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インタビュアー:岸田 / ゲスト:坂井

【発覚・告知】

岸田 きょうのゲスト坂井さんです。よろしくお願いします。

坂井 よろしくお願いします。坂井広志と申します。現在48歳です。

坂井 がんの種類は小腸がんで、小腸がんな上に小腸が破れていたので、がん細胞が小腸から腹膜に散ってしまい腹膜播種という、遠隔転移という位置づけでステージ4と診断されました。

坂井 46歳のときに発覚し、現在48歳。今年49歳になります。

岸田 ありがとうございます。小腸がんって珍しくないですか。

坂井 小腸と心臓ってのはがんにならない、なりにくいって一般的に言われてて、10万人に0.2から0.7人ぐらいのレベルらしいですね。

岸田 希少がんの定義でさえ10万人中6人未満ですからね。の肺細胞腫瘍も珍しいですけどケタが違う。

坂井 私の担当医の説明によると、小腸は栄養分を吸収してそうじゃないものを大腸のほうに落ちるので、悪いものが小腸に残るっていうのはあんまりないのが一般的ということらしいんですけども、なぜか悪いほうのが残ってしまったということですね。

岸田 どんなふうに告知を受けがんが発覚していったんですか。

坂井 産経新聞社っていうとこで働いてるんですけども、当時は産経新聞の水戸支局のデスクという、若い人たちに原稿指示発注したり見たりとか、若い記者たちの買い付けた原稿を見たり直したりという仕事をしていました。

坂井 しかし最近どうもちょっと歩いただけで息切れする。

坂井 本当数メートル歩いただけではあはあいうんです。階段をちょっと上がっただけではあはあはあっていう感じで、すごかったんです。

坂井 年なのかな、疲れてるのかなとか、その程度の認識だったんですけども、徐々に周りからもおかしいんじゃないのと言われるようになりました。

坂井 周りからも色々言われるにつれ、やっぱりこれはちょっと普通じゃないんだということを感じ始めたのが、最初です。

坂井 要は肺炎とかだったらまずいなとかくらいの認識でレントゲンとか心電図を撮ってもらおうと思って水戸の町医者に行ったわけです。

坂井 ついでに血液も採ってみましょうかというふうに言われ実際取ってみたら先生から深刻な貧血ですよと言われすぐ大きな病院に行ってくださいと言われ茨城県内で一番近い病院に予約や紹介状の手配をしてもらいました。

坂井 ヘモグロビンっていうのは普通14ぐらいないといけないんですけども5.1だったんです。

坂井 国立水戸医療センターに行きましたが、貧血の原因が分からない。いろんな科を転々としても胃カメラやっても分からない。

坂井 胃と大腸に挟まれていて胃カメラをしても分かりにくいのが小腸がんの悩ましいところです。

坂井 あと血便でもなかったので、なんでこんなに貧血なのか全く原因が分からなかった。

坂井 少なくとも呼吸が困難なのは貧血から来てるものであろうってことぐらいは分かるわけですけども、水戸医療センターの先生もみんな分からない。

坂井 次は大腸カメラで検査しようとしていたんですがその前に倒れちゃったんです。

坂井 ある日茨城県議さんとプライベートで焼き肉を食べに行ってたんですが、翌日、昼にご飯を食べて以降非常に気持ち悪くなったんです。

坂井 何回もトイレ行って昼から夕方にかけて10回ぐらい吐いていい加減ぐたっとなりました。

坂井 当時12月忘年会シーズンで支局長も若手記者もあんまりいなかったという中で、一人でもうろうとしながらこれは限界だなと思ったとき、当時の部下の若手記者がデスクの様子がおかしいということを支局長に連絡してくれたんです。

坂井 すぐ帰りなさいっていう話になって、別の後輩に肩を担がれて夜の7時くらいに帰りましたが痛くて。

坂井 10回くらい吐くと、頭も身も心も廃人のようになるし、痛さで耐えられなくて、家帰って倒れると、妻がすぐタクシーを呼んで、水戸医療センターに行きました。

坂井 妻の話では当時、顔が土色になっていたと言ってました。妻は僕の顔見た瞬間にもう入院だなと思ったと言ってました。

坂井 病院に行ってすぐCTを撮ったんです。そしたら小腸の上にうわっと膨らんでいて、腸閉塞になってたんです。緊急入院になりました。

岸田 重度の貧血が判明して緊急入院し、その後小腸摘出手術ってありますがこれは?

坂井 この手術はがんの手術ではなくて、腸閉塞の部分的摘出です。

坂井 早急にやらないと食事ができないので、平成28年の12月13日に入院して19日にすぐ手術をして僕のそのときの外科の執刀医は、手術したときにがんだっていうのはあらかた分かったようです。

坂井 要するに小腸が破れていたので、どす黒くなってる。

坂井 穴が開いてる悪性だろうと大体分かったみたいです。

岸田 告知はその手術後に?

坂井 12月13日に緊急入院をした時内科の先生からやっぱり手術の前に手術をしないといけませんねっていうことを言われたんです。

坂井 僕は大きな手術とかしたことがなかったのでもうちょっと様子見ませんかと手術に難色を示したらその内科の先生が私がこれだけ手術を勧めてるのは、がんの可能性があるからなんですといきなり言われ、これが結構衝撃だったんです。

坂井 単なる腸閉塞ぐらいの感覚だったのが、いきなりがんと言われたときのこの衝撃はすさまじいものがあった。

坂井 そう言われてから抵抗できなくなって、ショックのあまりしゃべれなくなりました、先生が部屋から出て行った瞬間にショックのあまり泣き崩れましたね。

【治療】

岸田 年が明けて1月に抗がん剤治療がスタートしていきます。どんな治療でしたか。

坂井 抗がん剤治療は一般的に点滴投与によるものと錠剤の2種類なんですけど小腸がんの薬っていうのは当時なかったので、大腸がんの薬をすることになりました。

坂井 1970年代は胃がんの薬を使っていたそうですがあんまり効かないって話になって、80年代になると、どうやら大腸がんの薬が効くらしいっていう話になって、多くの人が大腸がんの薬を小腸がん患者は使うようになった。

坂井 私も大腸がんの患者が使ってるオキサルプラチンっていう点滴剤をやってまして普通の点滴ですけどもそれを3週間に1回入れて、あとはゼローダっていう錠剤を飲むという、それを3週間1クールでやっていて、2週間飲んで1週間休薬するという、そういうスケジュールでやってました。

岸田 その後会社復帰し、また点滴による抗がん剤治療を中止していく。そして錠剤の抗がん剤治療のみ服用し、PET検査を行って本格的に休薬の開始といったところ。

坂井 水戸医療センターの先生からは、次抗がん剤治療を始めるにあたって、坂井さんはいずれ東京に帰るんだったら始めから、東京の病院で抗がん剤治療始めたほうが良いんじゃないですかと結構いろいろ言われたんです。

坂井 例えばがんっていうのは家族で支えていかなきゃいけない病気で、奥さまも知り合いのいないところで、孤立感を覚えながら夫を支えるっていうのは大変でしょうみたいなような趣旨のことを言われて、治療は東京に行かれたほうがいいんじゃないですかと。

坂井 だから、抗がん剤治療は国立がんセンターの中央病院で始めたんです。

坂井 このときの記憶は、本当に多分一生忘れないだろうなと思う。がん告知を受けたのが12月28日で、いわゆる仕事納めの日でした。

坂井 当時うちの会社の2月1日発令の内示が12月28日だったんです。

坂井 私は今後の治療を考えるとこのタイミングで是が非でも東京本社へ異動させてもらわなければ東ならないなと思って、当時の編集局長にすぐ電話をしたんです。

坂井 やっぱりがんでした、ステージ4でしたと電話で話しました。サラリーマンですから個人的理由で人事に関して希望は言いづらい。

坂井 多くのサラリーマンの方って分かると思うんですけどでも言うしかないなと思ってたら編集局長は、僕が言う前にすぐ東京に戻すからっていうふうに向こうからすぐ言ってくれたのがすごくありがたかったなっていうの、覚えてます。

坂井 年明けに東京に帰ってがんセンターで治療を始めた。

岸田 抗がん剤治療の後は副作用で心が、と書いてありますけれど。

坂井 心が荒みましたね。オキサルプラチン等のプラチナ剤は全体的にかなり強い。

坂井 強い分効くし、その分副作用も強く出る。私は髪の毛は抜けなかったですが吐き気は普通にありました。

坂井 僕の場合何が一番つらかったかというと冷たいものを触ったり手を水で洗うと冷たすぎて痛い。

坂井 とにかく冷たいものに当たると痛みで何もできなくなる。

坂井 外で風に当たると痛くてまず目が開けられない。耳も口も表に出てるところが全部痛くってしまうのでこれがかなりきつかった。

坂井 1月に抗がん剤始めてますから、真冬なわけです。あと足のしびれもかなりきつかったです。

坂井 とにかくかなり生活に支障を生じるなと思いながら仕事をしてました。つらかったですけれど、これを乗り越えてかなきゃしょうがなかった。

坂井 副作用に対する薬ももらうんですけども、これ以上薬増えるのは嫌だなと思って我慢しました。

岸田 社会復帰をされてからその直後は仕事の波に乗れなかったとか。

坂井 水戸支局にいた1年9カ月間は地方の政治には触れてますけど、国政の政治には触れてなかったので普通にブランクがあったっていうのと、がんになったことによって、すごく周囲の視線を気にしてしまった。

坂井 1年9カ月間離れてると政治部のメンバーも結構変わってましたし、自分で境界線を勝手に引いてしまって、健常者がまぶしく見えた。

坂井 ある政治部の会議に行ったとき、健常者の人にわっと囲まれてる感じで、どう思われてるんだろうとか、がん患者で使えないんじゃないかって思われてんじゃないだろうかと猜疑心に押しつぶされそうになりました。

坂井 でも無理してまた倒れたら…そんなことを悩みながらやってると仕事の波に乗れなかった。

岸田 その後腹膜のがんの細胞が縮小してからその後は点滴の抗がん剤中止してるんですか。

坂井 中止したのはちっちゃくなったからというのも理由の一つです。

坂井 点滴のオキサルプラチンは大きながん細胞を小さくする薬なんです。

坂井 もう一つのゼローダという錠剤は、小さくなったがんを小さいまま維持する薬。ちっちゃくなったからやめようっていうだけではないんですけども、やっぱり副作用がきつかったし、このままオキサルプラチンをやり続けると足の裏のしびれが膝のほうまでしびれが来ちゃって、それが抗がん剤をやめてもそのしびれは一生取れなかったというのがあったので。

坂井 実際僕も今、足のしびれが取れていないわけですけど、膝までしびれが来る前の段階でやめたほうがいいという話はちょっと言われてました。

坂井 やめてまたがんが大きくなったらどうしようっていう恐怖がありましたけれどそこは担当医とよく話し合って、当時飲んでいたゼローダを6錠を7錠に増やして、その分点滴はやめましょうという話になって、やめました。

坂井 点滴でがんが小さくなったから止めたというより、副作用がきつくてこのままやってるといわゆるクオリティーオブライフという生活の質というのがかなり落ちて大変なことになるという感覚でした。

岸田 主治医と合意の上で点滴をやめて、QOLが圧倒的に向上して、仕事も波に乗れたという訳ですね。

坂井 復帰してから1年ぐらいはなかなか波に乗れなかったですが仕事そのものにだんだん慣れたきたっていうのもあります。

坂井 オキサルプラチンをしているときは手足すごく荒れて関節も切れちゃうし同時に皮も薄くなってくる。

坂井 足の裏も薄くなってそこが切れたりして、テープみたいなの貼って、取ると皮ごとめくれちゃう。

坂井 抗がん剤やってるときっていうのは血小板とかの数値も低くなって血液が止まらなくなるので、鼻血しても血が止まらない。

坂井 あとは顔の痛み、冷たい風に当たったときに痛いっていう。薬をやめてそういうのから解放されたっていうのは大きかった。

坂井 今残るのは多少の吐き気と手足のしびれと、皮膚が切れること。

坂井 この3つさえ頑張れば何とか行けるなっていう感じになってきたので、仕事も非常に波に乗ってきた。

坂井 平成終わり令和が始まるということで、産経新聞では平成30年史っていう企画をやっていて、その中で細川元総理に取材できたことは自分の中では特にすごく大きかった。

坂井 細川さんは政局について語りたくないっていうのがあって総理をやめてから取材を基本的にあんまり受けたがらないんです。

坂井 だから取材依頼を一回断られたんですけどお手紙みたいのを出して、実は僕はステージ4のがん患者なんだけどもこういう、当時の政治史をぜひ振り返りたい、そしてこれを自分の政治記者人生の中の集大成にしたいと思ってるのでどうしても受けていただきたいと書いたんです。

坂井 手紙を出したら細川さんの秘書さんから、じゃあ取材を受けましょうって話になった。

坂井 取材が終わってからも体調の心配してくれたり。取材は普段受けないけども、手紙に綴った熱意で受けていただいたっていうのもすごくうれしくなった。

坂井 細川さんに取材するまでの間に、いろんな関係者を取材するにあたってどこに事務所を置くとか諸々を昔培った人脈が生かされていろんな人に協力してもらえた。

坂井 がんで1年ぐらい途切れてたものがだんだん復活してきたので、楽しくなってすごく元気になったのは間違いないです。

岸田 厚労省の取材もみなぎっていきますとありますけれども。

坂井 仕事復帰するにあたって、会社が僕に何の仕事与えていいかっていうところ多分悩んだと思うんです。

坂井 結論から言うと厚生労働省担当になった。政党、外務省はやりましたが、厚労省はやってなかったというのと自分が病気になったから、医療に関心を持つようになったんじゃないかっていう上司の配慮ですよね。

坂井 確かに厚労行政には全く関心は持ってなかったんですけども、自分が病気になったことによって関心を持ったことは間違いなかったし、、がんについての情報もいろいろ入ってくるんじゃないかと思った。

坂井 小腸がんの治療法がないか、小腸がんそのものの薬は今もない中で、やっぱり情報が欲しくてしょうがないわけです。

坂井 希少がんの人って情報が欲しくてしょうがない。いろいろな意味から判断して厚生労働省の担当をやってみないかと。

坂井 厚労行政は難しいんですけれども医療に色々関心を持つようになったので、だんだん楽しくなってきたっていうことです。

岸田 その後PET-CT検査が良好だと。

坂井 僕はずっとCT検査ばっかりだったんですがCTはモノクロでしか分からないのではたから見るとがんなのか血液か分からないわけです。

坂井 PET検査はブドウ糖を入れることによってモノクロをカラーで見せるやつです。

坂井 細かいこと言うと僕がやったのはPET-MRIです。

坂井 検査結果はがん細胞がないってわけではありませんが大きくなって暴れ出してる状況ではなかったので、これはよかったと思いました。

【家族・お金】

岸田 続いて家族のことお子さんのこと、闘病のお金のこととかそういったところを聞いていきたいと思います。ご両親とかにどうやって説明されました?

坂井 一番お知りになりたいのは、多分告知をどうやって家族に伝えたかだと思うんですけども、あんまり覚えてないんです。

坂井 とにかく12月28日の仕事納めの日で、がんセンターに連絡が取れないという焦りがすごくあったのと、とにかく東京に異動できなかったらどうしたらいいんだっていうことで頭いっぱいだったので、会社の上司に連絡したりとかそういうのはすごく覚えてるんですけども、家族にどういうふうに電話してどういうふうに言ったかっていうのは、本当に覚えてないですね。

岸田 奥さまは一緒に告知も受けられたと思いますけど、こういうサポートがよかったとか、要望などありますか。

坂井 私は気が弱いので、妻のサポートは大きかったです。

坂井 具体的に申し上げますと、正式な告知は12月28日なんですけども、12月19日に手術をしたときにすでに腹膜播種だともう分かってるわけです。

坂井 がんであろうということぐらいは先生も分かっていて、当然妻もその説明を執刀医から受けてるので分かっている。

坂井 いずれ結果が分かる中でいつ告知するかを先生と話し合う中で妻は、うちの主人は気が弱いのでここでがんだと言ってしまったら多分耐えられないんじゃないかと思う。

坂井 だから、告知は退院の日にしてくださいと先生に言ってくれたようです。だって腹膜播種だったら分かるわけですからね。

坂井 妻も一応お見舞いに毎日来るわけですけども、かまをかけてもずっと何にも知らないふりをしてました。

坂井 12月28日に告示された後に妻が実は私はこの説明聞くの二度目なのよねなんて話をして、なんだ知ってたんだみたいな、そういうのがあり、そういう意味でのサポートっていうのは大きかった。

坂井 あと先生とか看護師さんとかのコミュニケーションっていうのを常に取っていたということはかなり大きかったなと思います。

岸田 お子さんに対してがんだったっていうことを伝えるタイミングは?

坂井 子どもは、今4歳ですけども俗に思春期のときに言ってしまうと良くないって言いますよね。

坂井 反抗期のときって親から離れようとするわけじゃないですか。

坂井 そんな時に離れようとする子に対して同情を求めるようなことを言ってしまうと子どもは反発していいのか同情していいのか分からなってそれで情緒不安定になるっていうことをよく言われます。

坂井 かと言って大人まで黙ってるっていうのも変な話。僕が考えたのは、気付いたらがんだっていうの知ってるみたいなぐらいのほうがいいかなと思ったんです。

坂井 ことあるたんびに「パパががんって知ってる?」っていうことは言たり「がんは死ぬかもしれない病気なんだよ」とか言ったりして。分かってないなりの会話をしてますね。

坂井 最近でも薬飲んでるから大丈夫だよってふうなことを言ったりとか、そういう感じで気付いたらもうがんだっていうのを知ってるというように持っていったらいいなと思って、意識的に「パパががんって知ってる?」っていう。

坂井 「がんっていうのは病気なんだよ」って言っています。

岸田 妊孕性についての話は抗がん剤治療受けるときにありましたか。

坂井 抗がん剤始める前に当たって担当医からお子さんいらっしゃいますかと聞かれたので1人いますと話をしたとき、よかったですと。

坂井 抗がん剤治療を始めるにあたって子作りはしないでくださいということは言われましたね。

坂井 それはやっぱり抗がん剤がそれなりの影響を及ぼすからというような趣旨のこと言われたのを覚えています。

坂井 2人目を作るほどの年ではなかったですけども、妻には申し訳なかったなっていう思いはちょっとありましたし、兄弟がいたほうがよかったのになって思いは、娘に対して申し訳ないなっていうのは、今でもあります。

【仕事】

岸田 今お仕事の産経新聞で希少がんと共に生きるというコラムも書かれていますね。

坂井 こういうコーナーを作りたいと会社に希望して闘病記を書いたり、そんなに変化がないときはがんに関する取材をしたことを書いたりして、情報発信をしてます。

坂井 発信することを自分の一つの使命だと思っていて、特に希少がんになったからには情報発信すべきだと思うんです。

坂井 自分が希少がんの情報を欲しくてしょうがなかったわけですから、これはずっと続けていきたいなと思ってます。

坂井 今厚生労働省担当なので、自民党の厚労部会長の小泉進次郎さんの番記者みたいな形になるわけです。

坂井 記者は政治家にずっとついて回るわけから、小泉さんが厚労部会長になったとき、注目度の高いこの人を四六時中追っかけたら、僕死ぬなと思ったんです。

坂井 ある時小泉さんにさっと寄っていって、私はがん患者で他の記者さんほど四六時中張り込むことができないけれど分かってくださいみたいな話をしたんです。

坂井 それ以来、自民党の厚労部会とか取材してるときも、体調を気に掛けていただくようになりました。

坂井 僕、がん患者になったときに人に甘えるべきかですごく悩んだんです。

坂井 つまり、甘えたくないっていう思いと同時に弱いところを見せたくないっていう部分をすごく強かったんですけども、多くの人がそんなことはない、甘えていいんだよっていうのを言ってくれた。

坂井 今自分自身ががんになってから2年たって、やっぱ甘えるべきとこは堂々と甘えたほうがいいと多くのがん患者の方にも言いたいです。

坂井 病気になったことを卑屈に思わないで、甘えるべきところは甘えないと。命あってのってところあるじゃないですか。

坂井 小泉進次郎さんに僕が言った言葉が記者として情けないのは分かってます。

坂井 四六時中追っかけ回すことできないんですなんて敗北宣言してるみたいで、格好悪いし情けないし、こんな記者なんて記者の資格ないよって自分では思ってるんですけど、でもこれは言っとかないと、本当に自分が倒れちゃったら取り返しがつかないので。

坂井 だから始めから自分はがんですってことを言っておこうと思ったんです。

【保険・お金】

岸田 お金、保険について教えてください。

坂井 三大疾病の保険に入ってたのでウン百万は入ってきましたがあっという間になくなりました。

岸田 どんなことにお金が必要でした?

坂井 普通に生活費にかかるっていうのと、働いてる時間が減ったのと、管理職手当が無くなったので、全体的に給料が減りました。

坂井 保険組合がありますから、治療費も自分が全額負担するわけではないんですけども、CT検査とかをしたら、いつも以上にかかる。

坂井 抗がん剤っていうのは本当に万単位で高いですし、処方してもらったステロイド剤付きのテープが強すぎて普通の絆創膏を自費で買いまくるとちりも積もればで、結構な額になったりするわけです。

坂井 あとは、いつでも駆け込めるように、比較的病院に行きやすいとこに住みたかったので、家賃の問題とかも。

坂井 ていうこと考えると、お金はすごいかかりました。

坂井 がんにならなかったら、この分手元に残ってたのかな、何に使ったかなとか考えることもあります。

【つらかったこと】

岸田 坂井さんが肉体的に精神的につらかったときどう克服したかっていうのを聞かせてください。

坂井 これは被害妄想にすぎないんですけど、「あっち側こっち側」の意識ですよね。

坂井 がんだからこういう対応されちゃうんじゃないかとか、こういう接し方されるんじゃないかとかが頭を過る。

坂井 分かりやすい話をすると、飲み会に誘われなくなりました、まず。もちろん悪気はないと思うんですけども、例えば情報交換するために政治記者同士でしばしば飲みに行くんですが、そういうものに誘われなくなるわけですよ。

坂井 一回聞いたことあるんです。何で誘わないの、誘ってくれないようになったのって聞いたら、食事制限があるから遠慮したとか、なんて声を掛けていいか分からなかったとか、大体この二つに集約されました。

坂井 食事制限もないし、お酒は今止められてるけれどもご飯は食べれるから行こうよって言って、それからは自分から誘うようにはしました。

坂井 ただやっぱり100パーセントでバリバリ働いてるわけではない。

坂井 フルで政局に接してるわけではないので、おそらく坂井と飲んだとこで良い情報持ってないんじゃないのって思われてんだろうなとか、悪く捉えてしまうわけです。そこがすごくつらくて、病気になってから違う世界に行っちゃったなと感じました。

坂井 今では自分からじゃあご飯に誘うようにしてますけど、お酒飲みたい人がお酒飲めない人と飲みたいと思うかなとか、いろいろそういうふうに邪推してしまう。

坂井 そういう日常生活の中の今まで何の苦でもなかったそういうコミュニケーションがつらく感じたりしました。

【医療従事者への感謝要望】

岸田 看護師さんやお医者さんたちにありがとうと思うこと。

坂井 実名は出しませんけども、先ほどの執刀医です。

坂井 その人にすごい感謝をしていて、もともと東京で医者をやってた先生なんですが、たまたま僕が入院したその期間に水戸医療センターに派遣されて来てた先生なんです。

坂井 茨城県内の先生方はほとんどが筑波大学の先生ですが僕の執刀医はたまたま東京の先生だったんです。

坂井 その先生が言っててそうだなと思ったのは、希少がんであれば自分の病院で症例を持ちたいと思うと。

坂井 なかなか出てこない希少がんの症例を水戸医療センターで持ちたいから化学療法はどこでやっても変わりませんよって言った先生はいたんです。

坂井 でもその東京から来てる先生は、どうせ戻るんだったら今から東京に戻ったほうがいいですよというふうに言ってくれた。

坂井 それはすごくありがたかった。

坂井 ほとんどの医者の方は本当に患者のことを思ってやっていらっしゃると思いますけど、本当に心に寄り添ってほしいと思いました。

坂井 自分の病院のためになるから、この患者を自分の病院で見たいという思いではなくて、この患者のことを今後の生活も含めて考えたら別の病院に移ったほうがいいと、素直に勧めるとか。

坂井 そういう本当に患者に寄り添った対応をしてもらいたいと思って、僕はそういう扱いを受けたので、すごくうれしかった。

【キャンサーギフト】

岸田 がんになって失ったものも多いかと思いますけれども、得たもの、得たことは何でしょうか。

坂井 自分の性格がちょっと丸くなったかなと思います。

坂井 記者をしているとどうしてもネタを取るために相手をぐっと追求したりとかするんで、性格的にとんがってきちゃうんですよね。

坂井 自分が病気になったことによって人に優しくしないといけないっていうのと、病気になっていろんな人が励ましてくれたので感謝の気持ちっていうのは忘れちゃいけないっていうことはすごく大きかった。

坂井 あとがんにならなかったら、おそらく自分は政局記者だけで終わってただろうなと思います。

坂井 自分が医療という政策にタッチする記者になるっていうのは、がんにならなかったらあり得なかったんで。

坂井 そういう意味ではすごくよかったなと思ってます。がんの経験が仕事も作ってくれた。

【闘病中のあなたへ】

岸田 最後に、今闘病中のあなたへというメッセージをお願いできますでしょうか。

坂井 絶対生きるという強い意思。これは本当に多くの患者の方に訴えたいですね。

坂井 当たり前って思ってる方多いと思うんですけど、絶対生きるっていう強い意思を持ち続けるってのはすごく難しいんですよ。

坂井 本当に体調悪くなると生きようなんて考える以前の問題で、もう少しでも楽になりたいみたいな気分になるので。

坂井 それでもちょっと気を持ち直したときには絶対生きなきゃと思わなきゃいけませんし、絶対治すんだという強い気持ちがあってこそ、医者とニ人三脚で歩めると思うんです。

坂井 私のことを仕事をすごく優先してる人だなって思われてる人がすごく多いと思うんですけど必ずしそうではない。

坂井 やっぱり生きることが第一ですよ。それを忘れてしまったら何にも始まらないです。

坂井 仕事は大事ですけども、生きてこそ。その強い意思がないと前に進めないですよね。医者が何とかしてくれるわとかじゃ、お話にならない。

坂井 そういう意味で絶対生きるんだっていう強い意思、本当に鉄のような強さで絶対生きるんだっていう、この気持ちだけは持ち続けてほしいなと思ってます。ありがとうございました。

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