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インタビュアー:岸田 / ゲスト:永井

本日のゲスト-希少がん・虫垂がんと向き合う永井さん

岸田 今日のゲストは永井さんです。まずは自己紹介をお願いできますか。

永井 はじめまして。永井紀子と申します。がんの種類は「虫垂がん」という少し珍しいもので、大腸がんの一種になります。手術をしたときには転移は見えなかったんですが、病理の結果から3B相当と診断されました。2017年3月、42歳のときに闘病が始まり、現在は経過観察中です。

岸田 ありがとうございます。とても40代には見えないくらいお美しいですね。

永井 ありがとうございます(笑)。

岸田 今日は少し緊張して噛んでしまうかもしれませんが、そのあたりはご容赦くださいね。目も合わせられないかもしれません(笑)。

盲腸と思った痛みから「虫垂がん」告知へ—長時間手術と不安

さて、さっそくですが――がんがどうやって見つかったのか、告知までの経緯を教えていただけますか。

永井 昔から腸が弱くて、よくお腹を壊していたんです。謎の腸炎で入院して絶食、なんてことも3、4回ありました。だから今回も「またいつもの腸炎だな」と思っていました。前日から歩くとお腹がシクシク痛んで、翌日も仕事に行ったんですが、昼頃から熱が出てきたんです。

岸田 腸炎のときのパターンですね。

永井 そうなんです。熱が上がってくると「あ、これは入院コースだな」とだいたい分かるんです。でも当時は経理の仕事をしていて締め切りがあったので、とりあえず仕事を片付けてから病院へ行こうと思って。午後4時頃まで頑張ったんですが、痛みがピークになってしまって。さすがに駄目だと思い、早退して行きつけの病院に行きました。

そしたら「盲腸かもしれませんね」と言われて。そういえば3、4年前にも盲腸をやったことがあって、そのときは薬で散らしていたんですが、「ああ、またきたのか」と。今回は「手術しましょう」と言われ、そのまま入院になりました。

岸田 なるほど。最初は盲腸の可能性で入院、ということだったんですね。

永井 はい、そうです。

岸田 何も疑いなく?

永井 はい、何も疑いなく。ただ先生が忙しかったみたいで、「ごめん、オペは明日の夕方になるよ」って言われて。ちょっと先延ばしになっちゃったんです。

岸田 え、盲腸ってめちゃくちゃ痛いイメージあるんですけど。

永井 めっちゃ痛いですよ。本当に痛い。

岸田 そんなに痛いのに冷静に待てるんですか。

永井 いや、冷静じゃないです(笑)。でも先生が「痛み止め打っとくね」って言ってくれて。実は昔、腸炎で入院したときあまりに痛くて「先生、もう殺してください!」って言っちゃったくらいなんです。それくらい耐えられない痛み。でも今回は痛み止めを打ちながらだったので、何とか夕方まで頑張って待てました。

岸田 なるほど。痛み止めで耐えながら、翌日の夕方に手術を。

永井 はい、オペをしました。

岸田 それでどうでしたか。

永井 本来なら盲腸の手術って1時間半くらいって言われてるんです。でも麻酔から覚めたら外がすごく暗くて。「あれ?」と思って時計を見たら、始まったのが4時なのに気づいたら夜の9時。倍ぐらい時間がかかってたんです。入院やオペは慣れてたから余計に「あれ? こんなに遅いのはおかしいな」って思って。

それで親から聞いたら「お腹の中に膿がたくさんあって、それを洗浄するのにすごい時間がかかった」って。

岸田 膿!? 盲腸でそんなことに。

永井 そうなんです。「破裂してたの?」って思ったけど、そのときは麻酔でぼんやりしてたから詳しく聞けなくて。ただ「大変だったけど終わってよかった」と思って、そのまま眠っちゃいました。

岸田 相当ひどい状態だったんですね。

永井 ええ、相当だったみたいです。

岸田 でも何とか終わって。その後は普通に退院できたんですか。

永井 はい。普通なら1週間もしないで退院できると言われてました。実際お腹にドレーンは入ってましたけど、それも抜けて「あと2日くらいで退院ですね」と言われていたんです。でもそのとき、急に主治医が神妙な顔をして病室に来て、「ご家族を呼んでください」って。

岸田 え…急に?

永井 そうなんです。「病状説明かな」と思って「私ひとりで聞けますよ」って言ったんですけど、「いや、必ず家族を呼んでください」って。すごい食い下がったんですけど、先生は首を縦に振らなくて。その時点で「あ、これは悪い話しかないな」って察しました。

岸田 ないですね。そんだけね。

永井 そんだけ。なんか。

岸田 そんだけ言われたら。

永井 「もう悪いことしかない」って思いましたね。「分かりました、手配します」って一応返事はしたんですけど、そのとき東京にいた家族は旦那だけで。電話したら「ちょっと忙しい」って言われて、「だよね」って(笑)。でも先生が「やっぱり家族がいないと」って言うので、もう一度お願いしたけどダメで。最終的に旦那がお昼休みを抜けて少しだけ来てくれることになりました。

岸田 旦那さんに来てもらって、お医者さんにも時間を作ってもらって、面談室で話をするわけですね。

永井 そうです。

岸田 そのとき、どう言われたんですか。

永井 もうその前から「悪いことしかない」と覚悟してたので、親にも電話して「家族呼んでって言われちゃった」って。だから多分、がんなんだろうなって自分の中では予測してました。ネットでも調べまくって、「虫垂がん」っていうのにたどり着いてたので、告知前からある程度は覚悟してました。

岸田 そうなんですね。

永井 はい、調べ尽くしてから告知に臨みました。

岸田 その間ってどのくらいあったんですか。

永井 2日くらいですね。退院直前に「家族を呼んでください」って言われたので、そこから必死に調べて。で、先生に呼ばれて「病理検査の結果、がんが見つかりました。虫垂がんです」と。——あ、当たった、みたいな。

岸田 答え合わせみたいな。

永井 そう、答え合わせ。当たったなって。「そうですよね」って。もうその頃には腹膜播種(がんが腹膜に散らばること)も調べてたので、一番怖かったのはそれでした。手術が長引いたのも膿があったからで、「もしかして漏れて転移してるんじゃないか」って夜も眠れないくらい心配してました。

岸田 そうですよね。広がっちゃったら怖いですもんね。

永井 本当に怖かったです。それで先生に矢継ぎ早に質問しました。「虫垂がんって腹膜播種が一番やばいですよね?」って。そしたら先生が「実はがんを真っ二つに切ってしまって、まだ残ってます」って。——「えっ? 真っ二つに切っちゃったの!?」って衝撃でした。

岸田 想像以上ですね。

永井 想像以上ですよ。「半分に切ったってことは、余計散らばってません?」って思いました。ただでさえ膿が散らばっていたのに、さらに盲腸を半分に切って、しかももうお腹を閉じている。「絶対がん、出てますよね、きっと」って。——これは駄目だ、私と思いました。

岸田 ですよね。

永井 ですよね。でも知識だけはいっぱい仕入れていたので、泣くよりも怖くて先生に質問攻めでした。

岸田 生存率どれくらいですか、とか、みんな治療はどうするんですか、とか。

永井 そういうのも聞きましたけど、まだ計画は固まっていなくて。「もう一度開けて、大腸なども取る手術をします」と言われました。ただ、先生が「すみません、僕は虫垂がんは初めてですし、ここではまだ2例目です」と言った瞬間に、——もうここでは受けない、セカンドオピニオンを受けようって決めました。

岸田 ありがとうございます。その病院に行ったのは、いつものお腹の痛みで通っていた流れで、ということだったんですか。

永井 いえ、もともと不妊治療でかかっていた病院で、別の症状があって「ここではできないから手術してきて」と紹介されたんです。だから婦人科が最初で、腸炎のときにもお世話になっていて、前回は婦人科で入院してました。でも今回は盲腸だから外科に回されて、外科は初めてでした。

岸田 その流れで紹介された外科に行ったということですね。

永井 そうです。

岸田 そしたら2例目になるって言われて不安に。

永井 「僕、やったことないです」って言われて。この先生にやってもらうのは、ちょっと不安だなって思いました。

岸田 ですよね、かつ真っ二つにされているわけですもんね。

永井 そうですから、心の中では「絶対これ失敗したでしょ」って思ってました。もう医療ミスだよって心の中で思ってました。せめて開けて、分かんなかったのかなっていう。私も分かんないですけど。でも、後々のセカンドオピニオンの先生だったりとかいろんな方に聞いたら、虫垂がんっていうのは術前診断がすごく難しいと。かなり慣れた先生でも分かりづらいっていうので言われてたから、そのときに聞いてそのときはしょうがなかったのかなっては思ってますけど。

 

セカンドオピニオンで病院変更—再手術と術式の選択、形成外科の配慮

岸田 でもそれで告知されて、治療法があるんだったらまだいいんですけど……。告知を受けてから、治療の方向性を決めるときに、先ほどのセカンドオピニオンを受けるって話がありましたよね。その後はどうしたんですか。病院、変えたんですか?

永井 結局変えました。最初から先生に「病院変えます」ってはっきり宣言して、「探しますので、データすぐください」ってお願いしました。

岸田 もうはっきりと。

『昨日も虫垂がんの患者が』――国立がん研究センターで見つけた希望

永井 はい。そこからすぐ動き始めました。盲腸で入院して退院して……なぜか一度会社に戻って仕事を再開しちゃったんですよ。本当はすぐ病院探せばよかったんですけど、仕事しながら合間に調べたり、会社の社長や副社長に「こういう状況なんです」と報告して、もしかしたら先生のつながりとか知ってる人がいないかなって聞いたりしました。

あとは、知り合いづてに「この人に聞いてみたら」とか、自分でもネットで検索して。そうやってたどり着いたのが、国立がん研究センター中央病院でした。家からも近かったですし、症例数が多いことも決め手でした。さらに「ここの先生がいいよ」ってお墨付きをもらったので、ここにしようと決めました。

岸田 国立がん研究センター、中央病院にしたんですね。

永井 はい。セカンドオピニオンを受けてみたら、主治医の先生が「昨日もちょうど虫垂がんの患者さんが来てたよ」っておっしゃって。「え、そんなにいるの?」って驚きました。

岸田 虫垂がんって大腸がんの中でも珍しいですよね。

永井 そうなんです。全体の0.2%くらいって言われてますし、検索してもなかなか出てこない。でも「昨日いたよ」って言われた瞬間に、あ、この病院なら大丈夫だなって思ったんです。その一言で安心しました。

岸田 なるほど。心強いですね。ただ、がん専門病院って結構待ち時間も長いって聞きます。セカンドオピニオンはスムーズに受けられたんですか?

永井 そこはやっぱり待ちましたね。でも、そこからは先生がすごく頑張ってくださって。最初の診察は4月4日、自分の誕生日の日だったんです。ちょうど43歳になった日でした。

岸田 お誕生日の日に、ですか。せっかくなので、その頃の流れをもう少しお聞きしたいですね。——3月から4月にかけての動きについて。腹痛で、盲腸の手術。そして病理検査で虫垂がんと判明、告知を受けたんですね。

永井 一度会社に復帰しました。

岸田 一度復帰して、そこからセカンドオピニオンを受けに行ったと。

永井 はい。セカンドオピニオンです。

岸田 今ここですね。セカンドオピニオンを4月上旬に受けて、病院を決定された。

永井 決定しました。

岸田 セカンドオピニオンまでは1〜2週間ぐらい?

永井 2週間くらいで決めました。その間にもう一つ別の病院にも話を聞きに行きましたが、そこは治療するつもりではなく、見解を聞くだけでした。

お腹を叩かないように――がんを抱えた3週間、腹膜播種の恐怖

岸田 なるほど。じゃあ最終的に「この病院で治療する」と決めて。そこからの治療はすぐ手術だったんですか?

永井 はい。すぐ手術です。おなかにがんが半分残っている状態だったので、急いで盲腸の郭清、大腸の一部、リンパの郭清手術をやろうということになりました。できればゴールデンウィーク前に、ということで4月下旬に予約を入れていただきました。思っていたより早く対応してもらえました。

岸田 ただ……腹膜播種のリスクを考えると、セカンドオピニオンまでの2週間や、手術までの3週間は「がんを抱えた状態」で過ごしたわけですよね。

永井 はい。本当に怖かったです。「まだおなかにがんがある」という意識が常に頭から離れなくて。

岸田 半分残っているわけですもんね。

永井 そうなんです。だから「おなかは叩かないように」とか、「もし破れて飛び散ったら嫌だな」とか、すごく気を付けてました。

岸田 運動もやめたり?

永井 はい。おとなしく過ごしてました。少しでも飛び散らないようにって。

岸田 「血液に乗って回ったら嫌だな」とか、「温泉は控えよう」とかも考えた?

永井 そうです。すごくドキドキしてました。「おなかにまだあるんだ」って思いながら。

岸田 そのとき、一番つらかったのは?

永井 寝られなかったことです。本当に眠れなくて、そこが一番つらかったです。もう睡眠障害みたいな状態になってました。しかも「ネット検索魔」になってて。多分みんなそうなると思うんですけど、とにかく自分の病気のことを調べまくるんです。でも虫垂がんは情報が少ない。出てきても悪い情報ばかりで、「発見された時には助からない」みたいな話しかなくて。もう絶望的な気持ちになってました。

岸田 患者さんの実体験とか、そういう情報を求めていたんですか?

永井 そうですね。最初はブログをひたすら探しました。でも生きて発信されている方は本当に少なくて、1人か2人くらい。やっと見つけてコンタクトを取らせてもらったんですけど、虫垂がんの中にも「腺がん」とか「腹膜偽粘液腫」とかいろいろタイプがあるんです。だからお話を聞いても、自分と全く同じ状況ではなくて。結局「まだ分からない」っていう不安が残りました。とにかく情報がないことが一番困りましたね。

岸田 なるほど……。ありがとうございます。そんな中で手術に入られて、4月下旬。再度がんの摘出と大腸・小腸の一部、リンパの郭清手術を受けられたんですね。

永井 そうです。郭清手術でした。

岸田 その手術は具体的にどういう形で行われたんですか?小腸も切除?

永井 そうですね、一部小腸も切る可能性があるって言われてました。どこまで広がっているか、腹膜に散らばっているかも分からなかったので。先生から「腹腔鏡手術じゃ無理だから、開腹手術になるよ」と言われたんです。私は不妊治療の関係で腹腔鏡手術を3〜4回受けていて、お腹にすでに傷がいっぱいあったので、「また10センチぐらい切る」と聞いて、すごくショックでした。

岸田 がっつり開けることになりますもんね。

永井 そうなんです。「え、また傷が残るんですか……」って嫌で嫌で。先生に何度も「できるだけ小さくしてください」ってごねてました。

岸田 気持ち分かります。

永井 そうしたら先生が「でも命の方が大事だから」と。それは分かってるんですけど、どうしても傷にこだわってしまって。最終的に先生が「分かったよ、形成外科も一緒に入れて、きれいに縫合するから。それでいい?」と言ってくださって。それでようやく納得して、「お願いします」って開腹手術を承諾しました。

岸田 かなりごねたんですね(笑)。

永井 はい。先生にも「初めてだよ、こんなにこだわられたの」って言われました。

岸田 たしかに普通は「ホチキスみたいにバシバシ留める」って感じですもんね。

永井 そうそう。バシンバシンって(笑)。大腸の先生が普通に縫って終わりっていう。

岸田 縫って終わりなんですね。

永井 なんですけど、今回は形成の先生も入ってきれいに縫ってもらう形になりました。

岸田 女性ですし、そういった配慮はありがたいですよね。実際の手術、ご自身的にはどうでした?大変でしたか。

永井 腹腔鏡の手術は慣れてはいたんですけど、手術後の痛みや準備のつらさを知っているので、正直怖かったです。ただ、今回違ったのは麻酔ですね。脊髄のところに麻酔を入れて、自分で痛み止めをボタンで追加できるタイプだったので、痛みのコントロールがかなり楽でした。

岸田 なるほど。自分でコントロールできるんですね。

永井 そうなんです。痛くなりそうだなと思ったら押すだけでいい。しかも機械が制御していて、一定時間は追加できないようになっているので安全です。前は麻酔が切れた後に寒気でガタガタ震えて大変だったんですが、今回はそういう副作用もなく。目が覚めたら普通にしゃべれて、親ともすぐ会話できるくらいで、「あれ? 意外に楽かも」と思いました。

岸田 そうだったんですね。入院はどれぐらいでした?

永井 2週間ほどですね。ちょうどゴールデンウィークを挟んでいたこともあって。

岸田 2週間で退院できたんですね。

永井 はい。ただやっぱりお腹切っているので、次の日に歩かされるのは本当にきつかったです。立ち上がった瞬間に貧血みたいになって「無理です!」って(笑)。でも数日経つと歩けるようになって、人間の体ってすごいなと思いました。

目に見えるがんはない、でも――散らばった可能性に賭けたゼロックス療法

岸田 ありがとうございます。その後、6月から抗がん剤治療を開始。ゼロックス治療法、オキサリプラチンとゼローダを使ったんですね。ただ、手術で取り切ったんじゃなかったんですか?

永井 一応、目に見えるがんは取り切ったんです。先生にも腹膜を診てもらって「転移は見えない」と言われました。ただ膿やがん細胞が散らばっている可能性はあるし、病期的にも3B相当と重めだったので、「抗がん剤は任意だけどやったほうがいい」と説明を受けました。断る勇気もなかったので「やります」と、二つ返事で治療を始めました。

岸田 そこから抗がん剤治療が始まったんですね。どうでしたか?

永井 想像以上に大変でした。結構ビビりだったので、本当は初回から通院でよかったんですけど、「最初は入院でやらせてください」って先生にお願いして、1クール目は入院で受けました。

岸田 なるほど。

永井 点滴はオキサリプラチン、飲み薬がゼローダなんですけど。オキサリプラチンを点滴しているときに、太ももにチクチクと痛いところが出てきたんです。「先生、ここが痛いんです」って伝えたんですけど、そのまま入院していたら、そこが帯状疱疹になってしまって。

岸田 帯状疱疹になってしまった。

永井 はい。痛いなと思ってたら水ぶくれがバーッと広がって、すごく痛がゆい感じで。本当に入院していて良かったなと思いました。すぐ隔離されて、対応してもらえたので。

岸田 帯状疱疹って、具体的にはどんな感じなんですか。

永井 体にできる大きな水ぶくれですね。小さな水ぶくれがいくつもできて、それが一つにまとまってパンパンに膨らんで。すごく痛いし、かゆいし。しかも感染するっていうので、4人部屋だった私はすぐ隔離になりました。廊下に出るときも「ドアノブを消毒してください」って言われて。

岸田 それは大変ですね。

永井 本当に申し訳なくて、同じ病室の皆さんに「すいません」って謝りました。みんなもがん治療中で免疫が落ちているので。

岸田 それはどれぐらいで落ち着いたんですか。

永井 退院後もしばらく皮膚科に通いました。大体2週間くらいですね。でも跡はその後もしばらく残っていました。

岸田 なるほど。そのときは入院は1クールだけ?

永井 そうです。1クールだけです。

岸田 1クールって何週間ですか。

永井 2週間です。1日目にオキサリプラチンを点滴、その日からゼローダを朝晩2回5錠ずつ飲みます。それを2週間続けて、1週間休薬。これで1クール。

岸田 ありがとうございます。その1クールを入院でやって、その後は通院で?

永井 そうです。退院後は通院で治療しました。

岸田 そして全部で8クール。

永井 はい、8クール。長かったです。半年くらいかかりました。

岸田 半年。大変でしたね。

永井 通院に変えてからは、帯状疱疹は出なかったんですけど……オキサリプラチンが強い薬だったので、1回目から副作用が出始めて。打ってから1週間は、水も飲めないくらい気持ち悪くて、飲食がほとんどできなかったんです。

岸田 水も飲めない、食べられない。

永井 まるでガンジーみたいな生活ですよ。本当に。食べなきゃと思うけど、無理やり口に入れても味覚がおかしくなっていて。プラスチックとか鉄みたいな変な味しかしなくて。気持ち悪いのに味までおかしいから、体が全然受け付けない。しかも夏場だったので脱水症状にもなりかけました。

岸田 それってどうするんですか? 点滴とか打つんですか?

永井 いや、点滴もせず、そのまま1週間寝たきりです。トイレに行くのも「はぁ……」っていう感じで、お風呂に入るのもゼーゼー言いながらでした。

岸田 それを1週間。

永井 1週間続きました。そのあと2週目からは少し食べられるようになるんですけど、今度はゼローダの副作用で下痢がひどくて。食べてもすぐ下してしまうんです。1日十何回もトイレに行って、それがまたつらい。水分を取らなきゃって思ってポカリとか飲むんですけど、それも大量には受け付けない。

岸田 絶食の1週間、下す1週間。

永井 そう。そして3週目が休薬で、ようやく元気になります。もうすっごく元気になるんです。

岸田 修行みたいですね。

永井 修行ですよ、ほんと。副作用で2週間のうちに体重が4~5キロ落ちるんです。で、休薬の1週間でなんとか3~4キロ戻して、次の治療に備える。

岸田 ボクサーみたいじゃないですか。

永井 ボクサーみたいに、落としては少し戻して……を繰り返して。結局どんどん痩せていきました。

岸田 そうやって繰り返して、ようやく治療が終わったんですね。

永井 抗がん剤治療が終わったのが12月でした。半年間、本当にしんどかったので「自分にご褒美をあげよう」と思って、ずっと好きだったハワイに行くことにしたんです。しかも、今回は人生初のビジネスクラスで(笑)。

岸田 ビジネスでハワイに!

永井 ビジネスでハワイに行って、いいホテルにも泊まりました。ただ、飛行機の中で気圧のせいかおなかがパンパンに張ってしまって痛くて、せっかくのフルフラットの座席でも全然寝られなくて……「エコノミーでよかったかも」って思ったぐらいでした(笑)。

岸田 副作用ってそんなこともあるんですね。

永井 そうなんです。飛行機の怖さは知らなかったです。大変でしたけど、ハワイではしっかり満喫できました。

岸田 満喫して、そして翌年には?

永井 2018年の1月ですね。「会いたい人に会おう」「食べたいものを食べよう」「やりたいことをやろう」と決めて動きました。普通ならここで会社に復帰できる体力はありましたが、どこかで「腹膜播種になってるかもしれない、死ぬかもしれない」という覚悟があったので、今動けるうちにやりたいことをやっておこうと思ったんです。会社にも相談して、休職を続けさせてもらいました。

岸田 会いたい人には会えましたか?

永井 はい。30年ぶりの中学の同窓会を友達にお願いして開いてもらったりしました。男の子たちの変わりようにはびっくりしましたけど(笑)。女の子はすぐ分かったんですけど、男の子は「え、誰?」って確認しないと分からないぐらい変わってる人もいました。

岸田 ありがちですね(笑)。

永井 みんなすごく動いてくれて、集めてくれて、その気持ちが本当にうれしかったです。20~30年ぶりに会う人もたくさんいました。

岸田 食べたいものもたくさん食べました?

永井 食べましたね。昼間は自由な時間があったので、ずっと行きたかったお店をリストアップして、一人で回りました。銀座でおすしやコース料理も食べましたし、「これがしたい」というものはできるだけ全部やっていきました。

岸田 いいですね。会いたい人に会い、食べたいものを食べて、やりたいこともやって。

永井 そうですね。がんになって、今まであまり「ボランティアしたい」とか「人のために」って強く思うことはなかったんですけど、さすがに自分の人生を深く考えるようになって。このままじゃ駄目だなと思っていたときに「マギーズ」という施設を知ったんです。

岸田 マギーズ東京ですね。

永井 マギーズ東京っていう、がんの方やご家族、会社の方など誰でも行ける“癒やしの場”みたいな施設があるんです。すごくアットホームで。そこを立ち上げられた鈴木美穂さんという方を知って、勝手にファンになっちゃって。思い切ってダイレクトメールを送ったんです。「あなたの行動にすごく共感しています。私も何か一緒にやりたいです」って。知らない人に自分から連絡するなんて初めてだったんですけど。

岸田 行動されたんですね。

永井 はい。そしたらちょうど2月4日のワールドキャンサーデーに日テレで企画があるから参加してみない? ってお誘いをいただいて。「ぜひ!」って即答しました。そこからがんに関わる活動に携わるようになったんです。

岸田 ありがとうございます。鈴木美穂さんは実は『がんノート』第1回のゲストでもあるんですよ。当時は日テレで働かれていて、ワールドキャンサーデーに合わせていろんな企画を仕掛けていた、まさにキャリアウーマンですね。

永井 そうですね。

岸田 その後、社会復帰を目指すわけですが。

永井 はい。会社復帰をしたかったんですけど、その頃までずっと睡眠障害に悩まされていました。寝つきに時間がかかるし、寝てもすぐ目が覚めるし、朝は早く起きてしまう。昼間はものすごく眠くなる。夜は緊張して眠れなくて、結局睡眠導入剤に頼る生活が続いていました。

岸田 大変でしたね。

永井 復帰に向けて産業医の先生や保健師さんと話したら、「まずは睡眠を安定させないと」と言われて。心療内科に行って、薬を少しずつ減らしていく治療をしました。最初は1錠飲んでいたのを、4分の3、半分、4分の1……と先生と一緒に調整して、最終的に飲まなくても眠れるようになって。

岸田 徐々にですね。

永井 はい。そこから12月にようやく会社復帰できました。最初は「週4日勤務・残業なし」という制限をかけてもらって、少しずつ体を慣らしていきました。

岸田 そこからさらに2〜3カ月かけて、週5勤務へと完全復帰されたんですね。

永井 そうです。

岸田 その後、4月にCT検査を受けて「2年目クリア」と書いてあるんですが、これは「再発がなかった」ということですか。

永井 一応CT検査を受けて、手術からちょうど丸2年が今年の4月だったんですけど、そのときも「問題なし」と言っていただけました。あと7月にも検査があって、そのとき岸田くんにも病院で偶然会いましたよね。

岸田 そうですね、この前ね。ちょうど。

永井 はい。そのときも血液検査で「クリア」と言われて、お墨付きをいただきました。何とかここまで来れています。

岸田 今は経過観察中ということですね。手術や治療は想像以上に大変だったと思います。そのときどうやって気持ちを保っていたのですか?

永井 気持ちの保ち方ですか……。やっぱりすごくつらかったので、私は「一人で抱え込む」よりも「人に話す」タイプでした。隠しておくより、友達や周りに正直に「つらい、怖い」って話して、付き合ってもらうことで気持ちを保てていたと思います。友達には本当に感謝していますね。「ご飯付き合って」って誘って、ばか騒ぎして気を紛らわせてもらって、「ありがとう、またよろしくね」って。そんな繰り返しでした。

岸田 なるほど。友達に支えてもらいながら気持ちを保たれていたんですね。旦那さんじゃなく?(笑) そこは後で聞きますね。ありがとうございます。

では、ここから永井さんにいただいた写真を紹介していきたいと思います。まずはこちら。

永井 これは治療前の元気な頃。ハワイで撮った写真です。パンケーキが大好きで、これ、一人で全部食べました(笑)。

岸田 ハワイですね。おいしそう。

永井 大好きなんです。

岸田 そして次が手術前。まだおなかに傷がない頃ですね。

永井 そうです。手術前の何もない状態です。

岸田 そこから開腹手術を受けて、こうなりました。

永井 はい。自分で傷跡を初めて見たときは正直ショックでした。「先生、これ何ですか?」って聞いたら、形成の先生が「この形にしておくと人間の治癒力で引っ張られて、最終的にきれいに治りますよ。半年後を楽しみに」って説明してくれて。「え、本当に?」って信じられなかったです。

岸田 驚きますよね。

永井 本当に。

岸田 その後の写真がこちら。手術から2〜3カ月後ですね。

永井 はい。この頃には少し伸びてきているのが分かります。

岸田 これも形成の先生が入っているんですか?

永井 そうです。形成の先生が入って、普通なら真っすぐ縫うところを、あえて「つまむ」ように縫うんです。

岸田 なるほど。餃子みたいな。

永井 そう、餃子のヒダみたいに縫うことで、治っていく過程で自然に皮膚が伸びて、きれいな線になるようにしてくれているんです。

岸田 知らへんわ、そんな。

永井 「これがきれいになるんだよ」って形成の先生がすごい自信を持って言ってくださって。

岸田 次の写真、これが今のおなかの様子ですか?

永井 はい。今はまっ平になっていて、うっすら線は残っていますが。

岸田 線は残っていても、すごくきれいですね。

永井 ただ、おへそが少し右寄りになってしまいました。

岸田 分かります。手術をすると、おへその位置が少し変わることがありますよね。

永井 そうなんです。中心線がずれてしまいました。でも傷跡は思った以上にきれいに治していただけて、本当に感謝しています。

岸田 本当にきれいです。驚きました。

永井 今はもうビキニも着られるぐらいです。実際、ご褒美旅行でハワイに行ったときも着ました。

岸田 手術から半年後くらいには、もうそこまで回復されていたんですね。

永井 そうです。その頃にはほとんど平らになっていて、水着も問題なく着られました。今はさらに色も薄くなってきていますし、「もっと薄くなるよ」と先生にも言われています。あのときわがままを言って良かったと思っています(笑)。

岸田 治療法や手術のやり方は先生によっても違いますからね。

永井 あくまでも私の場合です。

岸田 そうですね。「この人はこうだったから、なぜ自分は違うの?」と比べるのではなく、先生としっかり相談して決めることが大事ですね。

永井 その通りだと思います。

岸田 では次の写真です。

永井 これは入院中、副作用でぐったりしていたときの写真です。ソファで寝ている私の横に、愛犬のショコラが寄り添ってくれていました。

岸田 絶食期間のときですね。

永井 はい。食べられないので、寝ているしかありませんでした。テレビを見ながらショコラと1日中過ごすのが日課でした。

岸田 本当に大変な時期でしたね。

永井 そうですね。でも犬がいてくれたおかげでとても癒やされて、支えられました。

岸田 分かります。犬がセラピーになることもありますからね。

永井 ありますよね。

岸田 では次の写真。これは何ですか?

永井 これは抗がん剤の副作用で出てきたシミです。手に真っ黒な大きなシミができてしまって。顔や足の裏にも出ました。皮膚がボロボロに剝けたりもして、本当にショックでした。

岸田 手や顔に出ると、人前に出るとき気になりますよね。

永井 そうなんです。でも抗がん剤が終わって2年ほどたった今は、ここまで薄くなりました。最初は消えないと思っていたので、本当にうれしかったです。

岸田 副作用として「出ることはある」と言われても、「消える」とは説明されなかったんですね。

永井 はい。しびれは「徐々に良くなる」と言われて安心できましたが、シミについては説明がなかったのでショックでした。特に女性は知っておいたほうがいいと思います。

岸田 貴重な体験談をありがとうございます。では最後の写真ですね。

永井 これは鈴木美穂さんとの写真です。ワールドキャンサーデーで日テレのイベントに参加したときに撮りました。

岸田 すごい。日テレのロビーですね。

永井 はい。たまたま遊びに行ったら、偶然ソファの隣に美穂さんがいて。「あ、美穂さん!」と声をかけたんです。美穂さんも「今日は取材で来ただけで、ここに来ることは滅多にないんだよ」と言っていて、本当に偶然の出会いでした。そのとき一緒に写真を撮っていただきました。

岸田 まさに引き寄せですね。

永井 その後も銀座で偶然出会ったりしていて、不思議なくらいご縁があります。私は勝手に「これは運命だ」と思っています。

母が1カ月、兄が全ての病院に――家族一丸となった闘病サポート

岸田 素敵なお話ですね。ここからは少しプライベートなお話に入っていきたいと思います。紀子さんのご家族について、がんを告知されたときにどう伝えたのか、またどのようなサポートがあったのか。さらに「こんなサポートがあったらうれしかった」という点も含めてお話しいただけますか。

永井 私の両親は山口に住んでいます。兄と姉がいて、姉も山口、兄は千葉に住んでいます。家族を呼んでくださいと言われた段階で、まず親に電話をしました。「私、がんかもしれない」と、告知前に伝えていました。母は「まだ大丈夫よ」と言ってくれていたんですが、実際に告知を受けたあと、すぐに「ごめんね。やっぱり虫垂がんだった」と伝えました。

岸田 親御さんの反応はいかがでしたか。

永井 母は「私が代わってあげたい」って言っていました。うちはがん家系で、父もがんを経験していて、母もちょうどその1年前にがんを患っていたんです。私自身も母のお見舞いに行っていたくらいで。その翌年にまさか自分ががんになるとは思っていなかったですし、体調が完全に戻っていない両親にまた心配をかけてしまったのは申し訳なかったです。

岸田 そうですよね。治療は東京で受けられていましたよね。そのとき、ご家族からのサポートはどうでしたか。

永井 母が手術のときから1カ月ほど東京に来てくれました。家事や身の回りのことを手伝ってくれましたし、母自身も「そばにいたい」と言ってくれたので、一緒に過ごしました。その分、山口にいる父は1人になってしまったので、父には「1人で頑張ってね」とお願いしました。

岸田 お父さまも支えてくださったんですね。では、ご兄弟はどうでした?

永井 兄が本当に動いてくれました。セカンドオピニオンを受けると決めたときから、ほとんどすべての病院に付き添ってくれていました。兄は仕事がとても忙しいのに、検査や診察のたびに休みを取ってくれて。義理の姉は病理結果や治療に関することを全部調べて、「こういう意味だよ」「こういう治療があるらしいよ」と、難しい医療用語を分かりやすく説明してくれました。本当にありがたかったです。

岸田 まさに家族一丸ですね。

永井 本当に一丸となって支えてくれました。

岸田 「こうしてほしかった」という希望は特にありませんでしたか?

永井 そうですね。思っていた以上に全部やってくれたし、「大丈夫、みんな付いてるから」と精神的にも励ましてもらいました。

岸田 ありがとうございます。こうして大きな病気を乗り越えて輝いている紀子さん、きっとこれを見ているがんと闘う方々にも勇気が湧くはずです、というコメントもいただいています。

永井 ありがとうございます。

考えてもしょうがないじゃん』夫の一言―期待と現実のギャップ

岸田 では、ここからはご主人のお話に移りたいと思います。紀子さんはご結婚されて8年目くらいとのことですが、告知のときのご主人の対応はどうでしたか?

永井 告知の日は、昼休みに夫が病院に来てくれて、一緒に先生から話を聞きました。ただ、彼もすぐ会社に戻らなければいけなくて、「じゃ、俺は会社戻るわ」と言って帰っていきました。私は退院して自宅に戻り、「夜になったら夫と話し合いになるだろう」と思っていたんですけど、その夜は普通に夕飯を食べて終わりで、何も話題に出ませんでした。

岸田 家族会議みたいな感じになると思いますよね。

永井 そうなんです。「今夜はその話だろうな」と思っていたら何もなくて「あれ?」って。しかも私はその間にネット検索魔になって、告知の2日後ぐらいには恐怖がピークになっていたんです。「私、死ぬかもしれない、怖い」と昼間に大泣きして夫にぶつけたんですけど、夫は「考えてもしょうがないじゃん」という感じで。

岸田 そっちのリアクションだったんですね。

永井 はい。「でも怖いんだよ、死んじゃうかもしれないんだよ、いいの?」と聞いても、「ごめん、時間きた、テニスと飲み会行ってくるから」と(笑)。「テニス?飲み会?」って思いましたけど、もういいや、しょうがないなと思って。そのあと母に電話して「夫、テニス行っちゃったけどどう思う?」と話したら「まあしょうがないわよね」と言われて、自分の中で「もう自分で頑張るしかない」と切り替えました。

岸田 なるほど。

永井 反対に、家族(兄・母・義姉)と私で一致団結して支えていこうという雰囲気ができました。夫は多分怖くてなのか、全く自分から何かを聞いてくることはありませんでした。

岸田 それよりもテニス。

永井 テニス。そう、「テニス行くんだ」って思いましたね。

岸田 多分、ご主人も怖かったんでしょうね。どう接したらいいか分からなかったのかもしれない。

永井 分かんないんだと思います。

岸田 どう信じたらいいのかっていう部分もあったのかも。

永井 私は信じてましたけどね。でも、そこはもうちょっとハグしてくれるとか、声をかけてくれるとか、期待しちゃうじゃないですか。「大丈夫だよ」とか「俺がついてるよ」とか。そういうのは一切なかったんで、「ああ…」って。

岸田 なるほど。

永井 はい。世の中の男性には、そこはぜひやってほしいなって思います。

岸田 今この話、男性陣の胸に響いていると思います。

永井 そうですよね。でも、一緒になって落ち込み過ぎるのも良くはないし、それは彼なりの配慮だったのかもしれません。本当のことは分からないです。

岸田 そうですね。本人に聞かないと分からない。

永井 そうなんです。本人に聞いたことはないので。

岸田 でも、ご主人がそういうスタンスでいてくれたからこそ、逆に落ち込み過ぎずに済んだ、という部分もあったかもしれませんね。

永井 あるかもしれないです。

岸田 5%ぐらい(笑)。ありがとうございます。僕たち男性への教訓としては、「しっかり寄り添うこと」ですね。

永井 はい。寄り添ってほしいです。

不妊治療の履歴と卵子保存を諦めた決断——命を優先するという選択

岸田 ありがとうございます。さて、ここからは「妊孕性(にんようせい)」について伺いたいと思います。妊孕性とは、子どもを持つ能力のことですが、がんの治療や抗がん剤の影響で低下したり、失われてしまうことがあります。先ほど少しお話に出ていましたが、不妊治療をされていたんですよね。

永井 はい。もともと私は小学校の頃から婦人科系の病気が多かったんです。

岸田 あ、びっくりした。小学校の頃から不妊治療してたのかと(笑)。

永井 違います(笑)。その頃から生理の関係で入院や治療をすることが多くて、先生から「妊娠はしづらいかもしれない」と言われていたんです。結婚するときも「子どもができないかもしれません」と話した上で結婚しました。

岸田 そうだったんですね。

永井 はい。その後、実際に不妊治療を始めました。最初から高度治療、つまり体外受精しか方法がないと言われて。さらに卵管に水腫がたまっていて、それを手術で取らないと治療できない、と。そこで紹介された病院が、私が最初にオペを受けた病院だったんです。

岸田 卵管が何かあったんですか?

永井 卵管に水がたまる病気があって、それがあると着床しないし卵も取れないんです。だからまず水を抜く手術をしました。でもすぐまたたまってしまったので、卵管を取る手術をもう一度受けました。

岸田 そんなことがあるんですね。

永井 はい。そのとき、仕事もしながら治療をしていたので本当に大変でした。不妊治療って「明日来てください」と急に決まるんです。ホルモンの値で次の予定が決まるから。だから会社にも「また休みます」と急に伝えないといけなくて、すごく迷惑をかけました。治療が失敗するたびに落ち込んで、ストレスもピークでした。

岸田 そんな状況の中で、がんになった。

永井 そうなんです。先生から「抗がん剤をすると女性機能が落ちる。生理も止まるかもしれない」と言われました。そのとき「卵はどうしますか?」と聞かれて。

岸田 どうされたんですか。

永井 やっぱり諦めきれない気持ちもあったので、「卵だけでも保存できないか」と思って病院を紹介してもらいました。でも自由診療で高額で、30万以上。さらに誘発剤の準備で時間も必要で、次の手術までに間に合わない。だから「子どもは諦めて、命を優先しよう」と決めました。

岸田 難しい決断でしたね。

永井 不妊治療で何度も失敗していたので、正直その時点でかなり心は傷ついていました。友達が妊娠していくのを見るのもつらくて…。そこにがんが重なって、「なんで私だけ…」とすごく落ち込みました。

岸田 そうですよね。

永井 でも最終的には「しょうがない」と思うしかなかったんです。もちろん今でも落ち込む日はありますけど、子どもがいない人生を楽しもうと。周りと違う生き方をして、それを自分の幸せにできればいいなと思っています。

岸田 ご主人もよく言っていた「考えても仕方ない」という言葉に近いですね。

永井 そうですね。受け入れて生きていこうと思いました。

1年半の休職と復職—部署異動と「体を最優先」のマイルール

岸田 ありがとうございます。ではここから、お仕事についてお伺いしたいと思います。会社をどう休まれて、どうやって社会復帰されたのか、そのあたりを教えてください。

永井 すぐに課長や部長、社長をはじめ、上司にはがんになったことを伝えました。

岸田 どんな会社なんですか?

永井 私はIT系の会社で働いています。担当はコーポレート部門で、当時は財務や経理を中心にしていました。もともとは人事もやっていたんです。

岸田 会社の規模はどれくらいですか。

永井 今は合併もあって2000人以上の大きな会社になりました。私は入社して13年目ぐらいで、最初は200人くらいの会社だったので、一気に10倍に成長した感じです。女性の中ではかなり古株です。

岸田 おつぼねですね(笑)。

永井 若干そうかもしれないですね。

岸田 それで会社には休みをお願いしたんですね。

永井 はい。上司に相談して「休ませてください」と伝えました。

岸田 引き継ぎとかは大丈夫でした?

永井 盲腸の手術後に一度短期間だけ復帰したので、その間に全部引き継ぎを済ませて、同僚にお願いしてきました。

岸田 なるほど。そのあと長期間お休みを取られたんですよね。どれくらい休んだんですか。

永井 そこから1年半ちょっと休みました。会社の制度で、傷病手当金が最長1年半もらえるので、それをフルに使わせてもらいました。

岸田 傷病手当金って、健康保険から給与の3分の2くらいが支給される仕組みですよね。それが1年半。

永井 はい。そのおかげで生活もできて、治療に専念できました。

岸田 ちょうど1年半で復帰したと。

永井 そうです。制度の期限ぎりぎりで社会復帰しました。

岸田 復帰するときに気を付けたことや、自分なりのルールはありましたか?

永井 復帰にあたって「マイルール」を決めました。以前はとても忙しい部署にいて、体調が悪くても無理をしてタクシーで帰るような働き方をしていました。がんになる3年前、盲腸になったときも、仕事が忙しすぎて「入院は無理です。薬で散らしてください」とお願いしてしまったんです。あのとききちんと手術をしていれば、もしかしたら虫垂がんにならずに済んだかもしれない…そんな後悔が残っています。だからこそ、今後は仕事よりも体を優先する、と復帰のときに心に決めました。

岸田 実際に復帰して、そのルールは守れていますか。

永井 はい。私が休んでいる間に会社自体も働き方改革が進んで、フレックス制度や「ストック休暇」という制度ができました。捨ててしまった有給でも、通院や傷病のためなら使える仕組みなんです。だから検査のときも欠勤にならず、本当に助かっています。

岸田 それはいいですね。

永井 すごくありがたいです。

岸田 有給ってみんな使い切れずに消えること多いですもんね。

永井 そうなんです。だから他の企業でもぜひ導入してほしい仕組みだと思います。

岸田 復帰後の仕事は、前と同じ部署ですか?

永井 いえ。経理や財務は締め切りが多く、私が体調を崩すと大きな影響が出てしまいます。なので復帰の際に人事に相談して、別の部署に異動させてもらいました。

岸田 そうなんですね。今は週5で働いているんですか?

永井 はい、週5で働いています。

がん家系だから20歳で加入―高額療養費と保険給付でプラスになった治療費

岸田 ありがとうございます。では次はお金の話を伺いたいのですが。入院や手術、抗がん剤などで、実際どのくらい費用がかかりましたか?

永井 まず最初と2回目の手術・入院で合計100万円ほど。その後の抗がん剤治療は1クール約10万円でした。

岸田 3週間で1クール、でしたよね。

永井 そうです。私は8クール受けたので、それだけで80万円以上かかりました。

岸田 となると、ざっくり合計すると200万円以上ですね。

永井 そうですね。サポートや保険がなければ相当大変だったと思います。

岸田 でも実際のところ、高額療養費制度もありましたよね。

永井 はい。高額療養費制度のおかげで、自己負担はかなり抑えられました。通常なら1か月に8〜9万円ほど自己負担が必要なんですけど、私の加入している健保組合はさらに上乗せで補助してくれる制度があって、実際の負担は月2万円程度で済んだんです。

岸田 月2万円! ずるい(笑)。

永井 本当にそうなんです。会社員で健保組合に守られていてよかったなって、すごく実感しました。

岸田 確かに、サラリーマンの強みですね。

永井 そう思います。加えて、保険にも入っていました。がん家系なので、20歳のときにアフラックのがん保険に加入していて、それにプラスして医療保険も入っていたんです。

岸田 しっかり入ってたんですね。

永井 はい。手術ごとに給付金が出たり、がんと告知された時点で一時金100万円が出たりしました。古いタイプの保険なので通院はカバーされませんでしたが、入院や手術だけでも十分な保障がありました。

岸田 かなり出たんですね。

永井 そうなんです。正直、トータルで見るとプラスになっているくらいでした。

岸田 それは大きい。

永井 本当に保険に入っていて良かったと思います。

岸田 最初の手術や入院で100万円、抗がん剤で1クール10万円×8クール=80万円ほど。検査などを含めて200万円弱くらいかかったんですよね。

永井 はい。そのくらいです。でも高額療養費制度と保険の給付で、ほとんどカバーできました。

岸田 しかも卵子や卵巣を保存しようとしたら、さらに大きな費用が必要でしたもんね。

永井 そうですね。その場合はもっとお金がかかっていたはずです。

岸田 結果的に、不安が少なかったのは本当に良かったですね。

永井 はい。経済的な心配が少なかった分、治療に集中できました。お金のことで苦労される方も多いと聞くので、私はまだ恵まれていたと思います。

岸田 ちなみに保険って何社入っていたんですか?

永井 2社です。

岸田 2社だけ?

永井 はい、2社ですが、がんに手厚い内容にしていたので十分でした。がんの場合は通常の入院よりも倍額給付されるような仕組みだったんです。

岸田 がんに特化してしっかり備えていたんですね。

岸田 手厚く備えていたんですね。絶対にがんになると考えていたと。

永井 そうです。なると思っていたので、しっかり備えていました。

岸田 大事ですね。ありがとうございます。ここでまたコメントをいただいています。「家族や妊孕性の話の中で、里親や養子縁組を考えられたことはありますか?」という質問です。

永井 考えたことはありました。でも、やっぱり私は「自分の子どもが欲しい」という思いが強かったんです。もし里親や養子を迎えた場合、責任がより重いと感じてしまうと思いました。自分の子なら「ごめんね」と思えることも、預かった子に対しては「もっと幸せにしなきゃ」と大きなプレッシャーになりそうで。そこに自信が持てなかったんです。

岸田 確かに、そういう考え方もありますね。

永井 そうなんです。だから、自分にはその責任を果たせる自信がなくて、踏み切れませんでした。

岸田 真剣に考えていたのが伝わります。本当に人それぞれの選択だと思います。コメントでも「経営者の立場として社員へのケアの参考になった」「父をがんで亡くしたとき、会社のサポートを思い出した」という声も届いています。

永井 ありがとうございます。

たこ焼きとカップラーメンに救われた―食べられるものを食べる勇気

岸田 ありがとうございます。では次の質問に移ります。がんの治療中、肉体的にも精神的にもつらい時期があったと思いますが、それをどう克服していったかを教えてください。

永井 一番つらかったのは副作用です。でも副作用は避けられないので、自分で「少しでも楽になれる方法」を探すしかありませんでした。特につらかったのは食事です。何を食べても気持ち悪くなるので。そんな中で助けられたのが、たこ焼きでした。

岸田 たこ焼きにお世話になったんですね。

永井 はい。本当に。ここ築地にも銀だこがあるんですけど、帰り道によく寄って買って帰りました。ソース味がなぜか食べられたんです。お好み焼きやたこ焼きにはかなり助けられました。

岸田 なるほど。

永井 それから、体に悪そうなんですけど、カップラーメンも食べられたんです。

岸田 分かります。濃い味のものとか欲しくなりますよね。

永井 そうなんです。がんになって「体に悪いものは避けたい」と思う気持ちと、「でも食べられるなら食べたい」という気持ちの葛藤がありました。結局「食べられることのほうが大事」と思って、罪悪感を抱えながらも食べてました。

岸田 食べないと体力つきませんからね。

永井 はい。先生に相談したら「食べられるものを食べたほうがいい」と言ってもらえたので、安心して食べていました。

岸田 なるほど。副作用でつらいときも、そうやって工夫して乗り越えていたんですね。精神的につらいときはどうでした?

永井 精神的につらいときは、やっぱり友達が大きかったです。

岸田 さっきおっしゃってた、ご飯に行ったり、愚痴を聞いてもらったりですね。

永井 そうです。愚痴を聞いてもらったり、全然違うことで気分転換させてもらえたのは本当にありがたかったです。そして家族。親も含めて「絶対に味方だ」と思えたことが心の支えになりました。泣いたときも全部受け止めてくれて、本当に感謝しています。

岸田 その「家族」には、ご主人も含まれていますか?

永井 はい、含まれてます。

足の裏のじわーんとしたしびれ――2年経っても消えない抗がん剤の記憶

岸田 確認のために伺いました。ありがとうございます。では後遺症について。これまでお写真でシミなどを見せていただきましたが、それ以外に残っているものはありますか?

永井 今残っているのは、足の裏のしびれです。歩くのに支障はないんですが、ふとしたときに「じわーん」としびれる感覚が残っています。指先はだいぶ良くなりました。他には特に大きな後遺症はなく、普通に元気に食べられているので、私は恵まれているほうだと思っています。

岸田 とはいえ、しびれがあると、ふとした瞬間に治療を思い出してしまいますよね。

永井 そうなんです。「あのときの抗がん剤がまだ残ってるんだな」と思い出すきっかけにはなります。忘れたいけど、忘れられない。そんな存在ですね。

岸田 それは受け入れるしかないのでしょうか。

永井 はい。人によっては一生続く場合もあるし、3~4年で消える人もいると聞きます。私はまだ2年なので、もう少し様子を見ようと思っています。

2〜3年前に手術していれば―仕事優先で薬で済ませた盲腸が最大の後悔

岸田 なるほど。ありがとうございます。では次に「反省や失敗」について。振り返って「あのときこうしておけばよかった」と思うことはありますか?

永井 一番後悔しているのは、がんになる前に盲腸の手術をしなかったことです。医師から「手術したほうがいい」と言われたのに、仕事が忙しくて薬で済ませてしまったんです。あのとき手術をしていれば、腹膜播種になることもなかったかもしれないし、がんももっと早期に見つかっていたかもしれない。

岸田 つまり、2~3年前の盲腸のときにきちんと治療を受けていればということですね。

永井 そうです。仕事を優先してしまったのが大きな失敗でした。だからこそ、復帰するときに「仕事よりも自分の体を大事にする」というマイルールを決めたんです。

がん病棟だからこそ明るく―『よ、元気?』の声かけに救われた

岸田 分かります。ありがとうございます。そして、きょうもそうですが、この配信を見てくださっているのは医療従事者の方、看護師さん、薬剤師さん、お医者さんなど、さまざまな立場の方々です。永井さんから、うれしかったことや、こうしてほしかったこと、リクエストがあれば教えていただけますか?

永井 一番最初に診てもらった病院の主治医の方が、虫垂がんという病気をあまり知らなかったようで、説明がしどろもどろだったんです。私が質問すると「僕の希望としては……」みたいな答えが返ってきて、「先生、希望は聞いてません。現実はどうなんですか?」って、思わずヒートアップして言ってしまったくらいです。
 その経験から「はっきりしない説明は、患者にとってすごく不安になる」と強く感じました。

その後、セカンドオピニオンで今の主治医に出会ったんですが、その先生は良いことも悪いこともスパッと伝えてくれる方でした。私はその率直さにすごく救われました。「変に心配しなくていい。このままを受け取ればいい」という安心感がありました。

また、入院中の副担当の先生や看護師さんも明るくて、「ここはがん病棟だからこそ、がんの話が普通にできる」という雰囲気がありました。がん=暗いというイメージがあるかもしれませんが、病棟全体が明るくて、先生も「よ、元気?」って気さくに声を掛けてくださるような方で。手術のときもずっと寄り添っていただき、本当に感謝しています。

岸田 それはありがたいですね。

永井 本当にありがたかったです。普段のコミュニケーションがあるからこそ、治療や手術のときにも安心できました。

がんの仲間、新しい活動―得たものの大きさ

岸田 ありがとうございます。そして、もうあと数個で終わっていきますが、「キャンサーギフト」という言葉があります。がんになって失ったものもたくさんあるけれど、得たもの、得たこともある。それを「キャンサーギフト」と呼んでいるのですが、永井さんにとってあえて挙げるとしたら何ですか?

永井 やっぱり「人との出会い」です。がんになっていなかったら出会えなかった方たちとたくさん知り合えたことは、本当にありがたかったです。鈴木美穂ちゃんをはじめ、がんの仲間ともつながることができましたし、岸田くんとも鈴木美穂ちゃんの結婚式で知り合いましたよね。私、あのとき岸田くんをナンパしたんですよ(笑)。覚えてます?

岸田 そうですよね。

永井 「岸田さんですよね」って、私が声をかけたんです。いわゆるナンパです(笑)。

岸田 確かに、そうでしたね。

永井 その出会いがきっかけで、こうして今ここに一緒にいるんです。あのとき自分から声をかけていなければ、こういうつながりはなかったと思います。今まで私は自分から発信したり、人に声をかけるタイプではなかったんですけど、それが基でいろんな方と出会うことができました。それが私にとって大きな「キャンサーギフト」だったと思っています。

岸田 いろんな仲間が増えていったんですね。

永井 はい、本当に増えていきました。

大きな夢より、できることを重ねたい―がん経験を意味あるものにする生き方

岸田 ありがとうございます。では次に、紀子さんの「夢」についてお聞かせください。これからどんなことをしていきたいと思っているのか。

永井 大きな夢というのは特にないんですけど……。ただ、せっかくこうしてがんになった以上、この経験を意味のあるものにしたいと思っています。だから、自分から大きなことをやるというよりは、皆さんがされている活動に参加させてもらって、自分にできることを重ねていければと考えています。

岸田 闘病中もおっしゃっていましたよね。「社会貢献まではいかないかもしれないけど、自分も何か役に立てることをしたい」って。その一つとして『がんノート』に出ていただいて、またいろんな活動にも関わっていきたいという。

永井 そうですね。自分だけではそこまで大きな力はないので、皆さんの活動に「乗っかる」形であっても、できることをしていきたいと思っています。

岸田 ありがとうございます。コメントでも「こんな美しい方がこんな大変なご苦労をされているなんて、見かけだけでは分からない。本当に励まされました」という声をいただいています。

永井 ありがとうございます。

岸田 本当にすごいことだと思います。見かけだけでなく、闘病のご経験そのものが多くの方を励ましていると、僕も思っています。

旅に例えた闘病の軌跡――絶望から食べあるジャーニーまでの2年間

岸田 では最後にまとめとして、「ペイシェントジャーニー」を紹介していきたいと思います。これは患者さん自身の歩みを「旅」に例えて感情の起伏を見える化したものです。永井さんにも書いていただきました。グラフを見ると、絶対あそこがハワイだろうなって分かります(笑)。

永井 ばれてます?

岸田 ハワイだなと思いました(笑)。では、これまでの流れを振り返ります。
仕事が多忙だった時期があり、2度の不妊治療がうまくいかず中止に。そしてその後に盲腸。1回目の盲腸は薬で散らしてしまい、手術を見送ったんですよね。

永井 そうです。

岸田 仕事が忙しい時期を経て、その後またおなかの痛みが出て、入院が必要になったときですね。

永井 そうですね。

岸田 入院して手術を受け、そこでがんの告知を受けた。

永井 一応その時点では腹膜播種は出ていませんでした。がんの告知です。

岸田 なるほど。がんの告知を受けて、その後退院。そして再度手術と抗がん剤治療に進んだんですね。このときはセカンドオピニオンを受けて、別の病院で治療をされた。

永井 はい。がん告知のあと、再手術はセカンドオピニオン先の病院で受けました。

岸田 一番つらかったのは、その抗がん剤治療の時期ですね。

永井 そうです。告知よりも何よりも、抗がん剤の副作用が本当に一番つらかったです。

岸田 食べられない、起き上がれない、何もできない時期。

永井 まさにそうでした。

岸田 しかも8クールやったんですよね。

永井 はい。8クールやりました。

岸田 その時期が一番のどん底だったと。

永井 一番つらかったです。

岸田 でもそれを乗り越えて……はい、来ました、ハワイ!(笑)そこでご褒美の旅行。やりたいことをやって、食べたいものも食べて。

永井 そうですね。ハワイのあとも、銀座で行きたいお店に行きまくって食べ歩いてました。

岸田 そしてグラフがまた少し下がっているのは、会社復帰を前にしたタイミングですね。

永井 はい。もともと経理・財務の部署にいたんですけど、復帰するときには「別の部署に異動させてください」とお願いして承諾をもらっていました。ところが復帰2カ月前に「やっぱり元の部署に戻ってほしい」と言われてしまって。もう「駄目だ、またここに戻ったら病気になる」とトラウマのように感じてしまって、復帰がすごく怖くなったんです。最終的にはわがままを言わせてもらって、別の部署にしてもらえたので良かったんですが、一度すごく落ち込みました。

岸田 それはつらいですね。同じ状況になったら再発につながるんじゃないかって思っちゃいますもんね。

永井 そうなんです。再発の恐怖がすごくありました。

岸田 その後は睡眠障害の治療を始めて、3カ月ほどかけて会社復帰。少しずつ生活を取り戻していった。そしてまた「食べあるジャーニー」に。

永井 はい。食べ歩き三昧です。

岸田 今も食べ歩いてるんですか?

永井 食べ歩いてます。ほぼ毎日のように(笑)。

岸田 すごいですね。全然太ってないじゃないですか。

永井 いや、最近はちょっとやばいです(笑)。気にしてます。

岸田 でもしっかり食べて。

永井 はい、食べてます。

岸田 いっぱい食べて、いっぱい元気になってほしいなと思います。

このときくらいわがままになっていい――自分を大切に、言葉にすることで楽になる

岸田 では最後に「今、闘病中のあなたへ」というメッセージを、カメラに向かってお願いします。

永井 どんと。――自分を大切に、です。少しくらいわがままになっていいと思います。がんになって手術や抗がん剤治療をしていると、本当に大変でつらいですよね。周りもどう接したらいいか分からないことが多い。でも、自分が「こうしたい」「ああしたい」と言葉にすることで、周りも動きやすくなるし、自分も気持ちが楽になると思います。だから、自分を大切に、少しわがままになって、楽に治療を乗り越えていきましょう。

岸田 ありがとうございます。「自分を大切に、このときくらいはわがままになっていい」というメッセージ、心に響きますね。支えてくれる人たちと一緒に治療を頑張っていってほしいという、紀子さんからの言葉でした。ということで、本日の『がんノート』は以上です。90分、どうでしたか?

永井 すごく緊張していましたけど、あっという間でした。ありがとうございました。

岸田 手術の写真など衝撃的な場面もありましたが、今こうして無事に経過観察を続けている姿が、本当に多くの人の励みになったと思います。

永井 本当に?

岸田 本当に。内容だけでなく、その姿そのものが力を与えているはずです。ぜひこれからも発信を続けてください。それでは本日の『がんノート』、ここまでにしたいと思います。ご視聴ありがとうございました。

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