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インタビュアー:岸田 / ゲスト:和手

【ゲスト紹介】

岸田 今日のゲストは和手さんです。和手さんは広島県のご出身で、現在も広島にお住まいです。お仕事は在宅ワークを中心に、総合医療センターの窓口業務もされているとのこと。そして趣味が「料理」「川遊び」「読書」とのことですが……なかなか“川遊び”って聞かないですよね。これはどういうことなんでしょう?

和手 小学校1年生の息子と、2歳の娘がいるんですが、今住んでいる広島がとても田舎で、すぐ近くに川があるんです。子どもたちが「川に行きたい」「魚を釣りたい」と言うので、一緒に行っていたら、私自身もすっかりはまってしまって。小さな魚を探したり捕まえたりするのが、今では趣味になりました。

岸田 いいですね。川遊びが趣味って、なんだか癒やされますね。自然に囲まれた生活、すごく魅力的です。
そして、がんの種類は「甲状腺がん」、ステージはⅠ。28歳のときに告知を受けられて、現在は38歳。治療としては薬物療法と手術を受けられたということですね。

――ちょっと気になっていたんですが、この写真で手に持っているのは……何ですか?

和手 すみません(笑)。ポン酢の瓶を持っています。仕事で在宅ワークをしている中で、もともと調理師でもあるので、レシピを掲載するお仕事もしているんです。そのときに撮った写真を使わせていただきました。

岸田 なるほど! そういうことだったんですね。納得しました。ありがとうございます。

【ペイシェントジャーニー】

岸田 そんな和手さんのペイシェントジャーニーについて、ここから伺っていきたいと思います。こちらの図のように、吹き出しや色分けで分かりやすく整理されていますね。中盤に大きな山があり、その後に谷が来て……といった流れになっています。それでは早速、順を追ってお話を聞かせてください。

岸田 まず最初は「食品メーカーで商品開発」をされていたというところから始まります。なるほど、だから“ポン酢の瓶”を持っていたんですね(笑)。そしてその後、「疲れが取れない」「首の腫れ」といった不調が出てきたとありますが、少しずつ体調が悪くなっていった感じでしょうか?

和手 そうですね。当時はとても忙しくて、自分の体調に構っている余裕がなかったんです。でも「なんか寝れないな」「寝ても疲れが取れないな」と感じるようになって。風邪っぽいかなと思って耳鼻科に行ったら、「首が顔と同じくらいまで腫れている」と言われたんです。

そこで先生に「甲状腺って調べたことありますか?」と聞かれたんですが、そのとき私は「甲状腺って何?」という感じで、まったく知らなかったんです。それが、甲状腺について調べ始めるきっかけになりました。

岸田 なるほど。甲状腺の異常を指摘されて、そこから専門の病院を紹介されたんですね。そのころの体調はどんな感じだったんですか?

和手 もともと食品メーカーで働いていて、白装束みたいな制服で、目しか出ていないような格好なんです。だから自分の首の様子なんて見る機会がなくて、周りも私自身もまったく気づかなかったんです。でも、あらためて鏡で見てみたら本当に首が腫れていて。
そのころには頻脈がひどくて、脈が速すぎて立っていられない感じでした。歩いて出勤できず、タクシーで会社に行くような状態でしたね。

岸田 分かります。僕も首が腫れたとき、ワイシャツを着ると全然見えないから気づかないんですよね。

和手 そうなんですよ。気づかないんです。

岸田 そして、専門病院を紹介してもらったあと、「意識不明で倒れる」という出来事があったそうですね。しかも「母に直前に電話」とありますが、その後、倒れられたんですか?

和手 はい。病院で「甲状腺の数値がかなりおかしい。すぐ専門病院へ行ってください」と言われて、次の日くらいだったと思います。もう体が動かなくて、ベッドにぱたんと倒れ込んだんです。唯一よかったのは、倒れる直前に母に電話をしていたことでした。「もう駄目かも」「倒れる」と言ったんだと思います。

そのあと意識を失って、次に気づいたときは、母が玄関をドンドン叩いている音でした。実家は広島なんですが、私がいたのは神戸。それでも母が新幹線に乗って駆けつけてくれていて、「ああ、助かった」と思いました。

岸田 お母さん、本当にファインプレーですね。

和手 そうですね。多分、電話を切った瞬間に「これはまずい」と思ってすぐ出てきてくれたんだと思います。神戸の住所は伝えてあったので、来たこともないのに、ちゃんとたどり着いてくれて。本当に母のおかげで助かりました。

岸田 その後、体調が落ち込み、診断を受けることになりますね。「バセドウ病の診断」。つまり最初は、甲状腺がんではなかったんですね。

和手 このとき、まだ専門病院には行けてなかったんですが、母と一緒に受診して、そこで改めて甲状腺の数値を測ったら「これはもうバセドウ病ですね」と言われました。私は「バセドウ病って何?」という感じで、当時はまったく知らなかったんです。説明によると、バセドウ病というのは甲状腺ホルモンが過剰に分泌される病気で、全身のホルモンバランスを調整する甲状腺が働きすぎてしまう状態なんだそうです。だから普通に座っているだけでも、体は“走っている”ような状態になってしまって、動悸や息切れ、頻脈が止まらないような症状でした。

岸田 そうなんですね。そうしてバセドウ病と診断を受けたわけですね。その後、休養されたり転職されたりしたとありますが、どれくらいお休みされたんですか?

和手 神戸に住んでいたんですけど、診断後は地元の広島に戻って、母と一緒に3カ月ほど休養しました。その間に薬物療法で少しずつ落ち着いてきて、「また働いてみよう」と思えるようになりました。それで仕事を探していたときに、薬局を経営している会社の本社で事務職の募集を見つけて、そこに転職しました。

その会社は経営陣のほとんどが薬剤師で、私の病気のことも薬の治療のこともとても理解してくれていて、体調が悪くなったときも「もう休んでいいよ。この病気なら仕方ないよね」と言ってくれました。ずっと温かく見守ってもらえたのが本当にありがたかったです。

岸田 すごく理解のある職場ですね。しっかり病気のことを伝えた上で、周りのサポートも得られたということですね。
そこから気持ちも上がっていきます。「バセドウ病寛解」とあります。寛解するんですね、バセドウ病も。

和手 はい。バセドウ病の場合、血液検査で甲状腺ホルモンが過剰かどうかを定期的にチェックするんですけど、それがようやく正常値に戻ったんです。「もう薬もやめていいですよ。半年に1回の受診で大丈夫です」と言われたとき、本当に「やっと終わった」と思いました。

岸田 やった、よかったですね。バセドウ病が寛解して、体調も安定していたんですね。
ただ、ここから「がん」が出てくるのはまだ先。次は「婚約、東京へ」とあります。お付き合いされていた方と婚約されて、その関係で東京に出られたんですね?

和手 そうです。当時お付き合いしていた今の夫が転職することになって、私も退職して一緒に東京へ引っ越しました。

岸田 そこから「バセドウ病が悪化」とあります。えっ、寛解していたのに? 治療もうまくいってたんじゃないんですか?

和手 そうなんです。ちょうど半年に一度の定期受診の時期が来ていて、東京での生活が始まるタイミングだったので、新しい病院を探して甲状腺の専門病院を受診しました。定期検診のつもりで血液検査と超音波検査を受けたら、「数値がどーんと悪化しています」と言われてしまって。同時に、超音波の画像を見ながら先生が「あれ? 腫瘍がありますね」と。

岸田 その定期検診のときに言われたんですね。

和手 はい。バセドウ病のときからずっと血液検査と超音波検査を続けていて、そのときまでは何も言われなかったんです。でも転院して検査を受けたら「これはもう5年くらい前からある腫瘍ですね」と言われて、「え? 今まで言われたことないんですけど」と本当に驚きました。ずっと甲状腺の病気について自分でも調べてきたのに、「腫瘍?」と聞いた瞬間、頭が真っ白になりました。

岸田 そして、そこで「甲状腺がんです」と告知を受けたんですね。告知を受けたとき、どう感じました?

和手 腫瘍があっても良性のこともあると聞いていたので、検査の結果が出るまでは「良性でありますように」と祈るような気持ちでした。11月に検査を受けて、結果が出るのが翌年1月。年末年始のあいだは本当に生きた心地がしなかったです。
そして1月に診察室に呼ばれたとき、担当が内科から外科に変わっていたんです。その瞬間、「もしかして、がん……?」と直感しました。

岸田 なるほど……そして、がんの告知を。

和手 はい。「甲状腺の乳頭がんです」と言われました。甲状腺がんにはいくつか種類があるんですが、9割がこの乳頭がんというタイプだそうです。幸いなことに「超初期です。見つかってよかったですね」と言われて。でもそのときは“がん”という言葉だけが頭の中に残ってしまって、ショックでいっぱいでした。

岸田 その後、「7カ月後に手術」とありますが、これはどういう経緯だったんですか?

和手 その病院が東京でも有名な甲状腺の専門病院で、全国から患者さんが集まってくるところだったんです。それで「最短でも手術は7カ月後になります」と言われました。

岸田 7カ月後……。

和手 そうなんです。正直、「そんなに先なの?」と思いました。でも先生から「もし早く手術を希望するなら、3カ月後に別の総合病院を紹介することもできます」と言われて。ただ、そのとき私は、全国から患者が集まるこの有名病院に信頼を置きたくて。「超初期のがんですし、転移も見られない。だったら、ここでしっかり診てもらおう」と思って、7カ月待つ決断をしました。

岸田 すごいなぁ……7カ月、俺なら待てるかなぁ、それ。

和手 私も最初は「とんとん拍子でいけばいいのに」と思いました。けど、その間にセカンドオピニオンを受けるかどうかもすごく迷っていたんです。それに、その病院は当時「全摘」、つまり甲状腺を全部取る手術を推奨していた時期だったんですが、もともと通っていた神戸の病院では、できるだけ温存する方向の治療方針だったんですよ。だから、その違いも気になって、自分でもいろいろ調べて、どうしよう……って悩みました。

岸田 なるほど。最終的には、有名な専門病院に身を委ねようと決心されたんですね。
で、その後の流れを見ると、「仕事」「介護学校へ」とあります。これ、どういうことなんですか? 介護の学校に通われたんですか?

和手 はい。手術まで7カ月あると言われて、「この7カ月をどう過ごそうかな」と考えたんです。最初の1カ月くらいは正直、落ち込んで寝てばかりいました。でも、「もし7カ月後に手術して、体が不自由になったらどうしよう」と思ったんですよね。
もちろん、元気に戻れることを願っていましたが、もしそうじゃなかった場合、自分で体を動かす知識やリハビリの基礎を知っておいたら役に立つかもしれないと思って。

それで、平日は短期の仕事をしながら、土曜日は介護の学校に通う生活を始めました。

岸田 つまり、自分が手術後に不自由になるかもしれないことを見越して、介護の勉強を始めたんですね?

和手 そうです。

岸田 すごい……。向上心が本当にすごいですね。

和手 本当に体はきつかったです。仕事もしながら、バセドウ病も再発してつらい時期だったんですけど、「あと7カ月しかない」と思ったら、何かしておかなきゃって。何かを残したくて、自分に負荷をかけてでも頑張りました。

岸田 その7カ月を有効に使おうと思われたんですね。確かに、手術まで時間があるなら、その間をどう生きるかってすごく大事です。
そして、いよいよ手術を受けられたと。これは全摘の手術、無事に終わったんですね?

和手 はい、無事に終わって、甲状腺をすべて取り除きました。

岸田 すべて取り除いて、手術は成功。その後、グラフでは“プラマイゼロ”の地点に「職業訓練・アルバイト」とありますね。これは手術後に再び活動を始められたということですか?

和手 はい。手術では甲状腺だけじゃなく、周囲のリンパも切除していて、さらに副甲状腺という小さな臓器も一緒に取れてしまったんです。それを二つだけ右肩に移植する手術もしてもらいました。
そのせいで、回復まで少し時間がかかりました。首も固定していて、動かすのが大変だったんですが、「この状態でもできることをやろう」と思って、術前に申し込んでいた職業訓練に通い始めたんです。

少し落ち着いたころには、「座ってできる仕事ならアルバイトもしてみよう」と思って、できる範囲で働き始めました。

岸田 術後、どのくらいで? 1〜2カ月くらい?

和手 そうですね。だいたい1、2カ月たったころでした。

岸田 すごい回復力ですね。それに、手術のあとだとは思えないほど、首の傷跡もまったく分からないですね。

和手 もう手術から10年たってるので、今ではほとんど傷は見えません。手術のときも、首のもともとのしわに沿って切ってくださったので、跡がとてもきれいなんです。手術中はここに血を排出するための管を通していて、その穴の傷もありましたが、今はそれもすっかり治っています。首もちゃんと動かせるようになりました。

岸田 ありがとうございます。そうして職業訓練やアルバイトもされて、その後は入籍、そして新婚旅行ですね。お付き合いされていた方と結婚されたわけですが、がんが分かったのは婚約後ですよね。そのとき、パートナーの方とは何か話し合いはありましたか?

和手 はい。がんが分かる直前に婚約していたので、手術を控えて「身元引受人」を誰にお願いするかを考えたんです。もし結婚していたら、当然、夫になる人が受取人になりますよね。でも新婚で、万が一のことがあったら……と思うと、申し訳ない気持ちがありました。
両親にも相談したところ、「結婚は手術のあとでも遅くない。まずは安心して治療を受けなさい」と言われたので、受取人は父の名前を書かせてもらいました。

彼には正直に話したんですが、「ここまで一緒にいたんだから、大丈夫。ちゃんと待ってる」と言ってくれました。本当に心強かったです。手術から半年後には、日常生活もかなり戻っていたので、そのタイミングで入籍しました。

岸田 素敵ですね。そして新婚旅行にも行かれたということで。どちらへ行かれたんですか?

和手 ヨーロッパと東南アジアを周遊する旅行に出ました。

岸田 うわ、いいですね。どこが印象に残りました?

和手 スペイン南部のフリヒリアナという街です。白い壁の家が立ち並ぶ美しい街で、友人に「死ぬまでに一度は見たほうがいい」と言われていた場所でした。実際に行ったら本当に息をのむほどきれいで、忘れられない場所になりました。

岸田 それも病気を経験して、「元気になったら行こう」と思っていた場所なんですね。

和手 はい。がんになったことを相談した友人が、「絶対ここに行って。生きてるうちに見ておく価値がある」と言ってくれたんです。それで、手術を待っているあの7カ月の間に、ずっとその街を調べて、「絶対元気になって行こう」と決めていました。

岸田 そうやって“先の予定”を立てることも、闘病中には大切ですよね。
そしてそのあと「再就職」とあります。これは、職業訓練で学んだことを生かして就職された感じですか?

和手 いえ、それが全然違う方向に進んじゃったんです(笑)。新婚旅行で旅行の楽しさに目覚めてしまって。

岸田 あ、そっち行っちゃいましたか(笑)。

和手 はい。職業訓練で学んだことは経理関係だったんですが、旅行って素晴らしいなと思って。結局、再就職では座ってできる経理の仕事をしながらも、業種としては留学支援の会社に就職しました。生徒さんに海外留学をあっせんするような仕事です。

岸田 人生って、本当にどこで何が起こるか分からないですね。
そして、そこからまた下がる局面が……「妊娠・出産して中国へ」とありますね。これはご主人の転勤関係ですか?

和手 そうです。主人が中国に赴任することになって、私が妊娠してすぐ彼は中国に行きました。私は日本で一人で出産して、2年間子どもを育ててから、家族で中国に行きました。

岸田 なるほど。そしてその後、また下がっていく……。次に書かれているのが「流産」。これは心にも体にも、とても負担の大きい出来事だったと思います。

和手 そうですね。中国で暮らしている間、やっぱり甲状腺を全部取っている関係でホルモンバランスが不安定になることが多かったです。女性特有のことでもありますが、生殖機能にも影響があるのかなと思って、日本と中国を行き来しながら日本の高度不妊治療を受けました。薬でホルモンを補いながら治療を続けていたら、妊娠はできたんですが、残念ながら流産してしまって……。さらに薬の影響で卵巣が10倍ほどに腫れてしまったんです。甲状腺ホルモンの薬もずっと飲んでいたので、「これ以上の治療は難しい」と思い、半分あきらめの気持ちで中国へ戻りました。

岸田 なるほど……。それから体調を整えていかれたんですね。そして、その後、第2子をご出産されたと。

和手 はい。流産のあと、まずは体調を整えることを第一にしました。ちょうど中国は東洋医学がとても発達していて、中医学の先生から「甲状腺を全部取っているのだから、ホルモンバランスが崩れるのは当たり前。でも体を温めて、巡りをよくすれば整ってくる」と言われたんです。そこから鍼(はり)治療やお灸、食生活の改善などで体を温めることを意識しました。そうして少しずつ体調が整っていくうちに、自然に妊娠することができました。

岸田 自然妊娠だったんですね。前回は中国での出産でしたが、今回は日本に戻られたんですか?

和手 はい。出産前に日本へ帰国して、出産は日本でしました。その直後にコロナ禍になったこともあり、「もう日本を拠点にしよう」と家族で決めて、日本に住むことにしました。

岸田 そして2022年、告知からちょうど10年がたったという節目の年を迎えられたわけですが――。本当に、10年前にがんの告知を受けて、そこからの10年を経て、こうして『がんノートmini』にご出演いただいています。今、あらためてこの10年を振り返って、どんな思いがありますか?

和手 この10年間は、常に「再発していないか」という不安と向き合いながら生きてきた気がします。というのも、10年前に入院していたとき、同じ病棟にいた患者さん――おばあちゃんだったんですけど、その方が「10年前に甲状腺とリンパを全部取ったのに、また再発してリンパ節に転移してしまったの」と話していたんです。

そのとき、その方は「まあこんなこともあるよね。でも、めげないよ。まだまだやることいっぱいあるからね。じゃあ、行ってくるわ」と笑って手術室に向かわれたんです。その姿が、ずっと私の心に残っていて。
「10年後に自分も再発するかもしれない」――そんな覚悟をどこかで持ちながらも、私もあの人のように前を向いていたいと思い続けていました。

だから、この10年は「病気を忘れずに生きる10年」だったと思います。そして今、10年の節目を迎えて、あのときのおばあちゃんの「めげない」という言葉のおかげで、私はやりたいことを全部やってこれたんだと感じています。とても幸せです。

岸田 本当にそうですよね。がんのことだけじゃなく、バセドウ病も経験されて、それでも介護学校に通ったり、職業訓練を受けたり、新しい仕事にも挑戦されたりして――そのすべてが「めげない」精神そのものだったと思います。
和手さん、すてきなお話をありがとうございました。

【大変だったこと→乗り越えた方法】

岸田 そんな和手さんが「大変だったこと・困ったこと」、そしてそれを「どう乗り越えたか」という点について伺っていきたいと思います。
回答では――「大変・困ったこと」は、甲状腺を失うことへの恐怖と不安、術後の首や喉の違和感、日常生活への支障。そしてそれを「どう乗り越えたか」については、先生に聞いたり、本で調べたり、首に負担がかからない体の使い方をマスターしたとあります。このあたり、もう少し詳しく教えていただけますか?

和手 はい。まず、甲状腺という臓器については、バセドウ病を経験していたので知識はあったんです。でも、実際に「自分の体から甲状腺をすべて失う」となった瞬間、想像以上の恐怖と不安に襲われました。「もう二度と元の自分には戻れないのかもしれない」って。
当時、同じような境遇の人をネットで探しても、ほとんど情報がなくて――せいぜい1人見つかるかどうかという感じで、本当に孤独でした。
だからこそ、先生に直接聞いたり、専門書を読んだりして、自分で理解を深めるしかなかったんです。病状は人それぞれ違うので、やっぱり信頼できる医療従事者の方に聞くのが一番安心できました。

岸田 なるほど。そして「首に負担がかからない体の使い方をマスターした」とありますが、これはどういうことなんでしょう?

和手 これは、実は介護学校で学んだ知識が役立ったんです。手術後は首を切っているので、痛くて動かすのが怖くなるんですよね。でも、動かさないと固まってしまう。

 そこで介護の授業で学んだ“体の使い方”――つまり、テコの原理を使って首に力を入れずに起き上がる方法とか、首だけを動かすのではなく、体全体や腕ごと一緒に動かすことで負担を分散させる方法を思い出しました。それを実践していくうちに、首の違和感や痛みがだんだん軽くなっていって、「あ、これなら動ける」と自信がついたんです。

岸田 なるほど。まさに“学びが自分を救った”という感じですね。

【メッセージ】

岸田 そっか、介護学校、偉大ですね。しっかり身につけた知識が、闘病の中でも活かされていたわけですね。
そんな闘病経験を乗り越えてこられた和手さんから、いま闘病中の方や、この番組をご覧になっている方へメッセージをいただいています。こちらです。

和手 『「がん」を人生の転機と捉え、自分にとって大切な「ひと・こと・もの」に向き合ってみること』。
私自身、がんと聞いたときは「死」を連想してしまいました。まさか自分が、という気持ちで、心穏やかに過ごすことなんてできなかったです。
本当は「見つかってよかった」と思うべきなんでしょうけど、当時は落ち込む毎日でした。

でも、同じように今つらい思いをしている方にも、ぜひ「1人で抱え込まないで」と伝えたいです。どうか、大切な人と話をしてみてください。話すことで少しだけ気持ちが軽くなると思います。

また、少しずつ病気以外の人たちと接していく中で、希望を持って生きることの大切さを学びました。心に余裕が生まれてくると、「これがやりたい」と思えることも少しずつ増えていきます。
がんになったからといって、人生が終わるわけではありません。むしろ、がんの“後”の人生こそ、これからどう生きるかを考える時間だと思っています。
だからこそ、前向きに、希望を持って進んでほしいです。治療がうまくいくことを心から祈っています。

岸田 ありがとうございます。本当に、「大切な人と話す時間を持つこと」、そして「人・こと・もの」にもう一度目を向ける――それが、自分を見つめ直す大切な機会になるんですね。とても胸に響きました。ありがとうございました。

それでは、これにて『がんノートmini』、終了していきたいと思います。ありがとうございました。バイバイ。

和手 さようなら。

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