目次
- 【オープニングトーク】テキスト / 動画
- 【ゲスト紹介】テキスト / 動画
- 【ペイシェントジャーニー】テキスト / 動画
- 【お金・活用した制度】テキスト / 動画
- 【大変だったこと→乗り越えた方法】テキスト / 動画
- 【がんの経験から学んだこと】テキスト / 動画
※各セクションの「動画」をクリックすると、その箇所からYouTubeで見ることができます。
インタビュアー:岸田 / ゲスト:川村
【ゲスト紹介】

岸田 それでは、がんノートmini、スタートしていきたいと思います。きょうのゲストは川村さんです。よろしくお願いします。
川村 よろしくお願いします。
岸田 まずは川村さんの自己紹介から伺っていきたいと思います。こちらがゲストプロフィールになります。川村さんは東京都のご出身で、現在も東京にお住まい。そしてお仕事は訪問介護のお仕事をされているということです。趣味には「身体障害者野球」とありますが、まさに今、映っている写真もその様子ですよね。身体障害者野球というのは、どのようなスポーツなんでしょうか。
川村 基本的なルールは普通の野球とほとんど同じなんですが、違うところでいえば、バントなし、盗塁なし、などの制限があります。あとは走れない人がバッターのときは、「打者代走」といって、代わりに走ってくれるランナーを付けられるなど、障害に合わせたルールがあるのが特徴ですね。
岸田 なるほど。ルールを工夫しながら、みんなで野球を楽しめるようになっているんですね。
川村 そうですね。
岸田 そして、川村さんのがんの種類は左大腿骨の骨肉腫。かなり珍しい部位のがんですが、ステージの記載は「なし」となっています。これはどういうことなんですか。
川村 特にステージで告知されることはなく、「骨肉腫です」という説明だけだったので、ステージは伝えられていない形ですね。
岸田 なるほど、ステージ分類なしで告知されたということですね。告知を受けたのが20歳、そして現在が23歳。治療は手術と薬物療法とのことですが、川村さんのこれまでの人生にもかなり大きな紆余曲折があったと伺っています。
【ペイシェントジャーニー】

岸田 こんな中でどんなことがあったのか。それがペイシェントジャーニー、こちらをいただいております。紆余曲折感、最初は下がって上がって、下がって上がって、そしてどーんと下がっていってから、また少し上がっていくような流れですね。今もちょっと下がっている箇所がありますけど、そのあたりも含めて、いろいろお伺いしていきたいと思います。まず、一番上に行けばポジティブ、下に行けばネガティブという感情の流れになっているんですが、最初のところから伺っていきます。専門学校の2年生に進級。これはどういった専門学校だったんでしょうか。
川村 介護の専門学校です。
岸田 介護の専門学校で2年生に進級したと。そしてその中で、ここから一気に下がってくるのが「膝の痛み」。膝が急に痛くなったんですか。
川村 そうですね。ちょうど介護施設での実習が始まって1週間くらいした頃に膝が痛くなって、痛すぎてしゃがめない状態でした。
岸田 しゃがめないって、相当ですよね。それで「あれ?」と思って病院に行ったんですか。
川村 いえ、病院には行かなかったんです。
岸田 行っていないんですね。
川村 はい。自分が慣れている接骨院に行きました。完全に関節痛だと思っていたので。
岸田 なるほど。実習もあるし、卒業単位もかかっているし、すぐに休める状況でもなかったということですね。
川村 そうです。なので接骨院でだましだましやりながら実習だけは終わらせました。その後、接骨院の先生から「これは一度レントゲンが撮れるところへ行こう」と言われて、紹介状を書いていただきました。そこでレントゲンを撮ったら影が写っていて、その流れでMRIが撮れるところへ、さらに紹介されて行きました。それが3件目くらいですね。
岸田 そしてMRIを撮って、その結果を聞きに行ったと。
川村 はい。結果を聞きに行ったときに、「今すぐ大きい病院へ行ってきて」と言われました。ただ、そのときがちょうど年末。年末年始で病院が休みに入る直前だったんです。
岸田 年末年始、休みに入ると本当に動けなくなりますもんね。
川村 しかもその日は結果だけ聞きに行ったつもりで、たまたま携帯を忘れていたんです。「親御さんに連絡して」と言われても、「携帯がないです…」みたいな状況で。
岸田 うわ、それは大変や…。
川村 そのまま携帯なしで紹介先の大きい病院に行きました。でもそこでも「ここでは診れない。多分がんだと思うけれど、細かいことは分からない。年始になったら、もっと大きい病院へ行ってください」と言われて、大学病院を案内されました。ただ予約が取れず、年始の朝一で直接行きました。
岸田 朝一で大学病院に行って、そこからどうなったんですか。
川村 その日に即入院になりました。そして「明日、組織検査の手術をします」と告げられました。
岸田 ああ…それがこちら、「骨肉種の告知」につながっていくわけですね。組織を取って、そこで初めて骨肉種だと分かったと。
川村 そうです。
岸田 これ、どうでしたか。骨肉種だと告知されたときの気持ちは。
川村 でも、そんなにがっかりはしなかったですね。
岸田 え、どうして?
川村 入院した時点で、多分“骨肉種だろう”って言われてたんです。
岸田 あ、もうその段階で疑いがあったんですね。
川村 はい。確定できないから、まずは組織を取って確定させようっていう流れで。それに、先生がすっごくラフに言ってきたんですよ。
岸田 どんな感じだったんですか。
川村 「うん、川村君、がん」って、その感じで。軽いテンションで。
岸田 そんな軽く!? …でも事前にある程度覚悟があったぶん、衝撃は少なかったんですね。親御さんはどうでした?
川村 僕には見せてなかっただけで、多分ショックは受けてたと思います。
岸田 そうですよね…。そんな中で、川村さんのペイシェントジャーニーは次、少し上がっていきます。それが「成人式」。20歳ですもんね。
川村 はい。ちょうどその年でした。
岸田 成人式、行けたんですね。どうでした?
川村 主治医の先生に「意地でも行きたい」って言ったくらい行きたかったです。野球仲間もいますし、絶対行きたかったので。
岸田 行けてよかった…。でも、そのあとまた下がる。それが「抗がん剤治療」。シスプラチンとメソトレキサート。てっきり先に手術かと思ったら、まず抗がん剤なんですね。
川村 先生の話だと、なるべく抗がん剤で腫瘍を小さくして、切る範囲も小さくしようって方針だったみたいです。
岸田 抗がん剤、実際やってみてどうでした?
川村 トータルで言うと、思ってたほどではなかったです。でも、副作用はやっぱりきつかったです。最初の1週目が一番つらくて、ご飯も食べられないし、匂いでも吐き気がして。4人部屋だったので、他の人の食事の匂いでダメになっちゃったりしてました。
岸田 あぁ…それは本当にきついですね。食べられないうえに他の匂いが襲ってくる感じ。そこから徐々に慣れていった?
川村 はい。2週目からは普通に食べられるようになりました。
岸田 よかった…。でも、別の副作用が強く出たんですよね。どんなものがありました?
川村 シスプラチンだと、血小板や白血球、赤血球が一気にガタ落ちしちゃって。ピークのときなんて、白血球が「1桁」とかでした。
岸田 1桁…それは本当に危ないレベルですね。
川村 メソだと、中年のおじさんみたいな数値をいっぱい言われました。尿酸値が高いとか、肝機能が高いとか。「いや、まだ20歳なんだけど…」って思いながら。
岸田 20歳でそんな数値、ショックですよね。で、こういう抗がん剤の治療って、最終的にどれくらいやったんですか?
川村 シスプラチンが1週間+2週間休みのサイクルで、メソは1週間に1回を2週間。全部で8カ月やりました。
岸田 8カ月…長かったですね。
川村 長かったです。
岸田 ありがとう。そんな抗がん剤の中でも、ここからグッと上がる瞬間がありました。それが卒業試験合格。おめでとうございます!
川村 ありがとうございます。
岸田 これは専門学校の?
川村 はい、介護の専門学校です。前は卒業したらそのまま介護福祉士の国家資格がもらえる仕組みだったんですけど、僕たちの代から急に「国家試験を受けなきゃいけない」に変わったんです。
岸田 制度が変わったタイミングに当たったんですね。
川村 そうなんです。で、卒業条件に“卒業試験”が追加されてて、僕たちの代だけ二つ試験を受けなきゃいけない。二つとも受からないと卒業できないっていう。
岸田 それは大変…! よく乗り越えましたね。
川村 なんとか。
岸田 でもそのあと、気持ちがまた下がる。次が「アスレチック行きたい」というやつ。これはどういう気持ちだったんですか?
川村 入院って暇じゃないですか。やることないし、物もないし。それで、ずっとYouTube見てたんですよ。そしたら運動系のYouTuberがアスレチックやってるのを見て、「あー、やりたいな…」って。人間って、できなくなると逆にやりたくなっちゃうじゃないですか。
岸田 分かる。制限されるほど、恋しくなるんですよね。で、そこからまた下がっていくんですね。「卒業できない」。そして「卒業式出席」という流れなんですけど…どういうことですか? 卒業試験は合格したんですよね?
川村 卒業試験のあとも、数回だけ授業があって。あと、学校の定期テストも受けられていなかったので、先生たちがすごく話し合ってくれたんですけど…結果的に「ちょっと休学して、復学してからもう一度やったほうがいいんじゃない?」って言われて。
岸田 学校に行けなかった期間とか、色々な事情が重なったんですね。
川村 はい。あと3カ月ぐらいだったんですけどね。
岸田 それはきつい…。そんな中でも卒業式には出席したんですよね。卒業できないのに卒業式に行くって…なんか尾崎豊みたいな、乗り込んでいく感じというか。
川村 いや、普通に、同期のみんなを送り出したかったんです。2年間ずっと一緒だったので。
岸田 そうだよね。他のみんなは卒業するけど、自分はできないって…そりゃ気持ちも下がるよね。
川村 先生にも「意地でも行きたいです」って言って。しかも、その日に定期検査まであったんですよ。でも「行きたい」ってずっと前から言っていたので、朝一で病院行って、午後から卒業式に参加しました。
岸田 バタバタの中でも、ちゃんと行ったんですね。優しい気持ちが出てると思う。そのあとが国家試験の合格。なのに、なんでこんなにテンションが低いんですか。
川村 国家試験を受けたのが1月で、卒業できないって告げられたのが2月なんです。国家試験って“卒業見込み”が前提で受けてるので、卒業できないと資格が取れないんですよ。
岸田 そういうことか…。
川村 よりによって「合格してた」という…。
岸田 それはへこむ。よりによって…ね。でも、そこからまた少し上がるんですよね。それが左膝大腿骨人工関節置換手術。これはどういう手術だったんですか?
川村 左膝の部分を人工関節に置き換える手術です。
岸田 人工関節にしたら、やっぱり動き方、全然違います?
川村 全然違いますね。稼働域の制限もありますし。
岸田 走ることは、さすがに難しい?
川村 そうですね。フォームも崩れてるし、引きずってる感じになります。
岸田 そこからまた少し気持ちが下がるのが、リハビリ開始。リハビリ、やっぱり大変でした?
川村 大変でした。僕、野球のときも足で勝負するタイプの選手だったので、全然動けない自分を受け入れるのがきつかったです。ずっと体力で押していくタイプだったので、長所がなくなった感じで。
岸田 それはショックですね…。リハビリはどれくらい続いたんですか?
川村 結局、今も続けてます。
岸田 今もなんですね。
川村 病院では1年くらい前までリハビリをしていて、今は接骨院で稼働域を広げてもらったりしています。
岸田 ということは、今も日々続けているんですね。
川村 はい。自分でも家でやったりしてます。
岸田 その上で、ここからグッと気持ちが上がっていきます。抗がん剤治療の終了。8カ月、本当に長かったと思うんですけど、ようやくここで一区切り。そのあと、アルバイト再開、そして専門学校の復学という流れになります。やっぱり、戻ってみてどうでした? 日常が少し戻ってきた感じはありました?
川村 ありましたね。「やっと終わった…」っていう感じでした。シスプラチンで髪が抜けていたので、ようやく髪を伸ばせると思って。ウィッグも付けてました。
岸田 そっか、ウィッグしてたんですね。
川村 はい。今も飾ってあります。たまに親が「暗いところで見ると怖い」って言うんですけど。
岸田 たしかに、パッと見えたらビックリするかも(笑)。でも、治療が終わって、バイトも復帰できて、学校も戻れて…周りは普通に受け入れてくれた?
川村 もともと働いていたアルバイト先に戻ったので。辞めるときに支配人に「体調が戻ったら戻っておいで」って声をかけてもらっていました。
岸田 いい職場やなあ。
川村 専門学校も、復学の時期がちょうど学年の入れ替わりだったので、知らない子ばかりで最初は戸惑いました。でもみんなフレンドリーに接してくれて、ありがたかったです。
岸田 それはよかった。そして、ここで一番上がっていく瞬間が来ます。障害者野球への入団。これは大きいね。やっぱり野球、やりたかったんですよね。
川村 はい。リハビリの頃からバッティングセンターに行ってて、「やっぱり野球したいな」って気持ちがどんどん出てきて。調べたら、たまたま障害者野球が見つかったんです。
岸田 そういう世界があるって、知らなかった。ルールは違うけど、また野球ができるってすごいことですね。
川村 はい。大きかったです。
岸田 で、そのあと少し下がるのが…YouTubeのリハビリ動画のスタート。これはネガティブじゃなくて「チャレンジ」って感じだよね? どういう動画なんですか?
川村 自分が動いてるところとか、リハビリの様子とか、バッティングセンターで打ってる姿とか。あと、やったことのないスポーツに挑戦したり。
岸田 それ、めちゃくちゃ良い発信やん。川村君の名前で検索したら出てくる?
川村 本名じゃ出てこないです。
岸田 じゃあ、なんて検索したら見つかるの?
川村 “人工関節の水にあめ” で出ます。
岸田 はい、みなさん、“人工関節の水にあめ” です。検索しましょう。
川村 で調べたらヒットします。
岸田 ということです。ぜひ、皆さんも検索してみてください。
さて、ここからまた上がっていきます。次は……国家試験。あ、国会試験って書いてる。国会じゃない。
川村 それはもっとめでたいですね。
岸田 国家試験に合格ということで! 二度目のチャレンジで無事合格。そして就職へ進んでいくわけですね。
就職して、ここが少し下がってるのは……ちょっと複雑な気持ちがあったということかな。
川村 一応、下がったっていう位置づけにはしてますけど、もちろん就職して嬉しい気持ちもあります。ただ、人工関節が入っていて、稼働域に制限がある状況で介護職をしているので、「自分はどこまでできるんだろう」とか。支援する側でありながら、自分も支援を必要とする側でもあって、その複雑さがありました。
岸田 なるほどね。ヘルプマークも、利用者さんも付けているし、川村君自身も付けている。そこにある独特の感情というか、簡単に言葉にしにくいもの、すごく分かります。
川村 仕事をしていても、その辺りの気持ちは常にあって。
でも、今のところ1年間しっかり続けられて、今は2年目です。
岸田 すごいですよ。それは本当に胸を張っていいと思います。制限があっても、工夫しながら、続けていくって並大抵のことじゃないです。
【お金・活用した制度】

岸田 ありがとうございます。そんな道のりを経て、今に至っているということですね。
ではここからは、川村さんの ゲストエクストラ に入っていきたいと思います。こちらです。
活用した制度としては 高額療養費制度 を利用されたということ。そして、大変だったこと——これは メンタルの維持 や、以前の自分と今の自分のギャップをどう受け入れるか、そこが特にしんどかったということなんですよね。
川村 はい。本当にその通りで、治療前の自分と、治療が終わってからの自分って、全然違うんですよ。体力も、できることも、動き方も違うし、人工関節もあって制限もある。
「前の自分ならできたのに」って気持ちがどうしても出てきてしまって……。それが一番きつかったです。
岸田 その“擦り合わせ”って、言葉で言うのは簡単だけど、実際すごく大変な作業ですよね。自分を責めちゃったり、比べて落ち込んだりすることもあったと思います。
川村 ありましたね。どうしても比較してしまって。だけど、リハビリや周りの人の支えもあって、「今の自分でもできること」を見つけていく方向に、少しずつ気持ちが動いていったかなという感じです。
【大変だったこと→乗り越えた方法】
岸田 そんな中、どういうふうに乗り越えていったんですか、川村さんは。
川村 正直、すぐには乗り越えられなかったですね。メンタルが落ちてるときは、何をしても気持ちが上がらなくて。でも、とにかく外に出て“散歩”するようにしました。歩くだけでも、少し気が紛れるというか、頭の中が整理される感じがあって。
あとは、本当に気心知れた友達に話を聞いてもらうこと。変に励まされるわけでもなく、ただ「大変だったね」って聞いてくれるだけで、すごく救われたんです。
そして、やっぱり“ひたすらリハビリ”ですね。身体を動かすことでストレス発散にもなるし、「昨日より少しだけできる」とか、「今日はここまで曲がるようになった」みたいな、ちょっとずつ前に進んでいる実感が持てたので、それが一番、心の支えになりました。
あと、復学したときにクラスメートから“メッセージカード”をもらったんですけど、それも大きかったです。自分のことを覚えてくれてて、「待ってたよ」とか「また一緒に頑張ろうね」とか書いてあって。ああ、戻ってきてもいいんだって、少し気持ちが軽くなりました。
岸田 すてきですね。散歩や友達、リハビリ、そしてクラスメートの存在。いろんな小さな支えが積み重なって、川村さんを救ってくれたんですね。
続きがあれば、また整えますので送ってください!

岸田 そこまでいったら、あとは意地でもみんなの期待に応えて、という感じで。意地でもリハビリを頑張ってみたいな。
川村 はい。もう完全に“意地”でしたね。友達があれだけ言ってくれたのに、ここで投げ出したら、自分が一番後悔すると思ったので。だから、とにかくリハビリだけは手を抜かなかったです。動かない日があっても、気持ちが折れそうでも、「昨日より1ミリでもいいから前に進む」っていう気持ちでやってました。
川村 正直、リハビリ自体はしんどいし、できないことのほうが多いんですよ。でも、それでも続けてると、ほんの小さい変化でも「自分、まだ終わってないな」って思える瞬間があるんです。それがまた次の一歩になるというか。
岸田 友達の言葉を背中に受けて、“意地でもやる”っていう気持ちが、川村さんを支えてたんですね。本当にすごいと思います。
【がんの経験から学んだこと】
岸田 そんな川村さん、がんを経験して本当にいろんなことがあったと思います。学んだこととして、この言葉をいただいています――「友達のありがたさ」。ぜひ、こちらについてお話しいただけますか。
川村 恥ずかしいなあ…。でも、こういう機会だから言いますね。本当に、友達のおかげで僕は復帰できたし、この業界にも戻って来られました。メッセージカードをもらったときも泣きましたし、リハビリで折れそうになったときも、あのカードを見返して元気を取り戻したりして。“ありがたい”って言葉じゃ足りないくらい、大きい存在でした。
岸田 僕も、いろんな友達にメッセージカードをもらったりして、夜、メンタルが落ちてるときなんか、本当に救われたことがあります。
川村 夜って一番キツいですよね、本当に。いろんなこと考えちゃうんです。僕も実は…死にたいと思ったこと、数回ありました。がん病棟が5階にあったので、「このまま飛び降りたら」って考えたこともあるし…。電車に乗ってるときも、無意識に黄色い線を出て、一歩二歩、前に行ってしまうときがあって。ハッとして戻る、みたいな。今思えば、危ない場面が結構ありました。
岸田 それは本当にしんどかったね…。でも、そのときに友達からのメッセージカードや言葉が、踏みとどまる力になってくれたんですね。
川村 はい。本当に、あの存在がなかったら何度折れていたか分からないです。
岸田 本当によかった…一歩踏みとどまってくれて。そして今、こうして自分の経験を語ってくれて、闘病中の人たちや、いろんな人へ力を届けてくれていること、本当に感謝です。
岸田 川村君のペイシェントジャーニー、皆さんいかがでしたでしょうか。復学の葛藤、仕事への迷い、野球への情熱――本当にたくさんの思いを抱えながら進んできた道だったと思います。
これからもリハビリを続けて、さらに稼働域が良くなって、障害者野球でも活躍していってほしいと、心から思います。
岸田 本日は本当にありがとうございました。
川村 こちらこそ、ありがとうございました。
岸田 では、バイバイ。
川村 ありがとうございます。
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