目次
- 【オープニング】テキスト / 動画
- 【ゲスト紹介】テキスト / 動画
- 【ペイシェントジャーニー】テキスト / 動画
- 【お金・活用した制度】テキスト / 動画
- 【大変だったこと→乗り越えた方法】テキスト / 動画
- 【がんの経験から学んだこと】テキスト / 動画
※各セクションの「動画」をクリックすると、その箇所からYouTubeで見ることができます。
インタビュアー:岸田 / ゲスト:跡部
【オープニング】
岸田 それでは、がんノートmini、スタートしていきたいと思います。きょうのゲストは跡部さんです。よろしくお願いします。
跡部 よろしくお願いします。
【ゲスト紹介】

岸田 早速ですが、跡部さんの自己紹介から伺っていきたいと思います。
跡部涼子さん。ご出身は静岡県で、現在は東京都在住とのことです。お仕事は歯科衛生士。そして趣味に「旅行」と「アルバム作り」とありますが、この“アルバム作り”とはどのような活動なのでしょうか。
跡部 紙を切ったり貼ったりして、スクラップブックを作るような感じです。お見せしても大丈夫ですか?
岸田 はい、見えます。
跡部 こんな感じです。これは母の写真を使ったアルバムなんですけど、写真を切ったり、ステッカーを貼ったり、コメントを書いたりしています。
岸田 すごくおしゃれですね。中も少し見せていただいてもよろしいですか。
跡部 もちろんです。差し支えのないページを……。
例えば、子どもの成長の記録をまとめたページはこんな感じです。
岸田 現像していつでも見返せる形にしているんですね。
跡部 はい。これはサークルのようなコミュニティで一緒に作っていて、Zoomを使いながらレイアウトを共有したり、お互いに作り方を教え合ったりしています。
岸田 そんなチームがあるんですね。
跡部 もともとは助産院の子育てコミュニティから始まった集まりなんですが、子どもが大きくなってもみんなでつながり続けているんです。
岸田 とても素敵です。もっと拝見したいところですが、このままだと趣旨が変わってしまうので続きに進ませていただきますね。
跡部さんのがんの種類は「耳下腺がん」、そして「組織型不明」と記載がありますが、この“組織型不明”とはどのような状態なのでしょうか。私自身あまり耳にしたことがありませんでした。
跡部 私も初めて聞きました。耳下腺がんは希少がんの中でもさらに稀で、耳下腺がんだけで20種類以上の組織型があると言われています。低悪性から高悪性まで幅広く、本当に診断が難しいがんなんです。
その中で、私の場合は「どの種類にも当てはまらない」という病理結果が出て、“低悪性の組織型不明”というところまでしか分からなかった、というのが現状です。
岸田 そんなに種類があるとは知りませんでした。
跡部 本当に驚きますよね。
岸田 ステージはⅠ。告知は42歳のときで、今も42歳。告知から間もないということですよね。
跡部 はい。まだ1年も経っていません。
岸田 そんな状況の中で、今回ご出演いただき本当にありがとうございます。
跡部 こちらこそ、お声がけいただきありがとうございます。
【ペイシェントジャーニー】
岸田 跡部さんは手術を経験されたとのことですが、ここからはペイシェントジャーニーを拝見しながら、お気持ちの変化を伺っていければと思います。図の縦軸は、上にいくほどポジティブ、下にいくほどネガティブな感情を表しています。

まず初めの項目が「双子の出産」。まさに人生のクライマックスのような出来事から始まっていますね。
跡部 本当にそのとおりです。実は、出産の2カ月前に母をがんで亡くしているんです。双子は、その母の月命日に生まれてきてくれました。まるで生まれ変わりのように感じて、母からのエールが届いたような気がして……。人生で最も幸せな瞬間でした。
岸田 その後、お気持ちは少し下がります。「復職」のタイミングです。これは白色、つまり中間的な感情として記されていますね。
跡部 そうですね。仕事が嫌だったわけではありません。ただ、双子の育児が本当に大変で……。1歳半頃だったので、社会と再びつながれる嬉しさと、「子育てどうしよう」という不安が入り混じって、半々の感情でした。
岸田 もちろん、お仕事が嫌いという意味ではないのは伝わっています。
跡部 念のため強調しておきます(笑)。
岸田 そこから再び上り調子になります。「双子の小学校入学」。一区切りとなる大きな節目ですよね。
跡部 はい。育児の節目でもあり、私自身も仕事が充実していた時期でした。「ここまで育ってくれたんだな」と実感できて、楽しい期間だったと思います。
岸田 そして、ここを頂点に、グラフは大きく下がっていきます。「体調不良」。まずは病院を受診されたものの、異常なしと言われたんですね。
跡部 そうなんです。近所のクリニックでも、大学病院でも血液検査などを受けましたが、特に異常がないと言われました。そんなものかな、といったん自分でも納得してしまっていました。
岸田 しかしその後、さらに下降し、「膠原病科受診」「伝染性紅斑(りんご病)」という診断につながっていきます。大人のりんご病というのは、どのような状態なのでしょうか。
跡部 一般的には子どもがなる病気で、頬が赤く腫れたり、発熱したりするものですが、私は大人になって発症しました。大人の場合、頬が赤くなるといった典型的な症状が出ないことが多いんです。そのため気づかれにくく、私も当初は分かりませんでした。
私の場合は、極度の倦怠感や関節痛、強い口の乾きといった症状が続いたため、「これはおかしい」と思って大学病院の膠原病科を受診しました。さまざまな検査を経て、最終的にりんご病であることが分かりました。
岸田 このりんご病は、がんとは別に発症したという理解でよろしいですか。
跡部 はい。りんご病自体はがんとは関係ありません。ただ、後に分かるのですが、この時期の“異変続き”が、結果的にがんの早期発見につながった部分もあるのかなと思っています。
岸田 跡部さんは手術を経験されたとのことですが、ここからはペイシェントジャーニーを拝見しながら、お気持ちの変化を伺っていければと思います。図の縦軸は、上にいくほどポジティブ、下にいくほどネガティブな感情を表しています。
まず初めの項目が「双子の出産」。まさに人生のクライマックスのような出来事から始まっていますね。
跡部 本当にそのとおりです。実は、出産の2カ月前に母をがんで亡くしているんです。双子は、その母の月命日に生まれてきてくれました。まるで生まれ変わりのように感じて、母からのエールが届いたような気がして……。人生で最も幸せな瞬間でした。
岸田 その後、お気持ちは少し下がります。「復職」のタイミングです。これは白色、つまり中間的な感情として記されていますね。
跡部 そうですね。仕事が嫌だったわけではありません。ただ、双子の育児が本当に大変で……。1歳半頃だったので、社会と再びつながれる嬉しさと、「子育てどうしよう」という不安が入り混じって、半々の感情でした。
岸田 もちろん、お仕事が嫌いという意味ではないのは伝わっています。
跡部 念のため強調しておきます(笑)。
岸田 そこから再び上り調子になります。「双子の小学校入学」。一区切りとなる大きな節目ですよね。
跡部 はい。育児の節目でもあり、私自身も仕事が充実していた時期でした。「ここまで育ってくれたんだな」と実感できて、楽しい期間だったと思います。
岸田 そして、ここを頂点に、グラフは大きく下がっていきます。「体調不良」。まずは病院を受診されたものの、異常なしと言われたんですね。
跡部 そうなんです。近所のクリニックでも、大学病院でも血液検査などを受けましたが、特に異常がないと言われました。そんなものかな、といったん自分でも納得してしまっていました。
岸田 しかしその後、さらに下降し、「膠原病科受診」「伝染性紅斑(りんご病)」という診断につながっていきます。大人のりんご病というのは、どのような状態なのでしょうか。
跡部 一般的には子どもがなる病気で、頬が赤く腫れたり、発熱したりするものですが、私は大人になって発症しました。大人の場合、頬が赤くなるといった典型的な症状が出ないことが多いんです。そのため気づかれにくく、私も当初は分かりませんでした。
私の場合は、極度の倦怠感や関節痛、強い口の乾きといった症状が続いたため、「これはおかしい」と思って大学病院の膠原病科を受診しました。さまざまな検査を経て、最終的にりんご病であることが分かりました。
岸田 このりんご病は、がんとは別に発症したという理解でよろしいですか。
跡部 はい。りんご病自体はがんとは関係ありません。ただ、今になって振り返ると、この時期に“さまざまな異変”が続いたことが、結果的に耳下腺がんの早期発見につながったのではないかと思っています。その診察の際、先生が首を触診したときに「この辺、少しボコボコしているね」と言ってくださって。同じ病院内の耳鼻科にも回してもらったんです。
そこで穿刺して細胞を取ったり、エコー検査をしたりしましたが、その時点では「特に異常なし」という結果で、一旦は収まったんです。ですので、そのときは「りんご病だったんだな」ということで終わっていました。
岸田 そこから後日、「頸部に違和感」がありつつも、耳下腺の良性腫瘍という診断を受けた、ということですね。
跡部 そうですね。しばらくしてから自分でも「何かおかしいな」と思い、再度受診しました。その結果、悪性所見は見られず、「良性の腫瘍だと思うので、取ってしまったほうがよいでしょう」という説明を受けました。比較的軽い流れで手術日程まで決まり、手術を受けることになりました。
岸田 そして実際に手術を受けられたのが「耳下腺浅葉摘出術」。この“浅葉”という表記で正しいのですね。
跡部 はい。耳下腺の浅い部分、皮膚に近い側の“浅葉”を切除する手術です。先生がとても丁寧に施術してくださり、首のシワに沿って、だいたい5センチほど切開して腫瘍と浅葉を摘出していただきました。
岸田 その後、グラフは大きく下降します。摘出後の病理検査で、「詳細不明の悪性腫瘍・断端陽性」という診断が出たんですね。
跡部 はい。先生もかなり驚かれたと思います。手術前は良性を疑っていたのに、病理に出したところ明らかに良性ではない像が見つかり、しかも断端陽性で「まだ体内にがんが残っている可能性が高い」という結果でした。
その時点で、大学病院では診断が難しいため、「すぐにがん専門病院へ転院してください」と言われ、同じ週のうちに転院することになりました。
岸田 まさに怒濤の展開ですね。
跡部 本当にそうでした。
岸田 転院後の精密検査を経て、耳下腺がんで、しかも組織型不明という告知を受けられたのですね。
跡部 はい。約1カ月かけて、頭の先から足のつま先まで詳しく調べる検査を受け、その結果としてようやく「耳下腺がん」、そして「組織型不明」という診断に至りました。耳下腺がんというだけでも珍しいのに、組織型がどれにも当てはまらない“組織型不明”と言われた時は、本当に驚きました。
岸田 告知を受けた瞬間のお気持ちはいかがでしたか。大変めずらしいがんで、しかも組織型不明と告げられると、相当の衝撃があったと思うのですが。
跡部 最初は涙も出ませんでした。先生のお話を聞いても、あまりにも情報量が多く、頭がついていかなくて……。ただただ「理解が追いつかない」という感覚でした。
岸田 (宅配のインターホン音)大丈夫ですか、出なくても。
跡部 大丈夫です。宅配ボックスに入れてもらえると思いますので、すみません。
岸田 いえいえ、全然大丈夫ですよ。話の流れが少し途切れてしまいましたが……。
跡部 すみません。えっと……そうですね、告知を受けたときのお話でしたね。大事なところで話が途切れてしまって、ごめんなさい。告知を受けた瞬間は、本当に“何を言われているのか分からない”という状態でした。あまりの衝撃で涙も出ませんでしたし、原因不明の体調不良が長く続いていたこともあって、「やっぱりがんだったんだ」と妙にしっくりきてしまう気持ちもあったのが正直なところです。
岸田 確かに、その感覚はよく伺いますよね。理由が分からなかったものが、ようやく一つにつながるというか。
跡部 そうですね。
岸田 そして、そこからグラフが少し上向いていきます。“がんサロンへの参加”とありますが、これは病院で実施されているサロンに参加されたということでしょうか。
跡部 はい。告知直後は本当に受け入れられず、翌日には人生のどん底まで落ちたような気持ちでした。勤務にも行けないほどで……。そんなとき、以前勤めていた大学病院の看護師仲間やドクターの友人から「がんサロンがあるよ、行ってみたら?」と勧められて、参加してみたんです。
岸田 参加してみて、いかがでしたか。私のイメージでは、病院のがんサロンって高齢の方が多い印象なんですが。
跡部 そんなことは全くありませんでした。同年代の方もいれば、親世代にあたる方もいらして、とても幅広い層でした。その中で希少がんの方とも話せたのが大きかったですし、皆さん前向きに生きていらっしゃって、とても励まされました。
岸田 病院によって雰囲気も世代も本当に違いますよね。
跡部 そう思います。
岸田 そしてグラフはさらに上がっていきます。“セカンドオピニオン、サードオピニオン”とありますが、複数の病院で意見をお聞きになったのですね。
跡部 はい。最初に診てくださった先生もとても良い先生でしたが、やはり複数の見解を聞きたいと思い、都内で通える病院をいくつか回って意見を伺いました。
岸田 治療方針は、やはり全く違いましたか?
跡部 まったく違いました。本当に「希少がんとはこういうものなのか」と思い知らされました。
一つ目の病院では、広範囲の切除と神経移植、筋肉移植まで提案されました。
二つ目の病院では、機能温存を大事にしながら、必要な部分のみを最小限切除するという方針。
三つ目の病院は、「断端陽性ではあるけれど、経過観察をしながら再発を見極める」という方針でした。
岸田 全然違いますね。三つ目の“再発を待つ”という提案は、私だと怖くて仕方ない気がしますが、そういうアプローチもあるんですね。
跡部 はい。決して“放置”ではなく、非常に熱心な先生で、必要であれば小さな手術と放射線を組み合わせる提案もしてくださるなど、きちんと選択肢を示してくださる先生でした。
岸田 最終的には、どの病院を選ばれたのですか。
跡部 二つ目の病院です。私の考えや希望を丁寧に汲み取り、「機能温存を大切にしながら腫瘍を取りましょう」と言ってくださった先生で、この先生なら一緒に頑張っていけると感じました。
岸田 一つ目が“広範囲切除”、二つ目が“中間的な方針”、三つ目が“経過観察”。その中の二つ目を選ばれたんですね。
跡部 はい。自分の気持ちを理解してくださる先生と出会えたことで、ようやく“気持ちがリセットされた”という感じがしました。
岸田 ただその後、グラフは再び下がっていますね。
跡部 そうなんですよ。自分でも「ここで下がるの?」と思うようなタイミングでした。
岸田 いえいえ、全然ありえます。人生は、本当に波と谷の繰り返しですから。
跡部 本当に、そうですよね。
岸田 人生って本当に思い通りに進まないものだと、跡部さんのお話を伺っていて強く感じます。ここで再びグラフが下がっているのですが……こちらですね。「精神腫瘍科を受診」。正直、手術の結果が悪かったのかと思ったのですが、まさか精神腫瘍科とは意外でした。
跡部 そうなんです。気持ちをリセットして、信頼する先生のもとで手術の説明を改めて受けたんですね。その説明の中で、「神経は、どうしても切断しなければいけないかもしれない」という言葉があって……その“神経切断”の一言で、私の中の何かが崩れてしまいました。診察室で大号泣してしまい、看護師さんから「精神腫瘍科に一度相談してみませんか?」と勧めていただいて。すぐ「行きます」と答えて、受診することになりました。
岸田 精神腫瘍科って、一般の方にはなじみが薄いと思います。実際に行ってみて、いかがでしたか?
跡部 正直、何を話したのか覚えていないんです。それくらい、当時は“人生どん底”をさらに掘り下げて、地下深くにいるような感覚でした。マイナスの感情が底を抜けて、もっと深いところまで落ち込んでいて……。ただ、先生や心理士さんが本当に温かく接してくださったことだけは、はっきり覚えています。
岸田 行ってよかったと思いますか?
跡部 本当によかったです。あのとき受診していなかったら、ちょうど年末年始で病院も閉まっていましたし、誰にも相談できない状況でした。もしかしたら、本当に“いけない方向”へ気持ちが向いていたかもしれません。救われたと思っています。
岸田 相当、ぎりぎりの状態だったんですね。そこから、少しずつ気持ちが上を向き……「陽子線の説明」という項目がありますね。青になっているのでネガティブな出来事ではあると思うのですが、どういう流れだったのでしょう。
跡部 精神腫瘍科を受診して、少し冷静になれたんです。そこで「手術が第一選択なのは分かる。でも、他の選択肢はないのだろうか」と考えるようになりました。ふと「あ、この病院には陽子線治療の施設があるじゃないか」と思い出して、もしかしたら“切らずに治す方法”があるのかもしれないと期待が湧いてきたんです。それで受診したのですが……。
岸田 ですが?
跡部 放射線科の先生から最初に言われたのは、「あなたの場合、第一選択はやはり手術です」という一言でした。もちろん陽子線治療のメリット・デメリットも丁寧に説明してくださったのですが、話を聞くうちに「私が求めているのはこれじゃない」と気付きました。むしろ受診したことで“納得のいく決断”に近づけたと思います。
岸田 つまり、手術しかないと腹が決まったわけですね。
跡部 はい。確信が持てました。
岸田 そこから「手術を決意する」という流れになっていますね。その後にあるのが「耳下腺浅葉残存切除術・神経縫合術」。この手術はうまくいったのでしょうか。
跡部 はい。ミニマムな手術で済んだと思います。ただ再手術ということもあり、腫瘍の位置からどうしても切断しなければならない神経があって、そこは避けられませんでした。でも先生が本当に丁寧に手術をしてくださって、使える神経を移植し、表情ができる限り残るよう配慮していただきました。
岸田 そんなことができるんですね。
跡部 できるんです。切った部分も、可能な限り自然に動くように調整していただきました。
岸田 麻痺はどうですか?
跡部 ありますが、すごく軽度です。こうやって「いーっ」としても……。
岸田 え、全然分からない。
跡部 本当ですか? 少し引きつるんですが、ほとんど気付かれません。先生のおかげだと思っています。
岸田 そして、その後に出てくるのが「さまざまな合併症」。どんな合併症があったのでしょう。
跡部 一番つらいのが、“ファーストバイトシンドローム”という合併症なんです。
岸田 ファーストバイト……? 結婚式で新郎新婦がケーキを食べさせ合う、あの“ファーストバイト”ですか?
跡部 そう思いますよね(笑)。でも実際は全然ロマンチックじゃなくて。これは“食事で一口目を噛んだ瞬間に激痛が走る”という症状なんです。最初のひと噛みのタイミングで、頭を壁にぶつけたような、あるいは棒で殴られたような、内部からズシンと来る痛みが出るんです。これが毎食続きます。
岸田 毎食……。想像を超えていますね。
跡部 しかも痛み止めが効かないんです。我慢して食べ続けていると、5分くらいで徐々に痛みが下がっていくんですが、最初の数分は毎回“試練”です。食べれば軽くなる、と体が覚えているので耐えられるようになってきたんですが……それでも結構つらいですね。
岸田 今はどうですか?
跡部 今も痛いです。ただ、経験を重ねる中で少しずつ工夫もしていて。甘いものや固いものは特に痛みが強いので、そういうものを“最初の一口”にしないようにしています。まずは痛みが出にくいものから口にする。食事の前に水を飲むと少し和らぐときもありますし、唾液腺のマッサージで軽減する日もあります。
そんなふうに小さな工夫を積み重ねながら、日常生活を送っているところです。
岸田 ありがとうございます。さまざまな合併症を経て、現在は経過観察を続けておられるとのことですが、ここにある「CPの入会」というのは、キャンサーペアレンツ——子どもをもつがん患者さん同士のコミュニティですよね。
跡部 はい、そうです。
岸田 そこに参加されて、そして今は復帰を目指しながら通院を継続している、と。今も通院されているということですが、どんな内容の診療が続いているのでしょうか。
跡部 まず主科である頭頸部外科には月2回通っていて、再発の兆候や気になる変化がないかを診てもらっています。それに加えて、精神腫瘍科でのカウンセリングを継続しています。そして三つ目が歯科です。術後の口腔ケアや機能面でのフォローをしていただいています。今はこの三つの科に通院しているところです。
岸田 がんを切除したからといって、治療が終わるわけではないんですよね。
跡部 本当にそうです。手術して終わりだと思っていたんですけど、いざ自分が患者になってみると、治療後の後遺症やケア、通院など、“その先”が長いということを実感しました。
岸田 後遺症やアフターケアなど、いくつもの側面で向き合い続けていく必要があるわけですね。
跡部 はい。まさにそうだと思います。
【お金・活用した制度】
岸田 ありがとうございます。ここからは、がんの経験とともに活用された制度やお金の部分について伺っていきます。高額療養費制度や民間の保険も使われたとのことですが、民間保険では少し大変なこともあったそうですね。
跡部 はい。私は複数の保険に加入していたのですが、対応が本当に会社によって違いました。1社はとても迅速で、必要書類を出したらすぐに給付金が支払われたんです。でも、もう1社は審査にかなり時間がかかってしまって、実際に入金されたのは数カ月後で……。「本当に必要だった時期には使えなかった」という状況になってしまいました。会社ごとにこんなに差があるとは思っていなかったので、保険はできるだけ早めに手続きしておくことが大事だと感じました。
【大変だったこと→乗り越えた方法】

岸田 早めに手続きすることが大事ということですね。続いて、大変だったことと、どのように乗り越えたかについて伺います。
跡部さんからは三つ挙げていただきました。
一つ目が「食べること、飲むこと」。
二つ目が「希少がんのため情報が少ないこと」。
三つ目が「治療中のお子さんの預け先」。
それぞれ、どのように乗り越えていかれたのか教えてください。まず一つ目の“食べること、飲むこと”。専門家や仲間からのアドバイスがあったと伺いましたが、具体的にはどんな内容でしたか。
跡部 まず、食べ物の形状を変えるだけでは解決できない、ということに気づいたんです。食べやすさには“カトラリー”が大きく影響するんですね。一般的なスプーンは厚みもカーブも強くて、口が大きく開かない私には使いづらく、まひの影響でこぼしてしまうこともありました。
そこで管理栄養士の同僚から、「フラットなスプーンのほうがいいんじゃない?」とアドバイスを受けました。いわば“離乳食スプーン”のような形ですね。それを探して見つけたのが、猫舌堂さんのスプーンでした。
また、耳下腺がん仲間のランチ会でも、食べ方の工夫をたくさん教えてもらいました。
さらに、五感で食べることの難しさもあって、柔らかいものばかりだと食欲が落ちてしまうんですよね。そんなとき、介護食の冷凍食でも“見た目はきれいで、スプーンですっとつぶれる”商品を扱うサイトを教えてもらい、活用していました。
今では多くのものが普通に食べられるようになっています。
岸田 ありがとうございます。
続いて二つ目、「希少がんの情報が少ない」という点については、希少がんセンターや相談支援センターを活用されたと伺いました。
跡部 はい。情報を探すのが本当に大変で、ネット検索だけでは限界がありました。希少がんセンターや相談支援センターに相談すると、信頼できる情報や社会資源を紹介していただけたので、とても助かりました。
岸田 最後に、お子さんの預け先の問題ですね。治療中は本当に大変だったのでは。
跡部 大変でした。まず、手術日が全く読めないんです。病院のスタイルもあり、「手術は○日です」と決まっているのではなく、突然電話が来て「この日にします」と言われる形でした。
そのたびに、主人が休めるか、義父母に頼れるか、コロナ禍でお願いできる状況なのか……とにかく調整が大変で。
友人たちが「預かるよ」と言ってくれたので本当に助かりましたが、もし私が抗がん剤治療まで必要だったら、もっと大変だったと思います。小さなお子さんを毎日連れて病院に行くのか、どうすればいいのか。これは本当に、社会的な課題だと感じます。
岸田 政府、どうにかしてください。
跡部 はい、本当にお願いします。
【がんの経験から学んだこと】

岸田 ではここから、跡部さんが“がんの経験から学んだこと”について伺っていきます。跡部さんからは「人の優しさ、温かさが前向きに生きる力になる」という言葉をいただきました。この意図について教えていただけますか。
跡部 はい。普段から人の優しさは感じていましたが、本当に人生のどん底に落ちたとき、周りの人が掛けてくれた言葉が自分を前向きにしてくれました。
たとえば
「1日のうち数秒でも“楽しい”と思えたら、それは素敵なことだよ」
「60%でいい。100%を目指さなくても大丈夫」
「あなたは“全部がん”じゃなくて、“あなたの一部ががん”。涼子は涼子のままでいいんだよ」
こうした言葉をもらえたことが、本当にうれしくて。それが力になって、前を向いて生きられるようになりました。だから、この言葉を選びました。
岸田 すごく心に刺さる言葉ばかりですね。僕も100点を目指しすぎているかもしれないと反省します。治療を頑張るだけで、十分すぎるほど100点ですよね。
跡部 本当に“花丸”でいいと思います。
岸田 前向きに生きるためには、周りの支えって本当に大切なんですね。
跡部 大切だと思います。CP(キャンサーペアレンツ)もそうですが、会ったことがなくても、優しい言葉をくれる人たちがいて、それだけで救われることもあるんです。
岸田 今見てくださっている皆さんも、「自分に何ができるんだろう」と思うかもしれませんが、たった一言の声掛けが誰かの力になったり、救いになったりすることがあります。
もちろん人それぞれですが、そうした“言葉のサポート”も大きな力になると思います。
跡部さん、この1年間、本当に紆余曲折の連続だったと思います。その経験を今日、丁寧にお話しくださってありがとうございました。
跡部 ありがとうございました。
岸田 それでは、がんノートmini、終了したいと思います。ありがとうございました。
跡部 ありがとうございました。
※本ページは、経験者の体験談を扱っております。治療法や副作用などには個人差がございますので、医療情報に関しましては主治医や、かかりつけの病院へご相談、また科学的根拠に基づいたWebページや情報サイトを参照してください。
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