目次
- 発覚・告知テキスト / 動画
- 治療テキスト / 動画
- 家族テキスト / 動画
- 恋愛・結婚テキスト / 動画
- 学校テキスト / 動画
- 医療従事者への感謝テキスト / 動画
- キャンサーギフトテキスト / 動画
- 夢テキスト / 動画
- 闘病中のあなたへテキスト / 動画
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インタビュアー:岸田 / ゲスト:松井
【発覚・告知】

松井 咳が続いていましたが、最初は風邪だろうと思っていました。様子を見ているうちに9月になりました。当時テニスをしていたのですが、すぐに息切れするようになりました。
それでも大したことはないと思っていましたが、次第に食欲も落ちてきました。母は心配して「病院に行きなさい」と何度も言っていましたが、高校生活が忙しく、受診していませんでした。
高校に入学してからも運動は続けていて、マラソンの選抜レースに出場しました。しかし、全くタイムが伸びませんでした。最後まで走りきったものの、結果は落選でした。
それまで体調の悪さを病気だとは思っていませんでしたが、「これはおかしい」と感じました。ずっと病院に行かなかった私ですが、その落選した日に初めて病院へ行きました。
近くの大きな病院で内科を受診し、レントゲンを撮りました。すると、すぐに採血や点滴、CT検査と次々に進み、最終的にはベッドに寝かされて「動かないでください。親を呼んでください」と言われました。
岸田 親御さんが呼ばれて、告知されたのですね。どのような状況でしたか。
松井 最初に親が呼ばれ、その後で私が診察室に入りました。レントゲン写真が貼られていて、素人の目にも胸の真ん中に何かあることが分かりました。
医師が説明してくださっていましたが、正直あまり頭に入ってきませんでした。母が「若いので、がんセンターを紹介してください」と言っていたのを覚えています。
そのやり取りの中で、「このあたりにがんがある」ということを認識しました。
岸田 医師から直接というより、ご両親と医師のやり取りの中でがんだと知ったのですね。そのときは頭が真っ白になりましたか。
松井 がんセンターの受診は翌日でした。告知された日は自宅で一人で過ごす時間が長くありました。
当時は高校生でしたが、「がん」という言葉がそのまま「死」につながるもののように感じて、本当に怖かったです。その日は眠れず、泣いていたことを覚えています。
【治療】
岸田 その後、国立がん研究センターに入院し、2002年10月から化学療法が始まりました。松井さんは現在医師でもありますが、当時どのような治療を受けられたのか教えていただけますか。
松井 私のタイプは、白血病に近い性質を持つリンパ腫でした。リンパ芽球性リンパ腫というもので、治療の枠組みは急性リンパ性白血病とほぼ同じプロトコールで行われます。
そのため、治療内容も白血病と同様の化学療法を中心としたものでした。
岸田 白血病の治療というと、多くの抗がん剤や骨髄移植というイメージがありますが、実際はどうでしたか。
松井 16歳という年齢ですと成人病棟に入るケースも多いのですが、私は小児病棟に入院しました。
多くの病院では15歳で区切られることが多いのですが、2002年当時から国立がんセンターの小児科では、若年層の患者は小児の治療方針で対応されていました。
そのため私は小児プロトコールによる治療を受けました。結果として、骨髄移植を行う形ではありませんでした。

松井 小児白血病やリンパ芽球性リンパ腫では、最初にステロイドが非常によく効きます。1週間ほど内服するだけで腫瘍が小さくなっていきます。ただ、それだけで完治するわけではありません。
その後は多剤併用の化学療法を行いました。月ごと、コースごとに使用する薬が変わっていきます。また、髄腔内注射、いわゆる「髄注」も行いました。背骨と背骨の間から針を刺し、脳脊髄液の中に抗がん剤を入れる治療です。リンパ性白血病やリンパ芽球性リンパ腫は中枢神経へ再発しやすいため、予防的に行われます。他のがん種とは少し異なる特徴的な治療かもしれません。
岸田 どの抗がん剤が一番つらかったですか。
松井 赤色の薬が一番つらかったです。アントラサイクリン系と呼ばれる薬で、心臓に負担がかかることもありますが、私にとっては強い吐き気が一番きつかったです。青や赤の強い色の薬を点滴されるときの気分の悪さは、今でも覚えています。
入院は約8カ月間続きました。リンパ性白血病やリンパ芽球性リンパ腫は治療期間が長く、まとまって退院できる時期はほとんどありませんでした。
岸田 入院生活はどうでしたか。
松井 実は、入院生活はとても楽しかったです。当時の小児科病棟には同年代や小学生の子どもたちが多く、みんな仲が良かったのです。
最初は個室でしたが、病気を理不尽に感じてふさぎ込み、周囲にも当たっていました。16歳という多感な時期で、落ち込みも激しかったと思います。
その様子を見て、大部屋に移ることになりました。最初はカーテンを閉め切っていましたが、小さな子どもたちが何度も「遊ぼう」と声をかけてきてくれました。当時は子どもがあまり得意ではなかったのですが、次第に仲良くなりました。
結果的に、大部屋にしてもらって本当に良かったと思っています。小さな子どもたちが、閉じこもっていた私の心を開いてくれました。
岸田 復学後の外来治療はどうでしたか。
松井 入院治療の後、外来治療が長く続きました。最終的に治療が終了したのは2005年末から2006年初め頃です。外来では主に内服薬2種類と、定期的な髄注を受けていました。
岸田 多感な時期に、治療をやめたくなったりしませんでしたか。
松井 高校生でしたので、親に連れて行かれていました。受診日は学校を休むしかありませんでした。高2の夏に復学し、翌年は受験でした。ちょうど治療が終わる頃にセンター試験がありました。
岸田 治療をしながら受験し、浜松医科大学に現役合格されたのですね。
松井 今の自分では成し得ないと思います。あの時期が人生で一番頑張った時期だったと思います。本当に一番つらい時期でもありました。
岸田 医師を志したのはいつですか。
松井 入院中、小さな子どもたちに励まされたことがきっかけです。最終的に、その子たちを支える仕事がしたいと思いました。
入院中に「医者になる」と宣言し、そこから受験勉強を始めました。
大学では、高校時代に部活動ができなかった分を取り戻そうとテニス部に入り、6年間打ち込みました。生活の中心は部活でした。
2011年に医師国家試験に合格し、2016年から東京都立小児総合医療センターで勤務しています。ここは小児がん拠点病院の一つで、東京都内に二つある拠点病院の一つです。
医師を目指した当初から、小児がんの子どもたちを診る医師になりたいと思っていました。
最近ではAYA世代、つまり小児と成人の間の若年世代のがん医療についても活動しています。学会での発表や講演を通じて、この世代の支援を広げていきたいと考えています。
【家族】
岸田 次に、ご家族について伺います。がんを宣告された当時、ご家族のサポートはいかがでしたか。
松井 家族は本当に支えてくれました。
ただ、この世代特有かもしれませんが、ストレスの矛先はどうしても母親に向いていました。つらさや不安を母にぶつけ、ひどい言葉を言ってしまうこともありました。今振り返ると申し訳ない気持ちになりますが、当時は母が間違いなく私のストレスの受け皿になってくれていました。
それでも、がんセンターには遠方からほぼ毎日のように通ってくれました。当時は持ち込みが許可されていたため、食事を持ってきてくれるなど、生活面でも大きく支えてくれました。本当に支えられていたと思います。
父は、復学後の通学を心配してくれました。自宅から学校までは片道1時間半ほどかかっていましたので、治療を続けながら通うのは負担が大きいと考え、学校の近くに住まいを借りてくれました。
高2の夏からは、父のサポートのもとで通学し、母は自宅とその住まいを行き来する二重生活を続けてくれました。

松井 基本的に母は学校の近くにいてくれて、私はそこから自転車で通学していました。
このサポートには本当に頭が上がりません。
姉は黙って支えてくれるタイプでした。お見舞いに来ては、そっと見守ってくれていました。二重生活の中で、姉も不便な思いをしていたはずですが、そうした様子を一切見せることはありませんでした。
家族全体で、私の受験と闘病を支えてくれていたのだと、今になって強く感じています。
【恋愛・結婚】
岸田 ありがとうございます。ご家族の支えがあって、治療と勉強に専念できたのですね。では、恋愛や結婚についてお聞きします。今は温かなご家庭を築かれていますが、病気が発覚した当時はお付き合いされている方はいなかったですよね。
松井 当時はいませんでした。恋愛をしたのは大学に入ってからです。
高校時代はまさに暗黒時代でした。復学してからは勉強に集中するしかなく、恋愛どころではありませんでした。
大学では「青春を取り戻したい」という気持ちが強く、普通に恋愛をしようと思っていました。
岸田 お付き合いする方には、がんのことはどのタイミングで伝えたのですか。
松井 大学1年生のときに、同じ学年で今の妻となる人と出会いました。入学した4月に出会い、「この人だ」と感じました。7月頃から交際が始まりましたが、その前には自分ががんを経験していることを伝えました。
当時から若いがん患者さんと連絡を取り合う活動もしていましたし、医師を目指す動機もそこにありました。自分の人生や行動の根底にがん経験がある以上、そこを隠しては付き合えないと思い、自然な流れで話しました。
研修医を終えて2年後、出会ってから8年後に結婚しました。
岸田 医師になったのが2011年、その2年後の2013年にご結婚ですね。妊孕性についてはいかがでしたか。お子さんはいらっしゃいますか。
松井 現在、5歳の娘と1歳の息子がいます。
岸田 小児がんで強い化学療法を受けた方が子どもを持たれていることは、多くの患者さんにとって希望になると思います。当時、妊孕性についてはどのような説明を受けていましたか。
松井 私が受けた治療では、妊孕性を低下させる可能性のある薬も含まれていましたが、用量としては極端に高いわけではありませんでした。
薬の総投与量によって、妊孕性への影響はある程度予測できます。私の場合は、妊孕性について説明するかどうかの境界にある程度で、「おそらく大丈夫だが、検査は必要」というレベルでした。
結婚を考える際に一番大きな壁となったのは、相手のご両親でした。「元気な子どもが生まれるのか」「遺伝的な問題はないのか」といった心配をされました。
交際中盤には、妻が「付き合うのをやめたら」と親から言われていることも知りました。当時は若さもあり、「なぜそんな差別があるのか」と強い感情を持ち、ご両親との間に距離が生まれた時期もありました。
最終的に結婚を決めた際には、心配されるのは当然だと思い、きちんと向き合おうと考えました。相手のご家族に、自分の病気の経過や予後に関する医学論文を持参し、説明しました。
将来の健康状態や再発リスクについて、医学的根拠を示して説明することが、私にとっての誠実さだと思ったからです。少し特殊な対応だったかもしれませんが、それが自分なりの向き合い方でした。
【学校】
岸田 次は学校のことについて伺います。お母さまと一緒に学校の近くへ引っ越され、そこで勉強されたとのことでしたが、当時どのように休学し、どのように復学されたのでしょうか。また、治療中を含めて、罹患後の勉強の仕方についても教えてください。
松井 病気が発覚した後、学校にどのように伝えたのかは、実は私は詳しく知りません。おそらく両親が学校と連絡を取ってくれていたのだと思います。
友人たちが見舞いに来てくれていたので、病気のことは基本的に伝わっていたのだと思いますが、何をどこまで説明していたのかまでは分かっていません。
岸田 手続きはすべてご両親がしてくださったのですね。入院中はどのように勉強されていたのですか。医師を目指すとなると、かなりハードですよね。
松井 国立がんセンターには院内学級の高校があり、そこへ転校しました。院内学級で、普通の学校と同じように授業を受けていました。
朝9時から授業があり、「1時間目です」と起こされる生活でした。
院内学級での授業に加えて、高校の友人が授業プリントを届けてくれて、それを一生懸命こなしていました。
院内学級の先生方も、進学校レベルの受験対策に慣れているわけではなかったと思いますが、必死に予習をしてくださり、丁寧に教えてくださいました。
さらに、両親が復学後の負担を心配してくれて、入院中に家庭教師をつけることを勧めてくれました。私自身も「医師になる」と決めていたので、迷わず「やります」と答えました。
土日や時間のあるときに家庭教師の先生に病室へ来ていただき、治療と並行して勉強していました。
今振り返ると、治療を受けながら勉強を続けることは決して楽ではありませんでしたが、「医師になる」という目標があったことが大きな支えになっていました。

松井 家庭教師の効果は間違いなくありました。
どうしても自分一人では理解できない部分や、一定レベルまで到達している人に聞かないと分からないところがありました。そこを直接教えてもらえたことは、遅れを取り戻すという意味で本当に大きかったです。
それでも、周囲は本当に勉強ができる人ばかりの学校でした。私は圧倒的に遅れていました。すでに医学部を目指していたので、「学校の授業だけでは足りない」と思い、塾にも通いました。
入塾試験を4〜5回受けて、ようやく合格しました。やっと通わせてもらえるレベルでした。正直、学校の授業も何を言っているのか分からないことが多かったです。
外来治療も続いていて、体調は決して万全ではありませんでした。昔の自分ならもっと集中できたはずなのに、というもどかしさもありました。
高校に入って半年ほどで入院してしまったため、友人関係も築ききれていませんでした。帽子をかぶり、気持ちも沈み、勉強も追いつかない。友達とも上手く話せない。
私の中では、復学後が一番しんどい時期でした。
そんな私を救ってくれたのが、闘病中に出会った友人でした。
「絶対に医者になれ」
「お前にしかできないことがある」
そう言って、何度も背中を押してくれました。その言葉が、私のモチベーションを保ち続けてくれました。
夢を追えること自体が幸せなんだ、とある時思えました。そして、「今の自分にできるすべてをそこに注ごう」と決めました。
体調が悪い日は寝る。
外来で髄注をした日は無理をしない。
友達の輪に無理に入ろうとしない。
「入ろうとするから苦しい。だったらその時間を勉強に使えばいい」
そう決めました。
起きている時間は、できる限り勉強に使う。
落ち込む要素は、すべてシャットダウンする。
目標は一つだけにする。
今の自分がこの道を進むには、それしかないと腹をくくりました。
そこからは、ただ前に進むだけでした。
【医療従事者への感謝】
岸田 医療従事者への感謝や要望についてお聞きします。当時の医療従事者への思い、そして今ご自身が医療者として働いている立場から感じることを教えてください。
松井 本当に、当時お世話になった医療従事者の方々には感謝しかありません。
看護師さんも、私が若い世代だったことを気にかけてくださり、漫画を貸してくれたり、個別にいろいろと配慮してくれました。そうした心遣いはとてもありがたかったです。
院内学級の先生も、個別に勉強を見てくださいました。振り返ると、本当に多くの方に支えられて今があるのだと感じています。とても良い環境で入院生活を送ることができました。
だからこそ思うのは、医師だけでなく、看護師、院内学級の先生、コメディカルスタッフなど、患者に関わるすべての人が同じ方向を向いて環境を整えることが、闘病生活をポジティブに変える力になるということです。
私はその環境に救われました。だからこそ、「環境づくり」はとても大切だと思っています。
岸田 医療者として今の医療を見たとき、当時と比べて変わったと感じることはありますか。
松井 私が入院していた当時の国立がんセンターは、かなり先進的だったと思います。むしろ、今のほうが必ずしも進んでいるとは言い切れない部分もあると感じています。
告知も、小学生を含めてきちんと行われていました。当時5年生だった子どもたちも、病名を告げられ、自分の病気と向き合いながら闘病していました。
妊孕性の説明などは、今のほうが体系的に整ってきている部分もありますが、根本的な「環境」という意味では、劇的に変わったとは言えない印象です。
むしろ、もっと患者さんにとって良い環境は作れるのではないか、と感じています。
私はいろいろな病院に研修で行く機会がありますが、施設によって差があります。患者さんが安心できる空気、チームの一体感、スタッフ間の連携、そうしたものが整っている場所では、患者さんの表情も違います。
医療技術だけではなく、「過ごしやすい環境」をどう作るか。
それが、これからもっと大切にされるべきことだと思っています。

【キャンサーギフト】
岸田 キャンサーギフトについてお聞きします。がんになったからこそ得られたもの、良かったことを教えてください。
松井 私にとっては、がんになったという出来事が、今の自分をつくっているすべてだと思っています。
医師になりたいと思ったきっかけも、がんを経験したことでした。今、若い世代のがん患者さんの患者会に関わり、つながりをつくる活動をしているのも、その経験があったからです。
さらに言えば、医学部に進学したからこそ今の妻と出会えました。そう考えると、人生の大きな出来事の多くが、がんという経験から連なっています。
ですから、今の自分を形づくっているものは、すべてがんから与えられたものだと感じています。
もちろん、決して望んだ出来事ではありませんでした。しかし、その経験があったからこそできることが、今はたくさんあります。
その「自分にしかできないこと」を、これからも生かしていきたいと思っています。
【夢】
岸田 基君の夢についてお聞かせください。今後、どのようなことを目指していきたいですか。
松井 医師としては、基本的に小児がんの子どもたちを支え続けたいと思っています。そして、子どもたちの医療そのものを変えていけるような、新しい治療を取り入れられる立場になりたいと考えています。
現場で診るだけでなく、医療の質を一段引き上げられるようなポジションを目指したいと思っています。
もう一つは、患者会の活動です。
私は患者会を立ち上げたときからずっと、「若いがん患者さんが一人で闘病する状況をなくしたい」と思ってきました。
孤独の中で治療を受ける若い世代をなくしたい。その思いで STAND UP!! をつくりました。
これまでつなぐ活動を続けてきましたが、全国にはまだ、つながりたくてもつながれない若い世代のがん患者さんがたくさんいます。
だからこそ、どこにいても、つながりたいときに必ずつながれる環境をつくりたい。
それが、これからの私の目標です。
【闘病中のあなたへ】

松井 夢というのは人それぞれだと思います。どんな夢であっても、私たちは前を向いて進んでいくことができる、そのことを伝えたいです。
一人で前を向くのは、とても難しいことです。だからこそ、みんながつながれる社会であってほしい。「一人じゃない」と思える社会になってほしい。
その思いを胸に、ぜひ夢を持ち続けてほしいと思います。
岸田 一人ではありませんし、こうして基君が「医師になる」という夢を実現し、さらにその先を目指している姿は、多くの方のロールモデルになると思います。
つらいときは、周囲の雑音をシャットダウンしてもいい。自分のやりたいことを突き詰めて、夢を持ち続けてほしい。そして、今の闘病も、その先の未来も、自分のものとして歩んでいってほしいと思います。
本日のゲストは、松井基浩さんでした。ありがとうございました。
松井 ありがとうございました。

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