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インタビュアー:岸田 / ゲスト:小原

18歳で骨肉腫を発症、右腕切断を乗り越えた小原さんの現在

岸田 それでは本日のゲスト、小原さんに自己紹介をお願いしたいと思います。小原さん、お願いします。

小原 岸田さん、ありがとうございます。皆さま、はじめまして。小原と申します。スライドにもありますが、出身は東京都で、現在も東京に住んでおります。昨年30歳になりました。

私は大学生のとき、骨の悪性腫瘍である「骨肉腫」を患いました。最初に見つかったのは18歳、2011年のことでした。なので、ちょうど干支が一周する頃で、こうして今日この場に立たせていただいていることが、なんだか感慨深くて。とてもメモリアルなタイミングだなと思っています。

治療では抗がん剤と手術を受けまして、詳細はこの後お話ししますが、右腕を肘から約10センチ上の部分で切断する手術を受けました。現在は定期健診に通いながらも、寛解という状態で、穏やかに生活を送ることができています。

そして、今年3月から新しい会社に転職したばかりなのですが、なんと早速インフルエンザにかかってしまいまして…。今日はまだ少し体調がすぐれず、鼻声でお聞き苦しいかもしれません。ご容赦いただければと思います。どうぞよろしくお願いいたします。岸田さん、お返しします。

岸田 いやいや、全然大丈夫です。インフルエンザ、大丈夫ですか?

小原 実は、人生で初めてインフルエンザにかかったんです。

岸田 えっ、初めて!? 

小原 はい。想像以上につらくて…いろんな意味でキツかったです。

岸田 今日はゆるく進めていきますので、体調がしんどくなったら遠慮なく言ってくださいね!

小原 ありがとうございます。よろしくお願いします!

大学生活への期待から一転、バスケ中の違和感が骨肉腫発覚のきっかけに

岸田 さて、ここからは小原さんに「がんが発覚してから告知されるまで」のお話を伺っていきたいと思います。まず、発覚のきっかけは2011年4月だったんですよね。ちょうど僕が社会人になった年です。

そのとき、小原さんは行きたかった大学に進学されたと。ちなみに、どこの大学だったんですか? 言える範囲で大丈夫です。

小原 僕は青山学院大学に行きたくて、無事合格できたのがすごく嬉しかったですね。当時の記憶として残っています。

岸田 やっぱり、キャンパスライフに期待してたんですね。

小原 そうなんです。

岸田 でも、青学といえば今は渋谷のキャンパスですけど…。

小原 そうですね。

岸田 そのときは?

小原 僕は1年生だったので、相模原キャンパスでした。東京とはちょっと離れた、田舎の広大な敷地にあるキャンパスですね。

岸田 なるほど!ところで、そのときは何を学ばれていたんですか?

小原 経済学部でした。ただ、特に何かを学びたいというよりは、なんとなくで選んじゃいました(笑)。

岸田 いやいや、見た目は経済学っぽいですよ(笑)。

そんな大学生活の中で、2011年6月に「友人とバスケをしているときに右腕に違和感を覚えた」とありますが、具体的にはどんな感じだったんですか?

小原 先ほどお話しした相模原キャンパスはすごく広くて、自由に使えるバスケットコートやフットサルコートがあったんです。休み時間に、そこに落ちていたボールを拾って、クラスの友達と軽くバスケをしてたんですが、そのとき、右手首にちょっと引っかかるような違和感がありました。突っ張るという感じではなかったんですけど、うまく曲げられないというか…シュートを打つときに「あれ? 曲がりが悪いな」と気づいて、何だこれ?くらいの軽い感覚でした。

岸田 突っ張ってるのかな?って程度だったんですね。

小原 はい、そんな感じです。

岸田 右手首に少し違和感があったと。
でも、大学の昼休みにバスケって、元気いっぱいですね!

小原 ですよね(笑)。ちょっと青春っぽくて、今となっては少し恥ずかしいです。

岸田 いやいや、めっちゃ青春感ある! 俺なんか学食の一番安いラーメンに並んでた記憶しかないですよ。

小原 僕も似たような感じでしたよ。なるべく安く済ませる日々でした(笑)。

岸田 分かる! あと、大学で「一番きれいなトイレ」を探すっていうのもやってたな。建物によって設備に差があったりするじゃないですか。

小原 ありますね。人の少ないところを狙ったりしてました(笑)。

岸田 そうそう!(笑)。さて、話を戻して、その手首の違和感のあと、すぐ病院には行かれたんですか? 「地元の整形外科に行った」と記録がありますが。

小原 これは、すぐに病院に行ったわけではなかったんです。実は、最初は1カ月くらい様子を見ていました。痛みはあったんですが我慢して、普通に友達と遊んだり、大学の授業に出たりしていました。でも、いよいよ我慢できないくらい痛くなってしまって…。

小原 市販の湿布を自分で貼ったりもしていたんですけど、それでも耐えられないくらいになってきて。さすがに限界だと思って、当時住んでいた地元の整形外科を受診しました。

岸田 なるほど。地元の整形外科に行って、「手首がちょっとおかしいんですけど…」という感じで診てもらったんですね。

小原 はい、そうです。

岸田 で、そこで何と言われたんですか?

小原 まず、レントゲンを撮ったんですが、それを見た瞬間に「これはおかしいな」と自分でも思いました。今振り返ってみると、明らかにおかしいんですよ。普通、骨ってレントゲンでキレイに写るじゃないですか。でも、そのときの右手首の骨は、もやもやっとした影のような、明らかに異常な映り方をしていたんです。まるで邪悪な感じというか…。

小原 先生も多分、かなりの確信を持っていたと思いますが、直接的な言い方はせず、「大きな病院に紹介状を書くから、すぐ行ってください」と言われました。で、地元の大きな病院を紹介されました。

岸田 なるほど。紹介状をもらって、大きな病院に。そこにはすぐに行ったんですか?

小原 はい。その週のうち、数日以内には行きました。

岸田 そこでも整形外科を受診されたんですね?

小原 そうです、整形外科です。

岸田 そのときは、どういう検査を?

小原 実は、検査はほとんどされなかったんです。先生が、「うちでは治療できないくらい珍しい病気だから、もっと専門の病院へ行ってください」と言って、紹介状を書いてくださいました。

小原 そのときにはまだ「がん」とは言われなかったですけど、いわゆる横流しというか…早い段階で専門病院にバトンを渡す、という形でした。

岸田 「うちでは診れないから、専門の病院へ」ってことですね。

小原 はい。「うちで診れなくはないけど、ちゃんとした所で診てもらったほうがいいかもしれない」というような言い方でした。

岸田 この時点では、まだ「がん」という言葉は出ていなかったんですね?

小原 そうなんです。確定的なことは何も言われていませんでしたし、自分自身もまさか、と思っていました。せいぜい「良性の腫瘍かな」くらいの認識でしたね。

岸田 「腫瘍は腫瘍でも、良性のやつで、切って終わりかな」っていうくらいの感覚だったと。

小原 そうです。

岸田 では、地元の大きな病院から紹介された専門病院というのは、もう名前に「がん」とか付いていたりしたんですか?

小原 そうです。そのときに「あれ?」って思いました。

岸田 「あれ…?」っていう違和感ですね。

小原 そうですね。でも、それでも「まさか自分ががんなんて」って思っていたので、正直、そこまで深刻には捉えていませんでした。

岸田 なるほど。では、その専門病院では、どんな診察を受けたんですか?

小原 そこでは、先生に初めて会った瞬間に「結構、悪い病気かもしれません」と言われました。その日は6月で、天気のいい初夏の日だったのを覚えています。僕は1人で行っていたんですが、その場で「急いで生検(手術で組織を採って検査する)」をしたいと言われました。

小原 その病気かどうかを確かめたい、と。さらに、MRIも撮りました。とにかく一気に検査が進んでいったという記憶があります。

岸田 一気にスピード感を持って、検査が始まったわけですね。その説明も全部、1人で受けたんですか?

小原 はい、そうです。

岸田 大学生でね。その翌月、スライドを見ると「骨肉腫の診断を受け、そこから半年以上の入院や抗がん剤」とありますけど、検査の結果、骨肉腫だと確定的に分かったんですか?

小原 厳密に言うと、検査結果は2週間くらいかかるんですよね。病理検査っていって、顕微鏡でがんの組織があるかどうかを調べる検査です。ただ先生はその時点で「ほぼ骨肉腫で間違いないだろう」と判断していたようで、結果を待たずに「入院して抗がん剤治療を始めましょう」と次の診察で言われました。

岸田 もう診断を待たずに、確定的に「骨肉腫だろう」と言われたんですね。そのときは1人だったんですか?

小原 いえ、そのときは両親と一緒に行きました。先生から「ご両親が来られるなら、一緒に来てください」と言われた気がします。まだ18歳で、子どもって言えば子どもでしたから。両親2人も来てくれて、3人でその場で「骨肉腫というがんです」「半年入院して抗がん剤治療をやっていきましょう」という説明を受けました。でも、頭が真っ白になっていて、正直、あまり覚えていないんですよね。

岸田 そのときのことは、やっぱりあまり覚えていない感じですね。ただ、今この話の中で思い出してもらうのは酷かもしれないけど、言われたときに印象的だったことってありますか?

小原 なんというか、自分の目で見ている世界を、自分の目で見ていないような感覚でした。ちょっとベタな表現かもしれませんが、先生と話してるのに、そこに自分がいない感じがして。不思議ですよね。人って、本当にびっくりすると、幽体離脱するんだなって思いました。涙も出ませんでした。家に帰ったあとはボロボロだったんですけど、診察室では「泣く」という感情すら追いつかず、情報を整理するだけで精一杯だったのを覚えています。

岸田 すごく分かります。自分のことを言われてるのに、自分のことじゃないような…。僕も、自分を上から見てるような感覚がありました。

小原 そうでしたよね。本当に不思議な感覚でした。もう二度と経験したくないですけど。

岸田 レントゲン、実際にご自身で見られたんですか?

小原 はい。診察室で先生と一緒に画面で見ました。今思うと、なんであのときもっと焦らなかったんだろうと思うくらい、明らかにおかしい映り方だったんですけど…。それでも当時は「やばい病気だ」と思わなかったんですよね。一応、そのときのレントゲンはもらって家にあるはずです。その後、大きな病院で改めてレントゲンを撮り直したんですが、そっちは精度が高くて、どこまでがんが広がってるか立体的に分かって、「うわー…」ってなりました。

岸田 骨肉腫って、骨にできるがんで合ってますよね?

小原 はい、そうです。骨にできます。骨が膨らんでくるような形になりますね。僕の場合も、骨が膨らんできていました。

 

7カ月の抗がん剤治療から10時間の大手術、そして再発による右腕切断への道のり

 

岸田 そして、それで言われて、次は治療の話を聞いていくのに、治療から今に至るまでの話。ここが、小原さん、本当にいろいろあると思うんですけれども、聞いていきたいと思います。
まず、2011年7月。診断されてからすぐに休学して治療を開始したとありますが、初回の抗がん剤から絶不調と。ここについてお伺いできますか?

小原 このときの大学の休学は、ちょうど6月だったので、すでに大学1年の前期は始まっていたんですね。だから、後期の分だけを休学という形で手続きをしました。
メンタルぼろぼろになりながらも、大学の窓口に行って、手続きして。7月12日くらいに抗がん剤治療を始めたんですけど、それまでは大学とやりとりしたり、両親とも相談しながら、「後期だけ学費を半分だけ払っておこう」と決めて、親に負担してもらいました。
何とか「戻る場所」をつなぎとめるような気持ちで休学しました。

岸田 なるほど。気持ちの部分も大きかったんですね。

小原 はい。やっぱり、大学に入ってすぐの頃って、みんなキャンパスライフがキラキラしていて。
ちょうど7月、夏休みに入る時期だったので、友達と「大阪旅行行こうね」って、日程も決めてたんですよ。それを全部キャンセルして、友達に「実はこういう状況なんだ」と伝えるのが、すごくつらかったですね。
友達は普通にキャンパスライフを楽しんでいて、自分だけが全然違う道に入っていくことに、感情がすごく揺さぶられました。大学のトイレにこもって、今思い出すと引くくらい泣いてました。

岸田 周りは夏休みやキャンパスライフを楽しんでる中で、自分だけががんの専門病院へ行かないといけないっていう状況は、本当につらいですね。

小原 そうですね。大学も後期を休学したら、友達とも会えなくなりますし。
心配してくれる人もたくさんいたんですけど、優しさが逆につらく感じることもありました。

岸田 その後、治療を開始されたわけですが、最初の抗がん剤から体調を崩されたとか。

小原 そうですね。僕、それまで大きな病気をしたことがなくて、体も元気だったので、抗がん剤も問題なく受けられると思っていました。
でも、骨肉腫の治療って、本当に抗がん剤の量が多いんです。特に若い人は進行が速いから、早めに、かつ大量に入れるのが標準治療なんですよね。
初回、黄色い、ちょっと邪悪な色の抗がん剤を満タン入れたんですけど、それを入れた初日の夜ごはんのあとに、フラフラして、トイレまで1人で行けなくなるほど体調が悪化しました。
母が心配して看護師さんを呼んでくれて、「これは本当にヤバい」と思いましたね。

岸田 よく聞くのが赤色の抗がん剤ですが、黄色もあるんですね?

小原 あります。赤も黄色も、どちらも使いました。とにかくキツかったです。

岸田 夜に立って歩けなくなるって、かなりつらいですね。

小原 はい。元気だったし、「治療に打ち勝つぞ!」ってポジティブな気持ちで臨んだんですけど、初回でだいぶ心が折れました。

岸田 そんな中で、2012年に入っていきますね。1月、治療を始めて7カ月後に…。

小原 はい。抗がん剤は3週間を1クールとして、全部で8クールくらいありました。
途中、休みも入れながらですが、7カ月ほどで全て終えました。

岸田 その後、10時間の大手術を受けたとあります。これはどんな手術だったんですか?

小原 骨肉腫の治療って、現在では「腕を切らずに残す=四肢温存術」が一般的になっています。
僕もその例に漏れず、腕を残す手術を受けました。
具体的には、僕の腫瘍は左腕(※右腕がなかったので左で説明)で言うと、親指側の骨、橈骨(とうこつ)にできていたんです。
手首の下あたり、ぽこっとしているところがあると思うんですが、そこが腫瘍の位置でした。

岸田 あるある、そこですね。

小原 その辺りの所にできてたので、ぎりぎり手首の関節、残しつつ、最大限がんのある所から広めに取るというのを切りました、まず。その切った所に、下の行に書いてある、左足の腓骨といわれるですね。

岸田 腓骨ってどこ?

小原 ふくらはぎの外側のとこにある、2本、骨があって、一つ太い骨があって、もう一つの細いのが腓骨って言うんすけど、その腓骨が、ちょうど右手の橈骨と大体、同じくらいの太さだということで、自分の骨を自分の右腕に移植するという形で。なので、僕は今もなお、左足は骨、12センチぐらい、レントゲン撮ると、すぱっと切れててないんですよ。

岸田 えー。

小原 そうなんです。という形ですね。

岸田 それを入れたほうが親指的にいいってことやから、入れたってことだよね。

小原 自分のものをまず入れて、自分の骨でつなげていくというところで多分、ご判断いただいたのかなと思います。プレートといわれる金具で、持ってきた腓骨をばちんと止めて、ものすごい量のネジが入っていて、プラス、傷跡もすごいことになってましたね、当時。

岸田 それを右腕に移植して、大手術をしていったってところ。大手術、どう?

小原 大手術でしたね。

岸田 その後、結構きつかったでしょう。

小原 そうですね。長い治療期間の中でもトップレベルにきつかったのは、その術後の3日間だったかなと。

岸田 術後の3日間?

小原 はい。まず、そもそも術後3日間はベッドから一切、動いてはいけないという形だったので、左足も切られてますし、右手も絶対、動かしちゃいけなかったので、トイレもその場でするとか、歯磨きもその場でするとかという感じでしたので、ものすごい時間が長く感じてて、なおかつ、体もものすごい重い、つらい、熱もちょっと出てみたいな感じで、それが3日、続いたのが本当に大変だったなと思ってます。

岸田 3日ね。ただ、スライドのフリップでは、その後の1カ月の、リバビリってなってますけど、なんか新しい。リハビリね。

小原 リハビリですね。

岸田 リハビリの後に退院していくっていう。そっから、3日間、大変だった日があって、その後、リハビリが始まってったってこと?

小原 そうですね。右腕はほとんど最初、動かなかったのと、先生からも、頑張ってリハビリしたら動かせるようになるかもみたいな感じで言われてたので、そこはリハビリを頑張ろうと思って、動かそうとしたんですけど、もうがっちがちに固まってました。この状態で動かない。これをこう動かせるように、少しずつほぐしていくっていうリハビリが、まず腕のリハビリでしたが、もう一つ、足のリハビリというのもあって。

岸田 そっか。

小原 切られた所があったので足も包帯ぐるぐるだったんですけど、ちょっと歩いたほうがいろいろ、健康的にもいいというか、早めに退院して歩けるようになりたかったので、ナースステーションの周りを、歩行器を押しながらぐるぐる回るっていうのを、めちゃくちゃゆっくり歩く練習をしてたのが、その3日たった後からでした。

岸田 その3日がめちゃくちゃつらかった けど、その後はだんだん良くなってはいったの? 無事に。

小原 そうですね。本当に一日一日、できること増えてったので、そのとき、もともと抗がん剤やってるときから健康のありがたみとか感じてたんですけど、だんだんできるようになってくのが増えてく日々は、ものすごい健康のありがたみを実感できる期間でしたね、1カ月間。

岸田 そこから1カ月、リハビリやったら、1カ月リハビリやったら結構、動くようになんの? どうなんの?

小原 腕は正直、もうちょっとかかるかなって感じで、若干、動くっていうぐらいの段階で退院はしました。左足は、まだ傷あったんですけど、歩くことは問題なかったので、だいぶ良くなってましたね。

岸田 その2カ月後に、もう復学してって書いて、1年生からやり直し、2学年の微妙な立ち位置ってあるけれども、2カ月後には学校、通ってたん?

小原 戻ってましたね。髪も全部、抜けてたし、腕も傷跡すごかったんですけど、やっぱスタートのところから行きたいなと思ったので、間に合ってよかったなというか、4月から復学はできました。

岸田 4月から。これ、復学して、2年生に行くことはできへんのか。

小原 そうなんです。後期は休学してるので、単位が足りてないわけでありまして、1年生からのやり直しっていうことで大学からも連絡が来ましたね。

岸田 そっか、これ、関東と関西でちゃうんよね。

小原 そうかもしれないです。

岸田 僕ら関西勢は、1回生、2回生、3回生って、言ったら5回生、6回生ってなってくけど。

小原 なるほど。ちょっと違うかもしれないですね。

岸田 関東って4年生までやもんね。

小原 そうです。

岸田 それで足りてなくってっていったところで、その前のスライド、2学年の微妙な立ち位置っていうのが。

小原 ここですね。

岸田 これはどういう意味ですか。

小原 本当にこれは、大学、若い世代、特有の悩みかもしれないんですけど、すごい、学年が1個違うと違うじゃないですか、大学生とかって。大して年齢も変わらないのに、先輩とか後輩っていうのが、高校、大学はあると思うんですけど。私の場合は本当に、ここが微妙な立ち位置だったんですよね。つまり、最初に入学した2011年のときの友達と、次また復学したときに、1個下の子たちが入学してきた、その子たちと同じ学年になったので、どっちと仲良く、どっちとうまくやればいいか、同じ学年の子は、僕の前の同級生に敬語、使ってるわけですよ。でも、僕はどっちにもため口なんですよね。誰だおまえはみたいな感じになってるわけですよ。僕もそのときオープンに言ってたらいいんですけど、自分が入院してたこととか言ってなかったんですよね、新しい友達に。

岸田 そうなんや。

小原 なんにも言わずに復学したんで。

岸田 めちゃくちゃ傷あんのに?

小原 そうです。傷も、昔の傷なんだみたいな感じでごまかしちゃってた気がするんですよね、当時は。

岸田 えー。

小原 今、思ったら、言っちゃえばいいのになって思うんですけど、若いときの微妙な、そういう幼さがあって言えなかったんですよね。なんでY(自身のこと)は何々さんに敬語、使ってない、ため口なんだろう?みたいなことがあったような気もして。そんな微妙な立ち位置が結構、嫌でしたね。

岸田 2年生側の友達と遊びに行くのか、1年生側の友達と遊びに行くのかね。

小原 そうですね。

岸田 ていうのは、僕の個人的な感じでいくと、小原さんはうまくやりそうやから、どっちともうまく遊びに行ったりしてたタイプ?

小原 そうですね。でも結局、どっちも仲良くはしてたんですけど、最終的に、新しい学年の友達と、一緒に学年、上がってくので、その後も。やっぱりそこと仲良くなったってのがありますし、今もそのメンバーのほうが連絡、取ることが多いっすね。

岸田 そして、その次のフリップ。2015年1月。こっから3年後ですね。3年たちましたと。

小原 そうですね。3年の時がすぐたっちゃいました。

岸田 3年の時をへて、楽しい大学生活。本当、楽しそうでうらやましい。病気して、その後、就職活動へとありますけれども、就職活動に関してはどういうふうにされてったんでしょうか。

小原 まず、おかげさまで、大学生活はその後、楽しく過ごしてたんですけど、ちょうど2015年の1月が、大学3年の終わりかけのところだったんですけれども、3月から就活、解禁っていう年だったんですね、僕の場合は。なので、それに向けて各種インターンシップに参加する、企業説明会に参加するっていうのが、本格的にわーっと始まっていく時期がちょうどこの1、2月だったんですね。この後、下の行で局所再発が見つかっちゃうんですけど、それまでは普通に就活生という形で、インターンシップ結構、行ってましたね、スーツ着て。

岸田 このときは何系に就職したいとかあったん?

小原 僕、企業研究をするゼミに所属してたんですけど、そのゼミに・・・。

岸田 おー、経済学部。すごい。

小原 そうですね、経済学部っぽくというか。そこで食品メーカーを分析をしてたので、そのときは、食品メーカー行きたいなと思って、そういう所ばっかり企業研究してましたね。

岸田 就職活動スタートしようと思った矢先に。

小原 矢先です。

岸田 2月、『定期検査で局所再発が見つかる』、『再度、抗がん剤治療へ』ってあるねんけど、どこにどういうふうに見つかったんでしょうか。

小原 全く同じ場所です。手首の。

岸田 え?

小原 同じ場所に局所再発してしまいまして。正直、この2月に見つかったほうが1回目よりショックだったんですよ。治ったとばかり思ってたんですね、僕も家族も。油断してはいけなかったんですけど。

岸田 いや、そんなこと。

小原 まさか。

岸田 3年経ってるもんね。

小原 そうです。もう治って順調にと思ったら。でも、今、思うと、右手の手首の突っ張った感じみたいなのが、若干ぶり返してきてたんですよね、その前から。ちょうど1月とか12月とか、それぐらいのときからちょっと気になってたんですけど、まさかと思ってたんで、それも先生とかにすぐ言わずに、検査まで待っちゃったんですけど。それで・・・。

岸田 そうなん? すぐ検査、受けんかったん? それは。けど、まあ・・・。

小原 そうですね。定期検査で診てるから大丈夫かなと思って、行ったらそこで見つかったので。また抗がん剤治療をするよっていう形で言われましたね。

岸田 それは、見つかったとき、1人で告知、受けたの?

小原 そうですね、その場で。定期検査なので、CT検査とかを、レントゲンとかを受けたその後に先生に診察を受けるんですけど、先生がその場で、ちょっとこれ、再発っぽいですと。抗がん剤またやらないと厳しいので、がんがそこにある時点で全身に転移してる可能性は否定できないので、やっぱ抗がん剤っていう選択肢になっちゃうんすよね。その場でそれを取るだけでは治らないと思うので、また抗がん剤やるということで、2回目の入院に入ってくというのがこの時期でしたね。

岸田 1回目のときは、自分ごとじゃないというか、上から見てるような、客観的に見てるような感覚ってあったけど、こんときの感覚としてはどんな感じでした?

小原 このときは、上から見てるというよりは、そのとき、母親と2人で診察室へ入ったんですけど、どうだったかな。まさか、この後、何食べようかぐらいの感じの、本当に、検査、楽勝で突破して、就活のことに頭をチェンジしようって思ってたんすけど、そこでまさかで言われたので、治ったと思ったものが治ってなかったというショックたるや、すさまじいものでして。これ、自分、死ぬんじゃないかなっていうのを、1回目よりも強く思ったってのが2回目の感覚ですね。再発という言葉のインパクトが大きかったです。

岸田 分かる。俺も再発・・・。

小原 そうですよね、岸田さん。

岸田 ・・・してるので、そのとき、より死が迫ってきてるなっていうのは。

小原 分かります。そうです。おっしゃるとおりでしたね。

岸田 めっちゃ思いましたね。うわ、これで、あ、もうやばいみたいな、本当に、思いました。
 コメントもいただいてるんで、コメント読ませていただきます。

小原 ありがとうございます。

岸田 7カ月ってやばいなと。『友達の生活と比べてメンタルやられそう』っていう、最初のときの抗がん剤治療とかね。結構、どう? 比べた? 友達とは。

小原 比べるのは良くなかったんですけど、つらかったなと思うのは、入院中、めちゃくちゃきついときのはざまに、友達がいっぱい会いに来てくれたんですよ。これはすごいうれしいんですけど、これも岸田さん、もしかしたら共感していただけるかもしれないすけど、うれしいんですよ、来ていただけるのは本当、うれしいですし、「大丈夫か」とか言ってくれるのはうれしいんですけど、彼らは病室を一歩、出たら、普通の生活に戻れるわけですよね。その差をまざまざと突きつけられてる感は、正直。

岸田 あった。

小原 ありましたね。だから、来ないでくれみたいな、そういうメンタルになったことは全然ないんですけど、なるほどと。これは自分の入院とのすごい生活の差があるなって、どうしても思っちゃいましたね、当時は。

岸田 そうやね。周りはこの病院を出たら、元気に家、帰ってくわけやしみたいなね。

小原 そうですね。

岸田 そんな中で、Aさんも、『動かせるようになる”かも”でリハビリ励むのしんどいですね』っていったところで、リハビリのとき、動かせるようになるかもで頑張るっていうのはどうでした?

小原 先生は、あんまりお医者さん、断定的な言い方されないので。

岸田 そう。

小原 そういうもんだろうなと思いつつも、自分のそのときの気持ちは、自分、若いし、リハビリ頑張ったら動かせるようになるかなと。最悪、完全に動かなかったとしても、命が助かればいいかなって結構、前向きに思ってたのかなと思うので、そういう意味では、リハビリに対しては前向きに取り組めていたかなというのはありますね。

岸田 そして、先ほど、開き直ってオープンにして留年イジリをしてもらえたら楽だったのかもしれないけど、その年頃だときついですよねっていうとこでね。

小原 そうですね。今の自分と、開き直り切れなかったっていうので。すごい細かい話になっちゃうんすけど、学籍番号っていうのがある。

岸田 分かる。

小原 学籍番号順なんですけど、僕、復学した後は小原の『お』なのに、あ行の子よりも最初なんですよ。一番最初だったんですね。これも、言っちゃえば楽なのに、みんなにばれたら嫌だなとか思って言えなかったんですよ。なんで言わないんだよと思うんすけど。それをずっと、それこそ、2015年の1月に再発して初めて、新しく復学したときにできた友達に、実は俺、3年前にも、みんなが入学してくる前にも入院してて、今、その病気が再発しちゃったんだ、だから入院するんだって説明をしたぐらいなので。言わなかったんすよね。

岸田 周りの反応はどうでしたか?「ああ、そうなんだ」って感じだったのか、「うすうす感じ取ってたよ」っていう感じだったのか。そのあたりは分からないですか?

小原 人によりますね。うすうす気づいていた人もいました。

岸田 出席番号とかね。年度ごとに決まってたりしますからね。

小原 そうですね、普通に…。

岸田 たとえば2017年なら「1700番台」とかね。

小原 ばれるだろう、っていう(笑)。そんな感じで、ばれないかびくびくしてました。

岸田 そして、再発が見つかって、再び抗がん剤治療に入っていく。その末に、右腕を切除するということですけど、今回の抗がん剤治療はどれくらいの期間だったんですか?

小原 大体半年くらいだったと思います。2月から始めて、3、4、5、6…そうですね、5〜6カ月くらいです。

岸田 ということは、また休学しなければいけなかったんですか?

小原 それが、3年生の時点で、ゼミ以外の単位は全部取っていたんですよ。

岸田 それはすごいですね。

小原 なので、休学せずにそのまま治療に入れました。

岸田 授業がなかったということですね。

小原 はい。ゼミの先生にだけ、「こういう状況なのでゼミをお休みさせてほしい、卒論はちゃんと書きます」とお願いして、先生も「いいよ」と言ってくださいました。なので、休学はせずに済みました。

岸田 3年生くらいになると、必修の授業もほとんどなくなりますしね。

小原 そうですね。不幸中の幸いだったと思っています。

岸田 抗がん剤治療を半年受けたあとで、右腕の切断を見据えての治療だったんですか?

小原 最初の段階では、先生もそこまではおっしゃっていませんでした。腕を残せるなら残すけれども、右手にある腫瘍は手術で取り除かないといけない。以前手術した部位を再度細かく切るというのは、難易度がかなり高くなるそうです。なので、組織の奥まで入り込んでいる可能性のある微細ながん細胞をすべて取りきるために、腕を残す手術は非常に難しいという説明は受けていました。でも、最初から「切断する」とは言われていませんでした。

岸田 そうですよね。その時点ではボルトもたくさん入ってたんじゃないですか?

小原 すみません、岸田さん。

岸田 うん?

小原 ちょっと省略してしまったんですが、実はボルトは再発の1年前くらいに取り除いてたんですよ。

岸田 あ、そうなんですね。治ったと思って外してたんだ。

小原 はい。そうです。

岸田 抗がん剤治療を受けながら、切断の話が出たのは、いつ頃だったんですか?

小原 切断したのは7月末なんですが、治療の半ば、だいたい3カ月前くらいから、先生との話に出ていました。4月頃には、両親と僕と先生で「腕を残すかどうか」という話もしましたし、Kセンター(病院名)ではない病院に通っていたんですが、Kセンターの先生にもセカンドオピニオンという形で、この診断の場合、やはり切断するべきなのかを相談しに行ったこともあります。

岸田 セカンドオピニオンにも行かれたんですね。

小原 そうですね、このときはさすがにしました。やっぱり「腕を切る・切らない」というのは、かなり大きな決断でしたから。

岸田 そのとき、セカンドオピニオンの先生の判断はどうだったんですか?

小原 同じ意見でした。もともとの主治医の先生の方針を尊重しつつ、「私も切ったほうがいいと思います」とはっきり言われました。

岸田 でも、腕がなくなるという決断って、簡単にはできませんよね。

小原 そうですよね。

岸田 なかなか。

小原 当時、僕は21歳とか22歳くらいだったんですけど、比較するのは良くないかもしれませんが、自分としては受け入れる時間があったことが大きかったと思っています。

岸田 というのは?

小原 両親や先生から「腕を残せないかもしれない」「切ったほうが生存率が上がる」という話をされたとき、最終的に決めるのは自分でした。その決定権をもらった上で、自分にとってどちらが良いのか、親ともたくさん話し合う時間がありました。本当に毎回その話をしていて、セカンドオピニオンもその一環だったんですけど。セカンドオピニオンを受けたことで、「やっぱり自分には切る選択が正しいんだ」と思えた。それからは、自分の決断にうじうじせずに、「この体でどういう生活をすれば一番良いのか」を考える日々にシフトできたんです。そのマインドに切り替えられたのは、すごく良かったなと思っています。

岸田 時間があったからこそ、自分の中で納得できたというか、気持ちの整理がつけられたんですね。

小原 そうですね。

岸田 その「結構あった時間」って、どれくらいの期間だったんですか?

小原 2〜3カ月くらいはいただいていたと思います。ただ、その期間中も抗がん剤治療がつらかったので、「そんなことを考える前に治療がつらすぎる…」っていう気持ちのときもありましたね。

岸田 2〜3カ月でそういう決断をするのって、20代前半で本当に大変なことですよね。

小原 そうですね。

岸田 でも、切断の決断をされて、その手術はどんな感じで行われたんですか?

小原 1回目の手術に比べれば、全然簡単でした。ただ「切るだけ」だったので、手術自体はすぐ終わりました。何時間だったか忘れましたけど、10時間とかではなくて、もっと短時間で済みました。あとで写真もお見せできると思いますが、病室に戻ってきたときにはもう腕がなかったんですよ。本当に変な感覚でした。ショックとか悲しみというよりも、「ああ、本当にやったんだな、自分」っていう感じで、ガラガラとベッドで戻ってきたのを覚えています。

岸田 その後、「1カ月のリハビリの後に退院」されたとありますけど、このリハビリについて少し教えていただけますか?
(小原さんには「がんノートNight」のリハビリがテーマの回にも出ていただいているので、詳しくはそちらもぜひご覧ください。)

小原 このときのリハビリは「左手への利き手交換」でした。僕はもともと右利きだったので、右手を失った分、左手で箸を持って食べたり、文字を書いたりする練習をしていました。作業療法士の方と一緒に、洗濯ばさみを使った訓練や、洗濯物を干す練習など、生活に関わることを1カ月ほど続けました。手術の前から利き手交換は始めていて、「どうせなくなるのは分かってるから、早めに対策しよう」という感じでした。

岸田 小原さんの場合、利き手交換はわりとスムーズにいったんですよね。

小原 そうですね。比較的、順調だったと思います。

岸田 違和感がなくなるまで、どれくらいかかりました?

小原 完全になくなったわけではないですけど、生活にそこまで不自由を感じなくなったのは、3カ月から半年くらいですね。最初は箸を使うのもイライラしながら食べてたんですけど、気づいたら自然とできるようになってました。1年もかからなかったと思います。

岸田 他の方にも確認しましたが、この「利き手交換」は本当に人それぞれで、3カ月で慣れる人もいれば、1年、10年、20年かかっても不自由に感じる人もいますよね。個人差があるということですね。

岸田 そして、次のスライドは「退院後すぐに就職活動をスタートし、内定を獲得」というところですね。リハビリして退院したのが8月でしたっけ?

小原 そうです。8月でした。

岸田 そこから就職活動を始めたんですか? 4月入社には間に合ったんですか?

小原 本当にギリギリでした。僕が退院した頃には、同学年の就活生はほとんどみんな就職が決まっていて、内定ももらって、あとは卒業に向けて遊ぶだけ、というような雰囲気でした。そんな中で、僕だけ内定がない状態で、髪の毛もなく、腕も切断されて、ズタボロの状態で戻ってきて……。どうしようかと悩んだんですが、両親とも相談して、「同じ学年の仲間たちと一緒に卒業して就職する」と決めて、すぐに行動に移しました。

 障がい者枠での就職活動という形をとったのですが、大企業では法定雇用率を守るために障がい者採用に力を入れているところが多くありました。僕は身体障がい者手帳の3級を取得していたので、それを活用して、障がい者枠での就職を目指すことにしました。障がい者採用に特化した人材紹介会社(エージェント)に相談して、一緒に企業を探してもらいました。

 ごめんなさい、スライドには「10月に内定」と書いてあったんですが、実際は11月か12月ごろに就職活動が終わったと思います。だから、2~3カ月くらいかけて、ようやく内定をもらいました。

岸田 今、さらっと「転職エージェント」って言いましたけど、普通はリクナビとかマイナビとか、新卒向けのサイトを使うイメージですよね?

小原 そうですよね。今言った「転職エージェント」という言い方はちょっと違っていて、新卒の障がい者採用に特化したエージェントがいくつかあるんです。

岸田 そうなんですね。

小原 それを使ったのが本当に良かったです。サポートも手厚くて、自分では見つけられないような求人も紹介してもらえましたし、履歴書の添削などもしてもらって、本当にありがたかったです。

岸田 なるほど。それで、最終的に内定をもらったのが、製薬企業だったと。

小原 はい、そうです。

岸田 その製薬企業に入社されたということで、仕事や就職活動の詳しい話は、また改めて伺えたらと思います。
 そして次の話題ですが、2020年11月にご結婚されていますね。これまでの話の中で恋愛や結婚については触れてこなかったので、後ほど恋愛・結婚のセクションで詳しく聞かせていただければと思います。

小原 ありがとうございます。

岸田 続いて、2022年1月に「がん専門の部署に異動」とありますが、これは「やったー」という感じだったのか、それとも不安が大きかったのか、どういうお気持ちだったんですか?

小原 これはポジティブな異動でして、自分で希望を出して、公募という形で異動しました。入社してからずっと、がんの領域で仕事をしたいという思いがあったんです。2022年のタイミングでそういった部署での募集があり、社内での面接を受けて異動が決まりました。

岸田 へぇ、社内転職みたいな感じですね。

小原 まさにそうです。大きな異動でした。

岸田 無事に異動されて、さらに今年6月には第一子が誕生予定ということですね。

小原 はい。

岸田 リハビリで印象的だったことって、何かありますか?

小原 先ほども少しお話ししましたが、洗濯ばさみの訓練が印象的でした。家事ができるようになるか不安だったので、療法士の先生に相談したら、「やってみましょうか」と言って、タオルと洗濯ばさみを用意してくださったんです。
 その先生が実際に片手で器用にやって見せてくださって、「すごいな、この人」って思いました。でも、僕は最初は全然できなかったんです。それがすごく記憶に残っているリハビリの一つです。

岸田 次の質問ですが、「障がい者枠だと、条件や報酬に違いがある、不自由なことがあるという話も聞きますが、小原さんの場合はどうでしたか?」

小原 結論から言うと、僕はほとんど不自由は感じませんでした。僕が入社した製薬会社は、障がいに対して理解のある会社で、本当に恵まれていたと思います。ただ、同じく障がい者枠で入った知人の中には、例えば、雇用率を上げるためだけに別会社を立ち上げて、そこに配属される、みたいな事例も聞いたことがあります。入社前には説明されていなかったのに、実際に入ってみたら違っていた、というケースもあるそうです。そういう意味では、僕はとても運が良かったと思っています。

岸田 次にいただいた写真について伺っていきたいと思います。闘病前と闘病中と闘病後の写真をお伺いするんですけれども、まず闘病前の写真ですね。これが華の学園生活やってたときかな。

小原 これ、左側の写真、誰だよって感じかもしれませんが、これ……。

岸田 髪、長っ!

小原 長いですよね。それに、時代を感じる前髪ですし。しかも、顔つきが全然違うのは、この年、花粉症がひどくて、目をかきすぎて、ほとんど開いてない状態の写真しか残ってなかったんです。ちょっと恥ずかしいですが、これが高校を卒業したときの写真です。

岸田 夜のバイトとかしてなかったですよね? 大丈夫ですよね?

小原 してません(笑)。回転寿司でバイトしてました。

岸田 右側は、ゲームしてるのかな?

小原 普通にスマホをいじってるだけです(笑)。説明が分かりづらくて申し訳ないのですが、左は最初の入院の前、高校を卒業した頃の写真です。右側は、最初の手術を終えた後で、よく見ると右手に傷跡があります。ちょっと小さくて分かりづらいかもしれませんが。

岸田 あぁ、確かに、なんとなく……。

小原 右手のここに傷があって、近くで見るとかなり大きい傷なんです。これは、再発する前、一度元気になって大学生活を満喫していた時期の写真で、2014年頃だったと思います。

岸田 なるほど、それぞれ、闘病前の写真ですね。そして、闘病中の写真がこちらになります。左と右、それぞれどういう状況の写真ですか?

小原 これも、1回目と2回目の入院時の写真です。左が1回目の入院中で、先ほどお見せした長かった髪が抗がん剤で抜け落ちて、ここまで抜けた状態の写真です。このあと丸刈りにしました。この写真は、髪がここまで抜けるんだという衝撃的な経験だったので、記録として残しておいてよかったと思ってます。右は2015年、2回目の手術で、腕を切断した直後の写真です。病室に戻ってきた瞬間に親に撮ってもらったもので、右腕が包帯でぐるぐる巻きになっています。

岸田 確かに、右腕が白い包帯で巻かれていますね。ほんとうに「なくなってる……」って感じですね。

小原 そうなんです。ぐるぐる巻きです。

岸田 そして、退院後の写真がこちら2枚。左が1回目、右が2回目って感じ?

小原 いえ、ごめんなさい、ここは統一感なくて恐縮ですが……。左側は腕がない状態を見せたかったので、2回目の入院が終わった退院当日の写真です。義手もまだ作っていない状態で、そのまま退院したときのものです。

岸田 左側ですね。

小原 右は、特に意味はなくて、最近の何気ない写真なんですけど、腕の切断から7〜8年経って、今は元気に過ごしているという近況の写真です。これからも元気に過ごしていけたらと思っています。

岸田 写真でいろいろ振り返っていただきましたね。

小原 ありがとうございます。

岸田 ありがとうございます。ここからは、それぞれのテーマに分けて、一問一答のような形でお伺いしていきたいと思います。

母親の転職、父親の毎日の面会―9カ月の闘病を支えた家族の絆


岸田 まず最初のテーマは「家族」についてです。お母さんの話は少し出てきましたが、最初に親にどう打ち明けたのか、ご兄弟との関係性や、サポートしてもらったこと、伝えたことなど、何か印象に残っていることがあれば教えてください。

小原 まず両親に関しては、先ほどもお話ししましたが、告知の場に一緒にいたので、僕から改まって「実は……」と神妙な面持ちで伝えるような場面はありませんでした。その場で一緒に話を聞いて、3人で家に帰ってショックを受けた記憶があります。今でも両親とは仲が良くて、いろいろサポートしてもらっています。

 兄が1人いて、僕の3歳上です。ちょうど僕が大学に入ったときに、兄は大学4年生で就職活動の真っ最中でした。その頃は、いわゆる「男兄弟あるある」なんですが、口もきかないような仲の悪い時期でして……。なので、自分からは病気のことを言えず、たしか両親から「Yがこういう病気になったから、いろいろよろしくね」みたいに伝えてもらったと記憶しています。

岸田 そのときは、兄弟関係がちょっとギクシャクしてたんですね。

小原 はい、若い頃によくある話かもしれません。

岸田 当時、お兄さんからのサポートや声かけは特になかったですか?

小原 直接何か言われたことはなかったですが、両親づてに「すごく心配していた」と聞きました。

岸田 今、当時のことを振り返って兄弟で話したりすることはありますか?

小原 いえ、がんの話題については今もあまり話すことはないですね。

岸田 兄弟ではあるけれど、がんのことについてはあまり触れなかった関係性だったんですね。

小原 そうですね。そんな感じでした。

岸田 家族として、こういうサポートをしてもらって嬉しかった、ありがたかったと感じたことはありますか?

小原 してもらって嬉しかったこと…。僕の場合は、東京に住んでて、いろいろそういう医療機関の選択肢があったってのはあるんですけど、遠かったんですよ、家から、入院してた病院が。1時間半とか平気でかかる位置にあったんで、そんな中、親は、母親は特に、職場も移したりして、何とか僕のサポートをしてくれました。

岸田 すごいね。

小原 いろいろ手配してくれたり、父も時間を見つけて病院に来てくれたりと、そうしたことをずっと続けてくれていたんです。入院期間は通算で9カ月ほどと、かなり長かったのですが、その間ずっとサポートし続けてくれていて、本当にありがたかったです。それは何にも代えがたいもので、申し訳なさと感謝と、そして純粋に「すごいな」と思います。今、自分にも子どもが生まれるという経験を初めてするなかで、「ああ、これが親なんだな」と実感しています。今になって本当にそう思いますね。

休学・復学から卒業まで―大学の就職サポートが導いた社会復帰への道

岸田 そして、次、学校のことなんですけれども、さっき休学してっていう話だったり、友達とのコミュニケーションの話もいろいろしてもらったかなと思っていて。特に大学生という中で、勉強に差し支えは、その後復学してからなかった? 大丈夫だった?

小原 そんなになかったんですけど、勉強の遅れみたいなのは特にありませんでした。1年生からやり直しなので、みんなと同じ授業を受けるという意味では変わらなかったんですが、やっぱり、さっきの学籍番号の件で、僕が一番最初に発表することが多かったんですよ。

岸田 学籍番号、めっちゃ使うんですね。

小原 使いますね。先生たち、順番とか考えるのが面倒なのか、学籍番号順に発表ということが多くて。それがちょっと嫌でしたね。僕、あまり一番最初に発表するのが好きじゃなかったので。

岸田 でも「小原」だから、どうせ3~4番目には発表しなきゃいけないでしょ?

小原 そうですね。ただ、一番は嫌だなっていう感覚がありました。

岸田 学校側に対して、「こういうサポートがあったら嬉しかったな」とか、逆に「こういうことをしてもらえてありがたかったな」というのはありましたか?

小原 ありがたかったのは、腕を切断して戻ったときに就職を決めて、大学の就職サポート窓口の方がとても親身になってくれたことです。学校経由で求人を紹介してくれたり、いろいろ相談に乗ってくれたのはありがたかったですね。特殊な状況だったので、そういうサポートは本当に助かりました。

岸田 逆に、一段落している時期だったからこそ、時間を割いてもらえたのかもしれないですね。

小原 そうかもしれないですね、確かに。

岸田 授業の単位は頑張って早めに取得していたからこそ、再発したときにはゼミだけでよくて、ゼミの先生と交渉して卒論だけで済んだんだよね。闘病しながら卒論、書けた? 大丈夫だった?

小原 はい。卒論は退院した後、ゼミの仲間にすごく助けてもらいながら、テーマは違いましたが、一緒に卒論を書く時期があって、それが大学生活最後の青春だったのかなと思います。今振り返ってみても、すごく良い時間でした。

岸田 遅くまで学校に残ってた?

小原 そうですね、図書館で作業していました。

岸田 図書館ね。終わるまでこもってたんですね。

小原 はい。

岸田 最初の、第一印象とか、そういったところでは、がんとか、片腕がないとか分かんないんすよね?

小原 ですね。会う前の連絡を取ってる段階でも別に言ってなかったので、腕のことも言ってないですし、義手を付けているとほとんど気付かれないので、自分から言うまでは何もない、健常な人だと思ってたはずですね。

岸田 それで、握手するときに、あれ?っていう形になって、そのときに伝えたと。

小原 そうです。

岸田 そのとき伝えて、相手の反応は、「ああ、そうか」みたいな感じ? びっくりしてるとかは。

小原 すいません、結構、覚えてないもんですね。びっくりしてたような気がするんですけど。こういうのって、誰もがそうじゃないと思うんですけど、相手の抱えてる問題を知って、交際まで発展しないだろうなって人もいると思うんですよ。それは世の中的にはしょうがないと思いますし、がんサバイバーの方の悩みの一つではあると思うんですけど、そういうのが全然なかったんですよね、妻は。それが本当に。僕も病気してから、会社の人とか、自分が病気したことを伝えることはあったんですけど、それでも意外とフラットに接してくれたという感覚があって、そこが他の人と違う感じがして、すごく良かったなと思いますね。

岸田 いい人に巡り会えたんすね、本当にね。

小原 本当にありがたいですね。

18歳で精子保存、その後自然妊娠へ―抗がん剤治療後の妊娠可能性

岸田 そしてその次に、妊よう性のことについてお伺いしたいんですけど、結構いろんな抗がん剤、いっぱいしたって言ったじゃないですか。

小原 はい。

岸田 なので、妊よう性といわれる、子どもをつくる能力が落ちたのではないかだとか、そういったところはあるので、妊よう性の温存っていう、今、精子保存だったり、卵子保存、卵巣保存とかっていうのは、治療前にする方もいらっしゃったりするんですけれども、小原さんの場合、どうでした? こういう説明あった? まず。

小原 ありました。主治医の先生が、当時18歳のときに言ってくださって、将来子ども欲しいなとは思ってたんですけど、先生の紹介で治療が始まる前にそういうクリニックに行きたかったら行きなって言われて、ぜひということで、ものすごい急いで行ったのを覚えてますね。

岸田 治療、始まる前にそこに行って、精子を保存してっていうことだね。

小原 そうですね。保存してっていうのをやりました。

岸田 ていうことは、今、第1子がこの6月に生まれるっていうことは、それは自然妊娠なのか、それとも、妊よう性温存したものを活用してなのか。

小原 これは、ありがたいことに自然妊娠なんですよ。

岸田 そうなんや。

小原 そうなんですよ。僕も、半永久的に治らないから精子の保存をしたほうがいいっていう説明を受けていたので、そういうもんだろうと思ってたんですけど、たまに検査に行って自分の妊よう性を確認してたんですけど。

岸田 すご。偉い。

小原 治ったという形で。少し戻ってきてるっていうのは分かってたんすけど、結婚して子どもが欲しいなと思ったときに、妻と一緒にもう一回検査に行ったんですね。そこで測ったら、正直、全然問題ないという結果が出まして。「今まで保存してたけど、これ使わなくていいんですか」って聞いたら、まずは自然妊娠で1年ぐらい様子を見てくれって先生に言われて、ありがたいことにそれで授かったという流れですね。

岸田 そうなんや。妊よう性、戻ってきたということですね。

小原 戻りましたね。

岸田 すごい。そういう人もいるっていうことでね。さまざまな人がいますから、本当にね。見てくださってる患者さんたちには、自分もまだチェックをしてもらえたらと思っております。

 

高額療養費制度と医療保険で乗り切った学生時代の闘病費用

岸田 そしてその次、お金や保険のことといったところで、当時、学生だったりするから、そこら辺はご両親かなと、いろんなことあったりすると思うんです。お金、保険のこと、どれぐらいかかってどういうふうに、保険、入ってるかとか、お伺いできますか。

小原 まず、お金、そうですね、岸田さんおっしゃったように、両親に全部負担していただいていたんですが、まず治療費に関しては、長期入院であること、抗がん剤を大量に入れていること、なので、ものすごいかかってます。高額療養費制度を使って、その補助を受けていたというのは、結構がん患者さん、そうかなと思うんすけど、僕もそれに該当しています。ちょっと、どうぞ、岸田さん。

岸田 いや。ちょっと、何?

小原 いいですか。ちょっと金額的には分からないんですけど、多分、相当な金額で僕は生かされてるなと思っていて、将来、払うべき税金の分、全部、自分が奪ってるんだろうなっていうぐらい、多分、税金にお世話になってるというのは、まずお金のことなんですけど。

岸田 みんな一緒だから。みんな、何かあったときにそういうところにサポートしてもらってるからね。

小原 本当にありがたいなと思います。保険なんですけど、母親がずっと保険に携わるお仕事をしていて。

岸田 そうなんや。

小原 僕が高校生の、がんになるちょっと前ぐらいに、医療保険に加入をしていて。

岸田 おー。

小原 がん保険は入ってなかったんすけど、医療に入ってたおかげで、1日あたり何円とか、手術したらいくらっていう形で、まあまあ、そんなに何百万とかじゃないんですけど、お金、出ましたので、それをちょっと使って、バイトできない分のお小遣いにしたりっていうので助けてもらってました。

岸田 そういうことね。確かにもうバイトできなくなっちゃうもんね。だから、その保険内で、治療費はご両親に出してもらったりしつつも、保険でバイトできない分、賄うか。確かに。

小原 あと、お金のことで言うと、さっき申し上げた休学してるときの学費は、半額ですけど払うっていうことで、私立大学の学費って、年間100万円以上かかる所は結構あるので、その半額。

岸田 50万、60万、70万あるね。

小原 とかですね。それが出ていったと思うと、本当に、両親にそこをつなぎ止めてもらえたのはありがたいなと思うので。

岸田 そっか、休学代とかもかかんねんな。そうやんな。そこら辺。

小原 本当そうですね、あらゆること。あと、日々の食事とか、治療費以外にもかかるところ、たくさんあったと思うんで、その時期はお金かかってました。

岸田 今は保険、入った?

小原 今? 僕ですか。

岸田 うん。

小原 僕、入ってます。何とか、緩和型というものがあって、妻と娘ができるので、ちょっと前ですけど生命保険も入ったりとか。医療保険も、もともと母が入れてたやつを、すっごい安いやつなんすけど、でも、ありがたいので入ってます。

岸田 しっかり将来、考えてるんやな。もうお子さんも生まれるし。

小原 人によると思うんですけどね。保険が必要だと僕は判断したので、入ってはいますね。

抗がん剤の過酷さを「時間が過ぎるのを待つ」ことで乗り越えた日々

岸田 そしてその次、つらい・克服という中で、どんなタイミングでつらかったか、肉体的や精神的、いろいろあると思うんですけれども、どのようにそれを克服していったかお伺いできますか?

小原 まず、肉体的につらかったことについてですが、何度もお話ししている通り、やはり抗がん剤治療が一番つらかったです。正直、「克服できたか?」と聞かれると、実際には克服したというよりも、ただ時間が過ぎるのを待つことで、なんとかやり過ごしたという感じです。

当時、自分にできることはほとんどなくて、さなぎのように仰向けでじっと寝ているしかありませんでした。ひたすら時が過ぎるのを待つことが、僕なりの「克服する方法」だったと思います。それくらい、抗がん剤治療というのは、常識では想像できないほど過酷な世界でした。

肉体的には、とにかく回復を待つしかありませんでしたが、今こうして元気になれたことは、本当にありがたいことだと思っています。

一方で、精神的な面では、僕はもともと話すことが好きなので、家族や友人、看護師さんなど、周囲の人たちとたくさん会話をすることが、心の支えになっていました。特に父との関係は特別で、入院中は父が病院に来てくれるたびに、病気のことだけでなく、世間で起きていることなども含めて、本当にいろんな話をしました。

「ここまで父親と話す親子って珍しいんじゃないか」と思うくらい、たくさんの時間を共に過ごし、会話ができたことが、自分にとって大きな支えになりました。社会から隔絶されたように感じる中で、その感覚をやわらげてくれたのが、こうした日々の会話だったと思います。

岸田 いいですね。

小原 病院に来てくれたときに、ほぼ一日中、病気のこともそうですし、世間で起きてることとかを話すことで、結構、社会から隔絶されてるような自分の感覚を和らげていくことができたかなというふうに思っているので、その辺りですかね。

岸田 そんな仲いいお父さんの話が、闘病の歴んとき全く出てこんかったから、なんか。

小原 確かにそうですね。

岸田 けど、お父さんとも良好で、そういったところで話しして、克服していったということですね。

小原 そうです。

耳鳴り・記憶力低下・幻肢痛―抗がん剤と手術が残した影響

岸田 そして次に、後遺症について伺いたいと思います。もちろん、腕がないという大きな後遺症がありますが、それ以外にも何か不自由を感じることがあれば教えてください。

小原 後遺症は大きく分けて二つあります。抗がん剤によるものと、手術によるものです。
まず抗がん剤による後遺症のひとつは耳鳴りです。これはずっと続いていて、例えるなら、夏に網戸越しにセミが大量に鳴いているような「ミーン」という音が24時間、常に聞こえている感覚です。そのため、周囲がざわついている場面では、人の話が聞き取りにくくなります。たとえば飲み会などで、声の小さい上司の話を理解できず、にこにこしながらうなずいてごまかすこともあります。
もうひとつは記憶力の低下です。これは年齢のせいかもしれませんが、以前は記憶力がよかったのに、今は言葉がパッと出てこなかったりすることがあります。なので、忘れないようにメモを取るようにしています。
手術による後遺症については、やはり「腕がない」ということでできないことが多くあります。たとえばステーキをナイフで切ることができないので、切ってもらうか、最初からハンバーグを選ぶようにしています。

岸田 なるほど、食べるときもそうですし、Nintendo Switchのゲームとかも難しそうですね。

小原 そうなんです。Switchの操作も片手ではできないので、親戚の子とマリオカートをやったときは、義手の親指でAボタンを押し続けて、左手でなんとか操作して、ギリギリで負けてあげるようにしていました。遊べないわけではないですが、やっぱり制限がありますね。
また、左足の骨がないこともあって、激しい運動は医師から控えるよう言われています。幸い、もともと運動はあまりしないので、大きな問題にはなっていません。

岸田 そして、リハビリのときにも少し話が出ましたが、「幻肢痛」もあるんですよね。

小原 はい。幻肢痛というのは、腕がないのに、あるように感じてしまう現象です。僕も今でもその感覚があり、毎日痛み止めを飲んでいます。薬がないと生活がかなり厳しいです。脳が腕があると勘違いしてしまうんですよね。

製薬会社勤務経験から伝える―患者が求める「わかりやすい説明」の価値

岸田 では次に、「医療者への感謝や要望」があれば教えてください。

小原 まず感謝についてですが、私の命が今ここにあるのは、医療者の皆さんのおかげです。本当に感謝しています。

私は製薬会社に7年間勤めていた経験があるのですが、患者さんは製薬企業に感謝することは少ないと思います。やはり目の前で接してくれる医師、看護師、薬剤師など、現場の医療者に対して感謝の気持ちを持つものだと感じてきました。だからこそ、医療者の皆さんには、自分たちの仕事にもっと誇りを持ってもらえたらと思います。

また、「要望」とまでは言いませんが、ひとつお願いしたいのは、患者が理解し、自分で納得して治療を選べるようにしてほしいということです。僕の主治医は、難しい言葉を一切使わず、やさしい言葉とわかりやすいたとえ話で説明してくれました。18歳の僕でも理解できるくらい、本当に丁寧に話してくれて、そのおかげで納得して治療を受けることができました。医療の専門知識があるだけでなく、それを患者に伝える言語化スキルも、医療者にはとても大切な力だと思っています。

岸田 まさにその通りですね。医療系の学生さんにも、ぜひそういった力を磨いてほしいです。

小原 ありがとうございます。

入院前に知っておきたかった「スマホ大容量プラン」の重要性

岸田 そして次、「過去の自分へ」というテーマでお聞きします。あのときこうしておけばよかったなとか、過去の自分に伝えたいことなど、何かありますか?

小原 これ、岸田さんからお題をいただいたときにどうしようかなと悩んだんですけど、一つだけ伝えたいことがあります。それは「スマホのプランを大容量にしなさい」ということです。
入院中の話なんですが、僕が入院していたのは2011年頃で、ちょうど日本でもiPhoneを使い始めた人が増えてきた時期だったと思います。その頃、スマホはすでに必需品だったんですけど、当時の僕は容量の小さいプランを使っていて、しかも電波も悪くて本当に困りました。Wi-Fiもうまくつながらないことも多くて。

今のように病院にWi-Fiが整っていることも少なかったので、そういう環境に入院することを考えると、「気にせず使える通信環境を整えておく」というのはとても大事だったなと思います。

岸田 たしかに、最近は病院でもWi-Fiがあるところも増えてきたけど、まだないところも多いですからね。

小原 そうなんですよ。入院中だけでも、大容量プランにしておくと安心できると思いました。これは本当に伝えておきたいです。

「人生3周目」の強さ―壮絶な体験が生んだ”無敵のメンタル”

岸田 そして次に、「Cancer Gift」についてお伺いします。がんになって失ったものもたくさんあったと思いますが、その中で得たもの、得られたことについてはいかがでしょうか。

小原 これは月並みかもしれませんが、僕は2回の壮絶な抗がん剤治療を経験し、手術も大小合わせて8回か9回ほど受けています。ほとんどが全身麻酔でした。こういった経験を20代前半までにしている人は少ないと思います。そうした中で得た一番大きなものは、「多少のことでは動じない心」です。僕はこれを「人生3周目」と呼んでいるんですけど、2度の抗がん剤治療と右腕の切断を経験して、今は3周目の人生を生きている感覚です。そんな中で手に入れた“無敵のメンタル”が、何よりの収穫だと思っています。最近、転職したばかりで、いきなりインフルエンザにかかってしまい、出だしからつまずいてしまったんですが、それすらも「ネタの一つ」くらいに前向きにとらえて、これからも頑張っていきたいと思っています。

岸田 3周目だったら、ちょっとやそっとじゃ揺らがないですよね。

小原 そうですね。本当に、よほどのことがない限りは、もう大丈夫だと思います。

父親になる喜びと疾患啓発活動―体験者だからこそ伝えられること

岸田 そういったところと、そしてその次に「夢」ですね。小原さんが今後やっていきたいことや、考えていることはありますか。

小原 僕はもともと「不妊症かもしれない」と言われていて、子どもを持つことにあまり期待をしないようにしていました。強く望みすぎると、自分がつらくなると思っていたんです。

でも幸いなことに、まだ無事に生まれてきてくれるかどうかは分かりませんが、娘が生まれる予定です。まずはその新しく生まれてくる家族をしっかり支えて、成長を見守っていくこと。それが今、一番大事にしたい夢です。

もう一つは、今日こうして「がんノート」に出演させていただいていることもその一環なのですが、以前、製薬企業で疾患啓発の活動をしていました。患者の視点から、社員に向けて講演をするような取り組みです。
今は別の業種に転職していますが、こうした活動を通じて、若い世代に「がんに対する正しい理解」や「患者が感じていること」を少しでも広められたらと思っています。医療リテラシーが少しでも高まるように、細々とでも発信を続けていけたらと願っています。

岸田さんとも、今後ともいろいろとご一緒できたら嬉しいです。これが僕の今の夢です。

岸田 自分が経験してきたからこそ、両方の視点が分かるというのは、本当に大きな強みだと思います。ありがとうございます。

小原 ありがとうございます。

二つの谷底から「ハピネス10」へ ペイシェントジャーニーが示す希望

岸田 そして、そんな中で「ペイシェントジャーニー」ということで、小原さんのお話を振り返っていきたいと思います。画面共有をさせていただきますね。こちら、パワーポイントの資料です。

岸田 小原さんのペイシェントジャーニーを、このようにまとめさせていただきました。まず、大学入学後に右腕に違和感を覚えたところから始まりました。バスケットボールをしているときに気付いたということでしたね。

岸田 そこからいくつかの病院を回ったのち、がん専門病院で告知を受けました。そして、休学を選択し、薬物療法を経て最初の手術へ。その後、リハビリをして退院、復学。1年生と2年生のはざまで再び1年生からやり直し、就職活動を始めたところで再発が判明。再度薬物療法が始まり、右腕の切断手術を受けました。

岸田 リハビリでは利き腕の交換にも取り組み、退院後、就職活動をして内定。大学や専門エージェントのサポートもありました。製薬企業に入社され、奥様とご結婚。そして念願だったがんの専門部署へ異動。現在は第1子の誕生を控えているとのことです。

岸田 このペイシェントジャーニーについて、補足などありますか?

小原 はい。このペイシェントジャーニーの図を見て感じたのは、自分がこれまでに二つの大きな谷底を経験してきたことが視覚的にとてもよく表現されているなということです。これが僕の12年間の人生を、非常にわかりやすくまとめていただいていると思いました。

小原 今、僕は人生の中でも一番「ハピネス」が高いときだと思っています。10段階でいうと「10」の状態です。それは、もうすぐ子どもが生まれるといううれしい出来事があるからですが、それだけではありません。これまでのいろんな経験があったからこそ、今があるということを毎日思い返すようにしています。

小原 今回こうして岸田さんにこのような機会をいただいたことで、あらためて過去を振り返り、今のありがたさや尊さを深く実感できました。今つらい思いをしている方にも、このようなモデルケースを知っていただくことで、少しでも前向きな気持ちになっていただけたらうれしいなと思っています。

岸田 ありがとうございます。小原さんが今、前向きにお話してくださっているのは、本当に素晴らしいことだと思います。でも、今この配信を見てくださっている方の中には、ちょうど谷底のような時期にいる方もいらっしゃると思います。

岸田 そういうときに「無理に前向きにならなきゃ」と思う必要はまったくないと思うので、自分のペースで日々を過ごしていただきたいです。そして、いつかタイミングが来たときに、今日のお話を思い出してもらえたらと思います。

岸田 といったところで、一通りお話を伺ってきましたので、ここからは少しインフォメーションをさせてください。本日ご協賛いただいているのは、「『生きる』を創る。」のアフラック様、グローバル企業のIBM様、そしてアイタン様です。

岸田 また、日頃よりご寄付をくださっている皆さま、そして配信をご覧いただいている皆さま、本当にありがとうございます。

岸田 最後に皆さまにお願いがあります。近日中に、ゲストの方へのメッセージをご入力いただければと思います。お送りいただいたメッセージは、オンライン上ではありますが、色紙風にして小原さんにお渡ししたいと考えています。

小原 ありがとうございます。

岸田 うれしいと言っていただけて何よりです。今、チャットにもリンクをお送りしましたし、配信の概要欄にも記載しています。ぜひ、今日の感想や小原さんへのメッセージをお寄せいただけたらうれしいです。

「未来の不安に飲み込まれないで」―マインドフルネスが教える今を生きる力

 岸田 今、闘病中のあなたへというテーマで、小原さんにお話を伺いたいと思います。その前に、コメントもいただいていますので、ご紹介します。

岸田 先ほどの恋愛・結婚の話に関して、「話の流れで握手って、どんな話題!?」というコメントが来ています。

小原 そうですよね。僕も覚えてないです。すみません。

岸田 とりあえず握手したと。

小原 とりあえず握手したんですよね。そこがきっかけでしたね。

岸田 「素敵な女性に出会ったのですね」「自然妊娠、精子、戻ったんですね」といったコメントも来ています。

岸田 また、「私は休学できず、治療中で学校をがっつり休むハメになりました」「授業料は払い続けました」「年度途中でも休学できるようになってほしかったです」といったご意見もいただきました。本当に、病気など特別な事情がある場合には、制度の柔軟性が求められますよね。

小原 そうですね。

岸田 ヨシモトさんからは「優しいパパになりそうですね」「今日のお話が若いがん患者さんの参考や支えになりそうですね」とのコメントも届いています。

小原 ありがとうございます。

岸田 それでは、最後に「今、闘病中のあなたへ」というメッセージを、小原さんからお願いいたします。

小原 まず、今日の長い時間、本当にありがとうございました。とても良い機会をいただけて、私自身もうれしく思っています。インフルエンザで喉が限界に近いですが、たくさん話せて幸せです。

小原 「Mindful」という言葉を、僕からのメッセージとして挙げました。いわゆる「マインドフルネス」という考え方で、過去の経験や先入観にとらわれず、今この瞬間の自分の気持ちや体の状態を受け入れていくというものです。

小原 特にお伝えしたいのは、「未来の不安に飲み込まれないこと」です。不確かな未来に対する不安は尽きないと思います。でも、目の前のものに意識を向けることが、つらさを乗り越えるヒントになることもあります。

小原 僕自身も、例えば「元気に大学生活を楽しんでいるはずだった」とか「内定をもらって喜んでいるはずだった」とか、「結婚して子どもを授かっているはずだった」といった、“はずだった未来”をたくさん想像してしまっていました。でもそれは、ほとんどが未来に対する不安や恐れから来るものでした。

小原 そうした未来を思い描いてばかりいると、苦しくなるしキリがない。だからこそ、自分がどんな経験をしてきたか、今どんな人生を歩んでいるのか、に目を向けることで、少しずつ心が軽くなるのではないかと思います。

小原 がんを経験していない人と比べることは全く意味がないし、自分は大きな視点で物事を捉えられるようになったという実感があります。ちょっとしたピンチがあっても、今の僕は乗り越えていけると思えるようになりました。

小原 ただ、岸田さんもおっしゃっていましたが、今つらい状況にある人に「前向きに」なんて言っても、そう簡単にできることではないと思います。だから、そういうときは無理せず、できるだけ周りの人に頼ってください。わがままを言ってもいいと思います。そうすることで、少しでも楽になれることもあります。

小原 僕の話が、少しでも参考になったらうれしいです。そして、矛盾するようですが、「これからいい未来が待っている」と信じることも大事だと思っています。都合よく、ポジティブに捉えるマインドフルな考え方を、皆さんと共有したいと思います。

小原 今日は本当に、楽しい時間をありがとうございました。

岸田 ありがとうございます。未来の不安を考えすぎないというのは、本当に大事ですよね。まだ起きていないことで、なぜこんなに不安になるんだろうと思うことがあります。でも同時に、「未来はきっと明るいんだ」という気持ちを持ち続けることも、すごく大切だと感じました。

岸田 ちなみに小原さん、インフルエンザは峠を越えたんですよね? 大丈夫なんですよね?

小原 はい、峠は越えてます。大丈夫です。

岸田 くれぐれも誤解のないようにお願いしますね。「患者に無理やり出てもらってる」わけじゃありません(笑)。

小原 すみません(笑)。全然そんなことないですよ。

岸田 ネタにしてくれてたと思いますので、大丈夫です。コメントでも「未来の不安に取り込まれないこと。とても大事ですね」といった共感の声が届いています。ありがとうございます。

小原 ありがとうございます。

岸田 それでは、今日の「がんノート origin」、そろそろ終了とさせていただきます。また次回の動画でお会いしましょう。それでは、バイバイ!

小原 ありがとうございました。

岸田 ありがとうございました。バイバイ!

小原 失礼します。

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