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インタビュアー:福岡 / ゲスト:岸田

あの時そばにいてくれた人たちと――主治医・元上司・元同僚が語る、岸田徹という人

岸田 はい。それでは、『がんノート』、きょうもスタートしていきたいと思います。よろしくお願いいたします。

福岡 よろしくお願いします。

岸田 『がんノート』、第101回目、2019年の1発目ということで、私、岸田徹が今回はゲストを務めさせていただいて、皆さん見えるように当時と今の担当の先生と、そして会社の上司と会社の先輩にも来ていただいておりまして、放送していければということを思っております。早速なんですけれども、私のほうから主治医の野口先生を紹介させていただきたいと思います。こちらを持っていただいて、野口先生の簡単な自己紹介。当時、僕が入院してたときに、当時レジデントでいらっしゃって、今は担当の主治医をしてくださっています、野口先生です。簡単に何科だったりだとか、どういったことをしてるかっていうのでお願いできますか。

野口 岸田さんを担当しています野口瑛美といいます。専門は腫瘍内科といって、がんの抗がん剤治療を専門にしています。岸田さんが発症して入院したときから今まで7年になりますかね、もう今年で。担当しています。きょうはどうぞよろしくお願いします。

岸田 よろしくお願いします。渡していただいて。そしてですね、当時の会社を勤めていたときの上司ですね。僕の直属の上司になります、田島さんです。どうぞよろしくお願いします。

田島 はい。田島雅也と申します。よろしくお願いします。

岸田 当時。

田島 当時ね。いつだっけ。2012年入社ですね。

岸田 2011卒ですね。

田島 だから11年か。

岸田 1年、そう。

田島 当時、そうですね。私が2006年に社会人、始まったので、当時は会社の中で新規事業として子会社が立ち上がって、そこで数人でやってたところに岸田君が入ってきてくれて、よくそんな少人数のところに入ってきてくれたなという、チャレンジ精神が高い人だなと思って、そこから一緒に働きましたね。

岸田 はい。いろいろ本当に酸いも甘いも一緒に経験させていただいた仲で。

田島 ほぼ酸っぱかったです。

岸田 はい、ありがとうございます。そして当時の会社の同僚、先輩でも当たりまして、今は『がんノート』のスタッフもしていただいている佐藤さんです。お願いします。

佐藤 はい。佐藤由紀です。皆さんにはシュガーと呼んでもらってます。岸田君と出会ったのは、田島さん、岸田君と同じ会社で、私はシステム部門の部長をしていて、岸田君が新卒で入ってきて、どうしても思い出せないんだけどなんか仲良くなったんだよね。部門も違うし、オフィスも違ったんだけれどもなんか仲良くなって。

岸田 そうですね。僕から言うとあれですね。システムを本当にマネージメントされてたので、自分の営業でこういう配信をしたいっていったときには佐藤さんにお願い申し上げるというところで、システムの佐藤さんとそういったところから仲良くなっていったのかなと思ってます。

佐藤 はい。で、『がんノート』のスタッフはちょうど丸2年やっています。

岸田 ありがとうございます。そしてですね、僕が今回ゲストということで、『がんノート』のスタッフに今回はインタビュアーを務めて、イー、イーかアー的なやつを務めていただければと思っておりますので、福岡さんを紹介したいと思います。

福岡 福岡奈津美と申します。みんなからなっちゃんというふうに呼ばれております。私は立場としては遺族でして、父と夫をそれぞれ希少がんで亡くしております。夫が闘病中の頃に私も、希少がんということで夫の闘病録をブログで書いておりまして、そこで岸田君とコメントし合うことで知り合って、3年前ぐらいかな。2年半、3年ぐらい前から『がんノート』の手伝いをしております。きょうは皆さん忌憚なく、岸田君に聞きたいことがあれば何でも手を挙げていただければ何でも答えることになっていますので、どうぞよろしくお願いします。

岸田 お願いいたします。

岸田 そしてきょうのゲストの紹介ですね。

福岡 はい。きょうのゲストは岸田徹さんです。皆さん、拍手でお願いします。

岸田 お願いします。

福岡 じゃあ、簡単に自己紹介をお願いいたします。

岸田 自己紹介させていただければと思います。

福岡 お願いします。

岸田 岸田徹と申しまして、2次元上ではずっとブログ書いてたとき、キシリトールという名前でやっていたんですけれども、今回はちゃんと岸田徹といった形でいきたいかと思います。胚細胞腫瘍という腫瘍のがんを患いました。そして今だとですね、misonoさんの旦那さんが今、闘病しているかと思いますけど、それと同じ種類のものになるかと思います。そしてステージが3bといったところでステージ3と。胚細胞腫瘍はステージフォーはなくてですね、ステージワン、ツー、スリーで、その中の一番予後不良ということを当時、宣告を受けたという形になります。今はNPO法人がんノートの代表理事も務めさせていただいておりますといったところで、お願いします。

リンパが頑張ってくれてるな、と思っていた――異変から告知までの半年

福岡 はい。ではですね、発覚、告知というところからまずお話しいただきたいと思います。

岸田 はい。僕の就職するところから話してもいいですか。

福岡 就職するところから始まるの。じゃあどうぞ。

岸田 ごめんなさい。

福岡 そうね。これ書いてるんやね。

岸田 就職するところからいければと思います。すいません。当時、2011年4月、新卒でサイバーエージェントグループマイクロアドという会社に、インターネットの広告をする会社ですね。アドネットワーク広告という広告をするところに、マーケティング等々できると、あと、世界で活躍したいみたいなですね。世界一周を大学生の頃にしていたので、世界で働きたいなと、そういったことを思って、インターネットだと世界共通のインフラだから、それだと働きやすいんじゃないかということで。

福岡 世界で働きたいからインターネットやったん。

岸田 そうですね。安直な考えでした。就職し、その中でも、その年にできた、子会社ができまして、当時5人ぐらいの会社が立ち上がって、部署配属のときに、そこに行きたいと社長に直訴しに行きました。その社長に直訴しに行ったときも、今回の上司の田島さんにも協力いただいたんですよね。覚えてますか。

田島 覚えてるよ。

岸田 田島さんから言われたのは。

田島 配属のときだよね。

岸田 配属のとき。

田島 はい。社長に面談、1人ずつ面談して、その結果で配属先が決まるってときに、彼はどうしてもそのマイクロアドプラスっていうその子会社、僕がいるところに入りたかったんで、田島さんどうすればいいですかみたいな。「おまえのキャラだったら真面目にいくよりは3段落としぐらいでいったほうがいいんじゃないの」って言って、胸と、服、脱いだら紙貼ってて、最後ありがとうございました、失礼しましたっていう背中向けたら、背中に貼ってるみたいな。プラスって紙を貼って。

岸田 プラスっていうね。マイクロアドプラスのプラスっていうのを最初にね。

田島 そう。

岸田 ここに貼って社長と面談して、プラス行きたいですみたいな感じで。ちょっと暑いですねっていう形でワイシャツを脱いだら、その下着にプラス行きたいですって書いてあって、それで普通に面談して、終わって、ありがとうございましたって最後ドアを開けるときに、後ろのところにもプラス行きたいですって書いてあって、三つ目でようやく社長が笑ってくれたっていう。

田島 そうだね。失笑なんですけど。しょうもないなみたいな。

福岡 よかったね、笑ってもらって。

岸田 そういうのを夜中、ミーティングして伝授受けました。そういったときからの本当に上司になります。そして会社就職して、僕は当時、めちゃくちゃ結構がむしゃらに働きたいということで働いて頑張ろうと思ってたんですけれども、頑張れば頑張るほどみんなを迷惑に、いくという形で。

田島 そうだね。

福岡 それがそのハプ王なん。

岸田 最終的にハプ王というですね。

福岡 それは何なん。

岸田 称号があります。田島さん、これ。

田島 称号って僕らが付けたわけじゃなく、彼が自身で名乗ったんですけど。

岸田 違う。そっか。

田島 はい。本当にかいつまんで話すと、彼、営業で、僕も先輩、上司で同行してるあるお客さんで1時間のミーティングを、彼は当時、エバーノートってメモをする、ブラインドタッチの形ですね。お客さんと顔見ながら彼はこういう感じで、なるほどと。

岸田 こういう感じね。ああ、そうなんですねっていう。

田島 結構ちゃんとメモ取ってるなって思って、後で見返したらとてつもない暗号、記号みたいになっていて、とてつもなく長いんですよ。1時間のみんながしゃべったこと全部メモってて、お客さんの商品がいついつ世の中に発表されますっていう、それをメモってたんですけど、その発表っていうのの打ち間違いでハプ王っていうのがメモに記載されてて、それ以来、彼はハプ王になったっていうことですね。

福岡 よく分かりました。ありがとうございます。

岸田 そうですね。

福岡 就職したのが11年の4月で、体調不良になったのが次の年の春?

岸田 次の年ですね。1年経過してます。その翌年の3月ぐらいに体調悪いなっていうのあって。

福岡 どんな体調の悪さ。

岸田 体調、そうですね。本当に風邪ひいたぐらいですよ。ちょっとここにぽこっと腫れができてきて、なんかリンパ頑張ってくれてるなと。

福岡 リンパ頑張ってるなと思ってたん。

岸田 体調悪いからね。体調悪くてリンパが腫れてたら、リンパ頑張ってくれてるなと。

福岡 なるほどな。熱とかで出てた?

岸田 熱はそうですね。出てましたね。

福岡 熱が出てだるくて。

岸田 はい。

福岡 でも鼻水とか出るわけじゃないやろ。

岸田 鼻水は出てない。出るわけじゃないです。

福岡 そこでおかしいなとは思わんかったん?

岸田 おかしいなと思いました。なので、渋谷のクリニックに行ったんですよね。渋谷のクリニックに行って、それでクリニックの先生に体調悪いんですけどと言ったら、3月という時期なのでインフルエンザじゃないかということで僕はインフルエンザのチェックを受けて、ただそのときは何も、陰性で何もなかったのでちょっと様子を見ようということになりました。

福岡 その頃って皆さんから見てて体調悪そうな感じとかしてたんですか。

佐藤 私はオフィスが離れてたので毎日は見てなかったんですけど、夜ご飯を食べにいったんですよ。そしたらすっごいうれしそうに「佐藤さん、見てください。これ僕、ここ腫れちゃって」って見せてきたんですね。取りあえず全然元気には見えたんですけど、ただ私も医学の知識はないけれど、ここってリンパとかあって多分やばいやつだからとにかく病院行きなさいというのは言ったんですけど、それ以外、具合悪そうにはしてなかったんですけど、田島さん、オフィスでどうでした。

福岡 見てていかがでした。

田島 正直、はたから見て、そんなに苦しんでる姿は感じなかったですね。

福岡 休みがちだったりとかそういうことは?

田島 全然、むしろ元気で、世界飛び回ってて体だけは頑丈なんだろうなと思ってたんで、そんなに。正直そのときは一切感じなかったです。

福岡 なるほど。でも体調悪いってさ、週に1回熱出すとかそんなレベル?

岸田 いや、最初は体調は普通に。週に、熱が出てきたのは秋口ぐらいからですね。秋口ぐらいから週に2、3回体調を壊すようになってきて、それでちょっとこれはただ事じゃないかもしれないと思って、もう一度、渋谷のクリニックに行ったら違うお医者さんが見てくれて、もしかしたらその首のリンパが悪さをしているかもしれませんねということで、大学病院を紹介しますということで大学病院を紹介されました。

福岡 そしたら経過半年ぐらいあるわけやん。春から秋まで。

岸田 はい。

福岡 その間に徐々におかしいなと思いだしたん。

岸田 そんなことないですね。春は体調悪かったんですよ。夏口ぐらいになってくると普通に。

福岡 治ってたん?

岸田 いや、治ってはないですが、当時苦しい・・・。

福岡 苦しい。

岸田 苦しいっていうか、体調が悪くなったときに葛根湯を渡されてたんですよね、このクリニックのお医者さんから。

岸田 このクリニックから葛根湯を渡されて、それを飲んだら次の日にはケロっとしてたんですよ。だからそこら辺をうまく付き合って、そんなに週に1回、体調悪くなるっていうわけではなかったです。

福岡 なかったんや。

岸田 夏ぐらいは。秋口ぐらいになってくると急にがくっと悪くなってきましたね。

福岡 がくっと悪くなった。これは変やなと思った?

岸田 はい。大学病院回されて。大学病院に行って、最初はリンパ腫の疑いがあったんですよね。

福岡 その前は、そのクリニックで先生変わったときって、なんか追加で検査とかしたん。

岸田 何もないです。ちっちゃいクリニックだったらできることも限られてるんで。普通に大学病院紹介するよしか言われなかったですね。

福岡 それだけ、この長い期間、調子が悪いのは明らかにおかしいなって先生も思われたってことかな。

岸田 そうかもしれないですね。

福岡 だよね。いくら何でも長いもんな。半年じゃね。

岸田 はい。それで大学病院に行きまして、リンパ腫の疑いがあるねと。そのときにLDHという値が1000超えるという。

福岡 LDHって何。

岸田 LDHって何っすかね。

福岡 先生。

岸田 先生。当時、まだあれですよ。NCC、がんセンターに来る前ですね。

野口 LDH、乳酸化脱水素酵素って体にある酵素の一種なんですけど、主に細胞の中にあって、例えば肝臓が悪かったりすると、肝臓の細胞がダメージを受けると血液検査で上がったりだとか、腫瘍の場合もLDHが上がることっていうのはしばしばあります。

福岡 なるほど。

岸田 『がんノート』っぽくない。ちゃんとした医学的知識が。

福岡 きょうはキンちゃんいてないから、いつもはキンちゃんに聞くんやけどな。

岸田 すごい。あれですよ。『がんノート』はあくまで個人の経験談なので、ちゃんとしたね。今回はちゃんとしたお医者さんに聞いていますけれども、普段はちゃんとインターネットで調べてっていうか、ちゃんと主治医に確認したりだとか、病院に確認してくださいね。

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福岡 はい。で、大学病院行きましたと。

岸田 大学病院に行きました。LDHという値が異常だったので、リンパ腫かもしれないと言われたんですよね。それで僕、リンパ腫ってリンパが腫れるって書くじゃないですか。だからリンパが腫れる病気なんだと。

福岡 と思ったんや、そこで単純に。

岸田 はい。これね、一般の人はそう思うと思うんですよね。

福岡 がんやと思ってなかったんやな。

岸田 がんやと何も思ってなかった。それで血液内科がある病院を紹介するよということで、血液内科がある病院を紹介され。

福岡 リンパ腫っていうのは血液内科の範囲になるんですね。なので、そちらへ紹介されてそっちを受けた。

岸田 はい。で、血液内科がある病院を紹介されて、そこで生検っていう形でちょっと切って、ちょっと取り出して、それで病理検査をしました。するとですね、そこで珍しいがんだと。

福岡 そしたら取るやんか、生検して。その後、どのぐらいで連絡が来たん。

岸田 1週間ぐらいですね。

福岡 1週間ぐらいで電話が来たん? 自分が行った?

岸田 自分で行きました。

福岡 自分が行った。じゃあ、1週間後に来てって言われて行った?

岸田 行きましたね。そのときはずっと上司に、田島さんに、この日、病院なので休ませてくださいとか、午前中だけ行かせてくださいとか、逐次、連絡を取ってましたね。

福岡 そのときに詳しい話とかしてたんですかね、岸田君。田島さんのほうには。

田島 どうだったかな。そこまで細かい話は聞いてなかった。

福岡 じゃあ、まだそんな重大な病気だというふうには全然。

田島 そうですね。

福岡 なるほど。

岸田 そこで珍しいがんだと。胎児性がんと。大学病院でがんと言われたんですけれども、がんっていう名前付いてるから、がんなんだと。これはがんなんだ、やばいんだな。そこで、そのときのお医者さんがすごくいい女性のお医者さんで、うちの病院でもこれは治療はできると。ただこれって珍しい病因で、うちの病院でも年に1件、2件、あるかないかどうかだと。だから専門的な病院でも治療できるけれども、どうするって、ここでやるんだったらわれわれはすごく全力を尽くしますと言ってくれて。珍しい病気で、だったら専門的な病院がいいかなということで、国立がん研究センターの中央病院を紹介してもらって、そして3日、4日後くらいに中央病院に来ることになるわけです。

福岡 最初、大学病院でがんですって言われたときに、そんときは親御さんとかに連絡したん?

岸田 そのときに一番初めに連絡したのが、実は田島さんです。やっべえと思って、がんやってなって、やばい、まずちょっと仕事どうしようと思って田島さんにすぐ電話したのを覚えてますね。

福岡 電話した。その場で?

岸田 その場っていうか、診察が終わってから廊下で。

福岡 そのとき電話受けられて、いかがでした。

田島 そうですね。もちろんびっくりもしましたし、お父さんというかご両親とか、ご家族にも伝えたんだよねってったら「いや、まだ伝えてないです」って。最初に俺、俺が最初なの?みたいな。どうしようみたいな。ちょっとびっくりしましたね。

福岡 なるほど。そうですよね。その後、ご両親に?

岸田 その後、両親に言いましたね。

福岡 電話で?

岸田 電話で伝えました、まずは。

福岡 そう。皆さん、ご存じだと思うんですけれども、岸田君の実家が大阪でして、お兄さんが今、名古屋ですね。ご両親には電話で。

岸田 電話で伝えたはずですね。

福岡 お兄さんには?

岸田 兄も電話でそのとき。

福岡 その日に?

岸田 兄は、ちょっと待ってくださいね。すごい記憶があれですね。確かに混濁しますね。

福岡 そう。そのために一回ちゃんと時系列を追っといてもらおうと思って。

岸田 そうですね。そのときは兄にも多分、連絡、いろいろ付き合ってくれてたんですけれども、兄にはそのときは電話したはずですね。

福岡 じゃあ、その前からお兄さんには話はしてたん。この体調不良。

岸田 体調不良とかで兄が来てくれて、PET検査、一緒に付き合ってくれたりだとか、いろいろ一緒に付き合ってくれてましたね。

福岡 そうなんや。この辺の体調悪いときってさ、ご両親には話はしてなかったん。

岸田 してなかったです。

福岡 お兄さんだけ?

岸田 兄に秋口ぐらいに言ったぐらいですね。

福岡 じゃあ、最初のうち、体調が悪かったけれども、葛根湯を飲んでて大丈夫かなと思ってて夏を過ごしたら、秋になってがくっと悪くなって、そこでお兄さんにも相談した。

岸田 はい。そういう形ですね。兄が付いてきてくれて、いろいろ検査で、生検とかもあったりとかしたので。そういうのも結構、兄は付き合ってくれましたね。すごく感謝してます。

福岡 お兄さん、感謝してるそうです。そして大学病院からね。

岸田 それで大学病院からようやく国立がん研究センターに到着しました。到着して、当時は野口先生はレジデントでいらっしゃって、レジデントって日本語で言ったら何て言うんですかね。研修医的な感じになるんですか。

野口 そうですね。

福岡 そのときは別の主治医の先生が付いてくれてた?

岸田 主治医、なんかチームっていう感じですよね。

野口 そうですね。何人かで一緒に見てました。

岸田 最初、告知をしてくださった先生は男性の先生でまたいらっしゃるんですけれども、その先生が岸田さんと、岸田さんのがんが珍しいと。

福岡 ちょっと待って。大学病院から紹介を受けてここに来るやんか。資料とか画像とかっていうのはもう一回、撮り直すん?

岸田 撮り直します、全部。

福岡 全部もう一回、検査し直して。

野口 大学病院からある程度いただいて、それをもう一回、確認するという形でした。ただ、来てもらったその日に緊急入院をして。

福岡 そうなんですか。

野口 はい。その夜にお話をした記憶があります。

福岡 そうなんですね。じゃあ、来て、緊急入院で入って、検査して、先生から。

岸田 先生から岸田さんと。岸田さんのがんは全身に広がってますと。なので、全身がんですということを丁寧にですね、告知の紙に先生が全身のがんって書いてくださって。

福岡 わざわざ書いてくれた。全身のがんって書いてくれた。

岸田 全身のがんって書いてくれたのをすごく覚えてますね。

福岡 その前にCTとかMRIとかで分かったってこと? その全身に、がん広がってますっていうのは。

岸田 そうですね。

福岡 後でまた写真とか出てくると思うので、そのときにまた見ていただければと思います。それは1人で聞いたん。まだ、その主治医の先生。

岸田 そのときは両親と一緒に聞いて、両親をぱっと横見たら。

福岡 この世の終わりな。

岸田 そう。先、言ってはるやん。この世の終わりみたいな顔をされていらっしゃって。僕はそれを見て頑張らないといけないなと思って、大丈夫、何とか治療頑張っていくからということで言ったのを覚えてますね。

福岡 その日の朝に病院行って、緊急入院して、その日にはご両親来てたん? こっちへ。

岸田 こっちへ来てましたね。

福岡 じゃあ、がんセンターに来ることになった時点で、ご両親はこっちに来てた?

岸田 そうですね。その前日から宿泊してたんじゃないですかね。朝一で一緒に行きました。

福岡 朝一でこっちに一緒に来て、診察受けて、緊急入院して、告知を受けた。そんときお兄さんは一緒じゃなかった?

岸田 兄も一緒でした。一緒にいてくれましたね。

福岡 じゃあ、お父さんとお母さんとお兄さんと岸田君と4人で聞いた。

岸田 はずです。ただ僕の横には両親しか今、面影がないです。

福岡 面影がない。覚えてない。

岸田 もしかしたら兄は後ろにいたかもしれない。

福岡 後ろにいたかもしれない。インタビュー何回もずっとしてるんですけれど、その当時の宣告されたときって大体の患者さん、みんな覚えてらっしゃらなくって、大体こんな感じだったと思いますというのがほとんどなんですね。岸田君の場合もきっとお兄さん、いらっしゃったと思うんですけど、多分、記憶から消えちゃってるんだと思うんですよね。

岸田 はい。

福岡 入院しましたと。

岸田 はい、入院しましたと。緊急入院で、そのときに野口先生ともう一人の先生が付いてくださっていて、男性の先生で、その先生から「抗がん剤治療が始まるけれども、岸田君、ちょっと取っとく?」と言われたんですよ。

福岡 話がかなり、ぐうんと飛んでしまった。ちょっと一回引き戻してもらってと。もともと、できましたと。治療方針についてはどういう説明を受けたの。

岸田 治療方針について。

福岡 例えば抗がん剤します、手術をします、放射線します、みたいなの。

岸田 そのときはまず抗がん剤しましょうっていう話でしたね。

福岡 それは大きかったからってこと?

野口 胚細胞腫瘍というご病気が、抗がん剤治療が一番の主体。それをやりましょうっていう話をしました。

岸田 抗がん剤やるという話になって、抗がん剤治療をするからその前に取っとく、ということを言われまして。

福岡 取っとくって話になって。

岸田 それで取っとくってなんですかっていうことを聞いたら、「精子よ、精子」と。ということで、妊よう性と呼ばれるそういう妊娠能力、生殖能力が抗がん剤によって低下するから、そのときに精子を保存しておくかということを聞かれたっていうのがその当日だったかなと、当日かその翌日だったかなと。

福岡 でもちゃんと言ってくれてよかったよね、それ。受けた後だったらさ。

岸田 そうですね。当時はちゃんとそういうことも案内するっていうのがあったんですよね。

福岡 なるほど。でも、ここがんセンターだとさ、別に泌尿器科とかもないわけやから、別のところに行って取った?

岸田 そうですね。隣の、近くの聖路加病院というところで、翌日行って精子を凍結して、また戻ってきて、その翌日から抗がん剤治療がスタートしたと。

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福岡 じゃあ、入院してその2日後からもう抗がん剤治療。

岸田 そうですね。本来なら翌日レベルでする感じでしたけど、精子保存があるからその翌々日からスタートしましたね。

福岡 実際にやった抗がん剤ってどんな抗がん剤やったん。

岸田 シスプラチン、エトポシド、ブレオマイシンという三つの抗がん剤、BEP療法と呼ばれる抗がん剤をしました。で、忘れもしない11月3日。

福岡 3日、祭日やろ。

岸田 ぐらい。5日か。

野口 入院したのは6日だし。

福岡 違うやんか。

田島 忘れもしなくない。

福岡 忘れてるやん。

田島 忘れてしかない。

岸田 忘れてしかいない。

福岡 忘れてるやん。

岸田 あれ、何やろな、俺。

福岡 でもね、こんなもんです。患者さんたち。

岸田 抗がん剤治療が。

福岡 11月の6日、7日ぐらいかな。

岸田 6日、7日、9日辺りから。

福岡 ぐらいに始まって。どんな間隔で、点滴だったのかとか、口から飲むやつだったのかとかっていう。

岸田 全部点滴で。それぞれの抗がん剤で周期が違うんですけれども、例えばですけど、三つ一緒にする日は朝、一つ目やって、午後、もう一つやって、夕方、もう一つやってっていうのが。

福岡 三つ同時並行でやったん。

岸田 同時並行でやる日もありました。間隔によって、がんの薬によっては違いますけど。

福岡 先生、大体そんなもんなんですか。抗がん剤っていくつか併用してやるとかっていうことが多いんですか。

野口 抗がん剤ってレジメンっていって、そのがん、そのがんでやり方とかスケジュールがそれぞれ違って、岸田さんが受けた治療は基本的に毎週、抗がん剤の治療があるっていうパターンの。

福岡 なるほど。副作用とかは。

岸田 副作用、結構ありましたね。特に僕、高熱が出るような抗がん剤が、僕と相性が合わなくて。それになったときは結構、何とか頑張ろうという気持ちで治療してたんですけども、なんで自分ががんになってしまったんだとか。

福岡 後ろ向きな気持ちになるんやな。

岸田 結構後ろ向きな気持ちになってましたね。だからこれに対して抗生物質を出してくれたりだとか、いろいろ先生たちが四苦八苦してくださっていたなというのはありますね。

福岡 なるべく緩和するような感じで薬も出してもらってってこと。

岸田 出してもらいました。白血球の値が下がってきたりとかするので、そのときに歯が痛くなってきたりだとか。あと、便秘になってしまって、頑張って踏ん張ろうとしたら、なぜか痔になって。

福岡 痔になるな、それはな。それは全部、薬、便秘用の薬を出してもらったりとか?

岸田 コーラック的なやつを出してもらった記憶がある。

福岡 なるほど。毎週、抗がん剤をずうっとやってたってこと? 3カ月。

岸田 基本的に。12週間。1週間だけ休みがあったりとかもするんですけれど。

福岡 途中でな。

岸田 途中、途中。そのときはですね、みんな大体、家に帰ったりとかするんですよね。けど僕は逆に。

福岡 ずっと入院してたん。

岸田 がんセンターのほうが居心地がよくなってしまったっていう。

福岡 よかったんやな。1人暮らしやしな。誰も世話してくれへん。

岸田 そうですね。1人暮らしなので、家帰ったほうが逆に自分でいろいろやらないといけないし、しんどいんですよねなので、そのときは、そのときこそ野口先生といろいろ話しして、ずっと入院させてくださいっていうことを相談していました。当時の男性の先生はあまり話す機会がなかったので、僕はこのとき、苦しいときはずっと野口先生に相談してたというのが。

福岡 天使に見えたわけやな。

岸田 そうです、本当に。本当に女神さまに見えました。冗談抜きで。野口先生は結構、回ってきてくださったんですよね。自分の暇さえあればって言い方、変ですけれども、主治医よりもいっぱい回ってきてくださったのでありがたかったです、当時。

野口 覚えているのはもう一人、チームでいた先生が、痔になってお尻が痛いときに毎日、座薬を入れてくれてたんですよね、男の先生が。

岸田 男の先生が入れてくれました。

福岡 そうなんや。先生に入れてもらってた? 看護師さんじゃなくて。

岸田 看護師さんにも入れてもらいましたし、先生にも入れてもらいました。

福岡 自分では入れられへんかったん。

岸田 自分ではそうですね。どうしてもうまく入らないというか。座薬がね。うまく入らなかったりだとか、なんかいろいろしたなと。

福岡 そうなんや。恥ずかしい? 女の看護師さんやと。

岸田 恥ずかしかったです。

福岡 そうやろうな。20代やもんな。

岸田 看護師さん、若いんでね。

福岡 向こうはプロやから何にも思ってないな。

岸田 何にも思ってないですけど、それは恥ずかしかったですね。

野口 それもあってチームの男の先生が毎日やってくれて。

岸田 やってくれました。

福岡 いい先生たちやね。

岸田 いい先生。コメント。でですね。一通りいったんで。なっちゃん、かわいいって言われてます。

福岡 ありがとうございます。

岸田 なっちゃん、かわいい。ハプ王、岸田ハプ王徹。違うよ。そういうことじゃない。リンパ王。きょうはメンバーが楽しそうですね。葛根湯。キングが並びますね。LDH王。さすが先生、LDHの説明、完璧ですと。説明しよう的なお話が挟まれるのが新鮮ですねとかですね。ベッドの上でプリングルスを食べながら見てますとかね。

福岡 いいね。

岸田 最初に親に連絡じゃないのかですね。私はベッドの上で点滴を打ちながら見ていますと。ありがとうございます。

福岡 ありがとうございます。

岸田 僕には連絡なかったな。

福岡 誰や、それ。言われてんで、そんなことさ。

岸田 はい、すいません。

岸田 途中、途中の振り返りが的確ですね。なっちゃんのツッコミすばらしいと。

福岡 ありがとうございます。

岸田 私もBEP療法で副作用で40度の高熱が出ました。

福岡 大変。

岸田 大変ですよね。副作用ね。

福岡 ベッドサイドから見ていただいてありがとうございます。

岸田 ありがとうございます。

福岡 プリングルス、何味食べてんねやろな。どうでもいい。

岸田 抗がん剤、こっちから、治療のところにいってますね。

福岡 治療のところね。

岸田 抗がん剤の治療、3カ月終えまして。

福岡 ちっちゃくなったん?

岸田 ちっちゃくなりましたよね。だいぶね。

野口 なりました。

福岡 じゃあ、抗がん剤、合ってたっていうことなんですかね。効いてるってことですね。

野口 そうですね。効いてくれて小さくなって。ただ残ってる腫瘍を手術で取らなきゃいけないというのがこれから話になります。

福岡 なるほど。普通その胚細胞腫瘍というのは抗がん剤やって、手術やってというのが普通の流れなんですかね。

野口 できた場所にもよって、例えば一番多いのは精巣、睾丸にできる胚細胞腫瘍なんですけれど、それは手術が先。それも岸田さんが今回、入院して、すぐ入院したように、病院に行ってすぐに手術をしようという時間がない病気だと思います。岸田さんはどこからできたかちょっとよく分からない。

福岡 原発がよく分からなかったんですかね。

野口 そうですね。ご病気が首と胸とおなかとっていうふうにあって、その場合は抗がん剤でできるだけ小さくしてから残ったものがあれば取りにいこうというふうに考えてました。

福岡 なるほど。抗がん剤をやってたときってもちろん入院してるから仕事はしてないよね。

岸田 仕事はそうなんですよ。いいところ、突いてくれました。ありがとうございます。

福岡 いいところね。

岸田 そこの抗がん剤の治療に入るときに、仕事のところで話ししてもいいかもしれないですけどね。田島さんに相談して休ませてくださいっていう話はさせていただきました。詳しい話は仕事のところでお願いします。

福岡 仕事のところで。ちなみにプリングルスはサワークリームオニオンらしいです。

岸田 はい。サワークリームオニオン、おいしいですよねってコメント欄だけで話がもう進んでいってるっていう。

福岡 プリングルスの話で盛り上がってる。

田島 一番おいしいんじゃない。

岸田 先ほど野口先生がおっしゃっていただいたように。

福岡 抗がん剤が終わって手術になりますと。手術ってそれ、2回やってんの。

岸田 はい。手術、2回、行いました。1回目は首と胸。そして2回目はおなかの手術と。

福岡 それは2回に分けたっていうのは何か理由があるんですか。一遍には無理だったってことなんですか。

野口 手術の大きさから確か2回に分けたと思います。

福岡 なるほど。出血量とかそういうことですか。体への負担とかですか。

野口 体への負担ですね。

福岡 なるほど。

岸田 そうですね。当時、本当に野口先生たちにすぐ手術をしようと言われてたんですけど、僕、体力的に結構、落ちちゃってたんで。

福岡 熱出てたら落ちるわな。

岸田 落ちたりとかして、もうちょっとこの1カ月後にしてくださいとか。その手術が終わって、そっからもう一回、また間、空けてくださいとか、そういった要望をお伝えして。

福岡 最初に言うてたんや。

岸田 それを快く引き受けてくれたなというのは覚えてますね。

福岡 1回目の手術は3月?

岸田 はい。これ、3月の終わり頃。

福岡 これ、何時間ぐらいの手術やったん。

岸田 これは本当にざっくりなんでね。僕の記憶を当てにしないでくださいね。

福岡 そう、本人のね。

岸田 十何時間ぐらいのイメージがあります。

福岡 イメージね。イメージがあった。その日はご両親が来てくれた?

岸田 両親来てくれました。兄貴も来てくれましたね。

福岡 じゃあ、3人が十何時間ずっと待ってて、ここで待ってていただいたってことね。

岸田 はい。次はそうですね。

福岡 手術に入って、手術して、出てきてすぐに麻酔覚めるやん。最初、目が覚めたときにご両親の顔とか見えてほっとした?

岸田 いや、麻酔が切れたときは全然、意識混濁してるので。訳分からない感じですね。

福岡 そのまま病室に入れられて、手術をしたその後っていうのはどうやったん。熱とか出た?

岸田 このときは特に。翌日からすぐ歩かされたりだとかして、このときは熱、多少なりとも出たとは思いますけれども、本当にこのときの手術後の経過っていうのは動かしたら痛いぐらいで。

福岡 この辺やもんな。下半身は全然大丈夫?

岸田 大丈夫だったので、このときは比較的順調に退院できたかなと思ってますね。

福岡 そうやんな。だって下半身に何もないから歩くのも全然大丈夫やな、きっと。

岸田 大丈夫ですし。

福岡 でもさ、いろんな管とかが起きたら自分にくっついてるわけやんそれ、嫌やなとかって思えへん。

岸田 もちろんそうですね。いろんなものが付いてて動きにくいですし、それで本当にザ、患者みたいな感じで。

福岡 十何時間も手術してるから、そら患者やと思うけど。

岸田 結構、そうですね、動きにくかったけど、それらも数日。数日たったら抜けてきたりとかするので、全然そうですね。大丈夫だったかなと思います。

福岡 1回目の手術はね。1カ月置いて、2カ月置いたん?

岸田 3月の後半で、その次が5月の終わりぐらいに。2カ月置きましたかね。2回目の手術はおなかの手術でした。

福岡 てことは、全身がんって言われたのが大体どの辺に散らばってたん。

岸田 はい。首と胸とおなかのリンパに転移していたと。両頸部のリンパ、また後で写真を見せますけど、両頸部のリンパと縦隔と呼ばれるところ、そしておなかの後腹膜と呼ばれるところ。

福岡 原発は不明やったと。

岸田 そうですね。原発不明ということは当時、言われたと思います。

福岡 了解です。2回目の手術でおなかの手術をしましたと。ここで後遺症が残ったわけよね。ちょっと簡単に、後で、もう一度、後遺症について話をしてもらおうと思ってるんですけど、簡単にどんな後遺症。

岸田 その前に手術のところをお伝えしてもいいですか。2回目の手術のほうが結構、大変でですね。

福岡 おなかやからな。

岸田 おなかの手術っていうのは、臓器は切ってない、内臓は切ってないんですけど、おなかの手術のときは腸が一回、活動が、間違ってたら言ってくださいね。腸が一回活動が止まって、そっからだんだんまた腸の活動を復活させていったりだとかするんですけれども、本当にそのときはご飯が結構、食べれなくなったりだとか、動くにしても笑うにしても、腹筋って結構、使うんですよね。そこが切れてるから結構、おなかを切ったときはすごくつらかったです。何よりもつらかったのが、多分、麻酔をずっと、管を背中とかに入れてるんですけど、そこの位置が僕、合わなくて、ずっとイライラしてる感じがずっと続いていて、夜も眠れなくて。

福岡 それ2回目の手術だけ?1回目んときは大丈夫やった?

岸田 1回目のときは大丈夫でした。イライラしてて夜が眠れないときっていうのは結構、体力も奪われるし、夜も眠れないしというのは本当に、このときは本当つらかったですね。

福岡 それ、1週間ぐらい痛みが続いたん?

岸田 痛みはもうずっと結構、それはどっちですか。麻酔の痛みか、それともおなかの普通の切れてる痛みか。切れてる痛みはずっと、結構、もう1週間どころじゃないです。数週間、なんなら数カ月レベルで痛かったですね。

福岡 ずうっと痛かった。それも麻酔がきちっと入ってなかったからってこと?

岸田 それとはまた別で、おなかはおなか切ったから。麻酔のときの痛みは、イライラするのはまた別で、多分、背中のところにいい感じに入ってなかったんで神経がずっとイライラしてるっていう感じでしたね。

福岡 それは手術後の麻酔?

岸田 硬膜外麻酔っていうやつが2回目のとき合わなくて、なので僕は予定よりもちょっと早めに抜いてもらったのを覚えてます。抜いたら楽になりました。ただ、おなかの痛みは増しましたね。

福岡 そうやんな。それは何、口から飲むとか、点滴で入れてもらうとかされたん。

岸田 そのときには鎮痛剤を点滴で投与してもらってたかなと思います。ただ全然、それでも痛かったですね。

福岡 そうやろうな。ちょっと待って。1回目の手術のときって入院して一回退院すんねやろな、きっと。

岸田 はい。これは数週間レベルで。

福岡 2週間ぐらいで?

岸田 1、2、3週間で。数週間レベルで。1カ月も入院してない。数週間、本当に。ただ、おなかの手術のときは1カ月、もしくは1カ月ちょっとは入院してました。

福岡 そんな入院してたんや。1回目の手術から2回目の手術の間ってもちろん仕事は行ってないんやろ。

岸田 行ってないです。体力を、体力は1回目の手術したらだんと落ちるので、そこからまた、一回落ちるので、そこからもう一回体力を回復させてから、もう一回の手術するみたいな感じでしたね。

福岡 そうね。退院してから2回目の手術のまでって家で1人やんか。大丈夫やったん?

岸田 このときは実家に帰りました。大阪で療養しました。

福岡 了解。2回目の手術が終わって退院します。またそれも実家に帰ったん?

岸田 このときの後も実家に帰りました。それであと、後遺症っていったところで、後ほどお伝えしますけど性機能に後遺症が出たりだとかいうようなことはしましたね。

福岡 それが、『がんノート』のきっかけになってるんですけど、いろいろなところで話をしてると思うんですけど、きょうはより詳しく話をしてもらおうと思ってます。

社会復帰したかった、でも体がついてこなかった――復職と退職のリアル

岸田 はい。この後に先生たちからだいぶ、そうですね。社会復帰しても大丈夫だよということを言っていただいて、2014年の3月に会社に復帰していくことになります。

福岡 それはまた同じ部署に?

岸田 当時、部署は変わってましたよね。

福岡 部署は変えてもらったんですかね。

岸田 営業していたところからマーケティングの部署に変えてもらいました。内勤に変えてもらいました。

福岡 戻ったときってどんな様子でしたか。

田島 まず外見からですね。ぱっと見たときに、お見舞いとかには行ってたので何となくは分かるんですけど、当時から見たら痩せてましたし、体力もまだこれからっていうときで、リハビリも含めてだったので、会社も4時ぐらいまでみたいな感じだっけ。

岸田 4、5時とかね。

田島 4、5時ぐらいまでっていうのは聞いてたし、もし頑張るって言ってもそこは早めにっていうのがあったので、なるべく負荷、負担のかからないように。当時は営業職だったんですけど、体力的にも、あと仕事の量的にもきついので、別の違う内勤というか、内部で営業を支えるような職務というか、そこの部署をつくって入ってきてもらったっていう感じですね。

福岡 なるほど。佐藤さん、どうです。戻ってきたときの岸田君の様子とかっていうのは。

佐藤 そうですね。戻ってきても私はオフィスが離れてたので、ただ、ご飯食べにいったら、ご飯食べにいってるんですけど、頼んでもないのに、撮ったがんの写真を全部、「佐藤さん、これ」ってすごいうれしそうに見せてくれて、あとは切った傷がちょっと面白いことに。これ言っていいのかな。

岸田 どうぞ。言ってください。

佐藤 徹じゃないですか。説明によると、ここにTの字が入るっていうので、イニシャル入るってすごい喜んでたのに、手術終わって見てみたところYになってた。ちょっとがっかりだみたいな話をしてくれたので、基本的には変わらない子だなと思っていました。

福岡 キャラはね。手術したからって変わるわけじゃないから、そのままでね。

岸田 いっていいですか。

福岡 いいです。どうぞ、お願いします。

岸田 その後、6月に、週末を使って、『がんノート』のこの活動を少し始めていったっていうのがこのときになります。ただ、その後、10月にですね、残念ながら退職をしてしまい、10月いっぱいで退職してしまうことになりました。これに関しては、僕、もうちょっと頑張りたいなと思って、仕事に負荷かけようかなと思ってたんですけれども、体とのバランスがうまくいかなかった。

福岡 結局、体力がもたなくって退職したっていう形。

岸田 基本的にはそうですね。

福岡 その辺で相談とか。

岸田 体調はよくなかったですよね。

田島 そうですね。昔のメールとか見てたんですけど、見る見るうちに元気がなくなってですね。ちょっと嘔吐したりとか、体力もそうですし、あと、多分、そうですね。精神的な頑張りたいみたいな意欲と体とのバランスが全然ばらばらになっちゃって、結構、自分で自分を、多分、追い込んでしまってて。なるべくそんなに、責任感強い子なんで、もうちょっと楽観的にというか、ゆっくりでいいからみたいな話はしてたんですけど、そこが8月、9月ぐらいになって結構、顕著に出始めて、10月の。

岸田 末で、そうですね。

福岡 いったん退職という形に。

岸田 リセットしようと思って。退職しました。退職して数カ月していたときに、ちょうど国立がん研究センターさんからうちで広報をしないかっていう話をいただいたんですけど、そのとき体調悪いので、正味いけても週1とかレベルですよと。全部働けるか分からないですよ。ただ、社会復帰はちゃんとしないといけないなと思ってたので、そういうことを言ったら、週に1回でもいいから一回来てくれないかということだったので、それでいいんだったら社会復帰もしないといけないし、お金もないし。

福岡 金もないもんな。働いてないとな。

岸田 だからっていうので最初、週1とか週2とかで。国立がん研究センターさんの広報さんでさせていただいたというのがありますね。だんだん体を慣らしていって、これもまた半年後ぐらい。

福岡 半年やな。

岸田 半年後ぐらいに次は精巣にがんが見つかりますと。

福岡 それは手術だけ?

岸田 このときは手術だけです。

福岡 だけで、そっか。でも、よかったな。がんセンターで働いてるからさ、具合悪くなってもすぐ見てもらえるもんな。

岸田 そういうわけじゃなかったですね。

福岡 そういうわけじゃない。

岸田 先生に連絡して、ちゃんと連絡して、ただ、がんの種類でね。先ほど野口先生がおっしゃっていただいたように精巣腫瘍ってかなり進行が早いがんなのですぐ処置をしないといけない。翌日、抗がん剤とかするレベルなので。なので、先生がすぐ切りましょうと。

福岡 切りましょうと。こんときブログ書いてたから私もそれは見て知ってんねんな、その頃。

岸田 ですね。このとき手術した後に、僕、これは鮮明に覚えてるんです。手術した後、ぼうっとしている。精巣の手術ね。切って手術した後にぱっと目が覚めたら、野口先生ともう一人の男性の先生、2人で僕の枕元に。枕元はあかん。

福岡 ベッドのそばやな。

岸田 ベッドのそばに来て、岸田君、大丈夫?みたいなことを声掛けてくれたのを覚えてますね。来てくれましたよね。

福岡 その手術のときもご両親が立ち会ってくれたん?

岸田 両親、父が来てくれました。父と兄が。先生、覚えてます? このとき。

野口 そうですね。しばらくすごい調子が悪くて、外来も通院がなかなか難しいっていってた中で、腫瘍マーカーがどんどん上がりだして、全身調べてもどこか分からないねって言ってる中で、本人が多分、腫れてるって気付いて、急きょ、連絡をもらってすぐ見ましょう。そのとき泌尿器科の先生がすぐに手術しましょうっていって切ってくださった。

岸田 そうや、思い出した。そうですよね。それこそ腫瘍マーカーが上がりつつあって、何だろうね、何だろうねって言ってたんですよね。

福岡 それブログに書いてたもんな。腫瘍マーカーが上がってますとかっつってな。私もその頃は心配してたけど。

岸田 上がってた、確かに。それで左睾丸が腫れてるなっていうのに、これは忘れもしない。

福岡 これは忘れもしない。これは鮮明に覚えてるんです。

岸田 海の日の3連休のある日の金曜日の夜に気付いて、やべえなと思って、土曜日の朝一でがんセンターとかやってないんで、近くの泌尿器科のクリニックに行って、それで見てもらって、その疑いが、可能性が高いねっていうことで、そんときの3連休のもどかしさ。

福岡 もどかしさ。なんでここが休みやねんみたいな。

岸田 なんで月曜日休みやねんと。海の日、海の日みたいな感じで、すごい海の日を。

福岡 1日を争うのにみたいな。

岸田 火曜日行って、水曜日には手術してたと思います。

福岡 去年、お兄さんもそうやったもんな。入院してその次の日とか言ってたもんな。

岸田 それはあれですよ。胚細胞腫瘍だからっていったところでね、すぐ手術しないと危ないがんだからということはありました。そこから終わって1年後にNPO法人化して。

福岡 その辺のNPOの話とかお兄さんの話は後でするとして、次のトピック行くよ。

岸田 12月にがんになって今に至りますと。当時の写真です。世界一周してたときの写真を。

福岡 佐藤さんがご飯食べながら見せられた写真も出てきます。

岸田 世界一周してたときの写真がね、僕がまだ髪の毛がストレートだったとき。

福岡 チャラいな。

岸田 そうですね。このときはチャラくなりたいっていう。チャラくなりたいけどチャラくなり切れないっていう。

福岡 何? 人生においてなんかなりたいっていうのがいろいろあるわけ? チャラくなりたい時期とか。

岸田 そういうふうな時期がありました。

福岡 あったんやね。チャラくなりたい。

岸田 けどみんなからは残念な男っていう形で。

福岡 残念なチャラさみたいな。

岸田 ボリビア行ったときにボリビアでパーマかけて、その後ね、ばあってなるんですけど、そのときにはこんな感じですね。

福岡 こんな感じね。残念やね。

岸田 ボリビアパーマって、ボリパーっていうんですけど、当時すごくはやってました。この後に、自分が。世界一周のバックパッカーの中ではやってて。仕事、就職してこんな感じです。はい、どんと。

福岡 就職したのが、こんな感じね。

岸田 はい。髪の毛ストレートですよね。好青年。

福岡 好青年。

岸田 好青年。これはさっき田島さんからいただいた写真で。

福岡 サラサラヘアで。

岸田 会社の旅行とかで台湾に行ったときがあるんですよね。台湾に行ったときの写真がこちらです。

福岡 どれ。

岸田 田島さん、そう。

田島 これは台湾ではやってる髪型ですね。結構、そり込みを激しく入れるっていう。

福岡 かなり刈り上げてますね。

岸田 かなり刈り上げてるけどちょっとおかしくないですか。この刈り上げ方。見てください。普通、こっからここまで行ってるんですよね。

福岡 行ってるよな。

田島 もみあげも全部なくなりました。

岸田 もみあげも全部なくなって、こぼちゃんみたいになりましたよね。

福岡 これは何。ウケねらってやったの。

田島 でもそんなもんじゃない?

福岡 ウケ、ウケ。

岸田 がんになって、闘病したときに、そのときにまずそったんですよね。髪の毛が抜けてきたので。そのときの写真がこちらです。

福岡 なんでここだけ残したん。

岸田 当時、大五郎カットがはやってて。

福岡 なるほど。

岸田 うそ。

福岡 なるほどね。そうか。

岸田 年代が違うというね。ごめんなさい。ちょっとこんなして、当時、入院中がこんな感じでした。

福岡 ちょっとしんどそうね。

岸田 首がどんぐらい腫れてたかというとこんな感じですね。どんと。

福岡 これが佐藤さんが見た首の腫れ?

佐藤 なんかまだ、今2個あるよね。この写真は。

福岡 2個あんの、これ。

岸田 この写真は2個あります。ここが一番腫れてるんですけど、最初はこっちのほうが腫れてたんですよ、実は。

福岡 そうなんや。じゃあ、別のところ、2個が、後から来たほうが腫れだしたん。

岸田 そう。後から来たほうのほうが結構、腫れてきてましたね。

佐藤 私が見たのは1個のほう。

福岡 1個のほう。そうなんや。

岸田 この次に全身転移してるよというときに見せられた写真がこちらなんですよね。

福岡 これが全身がんな。

岸田 はい。これ、頭以外の白いところ。

福岡 頭以外ね。そう、首ね。

岸田 首の両頸部と肺と肺の間。

福岡 こっちはちっちゃいね。こっちが最初にきたの。

岸田 こっちが最初に大きかったです。

福岡 こっちが後になって大きくなったの。

岸田 はい。あと後腹膜のリンパに転移していたという形で、このとき首と胸の手術のときに撮ったがんがこちらですね。

福岡 これがご飯食べてるときに見せられたんですね。

佐藤 そう。

田島 俺も見たな。

福岡 田島さんもご覧になった。

田島 楽しそうでしたよね。

福岡 楽しそうにね。

岸田 茶色くなってるのは、染色液漬けてるかららしいです。という感じでしたと。これが1回目のがんですね。そこから次のトピックに。

親に治療を応援してほしかった――家族の葛藤と、救ってくれた兄の一言

福岡 次のトピックに。では、家族の話。家族構成を簡単に、病気したときの家族は。

岸田 病気したときの家族は、複雑な家族みたいになってますね。両親と兄がいました。

福岡 さっきからご両親の話とお兄さんの話をちらちらは聞いてるんですが、ご家族からいろんな言葉掛けてもらったりとかそういうことはあった?

岸田 ありましたね。どちらかというと両親はそのときは治療推進派ではなかったので。

福岡 治療推進派ではないというのはどういうこと。

岸田 抗がん剤よりも違う方針で。

福岡 何、その、ニンジンジュースとかのやつ?

岸田 ざっくり言うとそういう系の。抗がん剤じゃない治療法のほうがいいんじゃないかというご指摘をいただきまして。

福岡 それはご両親両方とも?

岸田 基本は母親ですね。父も確かにそういうこともおっしゃってはいましたが、最終的にはおまえがやりたいようにやれということを言ってくださいました。

福岡 身内の人に敬語を使うのは岸田君の、好きなんですよ。大目に見てやってくださいね。

岸田 ただですね、兄貴がおまえのやりたいようにやれということで言ってくれて、僕はすぐ抗がん剤治療にいけたということがありましたね。

福岡 言ってくれたんやな。よかったね。それはね。

岸田 聞きたいんですよ。当時、両親からなんかありませんでした? 相談とか、特に大丈夫でした?

福岡 どうぞ。きょうは忌憚なく。

岸田 忌憚なく、事実を。

野口 ご両親は治療に反対っていう感じで、でもすごく化学療法、抗がん剤が一番いい治療法なのと、ご本人、成人なので、本人がやるって言ってるのを家族が止めることはできませんよっていうことで、速やかに治療を始めたかというふうに思ってます。手術のときもご両親、お母さんは手術をすごく心配されていたかなっていう。

岸田 手術の電話して、手術キャンセルの電話までね。病院に来て、病院から「岸田君、本当に手術キャンセルするの」って連絡来たの、覚えてますもん。

福岡 しませんって。

岸田 多分、ご両親はすごい心配してくださったんだと思うんですよ。かわいい息子にね、傷を作るとは何事だと。

福岡 25歳の息子にな。

岸田 抗がん剤をするのは何事だと。

福岡 髪の毛抜けたら困る。

岸田 そう。すごい心配してくださって、そういう結果になったと思うんですけど、本当に大変だった。こちらとしては。

福岡 それはそう。お兄さんさまさまや。

岸田 そうですね。兄さまさまですね。兄が本当にサポート、献身的にしてくださって。ただ、後でもお話ししますけどね。ただ、お金が本当に尽きたときとかは、両親に本当にお世話になりましたね。本当すごく感謝してます。

福岡 お世話になって。手術の後も実家に帰って面倒見ててもらったわけやんか。

岸田 そうですね。ただそのとき結構。

福岡 そこが大変やった。

岸田 うん。なので2回目。2回目というか。本当にこのときは実家で療養したんですけれども、退職してから療養するときは中野に家賃3万5000円の4畳半のアパートを借りて、そこで過ごすことにしてましたね。いろんな家庭って大変。いろいろありますからね。

福岡 そのほうが精神的にも楽やったってことやな。

岸田 そうですね。

福岡 分かるわ。

岸田 今もすごく感謝してますよ。

福岡 もちろんな。

岸田 感謝してますけどね。

福岡 感謝してるけどな。

岸田 て言っときます。

がんになったから出会えた人がいた――患者会から始まった恋愛と結婚

福岡 それは治療中ですと。その後さ、次の話題に行こうか。恋愛、結婚ということで、手術をして、退院して、今の奥さんと知り合ったのはいつぐらいやったん。

岸田 今、僕、2016年の2月14日に結婚をしたんですけれども。

福岡 大丈夫、合ってるよ。

岸田 当時、僕、患者会で知り合いました。

福岡 患者会ね。

岸田 患者会で知り合って、そこで妻もメラノーマという、ほくろのがんの患者。

福岡 皮膚がんね。

岸田 皮膚がんでした。なので、皮膚がんでいろいろ話をしているうちに意気投合して、お付き合いに発展し、その後、2016年の2月14日に結婚するということになりました。

福岡 結婚を決めたきっかけとかは。

岸田 結婚を決めたきっかけ。

福岡 みんな聞きたいですよね。

岸田 シンプルに言うと。

福岡 みんな、うんって言ってるよ。

岸田 超シンプルに言うと、付き合って半年ぐらいたったときに妻から、あなた、このままどうするのと。このまま普通に付き合うのか結婚するのかはっきりしなさいということをいただきまして、別に別れるつもりはなかったので結婚する方向でいこうかというところでそのまま、そこから2年ぐらい付き合って。

福岡 もともとは結婚前提で付き合ってたわけや。

岸田 半年ぐらいしてからは。結婚前提で付き合ったはずですね。

福岡 付き合ったはずですって何。

岸田 付き合ったはずです。

福岡 もともと付き合いだいしたきっかけはどっちかが告白したりとか。

岸田 その患者会の飲み会で知り合いました。その患者会の飲み会で知り合ったときの映像というのが、当時の『生きるを伝える』という番組の一番最後にちらっと載ってるんですけれども、まだネットで見れるんですけどね。そこで知り合って、その後、僕がこういうブログやってるんですっていう話をしたら、そのブログを見てくださって、興味を抱いてくださって、その後、ご飯行きましょうかっていうのを連絡いただいて。

福岡 奥さんのほうからご飯行きましょうって言ってくれたん。

岸田 そうですね。そう認識しておりますが、はい。

福岡 奥さん、後で検証で。

岸田 そう認識しております。最初のきっかけはね。

福岡 きっかけね。

岸田 付き合いましょうとか言ったのは僕からですよ。

福岡 僕からお付き合いしてくださいと。

岸田 そうですね。

子どもを持てるのか――凍結精子と、今まさに協議中の夫婦の選択

福岡 さっきの後遺症、後遺症の話でも後でまたしてもらうけど、妊よう性の問題があるわけやんか、岸田君が。それは奥さん、元からご存じやったん。

岸田 元から知ってましたね。ブログでも全部お伝え、全てオープンにしていたので。ただ、恋愛するとき、結婚するときに、あえて妊よう性の話っていったことをあらためてしたっていうのはなかったですね。

福岡 あらためてはしてない。知ってる前提やもんな。

岸田 妊よう性の話でちょっとだけお伝えすると、ちょうど今、これで家庭内がいろいろもめておりまして。

福岡 協議してる。

岸田 協議をさせていただいておりまして。先ほど、入院中のとき、抗がん剤する前に精巣の。

福岡 凍結な。

岸田 精子の凍結はしてると。今後、子どもを持っていいかどうかっていうのが、ちょうど2週間前ぐらいにこれからどうしていくっていう話をして。

福岡 それは奥さんと2人で話したん。

岸田 奥さんと2人で話をして。ただ、凍結を解除して子どもをつくるのにもお金がかかる。

福岡 かかるよね。

岸田 だったりだとか、年齢的な問題。奥さん、僕の1個上なんですけれども、お金だって、もう32とか3になってくるので、年齢的なところとかで、どうするのというところで今、協議の真っ最中ですね。

福岡 協議の真っ最中。いつ、つくりますかっていう話。

岸田 そうですね。そういうチャレンジをしていくかどうかとか。

福岡 奥さん自身は、妊よう性には問題はないの?

岸田 特に調べてないですけど一般の人と変わらないと思います。メラノーマというがんですけど、手術して取るだけだったので、抗がん剤は特にしてないので。

福岡 じゃあ問題ないやろうな。ただ、女性からすると岸田君自身が凍結精子っていうことは人工授精しないといけないということやんか。

岸田 顕微授精とかね。

福岡 そう。奥さん自身にかなりの、私は負担がかかると思ってんねんな。それは奥さんはOKなわけやな。

岸田 いや、そこら辺なんですよ。

福岡 そこら辺なんや。

岸田 男性だったら分かんないですよね。どれぐらいかかるかっていうのも、結構、僕が。僕が悪いんですよ。結構、人ごと的に、そうなんやぐらいで言ってたら。

福岡 ブスッ、バーッてきた? そら、くるわな。

岸田 2人の問題でしょうと。おっしゃるとおりですというところで、僕がちょいちょい地雷踏むんですよね。

福岡 まあね。皆さん、ご存じだと思うんですけどね。時々、そこ踏んだらあかんやろっていうところをブスッと踏むところがあってですね。

岸田 ちょいちょい踏むんで。

福岡 前に、私が筋腫の手術をするときの検査で子宮内に管入れて取るのってめっちゃ痛いよって話をしたことがあるやん。

岸田 はい、あると思います。

福岡 覚えてるかどうか分かんないですけどね。つまり人工授精して子宮内に卵子を戻すっていうことは、それってブスッと入れて戻さなあかんわけ。本人自身もすごい負担やし、すごい痛いと思うんよ。今までそんなことはしてないから、そういう経験に対する多分、不安とかもあるはずで。

岸田 そうですね。

福岡 そういう話はちゃんとしてる? してくださいね。

岸田 いろいろ不安に対する話を、今、協議、真っ最中なのでしていこうかなと。

福岡 じゃあ協議、結果が出たら、また皆さんに教えてくださいね。

岸田 そうですね。地雷王。

福岡 地雷王ね。

岸田 なんちゃら王、多いな。

福岡 ハプ王から始まってるで、これ。

岸田 子どものことは難しいねとかね。そういう形ありました。今、これは岸田家のすごい問題に出てくと思うんで。

福岡 そう。後遺症のところでいっか。

復職・退職・再出発、がんが変えた働き方と使命

岸田 仕事のことと。

福岡 仕事のことです。きましたよ。当時ですね、どういう感じでした。ぶっちゃけた話でいいですよ。

田島 はい。

福岡 仕事できたほうでした? できなかった?

岸田 まずこのとき、最初。

福岡 ハプ王のとき。

田島 そうですね。ハプ王なんで、できないですね。

福岡 ですよね。

田島 どっちかっていうとできないです。

岸田 だってめっちゃ田島さんにおんぶにだっこでしたもんね。

田島 そうですね。取りあえず、そろそろ身内への敬語だけはやめていただきたいですね。僕の教育が間違ってるんじゃないかって。

岸田 別にそういうことじゃない。

福岡 それはね、本当に私たちも散々言ってるんですけどなかなか治らない。

佐藤 あと田島さんに一つ言っときたいことは、営業なんで見積書とか請求書ぐらいね、作れるようになっておいてほしかったんですけど、ぐしゃぐしゃなんですよね。

田島 そうなんですか。

佐藤 そうなんですよ。この活動で。

福岡 そうなんですよ。結局もう剝奪しちゃったんですけど、無理だなと。

田島 すいませんでした。

岸田 やりましたよね。本当に全部、僕の資料、田島さんが。ただ、田島さん、当時29歳なんですよね。そのとき上司。

田島 そうですね、29。

岸田 29歳ですごくいろんなことをやってくださったなと。

福岡 全部ケツ拭いてもらった。

岸田 ケツ拭いてもらいました、すごく。

福岡 でも、それでもケツ拭いてやろうと思えるぐらいのキャラだったってことですか。普通、だって仕事できなかったらね、こいつのことどうでもいいやって思うじゃないですか。

田島 そうですね。キャラはキャラこのままなんで、さっきも言ったとおり。治んない。それはそうか。病気になる前ですけど、そうですね。ただ、人数が僕ら少なかったので、そもそもそうなんですよ。

福岡 1人に対する負担が大きいですよね。

田島 はい。5人のところに入ってきたんだよね。

福岡 1人雇用やったん。

田島 その期待をすごく僕も持ってたんですけど、ふた開けたら岸田君だったんで、これはちょっとこいつを戦力化させないとまずいなと思って。

岸田 ていう形でした。で、戦力なる前にがんになってしまって。

福岡 でも、すごく感謝してるんやろ。

岸田 はい。で、がんになってすぐ、全て引き継ぎとかも田島さんに、本当に全部丸投げでしたもんね。

田島 そうですね。チームというほどの人数もいないんですけど、チームらしき状態はもちろん、つくってはいたんですが、人数少なくて、幸いにもお客さんも結構、取引もあったので、岸田にも多分、10社以上はあったと。

岸田 小さいところを合わせたら20~30ぐらいはありましたね。

田島 あったよね。なんで、じゃあメンバーに、誰に引き継ぐかっていっても、結構それぞれがパンパンだったんで、当時、幸いにも僕が自分で持ってる案件なかったので、一緒に動いてたのもあり、1週間ぐらいでしょう、入院。

岸田 はい。

田島 その電話を最初もらって。

岸田 もらってからもう1週間後には。

田島 1週間後にもう入院しなきゃいけないってなったんで、これはまずいと思って、最低限まとめてもらって、その1週間でがあっとミーティングして、全部引き継いでっていう感じでしたね。

福岡 なるほど。

田島 そっからバタバタでしたね。

岸田 はい。そのとき本当に。

福岡 お世話になったね。

岸田 お世話になりました。で、仕事復帰するっていったときも田島さんと相談させていただいたりとかして、外勤は難しいんじゃないかということでマーケティングの部署、ちょうど田島さんもマーケティング部署の。

福岡 ちょうど移られたんですか。

田島 そうですね。最初が僕、営業も見てたんで一緒にやろうってなって、間空いて、また復職してきたときに営業も見てたんですけど、少し組織も大きくなってて、もうちょっとマーケティングというか、商品企画とか開発、そっちのほうもあったんで、こっちで一緒にやろうってなりましたね。

福岡 なるほど。

岸田 戻って、本当に同僚の人たちもみんなよく接してくれてっていうか、今までどおりに接してくださいましたね。

福岡 なんか書いてたよね、いろんな記事に。何の変わりもなくってこと?

岸田 そうですね。基本的に、はい。

福岡 それが一番気持ち的には楽やった。

岸田 楽でしたね。

福岡 なるほど、そうだよね。変に気遣われても気遣うもんな。

岸田 そうですね。

福岡 今までどおりに接してくれてましたと。だけど自分が頑張り過ぎて、結局、辞めることになりましたと。

岸田 そうですね。体調管理がね、ごめんなさい。今、思い返せば、2、3年かけて徐々にやってくべきだったなとは思いますけれども。

福岡 当時はな。だってまだ20代半ばやもんな。

岸田 すごい、すばらしい上司ってコメント来て。

田島 いえ、そんな。

福岡 今の仕事は。

岸田 今の仕事は基本的にNPO法人『がんノート』の代表理事をさせていただいておりまして、いろいろこういう発信に従事して、午前中は『がんノート』の仕事をして、午後は国立がん研究センターの広報もさせていただいてるので、そこの主にインターネットのかいわいで働いていたので、今、がんセンターのホームページ周りを主にさせていただいております。なので、ホームページ周りだったりだとか、皆さんが見るようながんの情報を広報としても発信させていただいていて。

福岡 それはがんセンターで。

岸田 それはがんセンターのですね。

福岡 『がんノート』の仕事としては。

岸田 『がんノート』の仕事としては講演や企業さんの研修だったりだとか、あと研究とかですね。医療的な研究ではなくて社会的な研究とかそういったところ。あと、がん教育といったところで小学校や中学校に赴いて、授業でがんについて、そして命の大切さについて話させていただくと。来週もありますしね。

福岡 来週も行くしね。収入的には大丈夫ですか。

岸田 収入的にようやくって感じですね。

福岡 そうだよね。今月からやな。

岸田 今月。本当、今月から。本当、今月からようやく一般の人のレベルの生活水準になるかなと思ってます。最初は何もないところから自分でスタートしていってだったので、苦労、大変だったんですけれども、結果は後から付いてくるのかなというのは思います。

福岡 今の仕事はどう。この『がんノート』の仕事をやっててさ。仕事として岸田君はやってるわけやんか。

岸田 そっか。

福岡 仕事やで。趣味じゃない。

岸田 そうですね。自分のがんになったことっていうのをこういった還元できるっていったところで、すごく自分でも使命を持ってやらせていただけるっていうのはありがたいことですし、それが仕事に結びついてるっていうのはすごくありがたいなと思ってますね。

福岡 じゃあ、このままずっとこの仕事を続けていきたいと。

岸田 そうですね。インタビューだったりとか患者さんの発信、そして病気に関することをずっと発信し続けるっていうことはずっとやっていきたいと思ってますね。

福岡 分かりました。だそうです。

岸田 19年からね、幸いにも厚生労働省さんのいろいろ検討委員だったり評価の委員も勤めさせていただくので、そういったところでお国のために頑張るようにもなってこようと。

福岡 おお。

岸田 やばいっていう雰囲気いっぱいあるんですけど。そうですね。

福岡 今年は企業さんの研修もなんですけれど、そういう厚生労働省ですとかお役所関連と学校とかね。そっちのほうはあんまりお金にはならないんですけど、そういうところも社会貢献としてはやっていかなくちゃいけないかなと思ってるので、そっちの仕事もやってもらおうというふうに思ってます。じゃあ次、行きましょう。

貯金10万以下、保険なし――がんになって初めて知った治療費の現実

岸田 そのお金のところっていったところですね。

福岡 お金ですね。当時、保険は入ってなかったんやな。

岸田 はい。当時、保険、入ってませんでした。

福岡 25やもんな。入ってないよな。

岸田 入ってないです。

福岡 でもお兄さん入っててんやな。

岸田 そうですね。

福岡 お金どうでした、当時。

岸田 お金、全くなかったのでどうしようと。1回目の『がんノート』きは僕、大体ざっくり、100万円ぐらいかかってるんですよね。生活費、含めてなんですけど。治療費とかいろんなこと含めて。高額療養費制度で、マックス段階で8万いくらとかね、あったりとかするんですけれども、数カ月入院したりだとか、手術も2回したりだとか、100万円ぐらいかかってるかなと思ってます。当時、そんな貯金もないじゃないですか。貯金10万もなかったはずなので。

福岡 10万もなかった。でもさ、ちょっと待って。1年ぐらいあるわけやんか。貯金は10万やった。

岸田 10もない。

福岡 か、そんなに悪い給料やって話、聞いてなかったよ。

岸田 そうです。年俸制ですけどね。

福岡 年俸制やろ。そこそこいい給料もらってたんちゃうん、新入社員としては。

岸田 貯金、大体みんな、ないですよね。田島さん。

田島 どうだろうね。ためてんじゃない、ちゃんと、みんな。

岸田 僕は、ごめんなさい。

田島 しかもそんなお酒、飲まないでしょう。

岸田 僕、お酒、飲まないです。

福岡 お酒、飲まれへんの。

岸田 お酒、飲まないです。

福岡 趣味とかったってさ、ゲームしたりとかでしょう。

岸田 アニメ。

福岡 アニメだけやろ。そんな大してかからんのちゃうん。

岸田 そうですね。ちゃんと家計簿、作らないといけない。

福岡 家計簿は、岸田君には無理やとは思うねんけど、もうちょっと違う管理も。その話は。

岸田 けど全然、取りあえず全然お金がなかったです。ごめんなさい。

福岡 分かりました、はい。

岸田 全然お金がなくて、やばい、治療費、足りないぞとなって、どうしようってなったときに、まず最初に友達がお金、貸してあげるからということで言ってくださって、それを借りたりとかしたんですけれども、友達のお金だけだとずっと借りていくわけにもいかないので、最終的には親も援助してくださって。

福岡 ご両親に借りて。

岸田 親もあまり治療には快くは思ってなかったかもしれないですけど、子どものためということで出してくださって。

福岡 お兄さんに借りたりとかもしたん?

岸田 兄貴も借りたと思います。

福岡 そうだよね。それはお金の面では家族に一番頼ったってことやね。

岸田 家族に一番頼ったって感じですね。

福岡 そうやろな。

岸田 1回目のがんで約100万、2回目のがんで約50万ぐらいかかったので。

福岡 でもそれは手術、治療だけでその金額やんか。その後、会社辞めて、プーしてた時期があるわけやんか。

岸田 はい。

福岡 そのときの生活費はどうしてたん。

岸田 このときの生活費も、ニート時代はすいません、正直、親のすねをかじりました。兄がすごいサポートしてくださいました。お金を借りて、借りて。

福岡 借りて、借りて。その借りたお金も全部返せたん。

岸田 ようやく。

福岡 ようやくね。

岸田 先々月にちゃんと振り込んだりとかしてようやく。

福岡 きれいな体になったそうです。

岸田 だからお金は結構シビアなんですよね、本当に。

福岡 でも岸田君の年齢からいくと難しいかなっていう気はする。私の場合、夫もそこそこの年齢だったからそこそこの蓄えもあって、治療に関してのお金に関してはそんなに心配はなかったけど、岸田君の年代だとお金っていうのはすごい問題になると思うね。

岸田 そうですね。今、保険も、ちょうど奥さんが保険について、この前、保険の総合窓口みたいなこと行ってくださったらしいんですよね。行ってくれたんですよね。

福岡 行ってくれた。

岸田 行ってくれたんです。すると、入れるやつがほぼなくて。1個ぐらいなんかあったらしいんですけど、掛け捨てで1カ月2万以上かかると。

福岡 そんなんやめといたほうがええわ。

岸田 しかもこの年代でね。僕、単体だともちろんがんになっても5年たってないから。そういうのがちゃんとそういった保証がなるやつとかっていうのがなかったらしいです。

福岡 私は家族にがんが多いからがっちり保険には今、入ってるんやけど、その分って私だけで、ものすごい金額払ってるわけ。それを岸田君は払う必要はないけど、その分は実費で手術とか治療とかで払わなあかんということやね。

岸田 そうですね。

福岡 どっちが高いか安いかそんなん分からんけど。

岸田 そうですね。本当に当時、保険入ってればよかったなってね。なったら思いますね。そういったところも自分は健康的だと思ってたんで。

福岡 だって25やろ。

岸田 毎週末コナミスポーツに通ってて。俺は健康やと思ってましたね。

九死に一生――手術の時気づいた三つの後悔と、ブログを始めた理由

福岡 そうやな。しょうがないな。じゃあ次、つらかったこと。

岸田 つらかったこと。

福岡 一番つらかったの、次の後遺症の話にもつながると思うけど。

岸田 後遺症の話もあると思うんですけど、それ以外でつらかったことっていうのもね、それは結構。

福岡 肉体的につらかったことと精神的につらかったことって、どっち。二つともあると思うけど。

岸田 肉体的には手術の後。2回目の、おなかの手術の後っていうのはすごい体力が落ちて。

福岡 そうなんや。

岸田 全てにおいて、腹筋、切ってたら全てにおいて痛いんすよね、何するにしても。なので笑っても痛い、歩いても痛い。それで電車に乗ってその振動が痛いとか。

福岡 退院してからも痛いんやな。

岸田 退院してからもすごい痛かった。これが徐々によくなってくの本当、数カ月以上要したので、そういったところは本当につらくて。

福岡 そこが一番肉体的にはつらかったってこと。

岸田 肉体的につらかった。抗がん剤のときは、さっき後遺症でもお伝えしましたし、体調が悪くなったときはすごくなんでなんだっていうのは思いました。なんで自分なんだって思いましたけど、肉体的にはこの手術らへんが一番つらかったかなと思います。

福岡 そこな。この2回目のやつやな。

岸田 このときに、手術のときに、ちょっと前後して申し訳ないんですけど、1回目の手術のときに、ぱっと目が覚めたときに息が苦しくなってできなくなった。

福岡 あの話ね。してもらおうか。

岸田 はい。ううってなったときに、僕はショートに行くと、やばい、息できないと思って、死んでしまうかもしれないと思ったときに三つ後悔するなと思ったことがあって、一つが親孝行。親孝行しておけばよかったなということ。一応、何不自由なく大学まで出させてもらってこれから恩返しするときなのにと思って、親に何もできないっていうのはすごく心苦しかった。親孝行。そしてもう一つがあれですね。恩返しをしたかったと。会社のメンバーだったりとか、すごいいい上司にも恵まれて、いろんなそういった人たちに何も恩返しできずに死んでいくのかと。友達たちもすごく支えてくれたので、その人たちに何か恩返ししたかったなということ。三つ目に自分の人生懸けて人のために何か立ったことってあったのかなと。もし、もうちょっと生きれるんだったら何か人のために役に立てることがしたいなということを思って、この三つを思ったときに鎮痛剤投与されて、意識を失って、その後ですね。肺に、肺気胸という肺に穴が開いてるっていったことが分かって処置をしてもらって、僕なりに九死に一生を得たような気持ちになったんですよね。

岸田 なので、その後、1週間後に、そう思ったら、人のために、まず親孝行は生きることだと。恩返しは社会復帰することだと。誰かの役に立つっていうのは、今後、何をしようかっていったことで、そのときに初めて自分の体験を発信してみんなと一緒に頑張っていければということでブログを始めたというのがあったんですよね。

福岡 『がんノート』の前身ですね。

岸田 ありました。

福岡 精神的につらかったことは。

岸田 精神的につらかったこと、あれかな。本当にシンプルに言うと、親に応援してほしかったなっていうのがありますね。そこで治療法についてもめるっていうのは結構つらかったですね。兄貴がいてくれてすごく助かりましたけど。

福岡 そこが精神的に一番つらかった?

岸田 かなと思いますね。

情報が何もなかった、先生にも分からないと言われた――射精障害という後遺症と、一筋の光

福岡 なるほどね。じゃあ次行きますか。後遺症です。

岸田 はい。後遺症のこと。後遺症が先ほど言った性機能に後遺症が出たといったところで、性機能の後遺症で僕は射精障害という障害を患いました。正常に射精できないと。なので普通に子どもができない体になってしまったんですよね。そのときに当時の主治医じゃなくて、執刀医に連絡を、電話したんですよね。執刀医に連絡したら、原因分からないから様子を見ようということを言われて、そうなのかと。その後、インターネットで検索しても、今だと、がん・生殖医療学会というものができて、そこで情報がいろいろ出たりとかしてるんですけれども、当時、5、6年前。

福岡 5、6年前な。5年ぐらい前な。

岸田 5年以上前か。2012年、13年のときっていったところは全然そういった情報もなくて、本当にそういう射精障害についての情報が全くなかったんですよね。なので、そのときに僕は、情報もない、先生に聞いても分からないってなったときにすごくお先真っ暗のような気がして、それが苦しかった。どうしようというふうになりました。

福岡 なるよな。でもさ、もともと手術、抗がん剤をやるのに性機能に支障が出る、精子に障害が出るかもしれないからと凍結保存してるやんか。どっちにしても、あれなの。凍結保存した精子を使えば、子どもつくれないことはないわけやん。

岸田 ないけど。

福岡 射精障害っていうのは男の人のアイデンティティーとして。

岸田 そう。全然違う。ショック度が。だからさっきのいう、もっと精神的につらかったことはこれですよね。

福岡 これやな。

岸田 これが一番です。男性としての、人として、いる意味があるのかな的な。

福岡 ぐらいまで思った。

岸田 だって生殖能力を持たない男性って何のために生きてるんだろうみたいな。

福岡 でも一応、精子保存してあるわけやんか。

岸田 いや、精子保存してても使える回数って限られてるわけじゃないですか。なので、それが失敗してしまったら終わりじゃないですか。

福岡 そういうこと。

岸田 はい。しかも、その顕微授精の確率ってそんな高くないはずなので。凍結してる、してないとかそんな関係ないですね。

福岡 そんな関係ないんやな。分かった。

岸田 関係ない。

福岡 アイデンティティーとして。

岸田 すごいショックで、情報もなくて、落ち込んでました、このときは。

福岡 そうだよね。それが一番つらい?

岸田 はい。

福岡 今も治ってない。

岸田 そうなんですよね。ただこのときに、ずっと何週間も情報検索したら、たまたまブログで自分の旦那さんが同じような形になったかもしれないという方のブログを見つけて、その方に旦那さんはどうなったんですかっていうことを聞いたら、自分の旦那は3カ月して自然に治ったよっていうことを言ってくださったんですよ。そしたら治る可能性もあるんだ、この後遺症はと思ったときに、僕は一筋の光が見えたような、そんな気がしましたね。

福岡 そうだよね。

岸田 今も治ってないんですけど、もし治ったことがあったら、何年もかけて、5、6年かけて治る人もいるよみたいな、エビデンスにはならないけれども。

福岡 事例の一つとしてな。

岸田 事例の一つになればいいなと思って。そういうロールモデルとなる人たちがいてくれるっていうのはすごく僕にとってありがたくて、これが、『がんノート』をやるきっかけになりましたね。

福岡 そうだよね。自然に治ればいいんやけどな。

岸田 あざす。

福岡 もしかしたら治療法が出てくるかもしれへんやん、医療の進歩によってさ。だってまだ31やから全然若いやんか。

岸田 ですかね。

福岡 やろ。だからさ、医療の進歩で、もしかしたら治る可能性もあるわけやん。

岸田 コメントもいただいておりまして。おなかの傷はきれいに治りましたか。体調の衰えなどの面でどこが後遺症なのか判断できないことなどありませんか。そうですよね。どこまでが後遺症なのかっていうのはすごく判断できなくて、がんになった当時は体調、悪かったら転移じゃないかとかすごく怖かったりしましたね。

福岡 そうだよな。

岸田 おなかの傷はきれいに治りましたか。これですね。そうですね。おなかの傷は今は皮膚のクリニックの先生に、「おなかの傷、どうしたらよくなりますかね」って言ったら、おなかの傷、ケロイドっていうんですけど、そこに貼るようなやつがあったりとかするんですよね。それをやったらだいぶよくなりましたね。

福岡 よかった。

岸田 これ、俺、なんちゃら王って言ってる人、誰か分かった気がする。

福岡 私も分かった気がするわ。

岸田 誰か分かった気がする。

福岡 次、行こう。反省、失敗。

岸田 多分、昨日会ってるな。

福岡 昨日会ったんやな。

岸田 昨日会ってるな。

健康だと思っていたから、何も備えていなかった――保険・高額療養費・傷病手当金、がんになって初めて知ったこと

福岡 こうしとけばよかったなとかっていうやつありますか。

岸田 反省、失敗。これはシンプルにね、保険に入っておけば。

福岡 入っておけばよかった。

岸田 稚拙ですいません。保険に入っておけばよかったなっていうことと、もっと病気とか、若いからそういうこと全然知らなかったですけど、がんが2人に1人っていうことも知りませんでしたしね。そういったいろんな前もっての情報。あと一番はあれか、公的な保障に関して。例えば高額療養費制度とか、あと傷病手当金っていうのが会社員だったらもらえたりとかするんで、そういった情報とか全く知らなかったんですよね。

福岡 それ、でも、知らんと思う。私も知らんかったもん、夫が病気するまでは。

岸田 ですよね。

福岡 だから健常の人たちはみんな知らんよ。

岸田 あと、相談支援センターっていったところがあることも知らなくて、傷病手当金っていうのを教えてくれたのは、お見舞いに来てくれた人が社労士の人がいて。

福岡 そうなん。病院は教えてくれへんかったん。

岸田 病院、教えてくれる病院と教えてくれない病院があるらしくて、当時は僕、教えてもらえなかったです。今はどうなんですかね。教えてくれるんですかね。

福岡 会社かな。

野口 会社ですかね。

福岡 会社ですよね、教えてくれるのね。

岸田 多分、会社は若い会社なので。

福岡 知らなかったんですかね。

田島 申し訳ない。すいません。

岸田 若い会社なので、平均年齢が27歳とかですよね。

田島 そうですね。

福岡 そうか。

野口 病院も多分、手が回っていなくて、困っているって言われたらこういう制度があるよっていうのは出ても、なかなか全員に初めからっていうのはお伝えできてないです。

福岡 ですよね。でも傷病手当やったら会社のほうかな。

岸田 何も当時はそういった情報はあまりなかったですね。それを知っとけばよかったなっていうことです。

その熱さを、患者にも見せてほしかった――医療チームへの感謝と、岸田さんからの率直な一言

福岡 医療従事者への感謝、要望。

岸田 医療従事者に関しては本当に野口先生のような、本当に、方がいてすごく僕はありがたかったんですけれども、そうですね。いろいろ、まず感謝から言うと、大体、当時の看護師チームが25歳連盟みたいなのができてですね。多かったですよね、25歳の看護師さんたちが。

福岡 それは何、岸田君と同い年ってこと。

岸田 同い年、25歳で。なのですごく親近感持って、フランクに接してくれたというのはすごくあって、胚細胞腫瘍って珍しいがんで、その中の胎児性がんというがん、当時、一回なったときは。珍しいがんだからということで、看護師さんの1人が私、調べてきますということで調べてきてくれて、数日後、手紙をくれたんですよね。これが看護師と患者のあれかみたいな。

福岡 ラブロマンスかと思ったん。

岸田 ことをすごく思ったんです。それをぱっと広げてみたら、胎児性がんとはって書かれてて、そっちかみたいなね、ことでありました。ただ、新しいアップデートした情報っていうのはなかったですけれども、そういった気遣いというか、いろんな患者さんいるのにそういった患者さん一人ひとりを気遣ってくれるっていう、そういうものがすごくうれしかったですし、野口先生やもう一人の男性の先生のように結構フランクにちゃんと接してくださったりだとかして、本当にがん、またそれ以外のこともいろいろ相談して、後遺症じゃないけど副作用とかいろんなことも相談できたっていうのがすごくありがたいですね。

福岡 感謝しかない。

岸田 感謝しかないですね。ただ、要望としてはなんですけれども、野口先生と男性の先生と、当時はその上に指導する先生みたいな方がいらっしゃって、その先生が超ぶっきらぼうだったんですよね。

福岡 そうなんや。

岸田 超ぶっきらぼうだったんですよ。あまりコミュニケーションをうまくできなかったんですよね、僕としては。

福岡 そういう先生もいらっしゃるよな。

岸田 そういう先生もいらっしゃるじゃないですか。お医者さんあるあるだと思って。うん、よし、大丈夫、みたいな感じで。ていうお医者さんで、だから僕はちょっとその当時は取っつきにくかったので野口先生とかにすごく相談したりとか、してくださったんですね。

岸田 ただ、その先生が僕もがんセンター入職して、その先生と一緒に働くことになって、いろいろ話、聞いたら、その先生すごく勉強されてて、アメリカにまで勉強をしに行って、そしてすごい知識を持ってて、内心めちゃくちゃ熱い先生なんですよね。その熱さ、患者に見せろよと思いながら、思ったりとかね。

福岡 そうやな。

岸田 すごい、めっちゃ勉強してて、この希少がんの中では本当ね、トップレベルのすごい先生なんですよ。ただコミュニケーションがちょっとだけ下手くそなん。

福岡 でもそれってさ、岸田君が若いから見えなかったかもしれんで。もしかしたら年をくってる患者さんやと、あの先生はすごい勉強してていい先生だと思ってくれてたかもしれん。

岸田 ですって。これは多分、今の同僚なので、そういう、もうちょっとフランクに接してっていうことは変ですけど、その熱さを出してくれてもよかったかなとは思います。要望として。

福岡 要望としてな。ほぼ感謝しかないけど。

岸田 そう。ほぼ感謝しかないけどね。

福岡 はい。じゃあ次、行きますか。

支えてもらったから、支える側になりたい――がんが教えてくれた生き方

岸田 キャンサーギフト。

福岡 すいません。いってくれていい。時間が10分ぐらい多分オーバーするかなと思ってます。はい、じゃあ、キャンサーギフトをどうぞ。

岸田 キャンサーギフト。がんになって得たもの、得たこと。いっぱいありますよね。

福岡 いっぱいあるよな。岸田君はな。

岸田 ただ、がんになってなかったら、『がんノート』もスタートしてなかったですし、自分の経験を還元することができてなかったかなと。ありていに言えば、人のご縁っていうのがすごく、今も会社の上司だったりとか主治医に来てくださったりとか、会社の元上司とかいろんなスタッフとかにも恵まれてすごくありがたいと思います。ただその中で、このがんを経験したからこそ、がんになってもできることっていうのが他にもいろいろあるんだよということで、すごい可能性がある意味、広がったかなということはありますね。いろんな人からいろんなことをもらったので、僕の裏目標として実は。

福岡 裏目標?

岸田 裏目標がありまして、多分、初めて言うかもしれないですけど、いろんな人にいろんな支えてもらったので、がんって2人に1人がなるじゃないですか。じゃあ、若い人たち、僕らの世代とか今の働き世代の人たちって、30年、40年、50年後は大体がんになってると、申し訳ないけどね。

福岡 そうやな。可能性大や。

岸田 そんなときに僕が支える側になれたらなと思ってるんですよね。

福岡 支える側な。

岸田 そのために20代、当時ね、20代の頃からがんに関してめっちゃ勉強して、がんに関してすごい、いろんなことやってたら、その人がもし、がんになったときに有益なものになってるんじゃないか、自分が。

福岡 自分がな。役立つ人間になってんちゃうかって。

岸田 役立てるものに。それが僕の今の中の、さっき三つあった、恩返しの中の一つ。だから役立てる人間になれるように、思ってますね。それは裏目標として今、思ってます。

がんをオープンに語れる社会へ――団体としての夢と、個人としての夢

福岡 じゃあ表の目標、夢。

岸田 表の目標、はい。夢。

福岡 夢。

岸田 これは二つあります。個人的な目標と団体としての目標。団体としての目標としては、がん患者さんがいろんな不利益を被ったりとかして今、つらい治療もあるかもしれないし、そういったがんに関してネガティブな情報も反映してると思います。そういったものがなくなる、ちょっとでも緩和されるようにがんがオープンになる世の中になっていければなということを思っておりまして。がんがゆくゆくは何ですか。2人に1人だから、インフルエンザレベルって言ったら変ですけれども、普通にがんに関して会話、話されるような世の中になっていければなと。がんになったの?と、がんになりましたって言ったら、原因は何なの?と、食事は悪かったの?とか、不規則な生活してたんじゃないの?っていう、患者さんを自分が悪かったんじゃないかっていうふうな思いになるんじゃなくて、がんになったんですって言ったら、一緒に闘病頑張っていこうね。今、2人に1人になるからねと。今は治るように私もサポートしていくからみたいな感じで言ってもらえるような、もっとがんがオープンな世の中になっていけばいいなというのが一つと。

福岡 一つ。

岸田 もう一つが個人的には、世界2周目をしたいなと。2周目は自分が仕事をしながら世界を回って、かつ、いろんなところでがん患者さんだったり、がんの知見を吸収して、それをまた日本の社会に役立てていければいいなと。だから世界を旅しながら仕事をする。それが僕の入職したときと変わらない目標、夢っていうのは今もありますね。なので今、英語の勉強もしたりだとか、昨日も英語の小テストだったりとか。

福岡 小テスト?

岸田 英会話のね。小テストがあったりとか。

福岡 英会話の。TOEIC何点ぐらいになったん。

岸田 TOEIC、まだ測ってないです。

福岡 測ってないのね。

岸田 ただ、入職した、世界一周したときはTOEIC265点だったので。

福岡 265点でよく行くでしょう。その後、聞いたときも四百何点とか言ってたよな。

岸田 そうですね。まだまだなんですけどね。ただボディーランゲージができた。

福岡 コミュニケーションがとれればそれでいいんやけど。

岸田 ていった形になったんで。

福岡 子どもが欲しいとかさ、孫が欲しいとかっていうのないの。

岸田 子ども、もちろん欲しいと思います。なので、それは今、絶賛協議中でございますので、もし子どもができるようになったら、岸田よう頑張ったなと、お金ためたんやなと。じゃないですけど、奥さんが頑張ったんだなと思っていただければと思います。

福岡 そういう夢を持ってるらしいので、皆さんよければ応援してやってください。

岸田 応援してください。

福岡 じゃあ最後です。

Think Big――今は点でしか見えなくても、未来はきっと変わる

岸田 今、闘病中のあなたへといったところで、僕はこの言葉を。

福岡 2カメさんね。ずっと岸田君だけ抜いてるけど。

岸田 そちらですね。入れたいと思います。その言葉とはこちらになります。どん。Think Bigという言葉です。これはですね、僕が入院してたときに闘病ノートみたいなものを作っておりまして、入院してお見舞いに来てくれた人にいっぱいメッセージを書いてもらったんですよね。そのときの一つの言葉で、僕が就活中にお世話になった人生の先輩の言葉になります。Think Bigと。大きく考えろと。人生で起こる全ての出来事には意味があるから、徹の10年後にはメッセージ、あふれているから頑張れという言葉をくださった人がいらっしゃいます。僕はそのときに25歳という、この抗がん剤治療の点として見ていて、つらいと、なんで自分ががんになったんだ、もうどうしたらいいのか分からないという、点でしか見てなかったんですけれども、そっかと。10年後、また20年後、30年後見たときに、もっと大きなスパンで見たときにこの経験がいろんなところに役立つようになってて、そして10年後、20年後には笑ってる生活が待ってるかもしれないと。つらいと言ってんじゃなくて、もっと広げた視点で見たときに、ちょっと気持ちが楽になったんですよね。なので、僕はこの言葉、今はつらい、皆さんもつらいかもしれないですけれども、もしっていうか、この治療が終わった後を想像してもらって、そのときにあの経験よかったかもしれないとちょっとスパンを大きく見てもらえるとすごくうれしいなということで、このThink Bigという言葉を入れさせていただきます。

福岡 必ずよくなるから、もうちょっと長いスパンで見てねっていうことね。

岸田 そうですね。よくなる可能性があるから、そういったところも大きなスパンで見てほしいと。

福岡 そうね。未来はどうなるか分かんないからね。

岸田 そうですね。今だって、僕も当時から見たらこうなってるなんて全然思ってもみなかった。

福岡 そう。思わないでしょう。あのつらそうにしてた写真から今はこうなってますからね。

岸田 といった形ですね。なので頑張って一緒に生きましょう。

福岡 そう、頑張りましょう。

岸田 われわれも頑張っていきますので、ということを思っております。

福岡 ありがとうございます。ではですね、会場の皆さん、岸田君に何か質問とかありますか。後でまた。

岸田 この後ね。放送後に。

福岡 放送後でもう一度、話はしますのでそのときにでも。ネットからなんか来てる。

岸田 ネットから。泣けるエピソード。大きくもあり、もっと寄り添ってくれるものでもあり、本当にすてきな夢ですね。私もそう思います。ありがとうございます。Think Big、胸に刻みますと。僕はTを胸に刻もうと思ってYになってしまったんですね。今は何王なんですか。いや、これ。こら、ぐっち。おい、ぐっち。ぐっちさんっていうね、今、胆管がんでキャンサーペアレンツというものを代表されている方なんですよね。今は何王なんですか。

福岡 今、何王やろな。すべり王かな。

岸田 今、『がんノート』を頑張っている王でね。がんと生きていきたいと思います。

福岡 一応、岸田君のインタビューはこれでいったん。

岸田 いったん終了していきたいと思うんですが、僕から。こういった、『がんノート』の活動といったところは皆さんのあれになると思うんです。皆さんのご寄付でも活動しておりますので、ぜひホームページのほうからクレジットカードですぐ入れれるようになっておりますので、もしよかったらこの活動にもいっぱいお金が要りますので、ぜひいただければと思います。多分、田島さんはこの後、してくれるんだと思います。

岸田 そしてですね、協賛企業さんとして山口県のリフォームマイスター周南、ペイントマイスター山口を運営されております防長工務様、そして『「生きる」を創る』のアフラック様、そして世界的グローバル企業のIBM様にもご支援いただいております。ありがとうございます。

岸田 そして来月、次回は2月9日ですね。土曜日。乳がん経験者の三好英理さんをゲストに愛媛でやって参りますので、愛媛でやってきたいと思います。またホームページやFacebookにもアップしますので、ぜひ愛媛にいらっしゃる方、四国にいらっしゃる方は集まっていただいて、終わってから懇親会も予定しておりますのでぜひ見ていただきたいなということを思っております。

岸田 そしてですね、ちょっと発表に行く前に感想も聞いてもいいですか。

福岡 感想をね。ちょっと待ってな。私がさっきちょっと言ってしまったから。

岸田 逆に当時の主治医の野口先生に当時のことを考えてとか、今とか感慨も含めてじゃないな。メッセージを最後に一言いただけないでしょうか。

野口 そうですね。医者としては患者さんが元気に過ごしてるっていうのが一番で、その中でできることを続けていくっていうのは大事ですし、逆に伝えておきたいのは、こういう活動をしてるからって頑張り過ぎることじゃなくて、反省のところでもゆっくりやればよかったっていうのがあったと思うんですけれど、できることをやって、何ていうのかな。頑張り過ぎないっていうことも大事だよって言いつつ、活動を応援していきたいなと思っています。

岸田 ありがとうございます。

田島 そうですね。まず岸田君が、当時、岸やんって呼んでたんで、岸やんがこんなに前向きに頑張ってて、社会貢献してて、これからもって先に夢もあって、本当にここまで回復してやってくれてるのはすごくうれしいですね。それしかまずないですね。一方で、会社の上司っていうか会社の同じメンバーとして、僕もここまで大病を患ったメンバーと一緒に仕事をしたって初めてだったので、おかげさまでというか、その後もちょっと体調が悪くなったりしたメンバーとかもいたんですけど、なるべく早めに気付いてあげられるようになったかなとか、すごく僕自身も勉強させていただきました。それも含めて、会社としてと、じゃあ、組織どうしてこうかとか、この辺りもちゃんと考えていかなきゃなっていうのもあって、本当に岸田君からいろいろ学ばせていただきました。ちゃんと応援もさせていただきます。

岸田 ありがとうございます。

佐藤 私は、『がんノート』で今も毎日のように岸田君とコミュニケーションしてるので、あらためて何を言ったらいいのかなっていうところはあるんですけれども、私自身は岸田君と、がんになる前、仲良くさせてもらっていたものの、がんになったって聞いたときに何をしてあげたらいいか分からなくて、私自身がなったときにそんなに人に会いたくないなと私は思ったので、岸田君も会いに行っても迷惑かなとかいろいろ悩んでしまって行動ができなかった。それを反省していて、実際、お金に困ったっていう話とかを聞くと、あのとき連絡してお金貸してあげたらよかったなとか、そういう思いもあって『がんノート』を手伝っているので、これからも岸田君と一緒に『がんノート』を大きくして、岸田君の夢をかなえる手伝いをしていきたいなと思います。

岸田 ありがとうございます。

岸田 コメントからもいただいて。Think Big、スクショ撮りました。私も今は点でしか考えてないですが大きくとらえようと思います。今はね、無理に考えなくていいですよ。また先になったときに、またあの経験があったんだということを思ってもらえる日がいつか来ると思うので、無理に思わなくていいと思います。きょうは普段と違ったスタイルでしたが、きょうも本当に楽しく充実した時間を過ごさせていただきました。ありがとうございました。岸田さんのお話が聞けてよかったです。健康診断を積極的に受診することを周りに伝えましょう。『がんノート』、応援してますということもいただきました。

福岡 ありがとうございます。

岸田 ありがとうございます。これからも『がんノート』、頑張っていきますのでぜひよろしくお願いします。そして最後にですね。こちら、ダダン。重大発表がございます。何かと申し上げますと、これは僕から言うんじゃなくて佐藤さん、重大発表をお願いしてもらってもいいですか。

佐藤 この状態でいいのかな。

福岡 大丈夫です。

岸田 この状態で大丈夫です。

佐藤 はい。田島さん、ちょっとマイク持ってもらえます。

田島 はい。

佐藤 『がんノート』、スピンオフ企画をこれからやります。

岸田 スピンオフ企画、何かと。

佐藤 何かと言いますと、私、シュガーさんががんになりました。というものを明日から放送しだします。

福岡 YouTubeの動画でアップします。

佐藤 YouTubeの動画で出します。12月26日、先月ですね。私が子宮頸がんのステージ1なんですけども、っていうことが分かりました。ちなみに明日、おっきな手術をするので、皆さん、取りあえず元気玉的な感じでパワーをいただければと思っています。

岸田 明日、手術を控えてるっていう。

佐藤 なので手術のバングルもね、今、着けてるんですけども。

福岡 今、入院中です。

佐藤 『がんノート』って手伝わせてもらってるんですけど、時間がたってからインタビューで忘れてしまうことって多いなっていうのも思っているので、私も多分すぐ忘れちゃうので、なるべく純リアルタイムに情報を発信していくと面白い企画ができるんじゃないかと思って、岸田君と2人で動画を撮り始めているので、それを明日から徐々に放送していきますので、YouTubeでぜひ見てください。

岸田 ありがとうございます。

福岡 ありがとうございます。

岸田 スタッフもがんになるっていうね。そんないろんなハプニングがありながらやっていけたらと思いますので、今ね、頑張って。頑張ってください。手術、頑張ってくださいと。パワーパワーパワパワパワパワパワーっていうね。

福岡 ぐっちさん。

岸田 元気玉と。お初ですが応援してますというような言葉もいただいております。全て、きょうの放送をシュガーさんが持ってくと。

福岡 そうですね。

岸田 というところできょうは終わっていきたいと思います。どうも、『がんノート』、ご視聴いただきましてありがとうございました。

福岡 ちょっと待って。最後にさ、岸田君の感想を言って。

岸田 僕の感想。

福岡 僕の感想を言って。

岸田 けど、感慨深いです。本当に。主治医と上司と同僚、来ていただいて、すごい本当にきょう来てくださってありがとうございますということと、もっといろんなね、今後も仲良くしていきたいなと。

福岡 今後も仲良く。いいや。

岸田 けど、すごい、当時は自分が発信するとか、そういうことって全く思ってなかったので、すごく本当にいろんな人に恵まれてできているなと。この気持ちを大切にして今後も続けていきたいなと思っています。

福岡 分かりました。きょうのゲストは岸田徹さんでした。

岸田 はい、どうも。ありがとうございました。

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