。「三井先生、何かおかしいぞ」という雰囲気は伝わっていたと思います。

岸田 電話で告知を受けた後、そのまま授業や給食に向かわれたんですね。その後、ご家族に連絡はされたのでしょうか。

三井 告知を受けた直後は、どうしていいか分からず、完全にパニックになっていました。とりあえず給食を終えて教室に戻り、どうすればいいのか分からなくなってしまって。そこで教頭先生に「少しお話があります」と声をかけました。

三井 そして、「今、がんだと言われたのですが、どうしたらいいでしょうか」と相談しました。すると教頭先生から「まずは家族に連絡したほうがいいのでは」と言われ、そこで初めて主人に電話をしました。それほど混乱していたのだと思います。

岸田 ご主人の反応はいかがでしたか。

三井 主人もパニックでした。「えっ……」という反応でした。

岸田 本当に、突然ですものね。電話で告知というのも、なかなか厳しいですね。

三井 正直、電話での告知はとてもつらかったです。仕事中でもあり、対応に困りました。

岸田 それは困りますよね。

三井 ただ、結果を聞きに札幌まで行くだけでも片道で何時間もかかるので、仕方なかったのかもしれないと、今では思っています。

岸田 ありがとうございます。次の治療のお話に入る前に、今いただいているコメントを少しご紹介します。

三井 はい。

岸田 「見逃されなくて本当によかったですね」「電話で告知だったんですね」「冷静な教頭先生ですね」「やはり家族と一緒に告知を受けたいですよね」といった声が届いています。教頭先生が冷静に対応してくださったのは、本当に大きかったですね。

三井 本当にそう思います。今は職場が変わりましたが、今でも折に触れて連絡をくださって、「三井さん、元気にしていますか」と気にかけてくださいます。

岸田 とても素敵な先生ですね。

三井 そのときは、本当に良い管理職の方々に恵まれていました。

岸田 「そのときは」という言い方が、少し気になりましたが。

三井 今も、です。

岸田 今も、ですね。それは良かったです。

三井 はい。とても理解のある職場です。

岸田 理解のある職場というのは、本当にありがたいですね。ありがとうございます。コメントで、MOEさんから「里美さん、見ていますよ」と届いています。

三井 ありがとうございます。見てくださっていて嬉しいです。

【治療】

岸田 ありがとうございます。では次に、告知を受けた後の治療について伺っていきたいと思います。治療については内容が多いと思いますので、こちらでご用意いただいているフリップを使いながら進めていきます。フリップの提示をお願いいたします。

 こちらのフリップには、2018年から治療が始まった経緯がまとめられています。先ほどお話しいただいた、ほくろの切除手術とがん告知の後、どのような流れで治療が進んでいったのか、順を追って教えていただけますでしょうか。

三井 がんの告知を受けるまでの経緯は、先ほどお話ししたとおりです。告知後は、転移がないかを調べるために、全身の検査を受けました。具体的には、CT検査、MRI検査、血液検査などです。私はもともと咳喘息がありました。ただ、日常生活に支障が出るほど重い症状ではありませんでした。検査の中で造影剤を使用する検査が必要になったのですが、喘息がある人は造影剤が禁忌とされています。

岸田 造影剤は使用できないということですね。

三井 はい。造影剤は、CTやMRIで画像をはっきり写すために使う薬剤ですが、喘息のある方にはリスクがあります。ただ、私自身は「そこまで重症ではない」と思い、医師にもそう伝えた上で検査を受けました。造影剤によって命に関わる副作用が起きる確率は、一般的に5万人に1人と言われています。

岸田 確率としてはかなり低いですが、ゼロではないですね。

三井 その5万人に1人が、私でした。

岸田 実際に起きてしまったということですね。

三井 はい。10万人に1人と言われるメラノーマに続いて、さらに5万人に1人の副作用を引いてしまいました。MRI検査でガドリニウム製剤という造影剤を使用した後、その日の夜から急に息苦しさを感じるようになりました。最初は喘息が悪化したのかと思い、土日は自宅で様子を見ていました。

 しかし、月曜日になっても症状が改善せず、自分でタクシーを呼んで病院を受診しました。すると、その場で「緊急入院が必要です。急性心不全です」と告げられました。

岸田 急性心不全という診断だったのですね。

三井 はい。心臓のエコー検査を受けたところ、肺と心臓の周囲に水がたまっていることが分かりました。そのまま入院となり、入院期間は約1か月でした。

岸田 1か月の入院は大きいですね。

三井 当時、12月に予定していた治療がありました。11月に頭皮の腫瘍自体は切除していたのですが、メラノーマの場合、周囲を広めに切除する必要がありました。具体的には、約4センチ×6センチの範囲を切除し、左脇腹の皮膚を移植する「拡大切除手術」を行う予定でした。

 しかし、急性心不全で入院したため、その手術が約1か月延期になりました。がんが体内に残っている状態で手術を待つ時間が延びたことは、精神的に非常につらかったです。

岸田 心臓の治療と、がんの治療が同時に重なっていたわけですね。

三井 はい。心臓の状態を回復させてから、改めてがんの手術を行うという判断でした。その間、「この1か月で病状が進行したらどうしよう」という不安が常にありました。

 当時、私は3年生の担任をしていて、卒業式を控えていました。3年間担任を続けてきた生徒たちの卒業式に出席できるのか、それも大きな心配でした。さらに、検査を重ねる中で、MRI画像に脳の影が写っていることも分かりました。治療の延期、心不全、脳の異常所見が同時に重なり、状況はかなり厳しかったです。

岸田 本当に次々と重なっていますね。

三井 そうですね。まさに立て続けに問題が起きていました。

岸田 脳にも影があると言われ、さらに急性心不全という診断だったわけですが、心不全というと、心臓が止まるようなイメージを持つ方も多いと思います。実際には、心臓のポンプ機能が十分に働かなくなる状態という理解でよいのでしょうか。入院治療によって改善したのでしょうか。

三井 はい。入院してステロイド治療を続けました。本来であれば、肺にたまった水を針で抜く処置も検討されていましたが、時間の経過とともに体内に水が再吸収され、自然に減っていきました。そのため、大きな手術は行わずに済みました。

岸田 そうだったのですね。

三井 ただ、症状としては本当に苦しかったです。

岸田 それは相当つらいですよね。

三井 入院していたのは10階の病棟で、内科病棟でした。唯一の楽しみが、2階にあるファミリーマートに行くことだったのですが、主治医からは「今の状態では車いすでも行ってはいけません」と言われていました。

三井 それでも毎日、「今日はファミリーマートに行ってもいいですか」と聞き続けていました。最終的に主治医が根負けして、「看護助手さんと一緒に車いすで行くなら」と、しぶしぶ許可をもらう、という日々でした。

岸田 その気持ち、よく分かります。私も入院中、病院内のファミリーマートに何度も通っていました。

三井 岸田さんの入院先もファミリーマートだったんですね。

岸田 当時はそうでした。今はセブン‐イレブンですが、当時はファミリーマートでした。

三井 ファミリーマートの次の目標が、1階にあるスターバックスでした。ただ、外来患者さんも多く、人が集まる場所だったので、なかなか行くことはできませんでした。

岸田 感染などのリスクもありますしね。

三井 はい。そんな生活を、急性心不全の治療中は送っていました。

岸田 約1か月の入院を経て、ようやく手術が受けられる状態になったのが、2019年1月ということですね。

三井 はい、そうです。

岸田 それが、先ほどお話しされていた頭皮の拡大切除術ですね。

三井 はい。がんがあった部分の周囲を含めて切除する手術です。当時、具体的なイメージを持ちたくて、自分で模型を作りました。

岸田 かなり精巧な模型でしたね。

三井 この大きさで頭皮を剃毛し、この範囲を切除して、植皮をするという手術でした。入院中は時間があったので、イメージトレーニングとして作りました。

岸田 植皮は、どの部位の皮膚を使う予定だったのでしょうか。

三井 最初は、デコルテ部分を提案されました。皮膚がよく伸びて、植皮に適している部位だと説明を受けました。

岸田 デコルテですか。

三井 はい。ただ、見える場所なので、私ははっきりと断りました。「目立つ場所からは絶対に取りたくありません」と伝えました。その結果、左の脇腹になりました。

 具体的には、ズボンや下着のウエストゴムが当たるあたりの位置です。その場所であれば納得できると考え、最終的にそこに決まりました。

岸田 ご自身の体のこととして、しっかり交渉されたのですね。

三井 はい。自分の体のことなので、納得した上で決めたいと思っていました。ここは目立つ場所ですし、がん患者ではありますが、病気になってもおしゃれを楽しみたいという気持ちは失いたくありませんでした。この先も人生は続くと、その時点でははっきり信じていましたので、「ここからは絶対に取らない」と明確に伝えました。

岸田 自分の意見をきちんと伝えることは大切ですよね。その結果、拡大切除術は問題なく行えたのでしょうか。

三井 腫瘍は頭頂部のやや左寄りにあったため、左脇腹から皮膚を採取し、そのまま左側の頭頂部に植皮する手術を1月に行いました。実際の状態は、事前に作った模型とほぼ同じで、毛のない脇腹の皮膚が頭皮に縫い付けられているような見た目でした。

岸田 ありがとうございます。術後の痛みはいかがでしたか。

三井 植皮については、看護師さんから「多くの患者さんが同じことを言います」と聞いていましたが、実際に痛かったのは皮膚を採取した脇腹のほうでした。頭皮側はほとんど痛みを感じませんでした。

岸田 脇腹の痛みに耐える期間が続いたということですね。

三井 はい。半年ほどは、服を着るたびに痛みを感じる状態でした。

岸田 ありがとうございます。ここまでのお話について、「造影剤は必ず正確な医療情報を確認したほうがよい」「造影剤によるショックが起こることもある」「入院中に売店へ行けないのはつらい」「デコルテから皮膚を取るのは抵抗がある」「自分の体だからこそ考え方が大事」といったコメントも届いています。

 それでは次に進みます。2019年2月、インターフェロン治療についてです。1月に拡大切除術を行い、その翌月に再び入院されていますね。

三井 当時はステージⅡBでしたので、拡大切除手術の後、術後補助療法としてインターフェロン治療を2年間行う方針でした。

岸田 インターフェロンとは、どのような治療でしょうか。

三井 免疫機能を活性化させる治療です。内服薬ではなく注射で行います。原発巣の周囲に、3か月に1度、1週間入院して、毎日少しずつ場所を変えながら注射を打っていました。リンパ系への転移に対して効果があると説明を受けました。

岸田 ありがとうございます。その治療方針について、主治医の先生と話し合われたのですね。

三井 はい。2月に入院した理由には、私自身の希望もありました。どうしても3月1日にオホーツクへ戻る必要がありました。3年間担任を務めた生徒たちの卒業式に出席することは、自分の人生とキャリアの中で非常に重要だと考えていたからです。その思いを主治医に伝えたところ、2月にインターフェロン治療を行い、3月には職場復帰できるよう調整していただきました。

岸田 治療を受けた結果、卒業式に間に合ったということですね。

三井 はい。ぎりぎりでしたが、間に合いました。

岸田 本当に良かったですね。では治療の流れを続けます。2019年3月から4月にかけて、採卵のために遠方の病院へ行かれていますが、これはどういった経緯でしょうか。

三井 3月1日の卒業式を終え、生徒を送り出した後、妊孕性温存のための採卵を行うことにしました。皮膚がんの治療自体は妊孕性への影響は少ないと説明されていましたし、インターフェロンも大きな問題はないと言われていました。

 ただ、私は脳腫瘍も抱えており、経過観察中でした。もし脳腫瘍が大きくなった場合、開頭手術、放射線治療、抗がん剤治療を行う可能性があると説明されていました。抗がん剤治療は脱毛だけでなく、生殖機能への影響も大きいため、脳外科の主治医から「将来を考えるのであれば、妊孕性温存を検討したほうがよい」と勧められました。夫婦で話し合い、妊孕性温存を行う決断をしました。

岸田 ありがとうございます。妊孕性温存については、後ほど詳しく伺いたいと思います。その後、さらに治療や出来事が続きますね。2019年8月から9月、「再発の可能性」「うつ病の発症」とありますが、これはどのような状況だったのでしょうか。

三井 主治医はとても信頼できる先生なのですが、率直に何でも口にされるタイプでした。私は治療について良い情報も悪い情報も知りたいと事前に伝えていたので、それ自体は納得していました。

 あるとき、背中に新しいほくろができ、「気になるので見てほしい」と相談したところ、「これ、再発だったらまずいな」と率直に言われました。そのまま切除して生検に出し、結果が出るまで約2週間待つことになりました。その2週間の間、再発であればステージⅣになり、予後が非常に厳しいことも自分で理解していました。当時すでに、同じ病気の仲間を見送った経験もありました。そのため、「もう自分は死ぬかもしれない」と現実的に考えてしまいました。

 オホーツクで仕事を続けながら2週間待つ中で、食事が喉を通らなくなり、入浴もできなくなっていきました。ウィッグを着用していたため、外見上は気づかれにくかったかもしれませんが、生活は確実に崩れていました。決定的だったのは、当時担当していた「学校内のパソコンの台数を確認・管理する業務」で、数が数えられなくなったことでした。

岸田 パソコンの台数を数える業務を担当されていたのですね。

三井 当時、学校でパソコンを管理する業務を担当していました。

岸田 はい。

三井 1台、2台と数えていくのですが、何度やっても10まで数えられなくなってしまったんです。指を使って数えても数字が頭に入らなくなってしまって。これはおかしいと思い、主人に電話をしました。

 主人はすぐに高速バスで迎えに来てくれて、札幌に戻り、そのまま病院を受診しました。主治医も私の顔を見て、明らかに状態が良くないと感じたようでした。その日のうちに睡眠薬を処方され、精神科の予約もすぐに入れてもらい、結果として「うつ病」という診断を受けました。

岸田 「再発かもしれない」という不安が、一気に精神面に影響したということですね。

三井 そうだと思います。拡大切除手術を終えて、インターフェロン治療も続けていて、「これからは良くなっていく」と信じていた時期でした。

岸田 主治医の先生の一言が、引き金になった面もあったのですね。

三井 そうですね。主治医は本当に、何でもそのまま口にしてしまうタイプなんです。

岸田 再発と確定してから伝えてもよかった内容ですよね。

三井 まさにそう思います。実はそれ以前にも似たことがありました。メラノーマと診断された直後、「予後はどうですか」と尋ねたときに、「肺に転移して、すぐに亡くなった若い女性の患者さんがいます」と、事実ではありますが、かなりストレートに話されました。

岸田 それは、かなりきついですね。

三井 腕は確かな先生なのですが、本当に何でも言ってしまうんです。

岸田 その後、うつ病として治療を受けることになったわけですね。経過はいかがでしたか。

三井 うつ病を発症したのは8月でした。その翌月から精神科に通院し、本格的に治療を始めました。薬は比較的早く効き始めて、2〜3週間ほどで症状は少しずつ落ち着いてきました。

 仕事は約3か月間休職しました。治療初期は、眠れない、起き上がれない状態が続きました。夜は暗闇が怖く、部屋にある小さな常夜灯の光さえも怖く感じるほどでした。

 正直ながん治療そのものよりも、うつ病の初期治療のほうが精神的にも身体的にもつらかったです。ただ、投薬治療を続けながら、自転車を購入して外に出たり、写真を撮ったりと、自分のペースで生活するようにしたことで、徐々に回復していきました。

岸田 それは本当によかったですね。

三井 一番大きかったのは、「再発ではなかった」と分かったことです。大きな不安を抱えていましたが、結果的に生検の結果は再発ではありませんでした。

岸田 それは、どのくらいで分かったのでしょうか。

三井 2週間ほどで結果が出ました。その頃から、少しずつ気持ちも上向いていきました。

岸田 良かったと思いつつも、その後の記録を見ると、また大きな出来事がありますね。2020年5月から6月、右の脇の下にしこりを発見し、その後、転移が確認されています。

三井 はい。これは昨年の出来事です。右の脇の下、胸の横あたりに、直径1センチほどの大豆くらいのしこりが突然できました。以前からあったものではなく、明らかに新しいものだったので、おかしいと感じました。

 最初は乳房のしこりかと思い、乳腺外科を受診しました。マンモグラフィーとエコー検査を受けましたが、乳腺には異常はありませんでした。そのタイミングが、定期的に受けていたCT検査の時期と重なっていたため、皮膚科の主治医にも相談しました。当初は「おそらく問題ないだろう」と言われていました。しかしCT検査の結果、肺、肝臓、骨、皮膚への転移が確認されました。脇の下のしこりは、皮膚の下にできた皮膚転移でした。

岸田 皮膚転移だったのですね。

三井 はい。肺には数センチ大の腫瘍がありました。また、肋骨に骨転移があり、実際に骨折も起こしていました。強い痛みがありました。

岸田 骨転移による骨折は、かなり痛みますよね。

三井 はい。ただ、その時点では骨転移が分かっておらず、「そんなに痛くなるはずがない」と言われ、なかなか症状が理解されませんでした。後から骨折していたことが判明しました。そこから治療はどのように進んだのでしょうか。

 その時点でステージⅣBでした。メラノーマで最も重いのは脳転移を伴うステージⅣCですが、幸い脳への転移はありませんでした。

 2019年に承認された分子標的薬があり、私はその薬が有効とされる遺伝子型であることが、初発時の検査で分かっていました。そのため、「ビラフトビ」と「メクトビ」という分子標的薬を使う治療を行うことになりました。約1年前に入院し、その薬で治療を開始しました。

岸田 治療の効果はいかがでしたか。

三井 本当に驚くほど効果がありました。治療開始から2〜3日で、皮膚転移のしこりが小さくなってきたことが分かりました。2〜3週間後には、目に見えて分かるほどしこりが縮小しました。

岸田 そして、2021年2月には寛解に至ったということですね。

三井 はい。寛解と診断されました。

岸田 寛解という言葉は、画像検査などでがんが確認できなくなり、医学的に「病変が見えない状態」と判断されることを指すと思います。三井さんの場合は、病変は完全になくなったのでしょうか。

三井 はい。CTで確認できる範囲では病変は認められないと言われました。CR(完全寛解)の状態です、と説明を受けました。

岸田 素晴らしいですね。2019年に薬が認可されたというのも大きくて、もし時期がずれていたら治療の選択肢が変わっていた可能性がありますね。

三井 はい。私の状態が悪かったので、もしこの薬がなかったら、かなり早い段階で命に関わっていたと思います。主治医からは、同じ薬を使っていた別の患者さんがいて、その方は使用開始後まもなく亡くなった、とも聞きました。私は本当に運が良かったと思います。

岸田 同じ薬でも、全員に同じように効くわけではありませんし、効き方には個人差があります。三井さんの場合は、薬が強く効いたケースだったということですね。
では続いて、2021年の「頭皮再建手術」について伺います。これはどういった治療なのでしょうか。

三井 はい。私は頭頂部に一定の範囲で脱毛が残っていて、普段はウィッグで生活していました。ウィッグ生活自体が苦痛だったわけではなく、プライベートでは派手なウィッグを使ったり、服装やメイクと合わせたりして楽しめていました。

 ただ、日常の中で困る場面はありました。例えば、宅配便の対応で急に玄関に出るときに「帽子をかぶらないといけない」と慌てたり、庭やベランダで短時間の水やりをするときでも、外に出る直前に「帽子を忘れた」と気づいて戻ったりしました。

 また、鏡に映った自分を不意に見たときに、頭頂部に髪がないことを強く意識して、気持ちが落ち込む瞬間がありました。私はもともと自分の髪が好きで、髪を大事にしてきたので、その喪失感が大きかったです。

岸田 休日にヘアアレンジを研究されるくらい、髪に思い入れがあったわけですね。

三井 はい。治療がうまくいって今後の生活が続いていくなら、できる範囲で「脱毛以外の状態」を選べるようにしたいと思いました。完全に元どおりに戻すのは難しくても、見た目や生活上の選択肢を増やしたいと考えました。

 そこで主治医に相談しましたが、「難しいかもしれない」と言われました。そこで自分で美容形成外科を受診し、過去に似た症例(頭部に大きな脱毛ができた方)に対して、髪が生える状態に近づける治療を行った経験がある医師に出会いました。

 その医師から治療内容を詳しく説明してもらい、文書にもしていただきました。それを主治医に見せたところ、「自分はその方法を知らなかった」と言われ、同じ病院の形成外科へ紹介状を出してもらえました。

 形成外科での説明は、「頭皮の下に風船状の器具を入れて皮膚を伸ばし、十分に伸びた後に脱毛部を切除し、伸ばした皮膚同士を縫い合わせて閉じる」という方法でした。現在、その治療を進めています。

岸田 生理食塩水を注入してバルーンを膨らませ、頭皮を伸ばす方法ということですね。

三井 はい。皮膚科の先生も知らなかった方法でしたので、自分で病院を探して情報を集めました。

岸田 すごい行動力ですね。同じように頭皮の脱毛で悩んでいる方にとって、「そういう治療法がある」と知れるだけでも意味がありますね。しかも、手術が複数回あるのですね。

三井 はい。手術は2回です。1回目は4月に行いました。脱毛部の左右、2か所にバルーンを入れました。方法としては、乳がんなどで乳房再建に使われる皮膚拡張の手法と同じだと思います。

 頭皮の下にバルーンを入れ、そこにつながるポート(硬い注入口)が皮下にあります。週1回通院し、ポートから生理食塩水を少しずつ注入して、頭皮を段階的に伸ばしていきます。

 現在は頭皮の下にバルーンがかなり膨らんでいて、頭の高さとしては約6〜7センチほど盛り上がっています。

岸田 それで冒頭の帽子につながるわけですね。

三井 はい。かなり大きい帽子ですが、これで仕事にも行っています。今は頭の中に、生理食塩水が約500ミリリットル(ペットボトル1本分程度)入っていて、かなり張っている状態です。

 今週が最後の注入で、その後は約1か月なじませます。来月、脱毛部を切除して、伸ばした頭皮同士を縫い合わせる手術を予定しています。

岸田 ありがとうございます。とても具体的に教えていただきました。ここまでのお話にも多くコメントが届いています。「明るく話されていてすごい」「分子標的薬がすごい」「効いてよかった」「寛解してよかった」といった声があります。
また、「分子標的薬はどれくらいの期間使ったのですか」という質問も来ています。

三井 期間のことでしたら、今も継続しています。寛解した今も、服用を続けています。

岸田 今も継続中ということですね。さらに「副作用はどうでしたか」という質問も届いています。

三井 副作用は強かったです。まず網膜剝離を起こしました。網膜に水疱ができて網膜が剝がれ、視界が大きく崩れて「見えない」と感じる状態になりました。そのため、一度休薬しました。

 休薬後に再開した際、次は腸炎になり、1日に何度も下痢をする状態が続きました。効果は非常に強い一方で、副作用への対応が常に必要でした。

岸田 今も副作用は続いていますか。

三井 はい。今も、急に腹痛が強くなって下痢が止まらなくなり、休薬することがあります。目についても、たまに見えづらくなることがあり、現在も副作用は続いています。

岸田 現在も副作用は続いていて、それと付き合いながら生活されているということですね。ありがとうございます。ただ、寛解の状態にあるというのは、本当に大きいですね。

 コメントも届いています。「寛解と聞いたとき、本当にうれしかったです」という声や、「形成外科の治療はすごいですね」「頭部の状態に驚きました。そんなふうになるとは思わなかった」といった反応もあります。

 また、「舞の海もびっくりですね」というコメントも届いていますが、これはお相撲さんの舞の海さんを例えた表現でしょうか。

三井 お相撲さん、ですか。

岸田 まげのように見える、という意味かもしれませんね。

三井 なるほど、そういうことかもしれません。

岸田 さらに、「再建手術の仕上がりが楽しみです」という声も届いています。皆さん、たくさんのコメントをありがとうございます。

三井 ありがとうございます。

岸田 それでは、ここからはお写真を拝見していきます。闘病前、闘病中、闘病後という形で写真をご用意いただいています。
まずは、闘病前のお写真です。こちらは、ご主人が駆けつけてくださったときのツーショットですね。

三井 はい、そうです。これは、私が以前勤務していた学校があるオホーツク海沿いの町で撮った写真です。冬になると流氷が接岸する地域で、流氷観光用の砕氷船「ガリンコ号」に乗ったときの写真です。

 写真の後ろに写っている白い部分は地面ではなく、海の上に広がる流氷です。遠い海域から流れてきた流氷を、船がガリガリと砕きながら進むクルージング中に撮影しました。

岸田 こちらは、がんになる前、いわゆる闘病前のお写真ということですね。

三井 はい、がんの診断を受ける前の写真です。

岸田 そして、がんの診断後のお写真がこちらです。左側の写真について教えていただけますか。

三井 これは、手術当日の朝に撮った写真だと思います。写っているのは私の髪です。もともとストレートで髪質が良く、自分でもずっと自慢にしていました。

岸田 本当に、きれいな髪ですね。

三井 髪を失うことが分かっていたので、とてもつらくて、写真や動画を何枚も撮りました。主治医にお願いして、切除した髪の毛は捨てずに取っておいてもらい、今も手元に保管しています。

岸田 それだけ髪に思い入れがあったということですね。

三井 はい。

岸田 では、右側の写真についても教えてください。

三井 こちらは最近の写真で、今年4月に行った頭皮再建手術の直後の状態です。頭皮の下にバルーンを入れた後の様子を撮影したものです。

岸田 この状態が、バルーンを入れているときの写真なのですね。

三井 はい。おでこの上のガーゼの下に1つ、耳の上あたりにももう1つ、バルーンが入っています。この写真は手術から少し時間が経ち、腫れや状態が落ち着いてきた頃のものです。

 手術直後は、ドレーンと呼ばれる血を排出する管が2か所から外に出ていて、見た目はかなり衝撃的でした。同室の方が二度見するほど、正直かなり生々しい状態でした。

岸田 このバルーンに生理食塩水を注入して頭皮を伸ばし、その後に縫い合わせる治療ということですね。

三井 はい。そのとおりです。

岸田 ありがとうございます。非常にリアルで、治療の過程がよく伝わります。では、次のお写真に進みましょう。こちらの写真についても教えてください。

三井 これは、卒業式に必ず間に合うという願掛けの意味で、クラスの生徒たちとの集合写真を病院の机に置いていたときの写真です。その写真を見ながら、「私は絶対に卒業式に間に合う」と自分に言い聞かせて、つらい治療期間を過ごしていました。

岸田 そういう写真は大切ですよね。自分を奮い立たせるきっかけになりますし、「頑張ろう」と思える存在がそばにあるのは大きいと思います。生徒さんたちの写真を置いて、闘病されていたということですね。

 では、次は闘病後のお写真です。こちらの写真について教えてください。

三井 これは、卒業式直前に学校へ戻ることができたときの写真です。

岸田 卒業式の直前ですね。

三井 はい。写っているのが、私が担任していたクラスの生徒たちです。男子クラスで、3年間、女子の担任として受け持っていました。

岸田 そうだったのですね。

三井 ようやく間に合って、生徒たちと一緒に「作業学習」として、クリーニングの実習をしている場面です。

岸田 皆さん、高校生ですよね。

三井 はい。社会に出る直前、卒業の約1週間前に撮った写真です。

岸田 すごいですね。

三井 「三井先生、戻ってきたぞ」と生徒たちに言ってもらえました。

岸田 それは、相当うれしかったでしょうね。

三井 はい。特に、私に一番反抗していた、いわゆるやんちゃな生徒が泣いていたと後から聞いて、胸がいっぱいになりました。本当に、間に合ってよかったと思いました。

岸田 本当に良かったですね。では、次の写真にいきましょう。こちらはどのような写真でしょうか。

三井 これは、昨年10月に撮影した写真です。私は結婚してからもうすぐ10年になりますが、当時は結婚式で和装をしていませんでした。それがずっと心残りでした。

 「着物を着て写真を撮りたかった」と、折に触れて主人にも話していましたが、「いつかやろう」と思ったまま時間が過ぎていました。ただ、がんになって、人生がどうなるか分からないと感じるようになってから、「やりたいことは先延ばしにせず、今やろう」と思うようになりました。

 「やりたかったのにできなかった」と後悔しながら人生を終えるのは嫌だと思い、昨年10月に実際に和装での撮影を行いました。

岸田 「いつかやろう」は、つい先延ばしになってしまいがちですよね。命を意識したときに、「やっておけばよかった」と思うことも多い。その中で、三井さんにとっては「和装で写真を撮ること」が大切な願いだったということですね。

岸田 とてもお似合いです。

三井 ありがとうございます。かわいいですよね。

岸田 お隣に写っているのは、先ほどからお話に出ているご主人ですよね。

三井 はい。同じ人です。眼鏡も変わっていません。

岸田 とても素敵な写真ですね。こうして、闘病の節目ごとに写真を残されてきたということですね。
コメントでも、「旦那さん素敵ですね」といった声や、「またきち」というお名前も出ていますが。

三井 それは、さきほどお話しした、黄色いぬいぐるみをくれた友人のことですね。

岸田 なるほど。「またきち」というお名前なんですか。

三井 いえ、本名ではありません。友人が勝手にそう呼んでいるだけです。

岸田 なるほど、あだ名なんですね。ここからは、闘病について、いくつかのテーマに分けて、さらに詳しくお話を伺っていきたいと思います。

三井 はい。

【妊よう性】

岸田 まずはこちらの項目について伺います。「妊孕性」についてです。妊孕性とは、妊娠する能力のことを指します。先ほどの闘病のお話の中でも、オホーツクから札幌への移動や、採卵のために遠方の病院へ通われたというお話がありました。
改めて、妊孕性について、どのような説明を受け、どのような選択をされたのか教えていただけますでしょうか。

三井 抗がん剤治療の影響で、将来的に妊娠する能力が低下する、もしくは失われる可能性がある、という説明を受けました。当時、私は3年間担任していた生徒たちを送り出した後に、「自分たちの子どもが欲しい」と考え始めていた時期でした。そのため、妊娠する能力はできる限り残したいと思いました。

 一方で、妊孕性温存には高額な費用がかかることも知っていました。安くても20〜30万円、医療機関によっては50万円ほどかかるという情報は事前に把握していました。その費用面も含めて、かなり悩みました。

 ただ、「あのときやっておけばよかった」と後悔する可能性を考えると、やらない後悔よりやる後悔のほうがいいと感じました。主人と話し合い、妊孕性を温存することを決めました。当時、保険金が支払われていたため、そのお金で一度は対応しましたが、結果的には北海道から妊孕性温存に対する助成金が全額支給されました。そのため、最終的な自己負担は0円でした。

岸田 具体的には、どのような方法で妊孕性を温存されたのでしょうか。卵子保存や卵巣保存など、いくつか方法があると思いますが。

三井 私は受精卵温存を行いました。夫がいるため、受精卵の形で保存する選択をしました。排卵誘発剤を使用し、毎日病院に通って注射を打ち、採卵するという流れを、合計2回行いました。

 その過程は正直かなり大変でした。夜11時に病棟へ行き、注射を打ってもらうこともありました。3月は札幌に滞在していたので通院しやすかったのですが、4月に職場復帰してからの採卵は特に大変でした。

岸田 相当な負担だったのではないでしょうか。

三井 はい。札幌の病院で注射器と薬剤を受け取り、オホーツクで注射を打ってもらえる医療機関を自分で探しました。決まった時間に職場を抜けて病院へ行き、注射を受ける生活を続けました。そして採卵の時期になると、高速バスで約5時間かけて札幌に戻り、数日間仕事を休んで採卵を行う、という流れでした。

岸田 本当に大変なスケジュールですね。その結果、受精卵は無事に凍結できたということですね。

三井 はい、凍結することができました。

岸田 その受精卵は、将来的に使用する可能性があるということでしょうか。

三井 はい。私は今年2月に、分子標的薬の治療によって完全寛解と診断されました。その後の妊娠については、主治医も判断に迷われていました。そこで、オンラインで参加したメラノーマの患者会で、日本におけるメラノーマ治療の第一人者とされる医師に、直接質問しました。ステージⅣで完全寛解に至った状況で、将来的に妊娠を希望していることを相談しました。その医師からは、「メラノーマのステージⅣで出産に至った例は、日本ではこれまでにない」と説明されました。通常は予後が厳しく、そこまで到達する前に亡くなるケースが多いためだそうです。

 ただ、私の場合は完全寛解に至っているため、「1年間は様子を見て、その後であれば妊娠に踏み切ってもよいのではないか」と助言をいただきました。その内容を主治医に伝えたところ、「その先生がそう言っているなら間違いないと思います。自分もその話を聞けて安心しました」と言っていただきました。そのため、症状がこのまま安定していれば、来年、妊娠にチャレンジすることを考えています。

岸田 それは本当に大きな一歩ですね。

三井 ただし、そのタイミングでは、分子標的薬を中止する決断が必要になります。命に関わる選択になる可能性もありますが、それでも女性として生きてきた中で、一度は挑戦したいと思っています。もし実現すれば、日本で初めてのケースになるかもしれません。

岸田 大きな決断ですが、応援したい気持ちになりますね。またその時が来たら、ぜひお話を聞かせてください。

三井 はい、分かりました。

【家族】(パートナー)

岸田 続いての項目は「家族・パートナー」についてです。これまでのお話の中でも、旦那さんの写真や、妊孕性の選択に関する場面で、旦那さんのお話が何度か出てきました。
旦那さんがどのように支えてくださったのか、「これはありがたかった」「こうしてもらって良かった」と感じたことはありますか。

三井 主人も、私と同じように不安の中で揺れ動いていたと思います。それでも常に私のそばにいて、同じ目線、同じ温度感で病気と向き合ってくれました。それがとても心強かったです。

 入院中は、仕事が終わると毎日病院に来てくれました。当時はまだコロナ禍前だったので、毎日面会ができて、一緒にご飯を食べたり、他愛のない話をしたりしていました。

 主人の仕事が遅くなって、面会時間に間に合わない日もありました。そういう日は、病院の外からスマートフォンのライトを点けて、暗い夜道で合図を送ってくれていました。

岸田 まるでドラマのワンシーンのようですね。

三井 私は9階の病室から、そのライトを見つけて、こちらもスマートフォンのライトで照らし返していました。面会はできなくても、「ここにいるよ」ということをお互いに確認する時間でした。

岸田 面会時間が終わっていても、存在を感じられるように工夫されていたんですね。

三井 はい。つらい闘病生活の中でも、そうやって小さな楽しみを見つけて、「見えた」「今日も来てくれた」と笑い合っていました。

岸田 本当に素敵な旦那さんですね。常にそばにいて、支え続けてくださったということですね。

三井 はい。本当にそう思います。

岸田 「こうしてほしかったな」とか、「こういうサポートがあったらよかった」というような要望はありましたか。

三井 正直に言うと、私が「こうしてほしい」と思うことは、ほとんど全部してくれていたと思います。そばにいてほしいときには、いつも近くにいてくれました。

【家族】(ご両親)

岸田 世の中の旦那さま方には、ぜひ学んでいただきたいですね。
では次に、「家族」について伺います。旦那さんのお話は多く出てきましたが、ご両親については、闘病生活の中でどのような関わりがあったのでしょうか。病気の報告のタイミングや、サポートについて教えてください。

三井 正直に言うと、病気になる前は、両親との関係はあまり良くありませんでした。一人暮らしを始めたときも、夜逃げのように実家を出たくらいで、距離のある関係でした。

 ただ、闘病生活が始まったときに、一番力になってくれたのが母でした。母は物静かで、あまり多くを語らない人なのですが、私がオホーツクに戻ることになったとき、付き添って来てくれました。

 生活面のサポートもしてくれて、私が帰宅したら、あとは寝るだけでいい状態を整えてくれていました。現在も、分子標的薬の副作用が強く出る日があるため、私が仕事に集中できるように家事を手伝ってくれています。日常生活を支えてくれているのは、母の存在がとても大きいです。

岸田 お母さまが、生活を実務的に支えてくださっていたのですね。

三井 はい。ただ一方で、父との関係は、病気をきっかけに大きく変わってしまいました。

岸田 それは、どのようなことがあったのでしょうか。

三井 手術の直前くらいだったと思います。父が酔った状態で、私の携帯に電話をかけてきて、「おまえがんなんだろ。俺もがんなんだ」などと、冗談のようなことを言ってきました。

岸田 それは……冗談として受け取るには、かなり厳しいですね。

三井 はい。冗談でした。私は自分のことで精いっぱいの時期でしたし、その電話の後、病室に戻って泣きました。翌日、看護師さんに相談したところ、「病気の娘を持ったかわいそうな自分、という立場に入ってしまうお父さんは意外と多い」と言われました。

三井 父自身が、私以上に現実を受け止められていなかったのだと思います。本当は寄り添ってほしかったですし、助けてほしかったですが、それは叶いませんでした。それ以来、ほとんど連絡は取っていません。

岸田 それは、距離を取るという選択も必要だったと思います。

三井 はい。今は、どうしても必要な連絡があるときは、母や兄に間に入ってもらう形にしています。両親は、本当に正反対の対応でした。

岸田 お母さまは実務的に支え、お父さまは現実を受け止めきれなかった。その結果、適切な距離を保つ選択をされたのですね。

三井 はい。つらいときは、たとえ家族であっても、距離を取っていいと思っています。無理に関係を続ける必要はないと思います。

【仕事】

岸田 ありがとうございます。その状況であれば、距離を取る判断も自然だと思います。
続いての項目は「お仕事」についてです。先ほど、高校生の皆さんとの写真も拝見しました。最初に教頭先生へ伝えたことや、休職、復職のタイミング、そして治療と仕事をどのように両立されてきたのか、そのあたりを教えていただけますか。

三井 私は、周囲で噂話が広がることがとても嫌でした。「三井先生、実は病気らしいよ」という形で話が伝わっていくのが耐えられなくて。ですので、がんと診断された時点で、自分から職員朝会で話すことにしました。

岸田 職員朝会というと、全職員が集まる場ですね。

三井 はい。朝の職員朝会で、「病気になりました。これから治療が続くと思いますし、入院などでお休みをいただくこともあると思います。ご配慮いただければ幸いです」と伝えました。

 また、頭部の手術のことや、今後はウィッグを着けて生活することになると思うこと、生徒にはこのように説明しようと考えている、という自分の考えも含めて話しました。できるだけオープンに伝えるようにしました。

岸田 そうした形で伝えた上で、同じ職場に復職されたということですね。

三井 はい。同じ学校に戻りました。

岸田 高校生たちを送り出した後も、同じ学校で勤務を続けられていた。

三井 そうです。本当は、すぐに異動希望を出しましたが、職場の事情もあり、すぐには叶いませんでした。そのため、約1年間は、オホーツクと札幌の病院を行き来しながら働く生活を続けました。

岸田 それは相当大変ですよね。

三井 大変でしたが、仕事は続けたかったんです。治療にはお金もかかりますし、それ以上に、「自分を自分たらしめているものは何か」と考えたとき、教師として働いている自分が、人生の中でとても大切な存在だと感じました。

 私は、生徒の姿を見ることで元気をもらえる人間です。だから、できる限り治療と両立しながら、仕事を続けたいと思いました。

 一度、うつ病になったときは、本当に悩みました。「仕事を辞めて、主人のいる場所に戻って、静かに暮らしたほうがいいのではないか」と考えた時期もありました。でも、結果的に仕事を辞めなくて良かったと思っています。

岸田 辞めなくて良かった、という実感があるのですね。

三井 はい。今は仕事がとても楽しいです。働き続けられていること自体が、ありがたいと感じています。

岸田 仕事を続けることが、ご自身の軸になっているということですね。

三井 はい。教師であることは、私のアイデンティティーです。

岸田 大切ですね。その後、勤務地についてはどうなったのでしょうか。

三井 札幌に戻ってきました。

岸田 現在は、オホーツクの学校から転勤して、札幌の学校に勤務されている。

三井 はい。希望を出していて、それが叶いました。

岸田 札幌の職場でも、ご自身ががんの治療中であることは共有されているのでしょうか。

三井 はい。自己紹介の場で伝えました。入院することがあること、急に体調が悪くなってお休みをいただく可能性があること、その代わり、出勤できているときは全力で仕事をするつもりだ、ということをお話ししました。

岸田 その上で、一緒に仕事をされているということですね。

三井 はい。皆さん、とても理解してくださっています。

【お金・保険】

岸田 ありがとうございます。続いての項目は「お金・保険」についてです。先ほども「かなりお金がかかった」というお話がありましたが、実際にはどのくらいの費用がかかったのでしょうか。オホーツクと札幌の往復だけでも、相当だったのではないかと思います。

三井 かなりかかりました。特に交通費は本当に大きかったです。

岸田 交通費だけで、かなりの金額になりそうですね。

三井 さすがに数百万円まではいきませんが、1回の往復で1万円以上はかかっていました。それを何十回も繰り返していたので、合計するとかなりの額になっていたと思います。

岸田 治療費も含めると、全体では数百万円規模になりますよね。

三井 はい。治療費も含めると、数百万円にはなっていたと思います。当時はそれが当たり前だと思って動いていましたが、今振り返ると、相当な出費でした。

岸田 その費用は、保険である程度カバーできたのでしょうか。先ほど、妊孕性のところで保険金のお話も出ていましたが。

三井 はい。保険には入っていました。教員になったときに、職場に保険の案内が来ていて、当時は若くて健康だったので正直あまり必要性は感じていませんでした。ただ、周囲の先生方も入っていたので、その流れで加入していました。

岸田 結果的には、その判断が大きかった。

三井 本当に入っていて良かったです。保険金で治療費を補えただけでなく、結果的にはプラスになるくらいでした。

岸田 それはかなり心強いですね。

三井 治療費だけでなく、生活を立て直すための資金にもなりました。そのお金を使って、家を建てました。

岸田 家を建てた、というのはすごい展開ですね。

三井 保険金だけですべてを賄えたわけではありませんが、頭金として大きな助けになりました。札幌に一軒家を建てました。

岸田 療養を考えると、住環境も大切ですよね。

三井 はい。以前は日当たりの悪い小さなマンションに住んでいて、療養生活を続けるには正直つらい環境でした。「いつか家が欲しい」とは思っていましたが、病気をきっかけに「いつかではなく、今だな」と思って、思い切って建てることにしました。

岸田 日当たりや住環境は、心身の状態にも影響しますからね。

三井 そう思います。自分の健康や今後の生活を考えたときに、家を建てる選択は良かったと思っています。

岸田 とても前向きで、現実的な判断だと思います。

三井 ありがとうございます。

【辛い・克服】

岸田 ありがとうございます。治療費についても十分に備えられていたということですね。
続いての項目は「つらさ・克服」についてです。精神的にも肉体的にも、さまざまなつらさがあったと思いますが、三井さんにとって特にきつかったこと、それをどのように乗り越えてきたのかを教えていただけますか。

三井 一番つらかったのは、やはり髪を失ったことでした。治療全体を通して考えても、そこが一番大きかったと思います。

 ただ、髪を失ったことで、ウィッグという選択肢を知りました。実際に使ってみると、今はおしゃれで、価格も手頃で、かわいいものが本当にたくさんあることを知って、それは大きな発見でした。

 治療がつらい時期でも、職場の同僚から「ウィッグをいろいろ変えていて、むしろ楽しんでいない?」と言われたことがあって。そのときに、「確かに、楽しんでいる自分もいるかもしれない」と気づきました。

岸田 発想の転換ですね。

三井 気づいたら、ウィッグがかなり増えていました。今は、クラス1つ分くらいあります。40個くらいですね。

岸田 それはすごい数ですね。

三井 マネキンも含めて、部屋のあちこちにあります。今は再建治療中でウィッグを被れない状況ですが、それでもコレクションとして残っています。

岸田 つらさの中に楽しみを見つけられたということですね。

三井 はい。再建手術がうまくいったとしても、ウィッグはこれからも楽しむと思います。ロングにしたらショートにしたくなるし、毛量が多いスタイルを楽しみたい日もありますし、髪色を変えたい日もあります。

 がんにならなければ、こうした楽しみ方を知ることはなかったと思います。そう考えると、ウィッグは、これからも私の大切な趣味の一つとして続いていくと思います。

【後遺症】

岸田 がんになったからこそ、こうした楽しみや価値観に気づけたというお話でしたね。
続いての項目は「後遺症」についてです。頭皮の再建や妊孕性についてはすでにお話しいただきましたが、それ以外に後遺症として感じていることはありますか。

三井 一度、うつ病を経験しているので、その点は今も後遺症のように感じています。完全に治ったから大丈夫、という感覚ではなくて、「またぶり返したらどうしよう」と思う瞬間は、2年経った今でもあります。

 ただ、私はその「少し怖いな」と思っている状態くらいが、逆に精神的に健やかでいられるラインなのかな、とも感じています。「自分は何でもできる」「もう大丈夫」と思い切ってしまっているときのほうが、むしろ危ない気がします。一度メンタルの不調を経験すると、そう感じるようになりました。

岸田 なるほど。メンタル面の後遺症については、なかなか語られないことも多いですよね。

三井 うつ病って、どうしても隠したがる人が多いと思います。でも、実際には身近にたくさんいると思うんです。私自身が経験してみて、「もしかしてこの人もそうかもしれない」と感じる場面は周りにありました。きっと、この配信を見ている方の身近にも、同じような人はいると思います。言っていないだけで。

岸田 私自身も、今振り返ると、うつの一歩手前までいった時期がありました。そのときは本当に苦しかったです。

三井 がんの治療よりも、精神的につらい時期って、正直ありますよね。

岸田 そうなんです。がんで死にたいと思ったことは一度もありませんでしたが、精神的に追い込まれたとき、「自分はもういないほうがいいのかもしれない」と思ってしまった自分がいたことが、あとからすごくショックでした。

三井 私も、うつがひどかったときは、走っている車に吸い込まれそうになる感覚があったり、歩道橋を見て「ここから飛び降りたらどうなるんだろう」と考えてしまったりしました。車を運転していても、「このまま……」と考えてしまうこともありました。

岸田 本当に、正常な判断ができなくなりますよね。

三井 はい。だからこそ、「乗り越えた」というよりは、今は「共存している」という感覚です。怖さを完全になくすのではなく、そういう感覚が自分にあることを理解した上で、今を生きている、という感じです。

【反省・失敗】

岸田 ありがとうございます。続いての項目は「反省・失敗」についてです。闘病生活を振り返って、「あのときこうしておけばよかったな」と思うことや、いわゆるプチ失敗のようなものはありますか。

三井 正直なところ、あまりありません。考え込みすぎずに、そのときそのときでやりたいと思ったことを選んできましたし、やりたいことは全部やってきたと思っています。

 これからも、やりたいと思ったことはやっていくつもりです。なので、特に大きな反省点はないですね。反省しろよ、と思う人もいるかもしれませんが、今のところは思い当たりません。

【医療者へ】

岸田 ありがとうございます。では続いて、「医療者へ」という項目です。医療従事者の方も多く、がんノートをご覧になっています。医療者の皆さんへ、感謝の気持ちや、こうしてほしいという要望があれば、お話しいただけますでしょうか。

三井 私は、病気のつらい時期を一人で乗り越えてきたわけではありません。一番の心の支えになってくれたのは、がん専門看護師の方でした。

 その方には、病気のことだけでなく、仕事のことや生活のことなど、さまざまな相談に乗っていただきました。そのおかげで、自分を見失わずに治療に向き合うことができたと思っています。

 一緒に私自身のこと、病気のこと、そして将来のことを考えてくださったことに、本当に感謝しています。看護師の皆さんには、感謝の気持ちしかありません。

 主治医の先生も、とても腕が良くて信頼している方なのですが、いわゆる「何でも言ってしまうタイプ」の方で、言葉の伝え方については、少し気になることもありました。

岸田 言い方は大事ですよね。

三井 はい。今はもう3年ほどのお付き合いになり、こちらも慣れてきましたが、やはり「伝え方」はとても大切だと思います。医師の皆さんには、オブラートに一枚くらい包んで伝えていただけたら、患者としてはありがたいなと思います。

【Cancer Gift】

岸田 「何でも聞きたい」とは言っても、確定していない段階で「再発かもしれない」と伝えるのではなく、きちんと分かってから伝えてほしい、ということですね。ありがとうございます。
続いての項目は「Cancer Gift」についてです。がんになって苦しいこと、大変なことは多くあったと思いますが、その中で気づいたこと、あるいは、あえて言うなら良かったことは何か、という問いになります。三井さんの場合、いかがでしょうか。

三井 正直に言うと、私は「Cancer Gift」という言葉自体が好きではありません。

岸田 もちろん、そのままの気持ちで大丈夫です。

三井 本音を言えば、この言葉は「くそ食らえ」と思うくらい、しっくりきません。がんになって良かったことなんて、一つもないと思っています。つらいことのほうが圧倒的に多かったですし、もし病気になっていなければ、今ごろ子どもを抱いて、穏やかに暮らしていた可能性だってあると思います。

 そう考えると、つらい気持ちは今でもたくさんあります。ただ、それでも病気になったからこそ経験できたこと、分かったことは、確かにいくつかあります。

 私はもともと上昇志向が強く、仕事は何でもできると思っていました。公務員として働いていることもあり、「1人でも生きていける」と思い込んでいました。

 でも、病気になって気づかされたのは、それが思い込みだったということです。実際には、周囲の人たちに支えてもらったからこそ、その生活が成り立っていただけで、私は決して1人で生きていたわけではありませんでした。

 本当は、そんなことに気づかずに生きていける人生のほうが幸せだったのかもしれません。それでも、若いうちにその事実を知ることができたのは、悪くなかったのかなとも思います。

 また、この経験があったからこそ、教員という立場で、人を支えることができるのではないかとも感じています。つらさを抱える子どもたちに寄り添ったり、不安を抱える保護者の方の話を受け止めたりすることができるようになったのは、この経験があったからだと思っています。

岸田 周囲に支えられて生きている、ということに気づけたということですね。私自身も、がんにならなければ、もっと独りよがりな生き方をしていたと思います。

三井 そうだと思います。

岸田 そうした気づきが、あえて言うなら「Cancer Gift」だと。もちろん、「くそ食らえ」という注釈付きではありますが。

三井 はい。その注釈付きで、です。

【夢】

岸田 ありがとうございます。続いては、三井さんの「夢」について伺います。これから先、どのようなことを思い描いていらっしゃいますか。

三井 夢は、いくつもあります。まずは、9月の手術がうまくいったら、ロングヘアにして、自分の髪でまたヘアアレンジを楽しみたいです。

 それから、手術がうまくいってウィッグを被らなくてもよくなったら、主人と一緒に旅行に行きたいと思っています。もともとは南の島に行きたいと思っていたのですが、私は紫外線に弱く、皮膚がんでもあるので、南の強い日差しは避けたほうがいいと考えるようになりました。

岸田 メラノーマですしね。

三井 はい。なので、今はオーロラを見に行きたいと思っています。

岸田 南ではなく、北ですね。

三井 はい。オーロラを実際に見てみたいです。それから、やはり子どもが欲しいという思いがあります。

岸田 そうですね。

三井 生徒ももちろん大切ですが、私自身の子どもを持ちたいという気持ちがあります。教師という仕事を選んだ理由の一つは、子どもが好きだからですし、メラノーマのステージⅣでも子どもを持てるということを、自分自身で実現したいという思いがあります。

岸田 日本で初めてのケースになるかもしれませんね。

三井 そうですね。日本初になる可能性もあると思います。

岸田 とても素敵な夢だと思います。オーロラについては、カナダのイエローナイフなど、私も旅の経験がありますので、いろいろお伝えできることがあるかもしれません。

三井 本当ですか。ぜひ教えてください。

岸田 ぜひ。その後はペイシェントジャーニーに進みますが、その前に、視聴者の方から届いているコメントもご紹介します。

岸田 「妊孕性温存の助成金が北海道では全額出るのはありがたいですね」「医療者ですが、具体的な話がとても参考になりました」「ぜひ日本初になってください、応援しています」といった声が届いています。

三井 ありがとうございます。

岸田 また、「スマホのライトでのやり取りが素敵」「苦しさの中に楽しさを見つける姿勢が大切ですね」といったコメントもありました。

岸田 さらに、「暗闇でウィッグが1クラス分あったらびっくりしますね」という声もありましたが、保管はどのようにされているのですか。

三井 専用の保管場所があります。ニトリでウィッグ専用のキャスター付き収納を購入して、そこにまとめています。マネキンにも6個ほど被せています。

岸田 マネキンは市販されているのですか。

三井 はい。ダイソーでも発泡スチロール製のものが売っています。

岸田 型崩れ防止にもなりますね。

三井 そうなんです。

岸田 「ウィッグが趣味になるのも素敵」「拡大切除術への不安が和らぎました」というコメントも届いています。三井さんはインスタグラムでも発信されていますよね。

三井 はい。「サトミ_メラノーマ」で検索していただければ出てきます。質問があれば、気軽に聞いてください。

岸田 ありがとうございます。最後に、「教師という職を離れたとしても、三井先生は生徒にとって永遠に先生です」というコメントも届いています。

三井 ありがとうございます。そう言っていただけたら、本当にうれしいです。

【ペイシェントジャーニー】

岸田 ありがとうございます。それでは最後に、三井さんのペイシェントジャーニーを振り返っていきたいと思います。こちらが、三井さんのペイシェントジャーニーです。皆さん、見えますでしょうか。

 まず簡単に説明しますと、この図は、感情の変化を表しています。一番上がポジティブな状態、下にいくほどネガティブな状態です。赤色は気持ちが前向きな時期、青色は気持ちが落ち込んでいる時期、灰色は手術や治療などの医療イベントを示しています。

 三井さんの場合、民間企業から教員へ転職し、教員としての仕事が軌道に乗っていきます。そこから、つむじ付近に大きなほくろが見つかり、紹介状をもらって病院を受診します。最初は良性と思われていたほくろを切除した後、オホーツクで授業中に電話でがん告知を受け、そのまま給食を食べた、というお話がありました。

 その後、緊急入院により予定していた手術が延期になります。この時期は、当然ながら強い不安を感じていた時期でした。

三井 はい。手術の延期は、決してポジティブな出来事ではなかったです。

岸田 その後、頭皮の拡大切除術と植皮手術を行い、薬物療法を開始します。その中で、生徒さんの卒業式に間に合い、無事に送り出すことができた、という大きな出来事がありました。

 一方で、その後は妊孕性温存のために、札幌とオホーツクを往復する生活が続きます。この時期、気持ちは大きく落ち込みます。そして、主治医の何気ない一言から再発の可能性を意識するようになり、そこからうつ病を発症します。

 この時期は、がん治療以上につらかったとお話されていましたね。

三井 本当にそうです。がんの治療は、治療方針がある程度明確ですが、うつの治療は人によって異なり、どれくらいで良くなるのか見通しが立たない点が一番つらかったです。

岸田 その後、うつ病の治療を続けながら徐々に回復し、職場に復帰します。そして、札幌への転勤が決まり、生活拠点を札幌に移します。

 札幌に転勤後、右脇付近のしこりが見つかり、検査の結果、肺・肝臓・骨・皮膚への転移が判明します。そこで、分子標的薬であるビラフトビとメクトビによる治療が始まりました。

 治療の途中で、網膜剥離や腸炎といった副作用も経験されましたが、休薬によって回復しながら治療を継続していった、ということですね。

三井 はい。副作用が出たら休薬して、落ち着いたらまた再開する、という繰り返しでした。

岸田 その結果、がんは小さくなり、完全寛解に至ります。現在は、頭皮再建手術の1回目を終え、2回目の手術を控えています。今は、週に1回、生理食塩水を注入して頭皮を伸ばしている段階ですね。

三井 はい、そのとおりです。

岸田 こうして振り返ると、本当に感情の振れ幅が大きい数年間だったと思います。

三井 本当にそうですね。良い時期と悪い時期が何度もありました。この3年ほどは、特に振れ幅の大きい時間だったと思います。

岸田 ありがとうございます。それでは最後に、「今、闘病中のあなたへ」というメッセージを伺う前に、番組からのご案内です。
本日は、Aflac様、IBM様、I・TONGUE様にご協賛いただいております。また、日頃からご支援くださっている皆さまにも、心より感謝申し上げます。

 また、本編終了後にアンケートを実施します。概要欄やコメント欄にURLを掲載しますので、ご感想や三井さんへのメッセージをお寄せください。いただいたコメントは、後日ゲストの方へ共有いたします。可能でしたら、今日か明日のうちにご回答いただけると嬉しいです。よろしくお願いいたします。

【今、闘病中のあなたへ】

岸田 それでは改めて、こちらの項目にいきましょう。「今、闘病中のあなたへ」です。
がんノートは、今まさに闘病中の患者さんにも多くご覧いただいています。三井さんは、感情の大きな振れ幅や、うつの経験、転移の経験も含め、さまざまな時間を過ごされてきました。そうした経験を経た今、闘病中の方へ向けて、メッセージをお願いできますでしょうか。

三井 はい。

岸田 三井さんからのメッセージです。

三井 「がんになっても、あなたはあなた」です。
がんになると、まず「がん患者」というラベルを貼られてしまいます。でも私は、がん患者でありながらも、教師としての自分を諦めませんでしたし、「三井里美」という一人の人間であることを手放しませんでした。

三井 今、闘病中でつらい状況にいる方も多いと思います。でも、「がん患者」という名札はいったん脇に置いて、自分が今感じていることや、やりたいと思っていることを、どうか忘れないで大切にしてほしいです。

三井 それを実現できる時間は、必ずあとからやってきます。すぐではないかもしれませんが、時間が経てば必ず来ます。どうか諦めずに、「自分でいること」を忘れないでください。

岸田 ありがとうございます。「諦めない」「自分でいることを忘れない」という言葉ですね。がんに人生を全部支配されるのは、正直、悔しいですよね。

三井 そう思います。自分の人生なので、「がん患者」で終えてほしくありません。どうか、自分の人生を生きてほしいです。

岸田 「自分の人生を生きる」。とても力のある言葉だと思います。
三井さんもそうだったように、必要なときは周囲を頼っていいと思います。家族や友人、医療者、そして三井さんご自身や、がんノートも含めて、頼れる場所はたくさんあります。

岸田 どうか一人で抱え込まず、「がんになっても、あなたはあなた」という言葉を胸に、今日のがんノートoriginを締めくくりたいと思います。

岸田 三井さん、本日は100分近くにわたり、本当に貴重なお話をありがとうございました。頭皮再建手術や、うつの経験など、私自身も知らないことばかりで、多くの学びをいただきました。

三井 こちらこそ、ありがとうございました。

岸田 それでは、これにてがんノートを終了いたします。ご覧いただいた皆さま、本当にありがとうございました。またどこかでお会いしましょう。

三井 ありがとうございました。

岸田 それでは、失礼いたします。

 

※本ページは、経験者の体験談を扱っております。治療法や副作用などには個人差がございますので、医療情報に関しましては主治医や、かかりつけの病院へご相談、また科学的根拠に基づいたWebページや情報サイトを参照してください。
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