目次
- 【発覚から告知まで】テキスト / 動画
- 【治療から現在まで】テキスト / 動画
- 【家族(親や姉妹)】テキスト / 動画
- 【妊よう性】テキスト / 動画
- 【恋愛・結婚】テキスト / 動画
- 【学校】テキスト / 動画
- 【お金・保険】テキスト / 動画
- 【辛い・克服】テキスト / 動画
- 【後遺症】テキスト / 動画
- 【医療者へ】テキスト / 動画
- 【過去の自分へ】テキスト / 動画
- 【CancerGift】テキスト / 動画
- 【夢】テキスト / 動画
- 【ペイシェントジャーニー】テキスト / 動画
- 【今、闘病中のあなたへ】テキスト / 動画
※各セクションの「動画」をクリックすると、その箇所からYouTubeで見ることができます。
インタビュアー:岸田 / ゲスト: 相馬
【オープニング】

岸田 本日のゲストは相馬さんです。まずは自己紹介をお願いできますでしょうか。
相馬 はい。私は相馬才乃と申します。北海道出身で、現在は京都に住んでいます。23歳で、今は大学院1年生です。がんの種類は卵巣がんでした。
岸田 がんが発覚したのは何歳のときですか?
相馬 卵巣がんが発覚したのが18歳の頃で、そのときに手術と薬物療法、いわゆる抗がん剤治療を受けました。現在は5年生存を目指して経過観察中で、今年の4月か5月の頭くらいで治療終了からちょうど5年になります。なので今はそこに向けて、全力で生きているという感じです。
岸田 ありがとうございます。…ところで、ごめんなさい、“18歳の2012年”って資料に書いてあったけど、あれ違ったよね? 何年やったっけ。
相馬 2017年です。
岸田 あ、17か。ごめん、ちょっと混乱してしもた。
相馬 いえいえ、17年です。
岸田 皆さんの脳内で“17”に変換していただけると助かります(笑)。こんな感じでゆるく進めていきますので、よろしくお願いします。さて、相馬さんは北海道のご出身で、今は京都にお住まいとのことですが、これは大学で京都に来ているということですよね?
相馬 はい、そうです。大学院が京都の大学で、大学は名古屋でした。そこから今年度の4月に京都へ移って大学院に通っています。
岸田 なるほど。ちなみに、どういった分野を専攻されているんですか?
相馬 私は“社会学研究科”というところに所属しています。研究テーマは“がん”で、医療社会学という領域からアプローチして研究しています。
岸田 医療社会学って、聞き慣れない言葉やけど…医療と社会学をガッチャンコしたようなイメージで合ってるんかな。実際どんな感じなんですか?
相馬 医療に関する事柄を、社会学の視点から捉えていくという感じですね。
岸田 なるほど、そのまんまだ(笑)。
相馬 そうなんです(笑)。私も詳しく専門的に説明できるほどではないんですけど、もともと文系だったので、その知識を生かしながら…
岸田 興味のある領域に結びつけて。
相馬 はい。自分の興味関心がそちらに向いていたので。
岸田 つまり、医療のことを“社会の側”からより良くしていくための研究をされている、という理解で大丈夫ですね。ありがとうございます。
【発覚から告知まで】

岸田 ありがとうございます。では、さっそくですが相馬さんのがんの発覚から告知までについて伺っていきたいと思います。まず、どのような形でがんが発覚していったのか、簡単に教えていただけますか。
相馬 発覚のきっかけは、一度地元に帰省したときに、母から「お腹が張っているよ」と指摘されたことでした。私は単に食べ過ぎて太っただけなのかなと思っていたんですけど、親はかなり深刻に受け止めていました。
相馬 ただ私は太っただけだと思っていたので、そのときはそのままにして名古屋の一人暮らしの家に戻ったんですが、帰宅後に “人生で感じたことがないほどの腹痛” が突然きて、「これはおかしい」と思って婦人科を受診することになりました。
岸田 なるほど。大学が名古屋で、大学時代は名古屋で過ごしていたんですよね。
相馬 はい、そうです。
岸田 それで大学院から京都に移った、と。
相馬 はい、そうです。
岸田 そして帰省したタイミングで、お母さんからお腹の張りを指摘されたと。ちなみに、お腹の張りってどれくらいだったんでしょうか?
相馬 正直に言うと、今でも自分では「本当に張っていたのかな?」と分からないくらいです。母から指摘されなければ気づかなかったと思います。
岸田 周りから見ると気づくレベルだったけれど、ご自身では違和感がなかった、という感じですね。
相馬 はい、そうだと思います。
岸田 その後、名古屋に戻って急激な腹痛があったと…。その腹痛はどれぐらいのレベルだったんですか?
相馬 昼寝していて目が覚めた瞬間、ものすごい痛みに襲われました。呼吸しても痛いし、歩いても痛いし、ずっと痛みが続いているような状態で、歩くと振動がお腹に響いてさらに痛くなってしまうほどでした。呼吸のたびに痛みが来るので、痛みを抑えるために深呼吸を繰り返さないといけないくらい急激に痛みが強くなりました。
岸田 すぐ婦人科に行った、という感じでしょうか。
相馬 そうですね。ただ、少し日を置くことになって、2〜3日後に受診しました。
岸田 2〜3日置いたのは、少し痛みが収まったからですか?
相馬 様子を見る意味もありましたし、たしか病院が連休か何かで開いていなかったんです。それで2〜3日待ってから検診…という形になりました。その間に少しずつ痛みは軽くなっていきましたが、「このまま放置するのは良くないよね」と両親と話し合い、病院が開いたタイミングで行くことにしました。
岸田 受診したのは、近くのクリニックのようなところですか?
相馬 少し距離があったんですが、名古屋で慣れない土地のひとり暮らしだったので、まず大学の保健センターに相談に行きました。すると保健センターの方がいくつかレディースクリニックを紹介してくださって、「今日ならここが開いていますよ」と電話までしてもらったんです。学校から行ける範囲だったので、そこへ急遽行くことになりました。
岸田 大学がクリニックを紹介してくれたりするんですね。
相馬 はい、そうなんです。
岸田 学校としても、保健センターの方はそういう対応に慣れていますし、土地勘がないと病院の口コミを自分で調べるだけでも大変ですから、紹介してもらえるのは心強いですよね。
相馬 はい。
岸田 紹介してもらえるなら、そのほうが安心ですよね。
相馬 そうですね。学校と提携しているわけではないみたいなんですが、私が最初に診てもらったレディースクリニックの先生が、年に何度か大学に講演に来てくださっていたり、学校との関わりが少しあったようなんです。だから「ここはいいですよ」と紹介していただいて、だったら安心だなと思い、そのクリニックを受診しました。
岸田 土地勘がないと病院探しって本当に大変ですよね。引っ越したばかりだと、どこの病院が良いのか一から調べないといけないし。
相馬 そうなんですよね。
岸田 それでレディースクリニックに行って検査したと。そこではどんな流れだったんですか?
相馬 最初に「エコーを撮ります」と言われてエコー検査を受けたら、すぐに呼ばれて、翌日には「紹介状を書くので、朝一で大きな病院へ行ってください」と言われました。
岸田 急ですね…。
相馬 はい。まさかそんな展開になるとは思っていなかったので、「どうしたんだろう」とすごく焦りましたし、翌日は1限に英語のテストがあって成績に関わる大事な時期だったので戸惑いました。
相馬 それで「どうしても外せない授業があるんですが…」と軽く相談したら、先生から真顔で「そういうのはいいので、とにかく早く行ってください」と言われて。あ、これは本当に行かなきゃいけないんだなと理解しました。
岸田 そう言われると、“ただ事じゃない”と感じますよね。
相馬 そうですね。ちょっと“あれ?”という、怪しいな…という感覚はありました。
岸田 それで翌日、紹介された大きな病院へ行ったんですね。
相馬 はい。
岸田 そこでまた検査を受けた、と。
相馬 はい。より詳しく見るということで、そこで再度検査しました。授業は休んで行ったんですが、レディースクリニックの先生が大学から比較的近い大きな病院を選んでくださったので、検査が終わったあとそのまま学校に戻ることができて、その日はうまく過ごせました。
岸田 なるほど。その時点では検査してもすぐ結果は出ないんですね。
相馬 はい。ただ、様子からして“普通ではないな”という感じはありました。結局、大きな病院の検査結果は3〜4日後には出る、という状態でした。
岸田 検査を受けて、その結果を待つ間というのは、やっぱり落ち着かなかったですか? それとも、授業には普通に出られました?
相馬 気持ちは半分半分でしたね。本当に落ち着かない半分と、日常を何とか保とうとする半分という感じで。レディースクリニックの受診が終わった時点で両親に電話したんですが、すぐに「明日か明後日には名古屋に行くから」と言われて。ちょうど月曜にクリニックを受診して、火曜に大きな病院、水曜は何もなく、木曜と金曜はまた別の検査で病院に行って…という感じで、病院に通い続ける1週間でした。
岸田 その検査結果が出るとき、ご両親も一緒に来られたんですか?
相馬 はい、母が来てくれました。
岸田 そのとき、どのように伝えられたんでしょうか。
相馬 「左側の卵巣が少し怪しい」と言われ、腫瘍が確認できるので、それを取ってみないと良性か悪性か分からない、と説明されました。まずは摘出手術をしたほうがいい、と。
岸田 その時点では良性か悪性かもまだ分からない、と。まず手術を、という流れになったわけですね。
相馬 はい。
岸田 それを聞いて、どのように動いていったんですか?
相馬 名古屋で手術を受けるか、北海道に戻って受けるかという選択肢が与えられました。
岸田 なるほど。どちらでも手術は可能で、どこで治療するか選べるわけですね。
相馬 そうです。未成年でしたし、手術や入院となるとひとりでは不安なので、基本的には親と過ごせる前提で考えたいという話があって、私もそのほうが安心でした。両親が北海道にいるので、慣れた環境の中で治療に専念したほうが良いのか、あるいは学業と両立するために名古屋で治療するのか、という話し合いになりました。
岸田 つまり「治療は北海道、治療後は名古屋へ戻る」という選択をしたんですね。
相馬 最終的にそう決めました。
岸田 やはり実家のほうが安心ですしね。
相馬 はい。摘出手術は一度北海道に戻って、北海道の病院で受けることにして、治療は地元を中心に進めていきました。
岸田 なるほど。地元に戻って治療を受けるとなると、また病院探しから始めるんですよね?
相馬 はい。名古屋の大きな病院から紹介状はもらっていましたが、北海道では自分で病院を探す必要がありました。ただ、親戚に看護系の仕事をしている人がいたので、相談したところ「ここがいいんじゃない?」と勧めてくれた病院があり、そこに決めました。医療関係の情報を持っている人が身近にいたので、悩まずに選べたというのは大きかったです。
岸田 頼れる人の「ここがいいよ」というひと言は本当に助かりますね。
相馬 はい、おかげでスムーズに決められました。
岸田 地元に戻ってからは、どのように進んでいったのでしょうか。
相馬 北海道に戻って病院を受診し、まずは左の卵巣にある腫瘍を摘出して検査することになりました。その際、左の卵巣を全部取るのか、腫瘍だけを取り除くのかという選択が必要になって。
相馬 もし悪性だった場合、もう一度お腹を開くことになるのが負担だと思ったので、思い切って手術の時点で左の卵巣を全部取ってくださいとお願いし、摘出手術を行うことにしました。
岸田 悪性だったときのことを考えると、そういう判断になりますよね。とはいえ、悩みませんでしたか?
相馬 もちろん悩みました。でも右の卵巣は残るので大丈夫だろうと最終的には自分で決めました。担当医に、生理はどうなるか、ホルモンバランスはどうかといった心配を全部聞いたら、丁寧に説明してくださって。それで「右が十分機能していれば問題ない」と分かり、左はここでさよならしようと決めました。
岸田 つまり、医療者の方にも「右が残っていれば生理なども大丈夫」と言われたわけですね。
相馬 はい。卵巣がんで片側だけ取った場合の生理の状況など、データをもとに説明してくださって、十分判断できる材料がありました。
岸田 摘出手術に進むわけですね。どうぞ、水飲んでくださいね。……手術自体はどうでした? 大変でしたか?
相馬 ありがとうございます。手術は人生で初めての入院・手術だったのでとても緊張しました。不安はありましたが、卵巣を取った段階までは問題なかったんです。ただ、一つだけ予想外のハプニングが起こりました。
相馬 お腹を切るので、術後の痛みを抑えるために背中から麻酔を入れるんですが、その麻酔が神経のかなり近くに刺さってしまったようで、術後1日目に「歩く練習をしましょう」と言われたとき、左足が麻痺して動かなかったんです。それが本当に衝撃で、「このまま足が動かなくなったらどうしよう」と思いました。
岸田 それは恐ろしいですね…最終的には大丈夫だったんですか?
相馬 はい、大丈夫でした。ただ、そのときは本当に大変で…。術後は尿の管がついているんですが、その管をまたごうとしたときに、足が思うように動かず転んでしまって。麻酔が効いていたのであまり痛みは分からなかったんですが、かなり派手に倒れたらしくて、後から分かったのは尾てい骨を骨折していたんです。
相馬 その転倒がきっかけで看護師さんたちが慌ててきてくれて、「足が動かないんです」と正直に伝えたら、急遽麻酔を抜くことになりました。
岸田 看護師さんもすごくびっくりしたでしょうね。突然バタッと倒れたら…。
相馬 そうだと思います。しかもその日は父が朝からお見舞いに来てくれていたんですが、父の前で「足が動かない」と言えなかったんです。
岸田 そうだったんですね。
相馬 ただでさえ親は「大丈夫なのか」と心配しているのに、足が動かないとか麻痺しているなんて言ったら、もっと不安にさせてしまう気がして…。自分で言うのも怖かったですし、親を悲しませたくないという思いが強くて、なかなか言い出せなかったんです。
岸田 「これ以上心配をかけたくない」という気持ちがあったんですね。
相馬 はい。今思えば、足が動かないってかなり重大なことなんですけど、当時は必死で「大丈夫だ」と言い聞かせていました。
岸田 その後、麻酔を抜いたら動くようになったんですか?
相馬 麻酔を抜いたあとも数時間は動きませんでした。看護師さんたちも慌てていました。お昼頃に母が病室へ来たので、勇気を出して「左足が麻痺して動かない」と伝えたら、「体を右側に倒してみなさい」と言われて、試しに少し体を傾けたら、麻酔が移動したのか徐々に感覚が戻って、左足が動くようになりました。医療者ではないのに、母に助けられた形です。
岸田 すごいですね。体を少し傾けただけで変わることもあるんですね。
相馬 はい。左側に手術しているので麻酔が偏ったのかもしれません。「右に倒しなさい」という母の一言で楽になっていったので、すごく助かりました。
岸田 その後は麻酔は続けたんですか?
相馬 はい、必要なら座薬に切り替えるという説明を受けて、そのまま続けました。
岸田 ここまでいろいろありましたけど、まだ“がん”とは告知されていないわけですよね。
相馬 そうなんです。腫瘍を取っただけの段階で、良性か悪性かまだ分かっていませんでした。
岸田 では、どのようにして告知の流れになっていったのでしょうか。
相馬 手術が落ち着いたあと、私は名古屋に戻って授業を受けていました。「年明けには良性か悪性か分かる」と言われていたので、先に母が病院へ行って結果を聞くことになっていました。そのため、私は母から最初の連絡を受ける形になりました。
岸田 先生からではなく、まずお母さんが聞いて、それをあなたに伝えるという流れだったんですね。
相馬 はい。その後、私が札幌に戻ったときに病院へ一緒に行って、先生から詳しい説明を受けるという形でした。
岸田 お母さんからはどんなふうに言われたんですか?
相馬 最初に「とにかく早く札幌に戻ってきなさい」とだけ言われました。
岸田 心配が伝わってきますね…。
相馬 大学の1月って授業が2〜3週間くらいしかない時期なんですけど、その始まって1週間ほどで急に電話が来て「すぐ帰ってきて」と。私は「外来が早まったのかな?」くらいに思っていました。
岸田 その時点では、がんとはまだ言われていなかったわけですね。
相馬 はい。直接は言われていませんでしたが、ただ事ではない雰囲気は感じました。
岸田 お母さんとしても、電話で「がんだよ」と言うのは言いづらかったのかもしれませんしね。やっぱり先生からきちんと説明してもらうほうがいいと判断されたんでしょうね。ということで、地元の病院へ戻り、先生から告知を受けることになった、と。
相馬 はい。…すみません、咳ばかりして。
岸田 大丈夫ですよ。では今のうちに視聴者のコメントを読ませていただきますね。「今日も楽しみです」「こんにちは」「病院が休みの時の痛みは不安ですよね」「大学にも保健室あったんですね」など、いろいろいただいてます。「セカンドオピニオンはされましたか?」という質問も来ていますが、それはまた後で伺いますね。
相馬 すみません…。
岸田 …このあたり、後ほどまた詳しく伺いたいと思います。視聴者の方からもコメントが来ています。「右があるから大丈夫って前向きですね」という声や、「私も両方、取れなかったわ」という経験者のコメントも届いています。また、「尾てい骨を折れたなんて…」という驚きの声や、「痛いのに親御さんに心配させないように気を使っていたんですね」という声もあります。さらに、「開腹手術ではなかったんですか」という質問もいただいていますので、その点も改めてお伺いしていきたいと思います。
そして、視聴者の中には「その時点で余命宣告を受けていた」という方もいらっしゃいました。「お母さんもどう伝えたらいいか悩んだでしょうね」というコメントも届いています。そして先ほどの質問に戻ると、「セカンドオピニオンは受けましたか?」という声ですが、相馬さん、いかがでしょうか。
相馬 私はセカンドオピニオンは受けませんでした。
岸田 受けずに進めたんですね。
相馬 はい。担当医の先生が本当に丁寧な診察をしてくださる方で、運が良かったと言うと変ですが、すごく相性が良かったんです。両親と私も「この先生なら任せられる」と感じていて、特にセカンドオピニオンを取らなくても大丈夫だと判断できたので、そのままその先生にお願いすることにしました。
岸田 なるほど。そして視聴者の方からあった「開腹手術ではなかったのか」という質問ですが、これは…開腹手術だったんですよね?
相馬 はい、開腹手術でした。
岸田 お腹を開く手術、ということですね。ありがとうございます。では話を戻しますが、卵巣がんの告知は、地元に戻られてから先生から受けたという流れで合っていますか?
相馬 はい、その通りです。
岸田 告知のときは、どのように伝えられて、どんな心境になったのでしょうか。
相馬 まず最初に、「前回摘出した腫瘍を検査にかけたところ、悪性でした。卵巣がんです」と伝えられました。その瞬間まで、診断書にはずっと “卵巣腫瘍” と書かれていたのが、“卵巣がん” に変わっていて、そこで初めて「あ、私は本当にがんだったんだ」と実感が押し寄せてきました。悲しいというより、深刻な現実が自分の中に静かに沈み込んでくるような感覚でした。
岸田 そこから治療の話が始まっていくわけですね。特に不安だったことは何でしたか?
相馬 やはり抗がん剤治療の選択肢が出てきたときが、一番不安でした。それまで自分が知っていた“がん”のイメージは、テレビやメディアから得た情報がほとんどで、「抗がん剤=髪が抜ける、副作用が強い、体力が奪われていく」という印象が強かったんです。自分がその治療についていけるのか、耐えられるのか、痩せこけてしまうのではないか…そういった不安が次々に浮かんできました。
岸田 メディアのイメージからくる不安というのは本当に大きいですよね。その先どうなっていくのか、想像がつかない怖さもあったと思います。
相馬 はい、本当にそうでした。
【治療から現在まで】
岸田 そして、ようやく告知を受けることになったわけですが、ここからは治療の流れについて伺っていきたいと思います。抗がん剤という言葉も先ほど出ましたが、実際にはどのような治療を選択されていったのでしょうか。
相馬 卵巣を摘出した後、次に“周囲の臓器に転移があるかどうか”を調べる必要があると言われました。治療法の検討として、抗がん剤をするかしないか、あるいは「子宮付属器悪性腫瘍摘出手術」を受けるかどうかなど、いくつもの選択肢が出てきて、そこでもまた決断を迫られる状況でした。妊孕性(妊娠する力)についても考える必要があり、一つが終わればまた次の選択が来るという感じで、精神的にはなかなか大変でした。
相馬 私の場合は左の卵巣が悪性だったため再発が心配され、子宮と右の卵巣を“転移を防ぐために全て摘出する選択肢”も提示されました。ただ、右側と子宮に問題がないのであれば残しておきたいという希望があったので、まずは残したい部位に転移がないかどうかを確認する目的で、「子宮付属器悪性腫瘍摘出手術」を受けることにしました。
岸田 つまり、転移があったから付属器の手術をしたのではなく、転移が“ないことを確認して温存するための手術”だったわけですね。
相馬 その通りです。転移の可能性がある腹膜や中枢、その他いくつかの臓器の一部をつまんで検体にかける、という手術でした。温存できるかどうかのための検査でもありました。
岸田 なるほど。子宮そのものを取る手術ではなかった、という理解で合っていますよね。
相馬 はい、そうです。
岸田 そして摘出手術の結果はどうでしたか?
相馬 転移はなく、「とてもきれいでした」と言っていただきました。前回の左側の開腹手術の癒着も、先生が念のため確認してくださったのですが、「癒着の痕が分からないくらいきれいになっている」と言われて、本当に安心しました。付属器のほうには転移はありませんでした。
岸田 転移がなかったということで、そこでひと安心かと思いきや、その後も抗がん剤の選択につながっていくわけですね。
相馬 はい。転移がなかったので私は「もう大丈夫だろう」と思っていたのですが、母は「ここで油断してほしくない」という思いがあったようですし、先生も「念のため抗がん剤をしておくほうが良いかもしれない」とおっしゃっていました。そこで家族で話し合った結果、再発予防として抗がん剤治療を受けることにしました。
岸田 なるほど。目に見えないレベルのがん細胞がある可能性を考えて、選択されたということですね。
相馬 そうです。
岸田 そして抗がん剤が始まります。どんな抗がん剤を使ったんですか?
相馬 パクリタキセルという抗がん剤を使って、3週間に1回の治療を3クール行いました。
岸田 実際に抗がん剤を受けてみてどうでしたか?
相馬 私は想像していたよりも副作用は軽かったです。
岸田 深刻な副作用が出なかった、という意味ですね。もちろん人によって全然違うとは思いますが、相馬さんの場合は比較的軽く済んだと。
相馬 はい。
岸田 抗がん剤の中で、特に印象に残っていることはありますか?
相馬 一番印象に残っているのは、やっぱり“髪の毛が本当に抜けるんだ…”という出来事でした。信じたくなくて。あと、味覚障害が少し出たので、病院食の中から「何なら味が分かるか」を探すのが大変でした。抗がん剤治療を受ける人向けにアラカルトが用意されていて、それを少しずつ試しながら「これは味が分かる」「これは全然分からない」と、半分実験のようにして選んでいました。その中で納豆は大丈夫でした。
岸田 納豆。
相馬 納豆は味も匂いも全部分かりました。
岸田 他にも分かった食べ物はありましたか?
相馬 他には、白ご飯は味が分かったんですけど、シャーベット状のゼリーをデザート代わりに選んだときは、あまり味を感じませんでした。そんな記憶があります。
岸田 さっき髪の毛の話が出ましたが、実際に抜けたんですよね?
相馬 はい、抜けました。髪の毛のことはずっと気になっていて、先生に「みんな抜けるんですか?」「どれくらいの人が抜けるんですか?」と何度も質問しました。心に余裕がない中で、髪の毛のことはずっと頭にありました。先生からは「まれに抜けない人もいるけれど、だいたいの方は抜けます」と言われて、覚悟を決めるのに少し時間がかかったと思います。
岸田 なるほど。でも、どこかで覚悟を決めないといけない瞬間があったんですね。
相馬 はい。
岸田 そして抗がん剤が終わったあとは経過観察に入って、そして現在に至る、と。2020年にはCVポートの抜去があったようですが、CVポートはどのあたりに入れていたんですか?
相馬 左胸の鎖骨の下あたりに入れていました。
岸田 かなり長い期間、入れていましたよね。2020年まで使っていたんですよね。
相馬 はい。当初の予定では、大学を卒業するまではCVポートを入れておこうという計画でした。その後、2020年に留学を予定していて、体調も安定していたので「留学するならポートを抜こう」という話になりました。CVポートを入れている間は月に1回、生理食塩水で“通りを良くする処置”が必要で、それが私にとっては少し怖くて…。アメリカに留学する予定だったので、現地でその管理をするのは大変だろうと思い、抜去を決めました。ただ、結局はコロナで留学には行けなかったんですが。
岸田 あの時期は本当にどうしようもない状況でしたからね。でもポートは抜いたと。そしてその後、2022年に大学院へ進学し、現在は再発なしということで経過観察を続けている、と。今はどのくらいの頻度で病院へ行っているんですか?
相馬 半年に1回のペースで通っています。
岸田 ありがとうございます。大学院や学校の話は後ほど詳しく伺いますね。ここまで一通り闘病の経験を話していただきましたが、コメントでもいろいろ届いています。「良かったね、転移なくて」という声や、「元旦から入院して今結果待ちで不安です」という方もいらっしゃいます。
相馬 ありがとうございます。
岸田 今、治療中の方も見てくださっていると思いますので、最後に“闘病中のあなたへ”というメッセージもいただきたいと思っています。「検査中が不安だった」「かつら生活はつらかった」という声もありますね。
相馬 「CVポートって何?」という質問もありましたが、CVポートは抗がん剤などを入れるために使う“ポート”と呼ばれる器具のことだと思っていただければと思います。がんノートでは医療情報というよりは経験談を中心にお話ししているので、詳しい情報はがん情報サービスなどをご確認いただけたらと思います。
岸田 「保険は加入していましたか?」という質問も来ていますが、これは後ほど“お金の項目”でお伺いしますね。「才乃さん明るくて楽しいですね」という声も届いています。
相馬 ありがとうございます。
岸田 ということで、ここからは闘病前・闘病中・闘病後の写真も見ていきたいと思います。まずは闘病前のお写真がこちら。かわいらしいですね。
相馬 若いですね(笑)。
岸田 これはいつ頃、何をしているときの写真ですか?
相馬 大学1年生の秋、9月頃だと思います。大学に毎日キッチンカーが来ていて、カフェのドリンクを待っていた時に“1番の札”を渡されて、友達が撮ってくれた写真です。ごく普通の日常の1コマでした。
岸田 いいですね。
相馬 なぜか友達がカメラを向けてきて、私も番号札を持ちながら同じポーズをして…。そんな気軽な日常の1枚ですね。
岸田 こういう“日常の写真”ってありがたいですよね。これが18歳頃の相馬さん、ということですね。
相馬 はい、そうです。
岸田 キッチンカーでカフェを待っていた時の写真。その後、治療に入ってからの写真がこちらになります。どちらも後ろ向きですが、これはどういう写真ですか?
相馬 これは髪の毛の長さを記録しておきたくて撮ったものです。今見ると「イヤホン外せばよかったな…」って思うんですけど(笑)。たぶん音楽を聴きながらそのまま撮ったんだと思います。ピンクの病院着のほうが、1回目の抗がん剤の前に撮った写真です。髪の毛が不安だったので記録しておきたくて。
岸田 左と右の写真の違いは?
相馬 左が抗がん剤治療の前。右のカーキのジャケットのほうが、1クール目が終わって退院した日か、その1~2日後です。髪の毛が抜ける覚悟を決めたあと、長かった髪を切りに行った直後の写真ですね。
岸田 この時点ではまだ抜けていない、と。
相馬 はい、まだ抜けていません。
岸田 そして次の写真がこちら。…抜けましたね。
相馬 抜けましたね。
岸田 かなり“まばらに抜けている”感じですね。
相馬 そうなんです。ツルッとなるのかなと思っていたんですが、意外とまばらで難しくて…。経験された方は分かるかもしれませんが、手ぐしを通しただけで大量に抜けたり、寝ているだけでも毛根がチクチクして痛かったりして。脱毛が進むと毛根が傷むのか、髪を“きれいに全部抜こう”と思っても痛くて上手くいかないんです。
相馬 この“まばらな状態”のあと、右側のパンダのパジャマの写真では、もう美容室で少し整えてもらった状態です。
岸田 なるほど。男性の場合は剃ってしまう人も多いけど、相馬さんは剃らなかったんですね。
相馬 はい、バリカンで剃るということはしませんでした。
岸田 美容室へ行くのって、結構勇気が必要だったと思うんですが、大丈夫でした?
相馬 はい。抗がん剤による脱毛が分かっていたので、“医療用ウィッグを作ってくれる美容室”を事前に探していました。たまたま家の近くにあって、電話で「脱毛のケアと髪を整えてほしい」と伝えたら快く受けてくださって、そこで整えてもらいました。
岸田 そこではウィッグも購入したんですか?
相馬 はい、自分に合うウィッグを選んで買いました。
岸田 ありがとうございます。では次の写真になります。こちらは“今”に近い写真ですかね。
相馬 そうですね。左側の、橋の上でポーズをしている写真は、抗がん剤治療が終わって4カ月か5カ月後くらいの写真です。友達と旅行に行った時のもので、久しぶりに外に出かけられた頃ですね。
岸田 抗がん剤治療もあったけれど、体力はしっかり戻ってきていたんですね。
相馬 はい、徐々にですが回復していました。
岸田 良かったですね。そして右側の写真は?

相馬 右側の写真は、2022年の3月末に撮ったものです。自分の中で「大学を卒業するまで髪を伸ばし続けて、ヘアドネーションをしたい」という目標があったので、抗がん剤治療で一度すべて抜けた後、大学の卒業式が終わるまでずっと伸ばしていました。その、ヘアドネーションをする直前の写真になります。
岸田 ということは、一度すべて抜けたところから、ここまでずっと伸ばし続けていたということなんですね。
相馬 はい、そうです。
岸田 大学卒業までに、ここまで長くなった髪をそのままヘアドネーションに持っていった、と。
相馬 はい、そうです。
岸田 すごい。ここまで伸ばすのは、本当に大変だったと思うんですが。
相馬 そうですね。長くなるほど抜け落ちる髪も増えて、帰省すると親に「あなたが帰ってくると、いつも髪の毛が落ちてる」とよく言われました。でも、自分の目標だったので、そこは理解してもらいながら伸ばし続けていました。
岸田 なるほど。本当にすてきな目標だったと思います。ありがとうございます。
ではコメントのほうもいくつかご紹介しますね。「思い切り抜けましたね」という声や、「野球少年みたいにはならないんですね」という感想も来ています。5厘刈りみたいにツルっとはならなかったんですね。
相馬 そうですね。
岸田 また「私はかつら屋さんでまばらを抜いてもらって、全部つるっとさせました」という方もいらっしゃいます。さらに「素晴らしい」「ヘアドネーション、尊いです」といったコメントも届いています。ありがとうございます。
相馬 ありがとうございます。
【家族(親や姉妹)】
岸田 では、ここから約30分ほどかけて、それぞれの項目を一問一答のような形で伺っていければと思います。まずは“家族”についてです。お母さんのお話はこれまでにも出てきましたが、お父さんや妹さんのことも含めて──がんだと分かった時、ご家族からどんなサポートを受けましたか? また「こういうサポートがあったらよかった」ということがあれば教えてください。
相馬 家族は、まず母が担当医から結果を聞き、その時点で母から父へ連絡がいったので、私より先に両親は状況を把握していました。そして、私は双子で、妹がいるんですけれども──先生から「もし一卵性の双子であれば、同じような症状が起きる可能性もある」と言われていたので、私の病状と合わせて、妹に対する注意点も含めて家族で共有していたようです。
岸田 妹さんはがんではなかったんですよね?
相馬 はい、がんではなかったんですが、彼女には彼女で“良性の腫瘍”ができていました。しかも私とほぼ同じタイミングで。
岸田 えっ、同じようなタイミングで?
相馬 はい。私は開腹手術でしたが、双子の妹は腹腔鏡手術でした。お腹に小さな穴をあけて腫瘍だけを取る、体への負担が少ない手術ですね。
岸田 ということは、ほぼ同時期にお二人とも手術だったと。
相馬 そうなんです。私が子宮付属器の手術をした翌日に、母は千葉に住む妹のほうへ向かって、そちらの手術に付き添いました。妹は大学が千葉だったので、私は北海道で治療を受け、翌日には母が千葉へ。私は父のサポートを受けながら退院や術後の経過を見ていくことになりました。
岸田 同じ時期と聞いて、てっきり数カ月くらいの幅の話かと思ったら……まさかの“数日”なんですね。
相馬 本当に数日違いです。ただ、不幸中の幸いと言っていいのか分からないですけれど、私たちがちょうど大学の春休み中だったので、家族も時間の調整がしやすかった部分はあったと思います。
岸田 本当に、その頃のご家族はすごく大変だったでしょうね。みんなバタバタで。
相馬 そうですね。家族は体力的にも精神的にもギリギリだったと思いますし、それでも必要なサポートを全部してくれて、本当に感謝しかないです。
【妊よう性】
岸田 ありがとうございます。では続いて、妊孕性(にんようせい)についてお伺いしたいと思います。妊孕性というのは「自分の子どもを持つ能力」のことを指しますが──相馬さんの場合、左の卵巣は摘出されましたが、右側の卵巣と子宮は残されていますよね?
相馬 はい。現在残っている臓器は、子宮と右側の卵巣になります。
岸田 となると、妊孕性は“温存されている”状態になりますね。ただ、抗がん剤治療もされていますし、その点について医師から説明はありましたか?
相馬 抗がん剤については、実はそこまで深く話し合いはしなかったんです。ただ、抗がん剤に入る前の“手術の方針”について、子宮と右側の卵巣を“全部取るかどうか”という場面では、両親と私で意見が分かれました。
岸田 ご両親はどんな意見だったんでしょう?
相馬 両親は「再発や転移の可能性を少しでも減らしたい」という理由で、全部取ってしまうほうが良いのではないかという考えでした。私は逆に、残せるのであれば残したいという気持ちがあって──そのあたりの意見が分かれていたんです。
岸田 そこは難しい部分ですよね。
相馬 はい。ただ担当医の先生から、「全部取っても残しても、再発や転移の可能性は大きく変わらない」という説明をいただいたんです。そこを含めて丁寧に話し合った結果、最終的に“残す”という選択をすることになりました。そのプロセスはよく覚えています。
岸田 なるほど。その結果、妊孕性は温存された──という認識で間違いないですね。
相馬 はい、合っています。
【恋愛・結婚】
岸田 ありがとうございます。では次に、恋愛や結婚について伺いたいと思います。がんを経験したことで、その後のお付き合いや、男性パートナーへのカミングアウト、さらには将来の結婚について──何か考えていることはありますか?
相馬 そうですね…。やっぱり異性や自分のパートナーに対してカミングアウトをするのは、怖くないと言ったら嘘になります。受け入れてくれない人もいるかもしれないし、逆にまったく気にしない人もいるかもしれない。その辺りは分からないですけれど、もし受け入れてもらえなかったら「そこまでの人だったんだな」と思うようにしています。
岸田 うん、確かに。
相馬 自分で言うのも少し恥ずかしいんですけど、ここまで回復して、いろんなことを乗り越えてきた“私のパワー”を見くびられても困るというか(笑)。「そんな私を見捨てるなんて、むしろそっちの見る目の問題です」くらいに強く思っていたいなと思っています。
岸田 いや、本当にその通りだと思いますよ。
相馬 一方で、大学の友達との話の中では、「もし将来そういうことで誰かに何か言われたらどうしよう」という不安を口にしたことがありました。でも、友達は「そんなこと言う人なんて放っておけばいいよ」「もし何かあったら私たちに言いなよ」と、すごく強く支えてくれる子たちが多くて。心強いガールズパワーに囲まれている感じです。だから、もし何かあれば友達に頼ろうと思っています。
岸田 いや、本当に“パワーを見くびられたら困る”という言葉がすごく響きました。
相馬 ありがとうございます(笑)。
【学校】
岸田 ありがとうございます。では次に“学校のこと”について伺いたいと思います。大学院進学の話もありましたし、治療中は愛知の大学に通いながら、一旦北海道に戻って治療を受けて、また名古屋に戻る──という流れでしたよね。学校生活で大変だったことはありましたか?
相馬 主な治療の時期が大学の春休み期間だったので、抗がん剤のスケジュールや手術の日程を組む時も、治療中心に予定を立てられたのは不幸中の幸いでした。比較的スムーズに治療を終えられたと思います。ただ、大学は愛知県で、治療は北海道だったので、治療後の体調がどのタイミングで悪化するかなど、その調整は少し大変でした。
相馬 でも、自分の身体が何日目に落ち込むかはだいたい把握できていたので、抗がん剤のスケジュールと授業の予定は何とか調整できました。学校が始まってから抗がん剤を受けたのは1回だけでしたが、その1回も自己管理で乗り切れたと思います。
相馬 ただ、最初の左の卵巣の摘出手術は授業期間中だったので、その時は単位をいくつか落としました。翌年度に再履修する形で対応しました。
相馬 それから、大学の先生や友達が本当に状況を理解してくれて、授業のノートテーキングや課題の内容など、いろいろ助けてもらいました。丁寧にサポートしてくれて、すごく支えられました。
岸田 いや、本当に“持つべきものは友”ですよね。友達や先生方のサポートがあったのは大きかっただろうし、手術が春休みだったというのも不幸中の幸いだったと思います。
相馬 そうですね。実は、一番最初の卵巣の摘出手術をする前日の夜、人生で初めての手術で緊張して全然寝られなかったんです。その時に急に友達からLINEが来て、「何だろう?」と思ったら、クラスの子たちが私のために “明日手術を受ける才乃へ” という動画メッセージを作ってくれていたんです。授業でお世話になっている先生方からのビデオメッセージもあって…。本当に温かくて、すごく励まされました。
岸田 めちゃくちゃいい話じゃないですか。……ただ、がんノートでは“いい話は全部カット”という伝統がありますので、ここはカットになると思います(笑)。
相馬 生放送なので、ぜひ入れておいてください!(笑)
【お金・保険】
岸田 生放送ですから全部バレていますけど(笑)、本当に良いお話ですね。周りの人たちに助けられたというのは大きかったと思います。では続いて、こちらの項目に移ります。
“お金や保険”について。先ほどコメント欄でも「保険に入っていましたか?」という質問がありましたが、そのあたり、どうでしたか?
相馬 私は保険を2種類、加入していました。まず北海道民なので「道民共済」。他の地域でいう県民共済みたいなものです。それと、もう一つは大学で加入していた「学研災」です。
相馬 私は北海道で治療を受けていましたが、大学は名古屋だったので、治療と学業の関係で名古屋と北海道を行き来することが何度かありました。その際の“治療にかかるための交通費”、特に飛行機代が保険の適用になったのが、本当にありがたかったです。
岸田 すごいね。どれくらい保険でお金出たの? 数十万レベル? もっと?
相馬 合計は正確には覚えていないんですが、少なくとも飛行機代は全額出ました。移動が多かったので、そこは本当に助かりました。
岸田 治療費そのものは、やっぱりご両親が支えてくれた感じだよね。大学生に全部払えっていうのはさすがに無理だし。
相馬 はい、治療費は両親に助けてもらいました。ただ、「高額療養費制度」も使えたので、そこは少し負担が軽くなりました。
【辛い・克服】
岸田 ありがとうございます。そういった制度を使いながら治療費を捻出していたということですね。では続いて、“つらさと克服”について伺っていきたいと思います。精神的・肉体的につらかったのはどの場面で、それをどのように乗り越えていったのでしょうか。
相馬 自分の治療のなかで一番つらかったのは、先ほどもお話しした「術後の左足の麻痺」でした。手術の際、背中から入れた麻酔が神経のすごく近くに入ってしまったようで、術後に左足が動かなくなってしまったんです。
相馬 さらに、麻酔を予定より早く抜くことになったので、術後の“おなかの痛みを抑える麻酔”がほとんど切れてしまいました。これが本当に痛くて、肉体的なつらさとして一番印象に残っています。
岸田 それは相当きついよね……。
相馬 「麻酔の代わりに座薬で対応します」と言われて何回か座薬を入れてもらったんですが、私の場合、麻酔とは全然効き方が違っていて。座薬を入れても痛みがほとんど引かない状態でした。それが本当に苦しくて……。
最終的には、ただ“時間が過ぎるのを待つしかない”というような状況でした。
岸田 待つしかないって、本当にしんどいですよね。
相馬 はい。当時は痛みが強すぎて、周りの人に当たってしまったこともありました。今思うと申し訳なさもあるんですけど、でもどう頑張っても痛みが消えなかったので……。自分ではどうしようもなかったです。
岸田 それは当たり散らかしていいと思いますよ。そこまで抱え込んだらつらすぎる。吐き出す場所があったほうが絶対いいです。
相馬 ありがとうございます。あの時が肉体的にも精神的にも、いちばんつらかったと思います。
【後遺症】
岸田 では続いて、“後遺症”について伺いたいと思います。今、何か残っている後遺症はありますか?
相馬 後遺症としては、はっきりと「これが残った」というものはありません。ただ、闘病前と比べると体力が大きく落ちた、というのがいちばん感じている部分です。
相馬 具体的には、とても疲れやすくなったり、もともと貧血気味だったのが、より貧血になりやすくなったり。あとは大学生だったので、徹夜で課題をやらなきゃいけない日もあったんですけど、無理するとすぐに熱が出てしまうようになりました。
相馬 今でも、闘病前の体力が完全に戻ったとは言えないんですが、最近になってようやく“闘病直後よりは回復したな”と実感できるようになりました。
岸田 体力って本当に落ちますよね。僕も経験あるけど、手術後なんか特に、一気にガクッと来る。
相馬 そうなんですよね。自分でも驚くくらい「ここまで体力って無くなるんだ…」と感じました。闘病前と同じペースで生活しようとすると、本当に全然ついていけない。自分の体が別物みたいに感じる時期がありました。
【医療者へ】
岸田 では続いて、“医療者へ”という項目です。医療従事者の方々への感謝や、逆に要望などがあれば教えてください。
相馬 私はもう、本当に担当医の先生には感謝しかないです。担当医をはじめ、チームの看護師さんたちにもすごく良くしてもらって、病院生活が本当に快適でした。ある意味、人生でいちばん甘やかしてもらった時間だったな、と感じるくらいです。本当にお世話になりました。
岸田 いや、それでいいんですよ。ああいうときは甘えていいし、頼るべきですからね。ありがとうございます。では次の項目、“過去の自分へ”。
これは“反省点”みたいな話ではなくて、もし当時の自分に声をかけられるとしたら、どんな言葉をかけたいか、という項目です。たとえば僕も、首の根元が腫れたのを半年くらい放置してしまったんですよね。
【過去の自分へ】
岸田 僕自身も、腫れを半年放置していたので「もっと早く行けば良かったな」と思うんです。相馬さんは、もし過去の自分にアドバイスするとしたら、どんな言葉をかけたいですか?
相馬 過去の自分へのアドバイス……実は「特にない」というのが正直なところなんです。というのも、振り返ってみると全部がとんとん拍子に進んで、良い方向に向かっていたように感じているので。アドバイスというよりは、“褒めてあげたい”気持ちのほうが強いです。
岸田 いいですね。全然“褒める”でも大丈夫です。
相馬 そう言ってもらえるなら……まず、ネットの情報を必要以上に見過ぎなかったのは、本当に良かったと思います。私は家族とも担当医とも信頼関係を築けていたので、変に不安な情報に振り回されることなく過ごせました。
それから、おなかが痛くなったときに放置しそうになりながらも、きちんと病院へ行った自分も褒めたいです。「ちゃんと行ったね、えらいよ」と言ってあげたいです。
【CancerGift】
岸田 早く受診できて本当に良かったですよね。では次の項目です。がんになって失ったものももちろんあると思いますが、あえて “得たもの=キャンサーギフト” を挙げるとしたら、どんなことがありますか?
相馬 私が挙げているキャンサーギフトは、まず一つが 大学院に進学するきっかけになった ことです。そして、それに伴って 日本のがん対策に興味・関心を持てるようになった という点ですね。
岸田 大学院で専攻されている医療社会学につながった、ということですね。
相馬 はい。もし自分ががんになっていなかったら、そもそも「医療政策」や「がん対策」というテーマに目が向くことがなかったと思います。自分が経験したことで“日本のがん対策ってどうなっているんだろう?”と疑問を持つようになり、それが大学院進学への大きなモチベーションになりました。
岸田 今後は医療政策の分野にも関わっていきたい、という気持ちもあるんですね。
相馬 そうですね。自分の研究を通して、何か少しでも役に立てることがあれば嬉しいと思っています。
【夢】
岸田 なるほど。がんの経験が、自分の将来の進路を形づくるきっかけにもなったということですね。では、その延長線上になると思いますが、相馬さんが考える“今後の夢”はどんなものになりますか?
相馬 私はやっぱり がんで悲しい思いをする人を減らしたい という思いが一番大きいです。生活習慣レベルの予防というよりは、政策によってできる予防策や、社会の仕組みとしてサポートできる部分に携わりたいと思っています。
また、現在闘病されている患者さんや、ご家族の支援にも、いつかどこかで自分が関わることができたら嬉しいです。自分の経験が誰かの力になれたらいいなと思っています。
【今、闘病中のあなたへ】
岸田 最後に、今まさに闘病されている皆さんへ――相馬さんからメッセージをいただいております。この言葉について、コメントを添えて読み上げていただけますか?
相馬 私が闘病中の方へお伝えしたい言葉は、**「最大限に自分を甘やかす」**ということです。治療中は、思うように身体も心も動いてくれないことが本当に多いと思います。周りから「頑張ってね」と声を掛けられることもあるけれど、頑張る必要なんて実はどこにもありません。
治療そのものは避けられないし、耐えなければならない場面もあります。でも、治療以外の時間だけは、どうか自分の好きなことをして、好きなものを食べて、遠慮なく自分を甘やかしてほしい。そのくらいでちょうどいいと、私は思っています。
そして今は、私が闘病していた4年前よりも、コロナやインフルエンザなど体調面でのリスクがさらに高くなっています。ただでさえ体調管理で大変なのに、気を遣うことも多いと思いますが、無理をせず、風邪をひかないようにゆっくり過ごしていただけたら嬉しいです。以上です。
岸田 いや〜、相馬さん、今22歳・23歳くらいですよね?
相馬 はい。
岸田 なんか“お母さん”みたいな温かさで(笑)。皆さんへの気遣いまで含めて、本当に素敵なメッセージをありがとうございます。
相馬 いえ、とんでもないです。
岸田 「最大限に自分を甘やかしていい」――今日ご覧になっている方の心にも、きっと深く響いたと思います。ありがとうございます。
さて、気付けば90分を超えましたが、あっという間でしたね?
相馬 あっという間でした。少ししゃべりすぎてしまったかもしれません、ごめんなさい。
岸田 いえいえ、たくさんのコメントに丁寧に答えていただいたおかげで、視聴者の皆さんも喜んでいると思います。コメントくださった皆さんも、本当にありがとうございます。
相馬 ありがとうございます。
岸田 またいつか、リアルでもお会いできればと思います。オンラインではありますが、こうして相馬さんのお話を共有できて本当に良かったです。これからも皆さんへ一緒に情報を届けていけたらと思っていますので、その際はぜひよろしくお願いします。
相馬 よろしくお願いします。
岸田
では、がんノートorigin、本日の配信はここまでとなります。来月のがんノートorigin、そして隔週木曜のがんノートnightでもお会いできれば嬉しいです。
それでは皆さん、また次回お会いしましょう。バイバイ!
※本ページは、経験者の体験談を扱っております。治療法や副作用などには個人差がございますので、医療情報に関しましては主治医や、かかりつけの病院へご相談、また科学的根拠に基づいたWebページや情報サイトを参照してください。
*がん経験談動画、及び音声データなどの無断転用、無断使用、商用利用をお断りしております。研究やその他でご利用になりたい場合は、お問い合わせまでご連絡をお願い致します。