目次
- 第一部:自己紹介テキスト / 動画
- 2019年を漢字一字で!テキスト / 動画
- 2020年の抱負テキスト / 動画
- 第二部:自己紹介テキスト / 動画
- 2019年を漢字一字で!テキスト / 動画
- 2020年の抱負テキスト / 動画
- 第三部:自己紹介テキスト / 動画
- 2019年を漢字一字で!テキスト / 動画
- 2020年の抱負テキスト / 動画
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インタビュアー:岸田 / ゲスト:ボーマン・内田・桜林・山谷・鴨志田・鳥井・浜田・西村・轟
- 『がんノート』2019年総集編|乳がん経験者3名の振り返りインタビュー
- 2019年を漢字一文字で振り返る|それぞれが選んだ「移」「学」「絢」
- 2020年に向けた3つの目標|再建手術・聖火リレー・転職への道
- がんノート第2部|腺様嚢胞がん・卵巣がん・肉腫経験者の3名が語る2019年
- 2019年を漢字一文字で振り返る|「変」「無」「験」に込めた想い
- 2020年の目標|妊よう性カウンセリング・ピアサポート・オンコロライブ継続
- がんノート第3部|腺様嚢胞がん・胃がん・遺族の視点-3つの立場から見た2019年のがん体験
- 「出」「阿」「挑」で振り返る2019年|テレビ・阿波おどり・社会的発信の1年
- 2020年の目標|東京オリンピック観戦・再就職への挑戦・スターマインの1年
『がんノート』2019年総集編|乳がん経験者3名の振り返りインタビュー
岸田 それでは、『がんノート』スペシャル放送2019、スタートしたいと思います。よろしくお願いいたします。時間どおりに放送ができたと思うんですけれども、きょうは歴代ゲストの方を3名ずつ、3回に分けてお話を伺っていきたいと思います。2019年がどうだったか、2020年に向けてどうかというようなお話を中心に進めていきたいと思います。それでは、まずは歴代ゲストのボーマンさんから自己紹介をお願いいたします。

ボーマン ボーマン三枝と申します。38歳です。私は31歳のとき、結婚3カ月目に乳がんが見つかりました。現在は個人事業主として下着屋のCloveの代表をしています。また、岡山県で初めての若年性がん患者会「AYA Can!!」を立ち上げ、代表を務めています。今は経過観察中です。
岸田 2013年、31歳のときに闘病をされたということですね。ありがとうございます。では、次に美奈さんお願いします。
内田 内田美奈と申します。現在39歳です。私は2013年、33歳のときに乳がんに罹患し、全摘しました。現在はホルモン療法のみを続けています。団体としては、乳がんの患者会「KSHS」という再建患者会と、若年性乳がんサポートコミュニティ「Pink Ring」の事務局をしています。よろしくお願いします。
岸田 よろしくお願いします。では、次に芙美さん、お願いいたします。

桜林 桜林芙美と申します。現在39歳です。2015年、35歳のときに乳がんを発症しました。治療をしていたのですが、まもなく肺に転移し、現在も点滴治療を続けています。
岸田 2015年から治療を続けられていて、今の立場は?
桜林 通常は主婦をしていますが、パートも少ししています。団体としては「AYA GENERATION+group」という、AYA世代のための新しい団体を立ち上げました。
岸田 現在も治療中ということですね。
桜林 はい、治療中です。
岸田 当時はステージ2bでしたが、今はステージ4ということですよね。
桜林 はい。
岸田 今日はステージ4の方にもお話をいただけるということで、進めていきたいと思います。時間も限られていますので、さっそく次のテーマにいきます。2019年度はどんな年だったのか、皆さんで突っ込みながら話していければと思います。
内田 突っ込みながら(笑)。
2019年を漢字一文字で振り返る|それぞれが選んだ「移」「学」「絢」
岸田 漢字一字で、きょうお届けしようと思っております。ボーマンさんの2019年を一文字で表すと、こちらです!

ボーマン 『移』るです!なぜかというと、今年2月に埼玉県から岡山県に移りました。岡山県内でも移ってすぐ、また違ういい物件が見つかって移りました。それに伴って、主治医も病院も移りました。さらに来年、乳房再建の手術を控えていたんですけど、その先生に2年半ぐらい待っていただいていたんです。なのに、その先生が病院を移られて、来年は違う都市に追っかけて行くことになりました。なので『移』る。
岸田 その先生はどこからどこに行ったんですか?
ボーマン 横浜から富山に。
岸田 なかなか遠いですね!
ボーマン 来年2月に手術予定なので、雪、大丈夫かなとちょっと心配しています。
岸田 そういうこともあるんですね。そんなに2年半も待つぐらい有名というか、人気の先生なんですか?
ボーマン はい!田崎先生と言って、自家組織再建のスペシャリストです。自家組織再建って8時間くらい時間がかかるので、1日に何人もできないんですね。だから、1年で対応できる患者さんの数も限られる。さらに人気の先生なので待ちが出る、という感じです。
岸田 ちなみにすみません、自家組織再建って僕たち男性陣はあまりよく分かってないんですけど、どんなものなんですか?
ボーマン 乳房再建には二つの方法があります。一つはインプラントで、人工物を入れて胸の膨らみを取り戻す方法。もう一つが自家組織で、自分の筋肉や脂肪を使う再建です。私はそれを希望していて、来年は足のお肉を使って胸に持ってこようと思っています。
岸田 足のお肉を使って、ここに持ってくるんですね。
ボーマン そのとおりです。
岸田 ありがとうございます。そのまま。そっちの方法にされた理由は?
ボーマン おなかはちょっと心配だったんです。2人出産していて、もしかしたら3人目もあるかもしれない。その可能性も考えたら不安でした。それに内臓が近いのも少し心配で…。先生は大丈夫と言ってくださってますけど。他にも部位が取れるので、私は足を選びました。
岸田 インプラントじゃだめなんですか?
ボーマン インプラントでもいいんですけど、それぞれメリット・デメリットがあります。ここで語ると1時間はかかりますね。
岸田 それを1分で(笑)。
ボーマン 一番引かれたのは「メンテナンスフリー」なんです。一度手術すればそれで済む。
岸田 なるほど。
ボーマン インプラントだと毎年検査が必要だったり、「10年で入れ替え」なんていう話もあります。神話のようなものですが。
岸田 インプラントってそうなんですね。一回出して入れて…という可能性もある、と。
ボーマン そうですね。
岸田 しかも2019年は乳房インプラントの問題もありましたよね。インプラントを入れた人が違うがんになりやすいのではないかと問題になって、使用がストップされた件。
ボーマン 大きな話題になりましたね。
岸田 それを受けて、ボーマンさんは何か思うことありました?
ボーマン 取りあえず今、手術を受けている人とか待っている人が、不安になってしまうのが嫌だなって思いました。何とか早く答えというか、動きが見えるといいなと思っています。
岸田 乳がん患者さんならではのご意見ですね。あと、『移』るといえば、岡山に移られたこと。岡山はいかがですか?
ボーマン 空気がいい気がします!
岸田 いいと思いますよ。
ボーマン 出身地なので、近くに家族や友人がたくさんいるのはうれしいですね。
岸田 それはうれしいですね。ありがとうございます。あと2019年、ボーマンさん、これ自己紹介で触れられたかどうか覚えてないんですけど、ビジネスコンテストに挑戦されてましたよね?
ボーマン はい。岡山に移ってから二つのコンテストに参加させていただいて、ありがたいことに二つ賞をいただきました。
岸田 すごい!
ボーマン ありがとうございます。
岸田 それは自己紹介で話してくださった下着屋Cloveの事業で?
ボーマン そうです。Cloveの事業で、審査員特別賞とワークライフシナジー賞を、別々のビジネスプランコンテストでいただきました。
岸田 ちなみにどんな事業なんですか?
ボーマン 基本的には、乳がんを経験された方向けの下着の開発・販売。加えて、乳がんの啓発や講演活動。そして若年性がん患者会を立ち上げて心のケアを行う。この3本柱で活動しています。
岸田 とにかく幅広く、いっぱいやるって感じですね。
ボーマン そうですね!
岸田 では、美奈さん。2019年の一文字、お願いします。

内田 『学』び、です。
岸田 『学』び。なぜその一文字を選ばれたんですか?
内田 今年4月から11月までの間に、13人の仲間を見送りました。その中で特に、ずっとサポートしていた友達がいて。彼女はもともと私の友人ではなく、旦那さんと友人だったんですが、「妻が子宮頚がんになってしまった」と相談を受けたことがきっかけで知り合いました。それから一緒に患者会に行ったりしていたんですけれど、今年1月くらいから彼女の体調が悪くなって。お見舞いに行けるときは行って、身の回りのことを一緒にしたりもしました。彼女の場合は、自分の病状を知らされていなかったので、話すときに言葉をすごく選ばなければならず、本当に多くのことを学ばせてもらいました。
岸田 なるほど。その「学び」なんですね。僕たちも活動をしていると、仲間を見送る場面はどうしてもありますけど、そのたびにもっと頑張ろうと思わされます。今年は本当に13人も。
内田 はい。月に2人くらいのペースでした。
岸田 他にも、学んだことがありそうですね。
内田 そうですね…。今の活動の中で、乳房再建やがん教育に関わることからも、いろいろ学んでいます。
岸田 例えば?
内田 がん教育では、私は講師として話すわけではなく、先生のサポート役です。ただ、中学2年生の息子がいるので、同じくらいの年代の子どもたちと向き合うのはとても考えさせられる経験です。
再建については、私自身、問題があるといわれているインプラントを入れているので、まったく人ごとではありません。主治医の先生とは「これからどうするか」をたくさん話し合っていて、とりあえずは年1回エコーを撮って確認する、という方針になっています。そのため大きな不安は今のところありません。
岸田 ありがとうございます。インプラント関連のサポートもされているんですよね?
内田 はい。直接的な治療サポートというより、セミナーなどでお手伝いする形です。
岸田 なるほど。ということで、美奈さんの2019年は『学』び。多くの仲間との関わりや活動を通じて、たくさんのことを学んだ1年だったんですね。
内田 そうですね。
岸田 ありがとうございます。そして、芙美さん。2019年、どうでしたでしょうか。

桜林 『絢』です。その理由は、私、昨年ぐらいまでは結構、乳がんなので乳がんのことばっかりを、会に行ったりとか、調べたりとか、勉強したりとかしてたんですけど、自分がAYA世代に一応、当てはまるなって思いまして、いろいろ関わりを始めたところ、年明けからAYA世代のお友達が増えてったりとか、そういう集まりにも参加できるようになったりとか、AYA世代がいっぱいな1年間だったので、『絢』にしたんですけど、漢字ではなくて英語のあれなので、字を好きな字にしてしまいました。
岸田 そういうことね。漢字で書いたら、この『絢』になると。A、Y、Aっていう15歳から39歳までの経験者さんの世代のことを、AYA世代と。Adolescent&Young Adultという思春期、若年期のことを頭文字を取ってAYAと。A、Y、A、AYAといってるんですけど、それを漢字で書くと、このおしゃれな。
桜林 私の。おしゃれ。AYAって日本しかいわないって聞いたんですけど、日本人の私が考えるAYAはどれだろうってアヤで検索していたら、これが一番、今、私はぴんと来る字だなと思いまして。この『絢』にしてみました。
岸田 いいですね。乳がんだけじゃなくて、その世代の活動。結構、いろいろ2019年、されたんじゃないですか。いや、つくりましたよね?あなた、団体。
桜林 そうです。まだデビュー前なんですけども、今月、AYA世代向けの、AYA世代の患者さんと、AYA世代で罹患して40歳っていう年齢を超えた方を対象としたつながりとか、あとは、ライフスタイル提案ができたらいいなと思って、今、仲間たちと一緒にデビューの日を迎える準備をしています。これからです。
岸田 AYA世代の患者会ができあがると。AYA世代だけじゃなくて、それプラス、その上の世代の人もいらっしゃるようなものができあがるという感じですかね。
桜林 はい。
岸田 ありがとうございます。他にはありますか?
桜林 他は、私、フラダンスをやってるんですけども、フラダンスのほうのテーマで、ステージにいっぱい出ようっていう年だったんですけど、思いやりがある温かい方から、ちょっと大きなステージ出てみないかっていうような形で、母と2人で踊るっていうチャンスをいただいたりしていて、たくさん人の前に出て、こんなんですが踊らしていただいた感謝の年です。すごい緊張しちゃってね。
岸田 治療のほうはどうですか?
桜林 肺に転移していて、3カ月に1回CTを受けています。2月に肝臓に怪しい影が見つかって不安でしたが、良性で、1年間状態は変わらず過ごせました。
岸田 治療は今後、新しいことをする可能性は?
桜林 がんが大きくならなければ今のまま。点滴を二つ続けています。
岸田 頻度はどのくらい?
桜林 本来は3週間ごとですが、先生と相談して1カ月に1回にしています。
岸田 間隔を伸ばしたほうがいいんですね。
桜林 そうですね。子どもの行事やパートもあるので、月1回のほうが予定も気持ちも整えやすいです。
2020年に向けた3つの目標|再建手術・聖火リレー・転職への道
岸田 なるほど。ありがとうございます。では、お三方の2020年の目標を伺いたいと思います。まずはボーマンさん。

ボーマン 私は三つあります。 まずは富山で乳房再建をして、美しいおっぱいをつくること。次に、聖火リレーに出ます!
岸田 え!?すごい!
ボーマン はい。岡山県内を走る予定です。
岸田 聖火リレー、そして?
ボーマン 三つ目は、これまで患者会を運営して患者さんと接してきましたが、
今後はがんに罹患していない方にも経験を伝えて、もっと「がんの輪」を広げたいと思っています。
岸田 がんの輪を広げる。
ボーマン はい。
岸田 具体的には?
ボーマン 就労で苦労しているAYA世代が多いので、企業さんとの接点を持ちたいです。全国どこでも行きますけど、まずは岡山の企業さんに呼んでほしいですね。お願いします。
岸田 岡山といえばジーンズ有名ですよね。
ボーマン ジーンズ有名。好き?
岸田 いろいろありますしね。全国でも活躍していけそうですね。
ボーマン 全国、呼んでください。
岸田 ぜひぜひ。ありがとうございます。では、美奈さんどうでしょう?

内田 来年1月から転職します。新しい職場で頑張るのが一番の目標です。
岸田 どんな転職ですか?
内田 動物病院の看護師から、人間の病院へ。
桜林 人間の病院。
岸田 動物から人間へ。
内田 ごめんなさい(笑)。人間の病院で、看護助手として働きます。
岸田 看護助手。動物と人間って違います?
内田 全然違います。もともと大学病院のオペ室で看護助手をしていたんですが、病気で辞めて動物病院に。その後、友達のことや自分の手術の経験があって、手術を受ける患者さんにはそれぞれのストーリーがあると強く感じたんです。だから病棟で患者さんに寄り添いたいと思って、この仕事を選びました。
岸田 2019年に感じたことを2020年につなげる、と。素晴らしいですね。
内田 頑張ります。
岸田 では、芙美さんは?

桜林 私も三つあります。一つは、AYA世代のグループ「AYA GENERATION+group」の基盤づくり。二つ目は、体調をなるべく維持できるように自己管理すること。三つ目は、子どもたちとディズニーランドに2回行きたいです。
岸田 お子さん、3人ですよね。
桜林 はい。3年生の双子と、1年生が1人います。
岸田 シングルマザーで育ててらっしゃる。
桜林 そうです。実家で両親のサポートを受けながら。
岸田 ディズニー、なんで2回?
桜林 ランドとシー、それぞれ行きたいからです。体力的に連日は厳しいので、1回ランド、1回シーで行けたらいいなと。
岸田 いいですね。実際、ディズニーを散歩代わりにリハビリに使っていた経験者さんもいますよ。
桜林 すてきですね。知りたいです。
岸田 きょうの後半ゲストで出てくると思います。
桜林 楽しみです。
岸田 では、2019年・2020年について、言い残したことは?
内田 ないかな?
ボーマン 大丈夫。
桜林 あっ、『がんノート』のTシャツって、緑かモスグリーンか、どっちなんですか?
岸田 (笑)色? ちゃんと新しい緑にする予定です。2年着てだいぶかすれてきたので。
内田 しっかり緑。
ボーマン モスじゃないんだ。
桜林 分かりました。
岸田 コーディネーターさんと相談して決めます。本当にお三方、ありがとうございました。これからも『がんノート』をよろしくお願いします。
内田 ありがとうございます。
ボーマン お願いします。
ーーー
がんノート第2部|腺様嚢胞がん・卵巣がん・肉腫経験者の3名が語る2019年
岸田 それでは、次の3名の方にお越しいただきました。よろしくお願いします。
山谷・鴨志田・鳥井 お願いします。
岸田 自己紹介していきましょう。まずは山谷桂子さん。見えますかね。山谷さん、お願いします。

山谷 山谷桂子です。37歳です。Qちゃんと呼ばれています。私が出演したのは34歳のとき、第42回だったと思います。2011年に「腺様嚢胞がん」というがんになりました。今は寛解状態で経過観察中です。よろしくお願いします。
岸田 ありがとうございます。山谷さんは、ステージって言われてなかったんですよね。
山谷 はい。ⅠかⅡかⅢかも言われてなくて。自分ではⅠ期ぐらいだったんじゃないかと思っています。
岸田 当時の治療は?
山谷 首を大きく切って腫瘍を取って、その後、放射線をこの辺にかけました。
岸田 でも今は見ても全然分からないですよね。
山谷 そうですかね。自分では「こんなに切って生きてられるのかな」と思うぐらい首元を切りました。
岸田 ありがとうございます。そして、そのお隣に、鴨志田さん、お願いします。

鴨志田 鴨志田康子と申します。よろしくお願いします。2011年に卵巣がんと子宮体がんで手術をしました。ステージⅠで、当時30歳でした。今は経過観察で、半年に1回病院に通っています。
岸田 半年に1回通ってると。ちょうど手術のとき、3.11でしたよね。
鴨志田 前日に手術して、翌日が3.11でした。
岸田 そうでしたね。病院、大変だった?
鴨志田 大変でした。茨城だったので、かなり揺れました。
岸田 電気は?
鴨志田 病院は自家発電で動いてました。
岸田 なるほど。その後、交通事故にも遭われたり、波乱万丈ですね。卵巣がんと子宮体がんは手術で全摘?
鴨志田 はい、全摘しました。
岸田 じゃあ妊よう性(子どもを持つ能力)はもうない?
鴨志田 はい、ありません。
岸田 なるほど。そういった経歴の鴨志田さんです。よろしくお願いします。
鴨志田 よろしくお願いします。
岸田 次は鳥井さん、お願いします。

鳥井 鳥井大吾といいます。30歳です。2014年、25歳のときに粘液型脂肪肉腫という肉腫になりました。左足のふくらはぎにできて、それを摘出しました。今は経過観察で、一応、寛解状態です。
岸田 大吾君が出てくれたときは「左下腿軟部腫瘍」という名前だったけど、病名が変わったんですか?
鳥井 いや、変わったんじゃなくて、当時は僕が名前を覚えてなかっただけです。勉強していくうちに、粘液型脂肪肉腫が正解なんだと分かりました。
岸田 アップデートってありますよね。
鳥井 はい。僕も成長段階なので。
岸田 肉腫の中では合っていて、その中の細かい種類がこれだったってことですね。
鳥井 そうです。
岸田 本当に大吾君には、今年のジャパンキャンサーフォーラムでも登壇してもらったり、いろんな場で報告していただいています。手術だったんですよね。
鳥井 はい。
岸田 左の膝あたり、ふくらはぎから?
鳥井 ふくらはぎのところから20センチ弱ぐらい、マグロの赤身みたいなのを、ばっと取りました。
岸田 マグロ食べづらくなるな(笑)。
鳥井 写真で見たら真っ赤でした。
2019年を漢字一文字で振り返る|「変」「無」「験」に込めた想い
岸田 ありがとうございます。そんなお三方の2019年を、一漢字でまとめていただきました。では、お願いします。

山谷 はい。私は『変』です。
岸田 『変』。自分のこと?
山谷 「変態って言われるんじゃない?」って思ったけど(笑)。そうじゃなくて、2019年は変化が多い年でした。転職もしましたし、プライベートでも変化があって、本当に目まぐるしく過ぎた1年でした。
岸田 なるほど。仕事もプライベートもいろいろ変わったと。お仕事は?
山谷 病院から病院に転職しました。
岸田 病院が変わったんですね。仕事内容も変わりました?
山谷 はい。カウンセリングの仕事をしてるんですが、前の病院では研究がメインで、カウンセリングは少なかったんです。今年からは現場でしっかり患者さんのお気持ちを聞けるようになりました。
岸田 仕事の内容も大きく変わったということですね。他に変わったことは?
山谷 婚活ずっとしてたんですけど、やっと彼氏ができまして。ありがとうございます。
岸田 やばい、今日イチの拍手をあげたいです(笑)
山谷 やった(笑)。ずっと婚活してたんです。前に出たときも「婚活頑張るぞ」って言って、何年もできなかったんですけど、ようやくできました。
岸田 それ、どうやって出会ったんですか。
山谷 婚活パーティーに散々行ったんですけど駄目で、SNSというか、婚活アプリで。
岸田 アプリとかね。
山谷 はい。そこで出会った5人目の方とお付き合いすることになりました。
岸田 最初の4人は微妙だった?
山谷 聞いてくださいよ。婚活サイトなのに既婚者が混じってたりして、びっくりしました。
岸田 それはひどい。全然、婚活じゃないやん。
山谷 ほんとに(笑)。でも5人目に会った方は、すごくよかったです。
岸田 どんなところが決め手だったんですか。
山谷 初対面なのに気を使わず、前から友達みたいにわーっと話せたんです。病気のこともすんなり言えました。
岸田 なるほど。病気のことを伝えるのは大きなハードルですよね。
山谷 はい。
岸田 それは、出会ってすぐに?
山谷 2回目のときに伝えました。
岸田 2回目で。
山谷 はい。婚活したから、一応、結婚っていう、その先があるのかなって思ったんで、最初に言っとこうと思ったら、「そうなんだ、いや実は僕もね」って。
岸田 僕も? めっちゃ意味深やねんけど(笑)。
山谷 「実は僕もね、がんなの?」って思ったんですけど、違って。慢性疾患を持っていて、子どもの頃は長く入院してたことがあったらしくて。だからお互い「体を大事にしようね」って、老夫婦みたいな感じです。
岸田 プロフィール欄には書いてなかったんですよね。
山谷 もちろん。話していくうちに分かりました。
岸田 そうなんや。本当におめでたい。
山谷 ありがとうございます。
岸田 いやもう、「変」じゃなくて「愛」とかにすればよかったのに。
山谷 なるほど(笑)。
岸田 一番おめでたい話、ありがとうございました。
山谷 いえいえ。
岸田 では次、康子さん、お願いします。

鴨志田 私は明るい話のあとで恥ずかしいんですけど…『無』です。
山谷 『無』?
岸田 『無』。なかなか強い字ですね。何もなかった?
鴨志田 いや、今年は祖母を急に亡くしたんです。具合が悪くなって高熱が続いて、町医者ではらちがあかず、総合病院に行ったら即入院。「膵臓がんの疑い、いつ亡くなってもおかしくない」って言われて…その2日後に旅立ちました。
岸田 おばあちゃん…。
鴨志田 その後、本当に『無』でした。野球が好きなのにテレビつけても見ようとならないし、テレビの音もうるさく感じて。さらにしばらくしたら、おばあちゃんのことを思い出せなくなっちゃったんです。
岸田 思い出せない?
鴨志田 はい。母を20歳のときに亡くしているので、そのときの喪失感みたいな負のループに入りたくないと思ったのか…自己防衛なのかもしれないです。思い出そうとすると涙が出ちゃうから、あえて思い出さないようにしてる。
岸田 なるほど…。
山谷 悲嘆反応の一つですね。大切な人を亡くしたとき、あえて思い出さないことで自分を守る方もいます。
鴨志田 そうなんですね。ちょっと安心しました。
山谷 一つの方法なんで、おかしいことでは全然ないので。
岸田 カウンセリングが始まっております(笑)。生きてたらいろんなことがありますよね。生まれる人もいれば、亡くなる人もいる。家族や周りの人との関わりもいろいろ。…『無』だったんですね。ちなみに、広島東洋カープの大ファンで、茨城からマツダスタジアムまで行くくらいだったんですよね。
鴨志田 そうなんです。でも今年は本当に『無』でした。
岸田 来年は「有」があるようにしたいですよね。
鴨志田 明るく過ごしたいです。
岸田 他に何か?
鴨志田 いや、特には。
岸田 では、『無』ということで。ありがとうございます。じゃあ大吾くん。

鳥井 僕は『験』です。経験の「験」。
岸田 『験』?なかなか聞かない字ですね。
鳥井 「経験」「体験」の験です。今年は自分の体験を話す機会がすごく多かったのと、プライベートでもいろんなことを経験しました。格闘技観戦に2カ月に1回くらい行ったり、アイドルのライブも月3回くらい行ってました。
岸田 月3回!推しは?
鳥井 「まねきケチャ」っていうアイドルです。
山谷 知らない。
岸田 まねきケチャ?初めて聞いた。あとでググろ(笑)。
鳥井 ぜひ。そういう趣味も含めて、いろんな経験ができた年でした。あと転職もしました。今まではがん情報サイト『オンコロ』で3年半働いていたんですけど、11月から父のやってる印刷・デザイン会社で営業をしています。
岸田 なるほど。オンコロから、お父さんの会社に。どうです?仕事の変化は。
鳥井 仕事内容は大きくは違わないですけど、環境はガラッと変わりました。父と働くのが、想像以上にストレスで(笑)。周りの目もあるので、気を抜けない。優等生っぽく振る舞わなきゃいけない気疲れもありますね。
岸田 親子で働くって、やっぱりいろいろあるんですね。
鳥井 ただ、本当にポジティブに捉えてます。格闘家の那須川天心さんや井上尚弥さんも、親と一緒にジムでトレーニングしてますよね。だから僕も、父と働くことを前向きに考えようと思ってます。
岸田 格闘技とつなげてね。大吾君、ずっと筋トレもしてるし、去年より体格よくなってるよね。
鳥井 伸びてますね(笑)。いろんなジムに通って、今も続けてます。
岸田 鳥井大吾で検索すると、『朝日新聞』の白黒写真が出てくるよね。あれ、すごい筋肉の影がかっこよかった。
鳥井 あれは影の使い方が上手かったんです。凹凸が強調されて。
岸田 なるほど。じゃあ今年の印象に残った出来事って?
鳥井 小学校でキャリア教育の授業に呼ばれて、自分の仕事と「がんの経験」を合わせて話す機会があったんです。小6の子たち10人くらいの前で。子どもたちも「がん」を知っていて、でもマイナスのイメージが強いんだなっていうのは、僕にとって大きな発見でした。
岸田 がん教育だけじゃなくて、キャリア教育にもつながる経験だったわけですね。もう大吾君も30歳。
鳥井 そうなんです。前に出たときは27歳でした。
岸田 彼女は?
鳥井 今はいません。察してください。
鴨志田 察して(笑)。
岸田 いいサイトあるらしいよ。
鳥井 後で教えてください!
山谷 教えます(笑)。
2020年の目標|妊よう性カウンセリング・ピアサポート・オンコロライブ継続
岸田 じゃあ2020年の抱負に移りましょう。山谷さん、結婚?

山谷 できるかどうかは…。今は転職したばかりで、慣れるのに精いっぱい。まずは勉強して、職場でしっかり役に立てるようになりたいです。
岸田 どんな勉強?
山谷 今はがん患者さんの妊よう性カウンセリングに特化した病院に勤めてます。治療前に「子どもを持つかどうか」を決断しないといけない若い患者さんが多くて、本当に大変なんです。短い時間で情報を整理できずに、医療者に流されて決めてしまう人もいる。だから自分でしっかり考えて決断できるように、サポートできる力をつけたいなと。
岸田 妊よう性って、精子や卵子の保存とか、早めに決断が必要ですもんね。
山谷 そうなんです。化学療法を始める前に決めないといけないことも多くて、皆さん本当に負担が大きいんです。
岸田 そこを、どうサポートしていく感じですか?
山谷 情報を整理して一緒に考えることですね。1人で決めるのは大変だと思うんです。家族がいても「心配かけたくない」と思って本音を言えない方も多いので、第三者として関わりたいで
す。医療の知識も持った上で、家族より少し距離のある立場から話を聞きながら、その人が一番大事にしていることを整理して、妊よう性を温存するかどうか、その後の人生をどうしていく
かを一緒に考えられる場をつくりたいと思っています。
岸田 なるほど。そういう勉強をしていけばいいんですね。妊よう性のことを話せる病院って、結構あるんですか?
山谷 いえ、まだ少ないです。カウンセラーや心理士が入っている病院は、かなり限られています。
岸田 じゃあ、僕らみたいな素人が相談したいと思ったら、どこに行けばいいんでしょう?
山谷 多くは産婦人科の先生になると思います。でも、そこにカウンセラーがいるケースは少ないです。だから心理士も関われるように広げていきたいですね。現状だと、先生か、あるいは
生殖医療の看護師さんが相談相手になると思います。
岸田 ありがとうございます。お近くにそういう方がいれば一番ですが、もしなければ「がん相談支援センター」などでも相談できるので、そういうところを活用してもらえたらと思いま
す。では、康子さん、2020年はどうでしょう。

鴨志田 2020年は、今まで付いてしまった余分なお肉を落としたいです。
岸田 なんか自家移植ってやつがあるらしいですよ。
鴨志田 運動をちゃんと心掛けて、体重を落としたいですね。手術前より6キロぐらい太ったので。あと、茨城県でピアサポートの養成講座を受けたんですけど、仕事の関係でなかなか参加
できなくて。今はシフト制で平日も休めるので、時間をうまく使って活動して、少しでも誰かの力になりたいと思ってます。
岸田 茨城県ではスピーカーバンクもあって、学校で話す機会もあると聞きましたが、そういった活動も?
鴨志田 私は裏方です。学校で話すのは難しくて。
岸田 どうしてですか?
鴨志田 実は、がんで亡くなった同級生がいて、そのことを先生が「お葬式に来てください」と一斉メールで流したんです。それがすごく嫌で…。もし学校で体験談を話して同級生に会ったら、「あの子がんなんだよ」って同じように広まっちゃうんじゃないかと不安になってしまって。それがトラウマで、学校でのがん教育には行けず、裏方で活動しています。
岸田 なるほど…。それは大きな問題ですね。桂子さん、カウンセラー的にどう思います?
山谷 ちょっと心ない先生だったのかなと思いますね…。
鴨志田 そうなんですよ、教員なんです。
岸田 まあ先生もいろいろいるということで…。やっぱり啓発は必要ですね。
山谷 そうですね。
岸田 では、鳥井君。2020年はどうですか?

鳥井 ざっくりですけど、もっと面白いことをいろいろやっていきたいです。その一つが、2016年から続けている『Remember Girl’s Power!!』というイベント。
岸田 また女の子の。
鳥井 そう。オンコロライブって呼ばれることもあるんですが、女性アーティスト主体のライブで、小児がんやAYA世代、臨床試験のことをファンに知ってもらう活動です。4年目でやっと黒字化できて、寄付もできるようになりました。2020年は5回目で、もう大きめの会場も押さえてあります。
山谷 すごい。
鳥井 もっと頑張らないとと思ってます。他にも、がんの啓発をライブに限らず、いろんなものと掛け合わせて広げていきたいです。
岸田 お父さんの会社のことは触れなくていいの?
鳥井 それもやりながら。バランスよくやってます。
岸田 仕事しつつ、ライブ活動も続けていくと。オンコロライブは毎年秋にやってますよね。今年は渋谷?
鳥井 はい、渋谷ストリームでやりました。
岸田 すごいね。女性アーティストもたくさん出て。
鳥井 あと、世の中的にもチャリティーやがん支援の動きが広がってきたと感じます。例えば格闘技の世界でも、ステージⅣの患者さんを応援するチャリティーTシャツを公式に出したりしていて。
岸田 すごいですね。
鳥井 情勢的にも、徐々にこういう流れが広がっていくのを肌で感じてます。だからこそ、もっといろんな角度から仕掛けていきたいと思ってます。
岸田 ぜひやってください。また来年、オンコロライブがどうだったのか、詳しく聞かせてくださいね。本日、お三方お忙しい中ありがとうございました。2020年もよろしくお願いします。
鳥井・山谷・鴨志田 よろしくお願いします!
岸田 ありがとうございます。では次はラストのお三方。年齢層がほんの少しだけ上がります。どうぞお楽しみに。
山谷・鴨志田・鳥井 ありがとうございました。
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がんノート第3部|腺様嚢胞がん・胃がん・遺族の視点-3つの立場から見た2019年のがん体験
岸田 それでは、年をちょこっとだけアップしてる、『がんノート』歴代ゲストの3人に来ていただきました。まずは自己紹介を浜田さん。……ちょっと待ってくださいね、ごめんなさい。ここからお願いします。

浜田 浜田勲と申します。よろしくお願いいたします。僕は耳下腺という、唾液を出す腺の一つに腺様嚢胞がんができました。罹患したのは2013年、ステージⅣaでした。2015年に肺転移して、今は抗がん剤が効きにくいタイプなので治療方法がなく、経過観察中です。同じ病気の方を集めた「TEAM ACC」という患者会を立ち上げ、リーダーを務めています。
岸田 代表としてね。当時はどんな治療をしたんですか。
浜田 手術と放射線治療です。
岸田 耳下腺のここにできて、がっつり取って。
浜田 そうです。
岸田 そして放射線も当てて。
浜田 はい。顔面神経も全部取ったので、右半分の表情は動かせません。だから笑顔も「50%」しか作れない。そのことを逆手にとって、講演では「50%の笑顔」とタイトルを付けたりしています。
岸田 おしゃれだなあ。神経を取ってると、もう感覚もないんですか?
浜田 いや、感じる部分もあります。ただ、舌の半分は全く感覚がありません。顔も、場所によっては感じないところがあります。
岸田 ここは?
浜田 感じないです。
岸田 なるほど。
浜田 でも、このあたりは感じますね。
岸田 上のほうは感…。
浜田 ここは、ちょっと感じないです。
岸田 感じない。そして、まぶたも閉じないんすよね、普通にしてたら。どうしてるんでしたっけ?
浜田 まぶたを切って、中に1.6グラムのプレートを入れて、その重みで閉じるようにしてます。だから完全にはつぶれないんですよ。上向くと全然閉じなくて。人によってはテープ貼って寝る方もいるみたいですね。
岸田 やっぱり。僕、寝るときどうしてるのかなって思ってました。
浜田 最初は違和感ありましたけど、今は慣れました。ちゃんと寝られます。ちょっと明るいかなと思ったけど、慣れちゃいましたね。
岸田 でも、起きたら目が開いたままで、目やにバーッみたいにならない?
浜田 目は乾燥するんで、常にドライアイです。だから涙がよく出ますね。今もこうやって拭いたりしてます。
岸田 なるほど。後でまたいろいろ伺いますけど、今は転移も出てきてるんですよね。
浜田 はい。腺様嚢胞がんは肺に転移しやすいんです。今も数えきれないくらいあって、無治療なので少しずつ大きくなってます。ただ、このがんは進行が比較的ゆっくりで、月に1ミリくらい。年間で1センチほどですね。
岸田 年間1センチ。
浜田 はい。ただ肺の中にとどまっていて、胸膜や腹膜に広がってないので、痛みは全くありません。
岸田 全くないんですね。
浜田 はい。でも「そろそろ出てくるかな」という感覚はあります。
岸田 今は無治療というのも、治療法がないからということですよね。
浜田 そうです。確実な治療法がないので、無治療で経過観察している状態です。
岸田 なるほど。治療法が見つかれば、また変わってくるかもしれない。
浜田 ええ。常に探しています。
岸田 「探しております、本当に」。ここで「こちらまで」なんて言えないけど(笑)、きちんとエビデンスに基づいた治療が見つかればいいですよね。
浜田 「こちらまで」じゃなくて、「こちらの病院まで」ですよ(笑)。
岸田 病院まで。がんセンターまで、ですよね。ありがとうございます。そして、西村さん。自己紹介お願いします。

西村 西村昌史です。4年前、52歳のときに胃がんが見つかって、手術で全部取って、今は経過観察中です。ただ、胃がないので胃液もなくて。そのせいでビタミンB12が吸収できなくて、末端神経に障害が出るって言われてたんですけど、実際に出たのは舌の先で。今、味が分からない状態なんです。注射をしてるので、そのうち戻ると思うんですが、なかなか面白い体験だなと思ってます。
岸田 胃がなくなると、ビタミンB12不足になるんですか。
西村 そうです!胃液にある酵素がないと吸収されなくて。4、5年で枯渇してしまうんです。
岸田 だから、胃がんの方って鉄分とかも取ったりしてますもんね。
西村 そうなんです。
岸田 それを今、注射で補ってると。
西村 はい。ただ、どのお医者さんに聞いても「結構かかるよ」としか言われなくて。今、注射を始めて1カ月半くらいですけど、まだ戻ってないです。
岸田 そんなに時間かかるんですね。
西村 そうなんです。甘く見てました。
岸田 西村さんの場合は、胃を全部摘出したんですよね。
西村 全部、取ってます。
岸田 だから、食べたらすぐ腸に行っちゃう。
西村 そうなんです。
岸田 味覚障害って、どんな感じなんですか。
西村 一番分からないのが、しょうゆ味。
岸田 しょうゆ味?
西村 お刺し身にしょうゆ付けても、ただの食感だけ。チーズの微妙な塩味も分からないので、ただ口でくちゃくちゃしてる感じです。
岸田 ご飯は?
西村 「これはこういう味だろう」と期待して食べても、その期待に応えてくれないんです。
岸田 濃くしても?
西村 濃くしても同じ。
岸田 じゃあ、ご飯自体が楽しくない?
西村 そうですね。楽しくないです。
岸田 なるほど。もうちょっと早めに注射を始めておけば、また違ったのかもしれないですね。
西村 そうかもしれないですね。
岸田 ありがとうございます。そして、轟さん。

轟 はい。
岸田 自己紹介をお願いできますでしょうか。
轟 轟浩美、57歳です。言っちゃいました、後悔してます(笑)。夫がスキルス胃がんで2016年8月に亡くなり、今年で3年になります。亡くなる少し前に2人で『がんノート』に出演させていただいて、そのとき「自分らしく生きる」という言葉を口にしたのですが、それが今、私が理事長を務める胃がん患者会「希望の会」のスローガンになっています。 さらに、一般の人にがんの情報を届けようと「グリーンルーペ」という活動も立ち上げ、代表をしています。夫は闘病が3年に届かず、あと12日で55歳というときに亡くなりました。今の私は遺族という立場です。よろしくお願いします。
岸田 お願いします。ありがとうございます。旦那さんはスキルス胃がん、ステージⅣだったということで。轟さんは今、本当に精力的に活動されていますよね。この前も…おとといですかね、NHKに。
轟 NHK、出ました。
岸田 本当にすごいです。2019年を振り返るお話もあるかもしれませんが、いまは活動の幅も広がっていますよね。旦那さんと一緒に出られたときのことも覚えています。あのときは、上のレストランで収録しましたね。
轟 やりましたね。
岸田 本当に「希望の会」という患者会はすごいなと、思います。
轟 「すごい」がいっぱいですね。ありがとうございます。
「出」「阿」「挑」で振り返る2019年|テレビ・阿波おどり・社会的発信の1年
岸田 僕のコメントを言えば言うほど、だんだん薄っぺらくなっていっちゃうんで(笑)、次にいきましょう。2019年を漢字一文字で表していただきたいと思います。浜田さん、お願いします。

浜田 僕は「出(でる)」という字を書きました。
岸田 「出」る。
浜田 本当は、さっきの大吾君の「験(けん)」でもいいかなと思ったんですけど、かぶらなくてよかったです。「出」るという字にしました。
岸田 「出」る、とは?
浜田 先ほどの経験にもつながるんですが、まずはテレビに“出”させていただいたことですね。
岸田 テレビに。
浜田 はい。岸田君のご縁もあって、NHKの「ハートネットTV」に4回連続で放送されたシリーズの中で、AYA世代の回にプラス1回、僕もスタジオでトークさせていただいたんです。これは本当に大きな経験になりました。
岸田 いい経験でした?
浜田 めちゃくちゃ緊張しましたけどね(笑)。
岸田 よかったです。アピアランスケア、つまり外見のケアについて話すときに、浜田さんがいいんじゃないかと思って紹介させていただいたんですよね。
浜田 ありがとうございます。
岸田 いえいえ。とてもいい経験だったと思います。
浜田 それがあって。さらにアピアランスの流れで「カバーメーク」と出会いました。僕ら頭頸部がんの患者は顔に傷や障害が残ることが多いので、それをお化粧でカバーするという取り組みです。資生堂さんがやっているんですが、それに出会って、今日も実はしています。
岸田 そうなんですよ。今日、浜田さんお化粧されてます。
浜田 はい。お化粧してきました。
岸田 見えます?
浜田 本当はそんなにやるほどじゃないんですけど、でも“がんの啓発”という意味で、あえてしています。
浜田 こういうがんの集まりのときには、あえてカバーメークをするようにしています。僕自身は抗がん剤治療はしていませんが、治療でお肌に悩みを抱えている方も多い。そういう人たちに「ちょっと工夫すれば外に出られるんですよ」というメッセージを伝えたくて。資生堂さんとも仲良くさせていただいていて、その流れでニュース番組にも“出”させていただきました。これも「出」ですね。
岸田 いろんなところに出演していった、ということですね。
浜田 はい。あとは「本」ですかね。
岸田 本?
浜田 岸田さんとも一緒に出ましたけど、『がんになって見つけたこと』という本に掲載いただきました。それから、TEAM ACCの仲間で“猫舌さん”という愛称の荒井里奈ちゃんの本にも載せていただきました。これも出版の「出」。出演や出版、そして出会い。そういう意味で「出」という字を挙げました。
岸田 なるほど。いろんなものに“出ていった”1年だったと。それもTEAM ACCで活動を続けているからこそですね。
浜田 そうですね。しかも全部、自分から押し込んだものじゃなくて、ありがたいことに受け身でいただいた話ばかりなんです。この姿勢をこれからも大事にしたいなと思います。
岸田 ありがとうございます、浜田さん。では、西村さん。今年の1年を一文字で表すと?
浜田 令和です! ……すみません、滑りました。
岸田 いや、大丈夫大丈夫。ここは温かいから(笑)。
轟 ぎりぎり。
西村 ぎりぎり?(笑) 僕は「阿呆の阿」、阿波おどりの「阿」です。
岸田 阿波おどりの「阿」。なんでいきなり阿波おどりなんですか?
西村 実は僕、生まれが高円寺なんです。小さい頃から阿波おどりに親しんでいて。
岸田 ああ、高円寺で阿波おどりといえば、一般の人にもイメージありますね。
西村 そうなんですよ。今では2日間で100万人集まる大きなお祭りなんです。
岸田 東京の阿波おどりですね。普通だったら徳島が本場ですが。
西村 ナイスフォロー!(笑)
岸田 いや、なんですけれども、その人たちがもろもろ来てくれるんですよね。来てもくれるし、そこに住んでる人たちも一緒になって、高円寺の阿波おどりって、毎年すごくフィーチャーされるんですよ。東京の高円寺で。
西村 ナイスフォロー。
岸田 そして?
西村 子どもの頃から親しんできたんですけど、そこから離れて50年ぐらいたって。で、また改めて阿波おどりに接するようになって、ちょっと飛び入りで踊ったりしたら、もう楽しくてしょうがなくなったんですよ。子どもの頃に「1年で一番楽しい」って思ってたものを思い出して。だから今年は、45年分の思いを吐き出すように、狂ったように阿波おどりを見に行きました。
岸田 見に行ったんですよね。出たんじゃなくて。
西村 そう。飛び入りもできるんですけど、基本は見に行って。今年は83カ所。
轟 すごいね、83カ所!
岸田 83カ所!?
西村 はい。見に行きました。それで、徳島にも行ったんです。でも台風で、四国から出られなくなりそうになって(笑)。まあ、そういうこともありながら、とにかく「くすぶってた思いを全部吐き出そう」と思って、阿波おどりに狂いました。
岸田 行ったということですね。すごいですね。
西村 がんになったこともあって、価値観が変わってきたんです。「今、やっとかなきゃ」っていうことの優先順位に阿波おどりが入ってきた。だから、今年は一生懸命、そこに時間を使いました。

岸田 というような形で、マーシーさんの一文字は「阿」。阿波おどりの「阿」。
西村 「踊る阿呆に見る阿呆」。
岸田 阿呆っていう。
西村 「踊らにゃそんそん」で、踊って。
岸田 今のはちょっと滑ってますね。大丈夫ですかね(笑)
轟 誰も拾ってくれなかった!(笑)。
岸田 それでは、次は轟さんお願いします!

轟 『挑』むです。
岸田 『挑』む。
轟 はい。戦うとどっちにしようかなと思ったけど、『挑』むです。いろんなとこに出て、車三つの人って言われるので、トドロキと読みます。もう To Do Rocky って名前を変えちゃおうかと思うぐらい、今年は戦いました。挑みました。すいません。
岸田 今年は挑んだ、戦った。例えば、どんなことで?
轟 さっき話したんですけど、夫が亡くなって3年たったって言いましたよね。その間、私、自分が情報に溺れちゃって。かなり代替療法というか、いろんなものにお金を使っちゃった失敗が、ずっと心の中に残ってたんです。そのことを基に伝えたいと思って、患者会やったり、グリーンルーペやったりしてたんですけど、その間、「抗がん剤したことないくせに」とか「遺族のくせに」とか、いろんな言葉を浴びて。「感動ポルノ」とか「メンヘラ」とかも言われました。
岸田 メンヘラ?
轟 言われました。それで私、本当、2年前は毎日「死にたい」って思ってたんですよ。でも、3年たって、「自分らしく生きる」って夫が言ってた言葉を考えたときに、母も火事で亡くしてるとか、人生でいろんなことがあって。ずっと「なんで私だけ」って後ろ向きだったんですけど、「これ一つの持ち味だ」と思っちゃえばいいんじゃないかって。今年は自分の経験を入り口にして、伝えたいことを伝えていこうと挑みました。
だから、胃がんキャラバンも「死のロード」って言われながら全国毎月、57歳のおばちゃん1人で回って。グリーンルーペも11月3日に渋谷で、『がんノート』のみなさんにも出ていただいてやったんですけど、最初は埼玉でやる予定だったのが会場ダブルブッキングで取れなくなって。這いつくばって、頭下げまくって、渋谷で開催しました。それだけでも挑戦だったんですけど。
その後、血液クレンジングのことを note に書いたら、四十何万アクセス。「バズるってこういうことなんだ」って。
岸田 血液クリーニング。知らない人のために、ちょっと詳細を。
轟 夫のがんを治したい一心で、血液を取り出してオゾンとか混ぜて、目の前で血がぱっときれいになるんですよ。それをまた体に戻す。私もやっちゃって。「奥さんも疲れてますね」と言われて、「効果感じますか」と聞かれたから「感じません」と言ったら、「回数が足りないんですね」って。散々やっちゃったんです。
ちょうどそのころ、芸能人の方がインフルエンサーみたいに取り上げてて、私も「それやったことあります」って note に書いたら、思いっきりバズった。で、数日前に NHK の『フェイク・バスターズ』に出たのも、その流れです。その間に人生会議ポスターについても意見書を出したら、「圧力女」みたいに取られて。
岸田 人生会議、小籔さんのポスターで批判があって発送中止になった件ですね。轟さん、絡んでます。
轟 そうなんです、すいません。一気にいろんなことが来ました。でも、挑んでよかったなと思ってます。
岸田 しっかり、それも厚労省さんとも話されたんですよね、人生会議のポスターについても。
轟 私は、11月まで厚生労働省のがん対策推進協議会の委員をやってて。夫をみとった経験もあるし、いわゆる ACP、人生会議については会議でも何度も話してたんです。それで「このポスターじゃ伝わらないんじゃないか」「誤解を招くんじゃないか」って思って、意見を伝えたんです。その後も厚労省とやりとりしてますし、全然、敵対関係とかじゃないんです。
岸田 その認識の誤差とかは、厚労省さんと取れたんですか。
轟 私のところには、メールや電話で抗議も来ました。「死を知らないくせに」とか言われて。「いや、知ってるわ、たくさん」と思いましたけど。あと「ポスターを取り下げるっていうのを取り下げろ」みたいなのも来ました。でも全部に丁寧に返事したんですね。そうすると「そういうことだったんですか」って理解してくれた。だから、その後は抗議は来なくなりました。ただ取材がすごくて、1件対応すると次が来る状態で。自分がテレビに出てるのも全然見られないくらいでした。
岸田 人生会議って、正式にはアドバンス・ケア・プランニングっていって。ケアのプランを前もって考える、がんに限らず「人生の最後をどう迎えるか」を逐次アップデートして話し合っていこうというものなんですけど、ポスターは最後の部分だけを切り取っちゃった。そこが問題だったってことですよね。
轟 そうですね。うちはすごく人生会議してたんです。夫は「自宅で過ごしたい」と言ってたし、私もそう思ってた。夫の父を自宅でみとった経験があったから、自信もあったんです。でも実際には夫が呼吸苦になって、家にどんな機械を入れてもコントロールできなくなった。本人も「これで生きてる意味あるのか」って言い出して。そのとき医療者が「轟さん、一度病院に行きましょう」って言ってくれた。病院に行ったら呼吸がしっかりコントロールできて、そこで3週間ぐらいの後に亡くなったんですけど、その間にとてもよく話せたんです。
だから私たち家族は「あの時間はギフトだった」って言ってます。だから「ただ話しとかないと大変になるよ」じゃなくて、「想定外のことが起きたら変えてもいい」「医療者と一緒に考えて変えてもいい」「自分だけで背負わなくていい」ってことも大事なんじゃないか。そのことを伝えたかったんです。
岸田 勉強になります。
2020年の目標|東京オリンピック観戦・再就職への挑戦・スターマインの1年
岸田 そんな中で、2020年の抱負をお三方に聞いていきたいと思うんですけど。浜田さん、2020年、どうでしょう。いや、僕が言っちゃったらあれやもんな。

浜田 僕ががんに罹患してから生きる目標にしてたのが2020年なんです。なぜかというと、罹患した2013年に東京オリンピックの招致が決まったんですよ。僕は東京出身で、1963年生まれ。1歳のときに東京オリンピックがあった。そのオリンピックが、また東京で開かれる。絶対見たいなと思って。だから2020年を目標にしてきました。で、何とか見ることができそうで、チケットも当たったんです。すごく楽しみです。
でも、それは7年前に決めた目標。これからはあんまり遠くに目標を置かずに、毎日の積み重ねを大事にして、受け身の人生でいきたいなと思ってます。命がどれだけ持つか分からないけど、がんになっちゃったけど「結構、楽しい人生だったな」って思えるように生きたい。それをずっと考えてます。奥さんと2人で過ごす時間をゆっくりたくさんつくりつつ、がんの活動や仕事もしながら、楽しかったなと思ってばたっと死にたい。そう考えてます。
岸田 大丈夫です。ちゃんと4年後にはパリもあって、その次にはロスもありますから。その先にもね。
浜田 大阪万博ってのもありますしね。
岸田 確かに。もう、いろんなものがありますからね。浜田さんにも、そういう「悔いのないように」って言い方はちょっと違うかもしれませんが、楽しくやっていっていただければ。
浜田 そうですね。取りあえず2020年の目標がやってきますんで。
岸田 まずはオリンピックを見に行くと。
浜田 はい、行きます。
岸田 ありがとうございます。では、マーシーさん。お願いします!
西村 私、罹患してから4年たったところなんですけど、まだ正式にちゃんと働けてないんです。どうしても胃袋がないので、食事のたびに体に変化が起きて、休まなきゃいけないことが多くて。僕、もともと介護の仕事をしてたんですけど、介護は人手が足りないし、「ちょっと体調悪いから代わって」なんて言えない職業なんですよ。利用者さんより自分の体調が悪い状態で訪問するわけにもいかない。だから、2020年は環境を整えて、自分の体力も何とかして、しっかり働けるようになりたいと思っています。
岸田 2020年は、職を持つ。
西村 はい。
岸田 なんか、ごめんなさい、上からみたいになっちゃったけど…しっかり生きて。
轟 「しっかりしろ」って言われて。
岸田 いやいや、西村さんはもう、しっかりしてます。
西村 しっかり納税しましょうと。
岸田 納税。いや、なんかあかん、俺、何言ってもあかんな、多分。頑張りましょう。ありがとうございます。Romiさん、どうですかね。
轟 私、さっき言いましたけど57歳なので、結構しんどくなってます、いろんなことやるのが。浜田さんが言ってたみたいに目標は短くして、私は2020年をスターマイン状態にしようと思ってるんです。最後の1年っていう感じで。夫が亡くなって3年たって、悲しみだけじゃなく「自分の経験を誰かが知るきっかけにできる」と思えるところに、やっと来られたんですよね。でも、それをずっと続けるのは私にはきつい。だから、2020年は競技場に帰ってきて、最後ゴールに向かう1年。打ち上げ花火のスターマインみたいに、全部出し切る年にしたいんです。
岸田 来たと。
轟 はい、いこうと思います。
岸田 いや、大丈夫です。そこから多分1万メートルまだありますから。
轟 おばちゃん、競技場から出てっちゃったよって。
岸田 いやいや、競技場を何周も回ってもらわないと。
轟 一応、スターマインで。
岸田 スターマインで。きっとこれからもいろんなことをしていただけるんじゃないかなと思います。2020年も皆さんの活躍を祈念して、『がんノート』もここで終わりたいと思います。それでは、今回の『がんノート』は終了です。最後に感想を。お三方、久しぶりに出てみてどうでした?
浜田 楽しかったです。また呼んでください。
岸田 ぜひ。またお願いします!
岸田 次、轟さん。
轟 私、前回は夫と一緒で、その夫が亡くなる少し前でした。今回は自分1人で出て、歩んできた日々を味わえてよかったです。ありがとうございました。
岸田 どうもありがとうございました。『がんノート』は2019年、今回で終了ですが、2020年も頑張っていきますので、引き続きよろしくお願いいたします。どうもありがとうございました。
※本ページは、経験者の体験談を扱っております。治療法や副作用などには個人差がございますので、医療情報に関しましては主治医や、かかりつけの病院へご相談、また科学的根拠に基づいたWebページや情報サイトを参照してください。
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