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インタビュアー:岸田 / ゲスト:松田

29歳・会社員・沖縄在住。骨肉腫を経験した松田貴一さんのプロフィール

岸田  それでは、がんノートmini、スタートしていきたいと思います。きょうのゲストは松田さんです。松田さん、よろしくお願いいたしします。

松田  よろしくお願いします。


岸田  よろしくお願いいたします。早速なんですけれども、松田さんのプロフィール、こちらになります。松田貴一さん、沖縄のご出身で、今も沖縄にいらっしゃるということで、お仕事は会社員ということです。趣味はスポーツ観戦やギター、カラオケとあるんですけれども、スポーツ観戦、特に何を見られたりするんですか。

松田  バスケットと野球を見ますね。

岸田  バスケと野球。バスケは、沖縄にもBリーグありますもんね。

松田  そうですね、琉球ゴールデンキングスっていうチームが。昨日も、現地で見にいきました。

岸田  そうなんや、すご。ちなみに野球は?

松田  野球は国内、国外も含めて、全部見てる感じです。結構、野球おたく。

岸田  国内、国外、全部見てるという、すごいな。そして、ギターやカラオケもご趣味ということで。がんの種類は骨肉種という、がんになります。これ後でも説明、出てくると思いますけど、骨肉種、骨にできる肉種という、がんだと思うんですけれども。どこにできたんですか、これは。

松田  左足の膝辺りです。

岸田  左足の膝に骨肉種ができて、ステージがはてなってあるんですけれども、これは告知年齢が14歳だったりだとか、そういったところも関係するんですかね。

松田  そうですね、親にも聞いてみたんですが、ちょっと分からなかったので、今回、はてなとさせていただきます、すいません。

岸田  了解です。そして、今のご年齢は29歳ということで、当時の治療は手術や薬物療法をされていたという形になります。

違和感から始まった骨肉腫との闘い。抗がん剤・人工関節手術・引きこもりを経て歩んだ道

岸田 それでは早速、次、松田さんのペイシェントジャーニー、お伺いしていきたいなということ、思います。こちらですね。松田さんのペイシェントジャーニー、上にいけばいくほどハッピー、そして下にいけばいくほどアンハッピーみたいな形の、当時の14歳から今に至るまでの紆余曲折のグラフになってまいります。ではこちらの中で、まず初めにどういったものがあったのか。本当、山あり谷あり、結構な、松田さん、してるんですけれども。まず最初はこちら、卒業旅行が楽しみということで。当時、中学生だったんですか。

松田  そうですね、中学校2年生でしたね。

岸田  中2で修学旅行が楽しみといった中で、当時、修学旅行、どこ行く予定だったんですか。

松田  九州の福岡とか熊本辺りですね、阿蘇山とか、そんな感じの旅行でした。

岸田  それは楽しみやな。そこから、ちょっと下がっていくんですよね、何かと。左膝の痛み、そこから病院へということになってます。これ赤色がポジティブで、青色がネガティブな事象なんですけど、白色はどちらでもないというコメントのところなんですけど、このときの左膝の痛みってどれぐらいだったんですか。そんなに痛く? そんなに? 違和感あるぐらい?

松田  そのときは、あんまりそこまで痛くなくて。でもあまり感じたことのない痛みだなっていう感じで、結構ずきずき、ちょっといくような感じだったんですけど。

岸田  病院へ行ったところ、当時の病院は何という診断だったんでしょうか。

松田  ただの痛みっていうとあれなんですけど、安静にしとけば全然治るから大丈夫だよみたいなこと言われて。でも、体育はしないでねみたいな感じで。

岸田  そこから、ちょっとだけ上がっていきます。バスケ愛、練習参加。体育、見とかなあかんのに、バスケ愛が。これどういうことですか、バスケ愛っていうのは。

松田  当時の中学校2年生のときのクラスの担任がバスケット部の顧問で、授業のときに『スラムダンク』はめちゃくちゃ面白いみたいなことをずっと言ってて、ちょっと見てみるかっていうのでアニメを見始めたら、どはまりして。

岸田  ハマりして。どのシーンが一番好きですか。

松田  今は海南対陵南の、仙道と牧が一対一で戦うときに、仙道が牧っていう、めちゃくちゃ神奈川県内の高校でトップの人がいるんですけど、その牧を仙道がワンプレイで同じ地位に立ったっていうところのプレイがあるんですけど、そこがめちゃくちゃかっこいいです。

岸田  すごい。これ『スラムダンク』を分かる人には分かるけど、分からない人には何、言ってんねんみたいなね。ただ、ゆくゆく教科書に載る『スラムダンク』と勝手に自称しております。いろんなこと教えてくれるからね、『スラムダンク』。そんな中でアニメを見て、どはまりして、練習に参加をしていきます。そんな中で、ちょっと下がっていくんですよね。練習中、膝に違和感とあります。左膝の痛みが再発したとか、そういう感じですか。

松田  そうですね。当時バスケ部に入部したかったんですけど、中学校3年に上がる前だったので、この顧問の先生に、練習に参加してみて付いてこれそうだったら入部したらということで、まず外周6キロ、往復6キロぐらいのところを走ったんですけど。走ったらめちゃくちゃ左膝が痛くて、何とか気合で走り切ったんですけど。これバスケしてる場合じゃないっていう感じで、入部するのはちょっと諦めました。

岸田  それぐらい膝が痛かったんですね。そんな中、どんどん悪化していき、そして病院を二つ巡るというところで。これ最初の病院と一緒のところも行ったんですか、もう一度。

松田  いや別のところに行って、クリニック行って、そこでも診断ができなかったので、総合病院に行ってっていう感じですね。

岸田  この二つの病院とかでは、どういう診断が下ったんですか、このときは。

松田  確か1個目のところは、そこでは分からないっていうふうに言われて。総合病院で、MRIの受けれるところで行ってみてくださいって、確か言われて、総合病院に行ったっていう感じです。

岸田  じゃあ分からないっていうことで、ちょっと大きな病院に行ってくれみたいな形でゆくゆく行ったら、そしたら大学病院で入院開始、いきなり入院となるんですけど。ここで精密な検査したって感じですかね、大学病院で。

松田  その一歩手前の総合病院でMRIして、これちょっとやばいかもしれないっていうのを言われたみたいで、親が。紹介状を書いてもらって、大学病院のほうでMRI検査したら、1カ月間ぐらいちょっと入院しようねみたいな感じで言われましたね。

岸田  当時は、じゃあなんか悪いものがあるかもしれないぐらいのニュアンス?

松田  そうですね、本当それぐらいの、割とソフトな軽い感じというか、軽い感じじゃないですけどみたいな感じで言われたのを覚えてます。

岸田  じゃあ、そこから生検だったりとかCVポートを入れて、そこから薬物療法が、抗がん剤の治療が入っているわけですけれども。これのときって、抗がん剤というの分からず治療してたってこと? じゃあ当時は。

松田  そうなんですよ、実は。おばか過ぎて、当時は、自分が何されてるのかも分からないんですけど、これは気分が悪くなる薬だよみたいなこと言われて、耐えないといけないのかっていうのと。小児病棟で闘病生活してたんですけど、周りにも同じような抗がん剤使ってる子とかもいたので、これが当たり前なんだみたいな感じで。今は本当に、おばかだなと思うんですけど。

岸田  取りあえず、なんか治療しなみたいな形で治療していったって感じなんですね。

松田  治療しないと死ぬよみたいな感じで。

岸田  そんな、結構大変な病気やのに?

松田  そうなんですよ。

岸田  当時の薬物療法で、これ、苦しかったなとかあります?

松田  赤い色の抗がん剤があって、それがめちゃくちゃ、やるとつらくて、一日中、吐きまくってた記憶があって。あとは当たり前というかあれなんですけど、副作用で髪の毛が抜けたりとかっていうのもあるので気分が落ちたりとか、そういうのは結構つらかったですね、ご飯が食べれないとか。

岸田  あったんですね。それをやらなきゃ死んじゃうみたいなこと言われたら、やるしかないですもんね。そこの中で、まだ下がっていくんですが、人工関節置換手術。あれ? 薬物療法がうまくいったってことです? また違う?

松田  一応うまくいって、この時点で80パーセント、70パーセントぐらいは、多分完了してたんですかね。それで、いったん沖縄から都内の、がん研有明病院っていうところに行って。

岸田  東京に行ったんや。

松田  そうですね、人工関節の置換手術を行いましたね。

岸田  人工関節の置換手術って、そんなすぐできるもんなんですか。 1日、2日とか、数週間入院してた?

松田  入院自体も、1カ月ぐらいは東京で入院してましたね、1カ月以上かな。

岸田  これ、うまくいったんですかね。

松田  はい、そのときの主治医の先生には近年まれに見る大成功の手術だったって言われたみたいで。

岸田  すごいね。

松田  幸運の持ち主だよって、親は結構、言われたっていうふうには伺ってます。

岸田  そうなんや、よかった。そして、リハビリを開始していくというふうなところで。リハビリ、どんなことしたんですか、松田さん、歩けるようになるために?

松田  最初は、まず足を曲げることすらできなかったので、左足の付け根の部分から、結構、下の部分までがっつり切って人工関節にしたので、曲げることができなかったので曲げたりとか。あとは動くようになったときに足首が固まってるので、それをやわらげる運動をしたりして、その後に歩行の練習っていう感じで、徐々にステップアップしてやったっていう感じです。

岸田  そのときに1カ月ぐらいは東京で入院してて、沖縄に戻ってきてからもリハビリやって?

松田  そうですね。東京にいるときは本当に足首、動かしたり、膝をちょっと曲げる練習だけして。沖縄に帰って、また後半の薬物療法が始まったタイミングで、本格的な歩行の練習とかを行いました。

岸田  今は松田さん、結構、歩ける感じなんですか。

松田  ばりばり歩いてますね。

岸田  よかった。

松田  多分、普通の人と遜色なく歩いてる感じだった。

岸田  よかった。じゃあそっか、そのリハビリを乗り越えたからだと思いますけれども。そんな中、下がっていくのは、先ほど言ってた薬物療法、もう一回やった。前半と同じ薬物療法をやったんですか。

松田  同じやつですね。これ下がってる理由としては、手術も成功して、それからリハビリだけやっていくのかなと思ったら、結局100パーセント悪いがんをなくすために、また後半も3、4カ月ぐらいやらないといけないみたいなこと言われて。でも最初、戻ってきて、またやるってなったときに、またやるのかっていうので逃げ出したい気持ちではあったんですけど。でも、やらないと退院できないって言われたのでやったみたいな感じです。

岸田  やるしかないということで、やったって。ありがとうございます。そんな中、上がっていきます、それは、退院できたときは、うれしかった?

松田  人生でもトップ3ぐらいに入るぐらいのうれしさだったの、今でも覚えてますね。退院する前も1カ月に1回ぐらい、一時退院っていうのあったんですけど、それだけでも、一時退院でも久々に外に出るので、外も空気ってこんなにおいしいんだとか、澄んだ空気なんだっていうのは本当にびっくりしましたね、最初、薬物療法をやって一時退院したとき。だから外に行って自由に行動できるだけでも幸せなんだなっていうのは、14歳、15歳ながらに記憶してますね。

岸田  14歳、15歳で、そこの素晴らしさが分かるってね。そんな、ここからジェットコースターのように下がっていくんですけど。何かというと、学校生活の再開はポジティブな感情という形ですかね。

松田  そうですね。

岸田  学校生活、なじめました?

松田  結局、戻ったのが中3の1月の終わりで、ほぼ学校がないぐらいの時期に戻ったので、あまり実は登校してないんですね。

岸田  そっか。

松田  松葉づえ突いて、もちろん抗がん剤も直近までやってたので、スキンヘッドみたいな感じで行ってたので、多分、浮いてはいたんですけど。それ以上に学校に戻りたいっていう気持ちが強かったので、学校生活できるだけで、めちゃくちゃうれしかったですよ、本当に。

岸田  あとは卒業するだけですもんね、そうなると。そこから骨肉腫の告知、ここで告知がくるんですか、だいぶ治療、終わってというふうな形ですけど。ここで告知、どういうことです?

松田  中学校、卒業して、高校に入学して、その後に、1年後の5月ぐらいに定期診断に行ったときに主治医から、実は松田くんは骨肉腫っていう、がんの一種なんだよっていうの告知されて。そのときは、ただ驚きでびっくりだったんですけど。親から言われたのは、当時の14歳の僕に、がんだっていうことは親としては言えなかったっていうふうになって、つらかったっていうのを言ってたので、ちょっと気持ちをくんで。

岸田  このとき、プラマイゼロのところに告知ってありますけど、当時、告知を受けた心境としては、松田さん、どうだったんでしょう。

松田  まさか自分が、がんになるなんて思ってなかったのと。あと、完治した後の告知だったんで不思議な感じでしたね、すごいふわふわした感じというか。え? 自分、がんだったの?みたいな感じと。しかも、気づいてない自分に、ちょっと笑いが出ましたね。おやじにも笑われましたね、おまえは本当に鈍感だなみたいな言われたのを覚えてます。

岸田  治療を終わってからの告知って複雑ですよね、きっと。そしてそんな中、下がっていきます、それが高校の退学。高校に進学して、そして高校の退学。これはどのタイミングで、どういうふうな経過で退学したんでしょう。

退院後に訪れた試練。「死にたい」と叫んだ夜から上京・大学進学・結婚へ

松田  中学校卒業して無事に高校に入ることはできたんですけど、結局、ずっと松葉づえを突いて生活してて、体育もできないような感じだったんですけど、周りと比較するようになっちゃったんですね。周りは楽しく高校デビューしてるのに、自分は松葉づえ、いまだに突いて、母親に車で迎えにきてもらってとか、なかなか遊びにも行けず、あんまり高校生活、理想としていたものとはちょっとかけ離れていて。そこがちょっと自分の中で苦しくなって、退学するような感じになっちゃいました。

岸田  そっか、周りは元気にきゃっきゃやってる中ね。このときは体育はできずですよね、もちろん。

松田  そうですね、基本的には人工関節なんで運動は禁止というか、自分でもできないなっていうのもあるので、走ったりもできないので。

岸田  それで退学をしていき、そして一番下がっていくところ、それが引きこもりになる。これは退学して、家で引きこもってたってこと?

松田  そうですね。6月ぐらいから学校、行かなくなって、夏に退学したんですけど。8月から10月ぐらいの3カ月間は家でひたすら引きこもって。夜になったら母親に、死にたい、こんな自分は嫌だっていうのを毎日のように嘆いて。これが多分つらかったと思います、本当に。自殺してやるとかまで言ってましたね。

岸田  そこまで?

松田  引きこもりで。

岸田  これ、どうやって引きこもりから脱出していくんですか、ここから。

松田  性格がちょっと飽き症なところがあって、引きこもり生活に3カ月ぐらいで飽きちゃったんですね、確か、てあって。とはいえ、地元の沖縄で楽しく生活するっていうのも見えなかったので、自分のこと誰も知らないところに行きたいって思って、東京の入院してたときの生活のこと思い出して、東京、楽しいところにもちょっと遊びに行きたいなっていうので、東京、行きたいっていう気持ちがあって、その次の16歳の上京っていうのにつながる。

岸田  すごいな、この上げ下げが。引きこもって、ずっといたら、上京したいなと思って上京するっていう。当時のこと、親御さんと話すこととかあります? 引きこもりのときとか、上京したときとか。

松田  覚えてますね、引きこもってたときは母親もつらそうで。深夜2時から、僕、当時住んでたの那覇市っていうところなんですけど、隣の浦添市っていうところにある、人がいないところ、知らない人のところに行って、公園に行って死にたいとかって、夜からキャッチボール、やりたいっていうのに付き合ってもらったりしてたので、母は相当しんどかったと思いますね。

岸田  わざわざ地元じゃなくて、ちょっと隣の市とかに行って、そこで?

松田  同級生とかに会わないように一緒に行きました。ていうのがあった矢先に定期診断に、大学付属病院に行ったときに母親が、今、死にたいばっかり言って大変なんですっていうふうに相談したときに言われた言葉が、僕の中でもすごい感銘を受けたとか、あれなんですけど。そんなもん、歌舞伎町に放り出したらええねんみたいなことを言われて、主治医の方から。

岸田  主治医に?

松田  はい、言われて。その方の娘さんとかも外国で若くして過ごしてる感じなんですけど、要するに多分、修羅場というかそういう環境にいたら、絶対、自分で生き抜く力が身に付くからっていうので、母親、過保護過ぎるから、僕のことを歌舞伎町にでも放り出したらいいよっていうので、母親も吹っ切れて上京することを認めてくれたっていう流れです。

岸田  そうなんや、そういうこともあって。その主治医にはどうなん? 今となっては感謝してるのか、何、言ってんねんみたいな感じなのかっていうと。

松田  感謝しかないですね、本当に。会いたいですね、そこから会えてはいないんですけど。

岸田  そうなんや。じゃあ無事、上京してといったところで、そこからパソコンの資格取得、そして高卒認定の資格合格ということになりますけれども、こちらどういうことですか。資格取得していったん?

松田  そうですね。というのも上京したときに、2週間ぐらい母親の知人の家で過ごしてたんですけど。ハローワークに行って中卒で仕事、見つけようと思ったんですけど、そのときに大田区の職員の方に言われたのが、最低限、高卒、卒業して何か資格、手に職があったら全然働き口があるから、まずは地元帰って高校を卒業して何か資格取ってきてくださいみたいなことを言われて。そこでモチベーションが一気に上がって、それ達成しようっていうので、また沖縄に戻ってパソコン関係の資格と高卒認定の資格を受けて合格したっていう流れです。

岸田  ということは上京してからの、ここのパソコン資格と高卒認定は沖縄、帰ってからっていうことですね。

松田  そうですね。

岸田  上京したところにも意味があったっていうことね。

松田  そうですね。

岸田  そして、そこから上がっていくんですよね。予備校の生活、大学の進学とありますけれども、そこから大学に進学していったんですか、松田さん。

松田  そうですね、高卒認定の資格もちょっと自分では勉強できないなっていうことで、そのための予備校が沖縄県内にも。今はないんですけど。そこに半年間通っていく中で、もともとは高卒認定の資格、取ったら県内の専門学校に行こうかなとは思ってたんですけど。予備校で大学に行こうと希望する人が結構多くて、そこに触発されて大学、行ってみるかということで大学受験のための勉強を始めたっていう流れで。さらに予備校で福岡に行って1年間、浪人したりとかっていうのがあって、その後、都内の大学に進学っていう流れです。

岸田  そうなんや。それで大学まで行って、そしてようやくの都内?

松田  はい。

岸田  都内の大学生活どうでした?

松田  もっとエンジョイしとけばよかったなと思います。エンジョイはしたんですけど、大学デビュー、失敗しちゃって。

岸田  大学デビュー失敗した?

松田  女の子にめちゃくちゃ声掛けまくって、逆に学部で目、付けられるじゃないですけど、そういうのもあったりして、そこはそこでいいんですけど。もともと僕、音楽がめちゃくちゃ好き。

岸田  趣味、ギターっていうのも書いてますもんね。

松田  中学生ぐらいからギターも習ってやってて。ていうのがあって、上京したらバンド、やりたいなっていうのが夢としてあって、ずっとバンド生活っていうか、バンドを。

岸田  やってたんや。

松田  社会人になってもやってましたね。

岸田  何1でライブ?

松田  月1ぐらいでライブっていうのを。

岸田  月1でライブ? すご。

松田  そこが充実してました。

岸田  すごい。じゃあそこを、大学デビューにちょっと失敗しつつも、バンド漬けでやっていった中での、また下がっていく。何かというと就職、社会の荒波にのまれちゃった感じですかね、松田さん。

松田  そうですね。就職なんですけど、ベンチャー企業に就職しました、IT系の。

岸田  松田さん、このとき、よく学生の頃にがんになった人が就職するときに、がんのことを言うか言わないか問題って、結構よく聞くんですけど。松田さんの場合、どうしました?

松田  僕は伝えてましたね。

岸田  伝えてたんや。

松田  逆にそこを強みとして自己PRに、逆に利用してました、使ってました。

岸田  逆にそれを乗り越えてきたみたいな、そういう自己PR。そして就職して、これ、マイナス、なってるのは、結構、社会人、大変やったからっていう認識でいいですかね。

松田  そうですね。営業支援の会社に入ったんですけど、終電近くまで、いつも仕事してて。逆に終電があるから帰りますっていうのが決めぜりふで、上司にっていうのがあったりとか。アポ、きょう5件取れるまで、ひたすら電話かけるとかいうのをやったりとか、あの営業やってたので。

岸田  それ、まだ2016年っていうことは、まだ5年ぐらい前のお話ですもんね。

松田  そうですね、全然最近の話なんですけど。

岸田  そういう荒波にもまれ、そして帰郷、沖縄に戻ってきたんですね。

松田  そうですね。仕事も大変だったのもあったんですけど、25歳過ぎて都内、いると二度と沖縄に帰れないなっていうことを感じて。沖縄好きなんで、戻りたいなっていうので帰ってきました。

岸田  いいですね。そして帰郷していってからのご結婚と第1子誕生ということで、おめでとうございます。

松田  ありがとうございます。

岸田  おめでとうございます、このご結婚や第1子の誕生といったところがあるんですけれども。この第1子の誕生ということで、よく抗がん剤治療をしていったら、妊よう性っていう子どもを作る能力が低下するとか、そういった話とかってなかったんですか、当時。

松田  直接、僕にはなかったんですけど、母親がそれを聞いてて。

岸田  そうなんや。

松田  はい。一般的な人よりはその機能が低下するから、もしかしたら子どもが授かれない場合はあるっていうふうには言われてたんですけど。当時あんまり、そこまで正直ぴんときてなかったんですけど。

岸田  けど、この第1子の誕生は自然妊娠?

松田  そうですね。

岸田  自然、なんていうんや。

松田  自然的な感じですね。

岸田  そうなんや、すてき。よかった、それは。ありがとうございます。今、奥さまとお子さまと仲良く過ごされているということですよね。

松田  そうですね。

「20代中盤になって、やっと自分を受け入れられた」——骨肉腫経験者が語る自己受容への道のり

岸田  ありがとうございます。そんな松田さんのゲストエクストラになります。大変だったこと、困ったことっていうのは自分を受け入れること、理想の高校生活、普通の生活も含めですけれども、送ることができないということで当時困ったとありますけれども、受け入れること難しかったですか。

松田  そうですね、結局、人と比較しちゃって。自分はここが劣ってるとか、違うっていうのをやっちゃってたので。そこで、じゃあ自分は駄目だとか、受け入れることができなかったので、そこはとても大変でしたね、当時は、20代。

岸田  比較しちゃいますもんね、どうしても健康な人と。それをどう乗り越えていったのかというと、当時は退学したが、高校退学されていましたもんね、ただ年を重ねるごとに自分を受け入れられることができるようにとあります。こちらについて、補足、お願いできますでしょうか。

松田  はい。結局、自分を受け入れられないこともそうなんですけど、悲観はしてもいいかなと思ってて。でも結局、生活しないと生きていけないじゃないですか、当たり前。なので結局、普通に生活していくと、年を重ねるごとに自分自身の精神力も成熟していくのかなっていうふうに思ってるので。そこと比例して、やっと20代中盤ぐらいから自分を受け入れられることが、ちょっとできるようになったっていう感じですね。

岸田  じゃあ当時は受け入れられないと思っても、年を重ねたりだとかしていくと、だんだん受け入れるようになってくるもんなんですね。

松田  自分の場合はそうでしたね。

「悲観してもいい、後悔だけ残さなければ」——骨肉腫を経験した松田さんから闘病中のあなたへ

岸田  ありがとうございます。そして松田さんのがんの経験から学んだこと、こちらになります。悲観してもいい、自分の感じるままに、後悔が残らないようにという言葉をいただいております。こちらに関して、松田さん、お願いします。

松田  私の場合は闘病生活してるときに告知されなかったこともあって、あまり自分自身が、がん闘病者だっていう気持ちは当時一切なかったので、ちょっと参考にならない場合もあると思うんですけど。がんを経験している、いないにかかわらず、結局、生活していかないと人間の、生きていけないので。なので全然、悲観してもいいんですけど、それがまたいい経験にもなって、自分自身の生活を進めていくと。なので結局、今、僕が思ってるのは、死ぬときに一切後悔が残らないように生きたいなというのあるので、視聴していただいているかたがたも、がん闘病者の方ですとか、そうでない方も含めて、自分の感じるままに、後悔が残らないように日々過ごしていってほしいなと思ってます。僕は、がんの経験からそれを学びました。以上です。

岸田  松田さん、ありがとうございます、自分の感じるままにね。本当に毎日が後悔の連続の僕は今、言葉、本当にまた刺さります、ありがとうございます。悲観してもいいっていうのはいいですね、無理に奮い立たせようとせず、悲観してもいいんだよということで。さっきの松田さんの、年を重ねるごとに受け入れるようにもなってくるのかなということもありますので、もし今、大変な皆さんもいらっしゃるかと思いますけれども、松田さんも大変だったとき、ここを乗り越えたということありますので、ぜひ参考にしてもらえたらなということを思います。それでは、がんノートmini、これにて以上となります。どうも、松田さんありがとうございました。

松田  ありがとうございました。

岸田  ありがとうございました、バイバイ。

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