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インタビュアー:岸田 / ゲスト:村本

【発覚・告知】

村本 こんにちは。村本です。きょうはよろしくお願いします。

村本 私は食道がんの中でも、食道の入り口にできる頸部食道がんのサバイバーです。初発のときはステージⅡくらいと言われました。

村本 2009年4月に初めてがんになり、その後治療でいったんは消えたんですが再発し、再発手術から8年近くがたった現在は完治…ということになっている54歳のサバイバーです。

村本 私はもう声帯が無く、食道の一部、粘膜を震わせて声にしてます。

村本 声が出なくなってから特別な訓練を経て、こんなふうにしゃべっています。

岸田 皆さんに食道がん経験者のリアルな発声法とかをお話ししていただければなと思いますので、よろしくお願いいたします。早速がんの発覚から告知をお聞かせください。

村本 まず初発からお話をします。2009年の4月に食道がんと言われました。

村本 年が明けるか明けないかくらいから、喉を押されるような感じがして内科でも耳鼻科に行っても異常がないと言われ、暖かくなってきたくらいの頃に会社近くの病院で、消化器内科で内視鏡の検査をしました。

村本 検査が近づくにつれて、だんだん食べ物が飲み込みづらくなっていたのですが、内視鏡を入れられた瞬間に食道の入り口に腫瘍があると言われ内視鏡検査の苦しさもあって非常にショックでした。

村本 2週間後、検査結果が出て正式に食道がんと言われました。食道がんは治療ができる病院が限られているので、今お世話になっている病院に行き改めて一通り検査をしてがんの治療方針を決めていった次第です。

岸田 食道がんと宣告されたとき村本さんはどう思いましたか。

村本 小さい消化器内科に行く前から、喉を押されるような感じがあったり、変なげっぷが多くなったりして、自分でがん情報サービスのページを見てると食道がんに近いようなことが書いてありました。

村本 非常に不安を持って検査に臨み、結果がんと言われてしまったのでショックも大きく混乱しました。

岸田 大きな病院を紹介され、そこで治療を受けることになりますが、そこにはすぐに行けたのですか。

村本 10日から2週間ぐらいで行けたような気がしてます。

村本 言われたときに比べると、治療をする病院がまず決まったっていうことで、少し落ち着いてきた感じはありましたね。

岸田 セカンドオピニオンとか?

村本 食道がんの治療実績なんかもかなり多かった病院だったので、まずそこでいろいろ聞いてみようと思ったので、セカンドオピニオンは特に思い浮かばなかったです。

【治療】

岸田 告知後病院行って、その治療は当時どんな治療をしたんでしょうか。

村本 初発のときは放射線をやりました。私のがんというのは食道がんといっても頸部食道がんなんですね。

村本 食道がんっていうのは、普通は食道の真ん中にできることが多いそうです。

村本 ただ、私の場合は食道の入り口、声帯の真裏の所に5センチぐらいの大きさになっていました。

村本 普通の食道がん、食道の真ん中にできるがんの場合は食道の大部分を取り除き、胃をつり上げてつなげる手術をするんですが、その場合は食べることに大きな影響が出て1日に食事を何回かに分けてちょっとずつ食べなければいけない一方で声にはそんなに影響が出ない。

村本 私の場合は食道の入り口、声帯の真裏だったので手術となると、声帯も取らなくちゃいけないということで、取りあえずがんを小さくするために放射線治療をやりました。

村本 最初4週間連日放射線をかける一方で並行して週1回点滴で抗がん剤をやりましたが非常に体調が悪くなって抗がん剤は中止しています。

村本 4週間かけたら放射線が結構効いてきてるようだったので、さらに2週間かけられる限界まで放射線をかけようということで、その間は並行して抗がん剤を飲みながら合計で33日間放射線をかけました。

 

村本 健常者の方は向かって右側の図が喉の構造になります。喉の所で気管と食道に分かれていきます。

村本 私の場合は食道の入り口辺りが悪かったということです。気管の側や声帯のほうが悪かったりすると、喉頭がんになりますし、もう少し上のほうだと下咽頭がんということになります。

村本 2009年の夏の終わりくらいの検査で、がん細胞は消えましたということで、今後は3カ月に1回ぐらい検査していきましょうということになりました。

村本 2年近くたった2011年の初夏の頃、再び喉に染みるような感じがしてきたんです。

村本 再発までの間、非常に元気に暮らしていたんですが、ちょっと喉がおかしい感じになると再発の不安を感じていました。

村本 夏の定期検査を受けたら「同じ場所にがんが再発しているので、これは手術するしかない、手術すれば治る可能性はあるし、食道発声という方法を身に付ければ小さいけれど声が出るようになります」。そういうふうに先生から言われました。

村本 ショックっていうより、覚悟していたものが来ちゃったな、そんな気持ちでした。

岸田 どんな手術をしたのですか?

村本 私の場合、2段階の手術というか、食道の上の声帯の入り口、声帯の真裏が悪かったので、まず食道の上のほうを切除し小腸の一部を持ってきてつないでます。

村本 もう一つはいわゆる喉頭という部分を声帯含め取らないといけないので、そこを取り除き食べ物の通り道と呼吸の空気の通り道を完全に分ける形にして、呼吸は首の前側に気管の出口を作ってそこを通じ行っています。

村本 写真の右側が健常者の皆さんなんですが、私は左側のように食べ物の通り道と、呼吸の空気の通り道が完全に分かれています。

村本 呼吸は首の前側に穴が開いていて、それが気管の役割を果たしています。

村本 もう一つ、この左の図と私の体が違っているのは、左の図だと食道の入り口の所がちょっとすぼまっていると思うんですがもともと私はそこが悪かったので切除して小腸の一部を持ってきているので、そこがずんどうになっています。

村本 なので、手で首元を押さえないと喉がうまく震えず声が出ないので押さえてしゃべってます。

村本 頸部食道がんとか、下咽頭がんの人は声帯を取り除くと、こういう形のしゃべり方になります。

村本 実は私、再発したときの手術を2回やり直してるんです。1回12時間ぐらいの手術なんですが、最初に移植したその小腸、空腸が実は壊死していることが分かって、その場で緊急で同じ手術をやり直したんです。

村本 実は最初の手術のときは奇跡的に声帯が残っていたんですが、同じ手術をやり直してそのときに、結局喉頭全摘したということになります。

村本 移植すると血管とかもいろいろ縫合したり、かなり細かい手術が必要なんです。

村本 食道胃外科だけじゃなく腸、形成外科の先生も入って。

村本 原因は不明ですが結局最初に移植した空腸は壊死してしまって、緊急で同じ手術を二回することになりました。

岸田 今は経過観察で定期的に検査に行ってる感じですか。

村本 5年たてば一応治ったということにはなっているので、今は安心しながら検査だけは続けているという形です。

【家族】

岸田 がんになったときにご両親にはどう伝えましたか。

村本 割と事実をありのままに伝えました。驚いていましたね。

村本 初発のときは病院や相談して誰か知っている先生とかがいればという相談もしていたので、その点は非常に助かりました。

村本 再発のときも驚いてはいましたけど入院している間は父も母も結構頻繁に見舞いに来てくれました。

岸田 奥さまにどういうふうなタイミングで、どうお伝えしましたか。

村本 私は結婚が遅くて42で結婚して2年後にがんになりました。

村本 その2年後に再発をして、初発のときは泣きつくような感じでまず電話で伝えました。そういう時に泣きついてでも言える相手がいたということは、よかったかなと思ってます。

村本 主だった治療の節目にも立ち会ってくれたのはよかったと思ってます。

村本 再発のときは妻も立ち会ってくれ一緒に診察室に入った妻は涙ぐんでいました。

村本 ただ私の前で涙ぐんでいたのはその一度だけで、再発してからの入院中は一日も欠かさず見舞いに来てくれいろいろ世話になったので本当に感謝しています。

岸田 ご結婚されてから2年後だった時はお子さんはいたんですか。

村本 子どもはいませんでした。子どもは初発のときも再発のときもいなくて、妻と2人でした。

村本 ただ50歳になった直後に初めての子ども、息子が生まれまして今4歳です。それからさらにその3年後、娘が生まれまして、今1歳です。

岸田 がんになった後に子どもができた。抗がん剤されてるじゃないですか。妊よう性とか問題は?

村本 それは特に問題はなかったんですね。一応妻から妻の主治医にはそのことを伝えたりなんかしていますが、特に問題はないと言われて。

村本 ただ、私自身の治療に関して主治医に私からそのことは確認してなかったですね。

村本 まだ4歳なので、いろんな話を受け止める以前に理解する力がまだないので、自分のパパはなぜか手で喉を押さえて喋っている、というのは分かっていますが、自分はこういうふうに病気をしたんだよ、という話はもうちょっと物事が分かるようになってから伝えたいなと思ってます。

【仕事】

岸田 村本さんに結構聞きたいお仕事のこと。今どんなお仕事をされているのか、当時のどうやって休み、治療、復職したのか教えてください。

村本 私は40代から広い意味でずっと人事部門にいます。

村本 初発の44歳のときは人事総務部の人事課長だったんです。抗がん剤をやるときは休暇を取りましたが基本的には働きながら、会社を決まった時間に抜け出して放射線治療ということになりました。

村本 治療による休みをどういう扱いにするか、人事部である程度の制度とかが分かっていたので周囲の人事部内メンバーにも相談をしながら私用外出扱いで処理しようということになりました。

村本 ただ、人事の仕事には全国に出張して人事関係の打ち合わせをするというのがあったので、それは放射線治療を行う関係でできないので全部部長に代わってもらいました。

岸田 当時の上司、部長にはどのタイミングでどう伝えたんですか。

村本 包み隠さずその都度伝えました。

村本 内視鏡検査行って腫瘍があると言われた時、正式にがんと言われた時、その都度伝えていました。

村本 自分が課長の立場だったので他の部内の課長とか自分の直属のメンバー、それから部長の上、役員なんかにもその都度で伝えてました。

岸田 再発のときは?

村本 この年は東日本大震災の年だったんです。

村本 そのまさに直後の3月に私は人事総務部長になってて、部には20人ぐらいのメンバーがいました。

村本 再発が分かったときは課長、メンバー全員、私の上司だった担当役員、それから社長とかにも自分が伝えに行って状況を共有していました。

村本 今度はまとまった休みを取らないといけないので、いない間に仕事をどんどん進めてもらうように、担当役員と課長の皆さんにお願いをしたり、調整をしたりしていました。

村本 具体的な入院時期が直前になるまで分からなかったので、その辺りはタイムリーに職場に伝えながらやってました。

村本 結局9月下旬から11月の初旬までの43日間入院して、そのうちICUに26日いました。

村本 1退院してから年内は自宅療養をして、2012年の頭から会社に戻ろうということにしたんですが、そのとき一番、大きかったのは、声帯取っちゃったので声が出ないんです。

村本 出社しても廊下で知ってる人とすれ違ってあいさつの言葉も出なかったら、お互いに気まずい思いもするだろうと思って、社内外の関係するかなり幅広くの人に、年末に自分の現状と復帰に関することを、予めメールで知らせました。

村本 「声、出ません。当面は筆談かメールにしないといけないのでコミュニケーションの不便を掛けるかもしれないけれども」というような内容でした。

岸田 翌年1月から復帰できた。思い当たるエピソードはありますか。

村本 入院中が思った以上につらかったので、そこで出尽くした感じがあって大変だったり精神的に落ち込んだりっていうのはそんなにはなかったですね。

村本 本当に暖かい風土の会社なんで、会社に戻れたっていうことは恵まれたと思ってるんですね。年末にメール出したときも社内だけでも150通ぐらいメールの返信が来たんです。

村本 今まで何度も読み返して貴重な財産になっています。

村本 実際1月頭に会社に出たらみんな温かく迎えてくれたり駆け寄ってきてくれたりして、いい会社だなって思いました。

岸田 それからは仕事を普通にできたんですか。

村本 最初は筆談でボードに書きながらやってました。

村本 3月の異動で部下が私の立場に移動して多少複雑な思いもありましたけれど、私に無理をさせない温かい配慮なのかなと受け止めながらやってました。

村本 私の異動は横滑り人事で、側面的に人事の仕事をサポートするような仕事になりました。

村本 今はいわゆる専門職的な立場に変わって、もう一回人事の仕事に携わったりしています。

岸田 お仕事で声が出るようになったのはどのタイミングでしたか?

村本 発声教室には退院直後から通い始めて、2014年の春に卒業しました。

村本 その途中から少しずつ話し声が出るようになり、話が何となくできるようになり、徐々に少しずつできるようにレベルは上がってきてると思います。

村本 食道発声教室に行くと同じ境遇の仲間がいるので安心できるなというところもあり、それで一日一日積み重ねてきて今のように話せるようになった、という感じです。

【お金・保険】

岸田 次にお金、保険のこと。

村本 保険はそれなりには入ってました。ただ初発のときは入院がなかったので、そのとき適用されなくてそのときは殆ど保険ではカバーされなかったんじゃないかなと思います。

村本 再発のときはまとまって入院したのでかなり保険でもカバーされましたし、あとはあらかじめ高額療養費制度限度額の適用認定証を勤務先の健保組合でもらってそれ出したりしてやってましたね。

村本 入院の時は個室とかにも入ったりもしたのと、放射線治療をやると自己負担が1日3000円くらいだったと思うので、200万円近くぐらいかかったかもしれないです。

村本 再発のときは保険で賄えた部分がかなり多かったですけど、初発のときは自己負担、持ち出しが多かったような気がします。

村本 あとは私の場合、手術で高度障害っていう扱いなんです。だから生命保険は死亡と同じ形で出る。

村本 高度障害になると死亡保険金がもう代わりに出ちゃうんですね。

村本 それで終わりっていうことだと思うんですけどね。

村本 会社辞めた同期が独立してファイナンシャルプランナーみたいなことやってるので何種類か入ってましたんで焼け太りみたいなもんです。

【つらかったこと】

岸田 肉体的、精神的につらかったことをお伺いできますか。

村本 何よりもつらかったのは入院中のICUでの生活。

村本 本当に体調も安定せず、暑いと思ったら急に寒くなったり、あるいは声帯が残っても呼吸が苦しくて、穴から挿管されたりして結局手術もやり直すみたいなことになったりして、もうちょっとでICUから出られると思っていたのに、また振り出しからみたいなこともあって悪い夢を見たり。

村本 天井模様が変なふうに見えたり、あるいは壁の酸素の配管の音が戦場の遠くのほうで砲弾が飛び交ってる音に聞こえたりそんな混乱もありました。

村本 私は普段、夜は大抵ゆっくり眠れるほうなんですけど、入院中は眠れなかったですし。

村本 行きつけの歯医者さんで入院の前と後で歯を診てもらったら、入院後には「歯がだいぶすり減ってます」って言われました。

村本 多分、入院中に、知らない間にグッと噛みしめたりしてたんだと思うんですけどね。

村本 あとは、つらいというよりは体の構造が変わったっていうことで、先ほども申し上げたように、つらいっていうよりも不便にはなりました。だんだん慣れてはきますけれど。

【後遺症】

岸田 今ずっと食道発声法で話をしていただいてますけれども後遺症については、いかがですか。

村本 そうですね。納得して受けた手術でこのような体の構造になったのでやむを得ないかなと思ってます。

村本 喉の辺り、それからリンパ節の郭清手術をしているので、首から肩にかけての胸裂、突っ張りがあったりして、言ってみれば洋服をつるすハンガーを肩に埋め込められてて、相撲の喉輪を食らってるような感じ。

村本 3年経って徐々には慣れてはきました。

岸田 いきなり突っ張るんですか。それとも常に?

村本 退院してからは常にそういう感じだし、この体は死ぬまでなので、こういう状態も死ぬまでなのかもしれないと思いましたけれど、でもそれは慣れながら一生付き合っていくしかないかなと思います。

村本 あとは首に穴が開いてるんで、さっき言ったように水が入ると溺れる、あるいは鼻水もかめない、すすれない、においがあんまり分からない。

村本 強烈に飛び込んでくるにおいは、分かりますけど。吸う息と共に鼻で感じる香りみたいなのは、鼻で息をしてない関係で、分からないですね。

岸田 食道発声法は最初からスムーズにできましたか。

村本 最初は結構苦労して、「あ」っていう1音を出すことから始まるんですけど、最初の1カ月は何にも声が出ませんでした。

村本 ただ、どうせ不器用だし手術も大変だったから時間はかかるだろうけれど、そこにいられることが本当にうれしかったんで、あまりそれは、駄目だとかは思わなかったですね。

村本 少しずつ出るようになってきて4、5カ月ぐらいたった頃から、急に何か少しずついろんな単語が急にしゃべれるようになってきて、そこから徐々にっていう感じです。

【医療従事者への感謝・要望】

岸田 医療従事者への感謝、要望。いろんな人に支えてもらったと思うんですけれども、そのときの感謝或いはこのときにこうしてほしかったなっていうのはありますか。

村本 何よりも命を救っていただいたということに心から感謝しています。

村本 ICUでの入院中、日替わりで担当してくれた看護師さんにも本当に感謝をしていて、涙が出るような毎日で実際に涙した日もありました。

村本 ただ、あえて要望っていうことで一つだけ申し上げると、連日いろんな看護師さんにお世話になる中で、人間は勝手なもんですから、一人一人違いがあるな、なんていうことも分かるんです。

村本 だから一つだけ申し上げるとしたら、新人の方でも、そうでない方でも、たとえ自信がないとしても、自信がないようには絶対、見せないでほしいなと思います。

村本 自信がないようにされるとこっちまで不安になってきて、きょうはこの看護師さんでよかったな。きょうはこの看護師さんだからどうだろう、なんて思ったりしてしまう。

村本 逆にうれしかったことは本当につらい状況の中で背中をさすってくれたり、頭を横になったまま洗ってくれたりした人。

村本 本当にこっちは生きているなって実感したんです。

村本 まさに手当てで、触っていただける、手を当てていただけるっていうことに生きているんだなと、励まされたことをよく覚えています。

【キャンサーギフト】

岸田 がんになって失うこともいっぱいあったかと思いますけれども、得たもの、得たこと、キャンサーギフトはありますか。

村本 二つと「ついで」があると思っていて、一つは、一日一日の大切さとか、生きている素晴らしさを実感できたことで、日々過ぎていく一日一日っていうのはごく当然のことかもしれないですけれど、がんを経験する前、特に手術を経験する前には、そういう当たり前のことに気が付いていなかったので、そういう大切さを気が付かせてくれたことは大きかったなと思っています。

村本 それからもう一つは、同じようにいろいろながんを経験したさまざまな人たち、岸田さんも含めて仲間の皆さんに会えたこと。

村本 仲間の皆さんに出会えたことで本当にいろいろな勇気とか希望をあるいはエネルギーをもらったり、もしかすると交換できたり、そういうこともキャンサーギフトかなと思ってます。

村本 ついでに言えば、命を。みんなが会えたおかげで50歳になってから、実はがんをやったときはせめて50歳まで生きたいな、なんて思ったりもしていたんですが、50歳になってから2人の子どもに恵まれました。

村本 今、上が4歳、下が1歳になっています。これもキャンサーギフトそのものではないですけど、生きていたからこそなのかなと受け止めて、感謝しています。

【夢】

岸田 生きていたから家族が増えて、そして今、円満な家庭を築いているということですね。ありがとうございます。次、村本さんの夢について。

村本 漠然としながらいつも思っているのは、私は多様な人たちが率直に思いを語り合い、安心感の中で新しい挑戦とか創造が次々生まれる会社、ひいては同じようにそういう社会になってほしいなって思ってます。

村本 そういうところには少しでも貢献すべく、自分はそういう思いを交換できるような場を会社や自分の身の周りでつくっていきたいなと思っています。

村本 今、取り組んでいるのは、社会に会社の中で同じようにがんを経験した人たちのコミュニティーを立ち上げたいと思っていて、近々立ち上げる予定なんです。

村本 他の企業でもそういうところがあると思いますので、まずは社内で、ゆくゆくはそういう他の企業とも交流しながら、そういう場づくりをしていければいいなと思ってます。

【今闘病中のあなたへ】

岸田 最後、今闘病中のあなたへ。

村本 一言と言われつつ、三つ書いてしまいました。

村本 一つは自分の可能性を信じるということ。どんな人にも自分が気付いている以上の可能性がその人の中にはあるんだと思っています。今は気付いていなくてもそういう可能性を信じてやっていくことが本当に大事だと思います。

村本 二つ目は自分の弱さを受け入れるということ。一つ目を言いましたけど、とはいえ人間はいつもポジティブだったり、前向きであったりする必要もないと思います。悲しいときは悲しい、つらいときはつらいと言えばいいし、そういう自分を駄目だと思うことなく受け入れていくことが大切だと思います。

村本 三つ目は人とのつながりを大切に、自分の可能性を引き出すにせよ、自分の弱さを受け入れるにせよ、人とつながっていれば、いろいろな応援や勇気や希望、そうしたものがもらえるんだと思うので、決して1人で抱え込まずに、人とのつながりを大切にしていければいいと思います。

村本 いろいろな仲間もいるので、ぜひ皆さん一緒に、いろいろな勇気や希望を交換し合って、これからもやっていきましょう。以上です。

岸田 自分の可能性を信じる。そして可能性を信じるだけじゃなくて自分の弱さも受け入れて、そして人とのつながりを大切にする。

岸田 こういうふうに生きていきたいなと、自分自身も思ったりとかします。

岸田 今日は初発と再発で二度の大きな手術を経験されて、そしてその後は食道発声法を取得され、今こうやってインタビューに答えるまでになられた村本さんでした。ありがとうございました。

村本 こちらこそ、ありがとうございました。

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