目次
- ゲスト紹介テキスト / 動画
- 発覚から告知までテキスト / 動画
- 治療から現在までテキスト / 動画
- 家族テキスト / 動画
- 恋愛・結婚テキスト / 動画
- 妊よう性テキスト / 動画
- 仕事テキスト / 動画
- お金・保険テキスト / 動画
- 辛い・克服テキスト / 動画
- 後遺症テキスト / 動画
- 再発テキスト / 動画
- 医療者へテキスト / 動画
- 過去の自分へテキスト / 動画
- Cancer Giftテキスト / 動画
- 夢テキスト / 動画
- ペイシェントジャーニーテキスト / 動画
- 今、闘病中のあなたへテキスト / 動画
※各セクションの「動画」をクリックすると、その箇所からYouTubeで見ることができます。
インタビュアー:岸田 / ゲスト:山水
- 34歳で舌下腺がんが発覚-山水さんが語る10年間の歩み
- 韓国旅行、歯科衛生士の友人—偶然が重なって見つかった舌下腺がん
- 「舌を失いたくない」—QOL重視で選んだ陽子線治療への道
- 片道2時間半の送り迎え—母の支えと「弱い姿は見せられない」葛藤
- SNSも恋愛も最初からオープン—「がんを伝える」という選択
- 「妊よう性」という言葉すら知らなかった2013年—後から知った影響
- 「また転移や再発してしまう」—健康を守るために選んだ退職と新しい職場
- 陽子線治療に300万円—定期預金を解約、「人生で一番高い買い物」
- 「頑張れない」と泣いた夜、38キロまで落ちた体重—治療中の苦しみ
- 治療から10年、唾液減と舌萎縮—後遺症と向き合う日々
- 拒否し続けた肺の手術—「先生の言うことを聞いて良かった」振り返る今
- 「嫌な顔せず診てくれた」セカンドオピニオン後も続く10年の信頼
- 「保険の見直し」—レーシック優先で見送った先進医療特約への後悔
- イベントで会うのを楽しみに—希少がん仲間が支えた10年の闘病
- 雪のない暖かい場所、パソコン1つで働く自由—がん経験後の夢
- 「患者を一人の人間として見てほしい」—QOLと情報格差への提言
- 「あなたの経験は、誰かの勇気となり、希望に変わる」—闘病中のあなたへ送るメッセージ
34歳で舌下腺がんが発覚-山水さんが語る10年間の歩み
岸田 本日のゲストは山水さんです。よろしくお願いします!
山水 よろしくお願いします!
岸田 山水さん、今日はご自宅から参加してくださっているんですか?
山水 はい、自分の部屋から参加しています。
岸田 ありがとうございます。後ろに「止まり木」って大きく書いてありますけど、これは何ですか?
山水 名古屋のH.Kさんが、コロナ禍のときに「がん患者同士でたわいのない話をしよう」と始めたオンラインの場なんです。このフラッグは昨年、三重でのイベントで実際に使ったもので、もう処分すると言われたので、私が譲り受けました。
岸田 三重で使ったんですね。リユースでエコな感じでいいと思います。そして着ていらっしゃるTシャツ、「TEAM ACC」とありますが?
山水 これは同じ腺様嚢胞がんの患者さんが作ったものです。希少がんは情報が少ないので、みんなで集まって「一緒に生きていこう」という思いが込められた患者会のようなつながりで、私も参加しています。
岸田 ありがとうございます。まだ自己紹介前ですが(笑)、バックグラウンドから入りましたね。では改めて自己紹介をお願いします。

山水 山水県H市在住の 山水と申します。現在44歳です。がんになってから何度か転職を経験し、今は障がい者の就労支援施設で支援員として働いています。私のがんは、口の中にできた希少がん「舌下腺がん」で、組織型は腺様嚢胞がんです。発覚は10年前、34歳のときでした。初発のときには薬物療法・放射線・陽子線治療を受け、その後、肺に転移した際には手術も受けました。このがんは「完治」「卒業」という概念があまりなく、今も経過観察を続けています。どうぞよろしくお願いします。
岸田 よろしくお願いします!
韓国旅行、歯科衛生士の友人—偶然が重なって見つかった舌下腺がん
岸田 ——ということで、ここからはテーマを進めていきたいと思います。最初は「発覚から告知まで」のお話ですね。2012年、10年以上前になりますが、山水さんが誕生日の翌日に追突事故に遭って、車が廃車になるという出来事があったんですよね。
山水 はい、そうなんです。誕生日の翌日に……。こないだ研修でご一緒したTさんとかは「幸せなストーリーから始まる」って話されてたんですけど、私、何もなくて(笑)。思い出したのがこの出来事なんです。ちょうどがんが見つかる1年前、友達の車に追突してしまって。それで結局、車は廃車に。女性でいうと30代前半って厄年が続くんですよね。「厄年ってこういうことか」と思っていたら、その後もパソコンが壊れたり、いろんな物が壊れていったんです。でも「体が元気なら大丈夫、物は買い替えればいいし」って思ってたら、次の年に体の不調が出てきてしまったんです。
岸田 なるほど。がんノートって、がんが発覚した瞬間からの話が多いから、その方のバックグラウンドが見えにくいこともあるんですよね。その意味で、山水さんが教えてくれた「廃車の出来事」は象徴的ですね。やっぱり厄年だったんでしたっけ。
山水 厄年でしたね、本当に。
押すと痛い顎—ヨガとマッサージで感じた違和感
岸田 厄年から始まって、その翌年。ヨガをしているときに顎の痛みに気付いて、さらに韓国で受けたフェイシャルマッサージのときには激痛があった。ちょうどその頃ですよね?
山水 そうですね。ただ、普段の生活では「顎が痛い」って気付かないんですよ。たまたま2012年の年末からヨガ教室に通い始めて、うつ伏せで顎をマットに押し付けるポーズがあったんです。そのときに「痛い!」ってなって、右か左のほっぺじゃないと乗せられなかった。おかしいなと思ったけど、日常生活で顎を押し付けることってないから、ヨガのときぐらいだけ気になってたんです。
岸田 そのときの痛みってどんな感じだったんですか? 打撲みたいな痛み?
山水 そうですね、どちらかというと打撲に近いですね。普段は痛くないけど、押さえ付けられるとズキッとする、そんな感じでした。
岸田 そのとき、ヨガで気付いて。その後どれぐらいしてから、フェイシャルマッサージで激痛になったんですか?
山水 これは7月のことなんですけど、その1カ月前の6月に、10年間一緒に働いた同僚が退職したんです。「やっと一緒に旅行できるね」ってことで、韓国に行ったんです。そのとき、よもぎ蒸し体験をして、そのオプションでフェイシャルマッサージを受けました。友達はすごく気持ち良さそうに寝そうになってるのに、私はもう激痛で。「早く終わって!」と思うくらい。でも言葉が通じなくて、「やめてください」って言えず、ただ我慢するだけでした。そのときに「おかしいな」と思ったんです。
岸田 日本でならまだ何とかなるけど、韓国でマッサージ中に激痛っていうのはきついですね。
山水 そうなんです。
岸田 本来なら癒やされるはずのマッサージが激痛。その後「やばい」と思って、歯科に受診したんですね?
山水 はい、旅行から帰ってすぐ連絡しました。でも「顎の痛みってどこに行けばいいんだろう?」って最初は分からなかったんです。ネットで調べたら耳鼻咽喉科か口腔外科と出て。たまたま友達が歯科衛生士だったので相談したら、「まずうちに来て」と言ってくれて。会社を抜け出して、制服のまま予約なしで飛び込みました。診てもらったら「歯ではない、大きな病院で診てもらったほうがいい」と言われて、紹介状を持って総合病院へ。そこで「神経内科に行ってほしい」と言われたんです。
岸田 神経内科?
山水 でも「私たちは歯科だから、口腔外科にしか紹介状は出せない。まずは口腔外科を受診して、そこから神経内科に回してもらって」と言われて。じゃあそうします、ということで。
岸田 なるほど。歯医者から皮膚科とかには直接行けないんですね。一方通行なんだ。
山水 そうですね。
岸田 それで口腔外科に行ったんですね。
山水 はい。結果的にそれが正解でした。診察が進むうちにCTやMRIの検査がどんどん追加されて、最初は「腫瘍があったとしても良性だろう」と言われていたのが、だんだん雲行きが怪しくなってきたんです。
岸田 怪しくなっていって、その後、次のスライドが2013年8月。MRIを撮って、その結果「局所麻酔で生検しましょう」となったんですよね。これは口腔外科で「すぐMRI撮りましょう」という流れになった?
山水 そうですね。ただCTとMRIは2週間ずつ待ちがあって、全部で1カ月かかりました。初診が7月の半ばで、CTがその2週間後、さらに2週間後にMRI。結局、MRIが終わったのは8月13日でした。本当は早くしてほしかったんですけど、予約が取れなくて。
岸田 CTとMRI、一緒にやってくれるわけじゃなくて、予約の関係で2週間ごとになっちゃったんですね。
山水 そうなんです。大きな病気の経験がなかったので「病院ってこういうもんなんやな」と思って、仕方ないなって。でも、ここから先は展開がすごく速かったです。
岸田 ここからは緊急性が高くなった?
山水 はい。MRIのあとすぐに「生検しましょう」となりました。最初は「細胞診を」と言われていたんですが、そのとき急に「明日、明後日でも大丈夫ですか?」って聞かれて。「どうしたんやろ?」と思ったら「今から生検したい」と。お盆休みで仕事も休みだったので、先生の切羽詰まった感じを感じ取って「お願いします」と言いました。舌の下にがんがあったので、そこをメスで切って組織を採って病理検査に回しました。
岸田 舌の組織をメスで切って採ったんですね?
山水 はい。局所麻酔だったので、寝ていたので詳しくは分かりませんが、メスで切開していましたね。
「8割覚悟していた」一人で受けた告知の瞬間
岸田 その後、結果が分かってくるわけですね。
山水 はい。でもその病院はそんなに大きくなかったので、病理は外部の医療機関に回していたんです。「結果は1週間後です」と言われて「じゃあ1週間後ね」と思っていたら、なんと2日後に先生から電話。「病理検査の結果が出たので、今から来てもらえませんか」と。展開、速いでしょ?
岸田 すごいですね。今まで1カ月待たされたのに、ここから急にスピードアップ(笑)。
山水 本当にそうです。しかも切ってからは、がん細胞が活発化したのか、口の中にどんどん広がってきて、しゃべれないし食べられない。舌が痺れて、口の中が狭くなってしまったんです。「これはもう自分から病院に行こう」と思っていた矢先だったので、先生から電話が来てすぐに受診しました。
岸田 すぐ病院に行ったということですね。僕もそのとき、「舌下腺がん(腺様嚢胞がん)」って言われても、「舌下腺ってどこやねん?」って思ったんです。今ちょっと調べてみたので、見てみましょう。頭頸部外科学会の図なんですが、この中の舌下腺?
山水 はい、この唾液腺の中です。唾液腺には3つあって、耳の下にある耳下腺、舌の下にある舌下腺、そして顎の下にある顎下腺。その三つがあります。
岸田 山水さんの場合は舌下腺?
山水 そうです。これが舌下腺、その下が顎下腺、耳の横が耳下腺です。
岸田 唾液腺って、こんなところにもあるんですね。知らなかったです。ありがとうございます。ちなみに今は学会のサイトを見ていますけど、ここから先、治療法とかいろんな話が出てきますが、これはあくまで山水さんの経験談。医療のことは必ず主治医と相談してくださいね。
岸田 さて山水さん、そのまま「がん」と診断されたわけですけど、その瞬間はショックでした? それとも「やっぱりな」っていう感じでした?
山水 この展開からして、がんだろうなって。もう8割、9割くらい覚悟していました。母が「一緒に行く」と言ったんですけど、私は親の前で動揺したり弱いところを見せられなくて。「絶対に1人で行く」と言って、振り払って、1人で病院に行って、1人で告知を受けました。
岸田 もう「がんだろうな」と思いつつ診断されて、実際どうでした? やっぱり落ち込みましたか?
山水 そうですね。先生も「腺様嚢胞がんです」「がんです」とはすぐに言わなかったんですよ。いきなり「ACC」って英語の略語を見せてきて。「Adenoid Cystic Carcinomaです」って。そんな英語、分からないじゃないですか。
岸田 なるほど。ACCって、腺様嚢胞がんの英語の頭文字なんですね。
山水 そう。当時先生が「ACC(Adenoid Cystic Carcinoma)」って英語を見せてきたんですけど、そんなの全然分からないんですよね。先生もがん告知に慣れてなかったのか、手探り状態で。「悪性腫瘍です」と言われても、がん以外の悪性腫瘍もあるので、「これはがんなんですか?」って聞いたら、ようやく「がんです。腺様嚢胞がんです」と言ってくれました。そこで初めて「どんな漢字書くんですか?」と確認するところから始まりました。
岸田 なるほど。そこから治療に入っていくわけですね。
山水 そうですね。診察室では涙は出ませんでした。とにかく「今どういう状況なんですか? どんながんなんですか?」って冷静に聞いてました。でも診察室を出てから、個室トイレで泣きました。
岸田 トイレで泣いたんですね…。そこから治療に向かっていくことになると。
「舌を失いたくない」—QOL重視で選んだ陽子線治療への道

岸田 では次、2013年8月。がん専門病院の頭頸部外科を受診されたんですね。ここはさっきの病院とはまた違う病院?
山水 そうなんです。最初の病院では「初期ではない」「全身転移の可能性があるからPET検査が必要」と言われて、さらに「山水県では治療できない」と。そこで紹介されたのが、A県のがんセンターと、山水(地名)のがんセンターでした。熱心に勧めてくれた先生もいたんですけど、山水県から山水(地名)に通うのは現実的に大変で。治療後も長く通院することを考えて、在来線でも行けるA県のがんセンターを選びました。
岸田 なるほど。新幹線通いじゃなくて、通える距離を優先してA県に。そこで言われたのが「舌全摘」だった、と。
山水 はい。がん告知のとき以上にショックでした。舌のない人生なんて想像できなくて、先生の前で泣きました。先生は「舌を取ってもリハビリすれば話せるようになる。ただ“ら行”は難しいから、例えば“ライオン”は言えないけど、前後の文脈で伝わるよ」と淡々と説明してくれたんです。でも私はどうしても受け入れられず、「他に方法はないんですか?」と聞きました。そこで先生が「重粒子線治療」という選択肢をぽろっと話してくれたんです。
岸田 そこで重粒子線の可能性が出てきたわけですね。ただ、検査の結果、CTやPETで転移はなかったと。
山水 先生から「初期ではない」と言われたけれど、幸い転移はなくてホッとしました。ただ腫瘍は5センチ弱ありました。PET-CTで転移がないと分かって安心したのは、当時、転移があると重粒子線治療が受けられなかったからです。重粒子線を受けるには「転移なし」が前提条件。だから「これなら受けられるかもしれない」と安堵しました。
重粒子線治療という選択肢—5年生存率50%・再発時の治療制限のリスク
岸田 なるほど。それで安堵して、そのままA県のがんセンターの放射線科を受診したんですね。
山水 はい。ただ、そのときに聞けた説明はかなり厳しいものでした。顎がもろくなり後に顎骨炎・顎骨壊死になる可能性、喉の奥に潰瘍ができて嚥下障害が起きる可能性、味覚障害のリスク。さらに、重粒子線を受けた部位は手術ができなくなるため再発時の治療が制限されること。加えて重粒子線治療でも5年生存率は50%、手術なら60%、そして治療実績が少ないこと。
当時の担当は同世代くらいの女医さんで「もし身内が同じ状況なら手術を勧めます」と言われました。そして「もっと私たちが頑張らないといけないんですが、こんな返答で申し訳ないです」と謝られたんです。
それでも私は「舌を残したい」という気持ちが強く、セカンドオピニオンで重粒子線治療を検討することになりました。
岸田 ありがとうございます。つまり山水さんは「生きるか死ぬか」よりも「舌を残したい」という選択をされたんですね。
山水 はい。命が少し短くなっても舌を残したい。舌がないまま長生きしても、私には嬉しくない。だったら太く短く生きたい、そう思いました。
岸田 なるほど。先生たちも「それなら」と納得して、セカンドオピニオンへ。あれ? A県のがんセンターでは重粒子線治療はできなかったんですね。
山水 そうです。当時、重粒子線治療は全国でも数か所しかなくて。頭頸部外科の先生が「G県とKにある」と教えてくれたんですけど、自分で調べたらH県のT市にもありました。先生自身も詳しくはなかったんですが「こういう治療法があるよ」と教えてくれたのはありがたかったですね。
岸田 なるほど。そこからH県にセカンドオピニオンに行こうと。これが8月で、9月には受診できたんですね。結構早かった。
山水 実は、初診のときに9月12日に手術日が決まっていたんです。9月10日から入院予定で、術前検査もしながらセカンドオピニオンの紹介状ももらってH県へ。私のタイムリミットは「9月10日の入院までに、手術以外の方法を決める」ことでした。
岸田 すごい。それ、セカンドオピニオンはスムーズに予約できて行けたってことですね、このとき。
山水 そうですね。放射線科医の先生も、カルテを見て「この患者さんは手術が決まっている、でも嫌がっている」という事情を理解してくださったので、一番早い予約を取ってくださいました。H県の病院側も対応してくださって、何とか9月の頭に行くことができました。
手術目前でのセカンドオピニオン—人生を変えた一言
岸田 セカンドオピニオンを受診して、「先生から陽子線と動注化学療法の提案」とありますけど?
山水 はい。今までの先生は外科の先生だったので、舌を取ること、つまり標準治療を優先して命を助ける方法を提案してくださいました。でも、セカンドオピニオンで出会った先生は、私に寄り添ってくれる方でした。その先生が言ってくださったのは「この年齢で舌の全摘はやってはいけない。あなたにはあと50年の人生がある。舌を取ったら外に出なくなるでしょう。これからのことを考えて、手術以外の方法で治療していきましょう」という言葉でした。私がずっと先生に言ってほしかった言葉を言ってくださって、「この先生なら信頼できる」と思えました。
岸田 提案されたんですね。
山水 はい。そこで陽子線治療と動注化学療法を提案されました。H県の施設は陽子線単独の医療機関だったので、そこで治療しても5年生存率は50%と言われました。でも動注化学療法を併用すれば20%上がって70%になる、と。
ただ、H県では動注療法はできず、陽子線と動注を両方行っているのは全国で二つだけ。その一つがH(地名)の南東北の総合病院、もう一つがF県立病院でした。H(地名)はこめかみからカテーテルを入れる方法で舌のがんに適していましたが、当時は患者が多く順番待ち。すぐには治療できませんでした。
一方、F県立病院は太ももの付け根(鼠径部)からカテーテルを上げていく方法で、今の状況ならF県が最適と。その場で先生がF県に電話してくださり「こういう患者さんがいて、こういう治療を」と指示してくれました。向こうの病院も「それで受け入れます」と言ってくださり、その場で治療が決まりました。
岸田 すごいですね。もちろん、これは山水さんの経験であって、今とは状況が変わっているかもしれません。必ず主治医と相談してほしいですが、それでも、その先生の迅速な対応は本当に嬉しいですね。
山水 本当に迅速でした。
岸田 あのときのCTとMRIの「2週間、2週間待ち」は何やったんやって感じですよね。
山水 そうなんですよ。
岸田 そこからF県立病院にすぐ行けたんですか?
山水 はい。もう1週間後には初診を受けていました。
岸田 手術はキャンセルしたんですね。
山水 そうです。いったんA県のがんセンターに行って「手術はキャンセルします。F県で治療するので、PET-CTなどのデータを送って、紹介状を書いてください」とお願いして、F県へ行きました。
岸田 嫌な顔はされませんでした? セカンドオピニオンだとそういうの、よくあるって聞きますけど。
山水 「陽子線治療を受けたら再発時にはうちでは手術できません」と言われました。
岸田 でも、それは最初から説明があった通りですよね。覚悟の上でF県を選んだと。
山水 そうです。
陽子線35回+動注3クール—2ヶ月の入院治療の全容
岸田 そうか。そしてF県立病院で陽子線治療と動注化学療法を開始したわけですね。どんな治療だったんですか? さっき少し説明してくれましたけど、放射線治療って具体的にどういうものなんでしょう。
山水 陽子線治療は本当に体への負担が少ないです。だから心臓疾患を持っている人や高齢の方でも安心して受けられる治療です。がんのある部分に専用のお面をかぶせて照射位置を決めて、私の場合は35回照射しました。位置決めに15分くらい、照射自体は2分ほどで、全部合わせても20分くらいで終わります。1日20分治療室に入って、あとは自由でした。
岸田 入院して受けていたんですか?
山水 はい。陽子線単独では入院はできないんですが、私は動注化学療法を3クール受ける治療だったので入院しました。
岸田 陽子線は毎日やらないといけないんですよね。
山水 そうです。月曜から金曜まで平日は毎日。土日祝はお休みでした。
岸田 どのくらいの期間ですか?
山水 9月19日に入院して、11月15日頃に退院しました。約2カ月です。
岸田 その間、化学療法はどういうスケジュールで?
山水 3週間に1回でした。最初は9月24日で、午前中に陽子線を受けて、その後に動注の準備をして始めました。全部で3回、9週間のサイクルでしたね。
岸田 ありがとうございます。その治療を経て、11月に退院して自宅療養に入ったんですね。そのとき、がんはどうなっていたんですか?
山水 入院中から小さくなり始めていました。MRIで「効果が出ています」と言われました。放射線治療は終わってからも半年ほど効果が持続するらしく、最終的には「がんがない」と言われるまでになりました。ただ退院時にはまだ残っていましたが、確実に効果があるということで安心しました。
岸田 山水さんの場合は「五分五分」と言われていた中で、動注を加えて確率が上がって、その効果が出たんですね。
山水 はい。しんどい思いをした甲斐がありました。
岸田 副作用はありましたか?
山水 ありました。ひどい口内炎のような状態になってしまって、口に物を入れるのが苦痛でした。病院食は全く食べられず、オレンジは沁みて痛いし、おかずも無理。先生に相談したら「病院食やめていいから、売店で食べられそうなものを自分で買って食べて」と言ってくださって、柔軟に対応してもらいました。でも後半は喉全体が痛くて夜も眠れず、医療用麻薬のオキシコンチンを朝と夜に服用しながら過ごしました。退院のときも「もう少しいてほしい」と言われたんですが、どうしても帰りたくて、麻薬を処方してもらって「家で飲むから帰らせてください」とお願いして帰りました。
岸田 そうやって帰ったんですね。コメントも届いています。「私は顎下腺の腺様嚢胞がんです」「私も歯医者にかかって口腔外科に紹介されて発見されました」「最初は十中八九良性だろうと言われました」「大きな病院で検査に1カ月以上かかりました」と。
山水 一緒ですね。
岸田 ありがとうございます。あと「なかなか忙しい、セカンドオピニオンや選択の数々、背景でどんな思いや家族とのやりとりがあったのか気になります」というコメントもいただいています。その限られた時間の中で、周りとのやりとりはどうでした?
山水 職場では一応仕事を続けていたんですけれども、実際は休みまくりでした。週に3回くらいA県やH県、地元の病院に行っていたので、もう戦力外でしたね。でも「がんになった」と伝えた時点で「自分のことを優先しろ」と言ってくださって、病院へ行くときも「行ってこい」と送り出してくれました。
岸田 すごいですね。自分の人生というか、命を大事にしてくれたんですね。
山水 そうですね。
「寛解」と言われても安心できない—10年後再発もある腺様嚢胞がんとの向き合い方
岸田 その後は、ここにあるように職場復帰を経て退職もされていますが、その辺りはお仕事の話で触れていくとして…。その後、2015年12月に胸部CTで右肺に影が見つかったんですね? そして2016年9月、胸腔鏡手術で右肺切除、転移性の肺がんと診断。え、がんが残ってたってことですか?
山水 先生のお話では、最初の発見時には画像に写らない顕微鏡レベルのがん細胞があったんだろうという説明でした。腺様嚢胞がんは、ほぼ必ず肺に転移する特徴があるので、私も「いつかは転移するだろう」と思っていました。でも、少しでも遅らせたいと思っていたんです。
2015年12月のクリスマスの日に、F県で定期健診があって舌のMRIだけの予定だったんですが、先生に「最近、胸のCT撮った?」と聞かれたんです。最後は2月に撮ったと答えたら「じゃあ、ちょっと撮ってみよう」と言われ、その場でCTを撮ったら影が見つかりました。風邪ひいた?とも聞かれましたが、全く心当たりはなくて。
ただ、このがんは抗がん剤も放射線も効かないので、基本は経過観察なんです。
だから私も「治療はしないで、できるだけ生きます」と答えました。先生もそれを尊重してくださり、2カ月に1回CTで経過観察をしていました。普通なら腺様嚢胞がんは数が増えて大きくなるんですが、私の場合は最初の一つだけで大きさも変わらなかった。そこで「これは取ったほうがいい」と言われ、ずっと拒否していたんですが、転移性なのか原発性なのかを診断するために手術をしましょうと説明を受け、2016年9月に手術をしました。
岸田 なるほど。結局は取ってみないと分からない部分もありますからね。
山水 そうですね。
岸田 結果は転移性だったと分かったんですね。その後の治療は?
山水 その後は経過観察です。
岸田 ずっと経過観察?
山水 そうです。
岸田 それから5年、6年、7年と経っているわけですね。
山水 そうですね。一応、先生からは「寛解と思っていいよ」と言われてはいるんですけれど、同じがん仲間の中には10年経ってから再発や転移する人も実際にいるんです。それを見ているので、先生の言葉はうれしいけれど「やった!」とはなかなか思えなくて。先生も「10年だから卒業ね」とは言わないんですよね。なので「大丈夫かな」と思いつつも、「いや、肺にはあるんだからな、腺様嚢胞がんなのだからな」という思いは常にあります。
岸田 経過を見ている状況なんですね。その後、少し飛びますが、2021年5月には地元でオリンピックの聖火ランナーを務められました。後ほど写真もありますので見ていきたいと思います。ありがとうございます。さて、ここからは治療前・治療中・治療後のお写真をいただいております。まずこちら、治療前のお写真について説明していただけますか。

山水 左の写真ですね。これは韓国旅行に行ったときのもので、よもぎ蒸しをした後にリンパマッサージを受ける直前の写真です。このときは笑ってますけど、この後に激痛があって笑えなくなりました。
岸田 その直前の一枚だったんですね。
山水 そうです。
岸田 右側の写真は?
山水 これはがん告知を受けて3日後くらいのものです。同じ町内の幼なじみと誕生日会をしていたんですが、私と真ん中にいる友達が7月生まれで、そのお祝いの席でした。そのとき私は「がんが見つかったから、これから治療する」という話を打ち明けたんです。すると隣の彼女は「赤ちゃんができた」という報告で…。今だから言えますけど、正直、やり切れなかったですね。幼い頃から一緒に遊んでいたのに、大人になってからの人生の進み方はこんなにも変わるんだと。現実は残酷だなと思った瞬間でした。
岸田 なるほど…めっちゃ愛想笑いうまいですね、本当に。そのときはそういう思いを抱えながらも写真に写っていたんですね。そこから治療に入って、怒涛の流れになっていったわけですね。ありがとうございます。では次に、治療中のお写真を見ていきましょう。左の写真についてお願いします。

山水 このときはもう入院していました。ここにバッテンの印が見えると思いますが、これは陽子線治療の照射位置を決めるためにシールを貼っていたものです。まだ治療の序盤で、味覚も少し残っていて食事もそこまで苦痛ではありませんでした。同じ韓国旅行に一緒に行った職場の友人がお見舞いに来てくれて、外出許可を取って一緒にお茶に行ったときの写真です。
岸田 そうか、本当に。このときは体調は大丈夫でした?
山水 そうですね。ただ、その前にお寿司を食べに行ったんです。Fといえばお寿司がおいしくて。普通にわさび入りを頼んだら激痛で…。ネタの味は全然分からないのに、わさびの痛さだけは強烈に分かって、「しまった!」と思いました。
岸田 なるほど、次からはわさび抜きで食べましょうってことですね。
山水 そうです。それ以降は、わさび抜きで。だし巻き卵とか、だしの味なら分かったので、そういうものを楽しんでました。
岸田 そして右の写真ですが、これすごい腫れてますね。
山水 はい、これは陽子線治療30回目のときの写真です。全部で35回ある中で後半に入っていて、火傷のようになって水ぶくれも出て、常に熱を持ってかゆい状態でした。軟こうも塗ってましたけど、リンパが滞って浮腫みもあって、顔が腫れています。
岸田 氷で冷やしたらいいんじゃないかと思うぐらいですけど、それはダメなんですね。
山水 そうですね、それは勧められませんでした。
岸田 なるほど…。その治療を経て、今に至るわけですが。次の写真は現在のお写真。左側は中学校の同窓会ですね?

山水 そうです。ちょうど私が肺転移した頃、同級生の友達が心配してくれて、励ますために同窓会を開いてくれたんです。私は何でもオープンに話すタイプなので、みんな知っていたんですよね。終わったあとに真ん中の2人から「元気になってほしくて企画したんだよ」と聞いて、本当にありがたかったです。
岸田 素晴らしい仲間ですね。I中学校?
山水 はい、I中です。全体の同窓会だったんですが、私が参加したのは2016年10月。実は9月に手術したばかりで、まだ胸のあたりが痛くて、ブラジャーを付けられなかったんです。
岸田 おお、それは…。
山水 アンダーの部分が擦れて痛かったので、ノーブラでしれっと参加しました。でも周りは私の病気のことを知らない人も多かったので、男友達が「おー!」って感じで普通にハグしてきたりして(笑)。
岸田 うわあ、もう。
山水 「ああ、来ないで」って思いながら(笑)。
岸田 難しいな。相手は全然知らんかったら、ただ拒否られてるって思うだけやもんな。
山水 そうなんです。でも久しぶりに来てくれたのはうれしいから「あー」って受け入れたけど、ちょっと空間を空けました。
岸田 その“空間”がかわいいですね。
山水 空間を持って(笑)。
岸田 日本人らしい。でもそうやって会いに来てくれるのは、本当にありがたいことですね。
山水 はい、ありがたいです。本当にいい友達を持ったと思います。
岸田 そして右側の写真は、聖火ランナーをしたときのものですね。
山水 そうです。2013年9月に東京オリンピックの開催が決まったとき、「2020年のオリンピックまで自分は生きているのかな」と思ったんです。オリンピックまで生きたい、この目で見届けたいという気持ちが強くあって。そんなときに聖火ランナーの応募を知って、地方にいても参加できる!と思って頑張って応募しました。
岸田 実際に走られて、本当に素晴らしい出来事でしたね。今につながっているんだと思います。ありがとうございます。
ではここから、30分ほど一問一答形式でお話を伺っていきます。コメントも来ていますね。「重粒子線治療だと滑舌に影響あるんでしょうか?」との質問です。
山水 多分、重粒子線のほうは晩期障害が重いんですよ。それだけ破壊力が強いので、もっとしゃべれなかったと思います。
岸田 そうなんだ。じゃあ山水さんが実際に受けた陽子線治療は?
山水 まだソフトなほうですね。
岸田 でも滑舌に影響はある、と。
山水 はい、それは間違いないです。私だけじゃなくて、重粒子線を受けた腺様嚢胞がんの仲間も、開口障害や発声障害など同じような症状が出ています。
岸田 なるほど。舌を切る・切らないに関係なく、治療によってそういう症状は出る可能性があるということですね。
山水 そうですね。ただ、そういう症状は7年、8年経ってから出てきました。
岸田 そうなんだ。
山水 最初の頃はちゃんとしゃべれてました。
岸田 今も十分、ちゃんとしゃべれていますよ。
山水 そうですね。でも7年、8年経った頃、コロナ前からですね。「自分の話し方、なんだかふにゃふにゃしてるな」って気づくようになりました。
岸田 大丈夫ですよ。ふにゃふにゃでも全然コミュニケーションは取れています。僕もすぐふにゃふにゃ、もにゃもにゃになりますから、そんなに変わらないです。
山水 ありがとうございます。
片道2時間半の送り迎え—母の支えと「弱い姿は見せられない」葛藤
岸田 では次のテーマに移りましょう。「親やきょうだいとの関わり」についてです。山水さん、ごきょうだいはいらっしゃいますか?
山水 一人っ子です。
岸田 そうなんですね。では親御さんとの関わりについて伺いたいのですが。告知のときには「付いてこないで」と伝えたとおっしゃっていましたが、入院中のサポートや嬉しかったことなどはありましたか?
山水 2か月入院していたのですが、1か月を過ぎた頃からホームシックになってしまって。特に用事はないのに「家に帰りたい」と言っていました。そこで、金曜日の午前中に陽子線治療を終えたら母に仕事を午前で切り上げてもらい、昼から迎えに来てもらっていたんです。片道高速を使っても2時間半かかる距離を運転して、F県まで迎えに来てくれて。夕方に病院を出て、月曜日の午前中まで家にいて、また昼から病院に戻る。そんな生活でした。動注治療で弱っているときは無理でしたが、3クールあったので、3回は家に帰ることができました。
岸田 送り迎えのサポート、本当にありがたいですよね。
山水 そうですね。自分ではどうしても帰れないので。
岸田 ご両親の動揺はどうでしたか?
山水 とても大きかったです。希少がんだと伝えたのに、母はがん関連の本を探しに本屋さんへ走ってしまって。でも、そんな本はありません。結局、何も得られず落胆して帰ってきた母の背中を見て、「弱い姿は見せられない」と強く思いました。泣いているところは絶対に見せたくないと。
岸田 周りの人が自分以上に落ち込む、がん患者あるあるですね。「今までどおりに接してほしい」と思う人が多いですもんね。ありがとうございます。
SNSも恋愛も最初からオープン—「がんを伝える」という選択
岸田 では次のテーマ、「恋愛と結婚」に移ります。山水さん、当時は独身だったということでよろしいですか?
山水 そうです。今も独身です。
岸田 そんな中での恋愛事情についてお聞きしたいです。がんになったからこその悩みもあると思います。「がんを伝えるかどうか」という大きなハードルもありますよね。その点はどうされていましたか?
山水 私は最初からオープンにしていました。例えばミクシィでは「がんかもしれない」と実況のように書いていましたし、Facebookでも「入院・退院しました。腺様嚢胞がんでした」と公開していました。今、お付き合いしている方にも、最初に会ったときに「私、2013年に34歳でがんになってね。そのせいで今こういう話し方なんだよ」と、あっけらかんと普通に伝えました。
岸田 あっちの反応は?
山水 「ああ、うん」みたいな感じでしたね。後から聞いたら「いきなりすごいことをしゃべってくるな」って思って、ちょっとびっくりしたって言ってました。
岸田 そうだよね。いきなりだと驚くこともあるよね。でも、拒否されたわけではなかったから大丈夫だったってことかな?
山水 そうですね。だから、今も関係が続いているんだと思います。
岸田 本当に良い方と出会われたんですね。ちなみに出会いのきっかけは? 昔の同級生とか職場とか、今だとマッチングアプリとかもあるけど。
山水 高校の同級生です。
岸田 昔の知り合いなんですね。
山水 ただ、高校はマンモス校で10クラスもあったので、在学中は存在をまったく知りませんでした。
岸田 なるほど。当時からの友人かと思ったけど、ほぼ初めましてみたいな感じなんですね。
山水 そうなんです。実は28歳のときに友達同士でご飯を食べたときに一緒にいたらしいんですけど、記憶がなくて。同行した女友達に聞いても「え?そうだっけ?」って言われて。
岸田 存在感が(笑)。その後は、何かの集まりで改めて知り合ったんですね。
山水 はい。共通の友達と一緒にバーベキューをして、そこでほぼ初めましての状態で知り合いました。
岸田 ほぼ初めまして。その後すぐに、今の話し方はがんの影響だと伝えたんですね。ありがとうございます。すごく参考になるお話でした。
「妊よう性」という言葉すら知らなかった2013年—後から知った影響
岸田 それから「妊孕性(子どもをつくる能力)」についても少し触れたいのですが、当時そのことについて説明や話はありましたか?
山水 全然なかったです。2013年当時は「妊孕性」という言葉自体を知りませんでした。知ったのはがんノートで教えていただいて、その後AYA世代のイベントや研修に参加してからです。調べてみたら、私が治療で使ったシスプラチン(プラチナ製剤)は妊孕性に影響がある薬だと知りました。治療中は実際に生理が止まっていたので「強い薬なんだな」という認識はあったんですが、先生から妊孕性に関する説明は一切なく、今も直接聞いたことはありません。
岸田 なるほど。先生たちも当時はそこまで意識されていなかったのかもしれませんね。今なら、ぜひ患者さん自身からも確認していただきたいと思います。
山水 そうですね。本当に大事なことだと思います。
「また転移や再発してしまう」—健康を守るために選んだ退職と新しい職場
岸田 では次のテーマは「仕事」についてです。先ほど、職場復帰後に5、6か月で退職されたと伺いました。治療中は職場で休みやサポートを受けられたとのことですが、実際はどうでしたか?
山水 とても理解のある職場で、上司にも恵まれていました。入院中も有休を使わせてもらっていて、消えてしまった有休も復活させてくれました。ずっと有休で休ませてもらって、使い切ったら傷病手当に移行させてもらいました。すごく良い会社でした。ただ、もともと接客の仕事をしていたんですが、私自身、接客業にストレスを感じやすかったんです。
教習所で働いてたんですけど、不特定多数のいろんな人が来るので、少しずつストレスをため込んでしまっていました。30代に入ってからずっと「仕事辞めたいな」と思っていて、がんになったときには「やっと休める」と思ったくらい、精神的には限界でした。復帰したんですけれども、繁忙期で「うちの息子は全然予約が取れないんですけど、どうなってるんですか?」という配車予約のクレームを一気に浴びてしまって。治療中はストレスフリーで過ごしていたので、一気にストレスがかかって「もう無理」となりました。「こんな生活を続けていたら、また転移や再発する」と思ったので、環境を変えようと思って、上司に辞めさせてくださいと伝えて退職しました。
岸田 だから、職場の人間関係や制度というよりも、職種の特殊な状況が合わなかったということなんですね。
山水 そうです。完全に私の問題です。
岸田 じゃあその後、今のお仕事ではがんのことを伝えましたか?
山水 面接の時点で伝えました。
岸田 今は障がい者就労施設の職員をされているんですね。
山水 そうです。
岸田 面接で伝えたときの反応は?
山水 「今の従業員にもがんの人がいるから、心配しなくて大丈夫だよ」と言ってくださって、そのまま採用されました。
岸田 理解がある職場でよかったですね。実際に働いてみて、不自由はありますか?
山水 利用者さんに「あれして、これして」と指示を出すんですけど、滑舌が悪くて伝わらないときがあります。特に「か行」が言いにくくて「え?」と聞き返されたりするんです。そういう面で、いつまで仕事を続けられるかなという不安はありますね。
岸田 いざとなったらカンペを持って、サッと見せるのもありですね。テレビのADさんみたいに。
山水 本当にそうですね。
岸田 でも職場の理解があるなら、とても良い環境だと思います。ありがとうございます。
陽子線治療に300万円—定期預金を解約、「人生で一番高い買い物」
岸田 では次は「お金・保険」について伺いたいと思います。治療費に関して、どのくらいかかって、どう工面したのか。保険は入っていたんでしょうか?
山水 当時、陽子線治療は先進医療で、2018年の4月からは頭頸部がんの一部で保険適用になったんですけど、2013年当時は約300万円かかりました。
岸田 300万円!一括で払ったんですか?
山水 そうです。独身でコツコツためていた定期預金を解約して、一括で300万円を払いました。治療が始まる前に、先に一括で支払う必要があったんです。
岸田 後で分割払いとかは、できなかったんですか?
山水 できたかもしれません、ローンが。でも貯金があったので、それを使いました。
岸田 切り崩して、300万円をドンと。車買えるくらいの金額ですよね。
山水 そう、プリウス買ったと思いました。でも私の人生で、一番高い買い物は陽子線治療です。
岸田 そうなんですね。ということは、民間の保険には入っていなかったんですか?
山水 アフラックさんに、私が19歳のときに親が加入してくれていました。助かりましたが、その当時は「先進医療特約」が存在しないがん保険だったので、最初は自分で払って、後から一時金をいただきました。
岸田 でも、それだけでは大きな金額には追いつかないですよね。
山水 そうです。陽子線治療以外にも入院費がかかって、限度額申請をしても毎月10万円ぐらいは必要でした。
岸田 なるほど。今は陽子線の一部が保険適用になっているんですよね。
山水 そうなんです。10年後くらいに標準治療になってほしいと思っていたら、5年後の2018年には保険適用になりました。自分の選んだ治療が間違ってなかったと分かって、うれしかったです。
岸田 先進医療というのは、効果を検証する段階で、効果が認められれば保険適用されて、誰でも使えるようになる仕組みですよね。限度額申請もありつつ。今は一部のがん種に限られるけれども、多くの方が使えるようになったということですね。ありがとうございます。当時はそういう状況で…。
山水 今は、医師からも勧められるようになっています。当時は家庭を持っている人だったら「そのお金を子どものために使いたい」と考える方も多く、勧めにくかったんです。でも今は保険適用になったので、治療の選択肢として安心して勧められるようになりました。
「頑張れない」と泣いた夜、38キロまで落ちた体重—治療中の苦しみ
岸田 ありがとうございます。では次は「つらかったこと・克服したこと」について伺います。肉体的、精神的にへこんだのは、やっぱり舌全摘と言われたときですか?
山水 そうですね、それもショックでした。でも、その後すぐに必死で情報を探しました。
岸田 なるほど。本当に一番つらかったのは?
山水 入院して1カ月経った頃ですね。ホームシックになっていた時期です。当時、職場の上司が毎日メールで「頑張れ」と送ってくれていました。
岸田 すごい上司ですね。
山水 私は職場復帰するまでの5カ月間、ずっと毎日メールをもらっていました。
岸田 え、すごい。俺だったら絶対忘れるから、30日分を送信予約にするかもしれない(笑)。でも、本当にいい上司ですね。
山水 そう、いい人だったんです。ただ「頑張ります」って言い続けていたら、1カ月たった頃に「もうこれ以上頑張れない。何をどう頑張ればいいの?」ってなって、涙が止まらなくなりました。そのときに、写真に一緒に写っていた職場の子にLINEで「もう頑張れないよ」って送ったら、「山水さんは十分頑張ってるから大丈夫、もう頑張らなくていいよ」って言ってくれました。その言葉を受けて「ああ…」ってなって、枕に顔を押し当てて泣きました。
岸田 そうか。周りはよかれと思って言う「頑張れ」という言葉や、毎日の連絡はうれしいけど、自分の心が限界になるときもあるよね。でも逆に、そうやって寄り添ってくれる人もいたんだね。
山水 本当に、恵まれていると思います。
岸田 そこから復活していったということですね。肉体的にしんどかったときは?
山水 「食べたいけど食べられない」「口に物を入れたくない」という状態でした。体重は最初45キロぐらいあったのに、38キロまで落ちてしまって。医師からは「何とか食べなきゃ駄目」と言われていましたが、とにかく口に入れるのが苦痛で…。ご飯の時間が来ると「ああ、また食べなきゃいけない。お腹減ってないのに食べなきゃいけない」と憂うつになって、残してしまう罪悪感もありました。それが一番つらかったです。
岸田 それって、食べられるようになったのはいつ?
山水 退院してからですね。
岸田 退院してから。
山水 はい。家ではうどんばかり食べていました。
岸田 食べやすいから?
山水 そうです。
岸田 そうやって工夫しながら、乗り越えていったんですね。ありがとうございます。
治療から10年、唾液減と舌萎縮—後遺症と向き合う日々
岸田 次に「後遺症」について。先ほど滑舌のことも出ていましたが、他にありますか?
山水 地味に嫌なのは、唾液が減って虫歯になりやすいことです。歯磨きも丁寧にして、タフトブラシや歯間ブラシ、フロスも使っているのに、定期健診で「前歯が虫歯です」と言われてしまう。1回で終わらなくて、「またか」と。こんなに頑張っているのに…って、報われない気持ちになります。
岸田 そっか、唾液って本当に大事なんですね。
山水 あと今、一番困っているのは滑舌です。舌をべーっと出しても伸びなくて、萎縮しているんです。だから発音できない言葉が出てきます。
岸田 か行とか、さっき言っていたね。
山水 そうです。生活に支障が出るようになってきました。
岸田 それは大変ですね。でも、舌を残せたことを考えれば…。
山水 はい。舌を温存できたんだから、舌がないよりは全然マシ。これぐらいは乗り越えないとと思っています。
岸田 ありがとうございます。
拒否し続けた肺の手術—「先生の言うことを聞いて良かった」振り返る今
岸田 次に「再発」について。山水さんは肺に転移したこともあったということで、それを知ったときはどうでした?
山水 予想より早く見つかってしまって、「仕事を変えて、環境を変えて、ストレスのない生活をすれば少しでも長く生きられる」と思って努力していたのに、「もう見つかってしまったんだ…」って。ちょっと早すぎるよ、という気持ちでした。
岸田 そうか。けれども結果的に手術して取り切れて、今につながっているわけですよね。
山水 はい。手術後は安心しましたし、今振り返ると、先生の言うことを聞いて良かったと思っています。駄々をこねてばかりいましたけど、最終的に手術を選んで正解でした。
岸田 胸腔鏡の肺の手術も、拒否していたけどやってよかったと。
山水 そうですね。
「嫌な顔せず診てくれた」セカンドオピニオン後も続く10年の信頼
岸田 では、医療者の方々への要望や感謝はありますか?
山水 私が出会った先生方は、今の私に必要な先生ばかりで、本当に感謝しています。特に地元の先生ですね。手術を勧めてくださったのに、私が別の治療を選んでF県で受けて、戻ってきて「フォローお願いします」と頼んだのに、嫌な顔をせずに受け入れてくれました。今でも10年たった今も、予約枠を2枠(30分)取って診てくださっています。
岸田 というのは?
山水 何かあったときのことを思って。
岸田 そういうことか。
山水 一応、多めに時間を取ってくれているんです。
岸田 めっちゃいい先生ですね。
山水 10年もあると、正直いろいろあったんですけど。でも本当に嫌がらずに診てくださっていて、感謝しています。
「保険の見直し」—レーシック優先で見送った先進医療特約への後悔
岸田 ありがとうございます。では次のテーマ、「過去の自分へ」。あのときに戻れるなら、自分にどんなアドバイスをしますか?
山水 とりあえず、保険の見直しですね。
岸田 そっちか(笑)。先進医療の特約ね。
山水 ちょうどその直前に、保険を見直そうかって話があったんです。でも私、レーシックの手術を受けたくて。新しい保険に変えるとレーシックが対象外になっちゃうから、「レーシック終わるまでは今のままで」と思って、見直しを見送ったんです。そしたらがんが見つかって、まさか先進医療を受けることになるなんて…。あのときに先進医療特約を付けておけばよかったのにって思います。
岸田 いや、それは難しい判断だよね。レーシックを待ってるタイミングで、保険を切り替えるってね。ちなみにレーシックはその後どうしたの?
山水 退院してすぐ受けました。
岸田 本当? じゃあそれは保険使えたんですね。
山水 はい、出ました。
イベントで会うのを楽しみに—希少がん仲間が支えた10年の闘病
岸田 よかったです。ありがとうございます。では次、「Cancer Gift」。がんで失ったものも多かったと思いますが、逆に得られたものは?
山水 一番は仲間です。希少がんだったのでブログを始めたら、ネット上でつながりが広がっていきました。最初に話したリーダーのHさんが、リアルの交流の場をつくってくださって、そこで出会えた仲間が本当に大きい。がんにならなければ出会えなかった人たちです。10年、一人ではしんどかったと思うけど、仲間がいたからイベントで会うのを楽しみにしながら生きてこれました。
岸田 仲間と出会えたことが、まさに「Cancer Gift」ですね。今も後ろにある「止まり木」のフラッグや、TEAM ACCのTシャツなど、そういう仲間とのつながりが続いている。
雪のない暖かい場所、パソコン1つで働く自由—がん経験後の夢
岸田 では次に「夢」、今後どうしていきたいかを教えてください。
山水 がんとは関係ないんですけど、いいですか?
岸田 もちろん。
山水 雪のない暖かい場所に住みたいです。
岸田 それは切実ですね(笑)。仕事のこともあるから簡単じゃないけど。山水県は雪で新幹線止まったりするもんね。
山水 そうなんです。私は北部に住んでいて、雪で仕事に行けないこともありました。仕事納めもできずに年を越したこともあります。車の運転も嫌で、スリップして事故したこともありますし。
岸田 最初は追突事故もあったしね。
山水 そう、本当に大変でした。だから暖かい所に住みたいのと、あとはパソコン1つでどこでも仕事できる生活を送りたい。それは病気になってからずっと思っています。がんになって雇ってもらえなくなっても、自分で生きていけるようになりたいですね。
岸田 すごく分かります。僕も飛び回りながら仕事したいって思うので、パソコン1つでできる仕事は憧れですよね。
山水 はい。
「患者を一人の人間として見てほしい」—QOLと情報格差への提言
岸田 ありがとうございます。では次に「ペイシェントジャーニー」に移りたいと思います。患者さんの歩みをグラフで示したものです。画面に映っていますでしょうか。まとめとしてご覧いただければと思います。上がテンションが上がった時、下が下がった時で、右に時系列で並んでいます。誕生日の翌日に廃車になって、その後、顎の痛みがあり、韓国でリンパマッサージを受けて激痛。ここ、赤色になっていますけど、赤はポジティブな出来事を示すんですよね。激痛なのに赤色になっているのはなぜですか?

山水 旅行に行って楽しい時間だったんですよ、それ以外は。
岸田 それ以外はね。
山水 だから。
岸田 なので上がっているということです、ありがとうございます。歯科を受診していって、口腔外科を受診していく。その後、そこでCTやMRI検査を受けて、組織生検をやっていった中で、がんの告知を受けていきます。そこからがん専門病院の頭頸部外科を受診して、舌の全摘を告げられる。これが標準治療というか、最善の方法だと説明されます。ただその後、PET検査をして転移なしで安堵して、放射線科で重粒子線治療の説明を受ける。そこからセカンドオピニオンに行き、そのセカンドオピニオン先で院長からの提案を受ける。だから、重粒子医療センターでの提案は院長からだったんですね。
山水 そうです。
岸田 院長からの提案で、手術をキャンセルして放射線の陽子線治療と動注化学療法に入っていくと。あれ? 重粒子線治療の説明を受けたのに、陽子線治療を選んだのは? 重粒子線治療の中に陽子線が含まれているってことですか?
山水 いえ、重粒子線と陽子線は別物です。動注と陽子線の組み合わせがベストということで選びました。
岸田 そういうことか。
山水 重粒子線だと単独になってしまうんです。
岸田 なるほど、ありがとうございます。陽子線治療と動注化学療法を併用された。その後退院して職場復帰。このテンションが一番下がっているところは、職場の対応や制度というよりは、仕事の内容や環境が大変で、その後、退職されたという流れ。そして右肺に影が見つかり、取ってみようということで胸腔鏡手術。ずっと拒否していた手術を受けて、結果、転移性肺がんと分かる。その後は経過観察を続け、現在は問題なく、聖火ランナーとして地元を走ったり、元気に過ごされている。これで合っていますか?
山水 はい。
岸田 ありがとうございます。追加で伝えたいことはありますか?
山水 医療者のことで言い忘れたことがあって。先生にお願いしたいのは、患者のバックグラウンドを知ってほしいということです。家族や仕事、何を大切に生きてきたか。私の場合は舌の温存、QOLを重視したいと伝えました。患者を一人の人間として見て寄り添ってくれれば、患者はその先生についていこうと思えるはずです。
岸田 なるほど。山水さんの場合は、何よりも舌を残すことが最優先でしたもんね。僕も医療者ではないけれど、手術の成績が良ければ、勧めてしまうかもしれないと感じました。けれども…どうぞ。
山水 もう一つは、希少がん患者のことです。全国どこの病院に行っても治療の選択肢は同じであってほしい。実際は病院や先生によって提案が違って、後から「そんな治療があるなんて知らなかった」となることが、今も起こっています。だから外科の先生であっても、他の治療法があることを示して、地方でも東京でも同じように提示してほしいです。
岸田 ありがとうございます。希少がんだからこそ、情報格差がないようにしてほしいですね。さて、ここまで大きく伺ってまいりました。ここからはインフォメーションです。この番組を協賛してくださっているアフラック様、IBM様、アイタン様、ありがとうございます。そして見てくださっている皆さま、コメントくださっている皆さま、本当に感謝です。
次に、この放送を見た後に、ゲストへのメッセージを募集しています。概要欄やコメント欄にフォームURLがありますので、山水さんへのメッセージを書いていただければ後日お届けします。
「あなたの経験は、誰かの勇気となり、希望に変わる」—闘病中のあなたへ送るメッセージ
岸田 では最後の項目です。「今、闘病中のあなたへ」。この番組を見ている方には、治療中の方もたくさんいらっしゃいます。その方々へのメッセージをお願いします。

山水 「あなたの経験は、誰かの勇気となり、希望に変わる」。これは前回AYA研とのコラボで自分が決めたメッセージです。私はブログを通じて、同じがん患者の役に立てていると強く感じました。自分の経験を誰かに話したり、SNSで発信すれば、それを見た人は「こういう治療法があるんだ」「この治療で元気になれるんだ」と知ることができます。きっと誰かの役に立っていると思うので、そういう思いで書きました。
岸田 ありがとうございます。きっと本当に、皆さんの経験というのは、他の人の役に立ったりすると思いますし、その一つとして「がんノート」も存在していければいいなと思っています。長時間になりましたが、山水さん、今日はお時間いただきありがとうございました。
山水 ありがとうございました。
岸田 言いたいことは全部言えました?
山水 ちょっと後半は聞き取りにくかったかもしれませんが、何とか最後まで話せてよかったです。ありがとうございます。
岸田 全然、むしろ後半ってどういうこと? 全然聞けてましたよ。
山水 本当ですか?
岸田 はい、大丈夫。しっかり聞こえてました。ありがとうございます。
では、本日の「がんノートorigin」、これにて終了です。ご視聴いただいた皆さん、本当にありがとうございました。次回の放送でまたお会いしましょう。バイバイ。
※本ページは、経験者の体験談を扱っております。治療法や副作用などには個人差がございますので、医療情報に関しましては主治医や、かかりつけの病院へご相談、また科学的根拠に基づいたWebページや情報サイトを参照してください。
*がん経験談動画、及び音声データなどの無断転用、無断使用、商用利用をお断りしております。研究やその他でご利用になりたい場合は、お問い合わせまでご連絡をお願い致します。