目次
- ゲスト紹介テキスト / 動画
- ペイシェントジャーニーテキスト / 動画
- 病院のことテキスト / 動画
- 副作用や後遺症のことテキスト / 動画
- 恋愛・結婚のことテキスト / 動画
- 家族のことテキスト / 動画
- 学校のことテキスト / 動画
- 仕事のことテキスト / 動画
- お金・保険のことテキスト / 動画
- 工夫していることテキスト / 動画
- メッセージテキスト / 動画
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インタビュアー:岸田 / ゲスト:菅原
- 山形県鶴岡市在住・市役所職員-冒険心旺盛な26歳の素顔
- 戦場カメラマンの夢から社会復帰まで 22歳がん疑いから26歳公務員への4年間
- 医療チーム・病院選択-母親の人脈が生んだ理想的な医療環境
- 副作用なしで迎えた社会復帰|運動習慣が支える健康維持
- 「結婚は諦めかけていた」から「恋愛したい」への心境変化
- 大学から手術まで 両親の経済的・精神的サポートへの感謝
- 治療タイミングの決断-留年して治療vs卒業して治療
- 定期検査と仕事の両立-事前告知が生んだ良好な職場関係
- 【治療費の現実】がん保険未加入で50-100万円-家族の支援への感謝の気持ち
- 希望がない言葉は封印、悩みは相談相手に
- Never Give Up-諦めない心が生む奇跡の法則
山形県鶴岡市在住・市役所職員-冒険心旺盛な26歳の素顔
岸田 今日のゲスト紹介をさせていただきます。菅原さんです。菅原さん、簡単に自己紹介をお願いできますか?
菅原 はい、皆さんこんばんは、菅原です。出身は山形で、現在も山形の鶴岡というところで暮らしています。仕事は市役所で働いています。趣味は旅行です。ちなみに、今お見せしているこの写真は、韓国の友達が徴兵前の最後の自由な時間に「どこか行きたい」と話し合っていて、北朝鮮の国境沿いに行きたいということで、自分も行きたかったのでちょうど一緒に行ったときのものです。韓国の兵士が「行ってらっしゃい」という感じで挨拶する…
岸田 いいですよ、いいですよ。通じます通じます(笑)
菅原 ニュアンスは通じるんです。
岸田 「行ってらっしゃい」と敬礼する感じのやつですね。
菅原 そうです、敬礼で、そのポーズで写真を撮りました。
岸田 ちょっと待って、さらっと言いますけど、国境の38度線のところですか?
菅原 そうです。ちょうど38度線の国境沿いで、数ヶ月前にアメリカの兵士が北朝鮮側に入ってきた事件があって、本来はもっと進めたんですが、そういった事情でそこまでしか行けず、そこで写真を撮りました。
岸田 そこで撮ったんですね!すごいです!皆さん、今回は菅原さんの波乱万丈な人生を見ていただくので、すごいなとか大変だなと感じてもらえると思います。菅原さんのキャラの強さはまだまだこんなものではありませんので(笑)、いろいろ見ていきたいと思います。
まずは私の紹介と、「がんノート」の紹介をさせてください。岸田と申します。25歳と27歳の時に胚細胞腫瘍という珍しいがんを経験しました。その経験から、今は「がんノート」の代表理事を務めています。
「がんノート」は、がん経験者さんにインタビューするYouTube番組です。医療情報に関しては医療従事者の方に教えてもらうのが良いと思いますが、それ以外の、家族や友人、学校、仕事、お金、恋愛、結婚、生活に至るまで、日常にフォーカスした「こういう時どうしたの?」という話を聞くと、多くの方がいろいろ教えてくださるので、それを皆さんと一緒にシェアできたらと思って番組をやっています。
暗い話もありますが、それだけではなくユーモアも交えながらお話しできればと思っています。今日はよろしくお願いいたします。
それでは菅原さん、がんの話をお願いします。
戦場カメラマンの夢から社会復帰まで 22歳がん疑いから26歳公務員への4年間
菅原 はい…。がんは23歳の時に肺腺がんと診断されて手術しました。最初にがんが疑われたのは22歳で、告知を受けたのが23歳です。ステージは一応ゼロで、初めの一歩という感じでした。
岸田 ステージゼロだったんですね。
菅原 はい。手術をして、今年で4年目になり、26歳になりました。今年27歳になります。
岸田 治療は機械がウィーンって動くやつで、手術は胸腔鏡手術というやつでしたっけ?
菅原 手術名はちょっと忘れましたが、胸腔鏡下で何か手術をしました。
岸田 内視鏡みたいな感じですね。ありがとうございます。いろいろ聞きたいことがありますが、なかなか波乱万丈の人生なので、順を追って話を聞いていきたいと思います。
岸田 では、これまでの経過を感情の浮き沈みをグラフにして伝えたいと思います。感情が上にいくほど調子が良く、下にいくほど落ち込んでいる状態を表しています。時間の経過に沿って、ポジティブ、ネガティブ、普通、治療などの吹き出しも入れていますので、まずはこちらをご覧ください。
岸田 ドン!こんな感じで18歳から24歳にかけて、感情が下がったり少し上がったりを繰り返しているということですが、最初は大学に入学した頃ですね。山形の大学に入学されたんですか?
菅原 いえ、東京です。子どもの頃から東京に住みたいという夢があって、東京の大学に行こうと思い、八王子の大学に入りました。
岸田 行きたい学部はあったんですか?
菅原 はい。もともと戦場カメラマンになりたくて、渡部陽一さんとか、シリア取材の安田さんに憧れていました。アラビア語が読めたらかっこいいなと思って、少数派のスキルでもあるので、そのノリでアラビア語を学べる大学を選びました。
岸田 へえ、戦場カメラマンになりたいってすごいですね。そこから上がっていくのは、留学の経験も関係しているんですか?
菅原 はい。がんになる前にも何度か死にかけた経験があって、悪い意味ではなくて、人がなかなか経験できないことを経験してきました。がん以外にもいろいろな死線をくぐり抜けた感じです。
岸田 なるほど。留学はどちらに行かれたんですか?
菅原 フィリピンとドバイにそれぞれ3ヶ月ずつ留学しました。
岸田 そして感情が下がっていきますね。留学から帰ってきて無気力状態になったということで、留学が楽しすぎたからなのかもしれませんが、これは大学生活の頃ですか?
菅原 はい。大学3年生の1月くらいから、みんなインターンなどでいろいろ動いていて、自分も沖縄に行ったりして参加していました。でも留学や遊びの期間が楽しかったので、そこから抜け出せなくなりました。行きたい企業もなくて、戦場カメラマンになりたいという気持ちもありながら就活に挑みました。
岸田 就活はしていたんですね。戦場カメラマンを目指すという方向性はどうなったんですか?
菅原 翌年にドバイで万博があって、そこをメインに受けようと思っていましたが、周りが就活していると焦って、自分もしなければと。でも、今思うと軸がなかったんですよね。軸がなくて、迷っていた時期でした。
岸田 なるほど。そこから無気力状態が続きますが、自衛隊を志願されたということですね。就活の一環だったんですか?詳しく教えてください。
菅原 就活がなかなかうまくいかなくて、夏に実家に帰ったとき、いとこに「就活どうなってる?」と聞かれ、どこも決まっていないと答えたら、自衛隊にコネがあると言われました。それで、ノリで受けてみようと思ったんです。そこからいろいろドラマがありまして。
岸田 ほう、それが次のお話ですね?
菅原 そうです。
岸田 「身体検査不採用」というドラマですね。これは少し詳しく教えてもらえますか?
菅原 はい。自衛隊は筆記試験の後に、身体検査、つまり体力や健康状態の検査もあります。それで総合的に合否が決まるんですけど、筆記試験はたぶん6割くらいは取れていたと思います。
岸田 うん。
菅原 でも身体検査のとき、検査する人から「体が曲がっているから、お医者さんにちゃんと診てもらったほうがいい」と言われました。実は高校生のころから背骨が曲がっているのがあって、もう一度詳しく診てもらおうということで病院に通いました。
岸田 背骨が曲がっているというのは、どんな感じですか?前に曲がっているのではなくて横ですか?
菅原 S字に曲がっているんです。S字状になっていて、それで病院に診てもらうことになりました。
岸田 なるほど。病院に行ったんですね。この「不採用」というのは、背骨のことが原因で不採用になったんですか?
菅原 正確な理由は分からないんですけど、いとこや友達によると学力で落ちることはまずないそうです。
岸田 うん。
菅原 落ちるとすれば身体検査で引っかかるか、面接で問題がある場合ですね。ただ、自衛隊も募集人数に対して応募者が少ないので、一般的な下の階級で落ちる話はあまり聞かないそうです。
岸田 なるほど。やっぱり体の問題で不採用ということですね。
岸田 そこからまた感情が下がっていくのは、遺伝子の病気の疑いが出てきたからですよね。身体検査で病院に行って、遺伝子の病気が疑われたと。
菅原 はい。病院でマルファン症候群という遺伝子の病気を疑われました。米津玄師さんも同じ病気で、国の指定難病かどうかは忘れましたが、その病気の可能性があると言われました。
岸田 疑いということですね。そこから肺に何か影があると分かって大学病院へ紹介されたと。疑われてからの経緯を教えてください。
菅原 マルファン症候群の疑いが出て、CTや他の検査を受けました。CTで肺に影が見えて、お医者さんがペンで指して説明してくれたんですが、最初はよく分からなかったんです。でもよく見ると少しもやがかかっている感じでした。八王子の大学病院に紹介され、検査を受けました。
岸田 その検査を受けたのがこの時だったんですね。
菅原 はい。そのときは、たぶん悪性ではないだろうという余裕もありました。
岸田 うんうん。
菅原 でも、がんの疑いがかかっていきます。
岸田 CT検査などで肺に何かあると分かり、大学病院で検査したらがんの可能性があると。
菅原 はい。検査しても悪性か良性か分からなくて、手術して取ってみないと分からないと言われました。ただ、20代前半で肺がんになる人はまずいないと言われたので、悪性ではないだろうと思っていましたが、一応がんの可能性もあると言われて、ショックで頭が真っ白になりました。自分ががんになるとは思っていませんでした。
菅原 ちなみに、大学の時まではタバコを吸っていました。
岸田 その時もタバコを吸っていたんですね。
菅原 ただ、タバコをやめたきっかけがあります。
岸田 何ですか?
菅原 病気の疑いがあった頃と重なるかもしれませんが、就活がうまくいかずストレスが強かった時期です。大学の女の子の友達と夜に散歩していて、仲の良い子から「叶成、マジで息くさいぞ」と言われました。
岸田 うん。
菅原 それが結構インパクトがあって。友達は冗談かもしれないと思っていましたが、異性から言われるのはあまりないことですし。
岸田 異性から「口臭い」って言われるのはショックですよね。
菅原 はい、すごくショックでした。
岸田 そのショックもあってタバコはやめたと、その時にもう。
菅原 そうですね。
岸田 ただ、がんの疑いで一番気持ちが落ち込んだのは、やっぱりがんが怖いとかそういうことを思ったからですか?
菅原 それもありますね。その時は「俺は将来どうなるんだろう」「いつ死ぬんだろう」とか考えていて、頭の中が真っ白でした。まさか自分ががんの疑いをかけられるなんて思っていなくて、病院で疑われた日の終わりからずっと泣いていて、顔がくしゃくしゃになるまで泣きました。
岸田 うん。
菅原 通っていた大学病院の近くに駅へ向かう途中に畑があって、そこに入って大泣きして、土の上に顔をバッタンバッタンとつけていました。
岸田 えぇ!
菅原 その日の夜にすぐ親父に電話しました。親父の会社の緊急携帯にかけて、「俺、がんの疑いがかけられた」とストレートに伝えました。
岸田 お父さんの反応はどうでした?
菅原 「そうか、まず落ち着け。泣いてばかりいないで落ち着け」と言われました。
岸田 うんうん。
菅原 自分はどうしていいか分からず、「生きている心地がしない」と言いました。畑の中でそう話した記憶がありますが、気づいたら家にいました。親父から「落ち着いたら電話しろ」と言われていて、電話をかけて、がんの疑いがあることを伝え、おふくろにも伝えるように言われましたが、「おふくろは忙しいから、仕事終わってから電話しなさい」と言われました。おふくろとはあまり電話で話さないのですが、親父とはもともと仲が良かったので相談しました。
岸田 お父さんと相談して、話を聞いてもらってということですね。その時期、気持ちが一番落ち込んでいたころですね。
菅原 そうですね。あと、涙の塩気と土の味が口に少し残っている感覚はまだ覚えています。塩辛さと土のにおいが混ざった不思議な味でした。
岸田 なかなか聞かない経験ですね。涙はわかるけど、土に顔をつけるなんて。相当な気持ちだったんですね。
菅原 そういうことだと思います。
岸田 そこから少し気持ちが上がって、がんの疑いがあったところから、地元の山形で治療することを決めた。これはご両親との電話などが大きかったんですか?
菅原 そうですね。ちょうど卒業のタイミングでもあって、選択肢としては、留年して就活を次の年にするか、一旦卒業して新卒は捨てて命を優先して治療を受けるかの二択でした。親のお金で学校に通っていたので就活もしたかったのですが、申し訳なさが勝って卒業して親を安心させ、大卒という称号を得ることにしました。親とちゃんと話して、地元で手術を受けることを決めました。
岸田 その決意で大学卒業もここに入れているんですね。
菅原 はい。普通なら卒業は喜びですが、気持ちは普通より少し低いところにありました。
菅原 卒業旅行や飲み会もあったのですが、友達からは「あの時お前尖ってたぞ」と言われました。
岸田 精神的に余裕がなかったんですね。
菅原 そうです。普通の自分ではなかったと言われました。
岸田 その後、地元の病院で治療、手術を受けられたわけですね。手術はスムーズにいきましたか?
菅原 はい。母が看護師で、病院には肺外科の先生がいなかったため、母の友達などのつてで隣の市の酒田市にゴッドハンドを持つドクターを紹介してもらいました。八王子の大学病院で手術する選択肢もありましたが、そちらだと胸に4カ所穴を開ける必要があると言われました。母の紹介のドクターは1カ所だけ穴を開けてスムーズに手術が終わり、八王子の病院で言われていた5〜6時間かかる手術が、2時間ほどで終わりました。
岸田 すごい!手術に長けた先生がいたんですね。
菅原 はい。
岸田 お母さんの人脈もすごいですね。
菅原 初めて母を尊敬した瞬間でした(笑)。
岸田 手術後、がん告知がありました。肺年齢が95歳って話もありますが、最初はがんの疑いで、病理検査で肺がんと確定したんですね。
菅原 はい。びっくりしました。
岸田 肺年齢95歳ってどういうことなんですか!?
菅原 もともと肺の手術の前後で肺の機能検査をしたんですけど、肺活量がすごく悪くて。
岸田 そういうことか。
菅原 肺年齢が95歳で、それでCOPDという慢性の肺疾患があると言われました。フルネームは忘れちゃいましたけど…。
岸田 ああ、それがこのCOPD、慢性閉塞性肺疾患ですね。
菅原 そうそう、病名が言えなくて先に話しちゃいました(笑)。
岸田 なるほど。だから肺活量が悪いのは、タバコの影響かと思ったけど、もともとCOPDだったってこと?
菅原 そうですね。実は生まれつき喘息があって、小さい頃から苦しんでいて。0歳の時は状態が非常に悪くて、2歳で肺炎になり生死をさまよったり、喘息も3歳くらいまで治らなかったんです。水泳をして少し落ち着いていたんですけど、結局肺が弱かったんだなと検査でわかりました。
岸田 僕も調べたんですが、COPDは別名「タバコ病」と呼ばれ、原因の90%以上が喫煙だそうですね。やっぱりタバコの影響も大きかったんだ。
菅原 親は吸っていないんですけど、僕は1日5本くらい吸っていました。吸う量は少なかったけど、もともと肺が弱いところに重なってしまったんだと思います。
岸田 結構苦しかったですか?大丈夫でしたか?
菅原 術後は本当に辛くて、術後1ヶ月はほぼ寝たきりでした。動けず、起き上がるのも大変で。退院時には自分で立てるようになりましたが、痛み止めを飲みながら徐々にリハビリしました。2~3ヶ月かけて家の周りを歩いたり、小学校の通学路を歩いてみたりしました。
岸田 リハビリしていたけど、精神的にも肉体的にも落ち込んでいったということですね。COPDの症状はその後どうでした?
菅原 よくわからないんですけど、当時は酸素ボンベを持ちながら歩いていました。東京でもこれを持って、シューシュー音を立てながら歩いていて。精神的に楽になったかはわかりませんが、持っていることで歩ける気がしていました。
岸田 酸素を持ち歩いていたんですね。
菅原 はい。でも東京に戻った時は、身体も精神も絶望的でした。ある時、友達と女の子がいるお店に行ったんですが、20代で勃たなくて…。
岸田 それはかなり深刻ですね…。
菅原 そうなんです。女の子を見ても特に興奮するわけでもなくて。もともと仲の良かった子の家に泊まった時にそういうことを話しました。友達に相談すると、「お店に行って試してみよう」と誘われました。
岸田 東京に戻ってから精神的にかなり辛かったんですね。
菅原 そうですね。肉体的にも精神的にも良くなくて。友達に「お前おかしい」と言われ、精神科に行ったほうがいいと言われました。自分でも行こうと思っていたので、地元に戻ってから精神科に通いました。
岸田 精神科では何て言われたんですか?
菅原 うつ病の一歩手前、適応障害の寸前だと言われました。2週間ほど家に引きこもっていて、お風呂に入れない日や食欲がない日もありました。
岸田 なるほど。整理すると、COPDで肺が苦しく、東京に戻ってからは身体の調子が悪く、性機能にも影響が出て、精神的にも引きこもりがちになり、地元に戻って精神科に通い、うつの一歩手前と診断されたんですね。
菅原 はい。その後は治療しながら少しずつ体力を戻し、できることから手伝いを始めました。4月から社会人として働く予定で、焦りもありました。
岸田 なるほど。
菅原 その期間も体力作りを頑張りながら、自宅で家の手伝いをしつつ過ごしていました。
岸田 なるほど。で、「社会人デビュー」というけど、それは具体的にはどういう感じ?どんな仕事についたんですか?
菅原 一応、派遣社員として働き始めました。当時はマイナンバーカードのマイナポイント関連の仕事があったので、まずは簡単な作業からやっていました。自分でお金を稼がないといけないという焦りもあって。
岸田 なるほどね。
菅原 それで社会人としてのスタートを切り、体力づくりも兼ねてジムにも通い始めました。
岸田 それはいいですね。
菅原 最初の給料でジムに通い始めて、徐々に体力をつけていきました。やっぱりこのままずっと派遣だけで働くのも厳しいので、何かスキルを身につけようと思ったんです。健康が何より大事だと、この経験を通じて痛感しましたから。
岸田 そして念願の転職も果たした、と。
菅原 はい。もともと公務員を目指していて、外国の方と話すのが好きだったので、市役所で国際交流に関わる仕事の求人があったんです。自分の市にそういう仕事があったので、そこに転職しました。
岸田 なるほど。自分の武器を活かせる職場だと。
菅原 そうですね。英語で話せる友人も増やせると思い、転職して今に至ります。
岸田 なるほど。公務員として市役所で働いているんですね。今は肺の治療はどうですか?肺がんの方は大丈夫なんですか?
菅原 はい。半年に一度くらい定期的に経過観察のために病院に通っています。
岸田 COPDの方はどうですか?
菅原 薬は毎日飲んでいますが、たまに忘れることもあります。生活には支障はないです。走ると息が上がりますけど、医師からは運動しないといけないと言われているので、できるだけ運動するようにしています。
岸田 心の調子はどうですか?今は落ち着いていますか?
菅原 適応障害と診断された時は2~3ヶ月ほど通院しましたが、今は大丈夫です。メンタルテストでも正常範囲内です。適応障害が3ヶ月以上続くと、うつ病と診断されることもあるんですが、僕の場合は薬は使わず、生活の中で目標を立てていくことで改善しました。
岸田 それは良かったですね。ありがとうございます。では、治療中の写真をいただいているので、少し見てみましょう。
(ドン!)
岸田 これ、菅原さんのキャラがすごく出ていると思うんですけど、左側の写真は何の時の写真ですか?
菅原 手術前か手術後か忘れましたが、病院の服を着ているので、おそらく手術当日の前後だと思います。
岸田 苦しそうな顔じゃないですよね?
菅原 ああ、たぶん完全に参っている顔だと思います(笑)。
岸田 「参ったよ!」って感じですね(笑)。こういう変顔が好きなのかもしれませんね。
菅原 そうですね(笑)。
岸田 右側の写真は退院の時ですか?
菅原 はい。退院して自由になった、病院生活が終わった時に撮ったものです。
岸田 「やったー!」という感じがすごく伝わりますね。
菅原 もう二度と手術はしたくないなと、この時は思いました。
岸田 そんなに辛かったんですね?
菅原 はい。今でも覚えていますが、手術後に下半身の大事な部分に管を通されて。
岸田 尿管カテーテルですね。
菅原 そうです。あれが本当に痛くて。おしっこを漏らさないように気をつけていましたが、痛みがすごくて、あの痛みは二度と経験したくないです。
岸田 本当に痛いですよね。ありがとうございました。ではここから、いくつかの項目に分けてお話を伺いたいと思います。
まず一つ目は病院や治療の選択についてです。シェアード・ディシジョン・メイキングという言葉もありますが、医療者に全て任せるのではなく、自分もしっかりと治療の意思決定に参加していくという考え方があります。
病院は八王子ではなく地元の病院を選び、その中でも名医と言われる先生のところで治療を受ける決断をされましたよね。お母様が情報収集をしてくれたということもあったと思いますが、ご自身の中でも納得しての決断でしたか?
菅原 はい。やはり家族が近くにいる安心感が大きかったです。正直、東京に残りたかった気持ちもありましたが、生活面や親のサポートのことを総合的に考えて、地元に戻るのが最善だと判断しました。
医療チーム・病院選択-母親の人脈が生んだ理想的な医療環境
岸田 先生や医療スタッフの対応はどうでしたか?良かったですか?
菅原 すごく優しかったです。検査は地元の荘内病院で受けたんですけど、市の病院に行ってたら、「あ!菅原くん!」みたいな感じで、やっぱりお母さんが知り合いで、そのつながりもあって、息子さんって名前を言えば看護師さんたちも分かってくれてたそうです。
岸田 うんうん。
菅原 看護師さんもお医者さんも本当に恵まれましたね。
岸田 それは良かったですね。やっぱり、変なストレスとか余計な神経は使いたくないですからね。ありがとうございます。
副作用なしで迎えた社会復帰|運動習慣が支える健康維持
「結婚は諦めかけていた」から「恋愛したい」への心境変化
岸田 がんになったことで恋愛や結婚の話って、相手に言うのにハードルがあったりすると思うんだけど、当時は彼女はいなかったんだよね?
菅原 はい、いませんでした。
岸田 その後、もし彼女ができたら、がんのことはどうしていきたいって思ってる?
菅原 言いますね。隠すのは好きじゃないし、がんの経験も自分の人生の一部だから、ちゃんと伝えたいと思っています。
岸田 今はもう問題ないってことやもんね?
菅原 そうですね。ただ、当時は将来結婚できるかすごく不安でした。
岸田 それはどうして?
菅原 がんのことや治療、副作用、再発の可能性など色々考えて、正直結婚は諦めかけていました。
岸田 なるほど、情報が多すぎて難しく感じてたんだね。
菅原 そうですね。
岸田 今振り返って恋愛についてどう思う?
菅原 恋愛はしたいと思います。ただ、自分は自由を大事にするタイプで、自由が恋人みたいなところもあるんです。
岸田 それもすごく大事だよね。好きな人ができたら結婚できればいいし、焦らずに自分のペースでいいと思うよ。
菅原 はい。周りの結婚報告とか見ると焦ることもあるけど(笑)。
岸田 じゃあ今は自由を楽しんでる感じかな?
菅原 そうですね。いい人がいたら紹介してください(笑)。
岸田 みんなよろしくお願いします(笑)。ちなみに僕は自分のしっかりした軸がある子がタイプなんだけど、
菅原 軸がある子、ぜひお願いします!
大学から手術まで 両親の経済的・精神的サポートへの感謝
岸田 では次に、家族のことについて聞かせてください。さっきお父さんお母さんの話が出てきたけど、ご両親のサポートはどうでしたか?あとは兄弟はいますか?
菅原 兄弟はいません。ひとりっ子です。
岸田 ひとりっ子なんやね。ご家族のことについて、父親や母親のサポートで嬉しかったことや、こうしてほしかったなと思うことがあれば、エピソードも含めて教えてください。
菅原 そうですね。もともと親は「ここに就職しろ」とか、あれこれ干渉してくるタイプではなかったので、それはすごくありがたかったです。今もあまり干渉されないですし、子どもの頃から「自分のやりたいことは後悔しないようにやりなさい」という方針だったので、とても恵まれていました。留学したり東京の大学に行ったりもできたので、そういう部分では尊敬しています。母親とは小学校から高校まで兄弟がいなかったので、喧嘩相手が母親だったんですよね(笑)。でも大学や留学、手術費など、両親には本当に感謝しています。お父さんお母さん、ありがとうございます。
岸田 ありがとうございます。なんかビデオメッセージみたいになってるけど(笑)。
菅原 お父さんお母さんがこれを見るかどうかはわからないですけどね。
岸田 そうやね。いつかググって出てきたときに見てもらえたら嬉しいなと思います。尊敬し合える家族って本当にいいですね。ありがとうございます。
治療タイミングの決断-留年して治療vs卒業して治療
岸田 では次に、学校のことについてお聞きします。さっき、がんの告知を受けてから卒業して治療に入るかどうか迷っていた話がありましたが、結果どう思いますか?今振り返って、最終的に卒業してから治療に入ったわけですが、どうですか?何かこうしておけばよかったとか、ありますか?
菅原 結果論なので結果論なんですけど、半分半分だったというか、卒業して治療に入ったのは正解だったと思います。大学の寮に入っていて、1・2年生の時に部屋で集まっていたみんなと「卒業はみんなと一緒にしたい」という話をしていたんですよ。
岸田 うん。
菅原 その話をしていて、自分は留年も視野に入れていたんですが、仲間と一緒に卒業できたのは大学での思い出の宝物です。だから卒業してから手術に入ったのは、選択肢として間違っていなかったと思います。
定期検査と仕事の両立-事前告知が生んだ良好な職場関係
岸田 ありがとうございます。では次にお仕事のことについてお聞きしますが、治療をしながら社会人デビューしたということですよね。今は市役所でお仕事をされているとのことですが、がんのことなどは、就職や仕事を始めた時に伝えましたか?それとも言わなかったですか?
菅原 最初は伝えましたね。病院に通っていたので、仕事を途中で抜けて検査を受ける日があることなどは、面接のときにあらかじめ話していました。
岸田 そうすると、職場も融通をきかせてくれたんですね。
菅原 はい、融通はききました。
岸田 伝えたことで、変な目で見られたり、若いのに…といったことはなかったんですか?
菅原 なかったですね。
岸田 むしろ、伝えたことで休みが取りやすくなったりしたんですか?
菅原 そうですね。事前に伝えていたので、休みも取りやすかったです。
【治療費の現実】がん保険未加入で50-100万円-家族の支援への感謝の気持ち
岸田 ありがとうございます。次にお金や保険のことについてお聞きします。さっきも親御さんがお金を出してくれた話がありましたが、民間の保険には入っていましたか?親御さんがかけてくれていたとか。
菅原 がん保険には入っていなかったですね。共済の保険だけでした。それと、自宅にあるお金でまかなっていました。
岸田 貯金などで治療費をまかなったということですが、差し支えなければどれくらい治療費がかかったか教えてもらえますか?
菅原 聞いたところ、50万円以上100万円未満くらいと言っていましたね。
岸田 そうなんですね。実は岸田さんの経験で、貯金が900円くらいまで追い詰められたという話を覚えています。
菅原 そうですね。貯金が913円でした。比べるのは難しいですが、自分は親に支えてもらって恵まれていたと思います。逆に、岸田さんのように自分のお金で治療を続けた方は本当にすごいなと感じます。自分は親がいなかったらどうなっていたか不安でした。
岸田 そうですね、その時はいろいろ考えますよね。でも高額療養費制度など、助けになる制度もありますし、そういった中でご両親に負担してもらえたのは、本当に良かったと思います。菅原さんがご両親としっかりコミュニケーションを取ってきたからこそだと思いますし、とても素敵なことだと思います。
希望がない言葉は封印、悩みは相談相手に
岸田 ありがとうございます。そんな中で工夫していることについてお聞きします。治療中でも治療後でもいいのですが、さっきジム通いを続けているとおっしゃっていましたし、東京に出た時には酸素ボンベを持ち歩くなどの工夫もしていると聞きました。そういった工夫で、治療中や今でも何か気をつけていることはありますか?
菅原 親父によく「ネガティブになるな」と言われていたので、できるだけネガティブな弱音は吐かないようにしていました。もちろん吐くこともありましたが、「もうダメだ」とか希望がない言葉は言わないようにしていましたね。
岸田 希望がない言葉を控えたと。
菅原 あとは筋トレを始めてからマインドが変わりました。復活してやろう、元に戻そうという気持ちが強くなりました。ハングリー精神とは少し違いますが、とにかく何としてでも元に戻るんだという闘争心のようなものがありましたね。
岸田 ちなみに、事前にいただいた資料には「紙に気持ちを書いてみよう」と書いてありましたが、そのことについてはどうでしょうか?
菅原 もともと相談できる人がいたので、自分は紙に書いて気持ちを吐き出すということはあまりやっていませんでした。友達や親に相談したり、電話をかけたりしていました。ただ、友達の中には気持ちを書き出すことで楽になると言っている子もいます。実際、その友達は1人相談相手のような存在で、何でも紙に書いて整理しているみたいですね。
岸田 つまり、菅原さんの場合は、相談できる相手に何でも打ち明けることが、つらい時を乗り越えるポイントだったということですね。
菅原 はい、その通りです。
Never Give Up-諦めない心が生む奇跡の法則
※本ページは、経験者の体験談を扱っております。治療法や副作用などには個人差がございますので、医療情報に関しましては主治医や、かかりつけの病院へご相談、また科学的根拠に基づいたWebページや情報サイトを参照してください。
*がん経験談動画、及び音声データなどの無断転用、無断使用、商用利用をお断りしております。研究やその他でご利用になりたい場合は、お問い合わせまでご連絡をお願い致します。