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インタビュアー:岸田 / ゲスト:村山

「がんを告げられた高校1年生」趣味と仲間がくれた支え

村山 はい!村山実穂と申します。出身地、現在地ともに愛知県です。おっしゃっていただいた通り今大学生です。次の月から新社会人になります!

岸田 今この写真は⋯だから成人式の時の写真よね?

村山 はい、1年半ぐらい前ですかね。2年ぐらい前ですね。成人式の時の写真です。っていうふうな感じで、趣味がK-POPを聴くこととか、あとボルダリングが好きです。

岸田 K-POPって何にハマってたりするんですか?

村山 特定の誰かグループってわけじゃないんですけど、女の子の女子のグループはすごくよく聴いてます。

岸田 すごいね。NHKの紅白でもね、たくさん(K-POPグループが)出てたりとかねしましたし。ボルダリングが趣味って言ったところで、なかなか珍しくない?

村山 はい、そうですね。周りの人にも結構ちょっと珍しいねって言ってくださるんですけど、大学のサークルで入りまして、そこからになります。

岸田 大学のサークルに入って、ボルダリングにハマっていったって感じね。

村山 はい。

岸田 ありがとうございます。ちなみにがんの種類からお願いできますか?

村山 はい。がんの種類が胚細胞腫瘍でステージが3Cになります。告知された年齢が16歳で今22歳です。治療は手術を最初に受けたのと薬物療法になります。

岸田 胚細胞腫瘍なのでね、種類的には(僕と)一緒ですよね、大きなくくりとしては。それを16歳、16歳ということは高校生の時?

村山 はい 高校1年生です。

治療と不登校、そして進学へ──私を支えた記録と仲間たち

岸田 罹患してといったところで、今に至るまでどんなことがあったのかといったところを村山さんに今回お伺いしていきたいと思います。その中でどのような経過をたどってきたのかといったところを、感情の浮き沈み、そういったものをグラフにしてお伝えをしていければと思っております。

我々ちょっとペイシェントジャーニーと言ってですね、患者さんの今までの旅路というか、今の治療歴だったりとか、今に至るまで、このような吹き出しなども含めてお話を聞いていければと思います。

村山さんのペイシェンドジャーニー、こちらドン!っていうふうな感じで、真ん中に大きくドンと落ちている、そしてまた小さい谷があってみたいな形でなっていますけれども、じゃあちょっとお伺いしていきます。

まずははじめこちら、高校受験⋯高校受験の時だったりだとか、その後ね合格していってっていったところが、マックスに上の方に来てるけど、これは希望の高校に行けたからとかそういったところ?

村山 そうですね。この時はもう第一志望の高校に受かることしか考えてなくて、もうそれに対してもう死ぬ気でやるぞみたいな感じの自分を追い込んでいたので、合格できた時はすごく嬉しかったです。

「制服がきつい」で始まった私の病気の兆し

岸田 自分を追い込んでね、合格していって、やった!っていう時に、ちょっと下腹部に腫れがちょっと見えてきたっていう感じなのか⋯

村山 はい。制服の採寸に行った時に、ちょっとこうウエストが腰のところが、ちょっと全体のバランス的にちょっと大きいかなみたいなことで気づいて、でもその時はあまり何も思わず、スルーしてって感じになっちゃいました。

岸田 その時は、それよりも合格の喜びの方が勝ってるみたいな、ちょっと腫れてるかなぐらいの感じか。この時は下腹部っていうのはおへその下あたり?

村山 そうです。腫れてるのにちょっと気づいたぐらいで、そのまま過ごしていましたね。

岸田 そこから徐々に成績が下がり始めるというふうなことありますけど。

村山 そうですね。やっぱり無理して入ってっていうのもあって、最初みんなと頑張ってっていうのはあると思うんですけど、やっぱりついていけなくなってっていうのが徐々に徐々にちょっとずつっていう感じです。

岸田 そうか、すごいみんなの周りのレベルが高かったりとかするとね、なんか結構自分勉強頑張ってるけど⋯みたいなところはちょっとあったのかもね。ただそれはそれだけのせいやったのかっていうとね、今から考えると、そうじゃなかったのかもしれないなっていうのもあるよね。

村山 そうですね。それが何でかっていうと、ここの右下の下腹部にまた痛みが出てくるというふうな形で。

岸田 これは高校1年生の時?

村山 そうです。高校1年生で2学期くらいですね。秋にテスト勉強を本当に直前で頑張っていた時に、気にしてなかった腫れてるところがずっと痛み出して、痛みが引かずにっていう感じになっちゃいましたね。

岸田 そっかどんな痛み?なんかズーンとかチクチクとか、ドンドンとか色々あると思うんだけど、どんな痛み?

村山 ズキズキした痛みが、ずーっと続く感じで、あのなんて言うんですかね 10割の痛みが一瞬くるんじゃなくて、7割ぐらいが、ずーっと続いているような感じで、まあまあ勉強に集中は絶対できないなくらいの、まあまあの痛みが何時間も何時間も続いたので、これはちょっと病院に行くしかないのかなっていう感じでした。

岸田 そっかずっと右下腹部っていうふうなところか。そこはずっと痛くて何してる時もずっと四六時中痛い感じか⋯

村山 はい。勉強しててもご飯食べててもずっと痛みが治まらなかったですね。

岸田 痛みが治まらへんから、じゃあちょっと病院に行こうっていう感じなのかな。そこから。

村山 はい。

岸田 そして、その後に市民病院に行くけど、いきなりここでもう手術って書かれてんねんけれども(汗)。これは市民病院に行こうと思ったのは、近いからとかそういう感じ?

村山 本当は最初近くの病院に行ったんですけど、そこでちょっと診てもらったときに、ちょっとこれはもっと大きい病院に行った方がいいみたいな感じで、お医者さんが言ってくださって、そのままその日、市民病院に行ったところ、ちょっと気づいたら点滴が始まっていて、それから検査CTレントゲンみたいな感じになってましたね。

岸田 じゃあ近くのクリニックに行って、その日のうちに市民病院に行った方がいいってこと言われて、その日のうちに行ったんだ、市民病院に。

村山 はい、そうです。そこで緊急にいろいろ検査が始まっていって、市民病院で。

岸田 すぐに点滴まで始まっていくん?

村山 はい。点滴が始まってちょっと手術っぽい雰囲気が、説明っていうんですか、同意みたいな感じで始まってっていう感じですね。

岸田 その時は何か言われるの?こういう病気ですみたいなことは。

村山 えっと私自身は何かわからなくて、とりあえず何か腫れていると、中の臓器か何かが腫れていて取り出さないと、もうどうにも痛みは治まらないから手術するしかないみたいなのを母親からは言われたんですけど、母親はその時点で、ちょっと卵巣が怪しいかもみたいなことを聞いてたみたいです。

突然の緊急手術、その夜に始まった“がんの旅”

岸田 そうなんや⋯じゃあ先生に診てもらうけど、別々にって言い方変やけど、話的にはそういうふうな別々に話を聞いて、みたいな感じもあったのかな。検査してる間にお母さんがお話を色々聞いてって感じなのか。

村山 そうです。検査結果は私は見てないです。

岸田 あ、そうなんや。それであれよあれよと言って、その日のうち入院とか?

村山 もうその日、夕方くらいに市民病院に行ったんですけど、もう夜6時、7時ぐらいにはもう父親も来て、同意書にサインとかになって、そのまま手術です。

岸田 えぇ〜手術はさすがに翌日?

村山 いやもうその日の夜です。

岸田 え⋯⋯嘘!?

村山 もう怒涛の…

岸田 うわぁ⋯もう怒涛やね本当に。緊急手術ですね。その日の夜中に緊急手術していって。じゃあそれで手術していきます。それがもう開腹手術ってことはさ、結構ガッツリ開けるわけやん?

村山 そうですね。今も手術の跡ちょっと残ってるんですけど、10センチくらいは開けてると思うので。お腹を開けて。

岸田 そして手術して、さすがに卵巣を取りますよみたいなことは言われた?

村山 そうですね。卵巣とは言われてなかったんですけど、私に説明したら、私が多分不安で行けないっていうふうに、手術行けないってなっちゃうと思うので、あんまり説明はそこまで、ふんわりしかしてくれなかったんですけど、あんまり記憶がそこまで覚えてないんですけど、取り出すって言われてたので、多分卵巣だったと思います。卵巣を取り出すっていうことは認識はしてたと思います。

岸田 でもその日のうちにあれよあれよやから、もう訳わからなくなってくるよね。とりあえず取り出しますよっていったところで、手術するって言ったので、同意してみたいな感じでスタートしていくと、そこからどんどん下がっていくのは、ここでがん告知が入ってくるねんけれども、これはどういうことでしょう?

村山 手術した後に術後入院をしていたんですけど、私はその入院が終わったらもう終わると思っていて、その時に取り出した右の卵巣の病理解剖をしていただいていて、親だけがそれを私のいないところで聞きに行って、親が先に告知を受けていって、一回ちょっと病院に聞きに行くよみたいな感じで、私が行ったところ、私に告知が来たっていう感じです。

“私のことじゃない”と心を閉ざした告知の日

岸田 告知が⋯そうか⋯。これ病院行ってどんな感じで言われるの?

村山 淡々と、検査したところみたいな感じから始まって、がんのなんでしょうね、冊子というか、病気の種類とかが書いてある冊子を本を開いてもらって、これの分類のっていうふうに始まって、それが取り出されたぐらいの時にも、なんか察してあんまり自分のことだと捉えないように、あんまり考えないようにして。

岸田 そうか…

村山 もう自分のことを取り出されて説明されてるけど、自分のことと思わないように聞いてて、もう親がびっくりしていて、その時に泣き出すとか、すごい悲しんでっていうのを予想してたみたいなんですけど、私が本当にもうなんか悟って、やばすぎるものだっていうふうに、多分自分で受け止めきれないと思って、授業を聞いてるみたいな感じの、黒板を前に授業を聞いてる感じの雰囲気だって思って、完全に心閉ざして、自分のことじゃないと思って、質問とかもしちゃうぐらいの、切り替えて、ずっと自分がっていうのは思わないように、他の人のことを聞いてるみたいな感じのテンションで聞いてました。

岸田 けどわかるわ〜なんかね、話聞いても、え?誰のこと言ってんの?みたいなね、自分のことじゃないような、第三者の感じというか。

村山 はい、そうです。

岸田 わかる⋯そんなまあこう聞いてね、いろいろがん告知を受け、そこから下がっていきますが、これはドン、薬物療法BEP療法という抗がん剤が入っていく、そして地獄のクリスマスと書いていますね。じゃあこの後手術してから、抗がん剤していこうみたいな感じになってくの?

村山 そうです。もうその告知を受けた日に、薬で治すしかないって言われて、何日から始まりますって言われて、12月の中旬あたりから始まりました。

岸田 ってことはどっか転移してたとか、そういったものが見受けられたのかな?

村山 はい、大リンパ節ですね。一番大きいリンパ節に十何センチあったのと、足の付け根にも数センチあって、それを完全に叩いていきましょうっていう感じになりました。

岸田 抗がん剤治療していきましょうっていうので、手術してからすぐ?それとも数週間経ってから?

村山 手術は11月末で告知を受けたのが12月上旬なので、もう1週間半とか2週間後には、薬始めますみたいな感じでした。

岸田 スタートしていってっていうところね。ずっと入院して治療してたの?

村山 入院が薬が始まる日から入院始まったので、告知を受けてからずっと家で過ごしていて、薬が始まると同時に入院が始まりました。

岸田 抗がん剤治療ってどれくらいやったの?期間的には。

村山 1クールが3週間くらいだったんですけど、結果的には合計で6クールやりました。そうですね⋯5ヶ月ちょっととかですか。

岸田 っていうのをやってたってことね。そんな中でね、この地獄のクリスマスっていうこと書いてあんねんけれども、地獄のクリスマス12月中旬からね、治療がスタートしていって、ちょうどねクリスマスシーズンにも入ってくる。そんな中で地獄のクリスマス、どんなことがあったのかってところで、写真をねもらってるよねこの時の、ちょっとこれを出してもいいでしょうか?

村山 はい 大丈夫です。

岸田 はい じゃあこちらドン!このメモというか、このノートっていったものをいただいてるんですが、これちょっと説明してもらってもいいかな?

副作用の波、“地獄のクリスマス”と母のノート

村山 はい!クリスマスの該当のページは左側なんですけど、私が書いたものじゃなくて母親が書いたもので、ちょうど日付が左上に見えるんですけど、12月25日火曜日、時系列ごとにだと思うんですけど、母親が私との会話とか私の様子を見て書いたものとか、あとは病院の先生とか薬剤師の方と話してっていうことを全部まとめたものですね。

岸田 これをこの中で地獄のクリスマスっていうのが、左側って書いてあったけれど、どんな地獄のクリスマスやったん?

村山 これが1クール目って最初なので全然つかめていなくて、薬の薬物療法がどんな感じかっていうのを、私は入院と退院を繰り返すスタイルだったので、1回薬を入れてる期間は入院をして薬を入れ終わったら、体調が良くなったら退院してっていうので、3週間というのが1クールだったんですけど、薬が終わったら早く家に帰りたくなっちゃって、1クール目は、病院にいること自体が本当に苦痛だったので、薬を入れ終わった瞬間に帰っちゃって、薬の副作用がずっと残っている状態で家に帰ってしまって、ちょうどそれが23日、24日くらいで、そこからずっと地獄ですね⋯。もう体調が全然良くならずに、もう気持ち悪い⋯気持ち悪い⋯で、ずっと何も食べられずっていう感じでした。

岸田 そっかこの左側もちょっとね、皆さんもしかして小さいかもしれないですけど、書かれているのはね、12月25日 朝一で病院へTel、そしてもう再入院って丸々書かれてるもんね。もうずっと吐き気が続いていてみたいな形で、そして午前中に病院に行って診察を受けて、制吐剤とか吐き気止めとか点滴をして、もう午後には入院していってみたいな感じで、書かれていてっていったところで、もうだから家帰ったけど、もう一回再入院するっていう風な感じだったってことね?

村山 そうです。この時に気づいたんですけど、私は多分点滴をずっと打っていないと良くならない人だったというか、水分を摂取できないので体調が悪くて、点滴で生理食塩水をずっと流していないと、トイレにも行かずに薬が出ていかないで、副作用がずっと残るっていう悪循環でした。

岸田 っていう悪循環でじゃあもうそこからずっと入院?

村山 そうですね⋯5日間くらいで、1クール目の時はもう退院してしまったんですけど、もう副作用が全部薬も抜けきって、体調回復してっていう10日間くらいですね。9日、10日くらい絶対入院するっていうのを、もう次からは徹底しようっていうふうになりました。

岸田 やってたってことね。そして次の右側が1月11日って年を明けてっていったところで、これも抗がん剤治療中かな?

村山 はい、2回目ですね。シスプラチン、エトポシドをやっていってっていうのが、真ん中の方に書かれていたりだとか、やって治療していって、真ん中から下の方に 気持ちの辛さ7 眠気5、だるさ6 食欲不振5から6 吐き気分からないみたいな感じで、こういうふうな辛さとかも可視化していったん?数字で。

岸田 これがもう2クール目からは1クール目の反省を経て、できるだけ辛くないようにっていうことを考えるようになって、私からこれぐらいっていうのは言えないので、母親からどれぐらい10段階で言うとというぐらいみたいな感じで言われて、記録しておくことで、3クール目4クール目とかその以降の時の知見を得るというか、この時に一番つらいなら、この時に薬を打つべき、副作用を止める薬とかを使おうっていうことをしてました。

岸田 おー!すごいえらい!しっかりね、こうやって数字とかで伝えるとね、医療者にもこれぐらい辛いんだなとかっていうのをね、分かっていってもらえたりとかするからね。

村山 はい 母親がすごく頑張ってつけてくれています。

岸田 お母様さすが。本当に。そこでそんな地獄のクリスマスを過ごしていって、まだちょっとね、ちょっと辛い時が続きますが、これが脱毛という中で髪の毛は抜けていく、ちょうど年明け年末年始くらいだったので、もう世間がお祝いムードの中、髪の毛抜けていって16歳でっていうのがあったんですね。

眉毛も笑顔も消えた日々、それでも支えてくれた仲間の千羽鶴

岸田 ああそっかお祝いムードの中、自分の髪の毛はこう抜けていってって言ったところで、結構患者さんによって髪の毛がどこまで抜けるかとか、色々差異があったりとかすんねんけれども、村山さんの場合どれぐらい抜けた?髪の毛とか。

村山 ほとんど全部だったと思います。

岸田 ほとんど全部?もう全身のあらゆる毛が抜けたって感じよね?

村山 はい、眉毛とかもなくなってたので、結構抜けてたのかなとは、他の方がどれぐらいっていうのがあんま分かんないんですけど。

岸田 眉毛とかも抜けると全然人相変わるしね。

村山 はい、もう本当に鏡とか絶対見れなかったので、鏡にタオルというか紙を貼ってみたいな感じでなってました。

岸田 そうかそうか。結構ある程度抜けたら自分で坊主にしはる人もいるんやけど、村山さんの場合どうしたの?

村山 もう私の場合は髪の毛について、考えたくなかったっていうのがあって、もう何も触らない触れないというか考えないようにしていて、最初はもう抜けたっていうことすら考えたくなくて、ずっと帽子被っていたくらいだったので、もうそうですね、年齢も大きかったのかもしれない。

岸田 その後ウィッグっていうかつらとか、そういったものとかは考えたりとかした?どっかのタイミングで。

村山 それは治療が終わった後ですね。治療が終わった後に、社会に戻らなきゃいけない時に⋯っていう感じです。

岸田 ウィッグを買ってつけてみて⋯みたいな?

村山 はい、それもすごい嫌でしたね。

岸田 今はそれは全部地毛?

村山 いや、これもずっとウィッグで。

岸田 え!!それもウィッグなん?

村山 そうなんですよ!すごいびっくりされるんですけど、いつも(笑)

岸田 え!すごい!!

村山 ここはけっこうあるのでこの辺は全部地毛なんですけど、もう戻さないとなっていうのは思ってるので、動いていこうねっていうふうに母親とも言ってるんですけど。

岸田 全然わからへんわ!すごい!何種類ぐらい持ってんの?(ウィッグを)

村山 でもそんなに種類は持ってないです。ただ買い替えは頻繁に⋯っていう感じなんですけど。

岸田 そっかそっか2、3種類ぐらい?

村山 そうですね。あんまり種類でも変えないですね。2、3種類あるけどあんまり変えないですね。毎日会ったりする人もいるので。

岸田 そっかそっか!いきなりびっくりされる、そっちもそっちでびっくりされるもんね。脱毛でね下がっていって、そこからちょっと上がっていきます。上がっていくって言ってもね、結構マイナスなんですけれども、そっから薬物療法とEP療法を追加、精神的に辛くなっていくっていったところで、BEP療法からBを抜いてEP療法ってことかな?

村山 はい。ブレオは4クールまでっていうことだったので、多分副作用とかのリスクでエトポシドとシスプラチンを、本当はBEP療法4クールだったんですけど、ちょっと腫瘍マーカー的に下がりきらなくて。

岸田 そうなんや。

村山 2クール追加しないとっていうことを言われて、ちょっと絶望だったんですけど、エトポシドとシスプラチンを2クール追加しました。

岸田 いや絶望やね⋯。僕もBEP療法4クールやってますけど、4クールやったら、ヘトヘトやん?そっからまだエトポシドと⋯シスプラチンがきついよね。

村山 シスプラチンがきついです⋯本当に。

岸田 きついよね⋯。まだそれをあと2クールやらなあかん、3週間1セットとしても、あと1ヶ月以上もやらなあかんってことよね。いやー⋯きついわ⋯それは精神的に落ちるわ。

村山 体調的には今までのノートとかもあって、ちょっと安定はしてきたんですけど、ここから精神的に不安定になってきて、孤独で⋯母親曰く泣く頻度がすごく多くなったって言ってました。

岸田 そうか毎日のようにって言い方はあれやけど、ちょっと泣いてって感じで過ごしてたってことね⋯。そっか⋯。

村山 もう早く終われっていう感じですね、この辺りは。

岸田 そうだね。もう早く過ぎてくれっていうふうな感じで。そしてそこからちょっと上がっていくのが、それが?理系を諦め文系に、ここは学校のことが入ってくるんや。

村山 そうですね。これはもう薬物療法は5、6クール目が終わりかけになってきて、もう年度末になってきて、本当は理系に行きたかったけど、こんだけ学校休んでる状態で、文系に行くしかないっていう状態だったんですけど、ただ自分の適性というか、自分に合ってるのは文系の方なのかなっていうのも考え始めて、そうすると結構自分のやりたいことと、自分に適していることって違うのかなって思い出したところから、結構ポジティブに考えられるようになってきました。

岸田 ポジティブにはね、ちょっとそれで文系に変更してというか、だって高2とかになってもクラス分けとかもね、文系理系とか分かれますもんね。そっかそれで、理系から文系をやっていこうっていったところで思って、その後にセカンドオピニオンを受けていって、薬物療法を終了していく、これは化学療法、薬物療法、最後の方じゃなかったん?

村山 そうですね。5、6クール目が終わってようやくこれで終わるっていう時に、もう念押しで7、8クール目をやるかっていう話が出て本当に嫌だったんですけど(苦笑)、それはちょっと⋯っていうのがあって、自分の気持ち的にもですけど、エトポシドが6クール以上やると、あんまり良くないっていうのが白血病のリスク…?ちょっとあまり不確定なんで言えないんですけど、リスクがあってちょっとその点でもっていうことがあって、他の病院に1回、ここで聞いてみようかっていう話が親から出ました。

岸田 皆さんね がんノートはあくまでも経験談だったりとか、生活にフォーカスしてるので、治療方法とか治療に関することは主治医の方だったりだとか、医療従事者の方に聞いてもらえたら嬉しいと思います。それでさすがに7、8は俺もちょっともうこたえるわ、もうその場で主治医の先生いるのに、ちょっと⋯とかいやそれは⋯って言っちゃうぐらいの、うわー。

だからそれをやるかどうかっていうのを聞かれて、それやったらちょっと他の病院の話聞いてもいいですか?っていう感じだったの?

村山 そうですね、一回考えますっていうふうに言っておいて、ちょっと父親が結構他の病院をっていうふうに、探してくださってたので、そこに行ってみてっていうことをすると、結構違う意見が返ってきたので、ちょっとそこで考えてって思いました。

岸田 そっかじゃあそこでセカンドオピニオン、父親に探してもらって、その病院に行って、そこの先生の話を聞きに行ったってことね。そこの先生はもう終わってもええんちゃうか?みたいな感じで言ってくれたってこと?

村山 そうです 1回、CT⋯PET-CTですかね検査を受けて、それで大丈夫なら一回やめてみていいんじゃないかっていうことを言ってくださって。

岸田 じゃあその検査を受けてっていうことをやった時に、大丈夫そうっていう結果だったので。

村山 いい結果が出たのでよかったっていうことで、そうですね 4月ぐらいに終わりました。

岸田 あーそっか ただ最初の主治医の先生はあれよね、まだ腫瘍マーカーが落ちきってなかったから、やろうっていうことなってたよね 多分ね。

村山 そうですね 腫瘍マーカーもそうですし、あんまり例がない病気だったので、やっぱりこう専門のがんの専門のところに行くと、また違ったっていうのもありました。

岸田 うーん見解が違ったっていったところがあって、それでPET-CTの検査をしてみたら、もう終わっても一旦いいんじゃないかっていうところで、終わってっていうところでテンションが高くなってるってことよね?ここの中でね。

村山 ようやく終わった!っていう感じ。

岸田 ようやく終わった!っていうふうな感じで⋯。この時にはじゃあ何月ぐらいや?もう春に差し掛かってるよね?

村山 高校2年生の4月ですね。学校は行ってないんですけど。

岸田 ってことよね。高校2年生になっていってたことよね。ようやく終わっていって、そこからただちょっと下がっていくのはちょっと不安やねんけど、何があんねや?あ、復学するけど不登校気味に。これはやっぱり病気が関係してるのかな?入院してたとか⋯。

村山 はい もう半年くらい休学して、ゴールデンウィーク明けに復学したんですけど、もう周りとの差が本当に…。休む前にも成績下がっていたのに、もう教科書1個終わっちゃってるぐらいの雰囲気だったので、もう授業行っても何も分からず、周りとの差もすごく悩みましたね。そこで結構毎日送り迎えしてもらったりとか、そういう感じになってしまいましたね。

岸田 そっかーそれで授業にもついてけへんっていうか、1年分ブランク空いてるし、1年近くね周りの友人関係とかもね、またクラス替えしてたらもう初めましてやもんね。

村山 そうですね。1年生の時に関わりあった子がいたので良かったんですけど、それでも行事とかにもあんまり休みがちなので、参加することもそこまでできなくて、身も入らなくて⋯っていう感じでした。

岸田 授業日数的には大丈夫やったん?

村山 そこが本当にギリギリで、特に2年生は私2年生の冬に、3月くらいに、コロナで学校がなくなったタイミングがあったと思うんですけど、なので本当に1月、2月って本当にこの教科を、1回でも休んだら留年確定みたいな感じの教科が、いくつかあるぐらいの欠席日数だったんですけど、コロナで学校が全部止まってホッとしたみたいな感じで、ホッとしたってダメですけど、このままだと留年あったかもっていうぐらいの、ギリギリ加減だったので。

岸田 逆にコロナで学校なくなったパターンや。

村山 そうです。学校なくなってやっぱ不登校な感じだったので、そこがもうちょっと良くも悪くもっていう感じでした。

岸田 そっか、本当その状況で。ただそこからちょっと復活していきますが、それは国立大志望から私立大志望へ、これも入院とか関係して志望を変えたってことよね?

村山 もうこの時は3年生になって、2年生ほどの不安定さはそこまでなかったんですけど、もうなんというか無理な感じだったので、今までの人生計画とは違うけど、それでもいいのかな⋯っていうので妥協をしていって、でもそれでも自分で頑張ってっていうのをやり始めた時なので、ちょっと明るくはなってきました。

文系への転向と希望、揺れながら見つけた新しい進路

岸田 うんうん。そしてその後こちら大学に合格していくというふうな形で、高2から高3もそうやけども現役でってことやね。

村山 本当にギリギリだったんですけど、ギリギリ。勉強頑張って高校の時に、ようやく大学合格していって入学。

岸田 そしてエンジョイしていく!というふうな感じでね。そうよね 高校生活の時にね、そういう青春みたいなところがなかなかね、難しかったやろうし。

村山 はい、ほとんどなかったので、その分大学ではもう遊んじゃおうと思って。

岸田 ボルダリングしたりだとか?

村山 そうですそうです。いろんなところをやっていって。

岸田 そして今経過5年目に入っているということで、今は体調とかは大丈夫?がんとかは。

村山 何もなく、本当に5年何もなく経ったのですごく安心しています。

岸田 ああよかった。そしてね この春から就職していってってことよね。

村山 はい。

岸田 何系のお仕事に就かれるんですか?4月からは。

村山 IT企業に行くので、勉強をここから頑張ってってことになります。

岸田 IT企業にといったところで、ここからまた羽ばたいていってもらいたいなということを思うんですが、ちょっと入院の時にはなりますけど、お写真もまた頂いてます。こちら入院の時の食事?

村山 はい。これは術後入院の時、薬物療法の時ではなく入院の直後の時ですね。その時は結構体調もそれは薬やってないので、余裕があったので写真撮ってました。

岸田 モリモリ食べれて、カレーの時かな?これは。

村山 このカレー結構思い出深くて、水曜日とか木曜日にカレーが出てたんですよね。このカレーが出てくるお昼ご飯で出てくる時に、ちょうど体調が薬で回復しだす時だったので、このカレーをほとんどご飯手付けれなかったんですけど、このカレーを食べれるようになってる時に、ああ私もうすぐ退院できる⋯みたいな感じの。

岸田 そういうことか!カレーがこのキーになってるわけね。そして右のこれは千羽鶴?

村山 はい。これは高校1年生の時に、クラスメイトの皆さんが、本当に千羽鶴とアルバムと、ビデオメッセージを送ってくださって、本当にこれはもう最後5、6クール目の時だったので、精神的につらい時だったのですごく助かりました。本当にもうこれは本当に大きかったですね!心がすごい軽くなりました!

岸田 いや大きいよね。しかも千羽鶴見える形でこうあるとね、なんか治療頑張ろうと思えたりもするもんね。

村山 はい!

岸田 そうか いい仲間たちもね、仲間たちも巡り会えて、それでもらって頑張ったっていうことか。

村山 はい。

岸田 ありがとうございます。そしてねここから、それぞれ質問項目を分けてお伺いをしていきたいと思います。

「治療の選択は、家族と一緒に」──セカンドオピニオンで得た安心感

まずはこちら病院や治療の選択といった中で、ちょっと話を聞いていきたいねんけれども、まず病院に関しては最初、地元クリニック行ってから市民病院にすぐ紹介されて、それで市民病院で治療をしていくっていうふうな、流れやと思うねんけれども、セカンドオピニオン行ったりとか色々したやんか?そんな中でどう?治療の選択っていったところで、不安とかっていったところはなかった?大丈夫やった?

村山 結構自分では考えられない状態だったので、親がすごくその点に関しては病院や治療ですね、すごくいろんな⋯幅広く調べてくださって、やっぱりいろんなところからお話を聞くっていうのは、大事だなっていうのは思いました。

岸田 やっぱりセカンドオビニオン受けて、ちゃんと専門の病院に行ったのかな がんのな。そこでちゃんといろいろ話聞いて、それ自分も話聞いたの?その話は。

村山 はいそうです 一緒に聞きに行きました。

岸田 どう?やっぱり先生の説明とかすごく安心できた感じ?

村山 そうですね。前にこういう症例があったからこうだと思うよっていうふうなやっぱり、専門的なところだと症例が多いっていうのがあると思うので、そこは安心できました!

岸田 でここで止めてもいいねんなみたいなところの、安心ができたってことね。

村山 はい。

岸田 病院探すとかいったところは、親御さんが手伝ってくださって、いろんなところの話を聞くっていうのも大事だっていうことね。ありがとうございます。

抗がん剤治療のその後、髪の変化と向き合いながら

その次にちょっと聞きたいのが、副作用や後遺症のこととしてね。さっきね脱毛の話とかっていったところは聞いたりとか、あと吐き気とかってのは聞いたりとかしてんけれども、他に何かあったりだとか、今もこういったもの残ってますとかっていうのは、あったりとかする?

村山 今は脱毛以外は何もない状態です。

岸田 あ、そうなんや。脱毛の影響で髪の毛細くなった?

村山 そうです。細いから今ウィッグしてるみたいな感じですね。量の少なさもあるんですけど、やっぱり細いっていうのがあって、今はどうにかしていこうねっていうのは、動こうとしてるんですけど。

岸田 一通り髪の毛の細くはなったけど全体的に戻ってはきてる?

村山 はい!もうそれは数年前から戻ってきていて細さだけですね。

岸田 そうやんね。(髪の毛)クルクルとかにはならんかった?

村山 それはあんまりならなかったですね。ちょっとはあったんですけど、ちょっとこう元の髪質とは違う感じなんですけど、完全に天然パーマぐらいにはならなかった。

岸田 そういったいろんなところってことね。ありがとうございます。

卵巣摘出後も残された希望──“将来”と向き合いはじめた時のこと

次はこちら、妊よう性のこととしてね、高校生の時から治療されていってってところで妊よう性ってね、子供を作る能力が持つ能力っていったところになると思うけど、こういった話とかってだって告知されてて、病院に入ってすぐ手術とか入ってくるから話になった?

村山 もうないですね。もうそれをもう考えるほどの余裕もそこまでなくて、もしかしたらその通院してる治療の途中で、親がそういう話をしていたのかもしれないんですけど、私は治すことに集中していたので、後から私って妊よう性大丈夫なんですか?っていうことを質問して、私は右の卵巣を取っているんですけど、左の卵巣が残っているので、問題ないんじゃないかっていうことを、言っていただいたりとかはありました。

岸田 そっかだから手術で左卵巣は残ってるけれども、抗がん剤治療とかの前に温存とかは特に説明もなく、特にもしてないっていう形よね。

村山 そうですね⋯もしかしたら親がしていたのかもしれないですけど、私はそこまで考えられてなかったです。

岸田 なかったということか 了解了解。ありがとうございます。

恋愛や結婚のこと

そしてちょっとこちら、恋愛や結婚についてっていったところでね。結婚についてはまだまだ先かもしれないけど、恋愛についてってやっぱ高校生や大学生ってさ、結構いろいろあると思うんよ。それで結構悩んでる人たちもいらっしゃると思うねんけど、村山さんの場合はどうでしたか?

村山 私はもう最終的に言う、病気のことも全部伝えるっていうのを前提に、友達とかもそうですけど、特に恋愛では信頼できる人かどうかっていうのを、いっぱい話してたくさん話して、そこは自分で信じられないとダメっていうふうに考えていました。

岸田 治療当時はそういったお付き合いしてる人はいなくてって感じ?

村山 そうですね 大学からです。

岸田 それでいい感じになっていくっていうか、お付き合いしていくかいかないかっていった時に、その時に言うんじゃなくても、友達の段階の時からも、がんのことはガンガン言ってって感じか。

村山 えっと、がんのことは友達にも私は絶対に言いたくないとは思っていて、そのなんていうんですかね、お付き合いして、完全に信頼できるなと思ったら言うって思っていたので。

岸田 おーそういうパターンね!

村山 今知っているのも結構少ない、周りでも伝えているのは少ないので、本当になんていうんですかね、お付き合いした後にお伝えしたんですけど、する前にもお伝えする前提では話していました。

岸田 そっかー反応とかってどうやった?え!そうなん?みたいな。

村山 そうですね。でもすごい真剣に受け止めてくださったので、自分も一気に全てを言うんじゃなくて、少しずつ少しずつっていうことは言って、特にウィッグのことに関しては、伝えないと早くっていうのがあったので、そこは最初に病気とウィッグはセットで伝えました。

岸田 伝えた⋯みんな驚かれるんちゃう?

村山 そうですね。自分で言うのもなんですけど、結構慣れちゃってるので結構驚かれますね。

岸田 ウィッグなん?みたいな感じでね。それをセットで伝えて、周りの人たちもそれで受け止めてくれてっていうふうな形で、順番に説明してタイミング見て説明していってみたいな感じなんやね。そっかそっか ありがとうございます。やっぱねそこの一歩踏み出す出せないとかね、色々こうやって悩んだりとかすると思うから、そういったところは、非常に本当に周りの人たちの良い情報になるんじゃないかなっていうことを思います。ありがとうございます。

言葉少なくとも伝わっていた思い──4人家族、それぞれの闘病サポート

次こちらご家族のこととしまして、お母さんの話とかお父さんの話出てきましたけど、ご両親が先に告知を受けたりだとかして、3人家族かな?

村山 弟がいるので4人家族です。

岸田 弟さんとかには特段言ったりとかご両親から伝わってるか?

村山 そうですね。私が家でも本当に一言も喋らないぐらいの感じだったので、多分私が何か心配するっていうことよりも、多分家のことを全部家族がやってくださってたので、多分両親がすごい、いろんな問題抱えてくださったのかなっていうのは思います。

岸田 家族の中であえて例えばこうして欲しかったよだったりとか、もしくはこういったことを感謝してるよっていうことなんか、あったりとかしますか?

村山 私が一番感謝しているのがこの後の話でも出るんですけど、病室の時に母親がいつもずっと、同じ部屋にいてくれたっていうのが大きくて、やっぱり何て言うんですかね、体調悪いので存在がいるだけで、ちょっと何て言うんですか、ちょっと嫌だってなる時もあるんですけど、やっぱり後半の5、6クール目、精神的に辛くなってる時は、すごくその存在分は大きかったです。

岸田 そうか⋯やっぱね、そういう周りにね、やっぱこうお母さんや、そういった家族だったりとか聞いてくれていてくれるだけで嬉しい、嬉しいっていうか安心するよね ほんとね。自分ではできないことがたくさんあったので。なんかたまにその患者さんでこう、自分の八つ当たりして⋯とかっていうのは言ったりとか、する人もいらっしゃったりしてんけど、そういったものは特に?

村山 いやでもあったのかもしれない。自分が多分⋯嫌で多分ずっと不機嫌だったと思うので、ちょっと苦労かけちゃったのかもしれないとは思ってます。

 “元のようには戻れない”中で、進む道を見つけた──学校復帰と受験への挑戦

岸田 治療中はしゃーない。もうそれはね⋯治すのでいっぱいいっぱいやしね。そして次こちら、学校のこととしてね、学校⋯さっき高校1年生の時のね、クラスメイトたちがこう千羽鶴くれてとか、メッセージくれてとか、いろいろそういう励みになったっていうのは、あったと思うねんけれども、急に学校も休んでいくようになったりだとか、復学で結構大変やったりだとか学校に関してはどうでした?

村山 はい。もうやっぱり半年休学していたので、誰にどれぐらい事情を言えばいいのかも分からなくて、まずそこが…っていうのでしたね。自分的には話したくなかったので、あんまりバレたくなかったというか、1年生の時のクラスメイトには全部伝えているんですけど⋯。そうですね。事情を話してるその1年生の時のクラスメイトには、口止めお願いしていて⋯申し訳ないなと思いつつも、すごく助かったなっていうのもありました。

岸田 自分の口からなんかこう、ごめん、全然イメージがわかへんねんけど、登校した時にクラスの黒板の前に行って(話した)みたいな感じ?

村山 私が治療している最中に、友達にこれを読んでくださいと原稿を渡して、1年生のクラスがもう卒業しちゃう前に、何て言うんですかね、進級しちゃう前に、私の代理で読んでくれないかっていうことを話して。

岸田 あ、そういうことね。友達にそれをみんなに読んでもらってそれで、クラスの中だけ留めておいてねっていうふうな話をしたってことか。

村山 ずっと休んでいてずっと迷惑かけていた状態だったので、何も話さずに進級してっていうのは違うなって思っていたので。

岸田 復学してさっきね、勉強についていくのがだったりいろんなことあったと思うんだけども、最終的にはまあね、私立大学で合格していくっていうところに至るまで、結構勉強で大変やったと思うねんけど、そこはどう頑張ったのかな?

村山 ずっと赤点赤点とかだったんですけど、もう否が応に受験が来ちゃって、もう考えるしかないっていう状態になった時に、もうどうにか自分が妥協できる、挑戦できて妥協できるところを見つけて、もうどうにか病気があったんだから仕方ないだとか、その分自分は経験があるからっていうふうに考えて、自分の力でやろうっていうふうに、なんとか軽く捉えようとしてましたね。

岸田 選択肢として浪人っていう選択肢もあったんかなと思うけれども、やっぱそこはもう、自分の行けるところをって探していった感じなのかな?

村山 本当は浪人を前提にもしてもいいかなって思っていたんですけど、途中から大学勉強してるうちに、もう勉強したくないなって思ってやって、もうこれだけ頑張ったんだから、もう受かって終わりたいっていう、早く大学入って友達とかいて、楽しいことっていうふうに。

岸田 そっかそっか。最終的にはもうエンジョイできるわけやからね。大学入ったらそこはもう病気のこととかは周りにも、普通に仲良い子には伝えるかもしれへんけど、普通に接するようにしてたって感じやね?

村山 そうですね。特段言う理由もそこまでなくって、一緒に旅行に行くときにウィッグがあるから、お風呂入るときとかね。

岸田 えっ!?みたいな話になるもんね。

村山 なのでやっぱりすぐには言えなかったので、1年、2年かかっちゃったんですけど⋯。

岸田 大学では勉強とかも特段問題なく?そこは。

村山 はい、そうですね。でも頑張ってっていう⋯。

岸田 頑張ってついてたって感じよね。ありがとうございます。

 「トイレに行くための個室」──高校生の私を支えた医療費と家族の判断

そして次こちらお金や保険のこととして、こちらに関してはね、高校生の時に治療していたっていうところもあるから、小児慢性特定疾病っていう制度だったりとかで、お金というところに関しては助成金が出てというか、そういったところあったかなと思うけれども、お金や保険に関してどう?ご両親が全部やってくれたっていう感じかな?

村山 はい、もう本当に両親に任せきりだったんですけど、特には入院の時に私は、何度もトイレに行かなきゃいけないっていうのがあって、それもあって個室を選択していたので、個室の費用が一番ちょっとかかっちゃったみたいで。

岸田 そっか。確かに、入院も結構最終的には、全体で5ヶ月ぐらいしたっていうことも言ってたもんね。その時も全部個室入ってっていう感じか。

村山 はい、そうですね。それが一番っていうのは聞いています。

岸田 まあね ただそうよね。周りにこう⋯大部屋とかやとね、周りに配慮してトイレに行かなあかんかったりとか、自分が出したい時に誰かが入ってたりとかすると、もう⋯無理やもんね。利尿剤とか入ったらもう待たれへんもんね あれね。

村山 本当に夜中にも何度も起きて、トイレ行くって感じだったので、近くにトイレが必要でってなりました。

 記録がくれた安心感──治療の山と谷を乗り越える工夫

岸田 ありがとうございます。そして次こちら、工夫していることとして、入院中でも今でもいいんですけれども、自分の経験の中で、村山さんがここ工夫して頑張ったなぁでもいいし、こういったことしておけばよかったなぁでもいいし、そういったところって何かありますか?

村山 治療中は写真でも出てきたように、母がつけてくれていた日誌がすごく役に立ち。

岸田 すごいね 本当に。

村山 これは本当に母の工夫なんですけど、もう本当に助かったなっていうことが。

岸田 あれをお母さんがつけたのを見て、自分で振り返るっていうか、こうやなって思うために必要って感じかな?

村山 いえ、もう多分母が薬のタイミングとか、今これがここが一番つらい状態だからねっていうふうに私に声をかけるためのものというか、私が多分それを見れなかったのでその時に。

岸田 あれをつけてるから、こっからはもう上がっていくねだったりだとか、そういったことが分かっていくってことよね。

村山 はい、そうです。

岸田 傾向が。ようやく退院や!ってもう2クールとか言われたらね、そらヘコむよね。そういったことをつけててよかったっていうことか。

村山 はい、本当に助かりました。

耐えるだけでも、十分──あの時の自分に、ありがとう

次はですね、村山さんからのメッセージとして、皆さんに届けたい言葉、それをいただけたらと思っています。

村山 私からのメッセージとして一番つらかった経験は、あなたの一番の強さですということを、私のメッセージにさせていただきました。

私はこれまで振り返ってきても、治療中とか高校の時には本当に頑張ったので、ちょっとつらかったっていうのもあって、絶対にちょっと戻りたくないなって思うくらいなんですけど、でもそれくらい頑張った経験がすごく今⋯源になっているというか、その経験が元になって今⋯大学だったり、これからの社会人生活も頑張れていくんだろうなっていうふうに思っているので、今頑張った高校生の時の自分にすごく感謝しています。

なので私は辛いことに耐えて頑張った自分に自信を持っていて、それが自分の強さの根源だっていうふうに思っているので、辛い時はただ耐えるだけでも、その時は十分というかそれでいいと思うんですけど、耐えた後に頑張った自分を頑張ったねっていうふうに褒めてあげるというか、自分の強さになったんじゃないかなっていうふうに思えるタイミングがあると思うので、そのタイミングが来たら自分の強さをそこに見出して、というか自分の辛かった経験を思い出して、頑張れるんじゃないかなっていうふうに思って、こちらのメッセージにさせていただきました。

岸田 ありがとうございます。やっぱね、本当に治療ね 本当に大変な治療やったと思うし、村山さんとしてもあれでしょう、なんかもう社会人になってもいろんな辛いこと大変なこと、これから出てきても、あの時に比べたらみたいになるんちゃうのかな。

村山 はい。もう本当に今までもそれで頑張れてきてましたね。あの時に比べればっていうふうに思っています。

岸田 本当ね これからの村山さんの今後っていうのも、すごく期待したいと思いますし、どう?約1時間ぐらい話してもらいましたけれども、村山さん言い足りないこととかあったりとかする?

村山 いえいえ 本当にたくさんお話させていただいて、本当に感謝しています。

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