目次
- ゲスト紹介テキスト / 動画
- 一度目のがんテキスト / 動画
- 二度目のがんテキスト / 動画
- 家族(親・きょうだい)テキスト / 動画
- 恋愛・結婚テキスト / 動画
- 妊よう性テキスト / 動画
- 学校テキスト / 動画
- お金・保険テキスト / 動画
- 辛い・克服テキスト / 動画
- 後遺症テキスト / 動画
- 再発テキスト / 動画
- 医療者へテキスト / 動画
- 過去の自分へテキスト / 動画
- Cancer Giftテキスト / 動画
- 夢テキスト / 動画
- ペイシェントジャーニーテキスト / 動画
- 今、闘病中のあなたへテキスト / 動画
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インタビュアー:岸田 / ゲスト:藤井
- 0歳と15歳で2度のがんを経験|17歳現役高校生が語る白血病・骨肉腫との闘い
- 生後6か月で脾臓の腫れを発見-若年性骨髄単球性白血病の診断と骨髄バンクからの造血幹細胞移植
- 部活の痛みと思い込み駅伝大会まで我慢|骨肉腫診断から陽子線治療・治療休止まで
- 母は密着サポート、父は一歩引いて応援-17歳がん患者を支える家族それぞれの役割分担
- 治療休止中にSNSで出会った彼女-「尊敬してる」と言われた病気告白と遠距離恋愛
- 0歳の大量抗がん剤治療で妊よう性への影響は覚悟済み-精子凍結せず治療を優先した17歳患者の選択
- 全日制オンライン授業を断念して通信制へ|治療スケジュールに合わせた学習スタイルの選択
- 府民共済と公的助成制度に支えられた治療費|小児がん患者家族の経済的サポート体制
- 「今この瞬間をいくら考えても変わらない」未来志向で乗り越える気持ちの切り替え方
- 移植後の肌の拒絶反応跡と心ない言葉-移植後遺症と向き合うための工夫
- 肺転移判明で絶望「立ち直るのはきつかった」セカンドオピニオンで見つかった転移への向き合い方
- 「患者本人に向かって話してくれないのが嫌だった」小児がん医療での患者中心アプローチの重要性
- 「もう少し早く病院に行けばよかった」vs「片足を失っていたかも」早期発見への複雑な想い
- 家にいること、ご飯を食べることが幸せ|がん治療で再定義された日常の価値
- 「まだまだ、こんなところでへばっているわけにはいきません」治療継続中17歳の不屈の意志
- 2度のがんと17年間のペイシェントジャーニー|白血病寛解から骨肉腫治療継続まで
- 「決断することを恐れず、考えることをやめないこと」-多くの決断を重ねた17歳からのエール
0歳と15歳で2度のがんを経験|17歳現役高校生が語る白血病・骨肉腫との闘い
岸田 ライブ配信開始ということで、「がんノートorigin」スタートしていきたいと思います。今日のゲストは藤井大輝君です。よろしくお願いします
藤井 藤井大輝といいます。若年性骨髄単球性白血病と骨肉腫という、2種類のがんに罹患し、現在も骨肉腫の治療を続けていて、もう2年間治療しています。今日はよろしくお願いします。
岸田 藤井君は今17歳なんですよね?
藤井 はい、17歳です。
岸田 高校生ということで、現役の高校生に出演してもらっています。自己紹介の前に、僕の自己紹介も少しさせてください。岸田と申しまして、25歳と27歳のときに胚細胞腫瘍という珍しいがんになりました。医療情報は医療者に聞けば教えてもらえるのですが、それ以外のこと——たとえば家族関係やお金のやりくり、仕事や恋愛、結婚のこと——はあまり情報がなかったんです。そこで、患者さんの体験談を共有し、みんなで知る場をつくりたいと考えて始めたのが、この配信です。
ではさっそくインタビューに移ります。藤井君は0歳と15歳のとき、2回がんを経験していますよね?
藤井 はい。
生後6か月で脾臓の腫れを発見-若年性骨髄単球性白血病の診断と骨髄バンクからの造血幹細胞移植
岸田 今日は1度目と2度目、それぞれに分けてお話を聞いていきたいと思います。まず1度目について。2005年12月、東京都で生まれ、その半年後くらいに小児科で脾臓が腫れていると診断され、市民病院に入院。肺炎を経て大学病院に転院し、若年性骨髄単球性白血病と診断されたそうです。この流れを聞いても、藤井君は覚えていないですよね?
藤井 そうですね。あとから両親や先生から聞いたくらいで、自分は0歳なので記憶には全くないです。
岸田 当時のことをお母さんやお父さんから聞くことはありますか?
藤井 あります。でも、2回目の骨肉腫になるまでは、あまり具体的には聞いたことがありませんでした。2回目のときに治療への興味が出て、「1回目はどんな感じだったの?」と軽く聞いたんです。母が日記を付けていたので、それを見ながら少し説明してもらった感じです。
岸田 なるほど。では1度目の病気について詳しくは知らないわけですね。ちなみに、若年性骨髄単球性白血病ってどんな病気かは知っていますか?
藤井 普通の白血病の中でも、どちらかというと慢性型だと聞きました。若年性と付いているので、本当に小さい子、たとえば生後間もない人がかかりやすい慢性の白血病だという理解です。
岸田 ありがとうございます。当時の印象に残っている話はありますか?
藤井 はい。最初に脾臓の腫れを見つけてもらったのが大きかったそうです。生後4カ月健診のあと、父の仕事の都合で東京から大阪に引っ越して、一番近くで有名な小児科に行ったときに、病院の先生から「何かがおかしい」と言われたそうです。母はそのときのことを今でも忘れられないと言っていて、その発見が命を救うきっかけになったのだと思います。
岸田 そうですね。ここで脾臓が腫れていることが分かって、そこから適切に治療して、市民病院に入院。肺炎になっていく過程もあって、がんが発覚する前からかなり大変だったんですよね。発覚前も、という言い方は変ですが。
藤井 そうですね。特に1度目の白血病のときは、診断がなかなかつかない状態で、ずっと入院はしているのに、はっきりした診断が出ないまま具体的な処置ができないという状況が続いていました。
岸田 そうだったんですね。赤ちゃんでがんのご家族というのは、本当に大変だったと思います。大学病院に転院して白血病と診断され、その後の流れは、2006年9月から大量の抗がん剤治療を開始。当時はまだ1歳になっていませんでしたよね。
藤井 そうです。1歳になる前です。
岸田 これは移植をするための前処置としての抗がん剤ですよね。その後、骨髄バンクでドナーが見つかり、造血幹細胞移植を受けることになります。当時の治療について、ご両親から何か聞いていますか?
藤井 はい。母がずっと付き添っていて、小さな体にあれだけ薬を入れて大丈夫なのかと心配していたそうです。それに加えて、ドナーさんが見つかるかどうかも大きな不安でした。見つからなければ、家族の中でどうするかという話にもなっていて、治療方針やドナー選びについてもかなり悩んだと聞きました。
岸田 本当に不安だったと思います。藤井君の記憶としては、いつ頃から自分のことを覚えていますか?3〜4歳くらい?
藤井 そうですね。普通の人が物心つくのと同じくらいの年齢だと思います。物心ついたころから、寛解後も定期検診に通っていたので、「自分は病気だったんだな」と少しずつ理解していきました。ただ、その時点では病名までは分かっていませんでした。
岸田 なるほど。でも、骨髄バンクでドナーが見つかって本当に良かったですよね。
藤井 はい。
岸田 型が合う・合わないという話もありますが、このときはどうだったか聞いていますか?
藤井 確かフルマッチだったと思いますが、詳しいことはあまり覚えていません。
岸田 全然大丈夫ですよ。むしろ覚えていたらすごいくらいです。藤井君の場合、家族からの移植ではなかったんですよね。
藤井 はい。3つ年上の姉がいるんですが、当時まだ3歳くらいで、そんな小さな子に移植をお願いしていいのかという問題もあったそうです。
岸田 確かにそうですね。
藤井 もし家族の中で移植することになっていたら、母から移植する可能性が高かったそうです。骨髄バンクでドナーが見つからなかった場合ですが。
岸田 そういう選択肢もあったんですね。結局、骨髄バンクでドナーが見つかって移植を受け、約2年後には白血病が寛解。その後は普通の生活に戻った、ということで合っていますか?
藤井 そうです。
部活の痛みと思い込み駅伝大会まで我慢|骨肉腫診断から陽子線治療・治療休止まで
岸田 ありがとうございます。1度目は白血病を患ったという経験がありました。そしてその後、2度目のがんにもなってしまいます。この2度目のがんについても、そこに至るまでにさまざまな経緯がありますので、順を追って聞いていきたいと思います。
2021年8月から11月にかけて、定期検診の血液検査で気になる数値があり、少し違和感を感じる程度の痛みが出始め、それが徐々に強くなって夜も眠れないほどになったそうです。このとき、藤井君は何歳くらいでしたか。
藤井 高校1年生だったので、16歳です。15歳から16歳のころですね。
岸田 このころもずっと病院に通って、定期検診を受けていたんですね。
藤井 はい。先ほどお話しした若年性骨髄単球性白血病が寛解した後も、年に1度は外来で定期検診を受けていました。血液検査を行ったり、2〜3年に1度は詳しい検査をしていました。
岸田 なるほど。その定期検診の中で違和感を覚える痛みが出てきたということですが、その痛みはどの程度だったんですか。
藤井 高校から陸上を始めていたんですが、練習中に股関節が上がらなくなってしまいました。特に左足が痛くて、アップのときに使うハードルも上げられなくなったんです。それからは、左足を上げたり開いたりする動きを避けるようになり、3カ月ほど続きました。
岸田 そこから痛みが強くなって、夜も眠れなくなったんですね。眠れないほどの痛みは、成長痛のようなものとは違いましたか。
藤井 はい。自分の場合はお尻から太ももの裏にかけての痛みで、骨というよりは肉離れのような感覚でした。楽な姿勢を見つけないと、筋肉が裂けるような痛みが続き、夜中に何度も起きては姿勢を変えていました。これが1カ月ほど続きました。
岸田 それだけの痛みがあっても、すぐに病院へ行こうとは思わなかったんですか。
藤井 ちょうど11月初めに部活の駅伝大会があって、それまではどうにか練習を続けようと思っていました。痛みはありましたが、強めの筋肉痛か肉離れくらいだと思っていました。
岸田 肉離れで走るのはすごいですね。
藤井 無理して動かしていました。それで病院にも行きませんでした。
岸田 そして、駅伝が終わったあとに整形外科を受診したんですね。
藤井 はい。でも「行こう」と思って行ったわけではなく、椅子に座れなくなってしまったんです。授業中もずっと立って受けていました。先生に「痛みで座れないので立たせてください」とお願いして、6〜7時間立ちっぱなしでした。
岸田 本当ならすぐ病院に行ってほしいですが…。その状態だと、クラスの人からは宿題をやってこなくて立たされている子みたいに見えたかもしれませんね。
藤井 そうかもしれません。
岸田 立って授業を受けるのも限界がありますよね。
藤井 はい。それで朝の会のときに「今日は本当にやばいかもしれない」と思い、1時間目が始まる前に保健室へ行きました。そこで「帰ったほうがいい」と言われ、そのまま早退して整形外科を受診しました。
岸田 近くの整形外科ですね。
藤井 はい。そこでレントゲンを撮ったら、左の骨盤あたりが真っ白で形も崩れていました。素人目にもおかしいと分かる状態で、先生も詳しい説明はせず、市民病院への紹介状を書いてくれました。
岸田 市民病院には翌日に行ったんですね。
藤井 はい。近くの市民病院は混んでいましたが、翌日行きました。そこでまたレントゲンを撮り、「うちでは診られないかもしれないので大学病院へ」と言われました。大学病院に行く前にCTとMRIを撮ったんですが、MRIは30分間じっとしているのが痛みで耐えられず、10分で中断してしまいました。11月末でしたが汗だくになるほどの痛みでした。
岸田 そうして市民病院から大学病院に行くことになったんですね。
岸田 自分としては、そのときの心境はどうだったんですか?「早く診断がついてほしい」とか「早く大学病院に行きたい」とか、どんな感じでしたか。
藤井 「やばいな」というのは分かっていたんですけど、「まあ大丈夫かな」という気持ちもあって…。でも何より、この痛みをどうにかしてほしいと思っていました。とにかく、この痛みをどうやって取ればいいのか、それだけ教えてほしかったです。痛み止めとか何か薬を飲めば引くのかなとずっと考えていて、「とりあえず何とかしてくれ」という気持ちでした。
岸田 藤井君、青春を取ったんだね。我慢してしまったんだ。そこから大学病院を受診して、そこでようやく骨肉腫の疑いが出たんですよね。
藤井 そうですね。これまでCTやMRIを撮っていなかったので、大学病院でCT・MRI・レントゲンの3つを総合的に見てもらったら、部位的にも骨肉腫か、それに似たユーイング肉腫などいくつかの疑いがあると言われました。そのときに「骨肉腫なのかな」とちらっと言われ、その日のうちに入院になりました。
岸田 痛みがある中、MRIで30分動かないのは辛かったんじゃないですか?。
藤井 大学病院では、その後の検査を痛み止めの点滴を入れた状態で受けました。
岸田 なるほど。
藤井 それでも本当に強い、麻薬レベルの痛み止めじゃないと効かないくらいで、大量に入れてもらいながら、何とか耐えられたという感じでした。
岸田 そして「骨肉腫かもしれない」ということで、そのまま生検のための手術を受けたんですね。
藤井 はい。
岸田 生検というのは、腫瘍の組織を採って何かを調べる手術ですね。MRIも耐えられないほど痛かったと聞きましたが、その痛みはやっぱり部活の影響だと思っていたんですか。
藤井 はい。800メートルをやっていて、足に一気に負担がかかる種目だったので、強い筋肉痛がずっと続いているような痛みだと思っていました。
岸田 そう思っていたんですね。ただ、その後の生検手術も大変だったとか。
藤井 そうですね。ある程度骨肉腫っぽいので、抗がん剤を入れるためのIVHポートも一緒に設置することになり、それも含めた手術でした。目が覚めたら管につながれていて、傷口も痛いし身動きも取れず、手術後の1〜2週間はかなりきつかったです。
岸田 その後の治療は手術で取り切るのではなく、2021年12月から抗がん剤治療に入ったんですよね。
藤井 はい。部位が骨盤で腫瘍も大きく、左だけでなく右や肺にも少しあったので、切除は難しく、まずは抗がん剤で小さくすることになりました。
岸田 でも、このときは骨肉腫という確定診断はまだ聞いていなかったんですよね。
藤井 そうですね。もしかしたら先生から言われていたのかもしれませんが、抗がん剤や手術後の痛みで毎日がつらく、記憶がほとんどありませんでした。
岸田 抗がん剤は全部で何クールやったんですか。
藤井 最終的に9クールです。3クール終わった時点でレントゲンを撮ったんですが、あまり小さくなっていませんでした。
岸田 肺にも転移していて、腫瘍も小さくならなかったと分かったときの心境は?
藤井 当初「10クールくらい」と言われていたので、そのつもりで頑張っていました。でも3クール終わっても効果がなくて、「この先7クールもやって効くのかな」と絶望しました。
岸田 その後も9クールまでやって、普通科高校から通信制高校に転校したんですね。
藤井 はい。前回の白血病治療は大阪で受けましたが、小学2年生のときに父の仕事で山口県に引っ越し、高校も山口で通っていました。痛みが分かったのは山口ですが、治療は大阪の大学病院にお願いすることにして、思い切って大阪へ引っ越しました。山口の高校には通えないので、やむを得ず通信制に転校しました。
岸田 そういうことか。大阪から山口、新幹線通学してたら相当やもんな。そのとき、「じゃあ大阪の高校じゃなくて通信制にしよう」と決めたんですね。そのあたりはまた後で学校の話としても聞きたいんですけど、通信制に決めて、通いながら治療していたということですよね。
藤井 そうです。
岸田 ありがとうございます。では、その次に進みます。藤井君は次の治療として、6月に陽子線治療を受けることになりました。放射線治療の一種ですが、これは抗がん剤治療でも腫瘍が小さくならなかったから、陽子線治療をやることになったんですか。
藤井 抗がん剤だけで腫瘍が治ることはまれで、手術や放射線治療が検討されます。僕の場合は手術で取り切れないため放射線になったんですが、いろんなところで話を聞いた結果、陽子線が一番いいだろうということで、それに決まりました。
岸田 陽子線治療は骨盤と肺、どちらに当てたんですか?
藤井 一応、骨盤だけです。肺は内臓に近く位置的にも危険だったので避けました。一番腫瘍が大きく動いていたのが左の骨盤だったので、そこを治療することになりました。
岸田 やってみて効果はどうでしたか。
藤井 腫瘍が動かなくなって、骨盤は落ち着きました。1年経った今も安定していて、今すぐ治療が必要な状態ではありません。
岸田 そうなんですね。
藤井 腫瘍の死骸のようなものが骨盤に残っていて、その分少し腫れていますが、陽子線が今までで一番効果があったと思います。
岸田 副作用で動かしづらくなるとかは?
藤井 陽子線後あたりから股関節の可動域が狭くなって、自分で靴ひもが結べないくらい固くなってしまいました。左足の筋力も落ちていますが、それ以外の強い副作用はありません。
岸田 靴ひもが結べないというのは、しゃがむ動作がきついということですか。
藤井 そうです。
岸田 ありがとうございます。そんな中、それが功を奏してなのか、治療をお休みすることになったんですよね。
藤井 はい。陽子線をやりながら抗がん剤も9クール終えたところで、体力的にも精神的にも限界でした。高校2年の夏で受験も意識し始める時期でしたし、主治医からも「ゆるい治療を続ける選択もある」と言われましたが、思い切って休むことにしました。
岸田 どれくらい休んだんですか。
藤井 肺に転移するまでです。
岸田 では次のスライドを見ていきましょう。2月までですね。
藤井 そうです。
岸田 セカンドオピニオンを受けに行ったのは、大阪の病院での治療中だったんですよね。
藤井 はい。腫瘍は残っていたので、生活をあまり崩さずにできる治療がないか、治験も含めて調べました。その中で治験の話だけでも聞きたいと思い、治験をしている病院にセカンドオピニオンに行きました。
岸田 なるほど。臨床試験をやっている病院の話を聞きに行ったんですね。
藤井 そうです。
岸田 そこで検査をしたら、肺に転移した腫瘍が大きくなっていると分かったんですね。
藤井 そうですね。治験は自分の適応ではないと言われてしまいました。
岸田 言われたうえで、「もう一度、画像なども含めて見せてほしい」とお願いしたんですね。そこでセカンドオピニオンを受けた病院で、いきなり肺のCTを撮ったら「この転移してる腫瘍、動いてて危ないよ」と言われて、そこで初めて分かったということですね。
藤井 はい、そうです。
岸田 危ないと言われて、そのまま抗がん剤治療に入ったんですか。
藤井 はい、3月からです。
岸田 その抗がん剤は、前と同じ種類ですか?それとも別の薬ですか?
藤井 7月から2月まで治療を休んでいたので、その間は塾に通ったり、外で交友関係を広げたりと、生活が安定してきた時期でした。そんな中での再発だったので、かなり絶望しました。前と同じ強い抗がん剤は精神的にも肉体的にも限界だったので、主治医と相談して、外来でできる抗がん剤に切り替えました。これなら1日病院に行くだけで済み、血球は下がるけれど以前の薬よりは生活が維持できると聞いて、その治療にしました。
岸田 精神的にも体力的にも、自分ができる治療をちゃんと医師に伝えて選んだわけですね。
藤井 そうです。
岸田 コメントでも「お医者さんに自分の意思を伝えられるのはすごい」とありますが、家族の意見も含めて、治療はどういう流れで決めていたんですか。
藤井 幸い、家族はずっと自分の意見を尊重してくれます。最終的には家族で話し合いますが、まず自分が治療の情報を聞いて「こうしたい」と説明します。付き添いや費用面で家族の協力が必要なので確認はしますが、方向性はほとんど自分で決めています。
岸田 素晴らしいですね。今は17歳ですが、当時も16〜17歳ですよね。
藤井 はい。自分がはっきり意見を言えるようになったのは、主治医の先生のおかげです。先生は患者の意見を第一に考え、常に選択肢を与えてくれました。「最終的に決めるのは君だよ」と言ってくれたので、治療を休む選択も自分でできました。疑問や希望はまず主治医に相談し、その結果を家族に説明する形でした。
岸田 なるほど。小児科の先生は本当にいい先生が多いですよね。看護師さんや薬剤師さんも含めて、全身全霊でサポートしてくれる。そんな人たちに支えられて、自分で選択してきたんですね。そして最後のスライドです。セカンドオピニオンで、自分の認識が違っていたことに気づいた。そして新薬が使える可能性があると知ったということですが、その「認識が違っていた」というのは?
藤井 今なら理解できますが、それまでは「抗がん剤をやり切れば終わり」「陽子線治療が終われば終わり」と、ゴールに向かっているつもりでした。でも、手術できない時点で標準治療ではなく、本当は延命治療に近いものでした。セカンドオピニオンで淡々と事実を説明され、自分の認識と違うと気づいてショックを受けました。
岸田 その事実をきちんと受け止められるのは素晴らしいことです。では、新薬が使える可能性を知ったときはうれしかったでしょう?
藤井 はい。延命治療だと言われると、薬はずっと同じものを使えないという現実もあります。体の限界や腫瘍の耐性で、薬はいつか効かなくなります。だから新薬が出て選択肢が増えることは、心の余裕につながりました。「今の治療の後にも道がある」と思えたことで、少し気持ちが楽になり、前向きになれました。
岸田 そうだね。選択肢があるっていうのは、気持ちの面でも全然違うよね。
藤井 はい。
岸田 そこから、その選択肢を使うために転院したんだよね。これは、さっき話があった関西の病院から、治験ができる病院、つまりセカンドオピニオンを受けた病院に転院したということ?
藤井 そうです。
岸田 そして新薬に変更して、今に至るわけですね。
藤井 はい。ちょうど今週から新薬に切り替えたところです。
岸田 しかも今回、藤井くんは某病院から参加してくれているんですよね。
藤井 そうなんです。今、病院で看護師さんにお願いして、2時間ほど一室を貸してもらっています。多分、普段は手術の説明などに使う部屋で、今はそこで1人で撮影しています。
岸田 まさか配信日に入院することになるとはね。
藤井 そうですね。
岸田 ただ、体調も安定しているとのことで。新薬の調子はどうですか?
藤井 新薬は服薬タイプなので、血球が下がりにくいらしいです。これまでの抗がん剤のように気分が落ち込むことも少なく、手や足に少し違和感が出る可能性はあると聞きましたが、今のところ症状は出ていません。体調も変わらず、むしろ少し退屈しているくらいです。
岸田 その退屈に刺激を与えられているなら嬉しいです…いや、ちょっと調子に乗りすぎました、すみません(笑)。そんな中で出演してくれてありがとうございます。
さて、ここからは藤井くんの写真を振り返っていきたいと思います。まずはこちらの写真。これはいつ頃のものですか?
藤井 これは、1回目の治療が終わったか、もしくは治療中の骨髄移植前に一時帰宅できたときの写真です。まだ0歳のときですね。
岸田 かわいいね、本当に。そして次の写真がこちら。一番右に写っているのはお姉さん?
藤井 はい。七五三のときに撮ったもので、隣にいるのが三つ上の姉です。
岸田 それぞれの写真は、いつ頃のもの?
藤井 左上のサッカーは幼稚園時代です。幼稚園がスポーツに力を入れていて、その一環でみんなでサッカーをしていました。右が七五三の写真で、真ん中の野球は小学校6年生のときのもので、小学生の頃は野球をやっていました。
岸田 そしてこの…
藤井 一番左のは小6の運動会のときの応援団の写真です。最後の決めポーズを撮られたもので、ちょっと恥ずかしいですね。
岸田 すごい「ぐわっし!」って感じ(笑)。
藤井 やめてください、普段からやってるみたいに見えるじゃないですか(笑)。
岸田 この頃はまだ2度目のがんになる前、白血病のときだよね。制限はあまりなかった?
藤井 寛解してすぐは日焼けや乾燥、ドライアイに注意するよう言われていましたが、小学校に入ってからはあまり気にせず、普通に運動していました。特に制限もなく、スポーツ好きな子として過ごしていました。
岸田 そのときしかできないこともあるしね。そしてこれは?
藤井 中3のときの、最後の野球の大会です。小1から中3まで9年間、野球をやっていました。
岸田 駅伝の話が出てこないけど、それは?
藤井 陸上は高校からです。
岸田 なんで野球から陸上に?
藤井 高校野球はほぼ全ての時間を部活に費やすことになるので、勉強と両立が難しいと思ったんです。大学進学を目指していたので、時間的に余裕のある陸上部に入りました。
岸田 将来を見据えた選択だったんだね。すごいな。では、ここからは家族やきょうだいの話に移りましょう。三つ上のお姉さんがいるんですよね。
藤井 はい。
母は密着サポート、父は一歩引いて応援-17歳がん患者を支える家族それぞれの役割分担
岸田 お姉さんとの関係性について伺いたいんですが、病気のことで大変だったり、サポートしてくれたりしたことはありますか?
藤井 そうですね。1度目のときは、姉も3歳だったので、母は自分の付き添いでずっと病院にいて、父は仕事をしながら、土日にはお弁当を作って持ってきてくれるという生活でした。なので姉はほとんど放ったらかしになってしまって。ちょうど3歳という、一番親との思い出をつくる時期に、おじいちゃんおばあちゃんのいる山口県に1年間預けられることになったんです。後から聞いた話ですが、そのとき姉も相当つらい思いをしたようです。1度目の治療では、そういう意味で姉にも大きな負担をかけてしまったと思います。
岸田 そっか。じゃあ、2度目のときはどうでした?
藤井 2度目のときは、ちょうど姉が大学1年生になって寮生活を始めたタイミングだったので、別の県で暮らしていました。長期休みしか帰ってこない感じで、2回目のがんが分かったときも近くにいなくて、母から電話で知らされたそうです。1回目の経験もあって、不安もあったと思いますが、長期休みのときや、今入院しているこの時期にも面会に来てくれます。あまり心配し過ぎないように、家族の時間は治療以外の話をするように気を配ってくれているのかなと、勝手に感じています。
岸田 なるほど。では、ご両親からはどんなサポートを受けていますか?
藤井 母は未成年の自分に付き添って、外来や先生の話を一緒に聞いてくれました。自分で決断するとはいえ、迷ったときには母を頼ります。ほとんど自分のことを全部話している関係なので、決断のときは母とよく話します。父は逆に一歩引いていて、自分が決めたことを尊重して応援してくれる立場です。
岸田 なるほど。逆に「こうしてほしい」という要望はありますか?批判とかではなく。
藤井 2回目のがんが分かってから2年経ち、その間に「こうしてほしい」とはかなり伝えてきたので、今はとてもいい環境で治療できています。
岸田 すごい。ちゃんと言いたいことを言えて、良好な関係で治療できているんですね。
藤井 はい。
岸田 それも、ご両親やきょうだいのサポートがあるからこそですね。ありがとうございます。では、次の項目にいきましょう。恋愛や結婚についてです。高校生だと、こういう話題もあるでしょう?
藤井 そうですね。
治療休止中にSNSで出会った彼女-「尊敬してる」と言われた病気告白と遠距離恋愛
岸田 恋愛や、結婚まではまだ先かなと思うんですが、恋愛についてはどうですか。
藤井 今は、去年の夏からお付き合いしている彼女がいます。
岸田 おー。
藤井 ちょうど治療を一度お休みしたタイミングで出会った彼女です。それまでは全く恋愛という気持ちになれなかったんです。山口から大阪に引っ越してきて、友達関係や学校など全部置いてきた状態で、治療中は恋愛のことなんて考えられなくて。でも、一度休みを取ったときに「自分も周りと同じ年代なんだ」と自覚して、考えるようになりました。
岸田 じゃあ、彼女ができたのは、治療を一回お休みしたときなんですね。
藤井 そうです。
岸田 聞きすぎだったら止めてください。山口で高校生活を送り、大阪で治療していた中で彼女ができたわけですが、きっかけは何ですか?
藤井 SNSです。コミュニティがない中で、友達や交友関係を広げられたらと思って始めたのがきっかけです。通信制だったので、外で友達をつくるのが難しかったんです。
岸田 SNSでの交流ってどうやるの?フォローしてコメントし合って…みたいな感じですか?
藤井 そうですね。自分が話せる話題や趣味のある場所に入っていき、その中で交流を深める感じです。音楽やファッションが好きなので、そういう共通の話題から仲良くなっていきました。
岸田 入院中は特に外で友達を作るのが難しいですもんね。そんな中で彼女とも会ったことがあるんですよね?
藤井 はい。
岸田 病気のことはどのタイミングで伝えたんですか?
藤井 最初は全部話すのが怖くて、少しずつ匂わせる程度でした。具体的に話したのは、2月に肺転移が分かったときです。再び治療に入ることになり、メンタル的につらいときに弱音を吐く中で、詳しく話せるようになりました。
岸田 相手の反応は?
藤井 「尊敬してる」と言ってくれました。自分が想像していたのと全然違う反応で、その姿勢にすごく助けられています。
岸田 今は遠距離なんですよね。
藤井 はい、もともと遠距離です。でもSNSでつながっているので、会う機会は少なくても関係を続けられています。
岸田 じゃあ今は病気のこともちゃんと伝えて、支えてもらっているんですね。
藤井 そうですね。
0歳の大量抗がん剤治療で妊よう性への影響は覚悟済み-精子凍結せず治療を優先した17歳患者の選択
岸田 ありがとうございます。では次に、妊よう性についてお聞きしたいと思います。妊よう性というのは、子どもを授かる能力のことを指しますが、藤井君は治療のときに、その話はありましたか。
藤井 はい。2回目の治療が始まる前に、先生から一応説明がありました。ただ、自分の場合は、1回目の大量の抗がん剤治療の影響で、その時点ですでに妊よう性はかなり難しいだろうと言われていたんです。なので、2回目の治療に入るときも「妊よう性を考慮して治療するかどうか」という選択ではなく、もう1回目の時点で覚悟していた感じでした。
岸田 ということは、精子凍結などの妊よう性温存はしていないということですね。
藤井 はい、していません。
岸田 今、自分の妊よう性がどうなっているかは、検査しないと分からない状況ですか。
藤井 そうです。
岸田 1回目の治療も受けているし、妊よう性のことよりもまずは治療を優先した、という考え方ですね。
藤井 そうです。
全日制オンライン授業を断念して通信制へ|治療スケジュールに合わせた学習スタイルの選択
岸田 ありがとうございます。では次に、学校のことについてお伺いしたいと思います。さっき藤井君は、通信制高校に転校した話などをしてくれましたが、まずは1度目のがんのときのことを簡単に聞かせてもらえますか。1度目のがんになった後、外に出ないようにと言われても外に出て遊んでいた、活発な時期もあったようですが、小学校や中学校で特に大変だったことはありましたか。それとも問題なく過ごせた感じですか。
藤井 そうですね。ただ、移植後に後遺症のようなものが残っていたので、小さい頃はそれが気になってつらい時期もありました。小学校低学年や幼稚園のときは特にそうでした。でも、高学年や中学になると、周りもそういうことを口にしなくなって、気にならなくなっていきました。
岸田 じゃあ、受験は普通に行きたいところを考えて受けた感じですか。
藤井 高校受験のときは、遠くに行けないなどの制限もなく、普通の人と同じように選択できました。
岸田 そして高校に進学してから、がんが見つかったんですよね。そのときの友達との関係や勉強はどうでしたか。
藤井 勉強は不安でしたけど、逆に治療の気を紛らわす存在でもありました。同じ時期に周りが勉強していると、自分もやらなきゃという焦りがあって、入院中も少しは勉強していました。
岸田 すごいですね。俺だったらやってないなあ。その後、通信制高校に転校した理由は、治療のために通学が難しくなったからですよね。
藤井 そうです。大阪近くの全日制高校に転校する選択もありましたが、それでもオンライン授業を1時間目から7時間目まで受けなければならず、点滴をつけながら受けている同世代を見て大変そうだと感じました。自分が選んだ通信制は、年1〜2回のスクーリングと年数回のレポート提出だけで単位が取れる学校なので、治療のスケジュールに合わせて柔軟に勉強できました。
岸田 なるほど。確かに全日制のオンライン授業は1日中パソコンに繋ぎっぱなしだから大変ですよね。
藤井 そうなんです。治療や検査で体調が悪いときもあるので、柔軟に調整できる通信制は合っていました。
岸田 通信制の居心地はどうですか。
藤井 想像どおりです。例えば薬を入れている週は勉強を控えて、体調のいい週にまとめて進めることができます。
岸田 最近はメタバース修学旅行とかもあるみたいですが、そういうコースは?
藤井 自分は必要最低限で卒業資格を取ることを目的にしているので、受けていません。
岸田 大学進学についてはどう考えていますか。
藤井 普通の4年制大学に行きたいと思っていて、受験に向けて勉強しています。
岸田 やっぱりすごいなあ。じゃあ、ここでコメントを読みますね……(コメント読み上げ)。お姉さんがいてくれてよかったですか?
藤井 大きかったと思います。性格的にベッタリ仲良しという関係ではなかったですが、話を聞くと、いてくれてよかったなと感じます。
岸田 言葉にするのが上手ですが、本はよく読むんですか。
藤井 本は趣味程度です。物語よりも起業家の人生や経験談が好きで、あとは討論番組などもよく見ます。こういう発信活動で多くの人と話す機会があり、その中で恥じないようにしようという意識が、自分の言葉の力につながっているのかもしれません。
岸田 すごいね。いや、お母さん、育て方が素晴らしい。
府民共済と公的助成制度に支えられた治療費|小児がん患者家族の経済的サポート体制
岸田 では、次の項目に移りたいと思います。今度は「お金や保険」についてです。藤井君は小児がんということもあって、小児慢性特定疾病の医療費助成などを受けていると思いますが、そういったお金の面はどうですか。もちろん、ご両親がお支払いされている部分も多いと思いますが。
藤井 そうですね。大阪府の場合、府民共済だったり、小児慢性特定疾病の医療助成を利用しているので、保険にかなり助けられているところはあります。正直、お金のことはあまり詳しくなくて……恥ずかしいんですけど。
岸田 いやいや、大丈夫。そこはご両親や親世代、いろんな制度がサポートしてくれるから、安心して大丈夫ですよ。
「今この瞬間をいくら考えても変わらない」未来志向で乗り越える気持ちの切り替え方
岸田 では次に「つらさ」と「克服」について聞きたいと思います。精神的、肉体的にきつかったとき、どうやって考え方を切り替えたり、対処したりしてきましたか。
藤井 自分は、つらくても切り替えが比較的早いタイプなんです。もちろん、本当に落ち込むときは丸一日泣くこともあります。でも、「今この瞬間をいくら考えても変わらない」と思っているので、どちらかというと未来のことだけを考えるようにしています。今や過去を見返すとつらくなるので、「これを乗り越えたらこうしてやる」という明るい未来を想像するんです。あとは「なるようにしかならない」という気持ちで頑張るしかないですね。実際、2月に肺転移が分かったときや、セカンドオピニオンで認識の違いがあったときは、2日くらい泣いてしまいましたが、それでもそのマインドで前を向き、今も頑張っています。これが自分なりの克服方法だと思います。
岸田 なるほど。次の楽しいことを考えることで前を向くんですね。では、肉体的にはどうですか。
藤井 肉体的にも同じです。一番きつかったのは、2度目のがんで最初に受けた入院の点滴による抗がん剤治療です。みんながイメージするような典型的にきつい抗がん剤で、ご飯を食べても吐いてしまうし、食欲もまったくありませんでした。それでも「10クール終わったら」とか、「このクールが終わったら好きなものを食べよう」など、遠い目標から近い目標まで立てて頑張りました。「食べないと退院できない」と思って、あえて頑張らざるを得ない状況をつくっていました。
移植後の肌の拒絶反応跡と心ない言葉-移植後遺症と向き合うための工夫
岸田 目標や先を見据えて進んでいくということですね。ありがとうございます。
では次に、後遺症についてお聞きします。藤井くんは今も治療中なので「後遺症」という言い方は少し違うかもしれませんが、1度目のがんや現在の2度目のがんでの副作用や後遺症には、どんなものがありますか。
藤井 1度目のがんでは、移植の後遺症が大きかったです。肌が乾燥しやすくなったり、目がドライアイになったり。あとは乳歯のままで止まっている歯があったりします。
岸田 そうなんですね。
藤井 はい。なので顔やあご周りが小さく見えるんです。乳歯が残っていることもあって、顔や頭が小さい印象になるんだと思います。あとは肌に拒絶反応のような症状が出ました。他の人の血液が体に入ることで、その反応が肌に現れたんです。
2度目のがんでは、抗がん剤で髪や体毛が抜けたり、陽子線治療で体が硬くなったりといった副作用があります。
岸田 そういった後遺症とは、うまく付き合って生活している感じですか。
藤井 はい。
岸田 一番厄介だと思うものはありますか。
藤井 目に見えて分かる肌の跡ですね。拒絶反応を起こした跡が今も残っていて、大人はあまり口に出さないと思うんですが、小さい子はすぐ言葉にします。自分が小さい頃から、同級生に言われることがつらかったです。
岸田 肌の乾燥や見た目の違いについて言われるんですね。
藤井 はい。
岸田 それはかなりへこみますよね。
藤井 へこみます。自分もつらいですし、親と歩いているときに言われることもあって、両親もきっときつかったと思います。想像してもつらいです。
岸田 そういうときはどう考えていたんですか。
藤井 我慢しかなかったです。本音を言えば殴りたくなることもありました。
岸田 そうですよね。「なりたくてなったわけじゃない」という話ですもんね。
藤井 はい。正直、ぼこぼこにしてやろうと思ったこともあります。でも、そんなことはできないので、悲しい気持ちや泣きたい気持ちをこらえて我慢していました。
岸田 でも、今はこうして凛々しく、はきはきと話せる姿に成長していて、本当にすごいと思います。髪の毛は今の抗がん剤の影響なんですか。
藤井 そうです。今年の3月から始めた抗がん剤でまた抜けてしまいました。1度目のときも抜けて、2度目の最初の治療のときにも抜けました。治療を休んでいる間に少し伸びたんですが、3月でまた抜けてしまった感じです。
岸田 ファッション好きだから、ニット帽とかにこだわったりするんじゃないですか。
藤井 自分はニット帽よりウィッグですね。
岸田 そうなんですか。
藤井 ニット帽だと「がんの人」というイメージが強く、個人的に嫌なんです。だから、ウィッグが不自然に見えないように工夫したり、ウィッグに合うファッションを選んだりしています。
岸田 なるほど。では、外出するときはウィッグをかぶっているんですね。
藤井 はい。
肺転移判明で絶望「立ち直るのはきつかった」セカンドオピニオンで見つかった転移への向き合い方
岸田 では次のテーマに移ります。「再発」についてです。1度目のがんから2度目のがん、そして2度目でも肺に影が見つかったこともあったと思います。2度目のがんが分かったときや、セカンドオピニオンで肺のことを指摘されたとき、どんな気持ちでどう立ち向かいましたか。
藤井 最初に骨肉腫が分かったときは、1度目の治療の記憶がなかったので「これが噂に聞くがんなのか」という感じでした。でも、2回目の肺転移のときは、「またこのつらい治療が始まるのか」と思いました。
岸田 絶望に近い気持ちですよね。
藤井 そうです。立ち直るのはきつかったです。
岸田 でも今は、先のことを考えることで気持ちを保っているんですね。
藤井 はい。
「患者本人に向かって話してくれないのが嫌だった」小児がん医療での患者中心アプローチの重要性
岸田 ありがとうございます。では次の項目、「医療者へ」に移ります。さまざまな医療者の方々や学生の方もこの配信を見てくださっているのですが、藤井くんから医療者の方への感謝や、「こうしてほしい」という要望があれば教えてもらえますか。
藤井 まず感謝ですが、先ほどもお話ししたように、自分の意見と、医療者として提示される治療の選択肢との間で、お互いに本音で話し合える関係を築けていることです。主治医の先生や看護師さんとは、どこまで治療を進めるかという「引き際」を正直に話せる環境があり、それが自分にとってとても良い治療関係だと思っています。今、自分が前向きに治療に臨めているのは先生方のおかげです。
一方で要望を挙げるとすれば、今の主治医の先生ではないのですが、以前、小児科では自分ではなく母や付き添いの人にばかり説明されることが多くありました。患者本人に向かって話してくれないのは、自分にとって嫌なことでした。
岸田 そうですよね。患者は本人なのに、という話ですよね。
藤井 そうなんです。
岸田 藤井くんの場合、骨肉腫という診断も本人が直接は聞いていないんですよね。
藤井 そうですね。受けたのかもしれないですが、記憶には残っていないです。
岸田 もちろん家族と一緒に話を進める場面もあると思いますが、そのときもぜひ患者本人の目を見て、しっかり説明してほしいですね。ありがとうございます。
「もう少し早く病院に行けばよかった」vs「片足を失っていたかも」早期発見への複雑な想い
岸田 続いての項目です。過去を振り返って「あのときこうしておけばよかった」ということがあれば教えてください。
藤井 そうですね。もう少し早く病院に行けばよかったのかなとは思います。ただ、早く見つかっていたら腫瘍を切除していた可能性があり、その部位からすると片足を失っていたかもしれません。命優先なので難しい判断ですが、早期発見が良いのは確かです。
岸田 確かに複雑ですね。足を失った自分を想像するのもつらいですし。でも、部活などで発見が遅れた可能性もあるから、やっぱりもう少し早く行けばよかったという気持ちはあるんですね。
藤井 そうですね。
家にいること、ご飯を食べることが幸せ|がん治療で再定義された日常の価値
岸田 ありがとうございます。では次の項目、「がんになって得たこと」に移ります。失ったものもたくさんあったと思いますが、藤井くんが得たもの、得たことは何でしょうか。
藤井 そうですね、少しきれい事のように聞こえるかもしれませんが…。
岸田 いいですよ。
藤井 人生の本質に迫れた、という感覚があります。表現がうまくできないのですが、がんになると、どうしても幸せの基準が下がってしまうんです。例えば、普通に生活できることや、普通にご飯を食べられることが幸せ。入院中なら、家にいられることが幸せ。それまで気づかなかった「当たり前」のありがたさを感じるようになりました。
また、がんになると治療や選択の場面が増え、自分自身と向き合う時間も多くなります。本来なら向き合わなければいけないのに、これまで逃げてきた部分にも、向き合わざるを得なくなりました。そうした意味で、自分の内面と深く向き合えたことが、がんになって得た大きなことだと思います。それは自分にとって一つの能力であり、貴重な経験です。
「まだまだ、こんなところでへばっているわけにはいきません」治療継続中17歳の不屈の意志
岸田 本当に「普通」でいられることって、素晴らしいことですよね。そういう、自分の目標や生き方について考えることが、たくさんあると思います。いやいや、全然、素晴らしい考えだと思います。
そんな中で、次の項目に移ります。次は「夢」です。もちろん、「治すこと」も夢かもしれませんが、今後の夢はありますか?。
藤井 自分の中で夢はたくさんあります。でも、その夢を実現するためには、もうシンプルなんですけど「長生きしたい」ですかね。健康な状態で長生きしたい、これに尽きます。それがなければ、夢を実現する可能性すらなくなってしまいます。
岸田 そうだね。
藤井 結構、単純なんですけど、長生きしたいし、まだまだ、こんなところでへばっているわけにはいきません。
岸田 本当にそうですね。ぜひ長生きしてほしいと思います。ありがとうございます。
2度のがんと17年間のペイシェントジャーニー|白血病寛解から骨肉腫治療継続まで
岸田 そんな中で、次は振り返りとして「ペイシェント・ジャーニー」に移ります。これまでいろいろとお話を聞いてきました。かなり時間もいただき、本当にありがとうございます。今までの話を振り返っていきましょう。画面共有できていますでしょうか。藤井君のペイシェント・ジャーニーは、2005年、0歳の誕生からスタートします。
誕生後、脾臓の腫れが見つかり、肺炎を経てがんの告知を受けます。移植前の薬物療法を経て、ドナーが見つかり造血幹細胞移植を実施。その後、白血病が寛解し、2歳まで治療が続きました。
そこから15歳になると、血液検査の異常が見つかり、「何か違和感がある」ということで整形外科を受診。市民病院を経て大学病院で生検のための手術を行いました。薬物療法を開始しますが、骨肉腫の疑いを告げられつつも腫瘍は小さくならず、高校は通信制に転校。その後、陽子線治療を受け、大腿骨の壊死とがんの消失を経て治療を一時中断しました。
この休養期間中に、プライベートでは彼女ができ、再び前を向くきっかけもありました。しかし、セカンドオピニオンで肺転移が判明。薬物療法に取り組むも、医師との認識のずれに悩む時期もありました。その中で新薬の使用可能性が見え、転院して現在は新しい治療のため入院中です。藤井君、この内容で補足はありますか。
藤井 そうですね。振り返ってみると、ほとんどが治療の話ばかりで、ずっとマイナスな方向に進んでいるように感じました。自由になれるとか、幸せだと感じる場面が少なかったんだな、と。
岸田 今回は治療に焦点を当てたからそう見えるかもしれませんが、日常生活の中では自由や幸せを感じられる場面もあったはずです。今後は、治ってから自由になれる時間をどんどん作っていきたいですよね。
藤井 頑張ります。
岸田 応援してます。みんなで応援してます。ありがとうございます。コメントでも「17歳からの夢、長生きがしたい、絶対かなえましょう」という声をいただいています。
ということで、ひと通りお話を聞いてきました。この後は告知関連の項目が続くので、藤井君には少し休憩していただきます。最後に、この配信を支えてくださっているアフラック様、IBM様、アイタン様、そしてご視聴・ご支援いただいている皆さま、本当にありがとうございます。
また、ゲストへのメッセージ入力フォームも用意しました。URLをコメント欄に貼りましたので、ぜひ藤井君への応援メッセージをお寄せください。後日、藤井君にお届けします。
「決断することを恐れず、考えることをやめないこと」-多くの決断を重ねた17歳からのエール
岸田 では最後に、藤井君から「今、闘病中のあなたへ」というメッセージをお願いしたいと思います。画面にいただいたコメントを表示しますので、まずは読んでいただき、その理由も教えてください。
藤井 はい。『決断することを恐れず、考えることをやめないこと』です。
理由としては、こうして自分のことを言葉にして話せるのも、治療の選択や大きな決断から逃げなかったことが大きかったと思います。人生の中で、自分の責任で決断しなければならない場面は多いですが、怖くて逃げてしまうこともありますよね。でも、そういう時こそ恐れず、逃げずに、考えることをやめないことが大事だと思い、この言葉を選びました。
岸田 ありがとうございます。藤井君も、これまで本当に多くの決断をしてきたと思います。がんになると、考えることや判断しなければならないことが一気に増えますよね。
藤井 はい。
岸田 そんな状況の中でも、自分自身の決断を大切にしてきた藤井君の言葉だと思います。ありがとうございます。コメントでも「退院したら彼女さんとのデートを楽しんでくださいね」という声が届いています。
藤井 ありがとうございます。
岸田 では、本日の配信も終わりに近づいてきました。今日はロングバージョンで、約2時間近くお届けしましたが、藤井君、この時間はいかがでしたか。
藤井 本当にあっという間でした。とても楽しい時間になりました。自分の治療について向き合って話すと言いながらも、こうして振り返る機会はあまりなかったので、良い機会にもなりました。
岸田 ありがとうございました!
※本ページは、経験者の体験談を扱っております。治療法や副作用などには個人差がございますので、医療情報に関しましては主治医や、かかりつけの病院へご相談、また科学的根拠に基づいたWebページや情報サイトを参照してください。
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