目次

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インタビュアー:岸田 / ゲスト:藤田

【オープニング】

岸田 それではライブ配信を開始いたします。本日のゲストは藤田さんです。よろしくお願いいたします。

藤田 よろしくお願いします。

岸田 ありがとうございます。藤田さん、とてもおしゃれな空間にいらっしゃいますね。

藤田 いえ、そんなことはないですよ。

岸田 いえいえ、とても素敵な空間だと思います。その空間に癒やされつつ、本日はロングインタビューを進めていければと思っております。それでは改めまして、藤田さん、ご自身の自己紹介をお願いできますでしょうか。

藤田 藤田理代と申します。東京生まれで、現在は大阪に住んでいます。37歳で、仕事はウェブディレクターをしています。私は今から8年前、2014年に絨毛がんという希少がんを経験しました。手術と抗がん剤治療を経て、現在は寛解し、病状は落ち着いている状態です。

岸田 ありがとうございます。藤田さん、現在は大阪在住ということですね。絨毛がんというのは、あまり耳にすることのないがんですよね。

藤田 そうみたいですね。私自身も、罹患して初めて知りました。

岸田 そうですよね。いつも藤田さんのことを「みっちゃん」と呼ばせていただいているので、今日もその呼び方で進めさせていただければと思います。29歳のときにがんが発覚されたということですね。
すでにコメントもたくさんいただいていますので、いくつかご紹介します。

岸田 轟さんから、「みっちゃんのお話が聞けること、お顔が見られることを楽しみにしています」とコメントをいただいています。

藤田 ありがたいですね。

岸田 谷島さんからは、「おはようございます。徹夜で待っていました」とのことです。早くからスタンバイしてくださっている方もいらっしゃいますね。
mikaさんからは「おはようございます。楽しみです」、よしさんからも「今日もorigin楽しみです」とコメントをいただいています。

岸田 また、京子さんからは「みっちゃん、お久しぶりです」、nisimuraさんから「おはようございます」、高橋都先生からは「お顔が見えて嬉しいです」といったメッセージも届いています。さらに、ひとみさん、やまやんさんからもご挨拶のコメントをいただいております。

【発覚から告知まで】

藤田 はい。「胞状奇胎(ほうじょうきたい)」というのは、妊娠に関わる胎盤の組織、いわゆる絨毛(じゅうもう)が正常に発育せず、ぶどうの房のように異常増殖してしまう状態のことです。
本来であれば、赤ちゃんと胎盤が一緒に育っていくのですが、胞状奇胎の場合は、受精卵の染色体異常などが原因で、赤ちゃんがうまく育たず、胎盤の組織だけが異常に増えてしまいます。

岸田 なるほど。妊娠はしているけれど、正常な妊娠とは違う状態ということですね。

藤田 そうですね。しかも「全胞状奇胎」というのは、赤ちゃんの成分がほとんどなく、胎盤の異常な組織だけが増えるタイプです。私の場合は「疑い」という段階で、肉眼的には分からなかったけれど、病理検査で一部にそうした異常な細胞が混じっていた、という説明でした。

岸田 この時点では、まだ「がん」という話ではなかったんですよね。

藤田 はい。この時はあくまで「流産後の病理結果として、胞状奇胎の疑いがある」という説明で、がんとは言われていませんでした。ただ、胞状奇胎という病気自体が、一定の割合で「絨毛性腫瘍」、つまり将来的にがん化する可能性がある病気なので、ここから慎重な経過観察が必要になります。

岸田 なるほど。ここが、後の絨毛がんにつながっていく最初のポイントになるわけですね。

藤田 そうですね。今振り返ると、ここがすべての始まりでした。

 私自身も当時はよく分かっていなかったのですが、絨毛組織という妊娠に関わる組織が異常に分裂し、ぶどうの房のようにどんどん増えてしまう状態が、子宮の中で起こる病気です。その時点で先生が、この病気全体について紙に書きながら説明してくださったんです。

 「胞状奇胎だった場合、9割は自然に治ります。1割は抗がん剤治療が必要になります。がんでなくても抗がん剤が必要になることがあります。そして、その抗がん剤治療を行った場合も、さらに9割は治癒します。残りの1割は難治性です」と、ゴールまで含めてすべて説明されました。

 ただその上で、「藤田さんの場合、今の見立てではそこまで心配する必要はないと思います。まずは腫瘍マーカーを追いながら、悪い細胞が増えていかないかを確認しましょう。落ち着いてきたら、また妊娠も頑張りましょう」と言われた、という流れでした。

岸田 その説明を受けた時、どのように感じましたか。いろいろなことが一気に重なったと思うのですが。

藤田 私はもともと、中学生の頃からずっと婦人科に通っていて、体調不良や治療、副作用などを経験してきました。そのため、すごくネガティブな考え方なのですが、「もし自分が大きな病気になるとしたら、婦人科系のがんなのだろうな」と、若い頃から漠然と思っていたところがありました。

 なので、「こういうパターンもあるのか」と、どこか冷静に受け止めていた部分もありました。先生も「今の時点では心配いらない」と言っていましたし、「治療を頑張ろう」という気持ちよりも、別の感情のほうが大きかったんです。

 それは、「全胞状奇胎」という言葉を調べて、「そもそも正常な妊娠ではなかったんだ」という事実を知った時の悲しさでした。流産自体もつらかったのですが、「赤ちゃんですらなかったのかな」という思いが強くなってしまって。

 ただ、すでに手術も終わっていて、周囲は「病気の治療を優先しよう」という雰囲気になっていました。正しい説明としては、「流産は母体のせいではないことがほとんどです」と言われていましたが、「悲しい」という気持ちを口にしづらくなってしまったことが、一番つらかったかもしれません。

岸田 確かに、「もう次へ」という流れになってしまいますよね。

藤田 そうなんです。まずは病気をどうにかしなければ、という方向に話が進んでいって、「実はすごく悲しかった」という気持ちを言えないまま、置いていかれたような感覚がありました。この時期は、そこがとてもつらかったです。

岸田 その後、みっちゃんはどのような経過をたどっていくのでしょうか。

藤田 そこから約1か月後に、腫瘍マーカーであるhCGの血液検査をする予定になっていました。ただ、その前に腹痛がどんどんひどくなっていき、下痢の症状も出て、どこが痛いのか分からないほどお腹全体が痛くなり、歩くのもつらい状態になってきました。

 再びそのクリニックを受診すると、先生はすぐに診てくださいました。流産手術後の感染症や、子宮の損傷による出血などを疑って、いろいろ検査してくださったのですが、特に異常は見つかりませんでした。

 そこで先生から、「念のため、腫瘍マーカーの検査を前倒しで行いませんか」と提案されました。さらに突然、「藤田さん、車は運転できますか」と聞かれたんです。

岸田 唐突ですよね。

藤田 本当に唐突でした。私はペーパードライバーで、ゴールド免許ではあるのですが、「運転はできません」と、少し的外れな答えをしてしまいました。

岸田 普通、そう答えますよね。

藤田 後で分かったのですが、検査結果次第では、大きな病院ですぐに精密検査を受ける必要があると考えておられたそうです。いくつか候補はあるけれど、最悪の場合を想定すると、少し不便でも大学病院を紹介したい、という判断でした。

 その日は帰宅して、1週間後に電話で結果を聞くことになりました。ただ、その電話では具体的な数値は教えてもらえず、「今週の土曜日ですが、月曜日の朝一番で紹介状を用意しますので、必ず大学病院に行ってください」とだけ伝えられました。その時点で、「状況はかなり良くないのだろうな」と感じました。

藤田 そして3月3日の朝、紹介状を持って大学病院を受診しました。

岸田 ちゃんと車で行きましたか。

藤田 いえ、運転できないので、駅までタクシーで行って、そこから電車とモノレールを乗り継いで向かいました。

岸田 大学病院に到着して、その後はすぐ検査だったのですね。

藤田 はい。予約なしで時間外受診だったので待ち時間はありましたが、診察してもらい、すぐに腫瘍マーカーの検査を行いました。エコーなども含めて、さまざまな検査を受けました。

 お昼過ぎ頃だったと思いますが、先生から「本当に、最初に診てくれた先生の判断が素晴らしかったですね」と言われました。腫瘍マーカーが、この1週間だけでも急激に上昇していて、「正直、今日からでも入院してほしい状態です」と説明されました。

 ただ、お互いに準備も必要だろうということで、「明日の朝一番で入院してください」となりました。まず入院して、検査を進めていくことになりました。

 その際に、「検査のために、もう一度子宮の中をすべて掻き出す手術を行います」と説明されました。前回は吸引でしたが、今回は掻爬手術です。その結果をもとに、正式な病名と治療方針を決めていく、という流れでした。

 この時点で付いた仮の診断名が「存続絨毛症」でした。異常な絨毛組織が体内のどこかで増えているが、まだ場所が特定できていない状態、という説明でした。

岸田 それが存続絨毛症みたいなものですね。

藤田 存続絨毛症です。

岸田 その疑いという診断で、治療に進んでいくわけですね。掻き出しの手術なども行うと。

藤田 その時点で、もう体のどこかで異常な絨毛組織が増えている状態なので、抗がん剤治療は必要になりますと言われました。使うのはメソトレキセート、いわゆる「メソ」という薬で、副作用についても説明を受けて、「帰り道でも目を通しておいてください」と資料を渡されました。そこから入院の手続きを一人で回ることになって、行く先々で「お一人ですか」と聞かれる状況でした。

岸田 その時点で、もう抗がん剤をやるという話ですよね。ただ、まだ「がん」という告知ではなかった。

藤田 そうですね。ただ、自分でも調べていたので、この病気は診断自体が難しくて、がんと明確に言われなくても抗がん剤治療が必要になることがある、ということは分かっていました。その頃は本当にしんどくて、息も苦しいくらいでしたし、帰るだけでも息が途切れ途切れになるような状態でした。

岸田 その後、掻き出しの手術をするために、「翌日入院しましょう」という流れになって、一度帰宅したんですね。

藤田 はい。まだ告知には全然たどり着いていません。

岸田 一度帰って、その後、ちゃんと入院できたのでしょうか。

藤田 帰って良いと言われた頃には、もう歩くのもしんどくて、入院準備の買い出しもできない状態でした。ただ、午前中にお腹の中を診てもらっていて「帰って大丈夫」という判断だったので、そこから急激に悪化するとは思っていなかったんです。無理して帰ったのですが、だんだん歩けなくなってきました。当時、夫は海外にいました。仕事ではなく、家族の結婚式で。私は自分の病気よりも、体調不良で一生に一度の結婚式をキャンセルさせてしまったことが申し訳なくて、そればかり気にしていました。実家は車で1時間弱と近かったのですが、その頃、母方の祖母が別の病院で危篤状態だったんです。

岸田 もう、藤田さんのご家族、かなり大変な状況ですね。

藤田 本当にその時は家族全体が大変でした。母や母の家族は祖母のほうに行っていて、私も「おばあちゃんに会いたい」という気持ちで頭がいっぱいで、自分の病気のことを考える余裕がなかったです。でも、いよいよ一人では入院準備もできなくなって、母に電話して「動けないから申し訳ないけれど、入院準備を手伝ってほしい」とお願いして、来てもらいました。

 夕方頃からはお腹の痛みがさらに強くなってきて、おかしいなと思い、救急用に教えてもらっていた産婦人科病棟の番号に電話しました。「痛みが強くなっています」と伝えると、「出血はありますか」と聞かれて、膣からの出血はなかったので「ありません」と答えました。すると、「午前中の画像では、そこまで大きな異常は見つかっていませんでしたよね」と言われて、電話を切られてしまいました。

 「明日入院と言われているし、我慢するしかない」と思って耐えていましたが、夜8時頃、立ち上がろうとした瞬間に目の前が真っ白になって倒れました。気がついたら大量出血していて、「これはもう駄目だ」と思って再度電話をしました。「出血しています」と伝えると、「すぐ来てください」と言われました。

 それでもその時は救急車を呼ぶのが申し訳なくて、タクシーを呼ぼうとしましたが、もう限界で、母に救急車を呼んでもらい、そのまま大学病院に搬送されました。夜遅い時間でした。CTを撮ると、横隔膜の下まで腹腔内に大量出血があり、1リットル以上の血液が溜まっていました。当時40キロ台前半だったので、命に関わる状態でした。さらに、両肺に星屑のような無数の結節が見つかり、恐らく絨毛組織が飛んでいる状態でした。とにかく出血を止めなければならず、真夜中に緊急の止血手術を受けたのが3月3日です。

岸田 本当に怒涛の一日ですね。

藤田 はい。その手術も、通常なら真夜中なので開腹になるところだったのですが、その日の当直医がたまたま産科の先生で、しかも腹腔鏡手術のスペシャリストでした。すぐに抗がん剤治療が必要で長期になること、そして妊娠を望んでいた経緯を踏まえて、「できる限り低侵襲で、次の妊娠につながる可能性を残したい」と判断してくださいました。

 まずは腹腔鏡で止血を試み、止まらなければ開腹、それでも駄目なら子宮・卵巣摘出になる、という説明を両親は受けていました。私は途中で一度揺すり起こされ、「最悪、子宮摘出になります」と言われましたが、「でも、できる限り残しますから」と言ってくださって、その一言に胸を打たれました。

 結果的に、子宮上部外側の動脈が切れていたことが分かり、腹腔鏡で止血できました。外側だったため腹腔内に血液が広がっていたようです。開腹にはならず、腹腔鏡手術のみで済みました。さらに、本来2日後に予定されていた掻爬手術も、その真夜中に同時に行われ、治療開始が早まりました。その日、なんとか一命を取り留めましたが、この時点でもまだ正式な「がん」の告知は受けていませんでした。

岸田 本当に、その当直の先生が産婦人科で、しかも腹腔鏡の専門医だったのは大きかったですね。

藤田 そうなんです。目が覚めた後に看護師さんから、「あなたは本当に不運だったけれど、本当に運が良いわよ」と言われました。その後、診断を確定するためにMRI検査が必要になり、時間がない中で先生たちが検査部と何度も連絡を取り合って調整してくださいました。突然ストレッチャーで連れて行かれて、「本当に急ぐ病気なんだな」と、そこで初めて実感しました。

藤田 MRIの結果はその日の夜に出て、子宮と卵巣、そして両肺に病変があることが分かりました。ただ、摘出していないので確定診断はつかないのですが、絨毛性疾患というのは、腫瘍マーカーの高さや、妊娠反応が出てから何か月経っているか、発見までにどれくらい時間がかかっているかなど、さまざまな臨床的スコアを踏まえて診断を行います。

 それらを当てはめた結果、「臨床的侵入奇胎」、つまり奇胎が子宮の筋層から血流に乗って転移している状態、という診断になりますと言われました。なので「すぐにでも抗がん剤治療を始めたいのですが、旦那さんは帰国されましたか」と聞かれました。

岸田 もうそろそろ帰ってくるやろ、というタイミングやね。

藤田 その日には帰ってきていて、夜に戻ってきたばかりでした。なので、翌朝一番に来てもらって、説明を受けて同意書を書いてもらいました。その同意書を書いた直後くらいに、先生が慌ただしく入ってきて、そのまま筋肉注射での抗がん剤治療が始まった、という流れでした。

岸田 臨床的侵入奇胎。これもなかなか聞かない言葉やね。

藤田 私も初めて聞きました。絨毛性疾患としては、全胞状奇胎、存続絨毛症、そして臨床的侵入奇胎が3つ目で、その先に残っている病名はもう絨毛がんしかない、という説明でした。どんどん転がり落ちるように診断が進んでいく感じでしたね。

岸田 旦那さんが帰ってきて、ようやく抗がん剤を受けられて、翌日から治療が始まったわけですね。その後、いわゆる「がん告知」はどういう形でされていったんですか。

藤田 正直、その頃はがんのことを考える余裕もなかったです。抗がん剤の副作用もあるし、手術後のつらさもあるし、どんな手術をしてどう回復していくのかも、十分な説明を受けられないまま進んでいました。
身体はすごく痛いし、抗がん剤治療もすぐ始まるし、訳も分からないまま「歩いてください」と言われる状況でした。

 治療は5日間抗がん剤を打って、9日休薬するという2週間1クールの予定だったのですが、「今すぐ始めなければいけない」ということで、水曜日スタートになり、休薬期間も9日を8日に短縮します、というようなイレギュラーな説明が続きました。
副作用もきつかったですし、何より一度、大量出血を起こしているので、抗がん剤で絨毛組織が死ぬことで、再び同じような大量出血を起こすリスクが高い、という心配が常にありました。スタッフの方も、私自身も、そのことばかり気にしていました。

 そうしてドレーンを入れたまま2週間ほど入院していたある水曜日に、「藤田さん、今日、病理検査の結果が出たのですが、ご家族は来られますか」と言われました。
その時は、日々があまりにも大変すぎて、正直、その検査結果のことを忘れていたんです。でもそう言われた瞬間、「もう残っている病名は一つしかないな」と分かりました。

 夫に来てもらうことになり、入院中だったこともあって、夜、病棟の小さな部屋で説明を受けました。その日は主治医の先生がいらっしゃらず、代理の先生から、がんの告知を受ける形になりました。

岸田 旦那さんと一緒に告知を受けたんですね。

藤田 はい。夫が同席してくれていました。それとは別に、母がたまたまその日、お見舞いに来る予定だったんです。
実は、私が緊急手術を受けた日に、危篤だった祖母は亡くなっていたのですが、母はそれをまだ私に伝えられていなくて。そのことを話しに来ようとした日に、今度は私のがん告知、という状況でした。

 なので、告知の場に同席したのは、来てくれた夫と、たまたま居合わせた母の3人でした。本当に、いろいろなことが同時に起きて、てんやわんやでした。

岸田 ようやくそこで「絨毛がんです」と告知されるわけですね。そこまでの流れを聞くと、本当に怒涛ですよね。自分なりに心の準備はしていたと思いますが、実際に告知を受けた時はどうでしたか。

藤田 説明としては、「がんです」とストレートに言われたというより、「病理検査の結果、子宮の中から絨毛がんの細胞が出てきました」という形でした。
この病気は、必ずしも腫瘍を摘出せずに治療を進めることが多いので、がん細胞が検体に出てこないこともあります。そのため、病理と臨床の間でかなり議論があった、と説明されました。

 病理的にはがんが出ている。ただ、がんと診断された場合、ガイドラインでは3剤から5剤の多剤併用療法に切り替える必要があり、悪性度も非常に高いがんです。ただ、私の場合は、すでに始めていた単剤の抗がん剤が、想像以上によく効いていました。

岸田 それは大きいですね。

藤田 はい。効果がかなり出ていたので、「がんではあるけれど、ここで無理に強い治療に切り替えることが本当に最善なのか」という議論があったそうです。
多剤併用療法は副作用も段違いに強く、治療の継続が難しくなるリスクもある。そうした点を踏まえて、議論の結果、「絨毛がんではあるが、治療方針としては臨床的侵入奇胎として、今の単剤治療を継続する」という判断になりました。

 患者側としては、「がんと言われたのに、がんのガイドライン治療ではない」という状況で、正直、混乱しました。大丈夫なのかな、という不安もありました。
でも一方で、長い時間をかけて、やっと自分の体感していたつらさと、病名の重さが釣り合ったような感覚もありました。

 「これだけしんどかったのは、気のせいじゃなかったんだ」「大げさでも、弱いわけでもなかったんだ」と思えて、どこかホッとした部分もありました。
これ以上悪い病名はもう出てこない、もう変わらない、と思えたことに、安堵した気持ちもありました。

岸田 なるほどね。そこまでの告知まで、本当に長かったですね。

藤田 すみません。告知まで、かなり時間がかかりましたね。

岸田 30分以上いってます。

藤田 でも、ここでほとんどです。

【 治療から現在まで】

岸田 ここから治療は、もうスパッと進んでいく形になりますね。告知までお話を伺ったので、ここからは治療から現在までを少しお聞きしていきたいと思います。ここからはテンポよく進めていきますね。とはいえ、本当にすごい経験です。がん告知を受けた後、こちらのスケッチブックになります。通院治療が始まっていくわけですが、告知を受けた後、治療としてはそのまま退院できたということですよね。ここから、どのような通院治療をされていったのでしょうか。

藤田 そうなんです。2週間ほど経過を見て、絨毛組織、つまりがん細胞もかなり減ってきて、大量出血のリスクが下がってきたため、本来の通院治療に戻しましょうということになりました。がん告知を受けてから数日後、3日後くらいだったと思いますが、退院となりました。
そこからは通院治療に切り替わり、月曜日から金曜日まで毎朝、朝一番に血液検査をして、診察を受け、抗がん剤を打てる状態かどうかを判断してもらいます。その後、外来化学療法室に移動して抗がん剤を投与し、そのまま帰宅する、という流れをひたすら繰り返していました。

 月曜日は主治医の先生が診てくださるので安心感があったのですが、火曜から金曜までは日替わりで別の先生が担当されるため、コミュニケーションを取るのがなかなか大変でした。外来化学療法室のスタッフの方も曜日ごとに違っていて、その点も含めて気を使う場面が多かったです。
抗がん剤治療としては最終的に8クール行いました。

岸田 スケッチブックには「肝機能障害」と書かれていますね。

藤田 はい。口内炎などの粘膜障害や骨髄抑制など、いろいろな副作用はありましたが、一番大きかったのは肝機能障害でした。その影響で治療の継続が難しくなってしまったんです。
本来、絨毛がんの治療は、腫瘍マーカーがゼロになるまで抗がん剤を打ち続ける治療で、治療期間の目安を立てるのが難しいタイプの治療です。

岸田 そんな治療があるんですね。

藤田 はい。通常は「何クール」と決まっている治療が多いですが、絨毛がんの場合は、1でも残っているとすぐに再増殖してしまうため、まずはゼロにすることが重要だと説明を受けていました。
さらに、ゼロになった後も再発を防ぐために、いわゆる「駄目押し」で数クール追加するのが一般的です。

 ただ、私の場合はゼロに近づいた頃にはすでに肝機能障害がかなり進行していて、治療が大幅に遅延していました。何とか駄目押しで2クールは、1カ月ほど間隔を空けながら打つことができましたが、それ以上は難しいという判断になり、治療を終了することになりました。
予定していたクール数をすべて終えられないまま、「寛解」という形で治療が終了しました。治療の終了は6月末で、結果としては8クールでした。

 一般的に多剤併用療法で順調に進めば、もっと多くのクールを受ける方もいると思いますので、かなりイレギュラーなケースだと思って聞いていただければと思います。

岸田 今聞いてくださっている患者さんやご家族の方には、治療法については必ず主治医の先生と相談していただきたいですね。藤田さんの場合は、告知の時点から特殊な経過をたどっていますが、あくまで一つのケースとして受け取っていただければと思います。

藤田 標準治療であることには変わりありません。ただ、ガイドラインで最も推奨されている治療とは少し異なる形でした。それは、告知の時点での身体の状態や、その後の人生、妊孕性も含めて主治医の先生が総合的に判断してくださった結果です。
この病気自体が、かなりケース・バイ・ケースで治療を考える必要がある疾患だと思います。

岸田 本当に最先端の、個別性の高い治療ですね。

藤田 主治医の先生も毎週ハラハラしながら、一緒に悩んでくださっていました。とても優しい先生で、「僕も悩みながらやっています」と正直に言ってくださって。結果としては、とても良い経過だったと思います。

岸田 ありがとうございます。ここで一旦、治療が終了するところまで伺いました。コメントもいただいていますので、少しご紹介しますね。「全胞状奇胎、難しい言葉ですね」「絨毛がんは、主治医が過去に診たことがある症例かどうかが本当に重要ですよね」といった声をいただいています。

藤田 本当にそうだと思います。最初に診てくださった開業医の先生が経験をお持ちでなければ、発見はもっと遅れていたと思います。

岸田 希少がんは病名がつくまでが本当に大変ですよね。しかも今月は希少がん月間です。

 では次の項目に移ります。「寛解1年で妊娠の許可」というテロップですが、これはお医者さんから「妊娠しても良いですよ」と言われるということですよね。

藤田 はい。この病気は、1年以内の再発リスクが最も高いとされています。それを過ぎれば再発の可能性は下がるため、1年を目安に妊娠の許可が出ました。
この病気は、妊娠を望んでいる方が多く発症することもあり、妊娠にも年齢的なタイミングがあることから、治療を乗り越えた後の「次の希望」として、比較的早めに妊娠の許可が出るケースが多いです。

岸田 その時の気持ちはどうでしたか。「やった」と思えるものなのでしょうか。

藤田 「やった」と思える方もたくさんいると思います。私自身も15年近く婦人科に通い続けて妊娠を望んできましたし、周囲の先生方も妊孕性を守るために尽力してくださっていました。
なので、寛解がゴールというより、「妊娠して出産できて、やっと恩返しができる」というふうに、無意識のうちにゴールをそこに設定してしまっていたと思います。

 ただ、いざ妊娠を考える段階になると、強い恐怖が先に立ってしまい、妊娠について前向きに考えられなくなりました。

 医師の先生からは何度も、「この病気は藤田さんに何か問題があって起きたものではなく、健康な男女間でも誰にでも起こりうるものです」「一度絨毛がんになった人が再び妊娠に挑戦しても、なっていない人と再発リスクは変わりません」と説明を受けました。統計的には同じだと。

 でも、「統計的にイーブン」という話と、「自分は1分の1でがんだった」という体験との間には、どうしても大きな乖離がありました。

 周囲との温度差も大きく、「妊娠する気持ちになれない」と正直に言えませんでした。「母性が足りないのではないか」と自分を責めたりもしました。
ちょうどその頃、若いがん経験者の方がリスクを承知の上で妊娠・出産を選んだという報道を目にすることも多くて、自分との違いに苦しくなりました。

 許可は出ているのに、再発や流産が怖くて妊娠に踏み出せない自分はおかしいのではないか、と抱え込んでしまい、誰にも相談できず、「頑張ります」とだけ言って帰る、そんな日々が続いていました。

岸田 医療者としては、良かれと思って言ってくださるとは思うのですが。

藤田 当然、もともと妊娠を望んでいた人だという前提で話が進むんです。でも私は、気持ちが大きく変わってしまっていて、それを相談しづらかったんですよね。外来はすごく混んでいて、長々と人生相談ができる雰囲気でもありませんし。周囲との乖離が一番激しくなっていた時期で、「寛解1年おめでとう」とすら思えない状態でした。

岸田 その乖離がある中で、フリーランスで仕事を始めたり、マギーズ東京に行ったり、STAND UP!!という患者会に入ったりしていきますよね。そのあたりは、気持ちが少しでも晴れたりしたのでしょうか。

藤田 私は大学で福祉を学んでいたので、病院にがん相談支援センターがあることや、ソーシャルワーカーさんがいること、利用できる制度があること、患者会があることも知っていました。でも、どこにも行けなかったんです。
相談するという行為は、前向きな気持ちが前提だと思い込んでしまっていて、ネガティブな相談がしづらかったんですよね。治療自体は成功しているし、経済的にも夫のサポートがある。だから、制度や医療で解決すべき問題ではない気がして、どこにも相談できませんでした。
もし否定されたら、「結局あなたが頑張るしかないでしょう」と言われたら、もうどこも頼れなくなる、そんな怖さもあって、ずっと困っていました。

 そんな時にマギーズ東京ができたんです。実は大学の授業で、海外には病院の外で、がんの影響を受けた人が無料で専門家に話を聞いてもらえる場所がある、という事例を学んでいました。それが日本にもできるんだ、と。
案内を読んだら「治療中でなくても、病気の影響を受けた人ならいつでも利用できます」と書いてあって、「ここなら相談できるかもしれない」と思い、東京まで行きました。

岸田 大阪から東京まで、相談に行ったんですか。

藤田 はい。そこで初めて、「妊娠に向かって頑張れないんです」ということを口にできました。それだけで気持ちがだいぶ楽になりました。
その時に話を聞いてもらったことで、「その気持ちを主治医にきちんと伝えたらいいのではないか」という話になって、ようやく「実は気持ち的に難しくて」と主治医に言えるようになりました。結果的に、その3年フォロー(フォローアップ)も、そこできちんと区切りがついて終了になったので、私にとっては大きな変化でした。

岸田 逆に言うと、2015年から2017年頃までは、うつうつとした気持ちを抱えたまま通院していたということですよね。

藤田 そうです。通院すると「頑張ります」と言ってしまうんです。「体調どうですか」と聞かれたら体調は悪いと言えるけれど、「妊娠はどうですか」と聞かれると「頑張ります」と答えてしまう、そんな状態がずっと続いていました。

岸田 次のフリップはこちらです。これが最後のフリップになります。「かかりつけ医を産科から婦人科へ」ということですが、病院を変えたということですか。それとも科を変えたということですか。

藤田 大学病院でのフォローが終わった時点で、がんのフォローは終了しました。でも、婦人科の不調自体は続いているので、かかりつけ医は探さなければいけません。
転院前に「がんかもしれない」と提示してくださったのは産科の先生でしたが、妊娠を希望しない人は診てもらえないこともありますし、産科の空間自体が私にはつらかったんです。妊婦さんや新生児の声がある場所にいるだけで、余計につらくなってしまうので。
それで、婦人科で良いところがないか一生懸命探して、少し遠い婦人科を見つけました。そこが、たまたま主治医の先生と古くからの知り合いのベテランの女性医師で、今は安心して通えるようになり、だいぶ落ち着いてきたという感じです。

岸田 そして、「移動アトリエ」などもありますね。看護師さんにお礼を伝える、というのも書いてありますが、ここで医療者の方へ、ということですよね。

藤田 はい。地域でがん経験者として活動に参加していく中で、治療を受けていた大学病院のソーシャルワーカーさんが、若い患者さんの集まりにも顔を出してくださっている方だったんです。
その時に「実はすごくお世話になった看護師さんがいて」と話したら、いろいろな流れの中で「手紙を書いてくれたら渡してあげるよ」と言ってくださって、届けてもらえました。すると、その看護師さんが返事を書いてくださったんです。
当時の私のこともすごく覚えてくださっていて、今の私に向けたメッセージのような言葉もありました。それで、つらかった記憶や言えなかった気持ちが、少し書き換えられたような感覚がありました。

 気持ちが前向きに変わったのが2018年頃で、看護師さんにお礼を伝えられたのは2020年でした。6年経って、ようやく少し回復できた、という感覚でした。

岸田 そして、お引っ越しもして。

藤田 はい。環境を変えることで、ようやく今、だいぶ落ち着いてきた、という感じです。長かったですけれど。

岸田 ありがとうございます。本当に波乱万丈でしたね。コメントでも「母性か!」と反応されていたり、「怖いですよね」「本当の気持ちを言えるようになって良かったです」といった言葉もいただいています。

岸田 そして、当時の写真もお預かりしています。まずは治療前の写真がこちらになります。みっちゃんと旦那さんですね。海外に行かれていた旦那さんで、結婚式のために渡航されていたということですが、旦那さんとは昔からのお知り合いで、お付き合いされてご結婚されたんですか。

藤田 小学校の同級生です。大学で再会して、大学時代からのお付き合いなので、もうすごく長いですね。持病で大変だった頃から、ずっと話を聞いてくれていた人、という感じです。

岸田 素敵ですね。続いて、こちらが治療中の写真になります。治療中とは思えないくらい、かなりはっちゃけていますが、大丈夫ですかね。これは、どういう時の写真ですか。

藤田 これは、入院していて退院が決まった時の写真です。がんと言われて、しかも手術不能で抗がん剤治療になると聞いて、正直、この先どうなるか分からないなと思っていました。薬が効かなくなるか、打てなくなるかで、状況が厳しくなるかもしれない、と。
それで、口座を整理したり、いわゆる終活のようなことを考え始めたんです。その中で、「遺影がない」と思って。家族の葬儀の時、いつも遺影がなくて大変そうに写真を探しているのを見てきたので、迷惑をかけたくないなと思って、「遺影を撮っておかなきゃ」と、なぜか強く思ったんですよね。

 カメラマンの友人がいたので、「がんって言われたから、遺影を撮ってほしい」とお願いしました。友達もかなりびっくりしていたと思います。
でもその友人が、「遺影も撮るけど、この先治療で見た目が変わるかもしれないし、治療を頑張るための写真も撮ろうよ」と声をかけてくれて、それで撮ったのがこの写真です。

 写真ではすごく元気そうに見えますけど、実際は歩くのも精いっぱいで、久しぶりに私服を着て、私はただ立っているだけなんです。周りの人たちが飛び跳ねてくれているので、すごく元気そうに見えるんですけど。

岸田 確かに、めちゃくちゃ元気そうに見えます。

藤田 そうなんです。でも本当は退院したばかりでフラフラで、立っているのもやっとでした。それでも、この写真にすごく元気をもらいましたし、写真の力に支えられたなと思っています。

【家族(親)】

岸田 ありがとうございます。ここからは項目ごとにお話を伺っていきたいと思います。まずは、みっちゃんのご家族のことからです。ご両親についてですが、先ほどお母さんが付き添って来てくれたというお話もありました。ご両親にはどのように病気のことを伝えて、どんなサポートがあって良かったと感じていますか。

藤田 自分の両親については、父や家族への説明はすべて母から伝えてもらいました。夫の両親には、基本的に夫からすべて説明してもらう形にしていました。自分で連絡を取るのが精神的にしんどくて、うまく話せる状態ではなかったんです。

 ただ、両家とも、半年以内に近しい家族を亡くしていて、その直後に私のがんが分かりました。しかもその亡くなった方もがんだったので、「何が何でも理代ちゃんを助けたい」という気持ちで、両家とも本当に全面的にサポートしてくれました。

 みんな現役世代ではあるのですが、母は平日は私の家に住んで、そこから仕事に通ってくれました。夫の両親も、少し不便な場所に住んでいるにもかかわらず、車で迎えに来てくれたり、送り迎えをしてくださったりと、できる限りのことをしてくださいました。
本当に、両家から全面的に応援してもらった、という感覚が強いです。

【家族(パートナー)】

岸田 良かったですね。では次に、パートナーの方について伺いたいのですが、旦那さんのサポートはいかがでしたか。ありがたかったことや、こうしてほしかったなということはありましたか。

藤田 がんになる前から、病気を抱えている私とずっと付き合ってくれていたので、サポートは本当に手厚かったです。それに、夫はキャリアコンサルタントの仕事をしていて、悩みを抱えた人の話をじっくり聞きながら、その人がこれからどう生きていくのかを一緒に考えるような仕事をしているんですね。

 なので、夫として気持ちの面で支えてくれるだけでなく、「この先どう生きていくか」という視点でも、少し冷静に話を聞いてくれました。そのバランスがすごくありがたくて、本当に助けられたなと感じています。

岸田 めちゃくちゃ良いですね。僕もキャリアコンサルタントになろうかな。

藤田 でも、向いてるかもしれないですよ。

岸田 今、一瞬止まりましたけどね。大丈夫です、大丈夫です。すみません(笑)。そんなふうに、気持ちの面でもしっかり支えてくれる旦那さんがいて、本当に素敵ですね。コメントでも「素敵な幼なじみですね」という声をいただいています。

【妊よう性】

岸田 そしてみっちゃんには、妊孕性のことについて伺いたいと思います。先ほども少しお話を聞かせていただきましたが、あらためて、妊孕性、つまり子どもを授かる力について、治療当時にどのようなお話があったのか、保存の選択肢なども含めて、覚えている範囲で教えていただけますでしょうか。

藤田 特に改まった説明があったというわけではありませんでした。産婦人科での治療でしたし、私の場合は妊娠がきっかけで発症している病気だったので、状況も特殊だったと思います。

 主治医の先生からは、「あなたはまだ若い。まずはこの先、生きることを一番に考えた治療を提案したい。そのうえで、妊娠に挑める可能性もできる限り残したい」という説明を受けました。

 ただ、採卵などを考える余裕がある状況ではなく、すでに単剤の抗がん剤治療が始まっていました。その治療自体は、妊孕性に大きな影響はないと説明されていました。もし治療が切り替わる段階になっていれば、改めて提案があった可能性はありますが、結果的には、その治療が効いて、妊孕性をできる限り残す形で治療が終わった、という流れでした。

岸田 その後、気持ちの部分で乖離があったというお話もありましたが、今の気持ちはいかがですか。

藤田 今も、妊娠については正直、考えられないという気持ちは変わっていません。時間が経っても同じです。それよりも、この先も夫と一緒に生きていきたいという気持ちが強くて、そのためにはリスクをできるだけ減らしたいと思っています。また、あの治療や、そこに伴う悲しみをもう一度受け止めることは、心と身体の両方で耐えきれないと感じています。

 そうしたことを天秤にかけた結果、今はこの選択をしている、という状態ですね。

岸田 そうですよね。お子さんを授かることだけが幸せや正解というわけではありませんし、家族の形も本当にいろいろあると思います。みっちゃん自身がそれをベストな選択だと思えているのであれば、それはとても素晴らしいことだと思います。本当にありがとうございます。

【仕事】

岸田 そして、その後のお仕事のことについて伺いたいと思います。先ほどはかなり駆け足だったので、ここで少し詳しく聞かせてください。当時はお仕事はされていたんですか。

藤田 フルタイムで、ウェブディレクターの仕事をしていました。

岸田 ウェブディレクターをされていて、急に倒れたり入院が必要になったりと、状況が一変したと思うんですが、その時、お仕事はどうされたんですか。

藤田 しばらくは、本当に思いやりのある職場で、状況が全然定まらない中だったので、「仕事のことは気にせず、まずは治療に専念してください」と言っていただきました。手続きがどうこうというより、とにかく治療を優先していいという形でした。

 ただ、がんという診断が出た時点で、結論としては一度退職しようと決めて、3月末で退職しました。今は「仕事と治療の両立」という言葉もよく聞きますが、当時の私にはその選択が難しく感じられていました。

岸田 それは、ご自身が職場にいることがつらくなったのか、それとも会社側の事情があったのか、どちらだったんでしょうか。

藤田 会社側は本当に理解があって、「どんな病名であっても、治療期間が決まっていなくても、休職制度もあるし、傷病手当金も出るから、今すぐ決めなくていい。治療をしながらゆっくり考えたらどうですか」と声をかけてくれました。今から8年も前のことなんですが、本当に理解のある対応でした。

 ただ、私自身が「休む」という行為がとても苦手で、休職していること自体に強い罪悪感を感じてしまっていました。迷惑をかけている、早く戻らなきゃ、取り戻さなきゃと思ってしまって、夢でも毎日うなされるような状態で。その時、「この治療を頑張る」という約束事だけに集中したいと思って、一度退職する選択をしました。結果的には、すごく応援して送り出してもらいました。

岸田 退職されてからは、どのタイミングで、どんな形でお仕事を再開されていったんですか。

藤田 幸い、病気がちだったこともあって、何かあった時のために貯金をしていましたし、夫というパートナーもいたので、生活費や治療費の面ではそこまで困りませんでした。治療自体も、ものすごくお金がかかるものではなかったので。それで「1年間は休もう」と決めました。実際、身体の回復に時間がかかって、バレエ教室に通って身体を動かしながらリハビリをしたりして過ごしていました。

 1年経った頃には、「またフルタイムで仕事に戻ろう」というのをゴールに設定していました。妊娠を目標にしていたのと同じ感覚です。でも、いざその時期になってみると、全然そんな気持ちになれなくて。制作の仕事は、数か月単位で進めるものが多く、「今日元気だから今日だけ頑張る」という働き方が難しい仕事です。復帰して1年先、2年先まで責任を持ってやり切れるかと考えると、再発するんじゃないかという不安がどうしても拭えませんでした。

 そんな時に、周囲の人たちが「個人的に仕事をお願いしたい」と声をかけてくれて、思い切ってフリーランスとしてやってみようと、税務署に開業届を出しました。自分の体調に合わせてできる範囲の仕事を続けていたら、少しずつフリーでの仕事が増えていって、結果的に5年ほどフリーランスとして働いていました。

岸田 体調を見ながら、自分で調整しつつ働いていたんですね。その後は、また何か形が変わったんですか。

藤田 ずっと考えてはいました。チームでものづくりをする仕事は、やっぱり楽しかったなと。5年経って、自分の中でも一区切りがついた頃に、ちょうどコロナが来て。いろいろなご縁が重なって、結論から言うと、がんになる前に働いていた職場に、同じチームとして戻ることができました。

岸田 それはすごいですね。

藤田 治療中もずっと声をかけ続けてくださっていた方が職場に残っていて、私が仕事を探していることを知って、「もしよければ、元いた職場に戻るという選択肢はどう?」と声をかけてくれたんです。

 正直、長く離れていましたし、迷惑をかけて辞めたという気持ちもあって、戻れるとは思っていませんでした。でも、職場の皆さんが本当に温かく迎えてくださって、今はそこで働いています。

岸田 本当に、これまでのみっちゃんの働き方が評価されていたからこそですよね。

藤田 正直、期待に応えられているか分からなくて、毎日必死です。でも、仕事と治療の「両立」だけが選択肢じゃなくて、こういう戻り方もあるんだよ、という例が増えたらいいなと思っています。

岸田 ありがとうございます。本当に。仕事を休むことへの抵抗感に共感するという声も多いですし、「自分の気持ちを大事にすることが何より大切」というコメントも来ています。

藤田 嬉しいですね。

岸田 身体と気持ちが合ってこその両立ですもんね。改めて、大切なことを考えさせてもらいました。ありがとうございました。

藤田 ありがとうございました。

【お金・保険】

岸田 そして次はこちらになります。「お金・保険」ということで、少し生々しい話になりますが。さっき、治療費はあまりかからなかったという話もありましたよね。覚えている範囲でいいので、全体的にどれくらいかかったか、教えてもらえますか。

藤田 ごめんなさい、それ、正直ちゃんと調べていなくて。治療費については、あまり把握していないんです。

岸田 全然、大丈夫。ざっくりでいいですよ。

藤田 高額療養費制度は使いました。真夜中の腹腔鏡手術だったので、時間外の加算が結構付いていて、「これは高いな」と思いました。細かくは覚えていないんですが、たぶん請求額としては100万円以上とか、もっと書いてあった気がします。ただ、高額療養費制度のおかげで、実際の自己負担は上限の数万円で済みました。

 その後は通院治療で、基本的には筋肉注射だけでした。この病気は画像診断がほとんどなくて、腫瘍マーカー1種類で判断するんです。なので、一般的ながん治療で必要になるような検査費用は、だいぶ抑えられていたと思います。治療期間も比較的短かったので、「かからなかった」と言うと語弊はありますが、想像していたよりは少なかったです。

岸田 感覚としては、数十万円くらいで済んだ、という感じですか。

藤田 すみません、本当にそこもはっきり分からなくて。治療で精いっぱいで、お会計も母に頼んだりしていましたし、正直、領収書を見るのもしんどくて。いくらだったか把握できていないんです。

岸田 なるほど。保険には入っていましたか。民間の保険などは。

藤田 入っていなかったです。実は入ろうと思って、いろいろ検討はしていたんですが、持病があると入れない、もしくは保険料が高くなると言われて。どっちが得なんだろうって悩んで、入れないかもしれないと言われた時点で、心が折れてしまいました。私、メンタルが弱いので。

 今は、持病があっても入れる保険も増えていますよね。当時もあったとは思うんですけど、今ほど選択肢は多くなかった印象です。「がんでも入れます」という保険も増えていますし、今ならそこまで悩まなくていいのかなと思います。当時は気持ちが追いつかなくて、結果的に保険には入っていませんでした。

岸田 なるほど。じゃあ、その分、貯金はかなりしていたと。

藤田 そうですね。だから「その分、貯金しよう」と思っていました。がん以外でも病気になる可能性は高いと思っていたので、コツコツと「病気貯金」をしていました。

岸田 もう少しポジティブな名前の貯金もしたいところですけどね。でも大事ですよね。ありがとうございます。

 コメントでも「素敵なお話ありがとうございます」「良い意味で鳥肌が立ちました」という声が届いています。皆さん、たくさんのコメントありがとうございます。

【辛い・克服】

岸田 そしてその後、こちらのテーマです。「つらい・克服」というところですね。みっちゃんの場合、肉体的にも精神的にも、相当つらい時期があったと思いますが、それぞれどのように乗り越えていかれたのでしょうか。

藤田 これは、がんノートさんだからこそお話ししようと思ったんですが、絨毛がんの治療って、人によるとは思うんですけど、私の場合はとてもつらい特徴がありました。抗がん剤を打って数日後に、溶けて死んでいく絨毛がん細胞が、子宮から膣を通って出血として出てくるんです。

 自分の死んだがん細胞を、目で見ながら治療する人って、どれくらいいるんだろうと思って。画像診断で見るのもつらいと思うんですけど、これはそれ以上に、しかも綺麗な血じゃなくて、どす黒くてドロドロした絨毛組織が、ものすごい腹痛と一緒に出てくるんです。身体の中で何かが溶けて、外に出てきている感覚があって、精神的にも肉体的にも本当につらかったです。

 ただ、それはだんだん量が減っていくんです。つまり効いている証拠なんですよね。だから先生たちにとっては「嬉しいこと」なんです。出血がつらいと伝えても、「効いている証拠ですよ」と前向きに受け取られる。理屈としては分かるけれど、気持ちは全然追いつかなくて、そのつらさは自分で耐えるしかありませんでした。

 それに、自分の子宮にあった絨毛がん細胞が外に出てきて、「こんな得体の知れないものが身体の中にあったんだ」と思うと、もうどうしようもない気持ちになってしまって。しかも、本来なら赤ちゃんになっていたかもしれないものだと思うと、そのやり切れなさも重なって、精神的なダメージはかなり大きかったです。

岸田 そんな形で、絨毛組織が出てくるんですね。

藤田 多分、人によると思います。どこで増えているかにもよりますし、出てこない人もいると思います。でも私の場合は、打って数日後に効いてくると、ドロドロしたものが出てくる。それが本当にきつくて。

 治療が終わった後も、月経が戻ってから、似たような痛みが身体に出ると、フラッシュバックするんです。出てくるものは違うんですけど、「またあの時と同じじゃないか」と感じてしまう。これが、この病気のつらいところだなと思っています。

岸田 治療が終わってからも、生理などで血が出ると、思い出してしまうんですね。

藤田 そうですね。月経前は体温も上がって、お腹も痛くなるので、「再発じゃないか」と不安になったりもします。そのたびに、気持ちが揺さぶられます。

岸田 それはもう、どうやって向き合ってきたんですか。

藤田 耐えることと、あとはもう夫に聞いてもらうことですね。本当に可哀そうなくらい、毎日毎日、同じような愚痴を聞いてもらっていました。

岸田 いやいや。

藤田 でも、聞いてくれる人がいたから、何とかやってこられました。一人では、絶対に抱えきれなかったと思います。

【後遺症】

岸田 いや、聴いてあげるって本当に大事ですよね。旦那さん、本当にさまさまというか、すごく良いパートナーだなと改めて感じます。ありがとうございます。
 では次に、「後遺症」というテーマについてお伺いしたいと思います。みっちゃんの場合、後遺症で悩んでいることや、今も続いている影響はありますか。

藤田 後遺症と呼べるのかどうかは、正直なところ難しいと言われています。腹腔鏡手術をしたときに、卵巣が子宮と少し癒着していると言われたことはあるのですが、それがいつからなのかも分からないですし、がんの影響なのかどうかもはっきりしていません。治療をずっと受けていたので、原因の切り分けが難しくて、その後に詳しい検査もしていないんです。エコーでは分からない部分なので、今どうなっているのかも正確には分からないですね。

 ただ、今でも時々痛みを感じることはあります。それと、排卵障害はずっと続いているので、その治療や、それに伴う体調不良は今もあります。あとは精神的な部分ですね。月経が来るたびに、どうしても治療中のことを思い出してしまう、そういう影響は残っています。

 目に見えて何かを摘出した影響があるとか、はっきりした後遺症があるわけではないので、この話が後遺症の話として適切か分からないのですが、今も続いている影響としては、そんなところかなと思います。

岸田 排卵障害については、今はどんな対応をされているんですか。

藤田 かかりつけの婦人科の先生に診てもらっています。ただ、妊娠はもう望んでいないので、積極的な治療はしていません。不正出血が出たときに検査をしたり、治療をしたりという形です。あとは、カンジダ膣炎などの炎症を起こしやすいので、そういう症状が出たら、その都度治療を受けています。

岸田 薬を使ったり、処置をしてもらったりする感じですか。

藤田 そうですね。必要があれば体がん検査や子宮がん検査も定期的にしてもらっています。ずっと婦人科の先生にフォローしてもらいながら、体調と付き合っているという感じです。

【反省・失敗】

岸田 ありがとうございます。では次に、「反省・失敗」というテーマでお伺いしたいと思います。あの時こうしておけば良かったな、と思うことはありますか。

藤田 全体を振り返って思うのは、どうしてあんなにマイナス思考で我慢して、自分ばかり責めていたんだろう、ということですね。

岸田 多分、今お話を聞いている人も、みんなそう感じていると思います。マイナス思考というよりも、みっちゃん、そんなに自分を責めなくていいのに、って。

藤田 本当に、登場人物の中に悪い人は一人もいないんですよね。それなのに、なぜか自分だけを追い込んでしまっていたな、というのが一番の反省です。

 逆に言うと、周りがみんな良い人だったからこそ、ぶつける先がなくて、行き場のない気持ちが全部自分に向いてしまった、そんな感じだったのかなと思います。

岸田 周りが良い人ばかりだったからこそ、というのはありますよね。

藤田 はい。今振り返ると、そこが一番の反省点だなと思います。

【医療者へ】

岸田 ありがとうございます。そんな中で、「医療者の方へ」というところをお伺いしたいと思います。先ほどお話に出た看護師さんや主治医の先生など、感謝していることもあれば、「こうしてほしかったな」と思うこともあると思うのですが、そのあたりを伺ってもよろしいでしょうか。

藤田 正直、「どうしたら良かったのかな」と今でも考えることがあります。程度の差はあれ、私のように相談できない患者さんって、きっとたくさんいると思うんです。

 そういう時に、どう関わるのが正解なのかは分からないのですが、その場で頼れなくても、後からでも頼れるように、「いつでも、どんなことでも言っていいんだよ」と、少ししつこいくらい声をかけてもらえたら、すごく救われる人は多いんじゃないかなと思います。

 それから、今は地域で相談に乗ってくれる場所も増えていますが、治療の一番つらい時期を知ってくれている医療者の方って、やっぱり特別な存在なんですよね。

 今回、看護師さんとお手紙のやり取りができたことは、私にとって本当に特別な出来事でした。治療の最中に患者を見ている医療者の方は、「自分たちは特別な存在なんだ」ということを、ある意味、意識していてほしいなと思います。

 もちろん、次から次へと患者さんが来て大変なのは分かっていますが、もしどこかでまた交わる機会があった時に、人と人として声をかけてもらえたら、それだけでとても勇気づけられます、ということをお伝えしたいです。

岸田 そうですね。医療者の方も本当に多くの人を診ているから、どうしても対応が一辺倒になりがちだけど、こうやって一人ひとりを見てもらえると、やっぱり嬉しいですよね。

藤田 はい。治療が終わってしまうと、なかなか接点がなくなってしまうので、地域で再会できたりすると、なおさら心に残りますね。

岸田 そうなんですよね。みっちゃんの話にあった、看護師さんにお礼を伝えられたというエピソードも、病棟や病院が変わってしまうと、なかなか叶わないことだったりしますし。本当に貴重なことだと思います。ありがとうございます。

【Cancer Gift】

岸田 そんな中で、みっちゃんの「キャンサーギフト」ということでお聞きしたいです。がんになって本当にいろんなことがあったと思いますが、「これは得たものだな」「これは良かったな」と思えることはありますか。

藤田 本当に、いろんな人と深く語り合う時間が増えたことですね。夫も含めてですけど。がんになっていなかったら、この年齢で、ここまで自分の人生や気持ちと向き合って、言葉にして、誰かと語り合うことはなかったと思います。それは一つ、大きなギフトだったなと思います。

岸田 確かにね。がんになってなかったら、遺影の写真を撮ろう、なんて話にはならへんもんね。あの時の写真、結局どうやったん? ちゃんとええ写真、撮れた?

藤田 遺影? うん、一応撮れた。でもね、もう使えない(笑)。なんか、変わりすぎてて。歳も取りすぎてて。

岸田 いやいや(笑)。でも、こういう話も、今だから笑って話せることやもんね。

藤田 本当にそうですね。あの時は必死で、「他にも準備せなあかんもの、いっぱいあったやろ」って今なら思うんですけど、なんであんなに遺影にこだわってたんやろうって。

岸田 ははは。まあ、それだけ「生と死」を真正面から考える時間やった、ということかもしれへんね。

藤田 そうですね。結果的に、あの経験があったからこそ、今こうやって笑って話せているのかなとも思います。

【夢】

岸田 ありがとうございます。そして次は「夢」ということで、みっちゃんの今後についてお伺いできたらと思います。これから、どんなふうに歩んでいきたいか、というところですね。

藤田 今日はかなり端折っていますけど、私、今、病院や地域で医療者の方と一緒に「移動アトリエ」という活動をしています。

岸田 そうですね、移動アトリエとか。あと、ZINEの制作もされていましたよね。そのあたり、簡単に説明してもらえますか。

藤田 なかなか気持ちの整理がつかない時期があって。大学時代の専攻が、言葉や写真を使って当事者の思いを表現し、それを社会に伝えていく、少し変わった福祉の専攻だったんです。自分が希少がんになったことをきっかけに、それを自分自身で実践して、ギャラリーで展示したりしていたら、「そういう場を開いてほしい」と医療者の方から声をかけていただくようになりました。

 それで、声をかけてもらった場所で移動アトリエを開いて、私みたいに「相談する」ってなるとハードルが高くて行けない人が、ちょっと手を動かしながら、ものづくりをしながら、ぽつぽつ話ができるような場を作っています。治療は終わったけど、時間が経ってようやく言葉にできるようになった人が、安心して話せる場所を持てるような活動を、これからも続けていきたいなと思っています。

岸田 なるほど。移動アトリエって聞いただけでも、すごくみっちゃんらしいですよね。センスもそうですし、言葉の使い方や空間づくりも含めて、自然と人を安心させる力があるなと思います。

藤田 ありがとうございます。そう言ってもらえると嬉しいです。

岸田 みんな、その場にいるだけで少し肩の力が抜けて、癒やされるような場所なんやろうなって感じがします。言葉だけじゃなくて、デザインや雰囲気も含めて、すごく大事な役割を果たしていると思います。

藤田 そういうふうに感じてもらえる場を、これからも大切にしていけたらいいなと思っています。

【ペイシェントジャーニー】

岸田 そんな中で、みっちゃんの今までの話を、このペイシェントジャーニーで少し皆さんと一緒に振り返っていきたいと思います。どういう時に気持ちが上がって、逆にどういう時に下がっていったのか、というところですね。

藤田 超低空飛行だと思うんですけど。

岸田 そうなんですよ。これまでのお話を振り返ると、ほとんどマイナス10付近を行き来しているようなジャーニーだなと感じています。赤色が少しポジティブな出来事、青色がネガティブな出来事、灰色が治療の期間になります。それでは順に振り返っていきます。

 まずは「つくる仕事を」というところからですね。制作やディレクションの仕事をされていて、その後、妊娠が発覚します。そこから流産の手術、そして怒濤の一日が始まります。病院に行ったものの帰宅し、その後に救急搬送され、腹腔鏡による止血手術を受けることになります。さらに子宮内膜の処置、これは何でしたっけ。

藤田 全面掻把です。搔き出す処置ですね。

岸田 掻把ですね。その後、薬物療法、いわゆるメソの治療が始まり、ようやくがん告知へと至ります。その後に「SNSでがん公表」という項目がありますが、ここはマイナスの中でも少し気持ちが上がっているように見えます。これは公表したことで少し楽になったということですか。

藤田 当時はFacebookが、顔の見える友人とつながるツールだったんです。ちょうどその頃が誕生日で、仕事もしていましたし、大学の部活の後輩の指導や映画祭のスタッフなど、地域の中でいろんな役割を持っていました。でも、それを全部休まなければならなくなったんです。

 妊娠も流産も、がんのことも誰にも言えていなくて、周りから心配されるのに正直に言えない状態でした。誕生日おめでとうってメッセージが来ても、どう返事をしていいか分からなくて。それがつらくて、デメリットもあると分かっていましたが、友達限定で公表しました。そうしたら、嘘をつかなくてよくなって、少し気持ちが楽になったという感じです。

岸田 ありがとうございます。その後、通院治療が続き、肝機能障害が出て抗がん剤のクール数が減り、そして寛解の言葉をもらいます。ただ、この寛解の時点でもグラフは青、ネガティブですよね。

藤田 予定していたクール数ができなかった不安がありましたし、画像で「消えました」と言われるわけではなく、腫瘍マーカーだけで判断するので、実感があまりなかったんです。

岸田 そこからバレエ教室に戻ったという話が出てきますが、これは初めて出てきますね。バレエをされていたんですね。

藤田 持病の副作用の緩和のために身体を動かしていて、バレエ教室の先生がずっと「待ってるから」と声をかけてくださっていました。仕事も辞めてしまって、社会とのつながりがほぼバレエ教室だけだったので、ヘロヘロになりながら通っていました。ちょうど一年後に発表会があるから、寛解まで一緒に頑張ろうと言われて。

岸田 それは無理して笑顔を作っていたわけではないですよね。

藤田 いえ、有難かったです。ただ、昔のように全然動けなくて、迷惑をかけていると思ってしまって、結局一年後に辞めてしまいました。

岸田 辞めてるんかい、というところですが。

藤田 申し訳ない病ですね。

岸田 そしてZINEの再開、引っ越し、妊娠の許可が出たものの気持ちが追いつかずネガティブになる。その後フリーランスとして仕事を始め、マギーズ東京やSTAND UP!!といった患者会につながっていきます。ここで主治医に本音を伝えたわけですが、その時の先生の反応はどうでしたか。

藤田 本当に良い先生で、産科の先生だったんですけど、「頑張れない気持ちもよく分かる」と言ってくださいました。病院に来るのもつらいと思うから、病気としてのリスクは下がっているし、フォローを終了しましょう、と。

 ただし、今後少しでも体調に違和感があったら、何も介さずに直接来てくださいとも言ってくれました。もし将来、気持ちが変わって妊娠を考えることがあれば、その時も自分が責任を持って診るから来てほしい、と。若い患者は気持ちが変わることもある、という前提で話してくださる、本当に優しい先生でした。

岸田 いいですね。そういう関わり、本当に大事だと思います。

藤田 ただ、とても忙しい先生なので、思いの丈を全部話すのは難しくて、気持ちを受け取ってもらうだけ、という感じでした。

岸田 時間の制約があるのは難しいところですね。

岸田 その後、産科から婦人科へ移り、移動アトリエを始め、看護師さんへお礼を伝え、引っ越しを経て、今に至ると。ようやくプラスマイナスゼロを少し抜け出したところでしょうか。

藤田 とりあえず、ですね。

岸田 ありがとうございます。それではここで、協賛企業の皆さまをご紹介させてください。「生きるを創る」アフラック様、IBM様、I-TONGUE様にご支援いただいております。いつも本当にありがとうございます。

 そして次回の『がんノートorigin』ですが、3月6日のAYAウイークにあわせて、高須君という格闘技をされている方に来ていただき、肝臓がんの経験についてお話しいただく予定です。

 また、本日の放送後、チャット欄や概要欄にGoogleフォームのURLを掲載します。今日ご出演いただいたみっちゃんへのメッセージをぜひお寄せください。後日、色紙風にまとめてお渡ししたいと思いますので、今日中にご記入いただければ幸いです。

【今、闘病中のあなたへ】

岸田 そんな中で、今日、本当に約90分にわたってお話をしていただきましたが、最後にみっちゃんにこちらのテーマをお願いしたいと思います。「今、闘病中のあなたへ」というメッセージです。これを見てくださっている方、今まさに入院されている方など、さまざまな状況の方がいらっしゃると思います。

 その方々に向けて、みっちゃんからいただいた言葉がこちらになります。「そこにいるだけで」。この言葉に込めた意図や思いについて、みっちゃん、お願いできますでしょうか。

藤田 はい。言葉にするのは難しかったのですが、自分が治療中だった頃を振り返ると、「なぜ自分はこんなに頑張れていないんだろう」とか、「周りに心配をかけている」と思って、たくさん我慢してしまっていたなと感じます。

 でも今思うと、あの治療の場にいて、治療を受けていたというだけで、本当にすごいことだったなと思うんです。今、治療の最中にいる方は、「もっと頑張らなきゃ」とか、「迷惑をかけているんじゃないか」と思ってしまうことも多いと思います。でも、そこにいるだけで、もう十分すごいことだから、無理をしないでほしい。そんな気持ちを込めて、この言葉を選びました。

岸田 「そこにいるだけで素晴らしい、すごいことなんだ」ということですよね。本当に、みっちゃんもそうですし、今闘病中の皆さんも、謝る必要なんて全くないと思います。それだけ大変な状況の中で治療を受けて、そして今日こうしてご自身の経験を話してくださること自体が、同じ状況にいる方々にとって、きっと大きな見通しになっていると思います。

 僕自身も、まだまだこれから頑張っていかなければならないなと、たくさんの勇気をいただきました。本当に濃い90分だったなと感じています。

 それでは皆さん、長時間にわたりご視聴いただき、本当にありがとうございました。終了したいと思います。どうもありがとうございました。

藤田 ありがとうございました。

※本ページは、経験者の体験談を扱っております。治療法や副作用などには個人差がございますので、医療情報に関しましては主治医や、かかりつけの病院へご相談、また科学的根拠に基づいたWebページや情報サイトを参照してください。
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