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インタビュアー:岸田 / ゲスト:麻倉
歌手・麻倉さんプロフィール|大阪出身、集中力を活かした趣味と現在の活動
岸田 では、今回のゲストをご紹介します。麻倉さんは、大阪出身で、現在はK県にお住まいです。もちろん、歌手としても知られています。先日もテレビに出演され、歌唱されていました。趣味の一つに「ボタニカルクレモラート」がありますが、これは一体何なのでしょう?
麻倉 ボタニカルは植物のことなんですけど、今は自分で描くことはできないんです。私は、先生が描いた植物の絵をトレーシングペーパーで写して、それを元に判を作っていくんです。例えば、麻倉とB、Cという花があったら、麻倉とBが同じ色というように、その部分をくり抜いて、色をつけていきます。実際に、花びらを描いて、穴を開けて色を塗るんです。
岸田 オシャレですね!
麻倉 いや、そんな大変なことしなくてもいいんじゃないかって思うんですけど。でも、集中するのが好きなんで、性格にぴったりなんです。普通のクレモラートだと、飽きちゃうかもしれませんね。
岸田 なるほど、だからボタニカルがいいんですね。
麻倉 そうなんです。
ですが、最終的には自分の体調や治療の進行状況を正直に伝えることが、周囲の理解を得るために最も重要だと感じました。それに、自分が公表することで、同じようにがんと闘っている人たちに少しでも勇気を与えられたらと思ったんです。
岸田 公表後、どんな反応がありましたか?
麻倉 公表した後、たくさんの方から励ましの言葉をいただきました。特に、がん患者の方々から「私も同じように頑張っているよ」といった言葉をもらったことが本当にありがたかったです。また、周囲のスタッフや仕事関係者からもたくさんのサポートを受けました。何より、ファンの皆さんの支えが一番大きかったです。
乳がん同時再建の実際-歌手が選択した治療法と仕事との両立
岸田 では、がんについてお話を伺いたいと思います。麻倉さんは乳がんを経験され、ステージ2で57歳の時に告知を受けました。現在62歳で、治療方法としては手術と薬物療法を受けているということです。それでは、麻倉さんのペイシェントジャーニーについてお伺いしていきたいと思います。これまでの経緯をお話しいただけますか?
麻倉 はい、デビュー35周年が2016年でしたので、2023年でデビュー40周年になります。あっという間ですね、40周年。
岸田 すごいですね。デビュー35周年の頃に乳がんが発見されたということですが、その経緯について詳しくお伺いできますか?
麻倉 はい、実はデビュー35周年のときに父が入院して大きな手術を受けていたんです。私は35周年でかなり忙しくて、年齢的にも人間ドックに行って自分の健康をチェックしようと思っていたんです。来年の2017年には、どのくらい仕事を増やすか調整したいと思い、事務所にもそのように伝えていました。しかし、父がICUからなかなか出られなかったので、タイミングを逸してしまいました。そのまま年を越し、2017年に入ってしまいました。どうしようかなと思っていたとき、番組の方から健康診断を受けないかというオファーがありました。番組は以前から知っていたので、「受けませんか?」と声をかけられました。どうするか迷ったのですが、事務所は絶対に私が断るだろうと思っていたんです。しかし、私は「ちょっと待って、人間ドックに行けていないから、受けてみようかな」と言いました。事務所としては私が受けることでうれしいとは思ってくれていたのですが、健康診断で管を通す必要があることに少し戸惑っていました。
岸田 健康診断を受けるために、さらけ出さなければならない部分もあったわけですね。
麻倉 そうですね。それでも「そんなこと言ってられないから」と思い、手を挙げた結果、乳がんが見つかりました。その後、人間ドックに行こうと思っても、父が落ち着くまで時間がかかり、ちょっと遅くなったかもしれませんが、最終的にギリギリで見つかりました。
岸田 見つかった時、乳がんらしきものがあると伝えられた時、動揺はなかったのでしょうか?
麻倉 動揺するというより、鎮静剤が効いていたのでぼーっとしていました。そのため、実際にはよく分かっていなかったんです。先生が焦っているのを見て、「きっと私は理解していないんだろうな」と思いました。健康診断が終わった木曜日、先生から「来週すぐに来れますか?」と言われました。私は久しぶりにバレエに行けると思って、月曜日に行こうとしていたんです。「水曜日なら来れます」と言ったところ、先生は「この人は絶対に分かってないな」と思ったようで、木曜日から日曜日までどう伝えようか悩まれていたと思います。最悪の状況を考えた先生は、月曜日の朝に事務所に電話をかけてくれ、そこで初めて「これはただ事ではない」と認識しました。
岸田 そのときは、あまり深刻に感じていなかったのですね。
麻倉 そうですね。実際に病院に行ってもう一度確認したとき、「大ごとです」と言われて、ようやく理解しました。
岸田 そこから、大学病院での診断を受けたということですね。
麻倉 はい。クリニックでは生検ができなかったので、先生が私がクリニックに行った時点で水曜日に大学病院の予約を取ってくれました。大学病院で詳細な検査をしてもらい、その時点で手術の話がありました。さらに、その週の水曜日にT病院に紹介していただき、そこで再度「良性の可能性はないですか?」と聞いてみたんですが、先生からは「これだけはっきり写っているのは悪性ですね」と言われました。その後、その日に生検をして、翌週にがんの告知を受けました。
岸田 がん告知を受けた時、どんな気持ちでしたか?
麻倉 その時は、しっかりと受け止めなければいけないと思いました。実はその時、番組のディレクターがT病院の外で待っていたので、自分の現状をしっかり伝えるためにも、きちんと受け止めようと思いました。告知を受けてからは、この先どうするかをしっかり考えなければならないという思いが強くなりました。
岸田 その後、事務所にがんのことを公表するかどうかが重要な選択だったと思いますが、どのように決断されましたか?
麻倉 はい、公表するかどうかは重要な決断でした。公表すると、私の仕事にどんな影響が出るのかも考えました。番組の枠が20分から30分くらいだったので、もし私が公表しないと、他の方がその枠を引き継ぐことになる可能性がありました。そこで、私はすぐに公表することを決め、事務所に伝えました。その後の対応は、皆さんに任せることにしました。
岸田 その後、転院することになった理由は何ですか?
麻倉 はい。T病院はH市にあり、私はF市に住んでいるため、通院が非常に大変でした。治療法を進めるためにはタイプが分からないといけないのですが、私はすでに「ルミナル麻倉タイプ」というタイプだと分かっていたので、治療法を選択することができました。放射線治療が必要になった場合、F市からT病院まで毎日通うことは非常に体力的に負担になるため、近くの病院に転院することに決めました。
岸田 すごい早かったんですね。
麻倉 早かったんです。だから、先生もかなり急いで対応してくださったのかなと思っていて、それは本当に感謝しています。検査には番号がついているので、「もう結果が出ているな」というのがその場で分かったんです。すぐに、今診てもらっている先生の予約を取りました。そのとき、私は「どうせ3カ月は待たないといけないだろうな」と思っていたんですが、たまたまキャンセルが出ていたようで、偶然にもすぐに枠が取れました。もちろん、芸能人だからといって特別扱いされたわけではなく、私は一般の方と同じように予約センターに電話していただけです。
「その日しか空いていません」と言われたので、「じゃあその日に行きます」と即答し、すぐに事務所に連絡しました。「その日は病院に行くので、入っている仕事は断ってください」とお願いして、スケジュールを調整してもらいました。
岸田 強引に、たまたまね。
麻倉 そうですね。本当にたまたまだったんですけれども、そうやって偶然にも空いてたので、でも、今の病院に転院したときも、まだ病気のタイプが分からなかったので、すぐに治療に入れませんでした。
岸田 ただ、その後、病気のタイプが分かる。
麻倉 はい。
岸田 そして、がんを公表していったんですね。
麻倉 はい。
岸田 どうでした?病気のタイプが分かったことは、ポジティブになってますけど。
麻倉 そうですね。私のがんは「ルミナルA型(※麻倉タイプ)」と呼ばれるもので、比較的おだやかな性質で、顔つきも“良い”タイプだと言われています。進行もゆっくりで、私の場合は抗がん剤ではなく、ホルモン治療が適しているだろうという判断でした。ただ、ホルモン治療にもどんな副作用が出るかはその時点では分かっていませんでしたが、「抗がん剤ではない」と分かったことで、「では、どのように仕事と治療を両立していくか」ということを先生と前向きに相談できるようになりました。そういった意味で、先が少し見えた感覚がありました。とはいえ、これは手術をしてみないと最終的なタイプの確定はできません。手術前の診断が間違っている可能性もゼロではなくて、もし違うタイプだったら、放射線治療など他の治療法が必要だったかもしれません。結果的には、手術後の生検でも同じタイプ(ルミナルA型)だったので、今も引き続きホルモン治療を続けています。振り返って思うのは、「がんのタイプが分かると、こんなにも見通しが立つんだな」ということです。それまでは治療方針すら定まらず、本当に「どうすればいいのか分からない」状態でした。まさに八方塞がりってこういうことか、と思いましたね。今まで経験してきたどんな困難とも違う、本当の意味での「先が見えない」という感覚を味わった瞬間でした。
岸田 そこでようやくタイプが分かって公表されると。公表されるときは結構、緊張とかしました?どんな感じだったんでしょう?
麻倉 正直、「がんになった」と公表することにはリスクがあるなと思っていました。というのも、「麻倉さん、がんなんでしょ? だったらちょっと仕事は難しいよね」と、仕事から外されるケースって、やっぱりあるんじゃないかと考えていたからです。
でも実際には、皆さんがずっと待っていてくださっていたことが、後から本当にありがたく感じられました。
とはいえ、公表するとなるとやっぱりドキドキしましたね。世間がどう受け取るのか、正直すごく不安でした。
ただ、公表してからは本当にたくさんの方から連絡をいただきました。特に事務所には電話がひっきりなしにかかってきて、しばらく電話回線がふさがっていたほどだったそうです。ご迷惑をおかけしてしまって申し訳なかったです。
中には「こういう治療法があるよ」「こういう情報もあるよ」といった内容を教えてくださる方もいて、私自身にはアーティストの友人たちから「元気にしてる?」「会って話したい」とたくさん連絡がありました。
みんな心配してくれて、「とにかく会わないと安心できない」と言ってくれて、結果的に予定がぎっしりで、逆にちょっとくたくたになってしまったくらいです。
岸田 そんな中、そこから体調が下がっていきます。何かと申しますと、こっから手術受けていくんですよね。乳房同時再建手術をしていくというふうなこと、手術どうでした?
麻倉 手術は本当に私、盲腸の手術しか経験がないので。
岸田 そうなんですか。盲腸が初。
麻倉 それは、私が10歳くらいのときのことなので、正直あまりはっきりとした記憶はないんですが、前日に入院して、「ここから逃げ出したいな」と思ったのは覚えています。「この先どうなるんだろう」っていう不安がすごくありました。結果的には、「終わってみればそんなに大したことなかったかな」と思えるんですけど、それでもやっぱり、手術の先にどんなことが待っているのかは見えなくて、それに対して自分がちゃんと向き合えるのかどうか、不安はありました。そんな中で、手術前に先生に「先生、私いつから歌えますか?」って聞いたんです。そしたら先生が「3日後には歌えるよ」って。入院中の3日間が過ぎたら歌えるっていう、その言葉がすごく前向きに感じられて、安心できました。だから、「ちょっと不安だけど、恐る恐る受けてみようかな」っていう気持ちで手術に臨んだのを覚えています。
岸田 そして、麻倉さんのグラフは下がって、そっからまた上がる。なぜですか?
麻倉 その時点で、自分のがんのタイプもだいぶはっきりしてきていました。通院中はほぼ毎日のように先生と顔を合わせるので、体調のことや仕事の予定など、いろいろなお話ができるんです。「体の調子どう?」とか「仕事はいつから始めるの?」と先生が聞いてくださって、私が「7月〇日から始めます」と答えると、「じゃあ頑張ってね」と励ましてくれたりして。そういう日常的なやり取りがありました。当時は、感染症を防ぐために毎朝たまった血を抜いてもらいに行っていたんですが、実は父も同じ時期に入院していて。父のほうにはなかなか会いに行けなかったんです。先生に「お見舞いに行くにはどうしたらいいですか?」と相談すると、「お父さんが感染症なら、病院の指示に従って行動してね。帰るときは必ず手洗いをして」と丁寧に教えてくださいました。体力がもう少し戻ってからのほうがいいというアドバイスもいただいて、そういった気遣いのおかげで、通院もあまり苦にならなかったんです。病院も家から近かったですし。ただ、一度だけタクシーに乗ったとき、車が揺れるたびに手術の傷口がズキズキと痛んで、「これは失敗だった!」と強く思いました。がんがんバウンドして、本当にきつかったです。
岸田 なるほど・・・
麻倉 それで運転手さんに「すいません。術後なんで、もうちょっとスピード落としてもらっていいですか」って言ったら、「あ、」とか言われて。そうすると、楽だったんですけど。車種によるんだなっていうのが後で分かりました。
岸田 そして、ここから治療方針が決定していき、食塩水注入とありますけれども、こちらについても少しお伺いしてもいいですか。治療方針決定っていうのはどういう感じなんです?
麻倉 生検の結果がすべて出そろい、「ルミナルA型の乳がん」であることがわかりました。今後はホルモン治療を中心に進めていく方針で、抗がん剤は使用しないことになりました。そのため、これからは3カ月ごとの通院をお願いしたいと言われました。私はエキスパンダーを入れているため、通常よりも頻繁に、2週間ごとに通院しています。あるとき、血液検査で先生が針を刺したときに「あっ」と声を上げたので、「先生、どうかしましたか?」と尋ねたところ、「透明な液が出てきた」と言われました。おそらく、針がエキスパンダーに少し当たってしまったのだと思います。先生は「ごめんなさい」と謝ってくださいましたが、私は「全然平気です」と伝えました。その後、「念のため、形成外科の先生にも相談しておきますね」と言われ、くぼんだ部分には生理食塩水を入れるかどうか、といった話になりました。
岸田 そういうことですか。まず初めてというか、ご存じでない方のためにね、エキスパンダーの説明をいただけますか?
麻倉 私の場合、エキスパンダーは「大胸筋の裏側」に入っているんです。いわゆる美容整形のように胸を大きくする目的ではなく、乳腺がない部分を再建するために、大胸筋を使って土台をつくる方法なんですね。そのため、まず大胸筋の裏側にエキスパンダーを入れ、少しずつ筋肉を伸ばしていく必要があります。だから私は2週間ごとに病院へ行って、エキスパンダーに生理食塩水を少しずつ注入して膨らませているんです。筋肉って伸びたり縮んだりする性質があるので、せっかく膨らませても、少し減ってしまうこともあります。でも、中に入れているのは生理食塩水なので、体には害はありません。あるとき、ちょっと減ってきたかなと思っていたら、「病院に来てください」と連絡があって、「はい、分かりました」と答えました。
岸田 それは自己判断なんですね。
麻倉 もう自己判断です。最初は2週間ごとに通っていたんですけど、だんだん縮んできたのを感じて、「じゃあ、先生、1週間ごとに通おう」と言いました。「分かりました、1週間ごとにしますね」と先生が答えて、1週間ごとに通い始めました。私が常に病院に行っていたので、患者さんたちが安心してくださったみたいで、私がちょっとしたマスコットのような存在になった感じです。
岸田 ありがとうございます。そこから少しずつ回復していくんですね。次は乳房再建入れ替えの日程が決まるとのことですが、これはエキスパンダーで膨らませた後、どうなったのでしょうか?
麻倉 はい、エキスパンダーをインプラントに入れ替えるため、再手術が必要です。同時再建にした理由は、麻酔の回数を減らしたかったからです。普通の麻酔では挿管時に喉に傷がつく可能性があるので、歌えなくなる可能性があるんです。先生は通常の挿管法を使いたかったようですが、私はそれが嫌で、乳腺の主治医に相談して、私に合った麻酔法を使うことにしてもらいました。手術中に体を起こさなければならない場合、挿管が外れてしまうことがあるため、その点で麻酔科の先生がずっとそばについていてくださったんです。退院後すぐにその対応がなされました。
岸田 そのような配慮をしてくださったんですね。
麻倉 はい、そうです。
岸田 そして乳房再建の手術が決まるわけですが、その後、ホルモン治療をストップする必要があるということですね。
麻倉 はい、手術前にホルモン治療を一時的に休止しなければなりませんでした。
岸田 それでは、退院後のリハビリについて教えてください。
麻倉 乳腺の手術後、肩から上をあまり上げないように言われていました。私はエキスパンダーを入れているので、肩から上を上げられませんでした。筋肉が固まらないようにするため、リハビリが必要でした。最初は自分でやっていたのですが、手を伸ばして取るだけで筋肉が引っかかってしまい、痛みが出ることがあったんです。それで、先生に「リハビリをお願いします」と言って、理学療法士の先生にお願いしました。寝ているだけの地味な作業でしたが、腕を動かしやすくするために、少しずつ伸ばしたり上げたりしました。
岸田 リハビリでは、腕を上げる運動などをされていたんですね。
麻倉 そうです。リハビリを受けることで腕の動きが少しずつ改善していきました。最初は衣装を着るのにも時間がかかり、マネージャーに手伝ってもらうこともありました。1人で着られるようにするため、もう少し通院を続けました。1年ぐらい通いました。
岸田 1年ほど通って、リハビリが終了した後、体調はどうでしたか?また、副作用についても教えてください。
麻倉 ホルモン治療を始めてから1年くらいは、副作用はほとんど感じませんでした。しかし、その後、関節痛や更年期の症状、ホットフラッシュなどが出てきました。特に物忘れや倦怠感がひどくなり、朝は元気だったのに、1時間後には急に体調が悪くなったりしました。それが副作用だと気づいたのは、後になってからです。最初は指の腱鞘炎かと思っていたのですが、だんだん足の指にも痛みが出て、これは副作用だと分かりました。
岸田 副作用はすぐには来ないこともあるんですね。
麻倉 そうですね。すぐに副作用が出る方もいれば、私は1年くらい経ってから出てきました。運動不足が影響したのかもしれませんが、今も体を動かすことが難しい状況です。それをどう解決するか、できないことは諦めていくしかないとも感じています。
岸田 副作用も続いているんですね。
麻倉 はい、そうですね。
岸田 ありがとうございました。他の方から質問を頂いています。Rさんからは「麻倉さん、リンパ節郭清はされなかったんですか?」という質問がありました。
麻倉 はい、私はリンパ節郭清はしていません。手術中にセンチネルリンパ節生検を行い、その結果、リンパに転移していないことが分かりましたので、リンパは取らなかったんです。
岸田 ありがとうございます。最後に、再建をして良かったこと、良くなかったことについて教えてください。
麻倉 再建の方法によって違いますが、私は自家再建ではないので、できないことがいくつかあります。例えば、うつ伏せになれないことや、荷物をあまり持てないことです。特に左側の筋肉が弱ってきているので、なるべく荷物を持つようにと言われています。でも、右手ばかり使ってしまうので、右手がどんどん太くなってきているんです。
岸田 気をつけないといけないですね。
麻倉 はい。
岸田 食事に関しては、気を付けていますか?
麻倉 気を付けたいけど、気を付けられないですね(笑)。
岸田 なるほど(笑)。
麻倉 食いしん坊なんで(笑)。
乳がん術後の生活の変化|移動・買い物・服選びで直面した課題と解決策
岸田 大変だったことを乗り越えた方法について、少しお伺いします。麻倉さんが辛かったとき、困ったときにどう乗り越えたのか、教えていただけますか?
麻倉 本当に手術後は、どうなるのか分からなかったので、特に女性としては下着のことなど、いろんなことをネットで調べるしかなかったんです。病院の看護師さんたちも乳がんを経験した方がいらっしゃってアドバイスをくれるんですけど、その時はまだ情報が少なかったんですね。今はたくさんの情報がありますけど、私はiPadを持ち込んで、入院中は暇だったので、ずっと乳がんに関する情報を検索していました。外科の手術だから、翌日から普通食が食べられて、元気でした。
岸田 いろいろな方がいる中で、麻倉さんはネットで調べたりしていたんですね。
麻倉 そうですね。退屈しのぎにもなりましたし、実は入院中でも仕事のやりとりをしなければならなかったので、ほぼiPadでメールの返信をして、事務所にもLINEを送りました。その際、看護師さんが検温に来たとき、私がまだiPadを見ていたら、驚いた顔をされて、「すいません、後で来ます」と言われたこともありました。
岸田 入院中、結構忙しくしていたんですね。
麻倉 はい、術後は痛みがあったり、買い物に行くのも片手でしか物を持てなかったりしました。なるべく車で出かける範囲で物を買いに行くようにしていましたが、それでも大変でした。また、着替えができないので、誰かに手伝ってもらうことが多かったです。
岸田 1人でできないことがあって、それが少しストレスになったんですね。
麻倉 はい、そうです。私は普段から何でも1人でやりたいタイプなので、それがちょっと辛かったですね。
岸田 その後、少しずつ回復してきたんですね。さて、視聴者からもいくつかコメントが届いています。『私も再建しました』という声や、『気持ちが落ち込んでいました』というコメントがありました。病院にWi-Fi環境はありますか?
麻倉 私は自分のWi-Fiを持っています。仕事上、いろんな場所に行くので、Wi-Fiを持っていたんです。病院にはWi-Fiがなかったと思います。今は分からないですが、私が入院していた時は、病院にはWi-Fi環境がなかったです。
岸田 なるほど、持ち込んでいたんですね。
麻倉 はい、そうです。
岸田 あと、自転車に乗れなくなったという方もいらっしゃいますね。バウンドってどういう意味ですか?
麻倉 あ、いや。多分ずっと同じ姿勢でいることができないんですね。例えば、ずっと同じ姿勢を取ることができないということだと思います。
岸田 なるほど。
麻倉 そのため、体を動かすことが辛いと感じることもあります。
岸田 麻倉さん、大丈夫ですか?
麻倉 実は、同じ姿勢でいることが苦手で、肩甲骨が固まっていたんです。パーソナルトレーニングの先生がリハビリをしてくれて、肩甲骨を柔らかくしてもらいました。そのおかげで、以前より動けるようにはなったんです。ただ、自転車に乗るのは怖くて、乗っていません。
岸田 なるほど。逆に高級車ばかり乗っているのかなと思いました。
麻倉 いえ、実は私はフィットに乗っています。
岸田 すみません、勘違いしていました!
麻倉 いえ、全然大丈夫です(笑)
病室で歌い続けた意味-「声に出すことで心を軽くする」乳がん体験者からのエール
岸田 では、そんな麻倉さんから最後にメッセージをいただいております。こちらです。
麻倉 はい。「心の声、勇気を出して外に出してみましょう!」というのが、私自身が実感したことです。私は歌手なので、入院中も個室でよく歌っていました。もちろん小さな声で歌っているつもりだったんですが、実は看護師さんたちは私の歌が終わるのを外でそっと待っていて、歌い終わると部屋に入ってきて、「いい歌を聴かせていただきました」と声をかけてくださったんです。びっくりしましたが、少しだけ誇らしくもあって(笑)、無意識ににらみを効かせていたかもしれません。でも、それくらいの気持ちがあってもいいのかな、と思ったんです。その経験を通して、「声を出すことって、やっぱり大事なんだな」と強く感じました。がんの種類によっては、声を出すのが難しい方もいらっしゃると思います。でも、実際に声を出さなくても、「声を出したい」と心の中で思うだけで、喉のあたりが動く感覚があるんですね。そうすると、なんとなく気持ちが少し発散されたような気分になれるんです。がん患者は、つい内にこもりがちです。私もそうでした。特に治療が始まると、心もどんどん内向きになってしまう。でも、そんなときこそ、思い切って気持ちを外に出すことで、心の中のしんどさや悩みが少しやわらぐような気がしています。だから私は、ステージに立つとどんどん元気になるんです。もちろん、終わった後には体に痛みが残ることもありますが、それでも「ああ、これってそういうことなんだな」と実感するんです。たとえば、船酔いってみぞおちがきゅっと締まっていると起こりやすいんですけど、笑ったりしてふっとそこを開いてあげると、船酔いしにくくなる。それと同じような感覚で、歌うことで気持ちが開放されて、心の重さがふっと軽くなるような気がします。治療中は本当にいろんな方がいらっしゃいますが、私の経験が少しでも誰かの支えになればと思っています。
岸田 そのために、麻倉さんもさまざまなサポート活動をされているんですね。
麻倉 はい、今、NPO法人麻倉という団体の顧問をしています。もともとピンクリボンFという活動を立ち上げた際、啓発活動が限られた人々にしか届かないと感じました。それだと広がらないなと思い、音楽を通じてがんの啓発をし、例えば乳がんについて知ってもらい、広げていくべきだというコンセプトで始めたんです。この3月30日にはそのコンセプトに基づいたコンサートを開催します。コロナの影響でまだ完全に回復していませんが、少しずつコンサート会場に皆さんが来られるようになってきたので、歌うことはできなくても心の中で歌ってもらえるといいなと思っています。がん患者さんだけでなく、ご家族にも届けたいメッセージです。うちの主人も、私ががんを克服したら全てが治ると思っていたので、説明をしっかりしました。また、テレビでがん特集を見たとき、私が「これが副作用だ」と話したところ、周りの人から「治ったんじゃないの?」と言われ、そうではないことを説明することができました。テレビはこういった情報発信にも使えるんだなと、初めて実感しました。
岸田 発信の仕方がとても重要だということですね。
麻倉 そうですね。偶然ですが、食事しながら見ていたがん特集でホルモン治療の副作用について触れていて、私もその部分をお話しできる機会がありました。体験を少しずつ共有する場所を作っていきたいと思っています。
岸田 麻倉さん、これからもがんの啓発活動にご協力いただき、本当にありがとうございます。
麻倉 いえ、こちらこそ。私の年齢よりも、特に働き盛りで子育てをしている世代の方々の方が、もっとたくさんの悩みを抱えていると思うんです。学校に通わなければならない子どもがいたり、いろんな悩みがあると思うので、そうした部分でも支援できればと思っています。
岸田 ありがとうございます。もうお時間が迫ってきましたので、麻倉さん、いろいろなペイシェントジャーニーをお聞かせいただきましたが、私自身、麻倉さんの言葉に励まされ、もっと頑張ろうと思っています。
麻倉 私の言葉でお役に立てたなら嬉しいです。
岸田 本当に楽しかったです。どうもありがとうございます。
麻倉 こちらこそ、ありがとうございます。ためになったんでしょうか。
岸田 なりました、絶対に。
麻倉 ありがとうございます。
※本ページは、経験者の体験談を扱っております。治療法や副作用などには個人差がございますので、医療情報に関しましては主治医や、かかりつけの病院へご相談、また科学的根拠に基づいたWebページや情報サイトを参照してください。
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