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インタビュアー:岸田 / ゲスト:奥野
一度味覚を失って気づいた『食べる喜び』—3度の再発を乗り越えて
岸田 本日のゲストは奥野さんです。奥野君は出身がK県で、現在もK県在住の高校生ということですね。趣味は映画や食巡り、料理、運動、筋トレ、野球と、とても多趣味です。奥野君、よく言われるんじゃないですか?
奥野 そうですね。周りからも「多趣味だね」とよく言われます。
岸田 食巡りや料理もあるけど、これはどういうきっかけですか?
奥野 もともと小さいときから家でご飯を作ったりしていて、今も料理をします。入院していたとき、味が分からなくなる時期があったんですが、食べられるようになったときに「こんなに美味しかったんだ」って気付いたんです。それで、もっと美味しいものを食べたいと思うようになって。ブログも始めましたし、いろんな国の料理を食べたいなって思うようになったんです。だから「食巡り」もしています。
岸田 実際にその国へ行って食べてみたい、という思いもあるんですね。そんな奥野君のがんの種類は急性骨髄性白血病。ステージはなく、15歳、16歳、19歳と告知を受けたということは、再発があったということですね。
奥野 はい。全ての造血幹細胞移植を経て寛解へ—20歳が語る急性骨髄性白血病5年間の軌跡
全ての造血幹細胞移植を経て寛解へ—前向きに歩んだ急性骨髄性白血病5年間の軌跡
岸田 そして、現在の年齢は20歳。そして、薬物療法や放射線、移植などをされております。そんな奥野君のペイシェントジャーニーをこれから伺っていきたいと思うんですけれども。ペイシェントジャーニーですね。今後出てくるものに関しては、このような吹き出しや気持ち、時間の経過となっておりますので、見てもらえたらと思います。では早速なんですけど、奥野君のペイシェントジャーニー、こんな感じになっております。基本的に普通よりポジティブというか、ニコちゃんマークのほうに線が偏っているのね。
奥野 そうですね。あんまりネガティブにならないんじゃないですけど、結構前向きなタイプなんで、今もなんですけど。そういう意味で上向きになってるのかなって思ってます。
岸田 ありがとうございます。じゃあ、いろいろ他にも聞いていきたいなと思いますのでよろしくお願いします。まず奥野君の15歳のときは、急激に体力を落ちていった。そこから発熱していって、インフルエンザの検査を4回も受けていくとあるんですけれども。体力落ちるがポジティブな赤色やねんけれども、これはなんか意味があんの?
奥野 一番最初に気付いたのが中学校のときで、持久走ってあるじゃないですか。そのとき僕、ずっと速いほうやったんですけど、学年でほんまに下から何番目かっていうぐらいまで落ちた時期があったんです。全然原因が分からなくて、ただ「なんかしんどいな」ぐらいの感覚でした。でも中学3年生やったんで、「高校行く準備をする」「新しい生活が始まる」みたいなわくわく感があって、どちらかというと大丈夫やろうって思って、そのときは過ごしてました。
42度の高熱とインフルエンザ陰性—『連れて行かれた』緊急入院までの経緯
岸田 そういう感じで過ごしていてといった中で。ただ、発熱をして検査を4回も受けていって、そこから大学病院で検査や入院までしていくというふうな、これもポジティブであんねんけれども。ここまでの経過、教えてもらってもいいですか。
奥野 体力が落ちてきて、1月ぐらいやったと思うんですけど、熱が42度まで出たんです。お風呂入るときに追い炊きしても全然温まらなくて、「ずっと水風呂入ってるみたいやな」と思ってました。でも外に出てもそんなに寒くなかった。インフルエンザかと思って検査をしたら、全部陰性。親から「高校行く前やし、せっかくやから診てもらったら?」って言われて、大きな病院で精密検査を受けました。レントゲンとか血液検査をしたら、血液の値で引っかかって。そのまま大学病院に即入院、という流れでした。
岸田 そのときは血液の値がちょっと良くないから、すぐ入院してくださいって言われたってことね。
奥野 僕は診察室には入らず、外で待っていて、親だけが先生の話を聞いていました。だから僕は事情を知らされないまま「連れて行かれた」って感覚でしたね。
岸田 じゃあ、訳も分からぬまま入院していったって感じか。
奥野 そうです。
岸田 じゃあそこから入院をして、薬物療法に入っていったわけですね。
奥野 数値的にはかなり危なかったらしくて、「もう今すぐ治療しないと」って感じで抗がん剤を始めました。
岸田 抗がん剤治療をしていって、その後、中学校卒業ということやけど。卒業式は出られなかったんよね。
奥野 はい。出られなかったです。LINEのビデオ通話で見ていました。
岸田 そうだったんだ。その後、高校入学もオンラインで見ていた感じ?
奥野 入学式は見てもいないですし、出てもいないです。
岸田 そういうことね。ただ、当時はポジティブに構えていたということね。
奥野 そうです。まだ「大丈夫ちゃうかな」という気持ちで過ごしてました。薬物療法をしてもしんどくはなかったので。
岸田 ただ、その後は薬物療法と放射線治療をして、集中治療室に入っていくことになった。これは、前処置ということ?
奥野 そうです。移植の前処置という形で、強い薬を入れたり放射線をしたりしていました。その間に菌が体に入ってしまったのか、発熱して意識が朦朧として。そこからICU、集中治療室に運ばれたのを覚えています。
岸田 体調が急激に悪くなって、緊急でICUに運ばれたということやね。
奥野 そうです。後から主治医に聞いたら、結構危なかったみたいです。
岸田 ただ、そこから臍帯血移植をすることができた。これは大きかったよね。
奥野 はい。集中治療室を出られたこと、そしてそのまま移植ができたこと。それが一番大きかったです。
岸田 臍帯血移植をして「生着」していった、と。そこから退院へ。ただ奥野君の場合は、退院のタイミングでがんの告知を受けたんだよね。最初は親だけが聞いていて、自分は知らされずに治療していたと。
奥野 そうです。僕は「たとえ病名を聞いても治るわけじゃないし、知りたくない」と親に伝えていたんです。だから退院して少し落ち着いたタイミングで、「実はがんだった」と正式に聞きました。
奥野 そうですね。でも、長いこと入院してたんで、おかしいなとは思ってたんですけど、原因までは全く分からなかったですね、治療中は。
岸田 がんと聞いてどうやった?
奥野 この年でがんか、とは正直思いました。でも逆に、普通は年を重ねてから経験するようなことを、若いうちに経験できた。それはそれで新しいコミュニティーに出会うきっかけにもなりましたし、こうしてがんノートさんにも出させていただいたので、結果的にはよかったのかなと思っています。
岸田 すごいな。最初に言ってくれたように、ポジティブに過ごしてるっていうのが本当にそのまま出てると思うんですけれども。
退院後の『怪しい数値』から2回目の移植へ—経験が活かせた末梢血幹細胞移植
岸田 ただ、その後に再発があったんやね。これは血液の値で分かった感じ?
奥野 はい。退院したときに、数値的にちょっと怪しい部分があったんです。一応、移植は成功したんですけど「どうかな…」という感じで、内服薬で経過観察をしてました。でも数値が「あかん」となって、もう一回移植しようという流れになりました。
岸田 なるほど。そこから再発が分かって、内服薬で耐えつつ再度移植。今度は末梢血幹細胞移植を受けたんやね。1回目と比べたらどうやった?
奥野 2回目ということで、一度経験してる分、対策ができました。「こういうときはこうしよう」とか、「この薬が合うから先生にお願いしよう」とか。準備ができてた分、楽といったら言い方は変ですけど、いろんな面でそこまで苦にはならなかったかなと思います。
岸田 大変だったやろうけど、少なくとも気持ちの持ちようは違ったと。そして移植の後、退院して高校生活に戻っていった。そのとき野球部に入ったんやね。ただこれは、普通に部活っていうより推薦で入った?
奥野 はい。小さいころから野球をやっていて、高校も野球推薦で入ったんです。だから「野球をしに行く」という感じでしたね。2回目の移植のあとも体を戻して、野球をやりたい一心でトレーニングしてました。
岸田 練習にも参加してたんや。
奥野 してました。しんどかったですけど。
岸田 移植から半年くらいやんな?
奥野 そうです。そのくらいの期間で。
岸田 先生からドクターストップとかはなかったの?
奥野 全くないわけではなかったです。でも主治医がずっと同じ先生で、僕の希望も理解してくださっていたので「無理しない範囲なら」と。入院中から「野球がやりたい」ってずっと言ってたので、外泊や一時退院のときにキャッチボールの許可を交渉したりしてました。先生も信頼してくださって、無理しないでやりなさいと言ってくれました。
岸田 でも野球推薦やから、結構ガチやんね。
奥野 がちがちですね。甲子園に出るような学校でしたし。
岸田 練習、ついていけた?
奥野 普通に入った子でも辞めるくらい厳しい環境でした。僕はマイナスからのスタートだったので、本当に大変でした。朝6時の始発で通って、夜9時まで練習して。最初はしんどかったですが、最後のほうはある程度みんなと同じことができるようになってました。
岸田 ちゃんとスケジュールを組んでついていけるようにしてたんやね。
奥野 そうです。
2週間で決めた通信制高校への転校と、三度目の再発
岸田 すごいな。そんな高校生活を送りながら、その後に転校を決意して通信制高校へ進んだんですね。これは何かきっかけがあったんですか?
奥野 夏休みって本来は遊んだり海に行ったりするイメージがあると思うんですけど、僕の場合は練習ばかりで…。外来で定期的に診てもらっていたので数値にもしんどさが出ていて、主治医からドクターストップがかかりました。そこで「もう変えないと」と思って転校を決意しました。やめようと思ってから転校まで2週間くらいしかなくて、学校探しや資料請求、電話や面談も全部自分でして、お母さんに前日に「聞きたいことある?」って聞いたくらいで。手続きもあっという間に終わらせました。
岸田 すごい行動力やな。それで通信制高校を選んで、野球以外のことにも挑戦するようになったんやね。
奥野 そうですね。その高校はITやパソコンに強い学校だったので、刺激を受けてすごく良かったです。
岸田 でも野球も忘れずに、草野球チームを作ったんですね。ただその中で再再発があったと。これはまた数値が悪化したの?
奥野 はい。退院して2年くらいたったときです。体調が悪くなって、確か家で倒れて入院したんだと思います。
岸田 さすがに3回目となるとメンタル的にもきつかったんじゃない?
奥野 そうですね。通信制高校に変わって、いろんなことに挑戦して上がっていく時期だったんです。高校2年生で、次は3年生で大学も考えないといけないっていうときに分かったので、さすがに落ちましたね。
岸田 なるほど。ただそこからまた上がっていく。次は骨髄移植をしたんやね。
奥野 そうです。臍帯血、末梢血幹細胞、そして骨髄移植と、全部経験しました。
岸田 本当にすごいな。その後にまた集中治療室に入ったと書いてあるけど、何かハプニングがあった?
奥野 移植して生着するまでに腸に菌が出て発熱してしまって。2週間、集中治療室でベッドから動けない生活でした。前にも1週間入ったことはあったんですが、今回は2週間だったので最後のほうは気が狂いそうでした。麻酔もかかってないのでずっと意識があって、本当にしんどかったですね。
岸田 それは大変やったね。その中で乗り越えた方法とかはまた後で伺うとして…。ただ、その後に20歳の誕生日を迎えられたんですよね。
奥野 はい。病院で迎えました。やっぱり家のほうがよかったですけどね。
岸田 そうやんな。そしてそこから退院したと。今から考えると退院は何カ月前くらい?
奥野 4カ月前です。去年の10月くらいでした。
『できる範囲で行動する』—5年の闘病で見つけた、乗り越える方法
岸田 まだ退院して4カ月ほどということで、その後にがんノートに連絡をくださり、今回出演いただいたわけですね。もっといろいろ聞きたいところですが、お時間の都合もあるので、ここからは「大変だったとき、困ったとき、どう乗り越えたか」というテーマでお話を伺いたいと思います。奥野君からこんな言葉をいただいています。まずは「長期入院」のとき。どうやって乗り越えたのか教えてもらえますか。
奥野 小児病棟にいたので、子どもたちとしゃべったり遊んだりして気を紛らわせていました。
岸田 なるほど。ただ、無菌室や集中治療室に入ってしまうと、他の子どもたちと遊んだりはできないですよね。そんなときはどう過ごしていたんですか?
奥野 ありがたいことに、通信制の学校に転校してからパソコンやiPadを持っていたんです。サブスクでAmazonプライムビデオとかを見て過ごせたので、時間をつぶすことができました。僕はあまりゲームをやらないので、映像配信サービスがあって本当に助かりました。
岸田 なるほど。そういったもので気を紛らわせていたんですね。ありがとうございます。では次の言葉、「自分のできる範囲で行動する」。これはどういう意味ですか?
奥野 高校生活のとき、野球推薦で入学したので、野球をしないといけない環境だったんです。でも、病気の影響で無理はできない。だから、できる範囲で取り組むという自分との戦いでした。根性論は嫌いなんですけど、実際には少しは無理をしないと運動も生活も成り立たないんですよね。ただ、無理をしたらその分しっかり休む。例えば「1日無理したら翌日は休む」みたいに調整しながら続けていきました。そうやって取り組んだ結果、運動も生活も少しずつできるようになっていきました。
岸田 野球部に入っていながら「根性論嫌い」というのは面白いですね。でも「できる範囲で挑戦し、必要なら休む」という考え方は、とても大事な工夫だと思います。
『人間、意外と生きられます』—実体験から生まれた希望のメッセージ
岸田 ありがとうございます。そんな奥野君が「どう乗り越えたか」という話のあとに、今、見てくださっている方々へのメッセージをいただいています。奥野君、ぜひお願いします。
奥野 僕からのメッセージは「人間、意外と生きられます」ということです。少し誤解を招くかもしれませんが、僕自身、何度も「もうダメかもしれない」と思う瞬間がありました。でも今、こうしてここにいられる。だから実体験として「意外と生きられる」という感覚を持っています。
しんどいときや気持ちが落ち込むときは必ずあります。ただ、生きていれば何とかなる。薬の副作用でつらいこともありますが、心だけは弱くならずに頑張ってほしいと思います。
岸田 ありがとうございます。奥野君は移植を3回も経験して、本当に大変なことを乗り越えてきたからこそ、この言葉が出てくるんだと思います。まだ20歳ですが、これからも長い人生が待っています。ちなみに、今は再発と付き合いながらの状態ですか? それとも一旦は落ち着いているんですか?
奥野 一応、大丈夫です。今のところは。
岸田 よかったです。本当に3回それぞれ違う移植を経験してきたからこそ出せる言葉でしたね。もっとお話を伺いたいところですが、これにて終了していきたいと思います。奥野君、ありがとうございました!
奥野 ありがとうございました!
※本ページは、経験者の体験談を扱っております。治療法や副作用などには個人差がございますので、医療情報に関しましては主治医や、かかりつけの病院へご相談、また科学的根拠に基づいたWebページや情報サイトを参照してください。
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