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インタビュアー:岸田 / ゲスト:梶
患者とのコミュニケーションを深めるために始めた将棋が、今の趣味に
岸田 本日のゲストは梶さんです!よろしくお願いします。
梶 よろしくお願いいたします!
岸田 梶さんは静岡のご出身で、薬剤師をされているということで、今日は薬のことについても安心してお任せできそうです。気楽に進めていければと思います。そんな中で、趣味が将棋とドライブだと伺っています。将棋がお好きなんですね。
梶 そうなんです。10年くらい前に始めました。もともと薬剤師になろうと考えたときに、「いろんな人とコミュニケーションを取りたい」と思ったんです。そのときに、ボードゲームなら会話がしやすいんじゃないかと考えて、昔からあるゲームの中で将棋にたどり着いた。それがきっかけで始めました。
岸田 数あるボードゲームの中で将棋を選ばれたんですね。
梶 はい。特にお年寄りの方とどうやってコミュニケーションを取ろうかと考えていたんです。共通の趣味があれば、自然に話も弾むんじゃないかなと。その思いつきから始めたんですが、やってみると将棋そのものの楽しさにのめり込んでしまって。今では趣味というより、生活の一部、習慣のような存在になっています。
岸田 今注目の藤井聡太さんについては、どう思いますか。
梶 とにかく強いですね。実は今日もタイトル戦が行われているんですが、それは頭の片隅に置いておいて、今は『がんノートmini』に集中したいと思います。
岸田 ありがとうございます。そして梶さんは、がんの種類が慢性骨髄性白血病で、ステージは慢性期ということですね。
梶 はい。
15歳での告知から22年間-慢性骨髄性白血病との歩みを振り返る
岸田 梶君の場合は、ステージ1・2・3・4という進行度はなく、告知を受けたのが15歳のとき。そして現在37歳で、薬物療法を続けている、ということですね。今日は梶君のペイシェントジャーニーを伺っていきたいと思います。図にすると、前半は一気に下がり、後半はゆるやかに上下しているような流れになっています。
まず最初、2001年、15歳のときに高校に入学しますが、その直後から「だるさ」を感じたとのこと。どんな様子だったのでしょうか。
梶 このときは、だるさと同時に頭痛がありました。それが2週間くらい続いたんです。すると親が「病院に行ったほうがいい」と言い、昔からかかっていた小児科に行きました。そこでMRIを撮ったんですが「脳には異常なし」と言われて。最後に「念のため血液検査もしよう」となり、その結果、白血球が異常に多いことが分かりました。そこから病気の発見につながっていきました。
岸田 血液検査で白血球の値が多いことが分かったんですね。その後、大きな病院で診断を受けることになった?
梶 はい。少し細かく言うと、白血球は成人だと正常値が1万前後なんです。でも私はそのとき3万ありました。先生に「3日後もう一度来て」と言われ、再検査すると5万に増えていた。これはまずいということで、紹介状を書いていただき、S県のこども病院に行きました。そこで骨髄検査を受け、慢性骨髄性白血病と診断されたんです。
岸田 15歳で「慢性骨髄性白血病」と告知を受けたとき、どんな気持ちでしたか。
梶 実は、いまだに自分でもよく分からないんです。父と主治医、看護師さんと一緒に小さな部屋で告知を受けたんですが、その瞬間、泣き出してしまいました。ただ、その涙の理由が分からない。悔しいような気もしたし、悲しい気もしたし…でもそれとも違う気もする。ショックだったから泣いたのは確かですが、あのときの気持ちは今でも整理がついていません。
岸田 一言で割り切れる感情じゃないですよね。すみません…。そこからさらに下がっていきます。薬物療法、インターフェロンとハイドレアが始まります。この時期が一番つらかったんですか。
梶 そうですね。本当につらかったです。ハイドレアは経口の抗がん薬ですが、インターフェロンは自己注射しなければならない。毎日、自分で太ももやお腹に注射を打つんですが、だんだん赤く腫れて打てなくなる。仕方なく近所のかかりつけ医に薬を持ち込んで「先生、注射してください」とお願いしていました。
それだけでも大変でしたが、副作用も重かった。消化器症状が強くて、吐き気でご飯がまともに食べられない。肉体的にも精神的にもつらく、「これは本当に治療なのか」と思うくらい、苦しい1年間でした。
岸田 そんなつらい時期から、少しだけ上がっていきます。それも薬物療法なんですね。
グリベック開始で変わった高校生活-普通の学校生活への回復
岸田 ここでグッと状況が変わります。薬物療法で「グリベック」という薬が始まったんですね。
梶 はい。グリベックは、今では慢性骨髄性白血病の第一選択薬になっている薬です。経口薬なので注射を打つ必要もなくなり、副作用もインターフェロンに比べて格段に少なかった。体調が少しずつ良くなっていき、この頃から高校にちゃんと通えるようになりました。それまでは休みがちで、遅刻して早退…という生活だったんですけど、ようやく普通の高校生活に近づいていけました。
岸田 1日1錠ですか?
梶 当時は1日4錠、しかもカプセルでした。毎日4カプセル飲む必要がありましたね。
岸田 そこから少しずつ体調も戻っていって、高校も卒業。ただ、ここでは「青色=ネガティブ」の時期に入りますね。
梶 そうなんです。高校は無事に卒業できたんですけど、自分の中で達成感がなくて。休みがちだったこともあって、正直「高校卒業って何なんだろう」と思いながら卒業式に行きました。ただ、式が終わったときに先生から「おめでとう」と言われたのは素直にうれしかったです。でも「これから治療はどうなるのか」「あとどれくらい生きられるんだろう」という不安が強くて、やっぱりネガティブな気持ちのほうが大きかったですね。
岸田 卒業できたとしても、その後の不安が大きかったんですね。とはいえ、次のステップに進みます。短大に編入されたんですよね?
梶 はい。1浪して受験しました。本当は薬学部に入りたかったんですけど、学力が追いつかず、薬学部への編入を目指せる短大に入ることにしました。このときも「将来は薬剤師になりたい」と思いながら、まずは短大に通い始めました。
岸田 薬剤師を目指すための準備ですね。ただ、気持ちはまだ青色=ネガティブ。
梶 そうなんです。同級生たちは大学生活を楽しんで、アルバイトもしている。でも自分は体力的にバイトができるのか不安で、「無理したらまた体調を崩して学校生活も続けられないんじゃないか」と思っていました。周りが楽しそうに見える分、「自分はこれからどうなるんだろう」と、まだまだネガティブな気持ちで過ごしていました。
岸田 そして「編入失敗」という出来事もありましたね。
梶 はい。単純に成績が足りませんでした。この頃、友達と遊ぶようにもなって、勉強が追いつかなかったというのもあります。でも救いだったのは、短大が化学系の大学で、化学の勉強がだんだん楽しくなってきたこと。そういう意味では、少し気持ちが前向きになり始めていた時期でもありました。
岸田 そこから、大学院へ進学されるんですね。理工学部の大学院で2年間。
梶 はい、そのまま理工学部の大学院に進んで2年間、勉強しました。
岸田 大きなステップですよね。でも、特別ポジティブでもなかったと。
梶 そうですね。進学はできたけれど、心境としてはそこまで前向きにはなれませんでした。
岸田 大学院を普通に進まれましたが、ここでプラマイゼロになったのが「就職浪人」ですね。
梶 そうなんです。その年はちょうど大震災があった年でもあり、就職氷河期と言われる時代でもありました。私も就職活動をしていたんですが、選考が進んで「健康診断書を提出してください」と言われ、それを出した後に落とされることが何度もあったんです。当時を振り返ると、自分の実力不足もあったと思うんですけど、病気を理由に断られたのかもしれないと感じることもありました。ある企業では現場の方に「アルバイトでもいいから来ないか」と言っていただいたのに、本部の判断で最終的に不採用になったこともあり、結局、就職浪人という形になってしまいました。気持ち的にはかなり落ち込んだ時期でした。
10万円の旅で見つけた人生の方向性-薬科大編入への転機
岸田 そこから上がるきっかけになったのが「薬科大学への編入」ですね。
梶 はい。就職浪人をして、「貯金がなくなるまで旅に出よう」と思い立って旅に出ました。貯金は10万円ちょっとしかなかったんですが、それが尽きるまで旅をしてみようと。行きたい場所を巡るうちに「自分の人生、案外いいじゃん」と思えるようになったんです。そこで「やっぱり薬学部に入りたい」と改めて考え、薬科大学を受験。幸い、理工学部大学院まで出ていた経歴を評価してくださる先生と出会い、面接や学力試験を経て、薬科大学2年に編入することができました。
岸田 薬科大への編入は大きな転機でしたね。ただ、ここで少し下がるのが「薬剤師免許の取得と初めての就職」。なぜ下がっているんでしょう。
梶 薬科大に編入したのが25歳のときで、「もし浪人や留年をしたら」「国家試験に落ちたら終わりだ」と、常にプレッシャーを感じていました。勉強はとても大変で、必死に取り組んでいました。そういう意味で精神的にはしんどかったんです。
ただ、薬剤師免許を無事に取得して就職活動をしたときは、がんのことを伝えて受けましたが、病院や薬局は理解があり、「無理のない範囲で働いてみよう」と言ってくださり、就職はスムーズに決まりました。
岸田 就職後はどうでしたか。
梶 もちろん毎日大変で怒られることもありましたが、それでも「お金をもらえる」「社会の役に立っている」という実感があり、社会からの疎外感がなくなったのが大きかったですね。つらさの中にも楽しさがある、そんな日々でした。
岸田 仕事はつらさもあるけれど、楽しさもある。その後、体調不良が出てくるんですね。
梶 はい。仕事中に突然、背中にビリッと痛みが走って、冷や汗が止まらなくなったんです。勤務先が大学病院だったので、そのまま救急外来にかかると、CTで「心臓の大動脈のあたりに影がある」と言われてしまって。ただ、結果的には大したことはなく、影に見えただけでした。でもその頃から胸の痛みや背中の痛み、だるさが続くようになって、精神的にも参ってしまいました。体調不良の時期がしばらく続いたんです。
岸田 その体調不良でグリベックを休薬することになったんですね。ただ、その後、効果が不十分になり薬を変更することに。
梶 そうなんです。薬を変更したところ、その薬で「薬疹」という副作用が全身に出てしまいました。とてもつらい時期でしたね。
岸田 薬疹とは何ですか?
梶 薬の副作用の一つで、体の免疫が薬に反応してしまい、全身が真っ赤になってしまうことです。このときは薬疹を抑える治療をまず優先しなければならず、新しい治療ができない状態になりました。本当にどうしようかと悩んだ、大きなピンチの時期でした。
薬剤師を目指した原点を思い出したAYA WEE参加-新たな使命感の芽生え
岸田 そんなピンチの中でも少し上向いたのが、AYA WEEへの参加なんですね。
梶 はい。ちょうどその頃、薬疹に加えて退職を考えていた時期でもありました。治療も滞っているし、次の薬がうまくいくかも分からない、仕事もどうしよう…と不安でいっぱいだったんです。そんなとき、たまたまTwitterで「AYA WEEの実行委員募集」を見かけました。そこで「自分は何のために薬剤師を目指したんだっけ?」と考え直しました。――同世代の人たちの治療の役に立ちたいと思って始めたんじゃなかったか、と。そう思い出して、すぐに連絡をしてAYA WEEに参加しました。転職活動をしながら関わるうちに、だんだん楽しくなって、気分も上向いていったんです。
岸田 そこから退職、そして休養に入っていったわけですね。
梶 そうですね。
岸田 その後に下がったのが、潰瘍性大腸炎の発症。
梶 はい。これは本当に驚きました。退職後にお腹の調子が悪くなり、血便が出るようになって…。それが治ってはまた出るを3カ月ほど繰り返したんです。結局、専門の消化器内科に紹介され、今年1月に「潰瘍性大腸炎」と診断されました。ショックで2日間は寝込んでしまいましたね。
岸田 でもここで「赤色=ポジティブ」になっているのは?
梶 不思議なんですが、2日間寝込んだら気分がすっきりしたんです。その後、薬剤師としての知識もあったので論文を調べました。潰瘍性大腸炎と慢性骨髄性白血病の両方を治療している例は見つかりませんでしたが、似たクローン病での治療例は報告されていました。「まだ何とかなる」と思えて、意外とネガティブにならずに乗り越えられたんです。そういう意味でポジティブに切り替えられました。
岸田 なるほど、そういうポジティブですね。そしてそこからさらに上がっていくのが、AYA WEE 2023への参加。これは言わされてるわけじゃないですよね?
梶 言わされてないです(笑)。AYA WEE 2023には今回初めて参加しました。Zoomで医療者の方々と話したり、岸田さんがうちわで盛り上げてくれたり、とにかく楽しかったです。もともと「患者さんの役に立ちたい」と思って薬剤師を目指したので、それが実感できてうれしかった。さらに、実行委員や他団体の活動を知って、「こんなにAYA世代のことを考えてくれている人がいるんだ」と分かり、心強い気持ちになりました。
これまでAYA世代のがん患者さんと直接触れ合う機会はあまりなかったので、今回たくさんの出会いがあって本当にうれしかった。だから今は、誰かに言わされているのではなく、自分の気持ちとして「ポジティブ」になれています。
『情報がない』『お金がない』20年前の闘病で直面した2つの壁
岸田 後半に赤色(ポジティブ)が出てきてよかったなと思います。ではここで、梶さんが「つらかったとき」「大変だったとき」をどう乗り越えてきたかについて伺います。それぞれ説明していただけますか。
梶 はい。まず「情報がなかった」ということについてです。20年前、私が白血病の診断を受けたときは、今のようにスマートフォンもSNSもありませんでした。インターネットはまだダイヤルアップ接続の時代で、調べる方法といえば近所の図書館に行って、小さな白血病コーナーにある数冊の本を読むくらいしかなかった。周りに同じ病気の人もおらず、とにかく情報がなくて困りました。結局「時間が経てばこういうふうに進んでいくんだろう」と想像するしかなかったんです。
次に「減っていく預金残高」です。これは薬が変わった頃に退職をしたときの話です。退職すれば当然収入がなくなりますし、その間に保険も切れてしまって、「保険が効かない状態で受診したらどうなるんだろう」と不安になりました。白血病の薬はとても高額で、保険が効いても限度額の上限を使わないと1カ月で20万円ほどかかってしまいます。預金残高がどんどん減っていき、本当に困りました。
そんなとき、がん相談支援センターに相談に行ったんです。すると「こういう制度が使えますよ」「上限額はこう申請すれば大丈夫」「保険のこともこちらでまた相談できます」と具体的に道筋を示してもらえました。その言葉で不安が和らぎ、とても心強かったですね。
岸田 相談支援センターのソーシャルワーカーさんですね。
梶 そうです。道筋を示してもらえたことで、不安がすっと軽くなりました。
『自分にとって本当に大切なものを見失わずに』22年の闘病を経て伝えたいこと
岸田 ありがとうございます。では最後に、梶さんから皆さんへのメッセージをお願いします。
梶 私は15歳で白血病の診断を受けてから、もう22年が経ちました。あと数年すればAYA世代という枠からも外れますが、その間には本当にいろいろなことがありました。別に誇らしいことを成し遂げたわけでもないし、自慢できるような人生でもありません。生活の中で「自分は何をしているんだろう」「自分の人生って何なんだろう」と分からなくなるときもありました。
でも振り返ってみると、どんなときも「自分にとって本当に大切なものは何か」を見失わずにいることが大事だと思います。それが人生の道しるべになると、今は感じています。これを皆さんへのメッセージとしてお伝えしたいです。
岸田 ありがとうございます。「自分にとって大切なものを見失わない」という力強い言葉をいただきました。今後ともどうぞよろしくお願いいたします!
梶 よろしくお願いします。
岸田 それでは、これにて梶君のインタビューを終了します。どうもありがとうございました。
梶 ありがとうございました!
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