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インタビュアー:岸田 / ゲスト:山村

「好きなドラムが叩けなくなった理由:治療後遺症と向き合う相談支援専門員の素顔」

岸田 では改めて、今日のゲスト・山村さんに自己紹介をお願いできますか?

山村

山村彰と申します。出身は東京都で、今も東京在住です。以前は大阪や福岡に住んでいたこともあります。現在は、障害福祉サービスの相談支援専門員として働いています。高齢者の分野でいうケアマネジャーに近い仕事です。

趣味はドラム、テニス、野球などでしたが、今はちょっと事情があってできなくなってしまいました。

岸田 今はできなくなった、その理由は何なんですか?

山村 後ほど詳しくお話ししますが、脳幹梗塞を患ってしまい、足がうまく動かなくなったんです。ドラムは足でリズムを取るので難しくなり、テニスや野球もフットワークが必要ですから、今はあまりできていません。

岸田 ちなみに、好きなドラマーはいますか?

山村 そうですね ドラム…ご存知の方もいるかもしれないですけど、TOTOっていうバンドの

岸田 TOTO?

山村 外国のバンドですけど、そこのジェフ・ポーカロさんだったりとか、日本だとスピッツのドラマーの崎山さん、それからMr.Childrenのドラムの鈴木さんが好きですね。

岸田 ドラムというご趣味が、とてもいいなって思いました。そして、山村さんが罹患されたのは「上咽頭がん」。そしてステージが「?」と書いてあります。当時は告知されなかったんですか?

山村 そうですね はい。

岸田 27歳で告知を受け、現在は58歳とのこと。薬物療法と放射線治療を受けてこられたわけですが、ペイシェントジャーニーの説明に入る前に…今、耳にイヤホンのようなものを着けていらっしゃいますよね?

山村 これは集音器です。補聴器ではないのですが、耳があまり良くなくて。聴覚障害というほどではないけれどグレーゾーンでして、仕事中もこれを使っています。補聴器は高価なので、集音器をいろいろ試している感じです。

岸田 副作用や後遺症の影響かもしれない、ということですね。

山村 そうですね。

岸田 それでは、山村さんがどのような経過をたどってきたのかを伺いたいと思います。

山村 はい。なんか山って感じですね。山の断面図みたいな川が2本流れてるみたいです人生です(笑)

「仕事が休める」と喜んだがん告知から30年|晩期合併症と闘う上咽頭がんサバイバーの真実

岸田 それでは、山村さんの「ペイシェント・ジャーニー」を振り返っていきたいと思います。まず1994年、「仕事が辛い」とありますが、どんな仕事をされていたんですか?

山村 当時はスポーツ用品メーカーで営業職をしていて、テニスラケットやマウンテンバイクを販売していました。ちょうどバブル崩壊後の時期で、全然売れなくて…。精神的にもかなりキツく、毎日「辞めたいな」と思っていました。一番どん底でした。そんな思いを抱きながら生活をしていました。

岸田 次に、首が太った気がする、鼻血が喉の奥にあると書いてありますが、これは体の異変がこの時に出てきたんですか?

山村 そうですね 営業をしていたので、当然ネクタイを締めて営業してるんですけど、ネクタイがちゃんと締まらないというか、襟がちゃんと締まらなくなって、あれ、太ったのかな?と感じるようになりました。

そして同じ時期ぐらいに、鼻の奥に、鼻の外に出るんじゃなくて鼻の奥に、鼻血が出るような感じがありました。

岸田 鼻の奥側に。

山村 そうですね、喉の方に鼻血が出ていたっていう感じ、唾を吐くと血が混じってる、おかしいなと思いながら、私は鼻血が小さい頃から出やすい体質だったし、それとタバコも吸っていたので、そのせいだろうと思ってそのまま放っておいたんですね。

岸田 放っておいたんですね!?そしてそのまま放っておいて、その後に鎖骨骨折、耳鼻咽喉科で検査ってありますけど。え…?

山村 仕事でマウンテンバイクを販売していたので、自分の会社で他の会社のマウンテンバイクを試乗してみようという試みがあって、それをスキー場で試乗していたんですね。

そして、スキー場の雪を流すための側溝に前輪がボーンって入ってしまい、体ごと吹っ飛んでしまったんです。それで肩から落ちて、鎖骨を骨折しました。

それで手術になったのですが、そこの整形外科の先生に、首が太った、鼻血が出ているんですと相談をしました。そして、同じ病院の耳鼻咽喉科の先生を紹介していただいて、それでその先生に、ちょっと大きい病院紹介するから、行ってきなさいって言われました。

岸田 紹介されて耳鼻咽喉科に行きます。耳鼻咽喉科でどうだったんですか?

山村 耳鼻咽喉科に行って、その大きい病院に行って検査をして、組織検査をして それでがんと診断されました。

岸田 当時27歳。

山村 はい、27ですね。

岸田 最終的にがんを告知されて、上咽頭がんと。あまり聞いたこともないがんですよね。

山村 そうですね。私も今まであんまりお会いしたことなくて。でも、告知されたときはポジティブな感情だったんです。

岸田 なんでですか!?

山村 さっきも言ったように仕事が辛かったので、休めるなと思って(笑)。神様がくれたお休みだ!っていうふうに思うようにしたんです

岸田 あーそういうことですね

山村 仕事が休めるぞっていうテンションで上がって。鎖骨骨折の時も同じかもしれないですね。仕事が休めるぞって。

岸田 なるほど(笑)。それでそこから薬物療法や放射線をされていきますが、どれくらいの期間治療したのですか?

山村 告知を受けたのが1994年の12月、30年前の12月に受けて、そこから放射線が始まって、終わったのが2月の・・・翌年の2月の初めに終わってますね。

岸田 じゃあそこまでずっと、薬物療法と放射線を同時並行で行ったのですか?

山村 そうですね。年明けから抗がん剤を並行してやるようになりましたね。最初は放射線だけでした。

岸田 当時の治療、辛さとかってどうでした?

山村 特に辛いことはなかったですね。でも年末ぐらいに放射線を最大量をあてていたので、東京の実家に帰ったときはおせち料理なんか食べられない、喉をやけどしてるような感じでした。それでもう年末年始は寝込んでましたね。

岸田 手術で取ってくにではなく、放射線とか抗がん剤で治療をする。当時の治療と今の治療は変わってきておりますので、皆さんの治療方法に関しては、主治医の方だったり医療従事者の方に伺ってもらえたらと思います。

そしてそこからその後、阪神・淡路大震災、患者間の結束ってありますけど、詳しく教えてもらえますか?

山村 私その当時大阪にいたので、入院先も大阪府立成人病センター、もう今はないと思うんですけど、(いまの)大阪国際がんセンターですね。震災当時、大阪にいました。1995年の1月17日、阪神・淡路大震災を病室で経験しました。

岸田 病室で!?

山村 受けてるんです。7階にいたんですけど、(地震が)起きた時は朝でしたよね。

岸田 4時ぐらい?(実際は5時46分)

山村 明け方でしたね。その時、7階の窓際にいたんですけども、横にザーザーって動くベッドごと、ベッドを押さえることしかできない。周りの人もみんな、来たでーみたいな感じで、同じ病院の12階の方のナースセンターはぐちゃぐちゃになって、その日はもちろん、その次の日も多分治療はなかったような気がしますね。本当は放射線治療をしなければいけないけど、それどころじゃなかったんですね。

岸田 患者間の結束とは何ですか?

山村 同じ病室の私が寝ていたベッドの前にいらっしゃった人は尼崎とか地元の人たちだったので、自宅が被災を受けたりとか、他の方たちも大阪に家族がいて、大変な思いをされていたっていう方が多くて。そういう時にみんなで頑張ろうみたいな感じで、結束できました。

岸田 病棟の中の人と結束。

山村 そうですね、それを感じましたね。

岸田 そして、これから頑張っていこうと治療を続けられていきます。その後、ここからすごいポジティブなんですよね。福祉の世界へ行かれます。これはどういうことでしょう?

山村 治療が終わって退院をして、それでさっきスポーツメーカーの営業をしていたって話しましたけど、そこを退職して、前からやってみたいなと思ってた福祉の仕事をやれる機会を得たので、それで入職しましたね。

岸田 福祉の何が山村さんにとって興味を惹かれた部分なんですか?ここは書いてないかもしれない。

山村 書いてないっていうか・・・私がその世界に入ろうかなと思ったのは、音楽雑誌にドラマー募集って書いてあったことがきっかけなんです。

岸田 音楽雑誌にドラマー募集。

山村 ただし福祉活動に興味がある方っていうふうに書いてあったんです。なんだこれ?と思って、それで受けたところが、音楽療法を障害の方にやっているっていうのがあって、そこにお世話になったんです。

岸田 山村さんはドラマーですし。

山村 そうですね、ただ別にドラムやるわけじゃなくて、障害の人と一緒に音楽をやってるっていう感じ。

岸田 そういうきっかけなんですね。それでその募集を見て、応募をして、福祉の道に行かれる。そして、奥さんと出会っていく。

山村 妻はそこの職員だったので。

岸田 ああ、よかった!ナイス転職ですね。

山村 はい、そうですね。

岸田 そこで出会いまして、そこからご結婚されていきます。お子さんが3名。

山村 そうですね、3人。

岸田 上から性別でいうと?

山村 男男女ですね。

岸田 後で出てきますけど、もう独立してますね。

山村 2人独立して、今は娘が一緒に住んでます。

岸田 大学生になられたんですよね。そして結婚後に転職。あれ?福祉の世界にせっかく入ったのに?転職?

山村 これは入職した地域ではなくて、自分が住んでいる地域の福祉の方に転職したいなと思って、やっぱり地域福祉・・・自分が住んでいるところの地域の福祉を、もう少しできることがないかなと思って転職しました。

岸田 あーじゃ、福祉職は変わらず、自分が住んでる地域に変わったってことですね。そしてその後、充実した活動と書いてあります。充実・・・どんな充実があったんですか?

山村 そうですね。この時は脳幹梗塞とかもなってないので、普通にテニスやってたんです。地域のテニスの大会で優勝しました。生まれて初めて。

岸田 すごい!

山村 それはすごい嬉しかったですね。今も表彰状を飾っております。

岸田 すごい、すごい。

山村 それと、やっぱりその時好きだった音楽を活かして、自分が支援している人たちと一緒に、障害を持っている人たちとバンドを組んで、音楽活動をしました。

岸田 音楽活動をされていった。そんな充実した日々を過ごされていきます。しかし、ある日頸動脈狭窄で倒れる。倒れたん・・・ですね・・・。これいきなり倒れるものなんですか?どうなんですか?

山村 その前に、血圧高いとは感じていたんです。大体測った時、160くらいありましたが、それは放ってあったんですね。原因がよくわからなかったから。倒れた時は、忘れもしない自分の誕生日の日にピザを食べて、ちょっとなんかハッピーすぎたなと思ってトイレに行って、その後トイレから出たら、廊下で倒れて、子供に気づいてもらって、どうしたの?みたいな。でも、倒れた後は言葉が出ないっていうか、しゃべれなかったんですよ。もう呂律が回らない。それでおかしいなと思って緊急搬送されて、入院して調べてもらったら頸動脈狭窄って言われたんです。

岸田 頸動脈狭窄っていうのはどういう状態なんですか?

山村 首の頸動脈が細くなっていたんです。先生に言われたのは、放射線治療の影響じゃないかと。上咽頭がんだったので、放射線をがんの原発の方と、あと首のリンパ腺にも当ててるんですね。で、両方とも頸動脈狭窄になっていたんです。

岸田 それ(放射線治療)があってってことなんですね。そして、頸動脈狭窄と診断された後に転職。倒れた後、呂律とか戻ってきたんです?

山村 呂律は戻ってきましたね。

岸田 手術したんですね。

山村 手術というか、カテーテル入れて血管を広げてもらいました。

山村 血管広げる。頸動脈狭窄で倒れて、その後しばらく普通に仕事していたんですけど、転職を・・・さっきもお伝えしましたけど、まずは福祉の世界に入って数年音楽療法をやってる施設で働いて、次に別の法人に転職をして、そこは障害者の方の就労支援の仕事を立ち上げること携わらせていただきました。数年後、地域の福祉に興味を抱いて、もう一回出戻りみたいな形で音楽療法の会社に転職をしたっていうのは、この時期なんですね。

岸田 ということは、先ほどの音楽療法されているところに転職をされた、その後、障害者さんたちの就労支援の立ち上げをされて、じゃあこの転職と転職の間にもう一個転職があったってことですね。

山村 そうなんです 転職続きなんですね私。

岸田 自分のやりたいことができるところに行かれたんですね!そこの転職は元いた音楽療法の会社に出戻った、それはなぜですか?

山村 そこの法人さんはしっかりした法人だったし、やっぱり戻れるんだったら、こういう法人に戻りたいなっていうふうに感じて、相談をしたら、いいよ戻ってきてっていうふうに言っていただいたので。

岸田 なるほど。しかし、その後に脳幹出血になりましす。どうやって分かったのですか?倒れるとかじゃないですよね。

山村 会社には電車を使って行かなければいけないところだったんです。駅から職場まで歩いいるときに、歩くスピードがすごい遅くなったなっていう感じがしたんです。通学路だったので、学生にはバンバン抜かれる、小学生にも抜かれる、2、3歳児にも抜かれる。すると、つま先がつっかかるような感じになって、これおかしいなと思って、なんか違う病気なんじゃないかなと思ったんです。それを頸動脈狭窄の治療で定期的に通院をしていたので、先生に相談をしてMRIを撮ってもらうと、脳幹梗塞、脳幹の出血があるっていうふうに言われました。

岸田 それもやっぱり放射線治療が影響してたんですか?

山村 昔やった放射線治療が影響しているんじゃないかって言われました。

岸田 それを聞いた時はちょっとショックでしたね?

山村 そうですね。

岸田 脳幹出血があったと分かったら、どんな治療をするんですか?

山村 これは特に治療はしてないです。普通に血圧を下げる薬飲んでるだけ。

岸田 お薬だけ?

山村 そうですね。原因は放射線の影響かもっていったところで何もできないと言われたので。

岸田 お薬だけで大丈夫なんですか?

山村 血圧を抑える薬だけですね。

岸田 怖いですよね。

山村 怖いです。影響があるんだと思って今の主治医の先生に聞いても、放射線治療ってやっぱり強い影響が出るんだよって言われました。あんまりがんのこと考えてなかった時ですけど、ここら辺になって、なんでがんの治療って、こうなっちゃうの?って考えるようになりましたね。

岸田 どれくらい時間経ってるんですか?だってこの時点でもう30年近く経ってますよね。

山村 そうですね25年から30年くらいでしょうか。

岸田 その時の放射線治療の影響が今になっても出てきている。

山村 そうなんだと思いましたね。

岸田 山村さんの場合は、現在とは違う放射線治療を受けていらっしゃったと思います。その治療の影響で、いろいろな後遺症が残ったということですね。そうした中で、「同じように悩んでいる人がいるんじゃないか」と思い、がん患者会の存在を知って調べ始めた、という流れだったんですよね。

山村 はい。私が最初に加入したのは、大阪で治療を受けていた頃に見つけた、頭頸部がん患者会でした。そこから「東京にも同じような会があるよ」と教えてもらって、今は『ニコット』という患者会に所属しています。岸田さんもご存じかと思います。

この会では、同じような悩みを抱える人たち、放射線の後遺症と向き合いながら生きている方たちと出会えました。中には30年という長い時間をかけて経験を積んでこられた方もいて、本当に心強かったです。また、若くしてがんを経験された方々の団体にも、何度か顔を出させていただきました。やはり、「同じ経験をした人と出会える場」があるというのは、大きな支えになりますね。

岸田 阪神・淡路大震災のときも、患者さん同士の強い結束を感じましたが、こうしたがん患者会に出会えたことも、山村さんにとって大きな出来事だったんですね。30年近く経った今、再びそういうつながりを得られた。

山村 ええ、ただ、すみません、今はどん底です(笑)

岸田 身体障害者手帳が「2級」と書かれていたことに関しても触れられていましたが、等級が上がることで気持ち的に落ち込むこともあると思います。その点についてお聞かせいただけますか?

山村 実は、以前に脳幹出血を起こしていて、それが原因で足の動きがかなり悪くなっているんです。日に日に歩く速度が遅くなっていくのを感じています。これまで5級だった手帳を更新する際、診断書に「下肢は2級」「体幹は5級」と書かれていました。まだ新しい手帳は届いていないので、確定ではないんですが、おそらく2級になると思います。

岸田 やはり、等級が上がるというのはショックですよね。

山村 そうですね。ショックというか……「あぁ、そうなんだ」と。現実を突きつけられたような感覚です。

岸田 山村さんには、治療中のお写真もいただいていますね。こちらは2018年、倒れたときのものですね?

山村 はい。誕生日の日に倒れて、点滴を受けていたときの写真です。ベッドで寝ている写真は、その後カテーテルを入れて治療していたときに、家族が撮ってくれたものです。

岸田 カテーテルを入れたとき、かなり痛かったんですよね。太もものあたり。

山村 ええ。カテーテルを入れた箇所がとても痛くて……。

岸田 そしてこちらの画像は、頸動脈の様子ですね。

山村 そうです。左側の頸動脈が、かなり狭くなっているのが見えると思います。そのせいで倒れてしまったんです。右側はステントを入れて血管を広げました。

岸田 今もステントは入っているんですか?

山村 入っています。ただ、左側だけですね。右側はまだ狭いままです。右の頸動脈は狭くなっている範囲が長くて、ステントでは対応できないとのこと。もし手術となれば、血管を丸ごと取り替える必要があるそうで、今は様子を見ています。放射線の影響で首の皮膚も弱っていて、手術が難しい状態なんです。

岸田 変な火傷みたいな。それも手術をする上でのハードルになってるってことですね。ありがとうございます。

唾液が出ない・耳が聞こえにくい…治療後に始まった新たな困りごと

そして、ここからは項目ごとにお話を伺っていきたいと思います。まずは「副作用や後遺症」についてです。

山村さん、20代の頃に治療を受けられて、現在になって症状が出てきている部分もあるかと思いますが、どのような後遺症があるのでしょうか?

山村 そうですね。これは上咽頭がんの方に多いんですけど、放射線治療を受けると唾液が出にくくなるんです。唾が出ないと、ガムを噛んでも固まらないんですよね。

岸田 ガムが固まらない?

山村 はい、噛んでもザラザラしたままで。「あ、こんなふうになっちゃうんだ」って思いました。水を飲まないとまとまらないんです。それから、飴も溶けないですね。

岸田 飴もですか。

山村 はい、「こんなことあるんだな」と思いましたね。唾液が出ないってこういうことなんだなと。それと、耳も調子が悪くて。これもおそらく放射線の影響があるんじゃないかと思っています。きちんと調べたわけではないんですが、原発がこのあたりにあって、放射線が通過しているので。

岸田 今の放射線治療はピンポイントで当てられるようになっていますけど、30年前だとまた事情が違いますよね。

山村 そうですね。

岸田 こういった後遺症が出てくる中で、それらとどう向き合っているんですか?2〜30年経ってから出てくるなんて、すごくしんどいですよね。

山村 そうですね。唾液や耳に関しては「もう仕方ないな」と思って、付き合っていくしかないと受け止めています。ただ、歩くのが遅くなってきたというのは、やっぱり日常生活に大きく関わってきますし、家族もいますから。本当に家族に迷惑をかけてしまっているなと感じています。仕事にも影響が出ていますし、そういう面ではやっぱり大きな問題だなと思います。そこは自分でも少し苦しいですね。

岸田 でも、そういった生活に少しずつ慣れていっているという感じでしょうか?

山村 そうですね。やっぱり慣れていくしかないですね。

岸田 ありがとうございます。

転勤とともに変わった通院先──大阪から東京へ、病院とのつながりのバトン

続いては「病院について」伺っていきます。

当時、耳鼻咽喉科から大きな病院を紹介されたりと、いろいろな経緯があったかと思いますが、治療は大阪で受けられて、その後の経過なども含めて、今も大阪の病院には通っていらっしゃるんですか?

山村 いえ、もう大阪の病院には行っていません。放射線治療が終わったあと、仕事の都合で大阪から東京に転勤になったんです。その当時は、スポーツメーカーで営業の仕事をしていたんですが、それも辞めて転職することになって。それで東京に戻った頃に、大阪府立成人病センターの先生から、東京の国立がんセンターの先生を紹介していただいたんです。放射線科の先生同士がつながっていたみたいで、そのご縁で紹介を受けて、しばらくの間はその先生に経過を診てもらっていました。

岸田 そうだったんですね。

山村 はい。でも今はもう、がんに関しては特に病院には通っていないです。

岸田 ただ、ほかの症状などに関しては、病院に通われているということですね。ありがとうございます。

がんの告知と家族の支え──今も胸に残る“あの電話”の記憶

次にご家族のことについてお伺いします。

がんを告知されたのは20代の頃だったとのことですが、その当時はまだ今のパートナーやお子さんはいらっしゃらなかったと思います。ご家族にはどのように伝えられたのでしょうか?また、今現在、ご家族との関わりやサポートについては、どのように感じていらっしゃいますか?

山村 そうですね。がんになった当時は、会社の寮に入っていて、単身生活をしていました。一人暮らしだったこともあって、さっきも言いましたが、「しばらく休める」と少しテンションが上がってしまっていたところもあったんです。

でも、親に伝えるときは本当に辛かったです。当時は東京に住んでいたので、電話で伝えたんですけど、きっと親は電話口で泣いていたと思います。それが何より辛かったですね。

今は、がんのことも含めて、こんな自分を受け入れてくれた妻には本当に感謝していますし、子どもたちも私の病気のことは理解しています。そして今は、がんとは別の理由で身体が不自由になってしまって…。

岸田 足が不自由になっているということですね。

山村 はい。そんな状態なので、家族にはやっぱり申し訳ないなと感じています。

後遺症と向き合いながら働く──今できることを少しずつ

山村 そうですね、その点に関しては問題なく、普通に休むことができました。

岸田 その後、職場に戻られたり、転職活動をされたりといった経緯があったと思います。最近では再び職場に戻られたとのことですが、今は治療の影響、あるいはがんの晩期後遺症と向き合いながらお仕事をされていると思います。現在のお仕事との両立については、どのように感じていらっしゃいますか?

山村 はい。今働いているのは障害者福祉の分野なので、そのあたりは職場の理解もあると思っています。ただ、体が思うように動かなくなってきていて、フットワークも重くなってしまっているので、やっぱり職場には迷惑をかけてしまっているなという気持ちはあります。できる範囲で、自分にできることをやっていくしかないですね。

岸田 今、特に難しいと感じている業務はどんなことですか?

山村 以前もお話しましたが、私は「相談支援専門員」として働いています。ご本人の自宅を訪問したり、通っていらっしゃる福祉サービス事業所に伺って状況を確認したりといった業務があるんですが、足が不自由になってしまった今、そうした訪問がなかなか難しくなってしまっていて……。今は、オンラインで対応させていただくなど、周囲に協力してもらいながらなんとかやっている、という状況です。

岸田 オンラインで仕事ができるようになったというのは、すごく助かりますよね。

山村 そうですね。本当に、もしオンラインがなかったら大変だったと思います。

岸田 なるほど。そうやって工夫しながら、今のお仕事に向き合っていらっしゃるんですね。

山村 はい、そうですね。

思いがけず加入していた保険に救われて──がん治療とお金のこと

岸田 続いては、お金や保険についてお伺いします。当時、20代だったということですが、民間の保険などには加入されていたんですか?

山村 たまたまなんですけど、22歳で就職したとき、スポーツ用品の営業の仕事に就いたんですね。その入職の際に、がん保険に入っていたんです。

岸田 えっ!30年前ですよね?

山村 はい。アフラックの、いちばん上のプランではなかったですけど、「新がん保険」っていうものに加入していて。自分ではあまり意識してなかったんですが、給料から自動的に引かれる形で入っていたんですね。だから、がんになったときは本当に助けられました。

岸田 それはすごい……本当に、それがなかったら大変だったでしょうね。

山村 ですよね。今思えば、よく入ったなと思います。なんとなく、流れで加入してたって感じなんですけど(笑)。

岸田 いやー、それは本当にラッキーでしたね。治療費も、保険でちゃんとカバーできたんですか?

山村 はい、出ましたね。

岸田 治療費全体ではどれくらいかかったんでしょうか?

山村 うーん、いくらかかったんだろう……もう忘れちゃいましたね。

岸田 そうですよね、30年前のことですもんね。でも、保険や貯金などでなんとか工面できたということですね。

山村 そうですね。今は子どもにも「保険には入っとけ」って言ってます(笑)。

岸田 ご自身が助けられたからこそ、ですよね。ちなみに今は、他の病気や入院の可能性もある中で、保険の備えはされてますか?

山村 はい、がん保険以外にも、一般的な保険にいくつか入っているので、カバーできています。

岸田 じゃあ、今のところ治療費など、お金の面で特別大きな苦労はされていない?

山村 そうですね。ただ、放射線治療をしていた頃は、多少は苦労しましたね。単身生活だったので、無駄遣いもけっこうしていて(笑)。でも、やっぱり保険に入っていたおかげで助かりました。入ってなかったら、大変だったと思います。

移動も聴こえも、自分らしく工夫して──後遺症と向き合う日常

岸田 ありがとうございます。では次のテーマに移ります。「工夫していること」についてです。日常生活の中や、闘病中でもかまいませんが、山村さんが何か工夫されていることってありますか?

山村 そうですね。今、工夫していることといえば……もう本当に日常生活では、杖を使っていることですね。

岸田 うんうん。その杖、もしよかったら見せてもらってもいいですか?

山村 杖は、こんな感じです。ドーン!って感じで(笑)。

岸田 すごい。この杖にも何か工夫されているんですか?

山村 そうなんです(笑)。これ、自転車に乗る時に足首に巻くバンドなんですけど、傘と杖を両方持つのが大変で。だからこのバンドを使って、傘を杖にくくりつけてるんです。

岸田 なるほど、確かに傘と杖を一緒に持つのは大変ですよね。

山村 そうなんです。電車の中とか特に、2本持ってると不便なので、1本にまとめられるようにしています。もちろん傘を使うときは外しますけど、基本的にはまとめて持てるようにしています。

岸田 なるほど、さすというより「持つ」ための工夫ですね。

山村 そうです。傘も杖も持つ必要があるので、それを一緒にまとめておくことで、移動が楽になります。

岸田 すごく工夫されていますね。あとは、さっきおっしゃっていた補聴器ではなく、集音器のことなんですが。

山村 はい。集音器って、いろんな人の声が一度に聞こえてしまうことがあるんです。でも、マイクをつけてピンポイントで聞こえるようにする、そういう工夫はしています。

岸田 ありがとうございます。そうした晩期の後遺症などもありながら、山村さんは日々工夫しながら生活されているんですね。本当にありがとうございます。

「30年、生きられます」──サバイバーから治療中のあなたへ伝えたいこと

山村 私は30年生きてこられました。本当にがんになって、でも放射線治療には心から感謝しています。ただ、放射線治療の影響や、もしかしたら抗がん剤の影響で症状が出る方もいらっしゃると思います。そういった方たちが安心して今後も治療を受けられるように、国が補助していただけると本当にありがたいなと、個人的には思っています。先生方もそうしていただけると安心して治療に専念できるのではないかと思います。ぜひ国にそう考えてもらえたら嬉しいです。今日はありがとうございました!

岸田 もし今、治療中の患者さんに向けて、30年のサバイバーとして何か一言ありますか?

山村 30年生きられますよ。これからも30年、40年と生きていけます!今の治療は、私が受けた時とは全く違います。本当に、がんは怖い病気ではないし、治療も怖がる必要はないと思います。安心して頑張って治療を受けてほしいと思います!

岸田 ありがとうございます。30年もの長い間、ロングサバイバーとして生きてこられた山村さんだからこその言葉ですね。山村さんのような方を見て、「こうやって乗り越えられるんだ」と感じてもらえたらと思います。晩期合併症など、不安もあるかと思いますが、早めに病院に行き、しっかりケアを続けることが大切ですね。ありがとうございます。

これで「がんノート」のインタビューは終了したいと思いますが、山村さん、この1時間はいかがでしたか?

山村 これまでのことを振り返ることができて、本当に岸田さんに感謝しています。

岸田 ありがとうございます。振り返ってくださったのは山村さんですから、企画をいただけたことに感謝しています。こうしてお届けできたことも一つの形ですので、今後ともどうぞよろしくお願いします。

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