目次

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インタビュアー:岸田 / ゲスト:友寄・泉川・保坂・川口・清水

【ゲスト】

岸田 今回は特別バージョン、AYAがんの医療と支援のあり方研究会とのコラボ企画で15歳から39歳のAYA世代に特化して話をしていければと思っております。

岸田 まずきょう一緒にモデレータをしていただきます、清水千佳子さんです。

清水 国立国際医療センターの清水と申します。医師でもありますが、今回はAYAがんの医療とあり方研究会の広報委員長という立場で参加させていただいています。

清水 国際医療センターの乳腺センターで専門の乳がんの治療をしつつ、乳がん以外のがんの方の、抗がん剤の治療もお手伝いをしています。

岸田 まずAYA世代のがんについて、清水さんに説明をお願いします。

清水 AYA世代とはAdolescent and Young Adult、思春期と若年成人世代を示します。

清水 今年間でがんと診断される方は100万人近くいらっしゃると言われていて、その中でも小児がん、15歳未満の方ががんになるっていうのは年間2000人ぐらい、その上のAYA世代15歳から39歳は年間2万人ぐらいいらっしゃると言われています。

清水 全体に対する割合は2パーセント程度で非常に少ないですが、小児がんよりは数が多い。

清水 また男性と女性とで傾向が少し違っていて、女性のほうが若い患者さんが多く、その原因は20代の後半ぐらいから女性は乳房と子宮頸がんが増えてくる。男女の差は子宮頸がんと乳がんがほとんどで、その他のがんに関しては男性も女性もそんなに分布としては変わりがないと言われています。

清水 がんの種類は非常に多彩で、比較的多いのが血液やリンパのがんですが、甲状腺がん、中枢神経系のがん、結合織や軟部組織のがん、皮膚のがんとたくさんあります。

清水 小児科に行くと小児科の先生が全部これを見るんですけれども、成人の診療科はその専門で細分化されている。小児・AYA世代のがんは少ない上に様々の種類を小児科だけで診察するということで、なかなか見つけにくい。

清水 昨年の春から第3期がん対策推進基本計画というのが始まっており、国も一生懸命AYA世代のがん患者ケアに取り組んでいるところです。AYA世代特有のニーズにどうやって応えるかということを今まさに考え動き出しています。

清水 AYA世代のがんって多様で希少なんですけれども、まずはAYAに関して知っている医療従事者を増やそうということで、人材育成や医療機関と支援団体間のネットワーク構築、がん治療病院から患者さんにケアが届くよう、頑張っているところです。

岸田 今回はAYA世代のときにがんになった4名に来ていただいて、その話を聞いていきたいなと思っています。簡単に自己紹介をお願いします。

友寄 友寄蓮、24歳です。私は16歳のときに急性リンパ性白血病と診断されました。家族は祖母、父、母、弟。当時は武蔵野赤十字病院に入院しておりました。

友寄 現在はタレント活動や献血推進の活動をしています。2011年10月、高校2年生のときに風邪のような症状から始まりました。1カ月後に白血病、急性リンパ性と診断され、すぐ入院生活に入りました。

友寄 1年4カ月後、退院と同時に高校を卒業しましたが、その後3年間は結構、体が弱くて退院した後も肺炎をこじらせて入院したり、総胆管結石になっての緊急手術や、胆のう摘出の手術など、ちょっとした日常のことで入退院を繰り返し、ようやく今何ともなくなった感じです。

保坂 秋田県から参りました、保坂翔大と申します。家族構成は父と母と姉です。父は同時期に胃がんで入院していて、その後亡くなりました。

保坂 初発が27歳で3年後、30歳のときに再発しました。現在は34歳です。がんの種類は急性骨髄性白血病です。今、療療養中の身なんですけども、レザークラフトを販売して自分のできることを前向きにやってる感じです。

保坂 治療は終わっていて、薬も免疫抑制剤とか終わってるんですけども、移植後特有なのか日によってだるさが結構激しいので、普通の仕事はちょっと厳しいかなって判断して無理をせず療養中で自分のできることをやらせてもらってます。

保坂 最初に微熱が続いてそれを無視して仕事をずっと続けてたら、鼻や口から血が出て止まらなくなって、その次に体に紫斑っていう内出血みたいなの出てきて、町の小さな病院に行ったんです。

保坂 採血したら白血球が13万っていう数字で、専門じゃなくてもこれ異常だっていうことで、すぐ紹介状出してもらって私立病院に即入院即治療開始みたいな感じです。最初はドナーを全国で探したんですけどいなくて、大学病院に転院し化学療法のみで治療して退院しました。

保坂 その後、1年程で元の職場に復職しましたが体力的に昔の仕事があまりできないようになったので申し訳なく感じて退職させてもらい、その後いろいろ仕事を転々としました。その後再発し、秋田でまだ臨床の段階だったんですけど他に選択肢がなく、ハプロ移植という半合致の移植をして、現在に至ります。

保坂 臨床の段階でまだあまり認知されていないような移植を行ったって感じです。

泉川 福岡から来ました泉川しずかです。がん種としてはGISTという希少疾患で10万人に1人から2人の罹患数の肉腫です。罹患したのが29歳、子どもが5歳のときで、今は43歳です。もともと貧血の症状があったんですけどあまり気にしてませんでした。

泉川 当時階段のない3階に住んでたんですけど、休憩なしに上がることができなくなってきたのと、腹痛とおなかに触るものがあったので、病院に行き検査すると小腸に7センチぐらいの腫瘍と肝臓にも何カ所かあるのが分かり、ヘモグロビンが5ぐらいだったので、すぐ入院、検査、輸血みたいな感じでした。

泉川 小腸の腫瘍ってあまりないのでなかなか診断名が付かず、病理検査で初めてGISTという診断名が付きました。そこから分子標的治療薬グリベックっていうのを飲み始めるんですが、副作用とかもあり規定量は4錠なんですけど3錠飲み始めました。手術が続いたのもあって合併症みたいな感じで腸閉塞を繰り返し、2005から2008年ぐらいは入退院を繰り返す感じでした。

泉川 2008年に肝臓で再発してラジオ波治療なども経験し、薬を増量したら調子がよくて、それから9年は何もなく本当に元気に過ごせてましたが、去年、一昨年と肝臓にまたできて、手術が続いています。切除したので基本的に再発はないんですけど、薬飲まなくなったらまた出てくるだろうから薬は一生飲もうって言われました。

泉川 GISTは希少ながんで10万人に1人から2人、忘れ去られたがんって言われていましたし、14年前はまだGISTという診断名が付いて間もないぐらいの頃で、使える薬も一つしかないっていう状況で専門医もいず、同じ患者さんとも会えない時間が結構、長く続きました。

川口 川口健太郎です。神奈川県茅ケ崎市から来ました。家族構成は妻と一緒に2人で暮らしてるんですが、病気になったときは結婚してなくて、そのときは父、母、弟と4人で住んでました。

川口 罹患したのは26歳。大腸がんで、現在は32歳です。2カ月前に5年経過検査をして、もう来なくていいと診断されました。罹患したときは茅ケ崎にある小さな20人ぐらいの工場で仕事をしていましたが去年転職して今は会社員です。

川口 2014年2月に告知をされ3月に手術、4月に病理検査でステージ3のBだと確定して治療を開始しました。告知後に入籍し結婚と闘病が同時に進行していくんですけど、新婚生活がスタートしたと思ったら抗がん剤治療を開始しすぐに入院。入院して抗がん剤の点滴治療と飲み薬の治療を半年間やった後、だんだん副作用が強くなってきて、血を吐いた時がありそれを見た瞬間に死を感じました。

川口 それまでは抗がん剤の副作用のときすらたばこ吸ったり、お酒飲んだりして元気なときの自分をカモフラージュしていたんですが、死ぬかもしれないと思ったときに生きたいと思ったんです。そこから病気を受け入れたっていうか考え方、人生が変わって健康的に生きていこうと、去年からがんサロンに参加したりピア・サポートっていう活動を始めました。

川口 完治したと明言されてはいないけれど、5年経過したんでこれからどうしようかなっていう状況です。

【妊孕性】

岸田 きょうは大きく五つのテーマを用意しております。一つ目が妊よう性。

岸田 妊よう性について千佳子さんから説明していただきたいと思います。

清水 がんの治療では、抗がん剤治療や放射線治療などによって子どもを持つ力、つまり卵巣や精巣の機能、あるいは性機能に障害が起きて子どもを持つという力に影響することが知られています。若い方の場合はそれがすごく切実で、女性の場合は生物学的にある程度タイムリミットみたいなのもある。

清水 どうやったらがんになっても子どもが持てるようにできるか、この10年ぐらい不妊治療が進歩してきたところもあって、一昔前は本当に、がんになったら子供は諦めてくださいっていうことが多かったんですけども、子どもを持つ可能性を残すようながん生殖医療というのが提案されるようになってきました。

岸田 血液のがんでもある白血病を罹患した蓮さんから話をお聞かせいただけないでしょうか。

友寄 私が白血病になったのが16歳のときだったので、10代だと妊よう性についてそこまで説明はされないというか自分の頭も追いついてないですし、何となく放射線だったら影響するのかな、程度でした。

友寄 私の治療は抗がん剤だけでしたが、抗がん剤のみで影響するって知らなかったんです。それこそ最近AYA世代のセミナーを聞いたときに抗がん剤でも影響するんだと知って、今年の4月に診察をしてもらったときに妊よう性について聞いて、そこで初めて自分の妊よう性も将来分からないっていうのを知ったんです。

友寄 ショックでしたが、AYA世代でがんを経験された方で妊よう性に影響してしまって子どもは産めないけど、今は養子を引き取って幸せに暮らしてますという方と出会ったとき、そういった選択肢もあるんだと思いました。母の頭には妊よう性問題がよぎったらしいんですけど、とにかく今はそれどころじゃなくって、まずは娘の命だと思って、そこはそのまま放置してしまったと言ってました。

清水 病気によっては治療まで待てるものと、白血病のように待てないようなものもあります。抗がん剤も種類によっては影響も違ってくるところもあるので、そういった情報が診断と一緒に入ってきたら、きっとすごく大変で情報処理できなくなっちゃいそうですよね。

岸田 翔大さんも白血病で骨髄移植もされて、そこも含めてお話しいただけますでしょうか。

保坂 7年前になったときは抗がん剤治療のみだったんですけど、妊よう性がどうのとか、みんな知らないと思うんです。でもその時の先生は調べてくれて、精子を保存できる場所が秋田にはないから仙台でできると言ってくれました。

保坂 1回目に少し抗がん剤入れた後に、ちょっと体調見て安定したときにすぐ行ってっ1日かけて保存をさせてもらったんです。でも自分の更新の手違いがあって、それがなくなってしまいました。保存したその年は自動更新で、12月に更新が届いて、黙ってても更新は勝手にしますよ、みたいな感じでした。

保坂 次の年に自分の精子が生きているかどうかのチェックをしたら生きていて、自然妊娠もできることが分かりました。その時も保存がどうのこうのみたいな話もされて、お願いしたんですが、その年から自己申告制になっていて自動更新ではなくなっていたんです。でも自然妊娠するって言ってたし、妻と2人で相談して受け止めました。

保坂 再発して、今度は移植もしましたが今回は精子保存せず、チェックもしませんでした。自然妊娠の可能性は低いって言われましたが妻と話し合って、前向きに考えるようになりました。病気が分かった時に精子保存ができるっていう知識を頭に入れとけば自分たちで解決できるから、これを見た人は少し片隅に入れてもらえたらなと思います。

泉川 私は14年前なので妊よう性という言葉も聞いたことはなくて,私は出産後に病気になったんですが、最初は手術で取ればいいだけだと言われたので、2人目のことまで考えませんでした。

泉川 でも手術後、やっぱり追加で薬を飲んだほうがいい、まずは3年飲んでしっかり治そうっていうことになって、3年飲んだ頃に再発をして薬を増やすことになって、5年がめどだからって言われて、5年を目指したんですけど、5年たった頃に受けた検査で、薬は一生飲んだほうがいいっていうふうに言われて…ちょっとずつ心も可能性も折られたという感じでした。

泉川 正直、病気になったときに2人目がものすごく欲しかった訳でもなかったけれど、薬が胎児に影響を与えてしまうタイプの薬で、妊娠は控えてくださいって言われたとき初めて子どもがもう一人欲しいっていう気持ちがすごく湧いてきました。

泉川 当時は「命が助かっただけでもありがたいと思いなさい」と言われ、子どもをもう一人望むことすらわがままなのかなっていうのもあったんですけど、上の子どもが妹が欲しいって言ったときはさすがに申し訳なくてつらかったです。

川口 抗がん剤治療のパンフレットを渡されて、そのパンフレットを家でペラペラって見てたら、後ろのほうに1年半は妊娠とかを避けてくださいって書いてあったけれど、医師からの説明は一切なくて、自分でそれを見たときに、治療が優先だなと判断しました。

川口 保存のことも書いてなかったから、知らなかった。26歳で知識不足、パンフレットを見ただけでは精子の保存まで意識が及ばなかった。

清水 医者のほうも、病気を治療するほうに夢中になってるところがあるので、そこまで思い至らないっていうところもあるのかなっていうふうには思います。まだ世の中がこのことについてすごく意識をする、というところまではいってないから、いろんなお話を伺えて、まだいろいろとこちらも頑張らなくてはいけないな、と思いました。

清水 もちろん、いろんな生き方ができると思うので、ただそういう選択肢がまずあるよっていうようなことは提案していくべきだと思います。

【情報】

岸田 次のテーマ、情報に関して。情報発信の仕方、受け取り方等、今もAYA世代のがん患者さんのニュースとかいろいろあると思います。

友寄 今はネットで病気を簡単に調べられちゃう。皆当たり前に検索するので、ネットの情報に踊らされ過ぎるんです。

友寄 私の場合は白血病で亡くなった著名人が多くて,担当医に言われたのは、ネットの情報は一切遮断して、不安なことがあったら自分に聞いてくれと。そこから私もネットで検索するのをやめました。本当は病気もそれぞれ症状があるので一概には言えないのに、どうしてもちょっと時間があると自分で調べて、どんどんマイナスに考えてしまう。

友寄 当時の自分の気持ちって、今の私には全部分かり切らないなって思うし、過去にしがみ付かずに忘れる部分はうまく忘れて、逆にプラスの方へ発信していけるようにと思います。難しいのは、メディアと患者間での情報に対するスタンスのズレがどうしても生じてしまっていること。患者が今、自分たちで情報発信できる時代になったので、リアルな患者の声をそれぞれが発信していくべきだなと思います。

保坂 情報発信は入院中ブログでしてました。自分の場合は移植のときに、同じ日に移植する人を探して一緒に頑張りましょうみたいな一緒にフォローし合うみたいな感じになってお互い励まし合っていました。

保坂 僕はブログを通じてダイレクトメッセージを出して、それで勇気というか、お互いに一緒にいる感じっていうか、一緒に戦ってるっていうか、一緒に歩んでる感じがしてたので、ブログのそういう所は結構いいなと思います。

泉川 GIST患者はGISTERS.netといって、独自のSNSを持っているので、そこに登録していただいた方は患者同士の情報交換をブログでやっているのと、インターネットにあまり慣れていない世代の方もいらっしゃるので、独自の患者交流会とドクターを呼んでの学習会っていうのを結構いろんなエリアで開催をしています。

泉川 去年からがん教育に携わることになったので、そこでも子どもたちを相手に、少し病気のこととか経験談をお話しています。

川口 僕は治療中一切、情報発信もせず、受信もせず何もしてなかったです。友達とかにも一切言わないで、音信不通にしちゃったんです。LINEアンインストールして、音信不通にして外部の情報を一切遮断して。

川口 1年前に、がんサロンとかこういう活動を知って、がん患者支援みたいな感じの患者会とかっていう活動に参加し始めてから、こういう活動しています、みたいなのをFacebookでどんどん発信するようになりました。

【仕事】

岸田 次にお仕事に関して,休職や転職をどうしたのか。川口さんの場合、がんになってから転職活動され町工場から会社員になったとか。

川口 治療中は午前中に病院に行って抗がん剤を打って、その足でそのまま会社に行って仕事するという生活をしてました。転職したのは、勤務先の町工場がすごい不健康な職場で、健康的に生きるということとのギャップ感じてきて、転職しようと思いました。

川口 がん患者が仕事をするとき病気をオープンにするか否かっていう問題がある中、履歴書に「僕はがんになってすごいよかったと思ってます、僕はがんになったおかげで健康的になりました」というようなPR書いて、何社か出して、それがご縁で今の会社に入りました。

川口 こういう例が他のがん患者さんの励みになるか分かんないですけど、僕は一応そういった就職活動をしました。8社ぐらいに送って、5社ぐらいは1次面接できました。だからそんなにがんだからっていうのは、僕は感じなかったです。

清水 そのPRに対して、面接のときに質問を受けたりしましたか。

川口 今は治療はどうされてるんですか、とか、全然、平気なんですかみたいな、そういった質問は来ました。

岸田 翔大さんは?

保坂 初発のときは退院してすぐ、1年足らずで元の会社に戻ってずっと働いてたんですけど、再発して、その後退院したときに家族からやっぱり仕事は負荷が掛かるから、少しでも再発をしないように、5年完治の目安まではゆっくり過ごしてほしいと言われて、今は家族のフォローも受けながら暮らしています。

保坂 ただ、そのフォローを受けて何もしないと自分が腐っちゃうから、自分でできることを何か、例えば短期の仕事を見つけたら1日でも行ったりします。今、秋田で革の先生と出会って退院後ずっと習わせてもらっています。

保坂 いろいろ技術も付いてきて、販売できるかなと思ってレンタルボックスみたいな場所を借りたんです。少しでもお小遣いになるし仕事した気になるというか、社会とつながりを持てている気がして。自分でできることを探して社会とつながりを持つっていうのも一仕事です。

保坂 病気をして療養中の人でも、療養も仕事だと思ってますし、そういう社会とのつながりを自分で探して何かやることも仕事の一と考えで療養中の革作家っていう感じです。経済面で家族からサポートしてもらいつつ、自分の5年後とか完治した後のビジョンを立てて、こういう仕事がしたいってなったらそれに向けて自分、少しずつやってるみたいな感じです。

【お金・保険】

岸田 4人の中でがんに限らず保険に入られてた方っていらっしゃいますか。

泉川 入ってないうちに病気に。

保坂 職場で入ってました。

川口 親にくっついて入っててました。

友寄 私は学資保険でした。

岸田 蓮さんに関しては小児慢性特定疾病が適用されますよね?しずかさんはどうですか。治療費とか。

泉川 めちゃくちゃ大変です。分子標的治療薬は体の負担も少なくてすごく効果もあって、とてもいい薬なんですけど、GISTや希少疾患で使える患者数がすごく少ないのもあって、とても高いです。飲み始めの当時は1錠3000円かな。それを1日4錠毎日飲むので、月に30万ぐらい掛かって。

泉川 高額療養費の制度があるんですけど、それでも保険が効いて初発に8万払って、4カ月目から4万2000か5000か。それが12カ月掛け14年なので、きょう行きの飛行機で計算したら750万円ぐらいは自己負担です。それの何倍も国が負担してくれているので、そこは感謝しています。

泉川 保険は結婚したときに経済的な負担もあって、入院しても一日2000円ぐらいしか出ない、負担も安いけど還ってくるのも安いやつに変えた後だったので何も出なかった。治療費は、今は夫の稼ぎです。自分でも仕事はしていますが、抗がん剤できつくて、仕事がしんどいなと思うこともあります。

泉川 でも生きていくために治療費がないとできないので、そこは頑張って仕事をしながら、夫にも稼いでもらいながら賄っています。

川口 僕は、保険金は安くて入院すると1万円出て、手術したら5万円出るっていうレベルの保険だったんですけど、僕も高額療養費制度を使って抗がん剤を半年間しました。

川口 後から還ってきますが、病院で払う金額と薬局で払う金額が抗がん剤と飲み薬、両方に支払うお金がそのとき自己負担なので、その時働いていた会社が仕事に行って日給月給制だったので、抗がん剤打ちながら仕事行って、検査のときは病院行ってから仕事に行くっていう生活していました。

【外見】

岸田 外見について。これもAYA世代特有の悩みでしょうか。

清水 AYA世代だけじゃないですけれども、やっぱり世の中で社会的に活動している世代なので、そういう意味では外見に関する悩みっていうのは大きいんじゃないでしょうか。特に思春期なんか意識しますし。

岸田 4人の中で外見について工夫ことや問題点があったりしますか。

川口 僕の場合、まだ細い感じで生えてる感じで、見た感じが病的なのがすごい分かるからマイナス面を消すために常に帽子を被ってます。普通は3年ぐらいになると結構生えるんですけど、僕はまだまだ遅くて、細かったり、生えてない場所があったり、まばらだったり。

川口 明らかに病的な感じがするし、なんか気持ち的に嫌じゃないですか。だからこれがもうトレードマークというか、帽子がなきゃ落ち着かなくなっちゃって、常に帽子を被った感じでいます。

保坂 僕は抗がん剤で髪の毛が抜けたっていうふうにしてるんですけど、がん専門の薬剤師さんとかから、いやもう4年たってるんだからそんなことはないと。こんな頭してて光ってるんですけど、友達には抗がん剤でっていう話にしてます。

清水 外見でいうと、女性は割と元々おしゃれでウィッグをかぶる方もいらっしゃるんで、意外と強くたくましくやっていける方が多いですが、男性は外見のことでくよくよするなとか言われたりもするので、かえってつらい思いをされてるんじゃないかとも思うんです。やっぱりそのことで誰にも話せない。

泉川 工夫は特にありませんが私の場合は薬の副作用で色が白くなるっていうのがあって、色が白いっていうことは太陽に弱いので、今日みたいに晴天のときに外に出るとぐっと疲れたりするので、地下道を歩くというような工夫はしています。

友寄 外見的な変化って本当にすごいストレスで、退院した後、髪が戻るまでもストレスだったけれど、ムーンフェースっていう抗がん剤の副作用を知らなくて、入院中は顔とおなかとお尻がすごい丸くなってしまって、手足は棒のようなのに顔がまん丸だから友達とかには太ったねと言われてしまうし、退院してからもなかなか引かなかったんです。

友寄 引いても突然しぼんだので、お尻は今も妊娠線みたいにボコボコです。退院した後はなるべく血色のいいチークを使うとかで工夫してました。あとカテーテル跡が胸元にあります。かつらも毎月買い換えてましたし、とにかく、そのときは外見に関してとてもつらかったです。

【今闘病中のあなたへ】

岸田 最後に今、闘病中のあなたへといったメッセージをいただけますでしょうか。

友寄 私からのメッセージは未来のあなたはきっと笑っている、ということです。

保坂 僕は、根、確かなれば、花、必ず開くっていう言葉です。これは僕が父にもらった座右の銘といいますか、自分の信念なんです。

保坂 今、闘病中が種まきの状態であれば、自分で前を向くために水をやり続ければ、必ず何年か後には花が咲く。今、自分自身に言い聞かせて頑張ってることをそのまま皆さんにそう思って頑張ってもらいたいなって思って、この言葉を贈りたいなと思いました。

泉川 私は独りじゃないよというのを伝えたいです。きっと今も、なんで自分だけがこんな苦しい思いをしてるんだろうって思っていらっしゃるかもしれません。でも、こうやって共有できる仲間もいますので、ぜひ一歩、外に出ていろんな人と話をしてほしいなと思います。

川口 僕は時間が解決してくれた、大丈夫っていうメッセージです。1年たって、2年たって、3年たって、時間がたったらだんだん気持ちも楽になってきて、今度は自分の問題じゃなくて外の問題にも目、向けられるようになってくる。大丈夫です。

清水 本当にそれぞれのお話の中からいろいろ勉強させていただいて、すごいアイデアがいっぱい詰まった濃い時間になったなっていうふうに思います。AYA研としてはこういう人がつながれる場をぜひ用意していきたい。

清水 地方に行けば行くほど少なくなっちゃうので、そういったところをどうやってつなぐのかということを、皆さんと一緒に取り組んでいきたいなと思っております。貴重な機会をありがとうございました。

岸田 ありがとうございました。

※本ページは、経験者の体験談を扱っております。治療法や副作用などには個人差がございますので、医療情報に関しましては主治医や、かかりつけの病院へご相談、また科学的根拠に基づいたWebページや情報サイトを参照してください。
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