目次

※各セクションの「動画」をクリックすると、その箇所からYouTubeで見ることができます。

インタビュアー:岸田 / ゲスト:古川

岸田 イエイ、イエイっていうふうな形で、今から90分、今日のゲストの古川さんに、色々話、聞きたいと思うんですけど。古川さん、カクカクしてるのは距離が?

古川 すみません。2階におりまして。

岸田 なので皆さん、もしかしたら古川さんがカクカクするかもしれないですけれども、声はしっかり聞こえているので、そういうふうに楽しくやっていきたいと思います。
それでは僕の自己紹介のほう、させていただきたいと思います。僕は岸田徹と申しまして、25歳と27歳で胚細胞腫瘍という珍しいがんになりました。そこから医療情報はお医者さんだったり、もしくは病院に伺ったりと思うんですけど、それ以外の情報を家族にどう打ち明けたら良いのかだったり、お金やそういったことをどう工面したら良いのかだったり、恋愛結婚どうするのかと、そういったところを患者さんに聞いてみたら、それを結構答えてくれたんですよね。その中で患者さんのお話って参考になるなということを思って、このようにがんノートというものをスタートさせていただきました。

岸田 今日は古川さんの話を、根掘り葉掘り聞きたいと思いますので、是非よろしくお願いいたします。そんな古川さんのプロフィールがこちらになります岸田 では、ライブ配信開始ということで、がんノートoriginでございます。

古川 イエイ。

岸田 古川さん、簡単にで問題ございませんので自己紹介のほうよろしくお願いします。

古川 はーい、皆さんおはようございます。古川愛と申します。私、奈良県出身でして、今、東京に住んでるんですけども。まさに東京から奈良に移動する途中で、親戚のおうちにおりまして、その関係ですみません、ネットワーク環境がちょっと。里帰り行脚してます。

岸田 里帰り行脚の途中の、親戚宅にいるんや?

【発覚から告知まで】

古川 正確に言うと、旦那の実家の近くの、親戚のおうちみたいな。三重県におります、今。なので、ちょっとお盆中でというみたいな感じです。今の年齢は38歳なんですけれども、ここあるように33歳の時、5年前に乳がんのステージ1という告知を受けました。その時、今日の話にもありますが妊娠中でして、翌月にもう出産予定日だっていう時に、がんだよって言われましたという感じで、岸田さんと同じか、AYA世代のがんと言われるような世代になります。今日はその辺りのお話、参考になればと思って、出来ればなと思ってます。よろしくお願いします。

岸田 よろしくお願いします。ありがとうございます。出産も控えていた時にというふうなところだと思うので、これについても後でめちゃくちゃ聞いていきたいと思っております。それではですね、早速なんですけれども、古川さんの、発覚から告知までというふうな話を聞いていきたいと思うのですが。まず発覚。どのように古川さん、発覚していった感じですか。

古川 私、6月から産前休暇を取る予定だったんですけども、その前月の5月の、まさにゴールデンウイークとかの、なんか比較的生活に余裕があった時って言うんですかね。バタバタしてなかった時だったと思うんですけど、しこりを発見したんですよね、左胸のところに。あれ? みたいな。こんなの前にあったかな、みたいな形で。そこで自分で異変に気づいたっていうのが、最初のきっかけですね。

古川さんの病歴

岸田 では、2016年からお伺いしていきたいと思うんですが。まずその時、妊娠が判明していくと、2016年に。そこから2017年の5月6月7月で、さっき言った、しこりを発見したということですよね、左胸に。

古川 そうなんですよ。あれ? と思ってて。実は毎年、乳がん検診って受けてたんです、会社の。そういう定期検診みたいなのに入ってたので。それまで全然、異常なかったんですけども、あれ? と思って。ちょうど1年に1回の乳がん検診のタイミングだったので、これは行かなきゃなって。本当に悪性かどうかっていう判断はその時は全然なかったので、これ、がんかもしれないとか思ってなくて。何かおかしいな、みたいな。しこりイコール乳がんっていうふうに、その時はそこまで繋がらなかったんですよ。ぼんやりと、何かおかしいけど、とりあえず検診に行こうかみたいな感じで。でも検診もどうせだったら、産前休暇とってゆっくりしてから、余裕ある時に行こうと思って、6月に予約しました。その間1カ月ありました、仕事しながら。段々何かおかしいぞ、みたいな。これはもしや、みたいな。悪性というやつかみたいな感じで思いだして、それでもしかしたらって思いながら、遂に乳がん検診6月を迎えるっていうのがありました。

岸田 しこりが発見して、ちょうど乳がん検診を定期的に受けていて、1カ月後の6月に乳がん検診を受けていくということですね。乳がん検診、どんな感じ。マンモグラフィーみたいな潰されるやつですかね。

古川 その時はエコーだけですね。マンモやらなかったように思いますね。うちの定検診診って、若い人はエコーで良いみたいな話だったと思います。

岸田 その乳がん検診を受けてみて、何かそこでは言われます?

古川 毎年、シャーでOKですって言われたのが、凄い念入りにされるんで、これはおかしいなっていう感じの異様な長さでしたね。普通、看護師さん1人だけでやってくれるのに、次から先輩っぽい人が来て、その後もう1人さらなる先輩みたいな人が来て、3人がかりで検査みたいな感じでした。

岸田 ただごとじゃないっていう感じですよね。

古川 ただごとじゃないぞ、みたいな感じでしたね。

岸田 そしてその検診でも、大学病院だったりとか、そういう所に行ってくださいって言われるの?

古川 そうです。なので、その検診を終わって、ちょっと覚悟しておいたほうが良いかなと思ったら、翌日にもう一回来てくださいって呼ばれて。普通、そういうステップないんですけど、その時に、出産も治療も出来る病院に行ってくださいっていうふうに言われました。

岸田 出産と、そういったことが出来るっていうのは、古川さん自身はその時、そういう大きな病院にかかってたんですか、出産関連で。

古川 全然かかってなくて、妊娠のほうも、普通の町のクリニックみたいな所だったんです。しかも、里帰り出産しようと思ってたので、それもまた実家のクリニックって感じだったんですけれども。要は、出産同時並行になりそうなので、乳腺外科も産科もあるような所に行ってください、ということを言われて。でも本当たまたまなんですけども、その産科のクリニックと提携している病院が大学病院で、そこにブレストセンターもあったっていう所なので。

岸田 ブレストセンターっていうのはどんなやつですか。

古川 乳腺外科ですね。

岸田 乳腺外科で、しかも乳がんに特化してるって変ですけど、乳がんをメインで扱っている、ブレストセンターっていうんですよね、そういった所が。

古川 そうですね。昭和大学なんですけども言っちゃうと。乳がんでは有名なというか、全国から患者さん集まってくるような所で。それも私、全然その時、知らなかったんですけど、たまたまおうちの近くで、しかも自分が行っている産科と提携している病院が近くにあったっていうので、直に昭和大学のほうに検診を受けに行ったっていうのがあります。

岸田 受けた結果、この確定の診断ってところですよね。

古川 そうです。また3週間後か2週間後に来てねって言われてたんですけれども、もうそのときに家族と一緒に来てくださいって言われたので。

岸田 もう完全に。

古川 確定診断のような。

岸田 ただことじゃないって感じですよね。家族と一緒に来てくださいは。家族と一緒に行ったわけですよね。

古川 そうです。その時は夫と行きました。

岸田 確定診断を受けると。確定診断を受けたら皆さん、頭真っ白になるだったりとか、自分事じゃないと思われるとか、色々あると思うんですけど。古川さんの場合どうでした?

古川 この時で異常なことが続いてたので、これは殆ど悪性だなって、自分でも自覚してたんです。自分でも心の準備が出来てたっていうのがあるのと、私たまたま、夫も製薬企業メーカーで、しかもがんの薬とかも扱ってたので、ある程度、乳がんの知識とかもあったんですよ。本当にそれは私にとっても幸運だったんですけど、仮に乳がんだったとしたらみたいな話も、確定診断前に夫と話し出来て。なので、予後が比較的良い、がんだよっていうことですとか、治療法もいくつか、他のがんと比べて他の選択肢、比較的沢山あるので、悲観的になる必要はないっていうんですかね。比較的、早期にちゃんと情報に触れられたっていうのがあって、結構冷静に確定診断に望めたかなとは思います。

岸田 身内に、医療従事者じゃなくても、乳がんに詳しい人がいたら、凄く安心ですよね。

古川 そうですね、色んな情報、しかもエビデンスというか、しっかりした情報に触れられたので、安心感ありました。

岸田 安心感があって、その後、出産後治療開始と決まるとありますけれども、この時はもう、出産を控えている時?

古川 そうそう、そうなんです。なので出産予定日が8月で、6月に検診しましたっていうので、6月の後半ぐらい、確定診断に行ったんですけども。間違えた、すみません。7月が予定日だったんですよ。なので、あと1カ月だねと。乳がんって、1カ月待って凄く大きくなるようながんじゃないで、1カ月待って出産して、体が一人身になってから治療しましょうということになりました。その時からもう凄いお腹も結構になって、こんな大きなお腹を背負いながら、病院に行ってましたね。

岸田 大変。そういう治療開始は出産後ということになって、その後、患者会に行きまくるってありますけど、これも情報収集で?

古川 そうなんです。治療法とかこういうのがあるっていうのは、先生とか夫から聞けるにしても、じゃあ実際どんだけ手術って痛いのとか。あと確定診断の時に抗がん剤すると思うっていうようなことも言われてたんで、抗がん剤ってどんな感じとか。絶対脱毛するよ、とも言われてたんで、ゲッみたいな。でもその辺りってやっぱり経験者じゃないと分かんないと思ったんですよ。どんだけ痛いのとか、手術後の胸どうなるのとか、抗がん剤中の生活とかどんなのっていうのを、やっぱり実際に経験した人から話を聞きたかったんですよね、その時。そうなると、患者会かなと。

岸田 その患者会は、一つのところに何回も行ったのか、それとも色んな所に行きました?

古川 色んな所に行きました。乳がん、患者会って調べて、色んなおしゃべり会してる所とか結構あるので、そういう所にも電話とかメールして、この日、行かせてくださいっていって、色んな所を渡り歩きました。

岸田 渡り歩いて、この配信見られてる方って乳がんの方も多いと思いますので。古川さんが色んな患者会見てきて、どうでした? ご高齢な患者会もあれば、若い患者会もあれば、色んなあるじゃないですか。

古川 最初の方はたまたま、比較的年配の方が運営されている乳がん患者会みたいなの、日程的にそこによく行く所があったんです。会によってはマンションみたいな所を借りて、そこに毎週何曜日開放してますよっていう形になってて、そこに予定が合えば行けるみたいな所があって。そこで本当、じっくり話、聞いてもらうとかがあったりとか。あとはたまたまか、セミナーみたいな開いてる患者会もあったので、そこで聖マリの凄い有名な先生、山内先生の話をそこで聞いたりとか、質問も出来るっていう所も行ってて。やっぱりその経験者の話って凄い助かった。私は部分切除なんだよとか、でも温泉、行けるよっていうので、凄い勇気付けられたりとかして。最終的に私が、AYA世代のがんのPink Ringさんに辿り着いた時に、そこはもう凄い衝撃を受けたっていうのがあって。

古川 初めてそこで同じ世代の、しかも仕事とかしながら治療してる。しかも治療真っ最中っていう人が何人か来てたんです、おしゃべり会に。ある人は今、私、抗がん剤治療中ですとか、私、今日は放射線、受けてきました、でも仕事帰りですとか。そういう人たちがいてて、凄い衝撃受けたんです。治療中でも仕事も出来るんだ。そういう方々、皆な結構おしゃれだったんですよ。なんか全然、普通におしゃれ出来るんだ、みたいなっていうので、皆な乗り越えてるんだったら、絶対私も乗り越えられるっていうのを、そこで凄く感じたっていうのはあります。

岸田 はい、ありがとうございます。最終的にはPink Ringさんの所で、色んな同世代の人たちと出会っていったということかと思います。そして、これが発覚するところにはなるんですけれども、次、治療から現在までといったところをお伺いしていきたいなということを思っています。その前に、コメント色々ありますので、コメントも読ませていただきたいと思います。ヤマヤさんこんにちは、だったりとか、トヨダさんもこんにちはと。ジツハラさんもこんにちはといただいてます。ブルーカインドユアセルフさん、LTDさん。彼女が乳がんになりました、落ち込んでいます。私は48歳、彼女は55歳ですが参考にさせてください。よろしくお願いしますとありますけれども。彼女が乳がんになって落ち込んでいるっていう、多分これは。

古川 パートナーの方ですかね。

岸田 そうそうそう、だとありますけど、古川さんはどうです。がんになって落ち込んでいるっていうふうなパートナーの方がいらっしゃったら、どういうふうに声掛けますか。

古川 私も自分のがんの前に父親が、がんになって。その時も自分じゃない分、どうしようもできない。それで更に落ち込むっていうのがあったので、自分じゃない時のショックっていうのも、大きいよなっていうのは分かります。

岸田 結構周りが凄くパニックになるというか、慌てるっていうのもありますよね。

古川 あります。大事な人ががんになった時も、つらいなっていうのはねえ、気持ち分かるんですけども。

岸田 因みに、どのように接してもらえたら嬉しいとかってありますか。古川さんの場合。

古川 やっぱり周りがすごい動揺とか、パニックになられると、自分もどうしようかなって思っちゃうっていうか。パニックに引きずられちゃうとか、あと自分も凄い不安定になっちゃうと思うので、やっぱり周りの人は、嘘でも良いんで、どしっと構えてもらって、受け止めるぞ、みたいな感じでいただけると、ご本人の方も心が安定していくんじゃないかなって思います。

岸田 そうですね、このブルーカインドユアセルフさん、周りが落ち込んだりとか色んなことしてたら、当事者も落ち込んでいっちゃうかもしれないので、どちらかというと堂々としていただければなと思います。ありがとうございます。それではようやく、治療から今までのところをお伺いしていきたいなということを思います。治療から現在までといったところで、こちらのフリップになります。2017年7月、出産、母乳育児とありますけれども、ようやくここで出産、あれ、2017年7月なんですね。8月が予定日とかじゃないんだ?

古川 間違ったんです、さっき。7月が予定日でした。

岸田 了解。出産して母乳育児ということで、母乳育児は拘ったんですか?古川さんの場合。

古川 凄い母乳育児したかったんですよね。その時、憧れで。でも母乳出てると、手術に影響があるっていうことで。

岸田 確かに。どうすんの?

古川 なので母乳は止めてくださいって言われたんですけど、それが産科の看護師さんがめちゃくちゃ寛大というか、お母さんの望みを叶えてあげたいっていう、凄い寄り添ってくださって、私の思いに。数日になるかもしれないけど、母乳育児やりたいんだったらやってみようって言ってくださって。なので出産から手術まで1カ月あったんですけども、その最初の5日ぐらい、まさに入院中だけなんですけども、その間、母乳育児をさせていただいて。最初なかなか出ないんですけども頑張って、時間ないんで頑張って出すようにしましょうとか言って、マッサージしてくれたりとか。本当はやめてねって言われてたところを、ブレストセンターの方も話ししてくださって、母乳育児スケジュールみたいなのを組んでくださって、念願叶いました。

岸田 ようやく無事に出産出来てといったところがあります。そしてそこから8、9、10月にかけて、左乳房温存の手術をするということですが。これはもう全滴じゃなくて、部分摘出?

古川 これもどっちでも良いよって言われました。温存も出来るし、全滴でも良いですよと。その時の温存による残っているリスクみたいなのも、ちゃんと先生に説明していただいて、それも今の古川さんだったら殆ど変わらないよって言われたので、温存選べるんだったら、温存にしようかっていうのは、これも家族とも相談して決めました。

岸田 どちらでも選択肢はあったってことですね、全滴じゃなくて。

古川 そうです。選択肢があった上で、温泉好きなんで温泉入りたいしとか。全滴が入れないってわけでは、もちろんないんですけれども。私はその時は、温存も選べるんだったら温存、選ぼうってふうに決めました。

岸田 温存を選ぼうと言ったところになって、そして、腹腔鏡手術で右卵巣の摘出凍結、妊孕性温存のためということがあります。これはどういう意図で?

古川 私は1人目妊娠中で、出産後に治療ってなったんですけども、元々、子ども2人以上欲しいなって思ってました。なんですけど、たまたま待合室に置いてた冊子に目に通すと、私もともと抗がん剤しなきゃいけないと言われてたんで、抗がん剤のページを見ましたってなると、抗がん剤後に子どもが産めない体になるリスクがあります、みたいなことが、バーンって書いてあったんです。

古川 ウエーってなって、私2人以上欲しいんだけどどうしようとなって、それが結構衝撃で。最初はなんとか抗がん剤を避けられないかと思って、セカンドオピニオを受けに行ったりとかもしてたんですけども、やっぱり標準治療では今の私の状況だと、抗がん剤治療が勧められるっていうことは改めて分かったので。そしたら、仮に治療後に子どもが産めない身体になっても、子どもを持てる選択肢を自分でつかみ取りたいと思って、妊孕性温存っていうのも、その時は先生からも言ってくださったので、私ぜひ妊孕性温存やりたいですということを決めたんですけども。そもそも私、その時に出産直後だったので、身体が普通の人とちょっと違ってるんです。子宮はもちろん膨らんだ状況になってるし、卵巣も1年間ずっと眠ってた状況だったんです。出産中は排卵とかしないんで、いわば卵巣がまだ眠ってますと。でも日本では一般的なのは、卵子凍結のほうです。

岸田 そうなんですよ。卵子凍結なのかなと思ったんですけど。

古川 なんですけど、卵子凍結をしようとすると、最初に卵巣にぐわーって刺激を与えて、卵子を沢山生み出さなきゃいけない。でも眠ってる卵巣にそういう刺激を与えるのが、体的にリスクがあるっていうことだったので、卵巣を摘出するっていう選択肢もありますよと。その時先生には、欧米では実は、卵巣組織凍結っていうのがメジャーな国もありますと。そこで実際、そのがん治療の関連で、卵巣組織凍結して、妊娠に至ったケースもたくさんあります。なので海外ではたくさんエビデンスもあるので、卵巣組織凍結のほうが劣ってるとか、そういうことではないんですよと。ただちょっと手術は必要になるけれどっていうことだったので、今の私で卵子凍結がちょっと難しいということであれば、卵巣組織凍結、やりますというふうに決めました。

岸田 そういう背景があったんですね。卵巣の摘出、凍結をしていってからの、ようやく抗がん剤治療が開始していくと。抗がん剤治療はどんなことをしたんですか、ちなみに。

古川 抗がん剤治療は、乳がんでいうTC療法っていう、タキソテールとエンドキサンの治療を4クールやりました。

岸田 結構きつかったですか?抗がん剤。どうでした?

古川 それが私、全然吐き気とかはなかったんです。寝込んじゃうとかは全然なかったので、普通に外出も出来たんですけども、皮膚障害っていうのが結構出たんですね、私の場合。手先は、特にこの指先のところが最初、真っ赤に腫れあがって、それが終わると皮がブワって剥けてきた。脱皮みたいな感じで、特に手先が凄かったんですけど。そういう形で、手先過敏症みたいな感じになりました。

古川 それが特に手先とかだと家事する時に使ったりもするし、あと育児とかだとミルクをあげるときとかに、ミルクすっごいぬるいんですけど、それがめちゃくちゃ熱くて持てないっていうのがあって。30度ぐらいのぬるいミルクなのに、素手で持てなくて。なので100均で布手袋を買って、それを1日中着けて、ミルクをあげる時も手袋着けてあげるっていうようなことはしてました。

岸田 指先が赤く腫れるって、なかなかきついですね。

古川 それはきつかったです。でも手先とかだけ気を付ければ、私の場合は生活全般、問題なかったです。

岸田 そして抗がん剤治療をしていった中で、次のフリップこちらになります。翌年になるんですかね、1月2月。間質性肺炎。

 

古川 コロナとかでもちょっと話題になった間質性肺炎ですけど、抗がん剤の副作用の、すごい重篤な副作用に分類されるやつらしかったんですけども。発現率、数パーセントとかのものらしいんですけど、薬剤性間質性肺炎に、3カ月の4クール終わった最後のクールの時に、そういうのになっちゃって。それで1カ月入院しなきゃいけないって言われて、その時は結構へこみました。

岸田 いやあ、そうですよね。ようやく治療が終わったと思ったら、次は間質性肺炎の治療って感じですよね。

古川 しかも、これが治せれば、この後すぐに放射線治療して、後はホルモン治療って感じだったんで、主要な治療は3月までに終わるっていうことだったんですよ。じゃあ、上手くいけば4月に職場復帰出来るぞって思ってたんですけど、これによって放射線治療は、後回しというふうになっちゃって、4月以降に放射線治療やらなきゃいけないことが決まっちゃったので、職場復帰が絶望的と言いますか、出来ないかなっていうふうになったんですよね。出来なくはないけど、放射線治療、毎日病院通わなきゃいけないんで、戻ってまた迷惑かけるのも自分的に嫌だなと思って、職場復帰を延期しました。

岸田 因みに放射線治療が伸びたじゃないですか。今、ここで書いてる6月になっているかと思うんですけど、ホルモン治療の方を先にしたんですね。

古川 そうそうそう、なので元々は、放射線治療の後にホルモン治療だったんですけども、間が空いちゃうので、1月から6月や半年、無治療になっちゃうので、それ大丈夫かなって思ってて、じゃあホルモン治療だけ先にすること出来るよと言われたので、ホルモン治療を前倒しでやりました。

岸田 ホルモン治療開始していって、そして放射線治療もしていって、次のフリップがこちらになります。4月からって言ってましたが、10月には復帰出来たんですね、職場に。

古川 はい、半年遅れで復帰しました。私、仕事大好き人間なんで。

岸田 ここの仕事のことはまた後でもお伺いしたいと思うんですけれども、そしてその後、社内患者会を設立されると。

古川 私が患者会に助けられたっていう経験があったので、その時やっぱり話してたのが、仕事の両立とかの話、結構出てくるんですね、AYA世代なので。制度とかの話になると、会社によって変わっちゃう。なになに制度あるよとか、こういう仕組み使えるよっていうのって、会社によって変わってきちゃうなと思って、そういうなんで知識っていうんですか、こういう制度使えるよとか、ここに行けばいいよ、みたいなのを社内で共有出来れば、次に患者さんになられる方に助けになるなと思って、社内で患者会があるっていうのも、次に続く人の支えになるんじゃないかと思って、社内患者会を立ち上げました。

岸田 そうなんや、どうでした、苦労されました? 結構スムーズに作れました? 社内患者会。

古川 それも本当にたまたまなんですけど、社内部活立ち上げ応援みたいな制度を、人事が丁度初めたところだったので、その年に。もう部活として立ち上げようと思って。なので立ち上げ自体は結構スムーズに、たまたまタイミングよく人事の制度に乗っかれたので、上手くいけました。その部活も最初5名、部員集めなきゃいけないってなって、初期メンバー集めは、時間掛けると言いますか、探さなきゃいけなかったんですけども。

岸田 なかなか社内で、カミングアウトしてる人ってそんなにいないんじゃないですか。

古川 そうそうそう、知り合いのつてとかで、誰々さんが、がんと言ってたよっていうところから、ちょっと聞いたんですけども、みたいな感じで、こういう社内患者会一緒にやってくれませんか、みたいな感じで連絡を取り合って、部員集めをしました。

岸田 因みにその時の規模感というか、どれぐらいのメンバーがいる会社に勤められてたんですか。

古川 その時は、日本だと6000人ぐらいですね。

岸田 日本だと6000人?

古川 日本だと6000人くらい。

岸田 じゃあ、海外もいらっしゃるって感じか。

古川 海外もいます。海外、入れると、何人だったかな。

岸田 全然いいです。結構まあまあ。日本で6000人ですっけ。

古川 そうです。

岸田 じゃあ、結構な。

古川 いわゆる大企業なので、絶対にいると思ったんですよ、会社に。絶対にがん患者さんいると思って。だからこれはニーズも絶対あるって確信してた。だから後は、もう個人がカミングアウトしてるか。もしくはカミングアウトしてなくても、安心して参加出来るような会にしようっていうところは気を付けました。

岸田 患者会を設立していって、2021年3月に転職されていくということですね。

古川 うまく職場復帰して、しかも色々ありがたいことに、病気で育児してても、色んな仕事任せていただいたりとかして、凄い充実はしてたんですけども。その時点で14年ぐらい同じ会社に勤めてて、何か色んなことに挑戦したいなと。あまりに乳がんと出産っていう衝撃が人生の中で大き過ぎて、衝撃ロスだったんですよね、きっと。

岸田 刺激を。

古川 刺激を求めてました。

岸田 そして初めての転職といったことだと思いますけれども、この転職の時は上手くいきました? がんのことっていうのは包み隠さずみたいな感じですか。

古川 包み隠さず言いました、その時も。同じ業界、製薬業界内だっていうのもあるかもしれないですけども、私はむしろこれを強みに使おうと思って。患者さんの立場が分かるようになったっていうのも、私の中で大きな財産だったので、仕事の上で。だからそういう大事な、私たちが仕事の相手とする人の気持ちが分かるというところを、むしろ強みに使って、しかも自分自身もそういうチャレンジがあってもしっかり仕事をします。気合いはあります。根性もありますみたいな感じで、全然マイナスにはならなかったと思います。

岸田 それ聞いたら、転職される人たちもちょっと勇気が湧いてくるかもしれないなと思いますけれども。古川さんの闘病歴といったところは、ここでいったん区切らせていただくんですけれども、治療前、治療中、治療後の写真をちょっといただいておりますので、ちょっと治療前の写真こちらになります。おーー、これはお父さまですかね、左の写真は。

古川 そうなんです。自分の病気が分かる3年前かな。父親がその時、すい臓がんになりまして。結婚の報告した直後ぐらいにすい臓がんが分かって、そこから急いで結婚式とかやったんですけども、結局分かってから半年ぐらいで亡くなっちゃったというのが、経験がありました。

古川 その時に初めて、がん患者の家族という立場になったんですけども、自分もやっぱり苦しかったという経験もありますが、でもその時父親が、凄い頑張って治療に向き合ってたりとか、自宅で看取ったんですけれども、最後の一呼吸まで一生懸命吸おうとしてるんですよ。最後の方って呼吸の間隔がだんだん長くなっていくんですね。ハァ、ハァ、からハー、ハーっていう。でもその最後の一呼吸まで、すっごい一生懸命に吸ってたっていうのを間近で見て、私も最後の一息まで全力で生きようと。絶望的なすい臓がんになっても、これだけ一生懸命、父親生きてたんだから、私もそれをしっかり受け継いでと言いますか、見習って生きていこうっていうのを、私の人生の中で衝撃を、レッスンを与えてくれた存在ですね。

岸田 ありがとうございます。そして右側は、生まれたお子さんですよね。

古川 そうです。これが母乳をあげた直後。母乳も逆に私の場合出過ぎて、一生懸命止めなきゃいけないっていう状況になっちゃったんですよ。看護師さんがアイスノン巻いてって。脇の下に挟んでるの、アイスノンなんですけど。でっかいアイスノンを、さらしを巻いて一日中過ごしてたっていうのがあります。そこを冷やすと母乳止まるらしくって、血流かなんかと影響してるから、血流はあんまり。

岸田 行かへんように。

古川 しぼめると止まるよって。

岸田 そして治療中のお写真がこちらになります。左側は?

 

古川 これは、たまたまなんですけどね。

岸田 フィニッシャー?

古川 私マラソン好きで、マラソンの完走記録が、タオルとかが多いんですけどね。たまたま病院に持ってたタオルが、このフィニッシャータオルだったっていう感じです。それで手術終わったよっていう1枚です。

岸田 そしてその隣が、これ抗がん剤治療入ってからですかね。

古川 抗がん剤治療直後で間質性肺炎になっちゃって、入院しちゃったっていう時の写真です。その間に娘のハーフバースデー、6カ月のバースデーが来たんで、病院でハッピーバースデーをさせてもらいました。

岸田 今だとコロナもあって、面会とか結構厳しいかもしれないですけども。

古川 本当に病院にいると何もやることないんで、いつまた来てくれるかなっていうのが凄い楽しみなんですけど。本当コロナ中は、これが無い患者さんはきついだろうなって思います。

岸田 当時の写真でございますからね。そして三つ目、治療後になります。左側はもう治療後、髪の毛が少し生えて来た時ですね。

古川 そうなんです。生えて来て、ベリショは初めてなんで。しかも治療も終わって、育児復帰したその日に撮った写真ですね。遂に復帰したかっていう感じの1枚になります。

岸田 そして右側が、これまた走った感じ。

古川 マラソンです。私もマラソン好きなんで。

岸田 またフィニッシャーって書いてます? もしかして。

古川 そうなんです、完走しました。しかも実家の奈良マラソンで、奈良で走ったやつなんですけども。ようやくこれで治療も終わって、マラソン走れるまで復帰できたっていうこと、完全復帰の1枚みたいな感じですね。

岸田 ここまで至るまで、どれくらいかかりました? 時間的に。

古川 これで2年ぐらいですかね。治療を約1年ぐらいしてたので。

岸田 治療終わってから2年? それとも治療を終えて1年?

古川 治療スタート、もっと言うと出産の時からなので、マラソンとしては2年開いてたんですね。でも治療完全に終わってからだと、もう半年とかですね。

岸田 半年でこれぐらい走れるの?

古川 走れます、はーい。それも、放射線とかが終わってからですね。手術してからだと1年半後ぐらいですかね。

岸田 凄い。ここまで回復するってことですね。

古川 回復します。

岸田 コメントもいただいていると思いますので、ちょっと読ませていただきたいと思います。

岸田 乳がんと性というテーマも取り上げてほしいという意見だったりとか、乳がんに対するパートナーの接し方を教えてほしいです。そのパートナーの性の場面での、接し方ということをいただいているんですよね。先ほどのブルーカインドユアセルフさんなんですけれども。ただ、乳がんの患者さんの、彼女の気持ちを傷付けたくはないというふうな感じでいただいているんですが。性のこと、ちょっと踏み込んじゃってもいいですか。

古川 はい。

岸田 乳がんのパートなあーとしての性に関する接し方っていったところは、多分この方男性だと思うんですけれども、どうしたらいいんですかね、性に関して。

古川 その相手の方が、どれくらい受け入れられる準備が出来ているかですよね、気持ちとか。

岸田 治療中はもちろん難しいですよね。

古川 治療中、どうでしょうね、不可能ではないのかもしれないですけど。

岸田 治療中って、僕もそうでしたけど、なかなか性とか、そういったところに関して、なかなか意識が及ばなくないですか?

古川 気持ちはいかない気がしますね。

岸田 比較的落ち着いたらですよね、多分。

古川 だと思いますね。その人の副作用の状態かもしれないですけど、やっぱり気持ちがいっぱいいっぱいになってる気はします、治療中は。なので、それを無理やり来られるちょっと。

岸田 多分そういう意味で、この方も質問したと思うんですよね。治療中に進んでも良いのか、それともどうなのかみたいなところは。なので僕も経験として、治療中は治療に専念するというか、中々そっち方向に気持ちが高ぶらないというふうなことがあると思うので、比較的落ち着いたら、またそういったパートナーと話ししてっていうふうな感じが良いですよね。

古川 そう思います。

岸田 そしてミカさんから、こんにちは。会社内で患者会を立ち上げする行動が凄いです。マックスどれぐらいの会員登録がありましたかっていうふうなところですけど、最終的にどれぐらいの規模になったんですか、さっきの社内患者会。

古川 会員制にはしてなくて、おしゃべり会みたいな感じにしてたんですね。コアメンバーだけは日にち合わせるけども、そこには誰が来ても良いですよと。ただ当事者だけに限ってたので、カミングアウトしてない人もいたので。なので最大10名までっていうふうにはしてました、毎回のおしゃべり会の参加者は。

古川 なので、おしゃべり会自体は、比較的小規模でずっと行ってはいたんですけれども、関心を持ってくださる当事者以外の方も多かったので、社内にいるがん経験者が、自分の経験を、まさにこのがんノートじゃないですけども、シェアするっていうレクチャーみたいな。こういうふうに闘病しましたっていうのを、セミナーみたいな、フォーラムみたいな感じでプレゼンするっていうのをやりました。その時は毎回100名以上の方が、Zoomのレクチャーに参加してくださって、話を共有するだけの40分くらいの回だったんですけども、大きくなったなと思ってます。

岸田 頻度としては、3カ月1回くらい? 月1くらい?

古川 それは月1で6カ月間やりましたね。ありがたかったです。最大でも、180名とかかな、一番多く集まった時。

岸田 ということみたいです。会員制というわけではなくて、そのタイミング伝えて、そこに当事者が集まっているということですね。社内でそういった発信をして、100名や180名が見られるという。

古川 通算で1000人以上来てくださりましたね。

岸田 そして、フリカワールドさん。ちゃんと言ってなかった、すみません。子育てしながらの闘病すごいです。尊敬しますと。私は去年の48歳で乳がんになりました。仕事をしながらフルコースの治療中で、元気に過ごしていますというコメントだったりだとか。

岸田 そして、さっきのブルーカインドさんからですね。彼女の乳がんに対する全てを受ける気持ちでいます、ということだと思うので。もうそれだけちゃんと受け止める気持ちいただけるのであれば、その彼女さんも凄く安心するんだろうな、ということを思いますね。僕も色んな話聞いてきたことありますけど、パートナーだったり、周りの人が動揺すると、本当に患者さんに伝わってしまうので、今までどおり接して欲しいなということを思いますよね。そしてサナザナさん、私も乳がん経験者です。治療中は治療でいっぱいいっぱいでしたが、仕事をしながら頑張れました、ということだったりとか。

岸田 やまやんさんが、がんとセクシャリティに関するウェブサイトっていただいているんですけど、たぶんこれURLを後で貼ってくれるんですかね。そういったところもあったりとかするので。確かにキャンサーネットジャパンさんが、がんと性といったところの相談会みたいなこともやってくださっていると思うので、もし良かったらそういったところも使っていただけたらなと思っています。

【家族】

岸田 そんな中で、ここから各項目に分けて、古川さんに色々話を聞いていきたいと思うのですが。まずこちらの項目になります。家族といった中で、家族でもどういうふうにカミングアウトしたのとか、どういうサポートがあったのっていったの伺いしたんですけれども、まずご両親のことですね。ご両親にはどういうタイミングで打ち明けました?

古川 もうその時、父は亡くなっていたので母親だけだったんですけれども。母親は結構、そうですね。

岸田 意味深な。

古川 もう大変でした。

岸田 凄いアドバイスをされるというか、いうふうな方向で大変だったんですかね。

古川 はい。やっぱり過剰反応をされるなっていうのは、言う前からちょっと分かってたので。最初はLINEにしようって言って、LINEで。乳がんかも、みたいな。さらっと送ったら、即効で電話が来て。どういうこと、みたいな感じで来て。乳がんかもって、そのときはまだ確定診断前だったんですけども、ほとんど確実だと思うっていうのをお伝えしたら、天国から地獄に落とされたとか言って。初孫が出来ると思って喜んでたのに、とか言って。

岸田 そのとき妊娠最後の、9カ月ぐらいですもんね。

古川 そう言われても、どうしようもないんだけどな、っていう感じだったんですけど、つらかったですね。

岸田 なので周りの方たちは本当に、そういうプレッシャーだっていろんなことかけずに、温かく見守ってくれることがありがたいですよね、本当に。因みになんですけれども、パートナーの方はどうでした。

古川 夫のほうは自分も知識があるっていうのがあってか、冷静に受け止めてくれて。でも乳がんだったらこうだからっていう感じで、凄い冷静だったのがやっぱり助かりました、自分の精神の安定を保つ上でも。

岸田 その時にこういうフォローっていうか。例えば家事、こういうことしてくれて嬉しかったよとか、パートナーの人にしてもらって、どうサポートされたのかなと思って。

古川 夫がしてくれた中で嬉しかったのは、そういう情報を集めて来てくれるっていうことはありがたかったです。やっぱりちゃんとした情報。ネットとかだと、私も製薬会社ですけど、専門が違うと分からないですし、広報だったので全然専門的な知識が無い中で、これがしっかりした情報とか、こういう選択肢があるっていうのを、確かな情報を持ってきてもらえるっていうのは凄く助かりました。

岸田 確かな情報っていうのは本当に大事だったりとかして、周りに医療情報をあまり知らない方が情報を持って来たら、やばいことも結構多かったりとか。

古川 感情とかが入ってくるし、これ良いよ、とか。

岸田 この野菜スープを飲んだら、みたいなね。

古川 にんじんジュースとか。

岸田 マジあるあるで。なので医療従事者だったりとか、科学的根拠があることを分かっている方たちが情報提供してくれたら、うれしいんですけれどもね。そうじゃなかったら、むしろそういうことで紛らわせてしまうかもしれないんで、そこらへんは皆さんも考えていただきたいなと思っております。

岸田 僕も当時、医療否定本みたいなものがあって、それのアドバイスどおりにしなあかん、みたいな、ちょっと苦しかった時期はあったので。やっぱり周りの人、今の古川さんの場合だと、旦那さんが製薬企業に勤められていたということで、凄く安心しますけれども、そうじゃなければ皆さんも一歩引いて考えるというか、前のめりになって情報収集していくんじゃなくて、がん相談支援センターってところもありますもんね。なので、そういった所を。

古川 私も使いました。そういう所に冊子も沢山ありますし。

岸田 なので皆さん、もし良かったら、がん相談支援センターみたいな所に行ってもらえたらということを思っています。

【妊よう性】

岸田 そして家族のことが終わって、次に妊孕性についてです。先ほど、卵巣の適出をしたというふうなところがありますけれども。こちらは卵巣を腹腔鏡で取って、先ほどおっしゃっていただきましたけれども、自分のゆくゆくといったところで、今はどういうふうに考えられていますか、妊孕性について。

古川 丁度、今年5年なんです、手術してから。ホルモン治療もあともう少しで終わるっていうところで、もしかすると2人目持てるかもしれないというタイミングが近づいて来てます。せっかく作った選択肢なので、2人目持てるんだったら持ちたいなとは思ってます。

岸田 それで卵巣をしっかり残してるからこそ、といったところあると思うんですけれども。因みに卵巣組織凍結って、普通よりもちょっとだけお金とかも高くなかったでしたっけ?

古川 高いと思います。私が受けた病院は、卵巣を手術ですね。腹腔鏡して、ビラーってしてピースにして凍結するという、そのプロセスで60万円かな。

岸田 それぐらいきますよね。しかも当時、今だと補助金出るけれども。

古川 無かったですね。

岸田 今、見てくださっている皆さん、今は助成金が出るので、病院や自治体に申請すれば、卵巣組織凍結だったら多分30万か40万か、ちょっと今。

古川 そんなに出るんですね。それはありがたいですね。

岸田 確かそんなはず。誰か調べていただけたら、チャットに書き込んでもらえたら嬉しいなと思いますけど。確か結構出るはず。

古川 それはありがたいですね。仮に私が妊娠出来ない身体に、例えば生理が戻ってこないとかってなると、その組織を体内に戻すんです。そうすると、片方の卵巣が死んでいるかもしれないけど、卵管とかにペコって、生きている溶かした細胞を貼っつけると、そこからまた卵子が出来るかもしれないという仕組みらしいんですよ。でも、その凍結したピースを体内に戻すのにも、60万かかるって言われてるんですよ。なのでそれも多分、助成してくれるんですかね。

岸田 けど今、そういう出産に向けてのやつも助成金が出るはず。

古川 ちょっとチェックしておかないとですね。もし本当に、生理戻って来なかったら。

岸田 今年の4月から、不妊治療の保険適用になったじゃないですか。ただ、がん患者さんって、その不妊治療の適用では無いので、妊孕性温存したやつが。ただその分、助成金が出たはずになりますね。

古川 そういう仕組みなんですね、なるほど。ありがとうございます。

岸田 いえ。一応、作る側で僕もちょっと作る側で携わらせていただいているので、行政関係の。さすが、ちょっとコメントいただきました。エビデンスは重要ですね、だったりとか。今、卵巣組織凍結の補助金は40万出ると。

古川 凄い、半分以上出る。

岸田 半分以上出るというふうな感じですね。ありがとうございます。ちなみに、乳がんに対する情報集めは、ウェブよりも書籍の方がいいんでしょうかという質問をいただいてますけれども。

古川 どうでしょう。ただ乳がんの場合は、がん患者さんのための、乳がんガイドラインみたいなのがあるんです。それは結構、情報が見やすく整理されているので、そういった冊子を購入して勉強している患者さんも多いと思います。私も持ってます。

岸田 書店とかに行くと、ネットもそうですけれども、やばい本がいっぱいあったりとかして。

古川 本かネットかっていうよりかは、内容。

岸田 内容、本当に内容、マジで。Amazonとかでも、がん関連の本とか探したら、トップ10のうち7、8割やばいやつですからね。やばいっていう科学的根拠なくて、ちょっとなんか。

古川 もうまず、食事関係は基本、もうインチキと思ったほうがいいんじゃないかと思っております。

岸田 ちゃんと寝て、ちゃんと普通に健康的なご飯を食べて、普通に過ごすのが一番良いから。

古川 バランスよく。

【育児】

岸田 それは僕も色々話聞いてきたりとか、この10年ぐらい凄くそれは思います。そんな中で妊孕性は終わっていって、次、育児のことについてお伺いしていきたいと思います。育児といったところに関しては、出産してから治療されてといったところもあると思うんですけど、その育児の面はどのように古川さんはされましたか。

古川 私の場合は母親に全面的に頼りました。

岸田 大事。

古川 最初はやっぱりそういう、どうしよう、どうすんだ?みたいな感じだったんですけど。最後は凄い絶大なサポーターっていうんですかね、成ってくれて。例えば、抗がん剤とか子ども連れて通院してたんですよ、全然。診察の時とかもエルボーで行ってたんですけども、抗がん剤はケモ室に入れられないと言われちゃったんで、子どもを。

古川 しかも、生まれたての子どもだったんで。じゃあどうしようってなって、ケモをする日とか1日仕事だし、その後、体調、最初どうなるかわかんなかったんで、母親に、そのときパートで仕事してたんですけども、しばらく休んでもらって、奈良から東京に来てもらうっていうようなことをしてました。

岸田 ちなみにケモっていうのは、抗がん剤のことですかね。

古川 抗がん剤です。

岸田 なのでそういう通う時、1日がかりの治療になってしまうので、お母さんにお子さんを預けて、という形で乗り切って行ったのかなと。

古川 託児所とかも最初探したんですけども、なかなか、そときは待機児童の問題もすごかったんで、普通の保育園も入れない状況の中で、託児所であっても、生まれてすぐの子は、預かれませんというようなことだったので、子どもを治療中どうするかっていうのは、そのとき悩みましたね

岸田 ちなみにお母さまが頼れないってなったら、どうするつもりでいました?

古川 どうしましょうって思ってて、どうしてたんだろうって。なので最初は、院内託児所とかを作ってもらえないか運動しようかと思ってたくらいで。結構いるんじゃないかなと思ってて。

岸田 必要でしょう、確かに。

古川 何なら診察中とかも、できれば預かってもらえるとありがたいな、とかも思うところだったんで。やっぱり泣いたりとかもしますし。意外と病院内見てると、子連れで来てる人とかも多かったので、少なくはないっていうんですかね。

岸田 確かに古川さんだったら、院内託児所を作れそうな気がする。

古川 作りたい。これはいるなって思ってましたけど、その時、私は幸い母親に助けてもらったんですけど、無かったらどうするかなって感じでしたね。

岸田 育児に関してはお母さまに任せて、そして治療を自分も専念していたっていうところですね。

【仕事】

岸田 次はお仕事のことといったところをお伺いしていきたいと思います。さっき仕事に復帰出来るかどうか心配だったとか、色々あったと思うんですけれども。当時、職場にどのようにカミングアウトしてというか、どのように復帰していったかっていったところを少し詳しくお伺い出来ますか。

古川 病気が分かった時はもう、産休育休に入ってたので、職場の人と常に一緒にいる状況じゃなかったんですけども。病気が分かったタイミングで、上司には直ぐに知らせました。治療することになりそうだけど、ちょっと休み中にしっかり治したいっていうことですとか、最初は半年で戻ろうと思ったけど、ちょっと復帰、直ぐには難しそうなので延ばしたいということとか、節目、節目で報告はしてましたね。

岸田 復帰する時になんかスムーズに復帰出来ました? 10月の時は。時短でとか。

古川 最初、時短にしてました。最初と終わりと2時間短縮してたんですけども、何か私自身がつまんなくなっちゃって。

岸田 刺激求めるなぁ、古川さん。

古川 その時には普通の人ぐらいに働ける体になってたっていうんですかね、体力的には全然問題無かったので。普通に育児と両立出来るかで、出来るなって思って、時短も1カ月ぐらい。最初ちょっとやって、もうフルタイムに戻りますって言って、早々にフルタイムに戻りました。

岸田 ていうことはフルタイムに戻って、けどその時のお子さんは?

古川 保育園に預けて。復帰する時には、ようやく認可外だったんですけど、最初は。保育園が見つかったので、保育園に預けながら仕事に行ってました。

岸田 どうでした?1カ月の時短やって、それ以降フルで働いてでしたけれども、体力的な面とかは大丈夫そうでした?

古川 私は問題無かったです。もうその時で手術からは1年以上経って、抗がん剤からも1年近く経ってたので、問題無かったですね。

【お金・保険】

岸田 そして次はお金や保険のこととありますけれども、保険は何か入られてました? 当時。

古川 私、無保険だったんですよ。

岸田 分かる。

古川 病気するなんて思ってないじゃないですか。一生健康だと思ってたんで、保険とか全然入ってなかったんですけど、たまたま夫が、私の分まで医療保険に入ってくれてて、

岸田 凄いやん。

古川 私、全然知らなかったんですけど。

岸田 出来る旦那さんやな。

古川 本当ですね。なのでそれで、少し保険料が出て、最初持ち出しはほとんどなかったと思います。

岸田 じゃあ治療費って、トータルでいくらぐらい、ホルモン治療とかも全部今まで含めると。

古川 初年度っていうんですかね。ちょっとホルモン治療、今5年間してるんですが、それは除く年なんですけど、主要な放射線治療までやって120万ぐらいだったと思いますね。60万かな。

岸田 あとプラス60万か。それら大体、保険で賄えました?

古川 はい、賄えました。すみません。違う、保険金が100万ちょっと降りたんです。治療のほうは限度額が使えたので、でもほぼイコールぐらいだった記憶があります。

岸田 妊孕性の温存が自腹だから、それでプラマイゼロぐらいにはなったのかな。本当、お金や保険大事ですからね。

古川 凄い、それは助かりましたね。

【辛い・克服】

岸田 いや、まじで旦那さんのファインプレーやと思います。そしてその次が、つらい克服といったところになります。古川さんの場合、どのタイミングが一番つらかったのか、そしてどういうふうに克服していったのかっていうと、どれが一番大変でした?

古川 一番しんどかったのは、間質性肺炎で1カ月入院で、仕事復帰出来ないって思ったときが、一番つらかった。その時、初めて乳がんで泣きましたね。それまで全然、あまり泣かなかったんです。大丈夫だなって、自分は乗り越えられるって思ったんですけど、自分の気持ちとか思いだけでは何とも出来ないことがあるなっていうのに、ぶち当たったときだったので。

岸田 ただその後、克服っていったところに関しては、タイミングが4月復帰は無理だけど、10月復帰していくっていうところで、なんとか乗り越えていった感じ?

古川 そうですね。気持ちを折り合いつけて、これは半年は自分に貰った休憩時間だと思うおうと。そういうことを言ってくださった周りの方がいらっしゃって、そうだよなと。人生長い中、ちょっとぐらい休憩時間と思おうと。その間に、あんまり普段読書とかしないんですけど、読書したりとか、ちょっと勉強してみたりとかしてました。

【後遺症】

岸田 そういった大変な時って、職場復帰っていったところが大変なタイミングであったというところですね。そして次、後遺症のことといったところをお伺いしていきたいなと思うのですが、これってどうです?部分摘出した胸だったりとか、手の先のことだったりとか。

古川 ホルモン治療ですね。

岸田 ホルモン治療のフラッシュバックじゃないわ、なんやったっけ。

古川 カーっとなるやつですよね。ホットフラッシュ。

岸田 そう。とか色々あると思うんですけど、どうです。後遺症は何があったりとかしますか。

古川 総じて、凄いきついのは無いんです。でも例えば手術だと、手術痕のところは、今でも抑えたりきつく蹴られたりとかすると痛いです。滅多に蹴られないですけど、娘とかが抱っこしてたら、ガーンとかってくるんで、その時は、イテテって。手術してない側と比べると、押されると痛いっていうのはあります。でもそれは、日常生活に全然支障ない程度です。あと私が一番心配してた、ケモの後のケモブレイン。集中出来なくなるとかいうこと言われる。

岸田 忘れっぽくなるとかね。ケモブレインって、抗がん剤治療によって、脳の働きが衰えるというか、そういうことかと思うんですけれども。確かにケモブレインは結構ね。

古川 それを凄い恐れてて、仕事に一番、影響出そうだなと思ったんですけれども、幸い全く自覚がないっていうんですかね。実際あるのかもしれないですけど、支障だと感じる程度の、私自身は全く感じてないので、そういう後遺症は。

岸田 じゃあ、さっきの指先のやつとかは?

古川 指先も全然大丈夫です。それも抗がん剤が終われば治っていきました。

岸田 じゃあ、そこのところは大丈夫か。ホットフラッシュはありますか?

古川 それが無いんですよ。これはラッキーなんですけど。ただ私、もともとめちゃくちゃ暑がりなんで、混じってるのかもしれないですが、私自身は特に感じないです。

【反省・失敗】

岸田 後遺症は比較的軽く済んでいるという古川さん。これ人それぞれですからね、こういったところは。そして次、反省、失敗に行こうかな、時間もちょっと有りそうなので。反省失敗といったところで、古川さん、あの時こうしておけば良かったなだったりだとか、早めにこの病院行っておけば良かったなとか、何でもいいんですけれども、この時こうしておけば良かったなというのありますか。

古川 私は結構頑張って色々患者会に行ったりとか、抗がん剤受けたくないから、受けなくて良いよって言ってもらえる病院行くぞって感じで、セカンドオピニオン受けに行ったりとか、積極的に情報を取りに行ってたので、その面では反省とか失敗とかはないかなと。それもあって、比較的良質な情報に触れられてたかなというのがあるので。そこまで反省は無いかなとは思ってます。

岸田 なんで反省が無いかというと、自分から積極的に患者会だったり、色んな所に行って、ちゃんと情報収集して、それに対して何も自分が後悔ないように選択されていったからということですかね。

古川 後悔が無いように、逆にしっかり情報を取っていこうというふうにしてました。

【医療者へ】

岸田 大事。そしてその後、医療者へという項目になるんですけれども。医療者の方たちがさまざま、本当に支えてくださったと思うんですけれども、医療者への感謝だったりとか、もう少しこれこうして欲しかったな、だったりとか、そういったものってあったりとかしますか。

古川 私やっぱり、母乳育児を実現してくださった、産科の看護師さんには凄い感謝しています。それを基本駄目っていうところを、乳腺外科の先生と調整してくださって、実現してくださったりとか、手術に支障がないように、頑張って母乳を止めるのをしてくださったり。退院後とかも定期的に通ってねって、母乳の状態、ちゃんと止まってるから見るからっていう形で、産科でちゃんと責任を持って、手術に支障ないようにするからっていうふうに、ガッツリ見てくださったので、そこには凄く感謝してます。

岸田 自分のやりたいことをどうやって実現するかっていうのを、一緒に考えてくれてやってくれたっていうのは、嬉しいだろうなっていうのは思いますし、こうして欲しいとかは特に無いんですね。

古川 そうですね。細かいこと言うと、あるかもしれないんですけど。やっぱり患者さんのためにっていう思いで、寄り添ってくださる看護師さんとか医師の方が多かったなって思ってます。

【Cancer gift】

岸田 この放送も医療従事者の方も見られていると思いますので、そういうふうに言ってもらえたら、凄くありがたいんだろうなっていうことは思います。そして次はキャンサーギフトといったところで、失うことも確かにいっぱいあるし、がんにならないほうが、もちろんいいに決まってるんですけれども、あえて得たもの、得たことというのを、キャンサーギフトとしてお伝えするとすれば、古川さんの場合、何でしょうか。

古川 本当にたくさんギフトをもらってるなって思ってて。この岸田さんとかの出会いとかも、もちろんそうです。人の出会いも凄く沢山あったので、今でも患者仲間との交流って続いてるのは、凄く刺激になっているので、一つ大きなギフトです。

古川 あと私自身、製薬企業に勤めてるっていうのもあるんですけども、患者さんの気持ちが分かるようになったっていうので、仕事にも違う向き合い方っていうんですかね。今までが駄目っていうわけじゃないんですけども、今、医薬品企業の広報の仕事。あと今の新しい仕事だと、疾患啓発活動とかもしてるんですね、仕事の中で。じゃあやっぱり、どういう情報を届けるのが良いと思うっていうような判断も、自分の経験をベースに考えられるので、仕事にも凄いプラスになってます。

岸田 患者側として考えることが出来るから、これだと傷つくな、だったりとかも分かるし、受け取り側のことが凄く分かるって感じですよね。僕も国立がん研究センターで広報の仕事してますけれども、こういう文言だと、患者さんはどうなのっていうふうなところを、しっかりちゃんと分かるようになりました。

古川 それはそうですよね、それは大きかったなと思います。

【夢】

岸田 そして次は夢といったところになるんですけれども、古川さんの今後の夢。夢って色々あると思うんですけども、その中でどういった方向に進んでいきたいとかありますか。

古川 私はこのがんになった経験を、人生全体でプラスに活かしていこうと思ってるので、仕事もそうですと。ずっとヘルスケア産業いたいなと思ってるんですけども、自分が患者さんになったっていう経験をしっかりプラスに活かしていこうと、どんな仕事でも、そういうふうには思ってます。

岸田 自分の経験をちゃんとしっかり仕事に還元して、それを色んな方たちにメリットになるようにしたいと。

古川 あとプライベートでも、患者支援活動とかにボランティアみたいな形で、携わらせていただくこともちょくちょくあるんですけども。そうした中で自分が少し早めにがんになったっていう経験が、次の新しい人にプラスになるというか、支援出来るということも結構多いので、プライベートでも自分のがん患者としての経験を活かしていきたいなと思います。

ペイシェントジャーニー】

岸田 次はペイシェントジャーニーになるんですけれども、その前にコメントを見ていきたいと思います。アオキさんからは、乳がんが確定すると、病院から頂くガイドラインが一番信頼出来ますと。先生も読まれています。他には何も読まなかったですっていうね。

岸田 確かに病院に行くと、そういうしっかりしたやつがありますもんね。そういったところだったりとか、それで乳腺外科の病院に行った時、探してみますだったりとか、乳がん当事者の方たちが、みんな明るくされていて意外でした。多分がんノートの他のやつも見られて言ってると思いますけど。少し希望が持てますということもおっしゃってくださっています。そして、彼女の入院に対する全てを受け入れるようにしてというふうな形で、もう全て受け止めていただいたら、それに越したものがないかなと。

古川 最大の支援です。

岸田 そう、最大の支援です。良いこと言う。そして参考になりましたというコメントをいただいております。ペイシェントジャーニーをお伺いしていこうと思います。ちょっと画面共有をさせていただきます。こちら、古川さんのさっきの闘病のところを、少しダイジェストに纏めたものになります。上に行けば行くほどハッピーで、下に行けば行くほどアンハッピーみたいな形で、29歳の時から今に至るまでの時系列になっております。

古川 私だけですかね、見えてないの。

岸田 ごめんなさい、確かに。Zoomの画面共有がちょっと上手くいってないみたいな気がする。これで見えますかね。

古川 見えました。

岸田 ごめんなさい、勝手に進めていっちゃいました。ありがとうございます。上に行けば行くほどハッピー、下に行けばアンハッピーっていったところで、29歳から37歳の時系列になっています。最初こちら結婚が決まっていって、お父さまにすい臓がんが、ということがあったと思います。そして結婚式を挙げて、お父さまの最後の姿に圧倒と。それは先ほどおっしゃっていただいた。

古川 最後まで生きるという姿を見せてくれましたね、最後の贈り物として。

岸田 そしてその後、妊娠が判明していくと言ったところですよね。その後、しこりを発見していってというところで、そこから大学病院へ移っていくと。そしてそこから、乳がんの告知を受けて治療方針を決定。なので告知を受けたりとか、治療方針決定していくっていう時は、間質性肺炎の時がめちゃくちゃつらかったってありますけど、この時は本当にプラマイゼロなんですね。

古川 比較的冷静で、フラットな気持ちで受け入れられたと思ってます、この辺り。

岸田 そして患者会に参加。色んな患者会に行っていたといったところ。その後にご出産されて、手術を受けていくと。妊孕性の温存し、薬物療法。抗がん剤治療をしていくなんですけれども。治療も、自分の中ではもうちょっとつらいものだと思ってたんですけど、なかなか結構。

古川 そんなにつらくなかったっていうんですか。逆にこの時には、予後も大丈夫だと。私、乗り越えられるっていうのは確信を持ってたので、もはや楽しもうというぐらいの気持ちでありました。

岸田 そして間質性肺炎になって、職場復帰が絶望的になって、ここがつらくて、その後ホルモン療法、抗射線治療。職場復帰、社内患者会の立ち上げ、転職をしていくというふうなところですね。こういった形でペイシェントジャーニー、凄くありましたけれども、何かこの中で言い足りてないなだったりだとか、補足しておきたいなってことありますでしょうか。

古川 治療を楽しむ気持ちでっていうようなことも申し上げたと思うんですけども、その時にはSNS、Instagramなんですけど、患者仲間と繋がりも出来ていってたので。そこでインスタのやりとりとかで、今まさに自分と同じように、治療中の患者さんとかとのつながりもできてて。そこで今日私、抗がん剤とか、頑張ってとか、皆なで応援しあうみたいなコミュニティも出来てたので、それもやっぱり楽しむというか、一緒に頑張ってる仲間がいたことが、そんな暗い気持ちじゃなく、治療を乗り越えられたっていうのがあったと思います。是非、仲間を見つけてください。

岸田 インスタで情報も収集される人とかも多いですもんね。

古川 今まさに治療中のコミュニティとかは、インスタとかでは。乳がんに限っては少なくとも、結構大きいんじゃないかなと思ってます。

岸田 ペイシェントジャーニー、このような形ありましたけれどもと言ったところで、一旦ここで古川さんのお話しを終了して、その後ちょっとだけ告知の時間に移らせていただきたいと思っています。まずこのがんノートを配信してくださって、サポートしてくださっている企業をご紹介していきたいと思います。アフラック様、IBM様、I・TONGUE様、いつもご支援ありがとうございます。また、見てくださっている方たちだったりとか、そのコメントっていったところがいつも励みになっておりますので、ありがとうございます。

岸田 そして、次回は9月の11日の日曜日、またこの時間に、急性リンパ性白血病の入江真依さんに来ていただいて、色々お話を聞いていきたいということを思っております。ありがとうございます。そしてこの後、ゲストへのメッセージ入力のお願いがあります。番組終了後、動画の概要欄だったりチャット欄にURLを貼らせていただきますので、そこに今日の感想だったりとかをいただければ、それを画面の色紙上にして、古川さんにお渡ししたいと思っておりますので、もし良かったらどんな感じだったか、感想を伺って書いていただければな、ということを思います。

今、闘病中のあなたへ】

岸田 そして最後の最後、こちらになります。今、闘病中のあなたへというコメントになります。この動画を見てくださっている方たちっていうのは、凄く患者さんも沢山いらしゃって、そして闘病中の方も本当に多くいらっしゃると思いますので、それを経験してきた古川さんから、少しメッセージをいただきたいなと思うのですが。古川さんからいただいているメッセージがこちらになります。こちら読んでいただいて、その意図を古川さん、おっしゃっていただけますでしょうか。

古川 『闘病中の時間は、人生で本当にまたとない、かけがえのない時間です。じっくり味わってください』というところなんですけれども。勿論、その人の状況によっては難しいところもあるかもしれないんですけれども、その経験はきっと誰かのパワー、私が父親からパワーを貰ったように、私も今その経験をもとに、今の仕事ですとかプライベートがプラスに生きているように、必ずその時間が次に来ていくものだと思うので、逆にしっかり味わって、進めていっていかれると良いんじゃないかなと思ってます。

岸田 さっきの古川さんも、間質性肺炎になって社会復帰が遅くなった時に、周りからも人生の夏休みじゃないけれども。

古川 人生の夏休みですね。その時は冬だったんですけど。人生のお正月休みじゃないですけど、お休みだと思って、焦る必要はないです。仕事ちょっと休む方もいらっしゃるかもしれないんですけども、必ず復帰出来ます。

岸田 そういった力強いコメントをいただきました。ありがとうございます。そしてコメントもいただいておりますので、ちょっと話させていただこうと思います。治療もそれぞれですねと。千差万別であって、乳がんは個人差が高いと思いますと。彼女の乳がんに私も寄り添ってあげたいですと。あっという間でしたというふうなコメントをいただいております。ありがとうございます。と、いった形で今日のがんノート、これにて終わっていきたいということを思っているんですけれども、あっという間の90分でしたけれども、古川さんどうでした。

古川 あっという間でした。

岸田 今めちゃくちゃカクカクせずにスマートに動いてるから、めっちゃよかった。

古川 良かったです。

岸田 緊張しました?

古川 そうですね。最初、始まる前ちょっとドキドキしましたけど。

岸田 話し始めたらね、そうですよね。

古川 楽しかったです。参考になれば本当に良いなとは思いますが。

岸田 いや、本当ね。もう刺激が必要な古川さんの。

古川 ちょっと私、若干ポジティブ過ぎるきらいがあるんですけれども、でも気持ちから病気と立ち向かっていけるといいのかなと思っています。

岸田 これにて、がんノートorizin終了していきたいということを思っております。それでは皆さん、また次回お会いいたしましょう。それではバイバイ。

※本ページは、経験者の体験談を扱っております。治療法や副作用などには個人差がございますので、医療情報に関しましては主治医や、かかりつけの病院へご相談、また科学的根拠に基づいたWebページや情報サイトを参照してください。
*がん経験談動画、及び音声データなどの無断転用、無断使用、商用利用をお断りしております。研究やその他でご利用になりたい場合は、お問い合わせまでご連絡をお願い致します。

関連するみんなの経験談