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インタビュアー:岸田 / ゲスト:村山

「がんを告げられた高校1年生」趣味と仲間がくれた支え

村山 はい!村山実穂と申します。出身地、現在地ともに愛知県です。おっしゃっていただいた通り今大学生です。次の月から新社会人になります!

岸田 今この写真は⋯だから成人式の時の写真よね?

村山 はい、1年半ぐらい前ですかね。2年ぐらい前ですね。成人式の時の写真です。っていうふうな感じで、趣味がK-POPを聴くこととか、あとボルダリングが好きです。

岸田 K-POPって何にハマってたりするんですか?

村山 特定の誰かグループってわけじゃないんですけど、女の子の女子のグループはすごくよく聴いてます。

岸田 すごいね。NHKの紅白でもね、たくさん(K-POPグループが)出てたりとかねしましたし。ボルダリングが趣味って言ったところで、なかなか珍しくない?

村山 はい、そうですね。周りの人にも結構ちょっと珍しいねって言ってくださるんですけど、大学のサークルで入りまして、そこからになります。

岸田 大学のサークルに入って、ボルダリングにハマっていったって感じね。

村山 はい。

岸田 ありがとうございます。ちなみにがんの種類からお願いできますか?

村山 はい。がんの種類が胚細胞腫瘍でステージが3Cになります。告知された年齢が16歳で今22歳です。治療は手術を最初に受けたのと薬物療法になります。

岸田 胚細胞腫瘍なのでね、種類的には(僕と)一緒ですよね、大きなくくりとしては。それを16歳、16歳ということは高校生の時?

村山 はい 高校1年生です。

治療と不登校、そして進学へ──私を支えた記録と仲間たち

岸田 罹患してといったところで、今に至るまでどんなことがあったのかといったところを村山さんに今回お伺いしていきたいと思います。その中でどのような経過をたどってきたのかといったところを、感情の浮き沈み、そういったものをグラフにしてお伝えをしていければと思っております。

我々ちょっとペイシェントジャーニーと言ってですね、患者さんの今までの旅路というか、今の治療歴だったりとか、今に至るまで、このような吹き出しなども含めてお話を聞いていければと思います。

村山さんのペイシェンドジャーニー、こちらドン!っていうふうな感じで、真ん中に大きくドンと落ちている、そしてまた小さい谷があってみたいな形でなっていますけれども、じゃあちょっとお伺いしていきます。

まずははじめこちら、高校受験⋯高校受験の時だったりだとか、その後ね合格していってっていったところが、マックスに上の方に来てるけど、これは希望の高校に行けたからとかそういったところ?

村山 そうですね。この時はもう第一志望の高校に受かることしか考えてなくて、もうそれに対してもう死ぬ気でやるぞみたいな感じの自分を追い込んでいたので、合格できた時はすごく嬉しかったです。

「制服がきつい」で始まった私の病気の兆し

岸田 自分を追い込んでね、合格していって、やった!っていう時に、ちょっと下腹部に腫れがちょっと見えてきたっていう感じなのか⋯

村山 はい。制服の採寸に行った時に、ちょっとこうウエストが腰のところが、ちょっと全体のバランス的にちょっと大きいかなみたいなことで気づいて、でもその時はあまり何も思わず、スルーしてって感じになっちゃいました。

岸田 その時は、それよりも合格の喜びの方が勝ってるみたいな、ちょっと腫れてるかなぐらいの感じか。この時は下腹部っていうのはおへその下あたり?

村山 そうです。腫れてるのにちょっと気づいたぐらいで、そのまま過ごしていましたね。

岸田 そこから徐々に成績が下がり始めるというふうなことありますけど。

村山 そうですね。やっぱり無理して入ってっていうのもあって、最初みんなと頑張ってっていうのはあると思うんですけど、やっぱりついていけなくなってっていうのが徐々に徐々にちょっとずつっていう感じです。

岸田 そうか、すごいみんなの周りのレベルが高かったりとかするとね、なんか結構自分勉強頑張ってるけど⋯みたいなところはちょっとあったのかもね。ただそれはそれだけのせいやったのかっていうとね、今から考えると、そうじゃなかったのかもしれないなっていうのもあるよね。

村山 そうですね。それが何でかっていうと、ここの右下の下腹部にまた痛みが出てくるというふうな形で。

岸田 これは高校1年生の時?

村山 そうです。高校1年生で2学期くらいですね。秋にテスト勉強を本当に直前で頑張っていた時に、気にしてなかった腫れてるところがずっと痛み出して、痛みが引かずにっていう感じになっちゃいましたね。

岸田 そっかどんな痛み?なんかズーンとかチクチクとか、ドンドンとか色々あると思うんだけど、どんな痛み?

村山 ズキズキした痛みが、ずーっと続く感じで、あのなんて言うんですかね 10割の痛みが一瞬くるんじゃなくて、7割ぐらいが、ずーっと続いているような感じで、まあまあ勉強に集中は絶対できないなくらいの、まあまあの痛みが何時間も何時間も続いたので、これはちょっと病院に行くしかないのかなっていう感じでした。

岸田 そっかずっと右下腹部っていうふうなところか。そこはずっと痛くて何してる時もずっと四六時中痛い感じか⋯

村山 はい。勉強しててもご飯食べててもずっと痛みが治まらなかったですね。

岸田 痛みが治まらへんから、じゃあちょっと病院に行こうっていう感じなのかな。そこから。

村山 はい。

岸田 そして、その後に市民病院に行くけど、いきなりここでもう手術って書かれてんねんけれども(汗)。これは市民病院に行こうと思ったのは、近いからとかそういう感じ?

村山 本当は最初近くの病院に行ったんですけど、そこでちょっと診てもらったときに、ちょっとこれはもっと大きい病院に行った方がいいみたいな感じで、お医者さんが言ってくださって、そのままその日、市民病院に行ったところ、ちょっと気づいたら点滴が始まっていて、それから検査CTレントゲンみたいな感じになってましたね。

岸田 じゃあ近くのクリニックに行って、その日のうちに市民病院に行った方がいいってこと言われて、その日のうちに行ったんだ、市民病院に。

村山 はい、そうです。そこで緊急にいろいろ検査が始まっていって、市民病院で。

岸田 すぐに点滴まで始まっていくん?

村山 はい。点滴が始まってちょっと手術っぽい雰囲気が、説明っていうんですか、同意みたいな感じで始まってっていう感じですね。

岸田 その時は何か言われるの?こういう病気ですみたいなことは。

村山 えっと私自身は何かわからなくて、とりあえず何か腫れていると、中の臓器か何かが腫れていて取り出さないと、もうどうにも痛みは治まらないから手術するしかないみたいなのを母親からは言われたんですけど、母親はその時点で、ちょっと卵巣が怪しいかもみたいなことを聞いてたみたいです。

突然の緊急手術、その夜に始まった“がんの旅”

岸田 そうなんや⋯じゃあ先生に診てもらうけど、別々にって言い方変やけど、話的にはそういうふうな別々に話を聞いて、みたいな感じもあったのかな。検査してる間にお母さんがお話を色々聞いてって感じなのか。

村山 そうです。検査結果は私は見てないです。

岸田 あ、そうなんや。それであれよあれよと言って、その日のうち入院とか?

村山 もうその日、夕方くらいに市民病院に行ったんですけど、もう夜6時、7時ぐらいにはもう父親も来て、同意書にサインとかになって、そのまま手術です。

岸田 えぇ〜手術はさすがに翌日?

村山 いやもうその日の夜です。

岸田 え⋯⋯嘘!?

村山 もう怒涛の…

岸田 うわぁ⋯もう怒涛やね本当に。緊急手術ですね。その日の夜中に緊急手術していって。じゃあそれで手術していきます。それがもう開腹手術ってことはさ、結構ガッツリ開けるわけやん?

村山 そうですね。今も手術の跡ちょっと残ってるんですけど、10センチくらいは開けてると思うので。お腹を開けて。

岸田 そして手術して、さすがに卵巣を取りますよみたいなことは言われた?

村山 そうですね。卵巣とは言われてなかったんですけど、私に説明したら、私が多分不安で行けないっていうふうに、手術行けないってなっちゃうと思うので、あんまり説明はそこまで、ふんわりしかしてくれなかったんですけど、あんまり記憶がそこまで覚えてないんですけど、取り出すって言われてたので、多分卵巣だったと思います。卵巣を取り出すっていうことは認識はしてたと思います。

岸田 でもその日のうちにあれよあれよやから、もう訳わからなくなってくるよね。とりあえず取り出しますよっていったところで、手術するって言ったので、同意してみたいな感じでスタートしていくと、そこからどんどん下がっていくのは、ここでがん告知が入ってくるねんけれども、これはどういうことでしょう?

村山 手術した後に術後入院をしていたんですけど、私はその入院が終わったらもう終わると思っていて、その時に取り出した右の卵巣の病理解剖をしていただいていて、親だけがそれを私のいないところで聞きに行って、親が先に告知を受けていって、一回ちょっと病院に聞きに行くよみたいな感じで、私が行ったところ、私に告知が来たっていう感じです。

“私のことじゃない”と心を閉ざした告知の日

岸田 告知が⋯そうか⋯。これ病院行ってどんな感じで言われるの?

村山 淡々と、検査したところみたいな感じから始まって、がんのなんでしょうね、冊子というか、病気の種類とかが書いてある冊子を本を開いてもらって、これの分類のっていうふうに始まって、それが取り出されたぐらいの時にも、なんか察してあんまり自分のことだと捉えないように、あんまり考えないようにして。

岸田 そうか…

村山 もう自分のことを取り出されて説明されてるけど、自分のことと思わないように聞いてて、もう親がびっくりしていて、その時に泣き出すとか、すごい悲しんでっていうのを予想してたみたいなんですけど、私が本当にもうなんか悟って、やばすぎるものだっていうふうに、多分自分で受け止めきれないと思って、授業を聞いてるみたいな感じの、黒板を前に授業を聞いてる感じの雰囲気だって思って、完全に心閉ざして、自分のことじゃないと思って、質問とかもしちゃうぐらいの、切り替えて、ずっと自分がっていうのは思わないように、他の人のことを聞いてるみたいな感じのテンションで聞いてました。

岸田 けどわかるわ〜なんかね、話聞いても、え?誰のこと言ってんの?みたいなね、自分のことじゃないような、第三者の感じというか。

村山 はい、そうです。

岸田 わかる⋯そんなまあこう聞いてね、いろいろがん告知を受け、そこから下がっていきますが、これはドン、薬物療法BEP療法という抗がん剤が入っていく、そして地獄のクリスマスと書いていますね。じゃあこの後手術してから、抗がん剤していこうみたいな感じになってくの?

村山 そうです。もうその告知を受けた日に、薬で治すしかないって言われて、何日から始まりますって言われて、12月の中旬あたりから始まりました。

岸田 ってことはどっか転移してたとか、そういったものが見受けられたのかな?

村山 はい、大リンパ節ですね。一番大きいリンパ節に十何センチあったのと、足の付け根にも数センチあって、それを完全に叩いていきましょうっていう感じになりました。

岸田 抗がん剤治療していきましょうっていうので、手術してからすぐ?それとも数週間経ってから?

村山 手術は11月末で告知を受けたのが12月上旬なので、もう1週間半とか2週間後には、薬始めますみたいな感じでした。

岸田 スタートしていってっていうところね。ずっと入院して治療してたの?

村山 入院が薬が始まる日から入院始まったので、告知を受けてからずっと家で過ごしていて、薬が始まると同時に入院が始まりました。

岸田 抗がん剤治療ってどれくらいやったの?期間的には。

村山 1クールが3週間くらいだったんですけど、結果的には合計で6クールやりました。そうですね⋯5ヶ月ちょっととかですか。

岸田 っていうのをやってたってことね。そんな中でね、この地獄のクリスマスっていうこと書いてあんねんけれども、地獄のクリスマス12月中旬からね、治療がスタートしていって、ちょうどねクリスマスシーズンにも入ってくる。そんな中で地獄のクリスマス、どんなことがあったのかってところで、写真をねもらってるよねこの時の、ちょっとこれを出してもいいでしょうか?

村山 はい 大丈夫です。

岸田 このメモというか、このノートっていったものをいただいてるんですが、これちょっと説明してもらってもいいかな?

副作用の波、“地獄のクリスマス”と母のノート

岸田 このノート、左側のページが「地獄のクリスマス」と書かれていたところですね。これはお母様が書かれたものなんですよね?

村山 はい。左上に日付が見えると思うんですが、「12月25日(火)」と書かれています。これは母が私の様子や会話、先生や薬剤師さんとのやりとりを時系列で書き留めた記録です。

岸田 お母様が全部記録してくださっていたんですね。では、この「地獄のクリスマス」というのは、どんな状況だったんですか?

村山 1クール目の抗がん剤治療がちょうど始まった頃だったんです。入院と退院を繰り返すスタイルだったんですが、最初のクールでは薬を入れ終わった瞬間に「早く帰りたい!」と思ってしまって。
副作用が残っているのに退院してしまったんです。ちょうどそれが12月23〜24日ごろで、家に帰った途端、吐き気と倦怠感がひどくなって、何も食べられなくなりました。

岸田 ノートにも書かれていますね。「朝一で病院に電話」「再入院」と。午前中に診察を受けて点滴、制吐剤、そして午後には再入院と。

村山 はい。あのとき気づいたんですけど、私は点滴で水分をとり続けないと体が保てないタイプだったみたいで。
薬の副作用で吐き気が強くて水も飲めず、結果として薬が体に残り続けてしまう、という悪循環でした。

岸田 なるほど。そこから再び入院したと。

村山 はい。1クール目の時は退院が早すぎたので、そのあとからは「薬が抜けきって体調が戻るまで10日ほどは入院する」というルールにしました。

岸田 そして右のページ、1月11日とありますね。年が明けて2クール目に入ったところ。ここには「気持ちのつらさ7」「だるさ6」「吐き気 分からない」など数字で書かれていますが、これは?

村山 これは母が私の状態を数値化してくれたものです。どれくらいつらいのかを10段階で聞かれて、「7くらいかな」と答えて、記録していました。
そうすることで、どのタイミングで副作用が強く出るのかを把握して、次のクールで対策を立てるためです。

岸田 なるほど、データで伝える。医療者もその数字を見れば把握しやすいですよね。

村山 そうですね。母がとても丁寧に書いてくれたおかげで、先生たちも「このあたりが一番つらいんだね」と理解してくれていました。

岸田 すごいですね。お母様、本当にすばらしいサポートだと思います。
そんな中で迎えた年末年始、世間はお祝いムードのなか、村山さんは髪の毛が抜け始めたんですよね。

村山 はい。ちょうど年明けごろです。16歳で、周りの友達は成人式の準備とか楽しそうにしている時期に、私は毎朝髪が抜け落ちていくのを見ていました。現実を受け止めるのがすごくつらかったです。

眉毛も笑顔も消えた日々、それでも支えてくれた仲間の千羽鶴

岸田 ああ、そうか……お祝いムードの中、自分の髪が抜けていく。つらかったですよね。がんの治療って人によって抜け方が違うけど、村山さんの場合はどれくらい抜けたんですか?

村山 ほとんど全部抜けたと思います。

岸田 全部……。もう全身の毛が?

村山 はい。眉毛もまつ毛もなくなっていました。他の人がどのくらい抜けるのか分からないけど、私はかなり抜けたほうだったと思います。

岸田 眉毛もなくなると、人相がガラッと変わりますもんね。

村山 はい。もう鏡を見るのが本当につらくて。鏡には紙やタオルを貼って、見えないようにしていました。

岸田 そうか……。ある程度抜けたら、自分で坊主にされる方も多いけど、村山さんは?

村山 私は髪について考えたくなかったんです。何も触れたくない、考えたくない。だからずっと帽子を被って過ごしていました。まだ16歳でしたし、現実を受け入れるのが怖かったのもあります。

岸田 治療が終わったあと、ウィッグとかは考えました?

村山 はい。治療が終わって、社会に戻らなきゃいけなくなったときに初めてウィッグを使いました。でも、最初はそれもすごく嫌でしたね。

岸田 今の髪もウィッグなんですか?

村山 そうなんです!よく驚かれるんですけど(笑)。

岸田 えっ!全然わからない!自然すぎる。

村山 ありがとうございます。上の方は地毛なんですが、下の部分はウィッグです。そろそろ地毛に戻していこうねって母とも話しています。

岸田 すごいなぁ……。ちなみにウィッグは何種類ぐらい持ってるんですか?

村山 2〜3種類くらいです。でも頻繁に買い替えています。あまりガラッと変えちゃうと、毎日会う人たちに驚かれるので(笑)。

岸田 そうですよね。いきなり髪型変わったら「えっ!?」ってなるもんね。
で、脱毛で気持ちも落ちていたところから、また少しずつ上がっていく。グラフで見ると“マイナスから少し上昇”のあたりですが、ここで薬物療法を続けつつ、BEP療法からEP療法に変わってますね?

村山 はい。ブレオマイシンは副作用のリスクもあって、4クールで終了ということになりました。でも腫瘍マーカーが下がりきらなかったので、エトポシドとシスプラチンを2クール追加することになったんです。

岸田 うわぁ……絶望ですね。僕もBEP4クールやりましたけど、4で限界やもん。そこからさらに2クール追加はきつい。

村山 そうなんです。シスプラチンが本当にきつくて……。もうあと2クールって聞いたとき、心が折れました。

岸田 ですよね……。3週間で1クールだから、あと1カ月以上続くわけやもんね。そりゃしんどい。

村山 体調はノートをつけていたおかげで少し安定してきたんですけど、精神的にかなり落ちました。孤独で、泣くことが増えた時期です。母も「泣く頻度が多くなった」って言ってました。

岸田 毎日のように涙が出る日もあったんですね。

村山 はい。「もう早く終わってほしい」それだけでした。

岸田 そりゃそうですよね……。そこから少し上がっていくのが、理系から文系への転換の時期ですね。

村山 はい。治療の5〜6クール目が終わりかけた頃、年度末になって、学校の進路を決めなきゃいけなかったんです。本当は理系に行きたかったけど、長く学校を休んでいたので難しくて。
でもそのとき、自分に合っているのは文系かもしれないと気づいて、「やりたいこと」と「向いてること」は違うんだなと考え始めて。そこから少し気持ちが前向きになりました。

岸田 いい変化ですね。自分を見つめ直せたというか。で、そのあとセカンドオピニオンを受けて、治療を終えていく流れになったんですね。

村山 そうです。5〜6クール目が終わって、「もう終わり」と思っていたときに、「念のため7、8クール目を追加するかも」と言われたんです。
正直、もう限界でした。それに、エトポシドを6クール以上やると白血病のリスクがあるという話も聞いて。確証はないですが、心配だったので、親と相談してセカンドオピニオンを受けることにしました。

岸田 皆さん、『がんノート』はあくまで“経験談”や“生活”にフォーカスしています。なので、治療方法など医療に関する部分は、必ず主治医や医療従事者の方にご相談くださいね。
それにしても……さすがに7クール、8クールはきついよね。もし僕がその場にいたら、主治医の先生の前でも「ちょっと待ってください!」って言っちゃうと思う(笑)。

で、実際にその時は「やるかどうか考えたいです」って伝えたんですか?

村山 はい。一度「考えます」と答えて、父が別の病院を探してくれました。そこに行って話を聞いたら、主治医とは違う意見をもらえたんです。

岸田 なるほど。じゃあ、お父様が探してくれた病院でセカンドオピニオンを受けて、その先生が「もう終わってもいいんじゃないか」と言ってくれた?

村山 はい。PET-CTの検査を受けて、結果が良ければ一度やめてもいいと言われました。実際に検査の結果も良好だったので、そこで治療を終えることになりました。

岸田 ようやく終わった……という感じですね。

村山 はい。本当に「やっと終わった!」って感じでした。

岸田 このときはもう春、4月くらい?

村山 はい。高校2年生の4月です。学校にはまだ通っていませんでしたけど。

岸田 そっか。治療が終わってホッとする反面、そのあとちょっとグラフが下がってるよね。「復学するけど不登校気味に」ってあるけど、やっぱり病気の影響も大きかったのかな。

村山 そうですね。半年くらい休学して、ゴールデンウィーク明けに復学したんですけど……もう周りとの差が本当に大きくて。
休む前から成績は落ちていたのに、教科書がまるまる1冊終わってるような状態で。授業に出ても全然ついていけず、クラスの雰囲気にも入りにくくて。毎日、母に送り迎えしてもらうような感じでした。

岸田 そうか……ブランクがあるし、クラス替えもあっただろうし、人間関係も大変だったよね。

村山 はい。1年生のときの友達が何人かいたのは救いでしたけど、それでも行事にはあまり参加できなくて。授業も身が入らず、気持ちも沈んでいました。

岸田 出席日数とか、進級は大丈夫だったの?

村山 ギリギリでした。2年生の冬、3月にコロナで学校が休校になったんですけど、あれがなかったら留年してたかもしれません。
「この教科をあと1回休んだらアウト」みたいな状態で、本当に綱渡りでした。

岸田 なるほど……。コロナで学校が止まったことで、ある意味救われた感じだったんですね。

村山 はい、良くも悪くも、ですね。

岸田 そしてそのあと、少しずつ上向いていく。国立大志望から私立大志望へと変わるんですよね。

村山 はい。高校3年生のときです。2年生のころの不安定さはだいぶ落ち着いてきて、現実的に「もう国立は厳しいな」と思いました。
でもそれで、「今まで描いてた理想の人生プランと違ってもいいんじゃないか」と思えるようになって。妥協というより、柔軟に考えられるようになったのがこの頃です。

岸田 うん、すごく前向きになってますね。苦しい経験を経たからこそ、自分を追い詰めずに“許せる”ようになったというか。

村山 そうですね。あの頃はようやく、自分を責めずに「これでいいや」と思えるようになってきました。

文系への転向と希望、揺れながら見つけた新しい進路

岸田 そしてその後、大学に合格。高2から高3を経て、現役合格ということですよね。

村山 本当にギリギリでしたけど、なんとか。高校のとき、最後の最後まで勉強を頑張って、ようやく合格できました。

岸田 すごいね。高校時代は病気のこともあって、なかなか“青春”っていう時間が少なかったと思うけど、大学ではその分エンジョイしてた感じ?

村山 はい。ほとんど高校では遊べなかったので、大学では「今のうちに楽しもう!」と思って、いろんなことをやってました。

岸田 ボルダリングもしてたとか?

村山 そうです。ボルダリングしたり、サークル活動に参加したり、外にもよく出ていました。

岸田 いいですね。そうして今は、経過5年目に入っているということで。体調のほうは大丈夫?

村山 はい。ありがたいことに、何もなく5年が経ちました。本当に安心しています。

岸田 よかった。本当によかった。
そしてこの春からは社会人、就職も決まったんですよね。

村山 はい。

岸田 どんなお仕事に?

村山 IT企業に就職します。ここからは社会人として、また勉強を頑張っていきたいです。

岸田 すばらしい。新しいステージですね。これからの活躍も本当に楽しみです。
さて、少し話を戻しますが、入院中のお写真もいくつかいただいてますね。これ、病院食かな?

村山 はい。これは手術後の入院中のものです。薬物療法のときではなくて、まだ体調も比較的落ち着いていた時期でした。余裕があったので写真を撮っていました。

岸田 カレーの日だったのかな?美味しそう。

村山 はい(笑)。このカレー、すごく思い出深いんです。
病院では水曜か木曜のお昼にカレーが出ていたんですが、その頃になると体調がちょうど回復しはじめるタイミングで。
なので「カレーを食べられるようになったら、もうすぐ退院できる」と、自分の中での目印みたいになっていました。

岸田 なるほど!カレーが“回復のサイン”だったわけですね。

村山 そうなんです(笑)。

岸田 そして右側の写真、これは千羽鶴かな?

村山 はい。高校1年生のとき、クラスメイトが千羽鶴とアルバム、そしてビデオメッセージを送ってくれたんです。
ちょうど5〜6クール目の、精神的にも一番きつい時期だったので、本当に支えになりました。
見た瞬間に涙が出て、心がすごく軽くなりました。

岸田 うん、それは本当に大きいね。目に見える“応援”があると、「また頑張ろう」って思えるもんね。

村山 はい、すごく励みになりました。

岸田 いい仲間に恵まれましたね。そうやって支えてもらいながら、乗り越えてきたんだ。

村山 はい、本当に感謝しています。

岸田 ありがとうございます。
ではここから、少しテーマを分けて、いくつか質問をしていきたいと思います。

「治療の選択は、家族と一緒に」──セカンドオピニオンで得た安心感

岸田 まずはこちらのテーマ、「病院や治療の選択」について少し聞いていきたいと思います。
最初は地元のクリニックに行って、そこから市民病院を紹介されて、治療を進めていったという流れでしたよね。
その後、セカンドオピニオンにも行ったりしていたと思うんですけど、そうした“治療の選択”に関して、不安とか迷いはありましたか?

村山 そうですね……当時は、自分では冷静に判断できる状態じゃなかったです。
なので、病院選びや治療のことは、ほとんど親が中心になって調べてくれました。
本当にいろんな病院の情報を集めてくれて、いろんな先生の意見を聞くことが大事なんだと実感しました。

岸田 なるほど。やっぱりセカンドオピニオンを受けて、がんの専門病院にも行かれたんですよね?
そのときの話も、一緒に聞いた感じですか?

村山 はい。両親と一緒に先生のお話を聞きに行きました。

岸田 どうでした?説明を受けてみて、安心感はありましたか?

村山 はい。先生が「前にもこういう症例があってね」と具体的な事例を挙げながら説明してくださって。
やっぱり専門病院だと、同じようなケースをたくさん見ているという安心感がありました。

岸田 なるほど。じゃあ、「ここで一度治療を終えても大丈夫なんだ」と、納得して判断できたわけですね。

村山 はい。そう思えました。

岸田 病院探しの部分では、ご両親のサポートが大きかったと。
いろんな病院の話を聞いてみるというのが、すごく大事だと感じたわけですね。

村山 はい。自分ひとりでは絶対に判断できなかったので、本当に感謝しています。

岸田 なるほど。ありがとうございます。

抗がん剤治療のその後、髪の変化と向き合いながら

岸田 次に少し聞きたいのが、「副作用」や「後遺症」についてです。
さっき脱毛のお話や、吐き気の話も出ていましたけど、他に何かあったりしますか?
たとえば、いまも残っている症状とか。

村山 いえ、今は脱毛以外は特に何も残っていません。

岸田 あ、そうなんですね。髪の毛は、やっぱり少し細くなった感じ?

村山 はい。細くなったのと、全体の量も少なくなったので、今はウィッグをしています。
髪のことは少しずつ改善していこうと、母とも話しています。

岸田 なるほど。全体的には生えそろってきてるけど、細さがまだ残っているって感じか。

村山 そうです。もう数年前から伸びてはきているので、細さだけが今の課題です。

岸田 そうやんね。抗がん剤のあと、髪の毛がクルクルになったって人もたまにいるけど、村山さんはどう?

村山 少し変わったかな、くらいです。元の髪質とは少し違いますけど、いわゆる“天然パーマ”みたいにはならなかったです。

岸田 なるほどね。人によって出方も違うけど、しっかり戻ってきてるのは本当によかった。

村山 はい、ありがとうございます。

卵巣摘出後も残された希望──“将来”と向き合いはじめた時のこと

岸田 次はこちら、妊よう性のこととしてね。高校生の時から治療されていたと思うんですけど、妊よう性って、つまり子どもを持つ力のことになりますよね。こういった話って、告知されて、病院に入ってすぐ手術になったと思うけど、そのとき話題になったりしました?

村山 もう、ないですね。そういうことを考えるほどの余裕もなかったです。もしかしたら治療の途中で、親が先生とそういう話をしていたのかもしれないんですけど、私は「とにかく治すこと」に集中していたので。あとから「私、妊よう性って大丈夫なんですか?」と質問したことはあります。私は右の卵巣を取っているんですけど、左の卵巣が残っているので「問題ないと思う」と言ってもらいました。

岸田 なるほど。左の卵巣は残っているけれども、抗がん剤治療の前に“温存”の話とかは、特に説明もなかったということですね。

村山 そうですね。もしかしたら親が聞いていたのかもしれませんが、私自身はそこまで考えられていなかったです。

岸田 うん、なるほど。当時はもう治療で精いっぱいという状態だったということですね。ありがとうございます。

岸田 そして次は「恋愛や結婚のこと」について。結婚はまだまだ先かもしれませんけど、恋愛って高校生や大学生くらいだと、いろいろ悩む人も多いと思うんですよね。村山さんの場合はどうでしたか?

村山 私は最終的に言うと、「病気のことは全部伝える」というのを前提にしていました。友達でも恋人でも、信頼できる人かどうかを大切にしていて、たくさん話して、ちゃんと話せる関係でないとダメだと思っていました。

岸田 治療当時は、お付き合いしている人とかはいなかった?

村山 はい。高校の時はいませんでした。大学に入ってからです。

岸田 なるほど。大学でいい感じになっていく時に、病気のことっていつ話すか迷う人も多いと思うけど、村山さんの場合はどうしました?

村山 私は友達の段階では絶対に言わないと決めていました。お付き合いする前に「この人なら信頼できる」と思えた時に初めて話すようにしていました。なので、周りでも病気のことを知っている人はすごく少ないです。

岸田 なるほど。実際に伝えた時の相手の反応ってどうでした?

村山 驚かれましたけど、すごく真剣に受け止めてくださいました。全部を一度に話すのではなくて、少しずつ伝えるようにしました。特にウィッグのことは伝えないと気づかれる部分もあるので、病気の話とセットで話しました。

岸田 そうなんですね。やっぱり「ウィッグなの!?」って驚かれるでしょ?

村山 はい(笑)。よく驚かれます。でも、自分でももう慣れているので、落ち着いて話せるようになりました。

岸田 うんうん。そうやって、タイミングを見て、信頼できる人に自分のペースで話していくっていうのは本当に大事ですよね。同じように悩んでいる人にとっても、すごく勇気をもらえる話だと思います。ありがとうございます。

言葉少なくとも伝わっていた思い──4人家族、それぞれの闘病サポート

次こちらご家族のこととしまして、お母さんの話とかお父さんの話出てきましたけど、ご両親が先に告知を受けたりだとかして、3人家族かな?

村山 弟がいるので4人家族です。

岸田 弟さんとかには特段言ったりとかご両親から伝わってるか?

村山 そうですね。私が家でも本当に一言も喋らないぐらいの感じだったので、多分私が何か心配するっていうことよりも、多分家のことを全部家族がやってくださってたので、多分両親がすごい、いろんな問題抱えてくださったのかなっていうのは思います。

岸田 家族の中であえて例えばこうして欲しかったよだったりとか、もしくはこういったことを感謝してるよっていうことなんか、あったりとかしますか?

村山 私が一番感謝しているのがこの後の話でも出るんですけど、病室の時に母親がいつもずっと、同じ部屋にいてくれたっていうのが大きくて、やっぱり何て言うんですかね、体調悪いので存在がいるだけで、ちょっと何て言うんですか、ちょっと嫌だってなる時もあるんですけど、やっぱり後半の5、6クール目、精神的に辛くなってる時は、すごくその存在分は大きかったです。

岸田 そうか⋯やっぱね、そういう周りにね、やっぱこうお母さんや、そういった家族だったりとか聞いてくれていてくれるだけで嬉しい、嬉しいっていうか安心するよね ほんとね。自分ではできないことがたくさんあったので。なんかたまにその患者さんでこう、自分の八つ当たりして⋯とかっていうのは言ったりとか、する人もいらっしゃったりしてんけど、そういったものは特に?

村山 いやでもあったのかもしれない。自分が多分⋯嫌で多分ずっと不機嫌だったと思うので、ちょっと苦労かけちゃったのかもしれないとは思ってます。

“元のようには戻れない”中で、進む道を見つけた──学校復帰と受験への挑戦

岸田 治療中は仕方ないですよね。もう治すことで精一杯だったと思います。そして次は学校のことについてですが、高校1年生のとき、クラスメイトが千羽鶴やメッセージをくれたりして励みになったという話もありましたよね。その後、急に学校を休むことになったり、復学のときに大変なこともあったと思いますが、学校生活についてはどうでしたか?

村山 はい。やっぱり半年休学していたので、どのくらいの人に事情を話せばいいのか分からなくて、そこがすごく難しかったです。自分としては病気のことをあまり話したくなかったので、できれば知られたくなかったという気持ちがありました。1年生のときのクラスメイトには全部伝えていたんですけど、その子たちには「他の人には言わないでほしい」とお願いしていました。申し訳ない気持ちもあったんですけど、本当に助けられたと思います。

岸田 自分の口から直接話すタイミングっていうのは、どういう形だったんですか?たとえば登校したときに自分でみんなに話した感じですか?

村山 私が治療している最中に、友達に手紙のような原稿を渡して、「これをみんなの前で読んでほしい」とお願いしました。1年生のクラスが進級する前に、私の代わりに読んでもらって、クラスの中だけで共有してもらいました。

岸田 なるほど。ずっと休んでいて迷惑をかけていたから、何も言わずに進級するのは違うと思ったということですね。

村山 はい、そうです。やっぱり自分の言葉で説明したかったので。

岸田 復学してからは、勉強についていくのも大変だったと思いますが、最終的には私立大学に合格していますよね。そこに至るまでは、かなり努力が必要だったんじゃないですか?

村山 そうですね。ずっと赤点続きで本当にギリギリでした。でも受験が迫ってきて、もうやるしかないという状況になって。そこで「挑戦できて、なおかつ自分が納得できるところ」を目指して頑張りました。病気のこともあったので「仕方ない部分もある」と割り切って、でも「自分なりにできることをやろう」と前向きに考えるようにしました。

岸田 浪人という選択肢も考えたんですか?

村山 最初は考えていました。でも勉強していくうちに「もうこれ以上勉強したくない」と思ってしまって(笑)。ここまで頑張ったからもう大学に受かって終わりたい、そして早く新しい生活を始めたいという気持ちになりました。

岸田 なるほど。大学に入ってからは病気のこともあまり気にせず、普通に学生生活を楽しめた感じですか?

村山 はい。特に隠す理由もないので、仲の良い友達には少しずつ話していきました。旅行に行くときなどはウィッグのこともあるので、そういうタイミングで話すことが多かったです。

岸田 なるほど。お風呂とかで気づかれることもありますもんね。

村山 そうですね。だから最初のうちはなかなか言えなかったんですけど、1〜2年かけて少しずつ話しました。

岸田 大学では勉強のほうは特に問題なく?

村山 はい、順調に頑張っていました。

岸田 よかったです。大変な時期を乗り越えて、しっかり次のステップに進んだんですね。ありがとうございます。

「トイレに行くための個室」──高校生の私を支えた医療費と家族の判断

岸田 そして次は「お金や保険」についてお聞きします。高校生のときに治療を受けていたということなので、小児慢性特定疾病の制度などで助成が出ていたのかなと思うのですが、実際お金や保険のことはどうでしたか?ご両親が全部管理されていた感じですか?

村山 はい。もう完全に両親に任せていました。特に私は入院中、トイレに何度も行かないといけなかったので、そのこともあって個室を選んでいたんです。個室料金が一番負担になったと聞いています。

岸田 なるほど。入院も最終的に5ヶ月ほどと伺っていますが、その間はずっと個室だったんですね。

村山 はい。そうです。それが一番費用がかかった部分だと思います。

岸田 確かにそうですよね。大部屋だと他の患者さんに気を使うし、トイレのタイミングも合わせないといけない。特に利尿剤を使っていたら、もう待てないですもんね。

村山 本当にそうなんです。夜中も何度も起きてトイレに行っていたので、すぐ行ける距離にトイレがある環境じゃないと厳しかったです。

記録がくれた安心感──治療の山と谷を乗り越える工夫

岸田 ありがとうございます。では次に、「工夫していること」についてお聞きします。入院中でも、今の生活でも構いません。ご自身の経験の中で「ここは自分で工夫して頑張ったな」と思うことや、「あのときこうしておけばよかったな」と感じることはありますか?

村山 治療中は、写真にもあったように母がつけてくれていた日誌が本当に役に立ちました。

岸田 あれ、本当にすごいですよね。

村山 そうなんです。あれは完全に母の工夫なんですけど、本当に助けられました。

岸田 お母さんがつけていた記録を見て、自分でも振り返るきっかけになったという感じですか?

村山 いえ、私自身は当時その日誌を見る余裕がなかったので、母が薬のタイミングや体調の波を把握して、「今が一番つらい時期だからね」「あと少しで楽になるよ」って声をかけてくれるための記録だったと思います。

岸田 なるほど。あの記録があることで、体調の傾向が分かって「ここから上向く」とか「もうすぐ退院できそう」とか、そういう見通しが立てられたということですね。

村山 はい、そうです。それがあったから精神的にも少し安心できました。

岸田 本当にすばらしいですね。そういう支えがあってこその日々だったんですね。

村山 はい。本当に母には感謝しています。

耐えるだけでも、十分──あの時の自分に、ありがとう

岸田 次は、村山さんからのメッセージとして、皆さんに届けたい言葉をいただけたらと思います。

村山 私からのメッセージは、「一番つらかった経験は、あなたの一番の強さです」という言葉にしました。これまでを振り返ると、高校のときや治療中は本当に大変で、あの頃にはもう戻りたくないと思うくらい辛かったんです。でも、それだけ頑張った経験が今の自分の原動力になっていると感じています。その経験があったからこそ、大学生活や、これから始まる社会人としての生活も頑張っていけるのだと思います。だから私は、あのときの自分にすごく感謝しています。辛いことに耐えて頑張った自分に自信を持っていて、それが自分の強さの根源だと感じています。辛いときはただ耐えるだけでも十分だと思うし、それでいいと思うんです。でも、その後で「あのとき頑張った自分」をちゃんと褒めてあげてほしい。そうやっていつか「あの経験が自分を強くした」と思える瞬間が来ると思うので、そのときにこそ、自分の強さを見つけてほしいなと思っています。

岸田 ありがとうございます。本当にね、村山さんの治療は相当大変だったと思います。でも、これから社会人になっていく中で、どんなことがあっても「あのときに比べれば」って思えるんじゃないですか?

村山 はい。実際これまでもそうでした。あのときの経験を思い出すことで、「まだ頑張れる」って思えてきます。

岸田 本当に素晴らしいです。これからの村山さんの活躍、心から応援しています。最後に、今日1時間ほどお話してきましたが、言い残したことや伝えたいことはありますか?

村山 いえ、十分お話しさせていただきました。こちらこそ、本当にありがとうございました。

岸田 それではインタビューを終わりたいと思います。村山さん、ありがとうございました!

※本ページは、経験者の体験談を扱っております。治療法や副作用などには個人差がございますので、医療情報に関しましては主治医や、かかりつけの病院へご相談、また科学的根拠に基づいたWebページや情報サイトを参照してください。
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