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インタビュアー:岸田 / ゲスト:河田

【オープニングトーク】

岸田 それでは『がんノートmini』スタートしていきたいと思います。きょうのゲストは河田さんです。よろしくお願いします。

河田 よろしくお願いいたします。

【ペイシェントジャーニー】

岸田 それでは『がんノートmini』を始めていきたいと思います。本日のゲストは河田さんです。よろしくお願いします。

河田 よろしくお願いいたします。

岸田 まず、河田さんのご紹介をさせてください。こちらになります。河田順一さん。現在は大学院生として学びながら、大学の非常勤職員としても働かれています。がんの種類は慢性骨髄性白血病、慢性期。告知年齢は22歳で、現在は36歳。治療は分子標的薬を使った治療を続けていらっしゃいます。

岸田 今日は河田さんのペイシェントジャーニーを見ながらお話を伺っていきたいと思います。「ペイシェントジャーニーって何?」という方もいらっしゃるかと思いますが、簡単に言うと、河田さんが病気と向き合ってきた感情の変化や出来事を、時系列でまとめたグラフのようなものです。それを一緒になぞりながら、どんな道のりを歩んでこられたのかを伺っていきます。

岸田 では最初の項目からお聞きします。こちら、まず「倦怠感」と「微熱」。2005年、21歳のときに最初の症状として出てきたということですが、この頃、どんな状態だったのでしょうか。

河田 当時は大学生で、埼玉の出身なんですが都内で下宿していました。正直あまり優秀な学生ではなく、留年もしていたんですが、それ以上に身体がとてもだるくて。朝起きても体が重く、歩いていても地に足がつかないようなふわふわした感覚が続き、風邪なのかよく分からない微熱も頻繁にありました。

河田 朝起きられない、大学に行っても家にいてもずっとだるい。その状態が続くので、自分では「うつ病なのかな」と思ってしまって、心療内科にも行ってみたりしました。

岸田 もともと繊細なところがあったんですね。

河田 少しナイーブなところはあったと思います。

岸田 そういった体調不良が続いて、その後すぐ「がん告知」につながっていくわけですが、このときはどんな経緯だったのでしょう。

河田 たまたま実家に帰っていたときに、急に39度の熱が出たんです。「これは普通じゃないな」と感じて地元の病院へ行ったところ、採血の結果を見て「血液内科のある総合病院へ行ってください」と言われ、その日の午後には血液内科の待合室にいました。

河田 そして診察で、先生から最初の段階で「おそらく慢性骨髄性白血病だと思います」と告げられました。

岸田 その瞬間は、やっぱりショックでしたか。

河田 身体の具合が本当に悪かったので、頭の中が真っ白になるというより、「もしかしたらそうかもしれない」という感覚も同時にありました。待合室に骨髄バンクのポスターが貼ってあったりして、少し予感していた部分もありました。でも、いざ告知されると、「これからどうなるんだろう」という恐怖はありました。

岸田 当時は『世界の中心で、愛をさけぶ』の影響もあって「白血病」という言葉へのイメージも強かった時代ですよね。

河田 ありましたね。重い言葉だなという実感はありました。

岸田 その後、治療として分子標的薬の内服を始めていくわけですが、これはどうでしたか。大変でした?

河田 本来なら慢性骨髄性白血病は、入院せず分子標的薬の内服から始められる方も多いんですが、僕は熱が全く下がらなくて、一度自宅に帰されたものの、翌日に倒れてしまいました。それで入院して、出たり入ったりを繰り返す中で薬を飲み始めました。当時はまだ登場して数年の薬で、手探りでのスタートでした。

岸田 薬の副作用も強かったと伺っています。

河田 はい。入院中は体重が5〜6キロ落ちてしまい、食事も流動食が中心でした。そのうえ副作用が身体中に出てしまって、特に筋肉に激しいけいれんが起きたんです。胸の筋肉が勝手に強く収縮して心臓が止まりそうな痛みが走るようなこともありました。おなかや手足も同じように突然こむら返りが起きるので、とにかく怖かったです。

岸田 胸がこむら返りを起こすって想像できないほど恐ろしいですね。

河田 本当に怖かったです。コップを持っていても手が勝手に動いてしまうことがあって、外出も電車も怖くて、とても普通の生活には戻れない状態でした。

岸田 それが落ち着くまでどれくらいかかったんですか。

河田 数カ月ほどで激しいけいれんは徐々に落ち着いていきましたが、その後も慢性的なつりや下痢、吐き気、体重が戻らないなど、さまざまな副作用が続きました。自分でも意識しないうちに手が勝手に動いてしまうようなときもあって、本当に一時期は恐怖でした。

岸田 その状態で満員電車に乗るなんて、とても無理ですよね。

河田 まったく乗れなかったです。コップを持っている手ですら突然動くときがありました。

岸田 みそ汁なんて飲んでいたら大変ですよね。持っていたら、ばーん、って…。

河田 ほんとに怖いです。

岸田 でも、時間とともに徐々に症状が落ち着いていったわけですね。ありがとうございます。
そんな中で、「留年」「休学」という出来事がありました。当時、大学生だったんですよね。

河田 そうです。

岸田 留年や休学というのは、当時どう受け止めていましたか。

河田 やっぱりショックでした。もともと留年はしていたんですが、それとはまた別の重さがありました。同期やサークル、ゼミの仲間がいる中で、自分だけが取り残されていくような感覚がありました。ちょうど12月で、1〜2月は試験の時期なのに出られない。先生に状況を伝えられる場合もありましたが、伝わらないこともあって、単位も多く落としてしまいました。

焦りもありましたが、「治療に専念すればまた戻れるだろう」という気持ちとの両方が揺れていた時期ですね。

岸田 病気のことを理解してくれない先生もいたということでしょうか。

河田 東京で下宿していたんですが、治療は地元で受けていたので、連絡手段は基本メールしかなかったんです。急に「病気なので対応してください」と伝えても、全ての先生に事情が届くわけではありませんし、対応しきれないこともあったと思います。

岸田 なるほど。
そして、大学に通えない日々が続いたわけですが、そのときはやはり心細さがありましたか。

河田 ありました。下宿も引き払わざるをえませんでしたし、電車で2〜3時間かければ通えなくもなかったので、最初は頑張って行こうとは思っていたんです。でも、副作用の下痢や吐き気がとにかくひどくて…。
高崎線に1時間半近く乗っている間に症状が出ることも多く、それが大きなストレスで、不安が強くなり、「これは無理かもしれない」と思うようになりました。

岸田 高崎線って、1両目にトイレが付いていませんでしたっけ。

河田 あります。

岸田 じゃあ1両目を確保し続けるしかない…。

河田 そういう感じですね。もし入っていたら終わり、という恐怖が常にありました。

岸田 そんな中、次がちょっと上がっていく。上がっていくところが「退学」なんですね。少し暗い時期があって、そこからようやくプラマイゼロ、上がっていったというポイントが「退学」。結局、休学して、そのあと退学したという感じなんですか。

河田 そうですね。休学している間、「いつ戻れるんだろう」「この先どうなるんだろう」という不安は強かったんですけど、辞めるってなると逆に一区切りつくという気持ちもありました。それに、自分は本当に大学の友人や先生方に恵まれていて。卒業パーティーってあるじゃないですか。

岸田 はい。華々しいやつね。

河田 それに同じ年に入学したメンバーに呼んでもらったんです。退学するタイミングと、みんなが卒業するタイミングがちょうど一緒だったんですよ。

岸田 大学からいなくなる、という意味では同じタイミングだったんですね。

河田 そうなんです。それで、ゼミの仲間にも卒業パーティーに招いてもらって、そこで先生から「大学を出なくても勉強はできるよ」と励ましをいただいたり、サークルでも追いコンを開いてくれたりしました。

岸田 何のサークルに入ってたんですか?

河田 文芸サークル、文芸同好会です。

岸田 本読んだりもするし、書いたりもする?

河田 書いたりもします。

岸田 かっこいいなあ。でも追いコンもしてもらって。

河田 はい、追いコンもしてもらいました。

岸田 それだったら、確かに「退学=テンション下がる」じゃなくて、ちょっとだけ上がる感じも分かりますわ。

河田 自分でも「ちょっと卒業したのかな?」って錯覚できるような、そんな感じでした。

岸田 そこからまた上がっていく。その理由がこちら。どん。「世界SF大会」。急にジャンルが変わりましたね。SFって、『スター・ウォーズ』的なあのSFで合ってるんですか?

河田 そうです。『スター・ウォーズ』とか『バック・トゥ・ザ・フューチャー』とか。中学の頃から、翻訳物も日本のSFもずっと読んでいて、でも身近に読んでる仲間がいなかったんです。大学でも少なかったですね。SFの世界大会や日本の大会があることは知っていたので、いつか行きたいとは思っていました。

河田 その年に、たまたま世界SF大会が日本で開催されると知って、これは行かなきゃと。がんになって「いつまで生きていられるんだろう」という気持ちもあったので、やれるときにやりたいと思いました。横浜で開催されていたので行ったところ、同世代のSFファンとたくさん出会えて、今でもすごくいい友達として付き合っています。

岸田 ちょっと気になるんですけど、世界SF大会って何をするんですか? よーいどんで書くとかじゃないんですよね。

河田 違います(笑)。3〜4日間開催されていて、世界中からSFファンやSF作家さんが集まるんです。一緒に有名作家の講演を聴いたり、SFに出てくる架空言語のワークショップをしたり。海外作家のサイン会もあります。

岸田 すげえ! コミケみたいな感じ?

河田 そうですね。コスプレしている人もいますし、同人誌を作っている人もいます。

岸田 それは絶対仲良くなれるし、テンション上がるやつや。

河田 はい。とても楽しかったです。

岸田 「泊まりがけコミケ」みたいなイメージだ(笑)。世界大会後、ちょっと下がるところがありますね。それがこちら。どん。「お母さんが悪性リンパ腫に」。悪性リンパ腫って血液のがんですよね。

河田 そうです。自分ががんになった後だったこともあって、母もすごく気にしていました。医師は「遺伝ではない」とはっきり言ってくれたんですが、それでも親としては心配だったんだと思います。母が1年間入院して抗がん剤治療を受けていたので、僕は実家に戻って家事などできる範囲でサポートしていました。

岸田 お母さんも、そしてあなたも…大変な時期でしたよね。でもグラフではそこまで大きく落ちてないので、わりと冷静に受け止められたんですね。

河田 そうですね。自分が先にがんになっていたことで、逆に冷静になれていた部分はあったと思います。

岸田 今、お母さんは大丈夫なんですか?

河田 はい。その後、再発もなく過ごせています。本当にありがたいです。

岸田 よかったです。ただここから感情のグラフがぐっと落ちます。こちら。どん。「うつ病」。この時期にメンタルの症状が大きく出てきたんですね。

河田 そうですね。もともと繊細な性格だったのが悪い方向に出てしまって。

岸田 今まで頑張って踏ん張ってきたけど、ここで一気に落ちてしまったと。これは何かきっかけがあったんですか? お母さんの件というよりも?

河田 それよりも「先が見えない」という感覚が大きかったです。大学を中退して実家に戻って、でも小中学校の友人とも全然会わなくなって、本当に独りぼっちという感じが強くて。日雇いバイトをたまにやったりはしていましたが、田舎で高卒で、しかも病気があって、副作用もあって継続して働けない。この先どうなるかというビジョンが全くなくて、体もずっとつらい。そういうのが積み重なって、どんどん気持ちが落ちていって、本当に数年間うつ病に苦しんでいました。

岸田 これ、結構長い期間ですよね。本当に数年間。うつ病の治療はどうしたんですか? お薬とかですか。

河田 お薬とカウンセリングですね。それで向き合っていくしかなかったです。

岸田 でも、そこから復活して上がっていくタイミングが来るわけですよね。そのきっかけが「患者会」の参加だったんですか。

河田 そうですね。

岸田 それだけじゃなく、もっと大きかったと。

河田 はい。患者会はすごく大きかったです。慢性骨髄性白血病の薬、すごく高くて、お金の負担もあったし、それを親に負担させているというのがつらくて。プレッシャーも強かったんですよね。そんな中、もうどうしようもなくて泣きながら、血液がんの電話相談をしている団体に電話したんです。そしたら、本当に最後まで丁寧に話を聞いてくれて、しかも「同じ病気の患者会が近くであるから、よかったら行ってみませんか」と紹介までしてくれたんです。弟と一緒に参加したら、初めて同じ慢性骨髄性白血病の患者さんたちに会えて。

岸田 仲間ができた。それがうつ状態から抜け出す大きなきっかけになったんですね。

河田 そうですね。「つらい」と思っている人がこんなにいるんだと知れたこと、自分が副作用重いほうだと客観視できたこと、そしてそれでも普通に働いたり、明るく生活している人たちがたくさんいるとわかったこと。そのすべてが大きな励みになりました。

岸田 自分だけで抱えていたら気持ちも沈んでいくけど、他の人の状況を知って客観視できるのって本当に大事ですよね。

河田 そうですね。

岸田 その頃のお写真も預かってます。こちら、どん。これは患者会のメンバーとの写真ですよね。

河田 はい。瀬戸内海の夕日を眺めている写真です。

岸田 青春してますね。

河田 本当、遅れてきた青春って感じで。

岸田 ちょっと一番右に、だいぶ遅くなった青春をされてそうな方もいますけど。

河田 そうですね。

岸田 これは全員、患者会のメンバーですか。

河田 はい。血液がんの患者会のメンバーです。僕もその後、すぐではないんですが慢性骨髄性白血病の患者会のスタッフをさせてもらうことになって、一緒に交流会やセミナーを開催しています。他の血液がんの患者会の方たちとも協力して、全国で血液がんのフォーラムを年に何度も開催しているので、これはそのときに撮った写真の一つです。

岸田 みんなで集まったときの写真なんですね。これはいい写真ですね。

河田 ありがとうございます。

岸田 さて、ここでまたグッと上がってくる出来事があります。それが大学再入学。同じ大学に戻ったんですね。

河田 はい、同じ大学です。ここは少し端折りますが、一度、家出同然で東京に出たんです。

岸田 めっちゃ気になる、それ。

河田 そのとき、元の大学にも行ってみたんですが、卒業パーティーで声を掛けてくれていた先生が覚えていてくださって。「うちの大学には単位持ち越しで再入学できる制度があるから、よかったら受けてみない?」と声を掛けてくれたんです。それで再入学試験を受けて、30手前で大学に戻りました。

岸田 試験、難しかったですか?

河田 筆記試験もありますが、面接重視でした。

岸田 まあ、一度入ってるわけですしね。転入とは違いますし。

河田 はい。

岸田 ありがとうございます。そして大学に再入学したあと、さらに一番上がっている出来事があります。「臨床試験の参加」。これは新しい薬を試す臨床試験ではなく、薬を“やめてみる”臨床試験だったんですね。

河田 そうなんです。慢性骨髄性白血病の薬はすごく効果があって、普通は飲み続ける前提なんですね。でも「どの段階まで良くなれば薬をやめていいのか」という基準が決まっていなくて。海外では、ある程度まで良くなったら薬をやめても再発しない人がいるという結果が出てきたんです。それで日本でも“やめてみる”臨床試験が始まっていて、僕も参加できることになりました。

岸田 へえ、すごい。参加してみてどうでしたか?

河田 不安もありました。でも、再発したらまた同じ薬を飲めばいいと言われていましたし、もしこのチャンスでやめられれば、体の負担も経済的な負担も大きく減る。それに、僕が成功すれば他の患者さんにも可能性が広がるかもしれない。そう思って参加しました。

岸田 なるほど。グラフもその後、大きく下がってないということは、いい方向に進んだということですよね。

河田 おかげさまで、その後はずっと再発なしです。

岸田 うれしいですね!

河田 はい。しかも薬をやめた途端、体調が一気に良くなって。

岸田 そっか、副作用がなくなったんですね。

河田 そうなんです。副作用で体全体の肌が白くなってしまって、日焼けもできない状態だったんですね。でも薬をやめてみたら、数カ月で色素が戻ってきました。指先から少しずつ色が変わっていくのが分かって、それを毎日眺めていました。

その年の夏には、久しぶりに海で泳ぐこともできましたし、吐き気もかなり落ち着いてきたので、体重も1カ月に1キロずつくらい増えていったんです。同じものを食べているのに、それくらい違いました。

岸田 そんなに違うんですね。それだけ副作用が強く出ていたってことですよね、河田さんの場合は。

河田 そうですね。

岸田 ありがとうございます。そして最後でう。インターンをして、その後は大学院へということで、今も大学院生として活動されているわけですが、この進路についても何かきっかけがあったんでしょうか。

河田 そうですね。30代で大学生をしていたわけですが、その後、自分の進路をどう考えていくか悩んでいた時期がありました。そんな中、がん患者さんの就労支援をしている「キャンサー・ソリューションズ」でインターンをさせていただいたんです。その経験から、社会の中でがん患者さんがどんな状況で生きているのか、どう働いているのか、どう支え合っているのか、そういったことをより深く考えるようになりました。

今、大学院では社会学を専攻しているのですが、社会学者として、がんとともに生きる人たちの姿を少しでも研究したいという思いが強くなり、大学院への進学を決めました。

岸田 すごい。すてきですね。

河田 ありがとうございます。

【大変だったこと】

岸田 それでは、そんな河田さんのこれまでを振り返ってきましたが、ここで大きく質問させてください。まず一つ目は、いろんな出来事があったと思いますが、その中で「大変だったこと」。さっきのお話だと、グラフが一番下がっていた“うつ病”の時期なのかなとも思うんですが、ご本人として、大変だった『とき』や『こと』はどんなものでしたか。

河田 心の面で言うと、やはり一番大変だったのはうつ病のときですね。先が見えない感じ、自分がこの先どんな人生を歩むのか全く想像できなくて。このまま実家にいて、ただ年だけ重ねていくのかと思うと、それは現実的ではないと分かっているのに、他の選択肢も見えない。本当にどこにも出口がないように感じて、不安がずっと続いていました。その「先が見えない」という状態が、心の面では最もつらかったです。

【治療費・制度】

岸田 ありがとうございます。やっぱり先が見えないって怖いですよね。本当にそう思います。ありがとうございます。そしてそんなときに、さっき“薬が高かった”みたいなお話もされていましたけれど、実際のところどうでした? やっぱり高かったですか。

河田 高かったですね。最初の頃は、1回の支払いで薬代だけで30万円ぐらいかかっていました。しかも院外処方だったので、処方箋を持って薬局に行くときは、本当に札束を持っていくような感覚でした。

岸田 30万円をどんって持っていく感じですよね。

河田 しかも、それは自分のお金ではなくて、毎回、親が銀行から下ろして渡してくれていたんです。そのお金を薬局に持っていくのが、毎回、心にすごくのしかかってきて……。主治医にも「もう飲みたくない」と言ってしまったことがあるくらい、最初の頃は精神的にきつかったです。もちろん、後から高額療養費制度で還付される仕組みがあると親からも言われていたんですけれど、それでも“毎回30万円が動いている”という現実が重くて、その負担感はずっとありました。

岸田 そうですよね。毎回30万円を持っていくっていうだけでも、プレッシャーがすごいですもんね。でも、限度額認定証の制度ができてからは変わりましたよね。

河田 はい。あの認定証が使えるようになってからは、本当に楽になりました。窓口や薬局で提示すれば、所得に応じた限度額までの支払いで済むので、金銭面はもちろん、精神的にもすごく助けられました。

岸田 気持ちの面でだいぶ違いますよね。ちなみに、保険には入ってなかったんですか。

河田 当時は、自分がどんな医療保険に入っているかなんて考えたことがありませんでした。全部、親に任せっきりでしたね。

【まとめ】

岸田 ありがとうございます。副作用は、体の痛み、けいれん、筋肉のつり、下痢、吐き気、肌が白くなる、体重減少…本当にいろんな症状があったわけですが、当時の生活でも大きな変化がありましたよね。大学に通えなくなったり、東京から田舎の実家に戻らざるを得なくなったり。それもつらい部分の一つだったんですかね。

河田 東京に行けたことがすごくうれしかったんです。 “よっしゃ、実家から出られたぞ” っていう気持ちで大学に進んだので、また実家に戻ることになったのはつらかったですね。

岸田 その後に、家出同然のことをする可能性を秘めているわけですけども。

河田 そうですね。

【がんの経験から学んだこと】

岸田 高額療養費制度を使っていたということになります。ありがとうございます。そして最後にお聞きしたいのはこちらになります。このがんの経験を通して、河田さんが学んだことっていうのをお伺いしたいなと思います。河田さんががんの経験を通して学んだこと。こちら、どん。

河田 がんの経験を生かせるタイミングがいつか来るということです。

岸田 これはどういうことでしょうか。

河田 この言葉だけだと月並みに聞こえるかもしれないんですが、やっぱり今の自分があるのは、がんになったこと、それによって出会えた仲間や友人たち、患者会での経験が本当に大きいんです。研究者としての今も、あの経験がなければ絶対にあり得ません。

河田 ただ、ここまでそう思えるようになるまで、すごく長い時間がかかったんですね。人によっては、自分のつらい経験をすぐに誰かの役に立てたり、自分の人生に還元したりできる人もいると思うんですけど、僕みたいに、つらい時期が長く続いてしまう人もいる。体がつらい、心がつらい、その先が全然見えないっていう時期が。

河田 だから、もし今すごく苦しい中にいる人が見ていたら、焦らなくていいと思うんです。いつか、自分の経験を生かせるタイミングが来る。そのときに生かせばいい。そういう思いでこの言葉を書きました。

岸田 そうですよね。河田さんには、あの“ずどん”と落ちてしまったうつの時期があるから、なおさらこの言葉が響くんですよね。だって、2年間は本当に暗黒時代だったわけですもんね。

河田 そうですね。その“いつか”を待つまでが、一番つらかったです。

岸田 でも、上がってくるタイミングは本当に来ると。

河田 来ます。

岸田 河田さんの場合は、それが患者会で仲間に出会えたことだったりしたわけですよね。人によってそのタイミングは本当に違う。『がんノートmini』に出てくれた人の中にも、15年かかってようやく自分のことを話せるようになったっていう人もいますし、逆にすぐに気持ちを切り替えられる人もいる。人それぞれ、本当にいろんなパターンがあります。焦らず、自分のペースでっていうことですね。

岸田 というわけで、本当に河田さん、今日はお時間いただきましてありがとうございました。

河田 こちらこそ、こうして話す機会をいただけて、ありがとうございました。

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