目次
- 【オープニングトーク】テキスト / 動画
- 【河野さん紹介】テキスト / 動画
- 【ペイシェントジャーニー】テキスト / 動画
- 【ゲストエクストラ】テキスト / 動画
- 【がんの経験から学んだこと】テキスト / 動画
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インタビュアー:岸田 / ゲスト:河野
【オープニングトーク】

岸田 本日のゲストは、宮城からお越しいただいた河野さんです。どうぞよろしくお願いいたします。
河野 よろしくお願いいたします。
岸田 それでは、河野さんの自己紹介をさせていただきます。河野俊介さん。宮城県ご出身で、現在も宮城にお住まいです。お仕事はフリー、趣味はアニメ・マンガ・サッカーということで、いわゆる“アニオタ”という共通点もあります。
がんの種類はスキルス胃がん、胃がんの中でも比較的珍しいタイプで、ステージ4の告知を受けました。告知時は33歳、現在37歳。これまで化学療法、手術、免疫チェックポイント阻害剤による免疫療法など、さまざまな治療を受けてこられています。
まず、気になったのが「仕事がフリー」という表現なんですが、どういう意味なんでしょう?自由人、ということでしょうか。
河野 そうですね、自由人……ではないんですけど(笑)。実際には、仕事は今できていなくて、治療が“仕事”みたいな感覚で過ごしています。友達にも「今は治療が仕事だよ」と言われたりして、それをそのまま書きました。
岸田 なるほど。以前はどんなお仕事をされていたんですか?
河野 前職はアパレルです。服が好きで。
岸田 やっぱり!おしゃれな雰囲気が伝わってきます。背景の雰囲気もおしゃれな感じですよ。
河野 背景はあんまり関係ないです(笑)。
岸田 夜11時前の収録にも関わらず、帽子(キャスケット)も決まってますね。
河野 キャスケットが好きで、いつもかぶってるんです。キャスケット文化、もっと広めたいです。
【ペイシェントジャーニー】

岸田 ありがとうございます。それではここからは、新しい試みとして「ペイシェントジャーニー」について伺っていきたいと思います。ジャーニーは“旅路”、ペイシェントは“患者”。つまり、河野さんが歩んでこられた闘病の旅路を、感情の浮き沈みとともに振り返っていくというものです。上がポジティブ、下がネガティブ。その時々でどんな思いを抱えていたのか、率直にお話しいただければと思います。
河野 はい、分かりました。
岸田 では早速、最初のポイントです。まずは「がん告知」。多くの方がここをマイナスのスタートとされますが、河野さんの場合はいかがでしたか?33歳の若さでの告知でしたよね。
河野 そうですね。33歳で告知を受けましたが、その時点で完全に理解できていたわけではなく、それでもやっぱりショックは大きかったです。数字で表すのは難しいんですが、気持ちとしては確実にマイナスでした。
岸田 数字は本当に感覚なので、気持ちをお話しいただければ十分です。僕らが測れるものではありませんからね。
河野 そうですよね。
岸田 では次へ進みます。抗がん剤治療、シスプラチンとティーエスワンを開始されたタイミング。ここでグッと落ち込んだように見えるのですが、この時の心境を教えてください。
河野 治療が始まったことで、改めて「自分はがんなんだ」という実感が湧いた瞬間でした。告知の時よりも現実感が強まったというか、体感したのがここでしたね。その分、気持ちも大きく下がりました。
岸田 それまで実感が追いついていなかったということですね。
河野 はい。抗がん剤が始まって、ようやく現実として理解できた感じです。
岸田 続いて、手術です。グラフでは大きく上がっていますが、これはどういう理由でしょうか?
河野 最初の診断では「手術はできない」と言われていたんです。なので、抗がん剤が効いて手術が可能になったというのが、大きな希望になりました。だから一気に上がったんです。
岸田 最初から手術不可という状況だったんですね。
河野 はい。ステージ4で、余命の宣告も受けていました。手術しても回復だけが目的になるかもしれない、そんな説明でした。
岸田 胃がんが広く散っていた状態だったんですか?
河野 そうです。胃がん本体と、腹膜播種といって腹膜に目に見えないがんが散っている可能性が高いと言われて、手術不可となりました。
岸田 そこから手術が可能な状態に戻って、胃の全摘ができた。これは大きいですよね。
河野 はい、本当に大きかったです。
岸田 手術後、そのまま終わりではなく、再び抗がん剤をされていますね。
河野 はい。術後に抗がん剤を継続しました。ただ、標準治療としてはあまり一般的ではないケースだったようで、先生も手探りという中で、シスプラチンとティーエスワンを続けることになりました。
岸田 そしてその後、肺炎に。ここでも再び一段落ち込む感じですが、実際はどんな状態でしたか。
河野 肺炎と言われるまで、自分ではそこまで自覚症状はなかったんです。でもレントゲンを撮ったら即入院と言われて、そこで初めて状況を理解しました。
岸田 ここまでは、がん自体の症状はそこまで大きくは出ていなかったんですね。
河野 そうですね。肺炎で初めて「体調不良」として自覚した感じです。
岸田 ちょっと待ってください。そもそも、がんだと分かったきっかけは何だったんですか。
河野 一番最初ですね。もともと胃が痛いという症状は常にあったんです。「お腹が痛いな」という違和感で病院には行っていたんですが、スキルス胃がんは本当に発見されにくいんですよね。
岸田 そうですよね。難しいとよく聞きます。
河野 そうなんです。で、その頃、住んでいる街でバリウム検査の機会があったので、試しに受けてみようと思って行ったんです。すると、そこで「胃カメラもしたほうがいい」と言われ、胃カメラを受けたことで発覚しました。
岸田 じゃあ、街の検診を受けに行ったことがきっかけで見つかったということなんですね。
河野 はい、そういうことです。
岸田 ありがとうございます。そして、肺炎を経て、「腹膜播種・再燃・絶食」と一気にいろんなことが起きていますね。これはどういう状況だったんですか。
河野 手術ができた段階で、「腹膜には播種が無さそうだ」と言われていたんです。でもその後、腹膜播種があることが分かりまして。さらに直腸のほうが狭窄してしまっていたんです。
岸田 狭窄というのは、どういう状態でしょうか。
河野 直腸が狭まり、便が出づらくなってしまう状態です。自分でも違和感を感じていたので病院に行くと、「これは腹膜播種の再燃かもしれない」と説明されました。
岸田 腹膜播種というのは、腹膜にがんが散らばっている状態のことですよね。
河野 はい、その通りです。
岸田 消えていると思ったのに、また発覚したと。では、絶食というのはその狭窄が理由だったんですね。
河野 そうです。直腸が狭くなっているので、食事を取ってしまうと排泄ができなくなってしまう。だから絶食が必要になりました。
岸田 そういうことだったんですね、失礼しました。
河野 いえ、全然大丈夫です。
岸田 そして、そのつらい時期のあとにパクリタキセルを開始して、少し気持ちが上がるんですね。
河野 はい。治療の選択肢があるということが、自分にとって希望だったんです。「打てる治療がある」というだけで、メンタル的には少し上がりました。
岸田 ありがとうございます。ただ、その後に再び下がる出来事が。アカシジア、とありますが、これはどういうものなんでしょう。
河野 正式には「錐体外路症状」と言われるものだそうです。簡単にいうと、そわそわしてじっと座っていられない、同じ姿勢が保てない、といった状態になるんです。
岸田 はい。
河野 ずっと落ち着きがなく歩き回ったり、足を揺らしたり、座っていても立っていても同じ姿勢が続かない。自分の意思で止めようとしても止まらないんです。
岸田 なるほど。
河野 原因は脳への作用らしく、そのとき僕、睡眠導入剤を点滴で入れていたんですが、その副作用でアカシジアが起きたんです。「よくなるための薬」で逆につらい状態になるという…。
岸田 本当にしんどいですよね。
河野 はい。最初は症状の名前も知らなかったので、「自分は狂ってしまったんじゃないか」と本気で思いました。病院で先生に相談したら、「これはアカシジアという症状です」と説明があって、名前が分かっただけで少し安心したのを覚えています。
岸田 それ、僕もありました。
河野 え、そうなんですか。
岸田 あ、ありました。治療中、入院していたときのことなんですが、僕も右半身をずっと傾けてないと落ち着かないような、いても立ってもいられない状態があって。
河野 それ、アカシジアでした?
岸田 いや、当時は「耐えるしかない」と思っていて、特に説明もなく。症状だけでしたけど、今思うと、もしかしたらそうだったのかもしれません。
河野 なるほど。
岸田 すみません、話がそれました。それで、アカシジアというのは耐えるしかないんですか?
河野 僕の場合は、ずっとあの状態が続いていました。対応する薬はあるので、すぐに打ってくれたんですけど、それでもなかなか抜けなかったんです。
岸田 薬を打っても残ったんですね。
河野 はい。ずっと落ち着かず、立ったり座ったり、同じ姿勢が保てないまま。それで「やれる治療は全部やったから、あとは耐えるしかない」という状態でした。これが本当にきつかったですね。
岸田 そうですよね…。
河野 はい。僕の中では、これが一番しんどかったのかもしれません。
岸田 そんな、気が狂いそうな状態を耐えながら、その後は脱毛へ。
河野 はい。
岸田 パクリタキセルの副作用ですね。
河野 そうです。シスプラチンでは全く抜けなかったんですが、パクリタキセルで抜け始めました。
岸田 そして人工肛門。人工肛門になるというのは、どんな経緯だったんですか? 胃全摘から、どうつながるのでしょう。
河野 直腸の狭窄です。腹膜播種の再燃とされていたんですが、実際に映像で見えたわけではなく、「狭窄があるから、腹膜播種の再燃が疑われる」という状態だったんです。
岸田 なるほど、映ってはいないけれど症状から推測されたということですね。
河野 はい。そしてその段階で「人工肛門にするか、抗がん剤を続けるか」という選択肢が提示されました。ただ、人工肛門にするとしばらく抗がん剤ができないと言われていたので、まず抗がん剤治療を選択しました。
河野 しかしパクリタキセルを2〜3クール続けても直腸の狭窄は改善せず、「やはり食事は取らせられない」と言われて。そこで自分から「人工肛門をお願いします」と決めました。
岸田 人工肛門には、抵抗感のようなものはありましたか。
河野 最初はありました。かなり。それで時間をもらって考えました。でも、治療がうまくいかないこと、食べられないこと……いろんなことを考えていくうちに、抵抗感が薄れていったんです。
河野 そして実際に人工肛門になった人の声をネットなどでたくさん読んで、「自分も大丈夫かもしれない」と思えるようになりました。最終的には抵抗感はほとんど無くなっていました。
岸田 やっぱり、時間が必要ですよね。
河野 そうですね。時間は大きかったです。
岸田 ありがとうございます。そして人工肛門のあと、グラフが一気に上がっています。「ひまわり」爆誕、とありますが。
河野 はい。「ひまわり」というのは、AYA世代(15〜39歳)の患者さんたちが気軽に集まれるサークルとして、自分で立ち上げた団体の名前です。
岸田 すてきですね。それはやっぱり同世代とつながりたい気持ちが強かったからですか。
河野 はい。同世代の患者さんと話したときにもらえるパワーが自分にとって本当に大きかったんです。「1人じゃないんだな」と思えた瞬間が自分を救ったので、同じように感じられる場所を作りたかったんです。
岸田 ありがとうございます。そしてその後、患者カフェを開催し、河北新報にも掲載されたんですね。
河野 はい。ポスターを作り、新聞にも取り上げていただきました。
岸田 実際に開催してみてどうでしたか。
河野 やってよかったと心から思いました。参加してくれた皆さんからの言葉、人と会うことで得られる勇気や安心感。「1人じゃない」という実感は本当に大きいですね。
岸田 「1人じゃない」って、やっぱり大事ですよね。
河野 はい。自分も前向きになれました。
岸田 そんな、「1人じゃない」と思えた直後に…この下がり具合。何があったんでしょうか。第2回の患者カフェ、これを断念。
河野 はい。
岸田 これはコロナの影響ですか?
河野 そうです。単純にコロナがまん延してしまって、「これは開催は難しい」という判断でした。断念せざるを得ませんでした。
岸田 ただ、その後、また上がっています。
河野 はい。
岸田 何があったのか。どどん。「オンラインおしゃべり会」。オンラインにシフトしたということですね。
河野 そうです。やってみたら意外と皆さん「話す場がなかった」とおっしゃって、すごく盛り上がったんです。反応もよくて、「これはやってよかったな」と思いました。今も継続していて、本当にオンラインでつながれてよかったと思います。
岸田 そしてオンラインおしゃべり会のあと、また下がります。「増悪」。これは?
河野 造影剤CTを撮ったときの結果ですね。抗がん剤治療を続けていたんですが、そのタイミングで腫瘍マーカーが初めてどばっと上がって。「増悪してます」と言われて、かなりショックでした。
岸田 悪くなっていく数字を見るの、つらいですよね。
河野 つらいです。数字だけのようでいて、やっぱり心にきますね。
岸田 さらに続いて、肺気胸。
河野 肺気胸になりました。
岸田 肺に穴が空くやつですよね。
河野 そうです。
岸田 これは治療の副作用だったんですか?
河野 先生には「治療とは関係ないところで起きてるよ」と言われました。まったく関係ない、と。
岸田 胸腔ドレナージですよね、刺されるやつ。
河野 刺されるやつです。本当にびびりました。
岸田 僕、自分のがん手術の傷よりドレナージの傷のほうが大きいんですよ。
河野 本当ですか。
岸田 僕も副作用で肺気胸やって、胸腔ドレナージしました。手術直後くらいかな。本当に死ぬかと思った。
河野 いや、それは…笑っちゃいけないけど、同じなんですね。
岸田 そうですね、同じです。それで、その後、肝数値の異常。
河野 はい。数値が悪くなっていきました。
岸田 そしてここで医療用麻薬が出てきます。オキシコンチン、オキノーム、フェントステープ、オプソ。医療用麻薬って、なかなか聞く機会ないんですけど、実際はどうなんですか。痛みがふわーっと軽くなる感じ?
河野 はい、ふわーっとなります。痛みが強いときに投与すると、しっかり痛みが緩和されます。その分、眠気が強く出たりもしますけど。正直「麻薬」というワードへの抵抗感はありましたね。
岸田 いけないことしてる感、みたいな?
河野 そうです。「ここに手を出していいのか」という。でも、使ってみたら「我慢するより断然いい」と思いました。あれがなかったらつらかったです。
岸田 今も使ってるんですか?
河野 今も医療用麻薬を使いながら治療しています。
岸田 どれぐらいの頻度なんですか。痛くなったらすぐ使う感じ?
河野 僕は今、フェントステープを胸に貼っています。これが24時間効き続けるタイプで、1日ごとに貼り替えるんです。
岸田 24時間ずっと効くんだ…すごい。
河野 はい。そして痛みが強いときは、オプソを飲みます。これは30分おきに飲んでもいいと許可されていて、1日7〜8回飲むこともあります。
岸田 それだけ痛い中で、今こうして出演もしてくださって。
河野 「我慢しないで」と薬剤師さんにも言われていますし、依存性はないとも言われるので、必要なときは迷わず使っています。
岸田 ありがとうございます。すごく勉強になります。そしてその後、少し上がります。オプジーボ、免疫チェックポイント阻害剤ですね。今やっている治療ですか?
河野 そうです。ずっと「抗がん剤もオプジーボも打てない状態」が続いていて。ようやく「使える」と言われたので、それが嬉しくて上がりました。
岸田 効くかどうかはまだ分からない?
河野 はい。「神のみぞ知る」と先生に言われました。
岸田 本当に、効いてほしいですね。
河野 ありがとうございます。
岸田 そして最後、「訪問看護開始」。これはどういった状況だったんでしょうか。
河野 僕、痛みのコントロールがうまくできなくて、2週間くらい入院していたんですよね。ずっと痛みが強くて。でも、その痛みがようやくコントロールできるようになって、家に帰れることになったんです。オプジーボも打てるようになったんですけど、絶食は続いていて、高カロリー輸液を24時間点滴し続ける必要がありました。
点滴の針って、ずっと差しっぱなしというわけにはいかなくて、衛生面の理由で1週間に1回は差し替えが必要なんです。そういった管理を自宅で行うために、訪問看護師さんに来ていただくことになりました。針の交換や状態の確認など、全部サポートしてもらっています。
岸田 なるほど。
河野 なんでこのタイミングが「上がってる」かというと…やっぱり家に帰れたことが大きいですね。家に帰って、自分の環境で過ごしながら治療を続けられる。それがすごく嬉しくて、このタイミングでは気持ちが上向いたということですね。
【ゲストエクストラ】

岸田 そういうことですね。ありがとうございます。では、このあたりで、いくつかまとめてお伺いしたいと思います。まず「大変だったこと」。シスプラチンの副作用についてですが、これはどういった点が大変でしたか。
河野 最初に受けた抗がん剤がシスプラチンだったんですが、とにかく吐き気がひどかったです。入院しないと投与できない薬だったので、毎回入院していました。投与して6〜9日目あたりの3〜4日間は、立ち上がれないほど気持ち悪くて。さらに便秘にもなり、腹痛が強すぎて救急車で運ばれたこともあります。
岸田 その後、狭窄も進んでいきましたし、本当に大変でしたね。
河野 そうですね。1回目のシスプラチンのときに便秘がひどくて、腸を刺激する薬を飲んだら、出ないのに腸だけ動き出してものすごく痛くなってしまって…。耐えられなくなって救急車を呼びました。ただ、子どもたちは救急車にテンションが上がっていて、「わー、救急車だ!」って喜んでいました。
岸田 お父さんが運ばれていくのに、テンションが上がってしまうんですね。
河野 そうなんです…(笑)。結局病院で診てもらったら腸閉塞ではなく、ただの便秘ということで、浣腸してもらいました。
岸田 ありがとうございます。では次に「工夫したこと」。奥さまが食べやすいスープを作ってくださったそうですね。
河野 はい。吐き気が強かったので、夜中でも食べられるように、しょうがや卵を入れた優しいスープを作ってくれました。それが本当にありがたくて、気持ちもすごく支えられました。
岸田 やはり、身近で支えてくれる人の存在は大きいですね。
河野 大きいです。本当に大きかったです。
岸田 続いて「活用した制度」。高額療養費制度、傷病手当金、そして県民共済にも加入されていたとのことですが、治療費はこれらでまかなえましたか。
河野 制度を使っても、やはり厳しい部分はあります。両親にも助けてもらいました。
岸田 若い世代でがんになった場合、数百万円単位のお金が必要になりますし、支えが本当に大切ですよね。
河野 はい、そう思います。
岸田 そして次に「励まされた曲や言葉」。SEKAI NO OWARIさんの『MAGIC』という曲に励まされたそうですね。どんな部分が心に響きましたか。
河野 励まされた、というより“胸を打たれた”というほうが近いかもしれません。確か、友人を亡くしたことをきっかけに作られた曲だったと思います。YouTubeで歌っている姿を見たとき、必死に「生きる」と向き合っているような表情に見えて、その姿と歌詞にぐっと来ました。うまく伝えられていないかもしれませんが、「生きていこう」と思わせてくれた曲でした。
岸田 とてもよく伝わりました。家族のこと、曲のこと、そういったお話を聞いていると、「人生会議(ACP)」のような、もしものときどうしたいかという話し合いも、必要になる場面がありますよね。奥さまや医療者の方と、そういった話をされたことはありますか。
河野 はい、もちろん話し合う時間はありました。「こういうときどうしてほしいか」という内容ですね。たしかに話すのは怖い気持ちもありますし、縁起でもないと感じることもあるんですが、現実と向き合う意味では必要だと感じています。避けて通れないことですし、向き合うことが逃げないことだと思っています。
岸田 強いですね。
河野 いえ、そんなことは…実際はビビり倒してますよ。先日も、Twitterで「治療法がないかもしれない」という気持ちを吐き出したりしていましたし。医師から「オプジーボもおすすめしない」と言われたりもして…。ただ、僕としては「やれることは全部やっておきたい」という気持ちがあるんです。それがツイートにも出たんだと思います。
岸田 1,000件以上“いいね”がついていましたよね。すごく多くの方が応援していました。
河野 本当に励みになっています。感謝しかないです。
岸田 僕、“いいね”押すの忘れてました。
河野 おいおい、岸田さん(笑)。
岸田 すみません(笑)。
河野 でも、ありがとうございます。
【がんの経験から学んだこと】
岸田 ありがとうございます。ではここからは、河野さんの「がんの経験から学んだこと」を伺いたいと思います。こちらの言葉を挙げていただきました。

河野 「当たり前のことが当たり前じゃない」。学ばせてもらった、そんな実感があります。
岸田 この言葉の意図を伺ってもよいでしょうか。
河野 普通に朝起きて、子どもたちと遊んで、妻と会話して…。最近は『フォートナイト』というゲームにハマっているんですが、子どもたちと一緒にプレイして、逆に怒られたりして。「そっち行かないで!」とか「パパ、なんでそっち行くの!」とか(笑)。
こうやって日常を過ごせることが、じつは当たり前ではないんだと気付いたんです。普通の日常って、本当に宝物なんだと実感しました。
岸田 すてきな言葉ですね。「当たり前のことが当たり前じゃない」。とても深いメッセージだと思います。他に伝えておきたいことはありますか。
河野 そうですね…ひとつだけ、AYA世代についてお話しさせてください。
岸田 ぜひ、お願いします。
河野 僕もAYA世代に該当しますが、闘病の中で同じ世代の方に出会う機会は正直少ないんです。でも会えたときには、本当に大きなパワーをもらえる。同世代の存在って、「自分はひとりじゃない」と思わせてくれて、心の支えになります。
だからAYA世代の輪を、少しでも広げていけたらと思っていますし、「AYA世代」という言葉だけでも知ってもらえたら嬉しい。そんな気持ちです。
岸田 すてきなお話です。ありがとうございます。
河野 ありがとうございます。
岸田 宮城の若い患者さんは、ぜひ『ひまわり』を検索していただければと思います。本日のゲスト、河野さんでした。本当に今日はありがとうございました。
河野 ありがとうございました。
※本ページは、経験者の体験談を扱っております。治療法や副作用などには個人差がございますので、医療情報に関しましては主治医や、かかりつけの病院へご相談、また科学的根拠に基づいたWebページや情報サイトを参照してください。
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