目次

※各セクションの「動画」をクリックすると、その箇所からYouTubeで見ることができます。

インタビュアー:岸田 / ゲスト:友寄・泉川・保坂・川口・清水

【ゲスト】

岸田 今回は特別バージョンとして、AYAがんの医療と支援のあり方研究会とのコラボ企画でお届けいたします。15歳から39歳までのAYA世代に特化してお話ししていければと思っております。本日は、モデレーターとして清水千佳子さんにもご参加いただいております。

清水 国立国際医療研究センターの清水と申します。医師として勤務しておりますが、今回はAYAがんの医療と支援のあり方研究会の広報委員長という立場で参加させていただいております。
普段は当センターの乳腺センターで乳がん治療を専門としておりますが、乳がん以外のがんの患者さんの抗がん剤治療も担当しております。

岸田 まず、AYA世代のがんについて、清水さんからご説明をお願いいたします。

清水 AYA世代とは、「Adolescent and Young Adult」の略で、思春期から若年成人世代を指します。具体的には15歳から39歳までの方々です。

現在、日本では年間およそ100万人近くの方ががんと診断されているといわれています。そのうち、小児がん(15歳未満)は年間約2,000人、そしてAYA世代(15歳から39歳)は年間約2万人とされています。全体の約2%程度と割合としては非常に少ないものの、小児がんよりは人数が多いという特徴があります。

また、男女で発症の傾向に違いがあります。若い世代では女性の患者さんの割合がやや多く、20代後半頃から乳がんや子宮頸がんが増加することが影響しています。男女差の大部分は乳がんと子宮頸がんによるものであり、それ以外のがんについては男女で大きな分布の差はないとされています。

AYA世代のがんは種類が非常に多彩です。比較的多いのは血液やリンパのがんですが、ほかにも甲状腺がん、中枢神経系のがん、結合織や軟部組織のがん、皮膚がんなど、多岐にわたります。

診療体制にも課題があります。小児科では小児がんを総合的に診療しますが、成人医療では臓器ごとに専門科が細分化されています。AYA世代のがんは患者数が少なく、かつ種類も多様であるため、小児科のみで診るにも限界があり、診断や支援体制の整備が難しいという現状があります。

こうした背景の中、昨年の春から「第3期がん対策推進基本計画」が開始され、国としてもAYA世代のがん患者ケアに本格的に取り組み始めています。AYA世代特有のニーズにどのように応えていくかが、今まさに検討され、具体的な取り組みが進められているところです。

現在は、まずAYA世代について理解のある医療従事者を増やすことを目標に、人材育成や医療機関と支援団体とのネットワーク構築を進めています。がん治療を行う医療機関から患者さんへ、必要なケアや支援が確実に届く体制づくりに取り組んでいるところです。

岸田 今回は、AYA世代のときにがんを経験された4名の方にお越しいただき、その体験についてお話を伺っていきたいと思います。まずは簡単に自己紹介をお願いいたします。

友寄 友寄蓮、24歳です。16歳のときに急性リンパ性白血病と診断されました。家族は祖母、父、母、弟の5人家族です。当時は武蔵野赤十字病院に入院しておりました。

現在は、タレント活動をしながら献血推進の活動にも取り組んでおります。

発症は2011年10月、高校2年生のときでした。風邪のような症状から始まり、1カ月後に急性リンパ性白血病と診断され、すぐに入院生活に入りました。

約1年4カ月の入院を経て退院し、そのタイミングで高校を卒業いたしました。ただ、その後の3年間は体調が安定せず、退院後も肺炎をこじらせて再入院したり、総胆管結石による緊急手術や胆のう摘出手術を受けたりと、日常生活の中でも入退院を繰り返しておりました。現在はようやく体調も落ち着き、安定して生活できるようになっております。

保坂 秋田県から参りました、保坂翔大と申します。家族は父、母、姉の4人家族です。私が治療を受けていた時期に、父も胃がんで入院しており、その後亡くなりました。

私のがんは急性骨髄性白血病で、27歳のときに初発、3年後の30歳のときに再発しました。現在は34歳です。

治療自体は終了しており、免疫抑制剤などの服薬も終わっております。ただ、移植後特有の症状なのか、日によって強い倦怠感が出ることがあり、一般的な就労は難しいと判断しております。そのため、無理をせず療養を続けながら、自分にできることとしてレザークラフトの制作・販売に取り組んでおります。自分のペースで前向きに活動しているところです。

保坂 最初は微熱が続いていたのですが、それを軽く考えて仕事を続けておりました。すると、鼻や口から出血があり止まらなくなり、その後、体に紫斑と呼ばれる内出血のような症状が現れました。町の小さな病院を受診し採血をしたところ、白血球が13万という異常な数値が出ました。専門医でなくても明らかに異常だと分かる状態で、すぐに紹介状を書いていただき、私立病院へ搬送され、そのまま即入院・即治療開始となりました。

当初は全国でドナーを探しましたが見つからず、大学病院へ転院し、化学療法のみで治療を行い退院しました。

その後、約1年で元の職場に復職しましたが、体力が以前のようには戻らず、仕事を十分にこなせないことに申し訳なさを感じ、退職いたしました。その後はいくつかの仕事を転々としましたが、再発が判明しました。

再発時には、秋田でまだ臨床段階にあった「ハプロ移植(半合致移植)」を受けました。当時はほかに選択肢がなく、十分に認知も広がっていない治療法でしたが、その移植を受け、現在に至っております。

川口 川口健太郎と申します。神奈川県茅ヶ崎市から参りました。現在は妻と2人で暮らしておりますが、罹患当時はまだ結婚しておらず、父・母・弟の4人で実家に住んでおりました。

発症は26歳のときで、大腸がんと診断されました。現在は32歳です。2カ月前に5年経過の検査を受け、「もう通院は不要」と言われました。罹患当時は茅ヶ崎市内の従業員20人ほどの小さな工場で働いておりましたが、昨年転職し、現在は会社員として勤務しております。

2014年2月に告知を受け、3月に手術、4月の病理検査でステージ3Bと確定し、治療を開始しました。告知後に入籍し、結婚と闘病が同時に進行していく形となりました。新婚生活が始まったと思った矢先に抗がん剤治療が始まり、すぐに入院となりました。

入院中は点滴による抗がん剤治療と内服治療を半年間続けましたが、徐々に副作用が強くなり、あるとき吐血しました。その血を見た瞬間、「死ぬかもしれない」と初めて強く実感しました。

それまでは、副作用があってもたばこを吸ったりお酒を飲んだりして、元気だった頃の自分を装うような生活をしていました。しかし、死を身近に感じたときに「生きたい」と強く思いました。そこから病気を受け入れ、人生観や考え方が大きく変わりました。健康的に生きようと決意し、昨年からがんサロンに参加したり、ピア・サポートの活動にも取り組んでおります。

完治と明言されたわけではありませんが、5年を経過し一区切りを迎えました。これからの人生をどう歩んでいくか、あらためて考えているところです。

【妊孕性】

岸田 本日は大きく五つのテーマを用意しております。一つ目は「妊よう性」です。

妊よう性について、千佳子さんからご説明をお願いいたします。

清水 がん治療では、抗がん剤治療や放射線治療などの影響により、子どもを持つ力、つまり卵巣や精巣の機能、あるいは性機能に障害が生じる可能性があることが知られています。若い世代の患者さんにとっては非常に切実な問題です。特に女性の場合は、生物学的なタイムリミットも関わってくるため、より大きな課題となります。

ここ10年ほどで不妊治療が進歩してきたこともあり、「がんになったら子どもはあきらめてください」と言われることが多かった時代から、子どもを持つ可能性を残すための「がん生殖医療」という選択肢が提案されるようになってきました。がん治療と並行して、将来の妊よう性をどう守るかを考える医療が少しずつ広がってきています。

岸田 血液がんである白血病を経験された蓮さんに、お話を伺えますでしょうか。

友寄 私が白血病になったのは16歳のときでした。10代だったこともあり、妊よう性について詳しく説明されることはほとんどありませんでしたし、正直なところ自分自身もそこまで考えが及びませんでした。放射線治療であれば影響があるのかな、という程度の認識でした。

私の場合、治療は抗がん剤のみでしたが、抗がん剤だけでも妊よう性に影響があるということを当時は知りませんでした。最近、AYA世代向けのセミナーを聞いた際に、抗がん剤でも影響があることを初めて知りました。

そして今年4月の診察の際に、あらためて妊よう性について医師に相談し、そのとき初めて、自分の将来の妊よう性がどうなるか分からないということを知りました。

正直に言ってショックでした。ただ、AYA世代でがんを経験し、妊よう性に影響があって子どもを産むことはできないけれど、養子を迎えて幸せに暮らしているという方と出会ったことがあります。そのとき、「そういう選択肢もあるのだ」と思うことができました。

母は当時、妊よう性の問題が頭をよぎったそうですが、「今はそれどころではない、まずは娘の命を守ることが最優先だ」と考え、そのまま深く考える余裕がなかったと後から聞きました。

清水 がんの種類によっては、治療開始まで少し時間を取れる場合もありますが、白血病のように一刻も早く治療を始めなければならないケースもあります。また、抗がん剤も種類によって妊よう性への影響が異なります。

診断の衝撃に加えて、妊よう性の情報まで一度に伝えられると、情報量が多すぎて処理しきれなくなってしまうこともあります。そのため、医療側としても、どのように、どのタイミングで伝えるかは大きな課題です。

岸田 翔大さんは白血病で骨髄移植も経験されていますが、妊よう性についても含めてお話しいただけますでしょうか。

保坂 7年前に最初に発症したときは、抗がん剤治療のみでした。当時は妊よう性について詳しく知っている人は少なかったと思います。ただ、担当の先生が調べてくださり、秋田には精子保存ができる施設がなかったため、仙台で可能だと教えてくださいました。

最初に少量の抗がん剤を投与した後、体調が安定したタイミングで仙台へ行き、1日かけて精子を保存しました。

ただ、その後の更新手続きに不備があり、保存していた精子は失効してしまいました。保存した初年度は自動更新で、12月に更新の通知が届き、特に手続きをしなくても継続される仕組みでした。しかし翌年からは自己申告制に変更されていたことに気づかず、更新が行われなかったのです。

その後、自分の精子が生存しているかどうかの検査を行ったところ、生存しており、自然妊娠の可能性があることが分かりました。その際も再度保存の話が出ましたが、制度が自己申告制に変わっていたこともあり、結果として保存は行いませんでした。自然妊娠が可能と聞いていたこともあり、妻と話し合い、その状況を受け止めました。

その後再発し、今度は移植も受けましたが、その際は精子保存も検査も行いませんでした。自然妊娠の可能性は低いと説明を受けましたが、妻と十分に話し合い、前向きに考えようという結論に至りました。

がんと診断されたときに、精子保存という選択肢があることを知っているかどうかは非常に大きいと思います。知識があれば、自分たちで判断し、選択することができます。これをご覧になっている方には、ぜひその情報を心の片隅にでも置いていただければと思います。

泉川 私が発症したのは14年前で、「妊よう性」という言葉自体も聞いたことがありませんでした。出産後に病気が分かったのですが、当初は「手術で取れば大丈夫」と言われていたため、2人目のことまでは考えていませんでした。

しかし手術後、「追加で薬を飲んだほうがよい、まずは3年間しっかり内服して治療しましょう」と言われました。3年を目指して服薬を続けましたが、その頃に再発し、薬を増量することになりました。今度は「5年が目安」と言われ、5年を目標に頑張りましたが、5年経過時の検査で「薬は一生飲んだほうがよい」と告げられました。少しずつ、心も可能性も折られていくような感覚でした。

正直に言うと、発症当時は2人目を強く望んでいたわけではありませんでした。しかし、内服している薬が胎児に影響を与える可能性があるため「妊娠は控えてください」と言われたとき、初めて「もう一人子どもが欲しい」という気持ちが強く湧き上がってきました。

当時は「命が助かっただけでもありがたいと思いなさい」と言われることもあり、もう一人子どもを望むことはわがままなのではないか、と感じることもありました。ただ、上の子どもが「妹が欲しい」と言ったときは、本当に申し訳なく、つらい気持ちになりました。

川口 私は抗がん剤治療のパンフレットを渡され、それを自宅で読んでいたところ、後ろのほうに「1年半は妊娠を避けてください」と書かれているのを見つけました。ただ、医師からの説明は一切ありませんでした。その文章を読んだとき、「今は治療が優先だ」と自分で判断しました。

保存についての記載もなく、精子保存という選択肢があることも知りませんでした。26歳で知識も十分ではなく、パンフレットを読んだだけではそこまで意識が及びませんでした。

清水 医師側も、まずは病気を治療することに意識が集中してしまい、妊よう性の問題にまで十分に思いが至らない場合があるのだと思います。社会全体としても、この問題への意識がまだ十分に高まっているとは言えません。

本日こうしてさまざまなお話を伺い、医療側としてもまだまだ努力しなければならないと感じました。

もちろん、生き方や家族の形はさまざまです。ただ、「こうした選択肢がある」という情報をきちんと提示することは、医療者の役割として重要だと思います。

【情報】

岸田 次のテーマは「情報」についてです。情報の発信の仕方や受け取り方、現在もAYA世代のがん患者さんに関するニュースなど、さまざまな情報があふれていると思います。

友寄 今はインターネットで病気のことを簡単に調べられる時代です。誰もが当たり前のように検索しますし、その分、ネットの情報に振り回され過ぎてしまうこともあると感じています。

私の場合、白血病で亡くなられた著名人の方が多く、その情報がどうしても目に入ってきました。担当医からは「ネットの情報は一切遮断して、不安なことがあれば直接自分に聞いてください」と言われました。それをきっかけに、私も検索するのをやめました。

本来、病気は人それぞれ症状も経過も異なり、一概には言えないはずなのに、少し時間ができるとつい自分で調べてしまい、どんどん悪い方向に考えてしまいます。

当時の自分の気持ちは、今の私でもすべてを完全に理解しきれるわけではありません。過去にしがみつくのではなく、忘れてもよい部分は手放しながら、できるだけ前向きな形で発信していきたいと思っています。

難しいと感じるのは、メディアと患者の間で、情報に対するスタンスにどうしてもズレが生じてしまうことです。ただ、今は患者自身が情報を発信できる時代です。だからこそ、リアルな患者の声を、それぞれが自分の言葉で発信していくことが大切なのではないかと思っています。

保坂 私は入院中、ブログで情報発信をしていました。移植のときには、同じ日に移植を受ける方を探して、「一緒に頑張りましょう」とフォローし合う関係になりました。お互いに励まし合いながら治療に向き合っていました。

ブログを通じてダイレクトメッセージをやり取りする中で、勇気をもらえましたし、「一緒にいる」「一緒に戦っている」「一緒に歩んでいる」という感覚がありました。そうした点で、ブログの持つ力は大きいと感じています。

泉川 GISTの患者は「GISTERS.net」という独自のSNSを持っており、登録された患者さん同士がブログ形式で情報交換を行っています。

また、インターネットにあまり慣れていない世代の方もいらっしゃるため、患者交流会や、医師を招いた学習会を各地で開催しています。オンラインと対面の両方で支え合う仕組みをつくっています。

さらに、昨年からはがん教育にも関わるようになり、子どもたちに向けて、自身の経験や病気についてお話しする機会もいただいています。

川口 私は治療中、情報発信も受信も一切していませんでした。友人にも何も伝えず、LINEをアンインストールして音信不通にし、外部の情報を完全に遮断していました。

1年前にがんサロンや患者会の活動を知り、参加するようになってから変わりました。現在は、こうした活動に参加していることや自分の経験を、Facebookなどで積極的に発信するようになりました。

【仕事】

岸田 次のテーマは「仕事」についてです。休職や転職をどのようにされたのか、お聞きしたいと思います。川口さんは、がんを経験された後に町工場から会社員へ転職されたとのことですね。

川口 治療中は、午前中に病院で抗がん剤治療を受け、その足で会社に行って仕事をするという生活をしていました。

転職を決意した理由は、当時勤務していた町工場の職場環境が非常に不健康で、「健康的に生きる」という自分の考え方との間にギャップを感じるようになったからです。

がん患者が仕事を探す際、「病気をオープンにするかどうか」という問題があります。私は履歴書に、「がんになってよかったと思っています。がんをきっかけに健康的な生活を意識するようになりました」という趣旨の自己PRを書きました。

その内容で8社ほどに応募し、5社ほどは一次面接に進むことができました。最終的にご縁があり、現在の会社に入社しました。がんだからという理由で強く不利に扱われたという感覚は、私自身はあまりありませんでした。

この例がほかのがん患者さんの励みになるかは分かりませんが、私はそのような就職活動をしました。

清水 その自己PRについて、面接ではどのような質問を受けましたか。

川口 「現在の治療状況はどうですか」「体調は問題ありませんか」といった質問はありました。病気そのものを否定的に捉えるというより、実際に働ける状態かどうかを確認する内容が中心だったと思います。

岸田 翔大さんはいかがでしょうか。

保坂 初発のときは、退院後1年足らずで元の会社に復職し、そのまま働いていました。しかし再発後に再び退院した際、家族から「仕事は身体に負荷がかかるから、少しでも再発のリスクを減らすために、完治の目安とされる5年間はゆっくり過ごしてほしい」と言われました。現在は家族のサポートを受けながら生活しています。

ただ、支えてもらうだけで何もしないでいると、自分がだめになってしまうように感じます。ですので、自分にできることを探し、短期の仕事があれば1日でも行くようにしています。

退院後、秋田で革細工の先生と出会い、ずっと指導を受けています。技術も少しずつ身についてきたので、レンタルボックスを借りて作品を販売するようになりました。大きな収入ではありませんが、お小遣い程度にはなりますし、仕事をしている感覚や社会とつながっている実感を持つことができます。

自分にできることを探し、社会とのつながりを持つこと自体も、一つの「仕事」だと思っています。療養もまた仕事の一つですし、その中でできる活動を続けることも大切な役割だと感じています。

現在は「療養中の革作家」という立場で、家族に経済的な支援を受けながら、5年後、あるいは完治後のビジョンを描いています。将来やりたい仕事に向けて、今できることを少しずつ積み重ねている、という状況です。

【お金・保険】

岸田 4人の中で、がんに限らず保険に加入されていた方はいらっしゃいますか。

泉川 私は保険に入っていないうちに病気になりました。

保坂 私は職場の保険に加入していました。

川口 私は親の保険に付帯する形で加入していました。

友寄 私は学資保険のみでした。

岸田 蓮さんの場合は小児慢性特定疾病の制度が適用されますよね。しずかさんはいかがでしたか。治療費について教えてください。

泉川 正直に言って、経済的には非常に大変です。私が服用している分子標的治療薬は、体への負担が比較的少なく、効果も高い、とても優れた薬です。ただ、GISTのような希少疾患では使用する患者数が少ないこともあり、薬価が非常に高額です。

飲み始めた当時は1錠約3,000円で、1日4錠を毎日服用していました。単純計算で月に約30万円ほどかかります。

高額療養費制度があるため、実際の自己負担は抑えられていますが、それでも初発時は月8万円ほど、4カ月目以降は月4万2,000円から4万5,000円程度の負担が続きました。それが12カ月×14年間です。今日こちらに来る飛行機の中で計算してみたところ、自己負担額は約750万円ほどになっていました。

もちろん、その何倍もの医療費を国が負担してくださっているわけですので、その点については本当に感謝しています。

保険については、結婚当初に経済的な事情もあり、入院しても1日2,000円ほどしか給付されない、掛け金も安い代わりに保障も小さいタイプに変更していました。そのため、実際の治療ではほとんど給付はありませんでした。

現在の治療費は、主に夫の収入で賄っています。私自身も仕事はしていますが、抗がん剤の影響で体調が厳しいときもあり、仕事がつらいと感じることもあります。

それでも、生きていくためには治療を続ける必要があります。そのために、できる範囲で働きながら、夫にも支えてもらい、何とかやりくりしている状況です。

川口 私は、入院すると1万円、手術をすると5万円が給付される程度の比較的簡易な保険に加入していました。抗がん剤治療は半年間行い、その際は高額療養費制度を利用しました。

高額療養費制度によって後から払い戻しはありますが、いったんは病院窓口での支払いと、薬局での支払いをそれぞれ自己負担しなければなりませんでした。抗がん剤の点滴と内服薬の両方があり、その都度費用がかかります。

当時勤務していた会社は日給月給制でしたので、通院すればその分収入が減ります。そのため、抗がん剤治療を受けた後にそのまま出勤したり、検査のある日は病院に行ってから仕事に向かったりという生活を続けていました。

【外見】

岸田 次のテーマは「外見」についてです。これもAYA世代特有の悩みと言えるのでしょうか。

清水 AYA世代に限ったことではありませんが、社会的に活動している世代であることを考えると、外見に関する悩みは大きいと思います。特に思春期や若い世代では、見た目を強く意識しますので、その影響はより深刻になりやすいと感じています。

岸田 皆さんの中で、外見について工夫していることや、困った経験はありますか。

川口 私の場合、髪の毛がまだ十分に生えそろっておらず、細くてまばらな状態です。見た目にも病気を感じさせる印象があるので、そのマイナス面を隠すために常に帽子をかぶっています。

一般的には3年ほどである程度戻ると聞いていましたが、私の場合は回復が遅く、まだ生え方にばらつきがあります。自分でも病的に見えるのではないかと感じてしまい、気持ちの面でも落ち着きません。今では帽子がトレードマークのようになり、かぶっていないと不安になるほどです。

保坂 私は、抗がん剤の影響で髪の毛が抜けたということにしています。がん専門の薬剤師さんからは「もう4年も経っているので抗がん剤の影響ではないですよ」と言われましたが、見た目はかなり薄く、頭皮も目立っています。

友人には「抗がん剤の影響で」と説明しています。そう伝えることで、自分の中で整理がつく部分もありますし、周囲もそれ以上踏み込まずに理解してくれるという面があります。

清水 外見については、女性の場合、もともとおしゃれをされている方も多く、ウィッグを上手に活用されるなど、意外と強くたくましく乗り越えられる方もいらっしゃいます。

一方で男性は、「外見のことで悩むなんて」と周囲から言われてしまうこともあり、かえってつらい思いをしているのではないかと感じることがあります。誰にも相談できず、抱え込んでしまうケースも少なくありません。

泉川 私の場合、特別な工夫はしていませんが、薬の副作用で肌の色が白くなることがあります。肌が白くなると紫外線に弱くなり、今日のような晴天の日に長時間外にいると、ぐっと疲れてしまいます。

そのため、できるだけ地下道を歩くなど、直射日光を避けるようにしています。小さなことですが、日常生活の中での工夫の一つです。

友寄 外見の変化は、本当に大きなストレスでした。退院後、髪の毛が元に戻るまでの期間もつらかったのですが、それ以上につらかったのが「ムーンフェース」という副作用でした。

抗がん剤の影響で、入院中は顔やおなか、お尻が丸くなってしまい、手足は細いままなのに顔だけがまん丸になりました。友人から「太ったね」と言われることもあり、退院後もしばらくはその状態が続きました。

やがて腫れは引きましたが、今度は急にしぼんだような形になり、お尻には今も妊娠線のような跡が残っています。

退院後は、血色がよく見えるようにチークを使うなど、自分なりに工夫をしていました。胸元にはカテーテルの跡も残っていますし、ウィッグも毎月買い替えていました。当時は外見に関する悩みがとても大きく、精神的にもかなりつらい時期でした。

【今闘病中のあなたへ】

岸田 最後に、いま闘病中の方へメッセージをお願いいたします。

友寄 私からのメッセージは、「未来のあなたは、きっと笑っている」という言葉です。

保坂 私は、「根、確かなれば、花、必ず開く」という言葉を贈りたいです。これは父からもらった座右の銘であり、私自身の信念でもあります。

今、闘病中という時間が種まきの時期だとしたら、自分で前を向くために水をやり続けてほしいと思います。そうすれば、何年か後には必ず花が咲くと信じています。私自身がそう自分に言い聞かせながら過ごしていますし、その思いをそのまま皆さんにも届けたいです。

泉川 私は、「あなたは独りではない」ということを伝えたいです。

きっと今、「なぜ自分だけがこんなに苦しいのだろう」と思っていらっしゃる方もいるかもしれません。でも、こうして経験を共有できる仲間がいます。ぜひ一歩、外に出て、誰かと話してみてください。つながりは必ず力になります。

川口 私からは、「時間が解決してくれる。大丈夫です」というメッセージです。

1年、2年、3年と時間が経つにつれて、少しずつ気持ちは楽になっていきます。やがて、自分の問題だけでなく、周囲のことにも目を向けられるようになります。焦らなくて大丈夫です。必ず、今とは違う景色が見えるようになります。

清水 本日は、それぞれのお話から多くのことを学ばせていただきました。皆さんの経験や言葉の中には、たくさんの示唆やアイデアが詰まっており、本当に濃い時間だったと感じています。

AYA研としては、こうした当事者同士がつながれる場を、これからも積極的に用意していきたいと考えています。特に地方では、つながりの機会がさらに少なくなってしまいます。そうした地域の方々をどのようにつなげていくかについても、皆さんと一緒に取り組んでいけたらと思っております。

本日は貴重な機会をありがとうございました。

※本ページは、経験者の体験談を扱っております。治療法や副作用などには個人差がございますので、医療情報に関しましては主治医や、かかりつけの病院へご相談、また科学的根拠に基づいたWebページや情報サイトを参照してください。
*がん経験談動画、及び音声データなどの無断転用、無断使用、商用利用をお断りしております。研究やその他でご利用になりたい場合は、お問い合わせまでご連絡をお願い致します。

関連するみんなの経験談