性別 | 男性 |
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がん種 | 口・のど・鼻・耳 |
治療方法 | 手術 |
ステージ | Ⅳa |
罹患年齢 | 30代 |
目次
- 発覚/告知テキスト / 動画
- 治療テキスト / 動画
- つらかったことテキスト / 動画
- 家族テキスト / 動画
- 仕事テキスト / 動画
- お金・保険テキスト / 動画
- つらかったことテキスト / 動画
- 反省・失敗テキスト / 動画
- キャンサーギフトテキスト / 動画
- 夢テキスト / 動画
- 闘病中のあなたへテキスト / 動画
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インタビュアー:岸田 / ゲスト:渡部
【発覚/告知】
岸田 きょうのゲストは、亮さんです。
渡部 こんにちは、渡部亮といいます。がんの種類は舌がん、ステージⅣAでした。
渡部 2015年の8月36歳のときから闘病生活を送っております。現在は経過観察中で、今は40歳です。
岸田 舌がんということですが、今はきはきしゃべっておられますので、そこのお話も伺いたいと思っております。まずがんの発覚、告知の部分をお話ししていただきたいと思います。
渡部 私は全然自覚症状っていうのがなくて、趣味でサーフィンをしているのですが、たまたま2015年の8月に耳に水がたまりまして近所の耳鼻咽喉科に行くと耳の水はすぐに取れましたが、「他にどこか気になるとこない?」って言われ、ちょうど前週に首のリンパが腫れていた話をしたら、「じゃあ、口の中見てみましょう」となって診てもらうと、舌の腫瘍が発覚しました。
渡部 へんとう腺どころじゃなく舌のほうの腫瘍が発見されて「これは間質が怪しいからすぐに大学病院に行きなさい」と、紹介状を書いてもらいました。
岸田 そのとき口の中を見てもらったのは何かの検査で?
渡部 目視で見ただけなんですよ。言われてみると確かに、治りにくい口内炎みたいなのがあって、いつまでも傷っぽいなとは思ってたんですが痛いとかそういった症状はないので、ずっと放置してたんですよね。
岸田 最初はサーフィンしてて、耳に水がちょっとたまったから、それで耳鼻咽喉科、近くのクリニック的なところに行って、たまたまその後に舌を見てもらったら発覚したってこと?
渡部 本当にたまたま、大学病院のほうでそういった勉強をされてる先生だったみたいで、運よくというか。
渡部 翌週、大学病院に行って舌の組織を一部取りそれを検査にかけて分かったので、がんの疑いがあると宣告されたのは発覚して2週間後ぐらいになります。
渡部 ただ、まだ確定ではなかったですし、そもそも私が舌にがんができるっていうのを知らなかったので、あんまり深く考えてなくて、まあ大丈夫だろうみたいな根拠のない自信がありました。
岸田 大学病院では一人で告知を受けるわけですが、舌がんですと言われたときショック受けませんでしたか?
渡部 いざ言われてみると、当時はがんイコール死、みたいなイメージがあったので、いよいよやばいかなって思いました。
渡部 ただ、そのときの主治医の先生が最初に見つかったときはステージⅠなので、5年生存率は90パーセント以上。
渡部 舌も3分の1から4分の1ぐらい切るぐらいだから、発語明瞭度も80パーぐらいには回復するよってそのときの主治医の先生に言われて、であればしょうがないかなくらいに思っていました。
【治療】
岸田 治療はどんな感じで行いましたか。
渡部 若いからっていうことで進行も早いだろうと、主治医の先生が1週間後ぐらいに手術の日程を押さえてくれて、あれよあれよという間に手術日が迫ってきちゃったっていう感じです。
渡部 当時、放射線という頭もなくて、手術してちょっと切れば治るだろうみたいな結構、安易に考えていた部分がありました。
渡部 1回目の手術入院は2週間でしたね。
岸田 その後、10月にまた再発。
渡部 一回目に入院したのが8月の中旬ぐらいで、退院して職場復帰をしたのが9月の中旬ぐらいなんですが、その間は大体毎週病院に治療で経過観察で通っていて、実はその期間中に切った舌の部分にもしかしたらまだがんが残っているかもしれない、断端陽性かもしれないっていうことを主治医から告げられました。
渡部 不安にかられながら、セカンドオピニオンにも行きつつ経過を見ていたら、あるときに首の辺りにぽこっとしたビー玉大ぐらいのものがあることに気付きました。
渡部 がん再発の可能性を聞いていたのもあったので、いよいよ来たかと思いまして、次の診察のときに主治医に告げると、「もしかしたらがんかもしれない」というんですぐにCTの検査、血液検査とかもして、すぐ手術しましょうとなりました。
岸田 自分の病院に通いつつ、セカンドオピニオンも受けてたのはなぜ?
渡部 断端陽性って言われた時点で、1度目に手術した病院に少し不安があったので、断端陽性じゃなかったとしても心配で、恐らく舌はもう少し切ったほうがいいんじゃないかって思いがありましたので、セカンドオピニオンの病院に、もしやるとした場合、どのぐらい後遺症が出るのか、後遺症があまり出ない形で手術ができるのかっていうのを相談しに行き、QOLを重視するばっかりに、取る部分を減らした結果、残っちゃったかもしれないっていう状況を踏まえました。
岸田 もうちょっと切った場合どうなるのかと違う病院にセカンドオピニオンを聞きに行ったと。セカンドオピニオン先はどうやって決めたんですか。
渡部 私の義理の母が医者で、義理の兄も医者なんです。妻もがんの研究に携わっていたこともあって、結構真剣に調べてくれて、セカンドオピニオンを勧められました。
渡部 セカンドオピニオン先では、舌を今よりもう少し取って、場合によっては予防的に頸部郭清、首のリンパ節を取ったほうがいいんじゃないかってことを言われまして、結局、前の病院とやること変わらないとも思いましたが、結局セカンドオピニオンでの処置を選択しました。
渡部 理由としては最初の病院に不安があったということが、まず一つ。それから二つ目としては、治療をたくさんやっているほうがそれだけ手術の回数も多くやっているので安心できるし失敗も少ないかなと。
渡部 最初の病院も結構いい先生で、これを持ってセカンドオピニオン行きなさい、みたいにすぐに資料集めてくれて渡してくれたのでその点はよかったです。
岸田 最初の病院からセカンドオピニオンまでスムーズにいきましたか?何週間も待った、何カ月も待ったとかあるじゃないですか。
渡部 たまたま枠が空いたので、2週間後にできるよって言われてそんな後押しをされて、セカンドオピニオン先での手術を決めました。
岸田 不安じゃないですか、その2週間。
渡部 本当、自分は思考停止状態でしたね。もう家族任せ、医療者任せみたいなところであんまり考えないようにしてましたね。
岸田 このときはどれぐらい入院しました?
渡部 このときは40日間、入院しました。
渡部 なんせ、手術時間が10時間に及びまして、手術としては舌を半分切って、なくなった舌の部分に腕の肉を移植して、腕の肉のなくなった部分には、鼠径部、股の所の皮を移植してっていう手術だったので。
渡部 気管切開もしました。トータルで10時間かかった。
渡部 手術後はすぐICUに入って5日間いて一般病棟に移ってきたんですが、なんとそこで肺炎を併発して1週間ぐらい隔離されてそこで退院が延びて、もちろんある程度しゃべれるようにならないと帰してもらえないので、リハビリもしつつの入院でした。
渡部 初めは口から食べれないので、鼻から管を入れて経鼻経腸栄養で2週間。それが取れてから三分がゆとか、本当にもう柔らかいお米の形をしてないようなおかゆから始まりました。
渡部 3週間後とかの写真を見てもまだ腫れているので入院中はほぼ、腫れてたんじゃないですかね。
渡部 ただ、2週間も口を動かさないでいると、全然、口が開かなくなっちゃって、まず、口を開けるところから始まりました。
【つらかったこと】
岸田 入院治療中、つらかったこととか大変だったことは?
渡部 コミュニケーション取るのに、全てが筆談とかジェスチャーになるので、意思の疎通が大変だった。
渡部 ホワイトボードを用意したりもしましたし、手話の勉強もしたりしました。
渡部 入院中は言語リハっていうのがあって言語療法士さんが一緒にいて、あいうえおとかの朗読から始まるんです。
渡部 舌が半分なくなって、動かない所もあるので、自分が思ってる発音が全くできなくなってしまうので、なくなった状態でどう発声するかっていうのを学びながらリハビリをしていました。
渡部 舌の先を上に付けたりとか、舌をふさいだ状態にして音を出したりとか、一部分を当てたりとか、実はそういったことを自然とやってるんです。
渡部 通常は両端は上に付いていて、真ん中が開いてるとか、そういう状態を無意識のうちにつくりだしているんですが、私の場合は舌が半分ないんで、空洞というかぽっこり空いてしまっているのでそれをどう補ってしゃべっていくかっていうのをイメージしてしゃべっていかないといけない。
渡部 リハビリをやるときはどこを触れているか触れていないかすごく意識をしました。
渡部 昭和大学のリハビリが有名で、そこで器具を作ってもらって、自分の舌がどこに当たっているか、入れ歯みたいなのに電極が付いていて、触れた部分が分かるモニターがあって、そういうのを見ながらリハビリを。
渡部 こういう発声するときにはどこが空いているのかというのを、視覚的に学びながら発音の練習をしました。
渡部 そうしないと、なかなか思ったような言葉にはならなくて。
渡部 自分が人前で恥ずかしくなくしゃべれるようになったのに2年間かかりました。
渡部 家族との会話にも半年とか1年とか、かかりましたね。
【家族】
岸田 家族のお話を移っていきたいと思います。先にご両親とか、実家のことをお伺いしたいんですけど、がんになったときに、家族にどうやって打ち明けましたか。ご両親からどういったサポートを受けたらよかったなとか、こうしてほしかったというのはあったりしますか。
渡部 父が61で他界してしまっているので、今、親は母のみになります。あとは弟がいて、家族としては妻がいて、妻の親とお兄さんがいます。
岸田 お母さまとかには、どうやってがんということをお伝えしましたか。
渡部 そんなに深く考えないで親には、「病院行ったら舌がんって言われちゃってさ」みたいな軽い感じで話をしたんですが、自分の親っていうのはそういうのはセンシティブみたいで。
渡部 すぐに私が代わってあげたいみたいな暗い感じになってしまって。
渡部 弟には、寝てる間に舌をかんで、よく枕を血まみれにしたよねみたいなこと言われて。
渡部 舌ってたまにかむじゃないですか。
渡部 かんで、ちょっといつもよりも治らなかったりするじゃないですか。
渡部 それがしょっちゅうあったなっていうぐらいであんまり深く考えてなかったんですが弟はすごく冷静にそういうの分析してました。
渡部 最初の入院のときは、あんまり来ないでくれって言ってたのもあって、家族はそこまで来てないんですが、2度目のがん研には結構来てくれていました。
渡部 妻はほぼ毎日、生まれてまだ半年ぐらいの娘を連れて来てくれていました。
岸田 奥さんにどうやって伝えました? 一緒には告知を受けてないですよね。
渡部 彼女ががんの研究をしていたっていうこともあって、がんに対して免疫があったので、素直に話ました。
渡部 がんになったことを悔やむより最善の策を一緒に探しましょうという対応で、今思えば、妻がすごいしっかりしてくれていたので、私も泣き崩れることはなかったんだと思います。
岸田 その中で奥さんにしてもらってよかったとか逆にこうしてほしかったなっていうことありますか。
渡部 うれしかったのはさっき言ったとおり、毎日のように来てくれたってことはすごくプラスに働きました。比較的、わがままも聞いてくれました。
岸田 娘さんができてからのがんに宣告ですけれども、お子さんがいた部分で何か思うことがありましたか。今後、どのタイミングでカミングアウトするかとか、そういったこともお伺いできたら。
渡部 まず、がんになったとき娘はゼロ歳6カ月ぐらいでした。
渡部 毎日、病院に来て私の姿を見ていたので、彼女も何かは感じていたんじゃないかなと思います。しゃべるようになってからも、本人ががんという言葉をしゃべったりしてるんで分かってるんじゃないかなと思っています。
渡部 特に何かを伝えようと思ったことないんですが、彼女も何かを感じ取ってよく分かってるのではないかと思います。
岸田 奥さんががんの研究者であったことは心強かったですか。
渡部 そうですね。打ち明けるのも、あまり深く考えないで打ち明けることできましたし、何かあれば、相談とまではいかないですけど、話は聞いてもらえたのでよかったですね。
【仕事】
岸田 お仕事について、当時どうやってお休みをもらい、どうやって社会復帰をしていったか、お伺いできますか。
渡部 市役所勤務だったので、がんが発覚した時点ですぐに上司に話をして入院の手はずも取らせていただきました。
渡部 初めのうちは有給休暇を消化し、その後休職扱いにしてもらうのも、公務員だと1年半ぐらい認められているので、比較的休みは取りやすかったです。
岸田 当時、市役所でどんなお仕事をされてたんですか。
渡部 教育委員会のスポーツ科という所で、スポーツのイベントをやったり、スポーツ施設の運営をしたり、そういった仕事に携わっていました。
渡部 最初の時はどうしても自分じゃなきゃできない仕事があったので、それに戻るために8月末に退院して、9月の中旬には復帰しました。
渡部 当時、手話ダンスっていう事業に携わっていまして、高校生たちの手話パフォーマンス甲子園に参加するのに鳥取県まで引率しなければいけなくて、これはすぐに復帰して、彼女たちを連れていかなきゃいけないと思って引率しました。
岸田 そういう仕事して帰ってきて発覚ですもんね。
渡部 たまっていた仕事をこなしているうちに、またすぐにがんが見つかって、いよいよ手術、入院だってなって、そのときは無理やり休んだ感じになっちゃいました。
渡部 命に関わることでしたので。
岸田 2回目の復職は、職場復帰する前にスノーボードで復帰されてますね。まずスノーボードだったのは大会があったからとか?
渡部 12月の時点で医師に相談して、どうせ死んじゃうんだったらもう後悔しない人生にしようみたいなところもあって、仕事よりも先にスノーボードのほうが来ちゃいましたね。
岸田 職場復帰はスムーズに復帰できました?
渡部 自分が思っていたより大変でした。
渡部 しゃべれないにもかかわらず、復職後はそれまでと同じ仕事を求められて、電話を出るのも平等に出なきゃいけなかった。
渡部 同僚とかには上司が話をしてくれているものだと思ったんですが、ちゃんと伝わっていなかったので、同僚は職場復帰したら当然以前と同じように仕事するもんだと思っていたので、その辺の意思の疎通がうまく図れてなくて苦労しました。
渡部 当時は言葉がちょっと不自由になってしまっていたのでコミュニケーション取るのも億劫で、自分からあんまり話さなかったんです。
渡部 そこはすごく後悔している部分です。
渡部 一番困ったのは、お昼休みの1時間での電話当番。それが当時、しゃべれない自分の中ですごく嫌な仕事でした。
渡部 1人だし、コミュニケーションが難しかったら誰にも振れなくて自分で全部対応しないといけないというのがすごくプレッシャーだった。
岸田 そんな中での退職。仕事を辞めた理由って何があるんですか。
渡部 2018年ぐらいに入ってから、病気になったことでやりたかった仕事、やっていた仕事っていうのが結構、取り上げられてしまった部分があって。
渡部 上司の配慮というのもあったとは思うんですが、自分にしてみると、仕事を取り上げられたっていう感覚、閑職に追いやられたっていう感覚になってしまった。
渡部 こういう仕事がしたいとか、もっと話をしておくべきだったなって思いました。
渡部 一番はがんの偏見と誤解というのがあると思いますし、特に行政がそうなのかもしれないんですが、減点法というか、自分がどんどんマイナスに評価されてしまって、どんどん窓際に追いやられている感覚があったんです。
渡部 これって個人の問題じゃなくて、社会の問題なのかなとその時感じまして。
岸田 偏見や誤解が未だ社会の仕組みや風潮に残っていると感じたから退職して、それを変えようと市議に立候補されたんですね。
渡部 それこそ、岸君とかキャンサーペアレンツの西口さんとかの活動を見ていて、自身も社会貢献とかをしていきたいなという思いが高まりまして市議という選択肢に至りました。
【お金・保険】
岸田 お金について。当時、お金はどれぐらいかかりました?
渡部 高額医療制度があったので、だいぶ賄えたんですが、1回目の手術と2回目の手術全部、合わせて100万ぐらいかかりましたか。
渡部 それ以外にも生活費とかはかってますが。
岸田 保険には入ってましたか?
渡部 健康保険は入っていたんですが、がん保険は入ってなかったんです。
渡部 半年前にファイナンシャルプランナーの人と相談をして、がん保険を見直したばっかりで「うち、がん家系じゃないんで、がん保険要りません」って断ったばっかりだったんですよ。
渡部 親が入っててくれていた医療保険がたまたま結構出たので、少し赤字が出るぐらいです。
【つらかったこと】
岸田 つらかった事の克服について、肉体的、精神的についてそれぞれお聞かせください。
渡部 肉体的には退院後ですね。2回目の手術の退院後、まずしゃべれない、食べられない。
渡部 病院では上げ膳据え膳の食べやすい食事が出てくるのですが、いざ家庭に戻ってみると、全てが食べやすい食事ではなかったりするので人の倍以上時間がかかってしまうので、それが本当に大変だったなっていうのと、一番大変だったのはしゃべるほうでしたね。
渡部 しゃべるほうが本当に通じなくて、トラウマになったのは、レターパックライトが全く発音できなくて店員さんが私のしゃべり方を聞いた途端「すみません」って言ってバックヤードに入っちゃったんです。
渡部 これは社会から見放されたなとそれは本当にトラウマになって、孤独感とか疎外感を感じて、このまま死んじゃおうかなって思うぐらい追い詰められました。
岸田 やっぱり言いにくい行とかあるんですか。今は全然言えるようになっていますが、それは訓練して良くなるものですか?
渡部 4年たつとこのぐらいにはなりますね。もちろん、リハビリもある程度必要だと思います。
渡部 舌が半分なくてもこのくらいしゃべれるぞというのは、これを見て分かっていただけるかなと思います。
岸田 腕と脚も切ってるじゃないですか。肉体的なところではどうなんですか。動かすのが大変とか。
渡部 首の頸部郭清をすると、右肩が神経を触ってしまう感じで、上がりにくくなるんです。
渡部 今はもう動くようになりましたけど、当初は動かなくて。いまだに残っているのは、ここの皮膚を取った関係で親指のしびれが、いまだに残ってます。
渡部 今もここはしびれてる感覚がじんわりとありますね。
渡部 雨の日なんかは本当にぎゅっと突っ張られている感覚が常にあります。
渡部 今はもう上がりますが、当時はここから上がらなくてリハビリで上がるようになりました。
【反省・失敗】
岸田 反省、失敗。あのとき、こうしておけばよかったなということ、ありますか。
渡部 はい。仕事のとこでもお話ししましたが、もっと職場の仲間とコミュニケーションを取っていけばよかったなと思います。
渡部 自分の口で伝えないと駄目だなと思いました。
渡部 当時は本当にしゃべるのが嫌で極力しゃべらないようにはしていたので。
渡部 最低限、取らなきゃいけない場合は取っていたんですが、取らなくても済んじゃう人とコミュニケーションを取らなかったのは失敗だったなと思いました。
渡部 同じ職場で直接仕事の関わりがなくても、同じ空間にいれば実は向こうは心配してくれていると思うんです。
渡部 そこで自分の言葉で伝えるっていうのが、すごく大事なんだなって思いました。
【キャンサーギフト】
岸田 キャンサーギフト。がんになって失ったこともいっぱいあると思うんですけれども、あえて得たもの、得たことって何でしょうか。
渡部 がんになって得たものは、一番は仲間、家族の存在に気付けたことかなと思います。
渡部 家族の支えがなければ、がんを乗り越えることもできなかったと思いますし、スノーボードで活躍できたのも仲間の支えがあったからですし、選挙で当選できたのも仲間の力があったからこそだと思います。
渡部 それまで家族とか、仲間、友人というのは、いて当たり前だったと思うんです。
渡部 でもそれって実はすごくありがたいことなんだなって、病気になって気付けました。
【夢】
岸田 夢。今の亮さんの夢、何でしょうか。
渡部 これまで夢は比較的かなえられてきたかなと思うのですが、この後やりたい夢としては二つあります。
渡部 一つはスノーボードの全日本技術選手権大会で優勝したいっていうのがあります。
渡部 がんじゃない人達の中で私が活躍することは、今、苦しんでいる人たちの励みになったりとか、勇気、希望につながってくると思いますので、これは何とか達成したいと思っています。
渡部 もう一つは、皆さんにご信託をいただいて、市議会議員にならせていただきましたので、がんだったりとか病気もそうなんですが、生きづらさを抱えている人たちの生きづらさを抱えている人たちの、もっと暮らしやすい社会をつくっていきたいと思っています。
渡部 それはがんに限らず、病気もそうですし、障害であったりとか、LGBTとか、いじめの問題とかもさまざまあると思うんですが、そういった生きづらさを抱えている人たちも、誰もが暮らしやすい社会というのをつくっていきたい。そういうのが私の夢になります。
【闘病中のあなたへ】
岸田 亮さんから闘病中のあなたへ、メッセージをいただければと思います。
渡部 不撓不屈という言葉を選びました。苦労や困難にくじけない様を表しているんですが、諦めなければ必ず夢はかないます。
渡部 頑張りましょう。90分、楽しくお話しさせていただきました。ありがとうございます。
岸田 どうもありがとうございました。