目次
- ゲスト紹介テキスト / 動画
- ペイシェントジャーニーテキスト / 動画
- 副作用や後遺症のことテキスト / 動画
- 病院のことテキスト / 動画
- 家族のことテキスト / 動画
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インタビュアー:岸田 / ゲスト:目片
笑顔の理由と、私のすこし前の暮らし
岸田 爽やかな笑顔で、写真どこで撮られたんですか?
目片 みなとみらい。
岸田 いいですね。そんな中でちょっと簡単に自己紹介をお願いできますでしょうか。
目片 目片多美子と申します。神奈川県横浜市に住んでおります。出身は滋賀県で今は専業主婦やっております。
岸田 そしてご趣味が旅行やカフェ巡り、インテリア雑貨巡りなどあると思うんですけど、結構いろんなところに行かれるの好きなんですね。
目片 そうです。私旅行が大好きで、もちろん家族とももちろんいきますけれども、あの子育てもね、一段落してきたということもありまして、お友達との旅行っていうのも本当に比較的たくさん行ってる方かなと思います。
岸田 どこがお勧めとかなんか(ありますか?)。
目片 私はとにかく海が好きなので沖縄方面はよく行きます。
岸田 私たちもやっぱり結構お友達と行ってると、極端というか北だったら北海道だし、南だったら絶対沖縄だよねって感じで、いろんなところに行ったりとかするんですけど、この間は本当は与論島を目指したくて、与論島の計画を本当に立てて宿も予約してやってたんですけど、よく考えたら雨季っていうことが分かっちゃって、その前に宮古島に行った時に知らなかったんですけど、雨季だったので雨で、ちょっと残念だった沖縄を体験しちゃったので、やっぱり雨季に与論島行くのは嫌な予感しかしないねってなって急遽、本当に急遽行き先をグアムに変えて、グアムだったら海があって、雨季じゃないねって話になって、この間グアムに行って海に入ってきました(笑)。
まあね、海が大好きな目片さんなんですけれども、がんの種類から、もう少しお願いしてもいいですか?
目片 そうですね、私は子宮肉腫という希少がんになってくるので、多分聞き慣れない方もたくさんいらっしゃるかなって、私ももちろんそうだったんですけど、本当に10万人に一人二人っていうような、珍しいがんといえばがんですけど肉種です。
岸田 子宮肉種というがんに罹患されて、ステージが4、ステージは聞かされてるわけではないですよね。
目片 そうですね、肉腫ってステージがあるのか知らないですけど、いっぱい体中出ちゃってるから、カテゴリーに分けると4かなっていう感じですね。
岸田 そして告知年齢は48歳そして今は54歳、で治療方法は薬物療法や放射線、そして手術やラジオ波などをされているということなので、様々されていますので、またそれをね、お話をまた聞いていきたいなと思います。
「生きる」をあきらめない—迷いと決断の連続だった私の闘病記
岸田 ではこちら次に、どのような経過をたどってきたのかといったところの、ページェントジャーニーをお伺いしていくんですけれども、感情の浮き沈みとかね、あと吹き出しはこんな形になっております。またこれ見ていただければと思います。
そんな中でですね、こちら、目片さんのこのペイシェントジャーニーね、浮き沈み、様々なことがあったかと思うんですけれども、結構下がっているところがなかなか多い。
目片 こうやって見ると、私って結構どちらかというと、元気で明るいというか、結構バーってしたタイプなんですけど、なので沈んで生活しているイメージでは自分ではなかったんですけど、こうやって表現するとね、治療が多い分、良いか悪いかって言ったら悪いよねっていうような状態が多いんだなっていうことは見て取れちゃったんですけど、でもこんななので大丈夫です(笑)。
岸田 そんな中でですね、お話聞いていきます。まずはこちら仕事や家庭や遊びだったり、いろんなことに充実していた、そんな時期が2018年、この時にもいろいろ沖縄に行かれたりしてるってことですね?多分。
目片 遊びまくって、仕事ともうほんとに週末の遊びと、もちろん家族もね息子2人いるんですけど、息子2人と、その時はワンちゃんはまだいなかったんですけど、息子たちもそれなりの反抗期とかもありながらも、なんとなく4人でそれなりに楽しい生活をしていて、仕事とあとお家のことって、そんなに立派なことができてるわけじゃないんですけど、それと土日、本当に友達とかでよく遊んでいたので、そのあたりが私の中ではバランスが取れてて、今の自分の生活結構、それなりにいいなって思って生活していたので、っていうところが2018年、48歳でした。
岸田 どんなお仕事をされていたんですか?
目片 公務員関係だったんですけど、ちょっと特殊な仕事をやっていて、それはそれで私の中では楽しい。楽しかった。
岸田 市役所とかそういう公務員じゃない?
目片 そういうんじゃなくて、ちょっとえって思われるようなところなのであれですけど、公務員されていたってことですね。特殊な公務員。やってました。
岸田 そんな公務員されていた中で、そこで下がってまいります。お腹が痛い、生死に関わるかもというふうなところをいただいていますけれども、こちらはまず最初お腹が痛くなって?
目片 本当に男性の方なのであれですけど、女性の生理痛もあると思うんですけど、イメージ生理痛でお腹が普通に痛い、でも続くな…みたいなので、本当にお薬もらおうぐらいの感じで行きました。お腹痛いから薬くださいっていうふうな形でまずは病院に行って、それで行ったけれども、いきなりこう。そうですね、あの、本当に町の女医さんのところだったんですけど、内診してすぐに、本当に今も命の恩人だと思ってるんですけど、その時の女医さんがすごくまれな病気だから、大丈夫な可能性ももちろんあるんだけれども、子宮肉腫っていうとても生死に関わるような、一刻を争うような病気の可能性が、ただ滅多にない病気だし大丈夫だねってなればいいんだけども、今私が見た中でもちょっと不安があるから、もう一刻も早く血液検査は今すぐするけど、血液検査の結果が良くても悪くても、正直肉種は血液検査じゃ分からない、腫瘍マーカーとかないので、血液検査の結果が良くても、大きな病院にはすぐに行くように言われたんですね。
血液検査をしていた結果が良かったんです。よかったんだけど、初めからもう先生はよくても行くんだよって言われてたので、良かったけど大きな病院にすぐに。でもその時の女医さんもやっぱり。
岸田 先生の見立てが本当に正直こんな珍しい病気って、街のね、街のって言ったらあれですけど。
目片 そうですよ、婦人科さんで扱ってらっしゃるかどうかって言ったら、その先生だって、子宮肉腫の患者さんを見たことがあるかどうかっていうと、正直ちょっとっていうところがあるので、よく本当に診てくださったなっていうところがあって、その前にも違う病院に行ってた時は、更年期だよって言って、そんな大丈夫大丈夫って言われてたんだけども、お腹が痛いから、じゃあ隣の病院ぐらいの感じで行ったら、その女医さんはそうやって見つけてくださって、もう本当にあの女医さんにめぐり合ってなかったら、もうお腹がどんどん大きくなってきて、破裂しちゃって生死に関わるっていうことだったので、初めの説明が。本当にありがとうございますって感じで、大きな病院に行きました。
岸田 大きな病院に行かれていくんですけど、下がってまいります。そちらはこれがんの告知を受けていく、そして手術をされていくということなんですけれども、大きな病院で分かっていったんですね。
目片 そうですね、本当に大きな病院に行ったので、そこで先生は内診してやっぱり同じ意見を言われました。ただ珍しい病気だし手術で全摘しないとわからない、だけれどもその前のMR(I)である程度のことがわかるから、MR(I)で怪しかったら、もう全摘の手術を急いでやるって言われたんですね。もうどんどん大きくなっちゃうからすぐにやるって言われたんです。
だからそのMR(I)の結果がちょっと一種の別れ目かなっていうことを言われて、それでMR(I)の結果を聞きました。その時に私はそうは言っても、めったにない病気だっていうことは言われていたので、大丈夫だろうぐらい、そんな私病気したことないし、入院とか手術とかそういうことも出産以外はないし、本当にいたって元気だったので、そんな珍しい病気に自分がなるなんてことはないから、まあそんなこと言われててもないよぐらいの感じで。
なので、結果を聞きに行くときも、別に主人も全くそうも思ってないし、一人で私も行きましたし、その行く日の朝ももう、夫と絶対ないよねとか言って、でもあったらあったで、近くに宝くじ売り場があるから絶対宝くじ、もしものことがあったら宝くじ買いなって、絶対当たるよとか言って、そんな万に一人っていうのに当たるんだったら、絶対宝くじも当たるから、絶対だったら宝くじだよって言われて、でもないかってパパにも言われたし、私もそう思ってたから、別に何も考えずにひょいひょいと結果を一人で聞きに行きました。
岸田 そこからですね、こちら、ないと思っていたけれども、やっぱりがんだった
目片 そうですね。なのでその日の帰りはもう、本当に今からだったらおこがましいですけど、私はこの世の世界中で、一番今、私は可哀想な人だっていうのは正直あったんですけど、でもすごい可哀想って思いながらも、とりあえず宝くじ買ったんですよ。
岸田 (笑)
目片 とにかく買って、それで夫に宝くじを買いましたっていうLINEをしました。詳しいことは夜に家で喋ったんですけど、宝くじを買いましたっていうLINEだけはしまして、それで本当に宝くじを買って、でもその帰りは本当に私、今すごいかわいそうみたいな感じで今から考えたらね、もっと大変な方がいっぱいいらっしゃるんだけど、その時は言われた帰りだったので、言われた自分は別の自分であってほしいとか、名前を変えたいとか、目片さんじゃなくなったら、普通の人に戻れるんじゃないかとか、言われた瞬間の前の自分に戻りたいとか、いろんな気持ちが帰り道はありましたよね。
岸田 ちなみに宝くじは当たりました?
目片 それが当たんない!!(笑)そんなかわいそうな人にも別に当たりませんでした(笑)。
岸田 そして手術を受けていくといったところで、手術は子宮にあるから子宮摘出ですね?
目片 子宮と卵巣とその辺りの周りの中も影響を受けると、とにかくその辺りごっそり全部取りましたって言われました。やっぱり肉腫ってどこに飛んでるかわからないから、周りは全部その辺全部きれいに取りました。
岸田 そしてそこからちょっとだけ上がっていきます。こちら薬物療法していくというふうな形で、そこから抗がん剤治療が入ってくるんですね。
目片 そうです。それが私の中では正直この病気になった時に、珍しい病気になったということが分かったんですけど、でも知らない病気だし、本当は調べなきゃいけなかったんですけども、怖くてちょっと見たんですよ、子宮肉腫って。そしたらなんか、余命とか、なんかなんですかこう、予後悪いみたいな、そういうなんかあまり良いことが本当に書かれてなかったのを、チラッと見たから、もう怖くなっちゃって。
私はとにかく手術で全部取るって言われたから、全部取れば終わるのかって思っていて、なんでもとりあえず手術してパパっと取れば痛みには弱いんですけど、痛みは怖いけどでも、手術で取れば終わるって思ってたから、あんまりもう調べずに、もう自分の病気を正直理解をそこまでしないで、手術に臨んだので、取ったら終わりって思ってたから、取って結果的に病理検査で子宮肉腫でしたよ はたぶん言われるっていうのは思ってたんですよ。
でもそれで終わりって思ってたから、職場にも手術したら復帰しますって言っていたので、まさか抗がん剤を提案されるっていうことは夢にも思っていずに、そのタイミングで抗がん剤を言われた時はえって感じで、もう正直信じられないって言ったら、正直抗がん剤のイメージは、私の中でドラマのあの世界でしたし、昭和生まれなので、壮絶な吐いてばっかりで、髪の毛が抜けてもうなんか本当に壮絶なドラマとかを、目にすることもあった時代の人間なので、なんかあれに私がなるっていうことが、もう全然理解できなくって。
で、術後ちょっとずつ体も回復してきていて、もう復帰しますっていうことも言っていた時なので、こんなに今復帰に向けて体調が良くなってるのに、今からそんな薬を入れるなんて意味わかんないけどみたいな感じで、正直ちょっと受け入れるのに、時間はかかったんですけど、まあでも結局やることになりましたね。
岸田 やることになっていってそれで治療どれくらいしたんですか?この薬物療法は。
目片 そうですね、でも4クールだったんですよね。4クールなので8月にスタートして11月までやりました。これは私の場合はですけれども、目にはっきり見えたわけじゃなかった。その時の大学病院の先生なんですけど、うちとしてはこれ(抗がん剤)はやると、病院によってはやらない選択をする病院もあるから、どうしても嫌だったらそういう病院の指導を受けるのも一つだよって言ってくださったんですけど。
ただやるかやらないかっていうところで、私は本当はやりたくなかったんですけど、やらない選択の一つが、やっぱり仕事をまた行けないっていうことのショックだったんですよ。なので上司にその話をしたんですよ。そしたら直属の、本当に上の直属の結構トップの上司が、この時たまたま女の方だったんですね。とてもいい女性の方で、ご理解もあったんですけど、その方がですね、やっぱり言ってくださったんですよ。
全然病気のことは詳しくないけれども、やるかやらないかって言われたんだったら、私だったらやるわって言ってくださって、その言葉が私にとっては、また休まなきゃいけないっていうことになるのに、そういう選択を言ってくださったことが、私の背中を押していただいたっていうところもあって、私はやっぱり仕事に行きたかったし、また休むのっていうのが自分の中であったので、上司からそう言っていただいたことで、休ませていただける環境をいただいたんだっていうところで、本当にそれがまた私の後押しにもなって、選んだっていうところですね。なので11月までやりました。
岸田 そして上がっていきます。それがこちら職場復帰していくぞという感じで。
目片 はい11月、終わったらすぐに行きました。嬉しくて嬉しくて本当に髪の毛抜けちゃったので、ウィッグなのでね、その辺でなんかちょっと変な緊張感はあったんですけど、ウィッグに対して職場には上司にはもちろん言ってましたけど、周りには全く言ってなかったので、そのあたりでちょっとね、どうなんだろうっていうのはあったんですけど、でもなんとか楽しく復帰させていただいて、ありがたかったです。
岸田 またねお仕事のことを、後でまた聞いていきたいなと思いますけれども、そこから下がっていきます。それがうわぁ転移が見つかっていくという。肺と骨転移、骨はどこに転移したんですか?
目片 骨は2箇所だったんですけど、肩甲骨の辺と骨盤の中。そもそもなんですけど、私はじめに子宮肉腫を言われた時にですね、町の女医さんにも言われたし大きな大学病院にも言われたし、なところが、再発したら怖い、再発したら正直厳しいっていうことを、最初から言われたんです。
だから再発しなければ大丈夫かもしれないっていうことも、逆を言えば言われてたんですよ。なので再発しなかったのではじめ、だからすごいありがたいことに、お仕事をさせていただいて、何なら忘れてる時もあったぐらい、ありがたい状態を保っていたので、もう私再発しないんじゃないか、病気終わったんじゃないか、ぐらいに思ってた時だったので、その再発っていうこと自体は本当に、え、じゃあ終わりなの?ぐらいのショックがあったので、はじめの肺とか骨に転移したっていうところは、私にとっては相当ショックでした。本当に大きな病院だったんですね。そこの結構上の方に名前のある先生だったので、とてもベテランさんだったんですけど、その先生も結構な感じで、再発の時は今までと違うトーンで、うーんって感じで言われてしまいましてですね、家族との時間を大事にぐらいのことも言われまして、やっぱり正直終わりに向かっていくのかなっていうような、そんなことは言われないですよ。言われないけれども、相当明るい元気なとても感じのいい先生だったんですけども、ん〜っていう感じだったんですよ。
それとあと違う病院で、肉腫を診ている病院で、セカンドオピニオンということも提案されました。それはもちろんうちでも治療はできるんだけれども、やっぱり再発ってこの後の治療は相当厳しいものになっていくから、違うところのご意見を聞くっていう選択もあるよって、もちろんうちでも診れるけどねっていうことで、すごい優しくやってくださったんですよね。
岸田 そこでセカンドピニオン行きます。
目片 セカンドだけじゃなくサードも。
岸田 サードも行きました。それはですね。
目片 セカンドピニオンは近くにがんの大きな病院があったので、そこで希少がんセンターっていう名前のものもありましてですね、そういったところもやっぱり肉腫の患者さん、集まって来られてるでしょうし、そこはもうやっぱり私にとっては、力強いセカンドオピニオンっていう意味で、絶対行きたいっていうのがありました。
その時にですね、私本当に病気怖くて、本当に調べられなかったんですよ。そんな中で周りのね、本当にありがたいんですけど、友人たちがですね、元気な友人たちがですね、たくさん調べてくださって、ほんとに目がしょぼしょぼするって言いながら、一生懸命いろいろ文献を読んだり、いろいろネットで検索しまくったり、本を読んだりとかいっぱい探してくださったんですよね。
たくさんいろんな何かないかっていうところで、私の病気について調べまくってくださった友達がたくさんいて、その中で勇気がいったと思うんですけれども、先生のことを引っ張り上げて来てくださって、全然私は知らない先生なんだけどとか言って、ただ肉腫をやたら見てる先生が、私と同じ病気の人がやたらその先生出てくるんだよみたいな、私は知らない先生だし、すごい勝手なことは言えないんだけども、一応一回ちょっと頭に入れてみてって。
そういう先生がいるっていうことは、一応ネット上ではバンバン出てきてるから、全然私は知らないけどねって言ってくれて、探してきてくれたんですよ。その友達がたくさんその先生の文献を読んでくれて、本当に頑張ってくれて、そのおかげでその先生を訪ねることができました。で、サードオピニオンっていう形でその先生にご相談をしてました。
でもそこからはですね、私ももう正直本当にすごい下がってるんですけど、セカンドオピニオン、サードオピニオンが、これだけ下がってる理由はですね、全然違ったんです。両方の病院で言われた内容が。どっちがいい悪いじゃないですよ。どっちがいい悪いは本当にないので、ここはもう語弊がないように言っておきたいんです。
私はサードのほうを選びましたが、これは良い悪いじゃ本当にないのでね。私の場合の話ですけど、私に関しては片方の方では抗がん剤一択で、正直あとこれぐらいっていうのを言われました。それがすごい短かった、何か月っていう、あと私の場合だったら6か月ぐらいっていうことも言われましたし、抗がん剤しかない。でも抗がん剤が効く可能性が正直あんまりないので、それを抗がん剤を効かなかったら、もちろん次の抗がん剤はあるんだけれども、いろんな流れでっていうので、緩和ケアのお話も伺いましたし、すごいいい先生だったんですけれども、正直それがいい悪いは別としてね、そういう言われ方をしました。
抗がん剤を頑張りましょう、抗がん剤でも急がなきゃいけないから、もう抗がん剤の予約をすぐ入れましょう。セカンドオピニオンの段階で、抗がん剤の予約まで入れてくださったくらい、本当に良い先生だったんですけれども、抗がん剤の話が出ました。
で、サードオピニオンの先生はですね、治療しますと、肺も治療すると骨も治療すると、もう次々治療をやって社会復帰に向けて動きます、ということを言われました。なので話が違いすぎて、そんなの手術とか放射線とかやった後はどうするんですかって、社会復帰しますよ、普通の生活しますよって言われたんですよ。
そこが違いすぎて、違いすぎたがゆえに、私は天下のセカンドオピニオンの病院っていうイメージが、私も家族も大きかったので、その友達が探してきてくださった、友達も分かんないけどねって言われるその先生が、元に戻るよ、生活できるよって言われたのが、ちょっと私は正直、その時素直に受けることが私はできなかった。
できなかったんです私は。え!?って、そんなことある!?って。あと何ヶ月って言われたのに、そんな治るよとは言われてないですよ。でもその部分に関しては治るよ、だから普通の生活ができるようになるじゃんみたいな、また出るじゃないですか、また出たらまた取ればいいよみたいなことを、チャキチャキと言われて。
そのサードオピニオンの先生はサードオピニオンで、すぐに放射線治療の予約をその場で入れてくださいました。私が先生にするって決めてませんって言ったんですけど、いやでも急ぐからとりあえず予約を入れよう、でも最後決めるのは自分だよって言われて、なので放射線治療(セカンドで抗がん剤治療)も押さえてくださり、サードオピニオンの方の放射線も押さえてくださりの状態で、私はもうどっちを選んだらいいのか、何なら寿命をその時に決めるかもしれない。
岸田 そうですよね、この選択がね。
目片 なんです。なので悩んで悩んで、その頃が私の治療の生活の中で一番辛かった時です。精神的なものでしたけれども、もう分からないから、素人だし、だからもう分からなさすぎて悩みに悩んでってところが、私にとっては一番辛い。
最後その後の私の自分に悔いのない選択をっていうところで、申し訳なかったんですけど、セカンドオピニオンの病院には私3回行きました、話しに。普通ありえないじゃないですか。抗がん剤も押さえていただいてるし、その先生には本当に申し訳なかったんですけど、私はどっちかっていうとセカンドオピニオンの病院の方に向いていたので気持ちが、やっぱり天下の(病院)っていうところがあったので、やっぱりここにっていうところがあって、ちょっとわからないサードオピニオン、私にとってはわからない。
サードオピニオンの先生のっていうところで、正直こうあってで、セカンドオピニオンの先生に、グズグズ話を聞いていただいてたんです。で、セカンドオピニオンの先生は、サードオピニオンの先生のこともよくご存知だったので、ものすごくよくご存知な上でうちは抗がん剤一択、そのサードオピニオンの先生がおっしゃってる、どんどん治療したらいいよっていうところに、そんなにそうそう治療大変だからっていうところで、やっぱりうちは抗がん剤ってところで。
ただね3回目に行った時にね、もうその辺は一人で行ってたんですけど、3回目に行った時にですね、もうそこを私結局サードオピニオンを選んだんです。サードオピニオンの先生を選びましたっていう報告も兼ねて、抗がん剤の予約を取り消してもらいたい、でもその先生にご挨拶したいところで、少しだけ時間をとっていただいてご挨拶に行ったんですね。
そしたらでその話をしまして、本当にお世話になりました、でも私はあちらの方に大変申し訳ないですって言いましたが、わかりましたっていうことでもちろん終わったんですけど、最後立ち上がった時にね、その先生がね、でもねって、なんか僕は目片さんは、そっちの選択でいいと思う言ってくださったんですよ。
病院としては方針的にもちろん抗がん剤だし、僕も抗がん剤をもちろん勧めてきたけれども、今の目片さんの今の状態は、これからの治療に多分しばらく頑張れるって言われたんです。だから手術も放射線もこの後の再発がある可能性もあるけれども、そこに対してもしばらく頑張れるから、今の目片さんはその選択は多分、僕個人的には間違ってないと思うよって言ってくださったんですよ。それはもう病院としてじゃなくてねって言われて、僕としては応援するよって言ってくださって、すごい良い先生だったんですけどね。で、ご挨拶をして、サードオピニオンの先生にお世話になることになりました。そこが私にとっては本当に辛かった時期ですね。
岸田 治療より自分の寿命を自分で決めるって、すごい辛くないですか?
目片 いや〜そうですね、自分のね、だって運命がもう決まっちゃいますから。
岸田 そうなんです。
目片 やっぱり選択肢が多いと迷うし、そこの決め、やっぱり素人で決めていくっていうところが、やっぱり私にとっては、正直生きるか死ぬかを決めるの…。でもどっちが正解か分からないのに決めるっていうところで。
岸田 そうなんです、私はそこでしたね一番それが。そしてそこからサードオピニオン先で治療していきます。放射線ですね。
目片 先ほども押さえてくださった放射線の治療。
岸田 右肩甲骨や左恥骨部ですかね、放射線を受けていきます。これはもう普通に放射線受けて普通に終わりました?
目片 私、放射線ちょっと想像してたよりも、私にとってはですよ、その時の私にとっては大丈夫だったので、私これやれるって思いました。
岸田 そっかそっか、ありがとうございます。
目片 その時はですよ。
岸田 ありがとうございます。さっき言い忘れましたけど、医療情報に関しては皆さん主治医の方とよく相談してね。こうやって目片さんも、いろんな先生にも相談してやられていたりするので、医療者の方と決めていってほしいなと思います。悔いのないような形でね、それが大事だと思いますので。
そしてその後、肺にラジオ波を受けていくということなんですけど、ラジオ波ってあんま聞かないんですけど。
目片 そうなんです、これがですね、このサードオピニオンの先生、そこの大きな、病院的にはとても大きな病院なんです。今から思えば日本で肉種科ってうたってるのはそこの病院だけです。そこの先生のですね、その同じ病院でいろんな治療をさせるわけではなくて、その日本全国の肉種に特化したところに、パンパン治療に飛ばして行かされます。
なのでちょっと不思議なんですけど、自分の病院で全部を終わらせるわけではなくて、行くんです。どっか遠くにピョンって、例えば肺だったら肺の治療やるよね、じゃあどこどこの病院に行って肺の治療やって帰ってきなさいみたいな感じなんですよ。
岸田 またこれが不思議な感じでね。
目片 ちょっとはじめは理解に苦しんだんですけれども、そういう感じですね。
岸田 自分の病院でやらないのですね。
目片 やらないです、やらないです。それも私は、はじめすごい変な話、なんか大丈夫なのかなって、正直あったんですけど、その時に私は中学高校とすごく仲良くて今も交流がある、仲良しのお友達が関西の方で外科医をしている、女の子の友達でかっこいいでしょ?女の子で外科医をやっているんです。
その友達に相談したらですね、その友達がその先生のことをよく知っていて、その先生は大阪にいた時代に私の友達もよく、その先生に肉種患者さんを送ってたって、で、また自分の病院に戻ってくる、よく知っていてすごいいい先生だよみたいな感じで、安心するようなお話を聞かせていただいて。
っていうところもあったので、先生いろんなところに行けって言うけど大丈夫?って言ったら、大丈夫大丈夫!とか言って、うちの患者さんもお世話になっているいい先生でって言ってくださったので、その友達の外科医の友達の言葉も後押しもあって、肺の治療に行きました。
その肺の治療はですね、サードオピニオンの先生に、開胸っていうんですか、普通に手術をしに行ったんですよ。行ったんですけど、行った先の先生が、ラジオ波っていうのもあるけどねって言われたんですよ。はじめてそこでラジオ波っていう名前を聞いて、なんですかそれって言ったら切らないって。でも私は痛みが本当に弱いから、それだったらそれがいいですって言ったんですよね。
そしたらデメリットを永遠に聞かされまして、その中の一つがあの当時なんですけど、まず保険適用じゃなかったんです。ちなみに今現在は肺のラジオ波が保険適用になりましたので、ちょっとこれは参考にならないんですけど、あの当時はラジオ波は保険適用じゃなかったんです。
だからお金の面でですね、そもそもかかるっていうのはもちろんなんですけど、そのために合併症、気胸とかね、ラジオ波って気胸とかなりやすいんですけど、合併症になった、その合併症の治療費も入院費も全部でないんですよ。意味わかりますか?
そもそもの保険適用じゃない治療をやってるので、そこでなっちゃった合併症に関しては、そこに対しての治療は全く保険が適用されないんですよ。なのでラジオ波やったはいいけど、その後もしも変な、変っていうか、合併症になった時のお金っていうのを考えたら、とてつもないお金がかかってくる可能性もあるんですよ。
それをすごいデメリットとして、いっぱいいっぱい永遠と聞かされたので、ラジオ波にしても開胸にしてもいいよっていうのを向こうで行った先で言われて、一人でいるのにそんな言われて、また悩んだんですよ。そんなの私決められない、そのあの外科医のまた友達に電話して、そんなん言われたって言って、悩みに悩み、結局私は痛みにも弱いってこともありまして。
で、合併症になっちゃって、お金がいっぱいいるようになっちゃったら、どうしようっていうのも、電話でですけど主人に相談したんですけど、そんなの家売ればいいよ!ぐらいのことを言ってくれて。
岸田 かっこいい。
目片 かっこいいっていうか、だからそんなそのぐらいのもんだよって、お金なんて作ればなんとかなるんだから。お金持ちじゃないですよ。別にうちがお金持ちとかそういうことじゃなくて、なんとかなるんだから、自分が一番後悔のない選択をしなさいっていうことで。
目片 夫も言ってくれたので、遠方だったので一緒にいなかったので電話でだったんですけど、で結局悩みに悩んでラジオ波に、すごい治療のデメリットもいっぱい言われたんですけど、結局ラジオ波にしました。痛みに弱いからね。
岸田 今はね保険適用でね。
目片 そうです。
岸田 その後ですねこちらリンパ節や軟部組織に転移をしていた。次は肺は何とか肩甲骨はやったけど次は軟部組織ですか。どこ?どっちの?
目片 なんかこの脇とか下のこの辺り。なんかいっぱい傷ありますなんか。このリンパのこの辺りとか背中とかにあって、手術しました。
岸田 これで手術をされていくっていうふうなところで、また下がっていくんですけれども、そこに退職まで含まれているというところで。
目片 そうですね。ここを文字にするとこれだけなんですけど、正直この病気って本当にこの先生も、スピードスピードって言ってくださるってとこもあるんですけど、すぐなんですよ。すぐに何かっていうと検査、じゃあ明日来れる?とか、もうすぐ治療入らないと何とかだから!みたいな感じで、検査もちょこちょこ入りますし、それから急に入るんですよ、大体。
治療も急がなきゃとかなんとかね、結構なんていうんですかね、仕事をしてる、こう予定とかそういう感じじゃなくて、明日来れる?みたいな、もう明日来れなかったら、もう当分検査予約入れられないから、明日じゃないと無理だよみたいな感じのことを、結構パンパン話す先生なんですよね。
なので仕事をしながらっていうのが、もう本当なんていうの、また?みたいな、そのーそこのストレスも仕事のストレスじゃなくてね、職場にまた迷惑をかけちゃう、またっていうのがちょっと続いたんですよ。本当に続いてもうなんか、本当に申し訳・・・。
それはもう闘病中の方、皆さんそうだと思うので、それでも頑張っていらっしゃる方たくさんいらっしゃるのでね、そこはちょっと語弊のないようにというところはあるんですけど、ちょっと続いたんですよ、また休ませてもらうのとか、そういうのがちょっと私は結構大変になってきましてですね。
そういうこともあって、それと、あとやっぱりこの先、ちょっと再発転移が続くくんじゃないかっていう不安も出てきたんですよ。なのでやっぱり抗がん剤じゃない、どんどん取っていくよどんどん治療していくよっていう方を選んだっていうのもあるんですけど、選んだ以上、治療が増える、増えるっていうことは仕事もっていうところで、ちょっといい加減私自身も、ごめんなさいっていう気持ちが強くなりすぎて、本当に嫌だったんですけど退職しました。
それは別に職場に辞める雰囲気を作られたとか、全然そんなこともなくてですね、そんなのね…っていうふうに言ってくださったんですよ。なので私はそこに甘えてなんとか、闘病中もやっていたんですけど、私自身がちょっと正直、仕事がしんどいじゃなくて(休ませて欲しい)って言う気持ちがですね、に対してのストレスきてしまったということで、もう本当に辛かったですけどやめました。
やめたことには後悔してないんですけど、仕事好きだし、外に出るのもわりと好きなタイプなので、やっぱり置かれた状態で何かしていきたいっていうのはずーっと常にあるタイプですね。
岸田 そうね、迷惑かけてしまうっていうところが、自分のストレスになってしまう時はね。
目片 いらっしゃいますよね、皆さんね。
岸田 これね、本当に人それぞれの働き方って人生観なので、どれが正解と不正解とかないと思います。そして手術はうまくいった?
目片 でもまあ結局、いったと思いますよ。ごめんなさい、いったんですけど、いったんでしょうね。でもやっぱりその後も、もうでもね、再発するんですよ。
この後バーって、ちょっとね、再発とか転移とか繰り返しちゃっているし、やっぱりいろんな病院で手術もしたりとか、治療したりしてる。やっぱり行った先々の先生に言われることが、言われたから手術するけれどもまた出るよ多分とか、放射線にしてもね、するけどまた出るよみたいなことは、やっぱりどこの病院行っても、どこも全部大きな病院行ってるんですけど、やっぱり言われてしまいます。
それは多分本当なんだろうなって思います。やっぱり行った先っていうのは、肉腫の患者さんをたくさん見てる先生に、いつも治療をやってくださっているので、結局その先生方は見てらっしゃるから、肉腫患者さん。そうすると、結局取ったけどまた出てるじゃんみたいな、かわいそうに、また飛んだかみたいなところで。
そこがやっぱりセカンドオピニオン、戻りますけど、先生の言ってくださっていた、いっぱいいっぱい治療をやって局所で潰していっても、体中どこで出るか分からない病気だから、全身的な抗がん剤っていう方には、うちは考えるっていうところがそこなんだなと思うんですね。こうやってどんどん叩いてますけど、叩いても叩いても出てくるんですよ。そこのもぐら叩きというかイタチごっこっていうかね。
そこでやっぱりどっちが正解はないですけども、こんな感じで手術はうまくいったといえばいった、取り切って。でもまあ結局また再発もこのあたりもしてるので、同じようなあたりに。なのでうまくはいってるんですよ。いってるけどもまあねっていう感じです。
岸田 そしてそのね、手術した後にリンパ節で転移だったり、また骨転移があったりとかして、また放射線で右脇のリンパ節や右腸骨、腸骨に。
目片 骨盤の中がね、やっぱりいっぱいちっちゃいのが飛び散ってるんだと思います。それが大きくなってきちゃうんでしょうねって。よくわかんないですけど、なんかこう、やっぱりこうパンと飛ぶというよりは、似たり寄ったりのところで、まあそのうち飛んでくるんですけど。
岸田 そこからまたちょっと下がっていきますが、お母様との別れ。
目片 これがやっぱり私、本当に母20歳か21歳くらいで、私を産んでくれてるので、本当に仲が良かったんですよ。若いお母さんだったのでっていうのもあって、本当に仲良しで私世の中で一番大好きな人なんですよね。
なので母がですね、ちょうど丸1年むちゃくちゃ元気な母が、急にスポーツジムに行った2日後に、ステージ4と言われてしまったぐらいの急に分かっちゃって、急に4になっちゃって胃がんだったんですけど、これも人それぞれですけど、母の場合はそれで6月に言われて6月に亡くなったということで、ちょうど1年でした。
私はもちろんどん底だったんですけれども、立ち直れなかったです正直。でもその頃に同病の友達がたくさんいるんですけど、同病のお友達がですねどん底から這い上がってた人とかですね、私のためにお母さんが亡くなったみたいな言い方をした同病の友達がいて、それの意味がですね、えって初めは思ったんですけど、どん底だったから。
そしたらその友達がね、お母さんは絶対に娘より、娘が先なんてことはありえないけど、お母さんがすごい元気だったんですけど、私が病気になったじゃないですか。その後お母さんは急いで私の悪いところを全部取って、お空に行ってくれた。やっぱりお母さんは絶対に娘を守りたかった、だから私の悪いところを全部取ったから、お母さんはもう見守ってくれてるけど、この後私はずっと生きるよ、みたいなことを言ってたんですよ。
悪いところは全部持っていってくれてる、この先私は再発があるかもしれないけど、それでもまたお母さんが取ってくれるから、お母さんがずっと見守ってくれるからっていうことを友達が言ってくれて、その友達同じ年ぐらいなんですけど、その同病の友達も息子さんを亡くされてるんですよ。すごいでしょ。
だからお子さんを亡くされてる悲しみっていうの人も、そういう体験されてる友達なのでご自身も病気なんですけど、なんで私の母の気持ちっていうのをすごく言ってくれたんです。
だからもう本当にその友達の言葉がすごい刺さって、そうか、だからお母さんの分まで生きなきゃいけないんだ、だからここシクシクしてる場合じゃない。お母さんせっかく自分の身を削って、全部悪いところを取ってお空に行ってくれたのに、ここで私がグズグズしてたら、絶対お母さんに良くないみたいなことをすごい言ってくれて、ああ!と思って、そこから私はもうなんか、前向きにお母さんの死をね、前向きに捉えられるようになったので、まあ何かあっても大丈夫って思ってます。
岸田 うーん、素敵なね。
目片 ねぁいいでしょ!もう本当にね、私は友達に感謝ですね。
岸田 ありがとうございます。その中で上がっていきます。こちらまた再発して手術をしていくというふうなところですね。この再発はまた骨とかですかね?
目片 そうですね、そこはもうねえ、それ多分肩甲骨…肩甲骨半分取るとか言われてわけわかんない。もうそう、肩甲骨半分取るって意味わかんないですよねって思いながら、そんな手術でした。
手術の説明そんなんで、肩甲骨取る?半分取る。半分ですよ一個じゃないですよ。半分取りますっていう。なので意味わかんないんですけどって感じで、そんな痛いの私、痛いの嫌ですみたいな感じだったんですけど、まあ結局、そんなような手術をしましたね。
岸田 痛かった、手術は痛いですよね。
目片 本当に痛いのは嫌だから、何しろ痛かったですよね。
岸田 そしてその次がこちらになります。次が骨転移、また放射線をしていくと。
目片 そうですね。放射線はでも私手術が本当に私痛いの怖いから、手術嫌なんですよ。だから放射線って言われると、正直ちょっとだけホッとするんですよね。
ただ放射線もやっぱり浴び続けると、もう骨髄抑制がすごい起きてきますし、やっぱり気持ち悪いとかそういう副作用とかも、私はですけど、ちょっとやっぱりさすがに回数重ねてるので出てくるのと、あとやっぱり長いんですよ、1回が1ヶ月なんですよね。何回も当てるから。
がん治療をなさっている方で、痛みの緩和のために5回とか6回ってなさる放射線治療もあると思うんですけど、肉腫の場合はですね、私の場合はですけども、1回が25回とかやるので、1ヶ月入院とか土日やらないから1ヶ月ちょっと入院とか、2カ所3カ所になると2ヶ月とか入院になるので、長いんですよね。
なので1回がすごく長いので、精神的にもこんなにいろいろ入院が続いたりすると、そのモチベーションとかその辺もね、だんだんちょっと嫌になってくるっていうか、これやってもまた・・・また出るとか思うと、ちょっとね、あのもうなんか「はぁ・・・」て思う時とかもあったり、精神的なものがだんだんやっぱり重なるにつれて、ちょっとなんかうーんって思ったりとか、いつまでやるんだとか思ったりとか、ちょっとそういう揺れも出てくる頃です。
岸田 はいまずね放射線していって、そしてその後もまた骨転移をしていって、放射線をしていって次またちょっと下がるんですよね。これは・・・頸椎。
目片 頸椎になってしまって、それがね、それが放射線だったんですけど、いつもの放射線だと思っていたら、頸椎なので、顔の固定のがすごくて、本当にね、顔に跡がいっぱい、蛇の跡がつくぐらいの固定をやられるんですよ。
それが苦しくて痛くて、私、そもそも背中いろいろ治療やってるから、あんまり上向いて寝たりとか、背中が痛いんですよ常に。だから、上を向いて寝るのも痛いのに、こんな固定もされてちょっと軽いパニック状態になるんですよね。それが辛くていつもの放射線よりも私にとってはですよ、もう本当に嫌で回数も重ねてたのもあるし、本当に痛いことやられるし痛いって固定がね、なので私やめようかと思ったぐらい。キリがないしとか思ってぶつぶつ言ってました。まあけど、一応放射線の治療されて、やりました。
岸田 上がっていきますが、ここがボランティア活動。
目片 そうですね、こういう言葉で言うと、ちょっときれいな感じがしてあれなんですけど、もともと私、再発したぐらいからですね、日本肉腫学会っていう学会に入ったんですよ。再発した頃に入ったんですけど、そこのボランティアのサポートメンバーっていうところに入れてほしいって私から言って、そこでは活動っていうか私なりにですよ、やらせていただいたりはしてたんですけれども、それはそれとしてなんですけれど。
今回やっぱりこんだけ転移とかがあってですね、この退職してからここまでの間にやっぱり仕事がしたいとか、やっぱり何かしたいっていう気持ちは私はとても常に強くて、正直その間でですね、ちょっとお仕事が決まった瞬間もあったんですよ。
面接もして採用も決まって、決まったっていう日に、初日の日にちも決まったっていうところで、また治療に入った時があったんですね。検査結果の結果で、結局スタートできなかったっていう時があったんですよ。この長い間の中にね、そういうこともあったので、やっぱり私は仕事はちょっと無理だ。
なので、仕事は無理だけれども、でも何かやりたいっていうところで、あと、おこがましいですけども、私、この病気って正直はじめ、もうなんか絶望的な感じでおりまして、私以外にもですね、この病気で絶望的になってしまったっていう人がいると思うんですよ。
そういう方がですね、私はもう6年も経ってるんですね。今こういう状態でいられるっていうことですね。寝込んでるわけでもなく治療やってますけど、治療の合間はこうやって座ってというか、別に全然動いてますし、生活ができているので、今の私っていうのをやっぱり見ていただきたいっていう。
見てくださいとかじゃなくて、6年後の自分、たぶん今子宮肉腫ですって言われた方って、多分ちょっと先、何ヶ月先も1年先とか絶対想像できないと思うんですよ。もう多分いないと思う…みたいな感じで、多分ギュってなってらっしゃると思うんですけど、その時にですね、私みたいに6年経っても、治療はなんやかんややってるにしても、こうやって普通に生活してる人がいるんだ、実際いるんだっていうところを見ていただくことで、ちょっとでも、ほんの少しでも希望がっていうところがあるんですね。
その中でやっぱり私も治療を繰り返すので仕事はできない、仕事はできないけれども何かをしていきたい、せっかく動けるんだから今動ける体のうちにですね、やっぱり何かしたいっていうところが大きくて、なのでやらせていただけることとしたら、やっぱりボランティアで、自分がこういう病気をしてしまったけれどもっていうところで、いろんな発信ができたらいいなっていうところで、いろんなボランティア活動に参加させていただきたいって思っていて、それが少しずつ形になりだしてる。まだまだあれですけども、ちょっと実際そういうところにやりたいですって言って、じゃあやろっかって言ってくださったりとか、そういったところで、今少しずつ動いているっていうところになります。
岸田 今ねアクティブにそう動かれていている中、そんな中、字がちょっと(きれて)あれになっちゃってますけど、多発転移で治療予定。
目片 そうなんです…すごいもうそれがもうやる気満々でいます。いますけれども、昨日ですね、昨日実は(病院で)言われてしまいまして、昨日は肺と脾臓と肋骨と骨盤内4カ所に転移が見つかったということで言われてしまいまして、痛いのが本当に痛いのが嫌だっていうので、先生にすごいごねたんですけど、結局は脾臓は多分全部取るんですけど、取って手術ですよね、肺手術して、骨はラジオ波か放射線かどっちかやっていこうということで、4つ潰すっていうことになりました。
抗がん剤っていう選択肢も、もちろん先生からさすがに出てきましたので、サードオピニオンの先生も、抗がん剤とどっちにしようかなっていうところで、昨日長い時間かけて話し合ったんですけれど、結果的には・・・ちょっとね、脾臓にね抗がん剤が効いてくるかっていうところが、ちょっと「うん・・・」っていうところがあって、脾臓が全部肝臓に行くんですって血液が。なので肝臓に脾臓が結構大きくなっちゃってるから、肝臓に行っちゃうと怖いから、すぐに止めたいっていうところで、もう取ろうっていうことになって私はごねたんですけど、結局そのうちやります、っていうね。
岸田 今の治療もまだこれからも続いていくというふうになってますね。目片さん的にはもう、今だんだん再発してもめちゃくちゃ下に行くっていうよりは、ちょっと何でしょう。
目片 そうですね…もう…あの…するんですよ再発。多分この病気って、人によりますけど、人によりますけどまあする方も多い。で、私がこんなに再発してるのに、こうやって治療をやると、まあまあこういう感じで元気。
岸田 そうですよね、この前グアム行って。
目片 そうです。で、私結構治療中もなんだかんだ言って友達とか、まあ家族もそうですけど遊んでますで。それもですね、やっぱりでも根底にあるのは私の一番の支えは同病の友達ですね。やっぱり一人では無理です、私絶対できてません、こんなこと。
だからやっぱり、同病の友達、同病が見つからなければ、闘病中の方でもいいんですけれども、やっぱり私思うんですけど、一人では孤独ですし、家族とかお友達、元気な友達が寄り添ってくれてもう嬉しいですよ。すごい嬉しいんですよ、この上なく嬉しいんですけど、そこでは解決できないぐらいの辛さっていうのがあるので、そこが同病の友達が頑張ってる姿とか、やっぱり見ることでとか、比べちゃいけないですけど、私の今の状態よりももっと大変な状態に今いるっていう友達がすごい前向きな話とかしてくれてたら、本当に頑張らなきゃって思うじゃないですか。
なので私も結構ブログでどんどん発信するようにしてるんですね。自分の体験したこととか、自分の気持ちの持ちようとか、なので私も全然できてるわけじゃないし、私も自分がやっていこうと思うことをブログにあげてるんです。けれどもやっぱり、そういう同病の友達と支え合うって言ったらありきたりですけど、そういう方の話を聞く、そういう方の写真を見るとか。
でもね、ただ病気の方だけの発信とかそういうのだけだと、もしかしたらちょっと暗い気持ちになってしまったりとか、なんか私すごくかわいそうな人だよね、かわいそうかわいそうを言い合ってるだけだと、ちょっとやっぱり一歩出ないと思うので、同病の人の話を聞いて辛い時はもちろん、辛い辛いよねあの治療とか言って、あれ何とかならないのかなみたいな、もちろん話も大事だし解決法も大事だし、あとやっぱりそうは言ってもポジティブに生きてる方の話を、やっぱり聞くということも大事かなと思うんですよね。
やっぱり病気にだけ感化されて、毎日を過ごすのは絶対にもったいないから、だから病気とかけ離れたところで、自分のなりたいような未来を発信されているような方々の、お話とか聞いたりとかね、そういうのもすごいいいかなって私は思っています。
岸田 ありがとうございます。がんノートもその中の一つになればいいなということを思って、発信をさせていただいておりますけれども、ここからちょっとお写真いただいております。ちょっとお写真を見ていきたいなと思います。こちらのお写真、これは入院中ですか?
目片 そうですね、これは手術の後だと思うんですけど、私、闘病中の写真を本当に撮っていなくて、今から思えば撮っとけばよかったと思って、脱毛してね、髪の毛なかったりとかしましたけど、あんなのとかもいろいろ帽子被ったやつとか、撮っとけばよかった、人生から抹消したかったんですよ。あの当時。なので絶対に何も残さないって決めていたので、一枚もないんですけど、撮っとけばよかったなって思います。頑張ったんだからねとか思って。これは入院中で。
岸田 そう、たまたまねあったんです。けど入院中写真撮られないっていう方はもうめちゃくちゃ多いので、奇跡の一枚があったってことですね。でここからですね、項目ごとにお伺いをしていきたいなと思います。
副作用や脱毛への不安と向き合う──痛みと心のケアのリアルな体験談
岸田 項目ですね、まず1つ目、副作用や後遺症のことといたしまして、今何か副作用や後遺症でいろいろ手術されたりとか、放射線されたりとかしているので、あるとは思うんですけれども今どうでしょう?
目片 今現在はとにかく背中とかその辺が痛くてしょうがなかったり、腕が上がらなかったりとかいろいろあるんですけども、ペインクリニックも行っておりますし、やっぱり今はちょっとメジャーになってきますけど、同じ病気の友達がヘルプマークを取ってきてくれて、電車に乗る時とかはね、つけるといいよって、抗がん剤とかね通院してた時とか結構しんどかったので、あの時にくれたんですけれども、まあああいったものね、活動したりとかまあいろいろそれなりにはね、やってますけど、まあ痛みはいろいろあるにしても、飲み薬もいろいろありますし。
やっぱり一番の治療ずっとしてる治療のあれでは、やっぱり一番ね、皆さんそうだと思いますけど、抗がん剤の時の、最悪な気持ち悪いとか何かいろいろありますし、あと脱毛ね、やっぱり女性なので、女性だからっていうことはないですけど特にね、やっぱりとても抵抗があったので、その脱毛するんだっていう前、そのする前とかは辛くてしょうがなかったんです。
辛いとか不安はあったんですけどただね、あの時もこう、実際脱毛、薬入れてから2週間ぐらいして、脱毛がね始まると思うんですけど、その間にたまたま行ったコミュニティの輪で皆さんね、それはウィッグの会社のコミュニティだったんですけど、皆さんとてもお綺麗な方々で、ウィッグわかんないかという感じだったんですけど、そこで私が今から脱毛しちゃうということで、泣いて泣いて大変だったんですけど。
目片 その時に皆さんね、体験談をいっぱい教えてくれて、でも私はそんなに急に元気だったのに病気になって、急にある日突然告知されたと思ったら、手術になって、すぐ抗がん剤になって、全然気持ちもついていけてないのに、もうすぐ脱毛が始まるとかも、意味もわからないし、みたいなことをすごい言って、私つらいみたいなことをすごい泣いて言ったんですよ。
そしたら皆さんがすごい元気だったんです。そんなのみんなそうよとか言って、がんになる予定で生きてる人いないから、みんな突然言われて突然受け入れなきゃいけなくて、言ってる間に薬が始まるみたいな、みんな一緒だよとか言ってでもね、髪の毛なんて、長い目で見たら髪の毛に関しては伸びるからとか言って、そんな大きなことじゃないってすごい言われたんですよ。
対処法をいっぱい言って教えてくださって、もうそれが皆さんすごい明るい表情で、すごい不安がなくなってなので本当に、髪の毛抜けていく時も全然涙も出ず悲しみもなく、こういう感じなんだ、みんなが言ってた通りだっていう、でもあの話を聞いてなかったら絶対泣いてます。なのでやっぱり人の話、体験された方の話っていうのは、もう何かに付け心強いなっていうのを思いますね。
岸田 ありがとうございます、まぁだから、脱毛されてもそこまで落ち込むことはなかったんですね。
目片 そー!!なかったです。
希少がんの治療で後悔しないために──病院・医師の選び方とセカンドオピニオンの大切さ
岸田 ありがとうございます。次の項目をお伺いしていきます。次は病院のことといたしましてですね、病院についてはさっきね、セカンドオピニオン、サードオピニオンがやられていましたけれども、先生とのコミュニケーションだったりだとかいかがですか?病院について。
目片 そうですね、私はですけど本当にありがたいことで、病院の先生方もよくしていただいて、そこに関しては全然あれはないです。やっぱり病院選びとかがこういう珍しい病気だと、一つの壁になるのかなっていうところがあるんですね。
なんであれですけどやっぱり肉腫に関しては軟部肉腫ですね、骨肉腫とはまた違う肉腫なんですけど、軟部肉腫に関してはちょっとちょっと、私はブログでも発信してますけど、一回ちょっとやっぱりちょっとどこかで調べられて、今ある先生の考えも一つですけどもっと何かないのかな、他の先生、肉腫をよく見てる先生いないのかなっていうところは、一回検索されて、ご自身で色々知った上で、一つ選択されるっていうのがやっぱりいいかなと思います。
ちょっとね、やっぱりエビデンスもあんまりないですし、薬もなかったりあれもないこれもないって言われてる病気なので、ちょっとやっぱり実際肉腫を見てる先生が本当に少ないんですね。なのでやっぱり限られた1個の先生っていう、その先生の先生でいいんですけど、例えばどうなんだろうというところで、いろんな先生の見解を聞いて治療を進められるというのも一つかなというのは私はちょっと思っています。特殊なので。
岸田 そうですね。そこら辺が珍しいがんだとね。
目片 そうなんですよ。皆さんもね、この先生って決めたらそれでもいいと思いますし、他には方法ないのかなと思って、いろんな先生にも聞いてもらうということですね。
がんを家族にどう伝えるか──言わない選択とその後の関係性
岸田 そして次がですね、家族のことといたしましてですね、家族どのように旦那様だったりとか、息子さんだったりとか、コミュニケーションをとられていったか、もしくはご両親のことだったりとか、ちょっとお伺いできますか?
目片 そうですね、息子たちには、正直はじめの手術の時は、手術したら終わると私も思ってたから、詳しく言わないで手術しました。で、抗がん剤になった時にさすがにね、さすがにちょっと言いましたけれども、言いましたというか、夫から伝えてもらいましたけれども、その時、中学生とか高校生とか2人息子がいるんですけど、そんな感じだったので、そんななんかそんななんか、涙涙でありがとう〜みたいなことを言われたわけではなく(笑)、頑張って〜みたいな感じで、そこまで大きくあれでしたけど、ただねやっぱりその後入院退院とか繰り返しているので、そのあたりではね、やっぱりパパに協力してくれて、やってくれてる部分はもちろんありがたいなと思っています。
やっぱり両親ですよね。こんな病気になっちゃった時に両親遠方だったので、かなり離れているのでどうやって言うかというところで、結局私は「言わなかった」です。なのではじめの告知された時も、手術の時も抗がん剤になっても「言わなかった」です。なので普通に私は元気に生活しているものと思って、遠く離れた両親は思っていました。
すごい仲がいいのでしょっちゅう電話とかもしますし、そんなそういうのじゃないんですけど、やっぱり離れてるのでね、絶対的に迷惑、迷惑じゃない心配をかけるじゃないですか。夫は言うべきだって言ってました。親子なんだから、心配もひっくるめて親子だから、それは絶対に夫は言うべきって言ってくれたんですけど、最後はやっぱり私が決めたらいいよっていうことを言ってくれていたので、私は結局悩んで「言わない選択」をしました。
元気になったら、抗がん剤が終わって元気になったら言うっていうことを決めていたので、抗がん剤が終わって電話じゃなくてね、実際年末の帰省に、ちょうど抗がん剤が終わって体調も戻ってきていたので、そのタイミングで帰省の時にはいつも通り元気なので、全然両親は気づいていなかった、私のウイッグにも気づいていなくて、全然気づいていなかったけど、普通だったでしょ?本当に?みたいな感じで、普通だったところに実は…って言って、これウイッグっていう話をして話をしました。
岸田 なんでショックだったでしょうね。反応はどうでしたか?
目片 そうですね、相当ショックを受けていたと思いますけども、私の前でワンワンは泣くことなかったんですけど、あと病気はいまいち聞いたことがなかったんで、がんじゃないんだよねみたいな話になって、がんじゃないんだみたいな、でも抗がん剤やったんだみたいな、そこでやっぱりちょっといまいち分からないというのも、正直あったと思うんですけど、まああの相当ショック受けたと思いますし、あとやっぱりそのその時に知らなかった、自分たちっていうのは、たぶんある意味ショックだったと思います。
一緒に分かち合って、助け合いですよね。そういうところを、私も自分が親なので、自分の息子のことを考えたら言われない、っていうのはショックだったと思いますので、そういう意味では複雑なところがあるんですけど、でもやっぱり遠く離れているので、心配の期間が延びるだけだっていうのが、私のあの時の気持ちだったんです。だから言わなかったことは後悔してないですけど、その間両親は元気に過ごしてくれてたんで、でも両親の気持ちを思うと言ってほしかったっていうのはわかります。
仕事を手放すという決断──それでも「社会とつながり続けたい」思い
岸田 ありがとうございます。まぁその後次ですね、お仕事のことについてお伺いしていきたいと思うんですけど、冒頭でねお仕事は、公務員の特殊な公務員をされているという。
目片 独特な公務員だったんですけど、仕事楽しかったですけど、まぁでもこれはね、先ほどもお話しましたのであれですけど、やめてしまわなきゃいけない、私の場合はですよ、やめる選択をしましたけども、でも私はこれだけで終わるつもりはないので、仕事という概念では、ちょっとこんだけ治療をやっているので厳しいと思いますけど、この先も私が自分ができることを、どんどん見つけてやっていくつもりはしているので、まだまだお家の中だけに入るつもりはないって感じですね。
治療の合間は“自由時間”──病気のことを考えすぎないための心の工夫
岸田 次はこちら、工夫していることについて、お伺いしていきたいと思います。日々工夫している、意識していることは?
目片 そうですね、これだけ繰り返しているので、その合間にも時々、経過観察と言ってもらえる時がある、2ヶ月に1回検査するので、経過観察と言ってもらえる時があるので、その時は基本考えないようにします。病気のことを、根底にはありますよ。それは心の片隅にはありますけども、何か自分にもらった自由時間だと思ってるんですね。
治療入るとそれなりに結構しょうがないですよね、そこに向かわなきゃいけないので、経過観察の間って絶対的な自由時間だと思ってるので、特に私今仕事してないのでなので、その間はもう忘れて自分のやりたいことですね、頑張って何かやりたいことにつながる何かに、時間を費やしたいなって思っているから、そういうところで遊んでもいますけど、いっぱい遊んでますけど、目的意識を持ってその間は動くっていうことで。
目片 あんまり病気だから予約できないとか、病気だからこの先のことが分からないから、あの予約はちょっとやめようとか、そういうのがあった頃もあるんですよね。でも今はそういうのはなしにしてなったらなったんだけど、ならないって思って、先々のことまで考えてなってから考えるっていうふうにしてます。なので病気また治療が必要みたいなことばっかり考えてると、もうそれに感化される日々になっちゃうから、それはやめるようにしてますね。
岸田 何かあれですよね、ご旅行とかの予定を、ご友人たちとやるときは。
目片 そうなんです、それも、やっぱり病気じゃなかった時の旅行とかは、全然楽しいことしか考えないで、予定ルンルンに組んでたんですけど、やっぱり病気してからは、治療が入るかもしれないっていうのがやっぱり片隅にあるので、友達との旅行ね、行きたいけど、やっぱり変な話、キャンセル料とかもかかってきちゃうじゃないですか。直前に検査とか治療とかになっちゃうこともあるので、というところで、どうしようかなって初めの頃思ってたんですけど。
結局最初に旅行の計画を立てるときに、必ずキャンセルになっても、行く行かないは、例えば3人で行く場合は、後の2人は行ってくれるんだったら、行ってくれたらいいし、仮に行かなくなったとしても、キャンセル料は各々が払うっていう、自分で払うっていうのに決めようっていうことをみんなで決めました。
それは私が言い出したわけじゃないんですけど、そうやって友達が言ってくれて、それはどこの誰だって何があるかわからないじゃないですか。私の病気だけじゃなくて誰かがコロナになったりとか、誰かが家の子供が怪我したとか、いけなくなる可能性っていうのは誰にでもあることだから、キャンセルってなった時は絶対にお金はその人が負担じゃなくて、悪いとかそういうことも思わずにもうそこは割り切ろっていうので、それをはじめに決めようって友達も言ってくれましたし、私もそれはすごいありがたいと思って、なので他の友達とかと旅行行く時とか、そういった時も、それをはじめにちょっとお約束として決めるようにしています。そうしないとやっぱり迷惑かかっちゃうことがある。
岸田 いいご友人ですね。なんかありがたいですよね。
目片 そうですねキャンセル料はもう各々。
岸田 そう、すごい現実的な話ですけど、でもそこが一歩踏み出せるか出せないかの、これやると周りに迷惑かけちゃうかなっていうね。
目片 そうなんです。
がん体験談をもっと身近に──書籍・音声で広がるリアルな声と応募案内
岸田 ありがとうございます。そしてここから、インフォメーションをさせていただければと思います。昨年ですね、こちらがんの経験談の皆さんの経験談をまとめた本も、出させていただきました。いつでもね見れるようなライトな感じになっておりますので、もしよかったら、また読んでいただきたいなといったところと、こちらオーディブルなどのですね、各種の音声サービスにもこちら登録させていただいておりますので、音声でも聞けるような形となっています。
そしてここまで見てくださった方はですね、おそらくチャンネル登録などしてくださっている方も多いのかなと思うんですけれども、もしまだであれば登録してくださったりとか、高評価ボタンを押してくださったりコメントくださると、すごく配信する励みになりますので、ぜひよろしくお願い致します。
そしてこちらですね、またご応募に関してですね、ホームページの方から受付させていただいております。目片さんもねこちらもね、応募といったところもいただいて、このように配信させていただいておりますので、もしよかったら皆さんよろしくお願いします。
そんな中でこちら次メッセージといったところでですね、入っていくんですけれども、メッセージをいただきたいと思います。
「6年前の私へ」──余命宣告を越えて生きる今、伝えたい希望のかたち
目片 こんな未来もあるんです。私の病気はですね、告知された時に、すごく絶望的になってしまわれた方もいらっしゃるんじゃないかって思うような病気なんですね。なので私ももちろんそうだったんですけど、もうちょっと先のことも想像できない、1年先なんか絶対想像できないような、すごいちょっと辛い状態に直面されると思います。
その時にですね、私はとても絶望的な状態になってしまったんですけど、今私もう丸6年なんですね、こんな状態です。治療はやってますけど、治療じゃない時って旅行も行ってますし、ライブも行ってますし遊んでますし、バンバン出かけてるんですね。なのでこういった6年後の私っていうのがいるんです。これを6年前の私がもしこういう人を見ていたら、あの時の絶望的な気持ちっていうのは、もしかしたらもうちょっと楽だったのかなって思うんですね。
肉腫に限らずですけれども、ちょっと先のことが見えなくなってしまったっていう方は、結構先のことがちょっと厳しいなっていう病気でも、こういう人がいるっていうことを見ていただきたいんですね。私を見るというよりも、こういう人がいるんだ実在するんだっていうことを見ていただいて、私はこれから先もこういうことを伝えていきたいので、また治療があるんですけど多分、この先も治療はあると思うんですけど、それでもまたこうやって7年も8年もこうやっているんですよっていうことをお伝えしていけたらなって思っているので、今ちょっと本当に絶望的な窮地にいらっしゃる方も、もしかしたらいらっしゃるかもしれませんけど、ちょっと違う角度でね、そういう人を探していってください。どうもありがとうございました。
岸田 本当だって、目片さんは最初、最初セカンドオピニオン先では、余命数ヶ月みたいなことを言われたんですよね。
目片 あの時は6ヶ月って。
岸田 6ヶ月か、ということですよね。でもそれからだいぶ経った(笑)。
目片 そうですよね、治療されてね。
岸田 痛いことと引き換えになるかもしれないですけどね。
目片 そうですね。
岸田 またなんかですね、すごいそんなに転移してね、今いてるとは。今もあるって昨日言われてたからね。まあねいろんな考え方がありますけれどももしね、皆さん見ていただいてね、こういった方もいるんだっていうふうなことで、思っていただけると嬉しいなと思っております。
これにてですね、がんノート終了していきたいと思います。どうでした?この1時間ちょっとお話いただいて。
目片 もうね、話したいことが山ほどあってですね、ってところなんですけど、でも本当にいい機会をいただきまして、ありがとうございました。
岸田 ありがとうございました。それでは皆さん次の動画でお会いしましょう。それではバイバイ。
目片 ありがとうございます。
※本ページは、経験者の体験談を扱っております。治療法や副作用などには個人差がございますので、医療情報に関しましては主治医や、かかりつけの病院へご相談、また科学的根拠に基づいたWebページや情報サイトを参照してください。
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