目次

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インタビュアー:岸田 / ゲスト:川村

【オープニングトーク】

岸田 それでは、がんノートmini、スタートしていきたいと思います。きょうのゲストは川村さんです、よろしくお願いします。

川村 よろしくお願いします。

【ゲスト紹介】

岸田 川村さんの、早速なんですけれども、自己紹介をしていきたいということを思っております。川村さんは、こちら、ゲストプロフィールになります。川村さん、東京都の出身で、東京の在住という形になります。また、お仕事は訪問介護のお仕事をされているという中で、趣味は身体障害者野球を、まさに今、写真が身体障害者野球の感じですけれども、身体障害者野球ってどういうものなんですか。

川村 基本的なルールは通常の野球と同じなんですけど、例えば、違うところでいったら、バントがないとか盗塁がなしとか、あと、走れない人がバッターのときに、打者代走っていう代わりに走ってくれるランナーを付けることができるとか。そういうのが違うところでね。

岸田 そうなんですね。すごい。ルールを変えて野球をできているっていう感じなんですね。

川村 そうですね。

岸田 そして、がんの種類が左大腿骨の骨肉種ということになります。ステージが、なしということなんです。これはどういうことなんですか。

川村 特にステージ何という告知をされてはなかったので。

岸田 お医者さんから告知がなかったってことですよね。了解です。がん告知をされたのが20歳といったところと、今のご年齢は23歳になります。で、治療方法としては手術や薬物療法をされていったというような川村さんの人生も、いろいろ紆余曲折があったということをお伺いしています。

【ペイシェントジャーニー】

岸田 こんな中でどんなことがあったのか。それがペイシェントジャーニー、こちらをいただいております。紆余曲折感、最初は下がって上がって、下がって上がって、そしてどーんと下がっていってから、ちょっと上がっていってるというふうな。

岸田 今、下がってるのも気になりはするんですけれども、いろんなことをお伺いしていきたいなということを思っています。まず、ここの最初のところ、一番上にいけばいくほどちょっとポジティブで、皆、下にいけばいくほどネガティブな感情の曲線になってます。そんな中で、では川村さん、まず専門学校の2年生に進級。これはどういう専門学校ですか。

川村 介護の専門学校です。

岸田 介護の専門学校で2年生に進級していく。そしてその中で下がっていくんですよね。膝の痛み。膝が急に痛くなったんですか。

川村 そうですね、ちょうど介護施設への実習に行ってる途中で、始まって1週間後ぐらいに膝の痛みが出て、痛過ぎてしゃがめないみたいな感じです。

岸田 しゃがめなくなる、それでちょっとあかんなと思って、それで病院に行ったんですか。

川村 いや、病院には行ってないです。

岸田 行ってへんねや。

川村 自分が行き慣れてる接骨院で。本当に関節痛だと思ったので。

岸田 ここはどういう流れでしょうか。

川村 卒業単位もかかってたので。

岸田 学生だし。

川村 接骨院でだましだましやって、実習、取りあえず終わらせて、接骨院の先生から「レントゲン取れる場所に行こうか」って言われて、紹介状を頂いて、レントゲン取ったら影があって、MRIを取って来ててっていう、違う所に。3件目ぐらいですかね。

岸田 で、MRIを取りに行って。そして、MRIでというのは。

川村 結果を聞きに行ったときに、「大きい病院に行ってきて」って言われて。病院って年末年始休みじゃないですか。

岸田 年末年始、休みですね。年末年始だったんですね。

川村 そうなんです。休みに入る前日ぐらいに発覚したのに、「今すぐ行ってきて」みたいな感じで言われて。本当に結果を聞きに行っただけなので、たまたま携帯も忘れててみたいな。

岸田 うそ。 

川村 携帯忘れたみたいな感じで、「親御さんに連絡して」「携帯がないです」みたいな。

岸田 けど、そのままなしで、MRIを取りに行って。

川村 はい。大きい病院に行ったんですけど。「ここだと川村君の予想、結果、細かいのは分かんないけど、多分、がんだから、ここだと見れないから、年始に新しい、もうちょっと大きい所、行って来て」って言われて、大学病院に年始で朝一で。予約取れなかったので。

岸田 朝一で行ったと。年始で大学病院に行って、その後は。

川村 即、入院です。次の日、組織検査の手術をしますっていう話をいただいて。

岸田 それがここですね。骨肉種の告知。これは、組織を取って分かっていったってことなんですかね。

川村 はい。

岸田 これ、どうですか、告知された、骨肉種って分かったとき。

川村 でも、そんなにがっかりはしなかったですね。

岸田 え、なんで。

川村 入院したときから、多分、骨肉種って言われてたんです。

岸田 そうなんや。

川村 確定ができないから、取りあえず組織手術して確定にさせようっていう話だったので。あと、先生がすっごいラフに言ってきたんですよ。

岸田 どんな感じ。

川村 「うん、川村君、がん」そんな感じだったんです。「え、そんな軽く言う?」みたいな。

岸田 ほんまそれな。けど、事前に、骨肉種っていう疑いがあったから、そこまでショックは受けず。親御さんとかはショック受けてなかった?

川村 僕には見せてなかっただけで、多分、ショックは受けてたと思いますけど。

岸田 そっか。そんな中、川村さん、こちらですね。次、上がっていくんですよね、そっから。何があったのかというと、成人式。そっか、20歳やもんね。

川村 はい、ちょうど20歳になった年だったので。

岸田 成人式、楽しかった。

川村 主治医の先生にも「意地でも行きたい」って言ったぐらいなので。野球やってたときの友達とかもいますし。

岸田 成人式行って、そっからからまた下がってくる。それはなぜかというと、抗がん剤。シスプラチンとメソトリキサートをしていくということで、こっから抗がん剤治療が入ってくる。先に手術して取り切ってからとかじゃないんですね。抗がん剤なんですね。

川村 違います。先生から言うには、なるべく抗がん剤で小さくしてから、取る所をちっちゃくしようっていう話だったみたいです。結果、どうだったのかはちょっと分かんないですけど。

岸田 抗がん剤どうやった? やってみて。

川村 トータルでいうと、そんなにっていう。副作用が、打ってるときはそんなに強くなくてみたいな。最初の1週目だけが一番つらかったっていう感じです。本当にご飯も食べれないとか、匂いでももう吐きそうになっちゃったりとか。4人部屋だったんで他の人のご飯の匂いでやられちゃってる。

岸田 それ、結構きついね。そこは確かに、ご飯食べれなくなったときの、他の人の匂いね。分かるわ。ただ、それがだんだん慣れてったってことかな。

川村 そうですね。2週目から普通にご飯食べれるようになったりとか。

岸田 よかった。

川村 全然、違うところの副作用とかが強く出ちゃってて。

岸田 例えば。

川村 シスプラチンだと、血管の成分、血小板と白血球。赤血球の成分がガタ落ちしちゃってて。一番ピークだと白血球が1桁とか。

岸田 やばい。

川村 メソだと本当に、中年のおやじみたいなことを言われる。尿酸値が高いだの、肝機能が高いだの。いや、まだまだ20歳よ、みたいな。

岸田 そういうことがありながら、それを後半が一応、どれくらいやったん? 最終的に。

川村 シスプラチンが1週間と2週間の休養で、メソが1週間1回を2週間なんで、8カ月やりました。

岸田 8カ月は長いね。

川村 そうですね。

岸田 ありがとう。で、そこの中で抗がん剤をスタートしていき、ただ、そこからテンションが上がっていくって、言い方、悪いけど上がっていきます。何かというと、こちらは卒業試験合格。おめでとうございます。

川村 ありがとうございます。

岸田 これは。

川村 専門学校です。

岸田 専門学校で卒業するための試験があって、それに合格したということなんですね。

川村 今はちょっと違うんですけど。前は、専門学校卒業したら、介護福祉士っていう国家資格がもらえるっていう状態だったんです。

岸田 そうなんや。

川村 僕が入ってきたタイミングで、国家試験を受けなきゃいけないになっちゃって。

岸田 そうなのね。知らんかった、そういう制度。

川村 それで、卒業条件にもともと卒業試験が入っちゃってたので、僕たちの代だけ2回受けてるんですよ、試験を。

岸田 まじか。

川村 だから、二つ受かんないと卒業できませんみたいな。

岸田 そうなんね、その制度のはざまというか。

川村 制度のはざまに入っちゃってて。

岸田 卒業試験をやって合格していく。ただ、そこから下がっていきます。何があったのか。アスレチック行きたい。これは。

川村 YouTubeのほう。入院期間って暇じゃないですか。

岸田 暇。

川村 物もないし。それでYouTubeずっと見てたんですけど、そのときに運動やってるYouTuberさんがいて、アスレチックをやってる姿、見て。人間よくありますよね、できなくなってからやりたくなるっていう感じに駆られてしまって、行きたいな、やりたいなみたいな感じで思って。

岸田 で、そこから下がっていくんですね。え、卒業できない。そして、卒業式出席というふうな流れであるんですけれども。どういうこと。卒業できないって。卒業試験は合格したやんね。

川村 卒業試験をやった後も授業がありまして。本当に数回なんですけど。あと学校の定期テストも受けてないので、先生たちも結構、議論してくれたみたいで。残念なことに「ちょっと休学して、もう一回復学してもらってもいい?」みたいな話で。

岸田 学校、休む関係だったりいろんな関係でか。

川村 はい。あと3カ月ぐらいだったんですけど。

岸田 そりゃ大変、きついな。そんな中で卒業式を出席していく。卒業できないけど卒業式出席するっていう、尾崎豊ばりの、分からんけど。乗り込みに行く的な感じ。

川村 普通に、単純に同期のみんな、2年間、一生懸命、一緒に過ごしたので。卒業式見送りたいなっていう気持ちで。

岸田 そうよね。他のみんなは卒業できるけど、自分は卒業できないってなったら、そらテンション下がるわね。

川村 先生にも「意地でも行きたい」って言って。この日、僕、定期検査もあって。行きたいって前々から言ってたんですよ、先生に。でも、この日に「定期検査をどうしても来てほしい」とかって言って。

岸田 じゃあ、その定期検査行って、卒業式行って。

川村 朝一で行って、午後から卒業式開始なんで午後に行ってみたいな感じで。

岸田 バタバタな中、それでも行くという、川村君の、みんなを送ってあげたいという優しさがにじみあふれるような出来事の後、国家試験の合格。なんで国家試験合格したのにこんな低いんですか。

川村 前々から卒業ができないっていうことで、国家試験を。国家試験を受けたのが1月なんですよ。で、2月に告知なんですよ、卒業できないことが。

岸田 そうなんや。

川村 国家試験って卒業前提で合格なので、卒業見込みで受けてるので、そのときに卒業できないと資格が取れないんですよ。

岸田 そういことね。

川村 よりによって合格してるよみたいな感じ。

岸田 それはへこむな、よりによってね。ただ、そっからちょっとだけ上がっていくんですよね。こんなどん底を経験していた中でちょっと上がっていく、それは。左膝大腿骨人工関節置換手術。これはどういうこと。

川村 普通に、左膝の所を手術で人工関節を入れて。

岸田 そうなんや。じゃあそういう手術して。どうなん、左膝、人工関節にしたら、やっぱ動きとか全然違う?

川村 全然違います。稼働域の制限とかもかかってますし。

岸田 走ることはもちろん、できひんか。

川村 そうですね、フォームから見たら、足ひねった後、走ってるみたいな感じで、足引きずってる感じです。

岸田 そんな中、ちょっと下がっていくんです。何かというと、リハビリが開始していくから。リハビリ、結構、大変でした?

川村 リハビリは大変ですね、やっぱり。どちらかっていうと、僕、野球やってるときも足で活躍する選手だったので、全然できなくて。体力にものを言わせてたりとか。学校のときとかも。だから、自分の長所がなくなったっていう感じで。

岸田 それはショックやね。リハビリはどれぐらいやったん?

川村 リハビリは結局、今も。

岸田 続けてる。

川村 病院だと、1年ぐらい前まで病院でやってて、今は接骨院で稼働域を伸ばしたりとかもしてもらってます。

岸田 ってことは、日々続けてるってことやね。

川村 そうです。自分でもやったりもしてますし。

岸田 その上で、そっから上がっていきます。何か。これは抗がん剤治療の終了。さっき8カ月スタートしていく中、ようやくここで抗がん剤治療、終了していき、そこからアルバイトの再開。そして専門学校の復学をしていくという流れになります。やっぱ終了してアルバイトできたりとか復学していったら、どう? 結構、戻ってきたなって感じ。

川村 そうですね。終わったときはもう、やっと終わったっていう感じで。シスプラチンがちょっと髪抜けちゃうので、やっと髪伸ばせて。ウィッグとかも付けてたので。

岸田 そっか、ウィッグ付けてたんや。

川村 はい。今もウィッグ、飾ってあるんですけど。

岸田 ほんまに。

川村 たまに親が「暗闇で入ると怖い」って言われて。

岸田 確かに。

川村 髪の毛がバンってあるんで。

岸田 確かに。で、ようやく終了して、バイトとか復学していって。アルバイトの再開とか復学とか、周りからは普通に受け入れられて、できた?

川村 もともと入ってたアルバイトに戻ったので。辞めるときにしとこう。いろいろとお話をして、「いったん辞めるっていうのでどう?」って言われたときにも、「体調が戻ったら戻って来て」って支配人からも言われてて。

岸田 いいとこ。

川村 専門学校、入ってからだったので。

岸田 で、その後、学校にも復学していて。学校、復学もスムーズにできました?

川村 ちょうど入れ替わりの代だったので、2年後だったので。僕たちが卒業したタイミングで入ってきた子たちの代で、知らない子たちばっかだったので、ちょっと自分の中では戸惑いました。でもみんな、結構、フレンドリーに受け入れてもらえたので、そこは感謝。

岸田 それはよかった。そしてそんな中、また、一番上がっていくポイント。これは、障害者の野球に入団していくといったところですよね。やっぱ野球やりたかったって感じよね。

川村 そうですね。リハビリのときからちょいちょい、バッティングセンターでてたので、野球やりたい欲が強過ぎて、調べたらヒットしたんで。

岸田 そういうのもあんねんな。全然、知らない世界でした。さっき言ったように、ルールがちょっと違うけれども野球できるということで。その後、その下、ちょっと下がっていくんです。それは何かというと。下がっていくっていうか、YouTubeのリハビリ動画をスタートしていくってことかな。

川村 はい。

岸田 これ、どういう動画をアップしてるの。

川村 ひたすら、自分が動いてるやつとか、リハビリのトレーニングの経過とか、野球でバッティングセンターで打ってる姿とか。あと、今までやったことのないスポーツやってみたりとか。

岸田 すごい。そういう投稿をしていくという中で、じゃあ、川村君の名前、検索したら出てくるのね。

川村 名前違う。川村海斗で検索かけたら出てこないですけど。

岸田 けど、そういう自分を発信して、ちょっとやっていったということですね。

川村 僕も入院中とかも調べてたのは見たんですけど、骨肉腫とか。そういうので全然ヒットしないっていうのが現状だったので。

岸田 ちょっとでも発信しようと。そんな中。

川村 16人ぐらいですけどね。

岸田 いやいや、発信することに意味あるから、ほんまに。ちなみに、どういう言葉で検索したら出てくるんですか、動画。

川村 人工関節の水にあめ。

岸田 はい。水にあめ。

川村 で調べたらヒットします。

岸田 ということです。皆さんもぜひ、検索してみてください。そんな中、上がっていきます。これは何があったか。国家試験、国会試験になってる。国会じゃない。

川村 それはもっとめでたいですね。

岸田 国家試験に合格ということで。2回目、無事合格していったと。そして、就職していくということになってます。就職して、ちょっと下がってるのはちょっと、ね。なことない。

川村 一応、下がったっていうことにしてますけど、就職してうれしいっていう気持ちもあれば、人工関節が入って、稼働率制限がかかってるという状況下で介護職をさせていただいているので、自分がどこまでできるんだろうとか。やっぱり高齢者とか障害の方の介護をするので、支援される側と支援される側みたいな。

岸田 そういうことね。それはちょっと複雑やわ。理解した。納得した。

川村 仕事やってても、障害の方がヘルプマークを付けてます。で、僕もヘルプマークを付けてます。どっちもみたいな感じなので。

岸田 すごい言いたいこと分かります。ありがとうございます。そんな中でも川村さんは、しっかりちゃんとその中でもお仕事できているという認識で合ってますかね。

川村 はい、現状、1年間は仕事を続けて、今、2年目なので。

【お金・活用した制度】

岸田 ありがとうございます。なので、今に至ってるということです。そんな川村さん。ゲストエクストラいきたいと思います。ゲストエクストラ、こちら。活用した制度。高額療養費制度を活用され、そして、大変だったことを乗り越えた方法として、大変だったことは、メンタルの維持や、以前の自分と変わってしまった、その自分と今の自分、その擦り合わせが大変だった。

【大変だったこと→乗り越えた方法】

岸田 それらを乗り越えた方法として、散歩や気の知れた友達に発散する、ひたすらリハビリ。クラスメートからのメッセージカードをもらったりとかして乗り越えたとありますけれども、やっぱメンタルの部分、大変でした?

川村 メンタルは本当にきつくて、自分がなんでこうなっちゃったんだろうとか。卒業ができないっていうことになったりしたとき、卒業式、見に行った後とかは、ちょっと言い方悪いですけど、卒業試験、国家試験どっちか落ちちゃってる子が卒業できてるのに、一発で合格した自分がなんでっていう感じになったりとか。卒業式、見に行った後、メンタルがボロボロになって、クローゼットに穴開けちゃったりとか。

岸田 激しい。

川村 もうイライラしてて、裏拳バーンってやったら穴開いちゃって。

岸田 あるある、そういうのね。

川村 やべって。父親に怒られて。その後、すいませんみたいな。

岸田 そんな中、どういうふうに乗り越えていったんですか、川村さんは。

川村 さっきのやつにも書いてあったとおり、本当に出会った友達が良くて。メッセージカードを卒業式のときにくれたんですよ。内容的にはいろいろとあって、基本的に頑張って、待ってるよっていう。こっちの業界で待ってるから頑張ってみたいな感じで言われて。僕、そんときですかね。復学しようって思ったの。それまでは復学しようか本当に迷ってたんで。

岸田 そうなんや。それは、この先、お先真っ暗やとかそういうこと思って。

川村 真っ暗っていうより、介護の『か』の字も見たくない状態だったんで。

岸田 そうなんやね。けど、そんなメンタル落ちてた中での、友達からメッセージで復学しようと思ったと。

川村 周りの友達とか、近くに寄り添ってくれてた数名の友達にも、本当に感謝ですよね。

岸田 そんな中、ひたすらリハビリもしていったということですよね。

川村 そこまでいったら、あとは意地でもみんなの期待に応えてっていう感じで。意地でもリハビリを頑張ってみたいな。

【がんの経験から学んだこと】

岸田 さすが。そんな川村さん、がんを経験していろんな経験を、あったと思います。学んだこととしてこの言葉をいただいてます。友達のありがたさ。こちらについてお願いします。

川村 恥ずかしいな。

岸田 こういう機会だからこそね。

川村 本当に、友達のおかげで僕は復帰できた、この業界に戻って来れたりもしたので、周りの友達はありがたいなとは、本当に思いますね。メッセージカードもらったときも泣きましたし。リハビリで折れそうになったときも、そのメッセージカードを見て元気を取り戻したりしたので、本当にありがたい存在だったなとは思います。

岸田 僕もいろんな友達にメッセージカードもらったりだとかして、僕も。やっぱ夜とか自分のメンタルが落ちてるときに。

川村 夜、一番きついですよね、本当に。そういうこと考えちゃうんですよ。本当に、僕、死にたいと思ったのも数回あって。

岸田 そうなんや。

川村 夜、よくないんですよね、うちの行ってた病院が。がん病棟が5階なんです。本当にこのまま飛び降りたらって考えたこともありますし、もちろん。電車に乗ってるときも、無意識で一歩、二歩前に、黄色い線から出てたりとか。で、われに返って戻るっていうのを数回あったりとか。

岸田 ただ、そのときに、友達のメッセージカードだったりとか言葉っていうのは、本当に励みになるよね。

川村 そうですね。

岸田 よかった、一歩踏みとどまってくれてて。今はこういった自分の経験を、また今、闘病中の人だったりとかいろんな人に還元してくださって、本当にありがとうございます。そんな川村君のペイシェントジャーニー、皆さん、いかがでしたでしょうか。

岸田 こんな中には、復学のことだったり、そして、今のお仕事のことも含め、いろんな葛藤等々あったと思うんですけれども、そんな中、川村君が今後もリハビリして、もっと稼働域が良くなって、そして、障害者の野球でも活躍していってもらえたらなということを思っております。本日、ここにて終了していきたいと思います。

岸田 川村さん、本当に、きょう、お話しいただきましてどうもありがとうございました。

川村 こちらこそありがとうございました。

岸田 では、バイバイ。

川村 ありがとうございます。

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