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インタビュアー:岸田 / ゲスト: 守村

【オープニング】

岸田 それでは、がんノートminiを始めていきたいと思います。本日のゲストは守村さんです。よろしくお願いします。

守村 よろしくお願いします。

岸田 よろしくお願いします。白い眼鏡、とてもお似合いですね。

守村 ありがとうございます。

岸田 眼鏡には何かこだわりがあるんですか?

守村 こだわりというほどではないんですが、真面目な場面では黒いフレーム、普段は白いフレームと、気分や場面で使い分けています。

岸田 なるほど。真面目なときは黒、普段は白。ということは、今日は“普段の守村さん”ということですね。

守村 そうですね、はい。

岸田 今日は真面目モードではなく、ゆるりとお話ししていきたいと思います。それでは、守村さんの自己紹介をご紹介します。
守村 肇(もりむら・はじめ)さん。北海道のご出身で、現在も北海道にお住まいです。大学院生でいらっしゃって、趣味は筋トレ、ピアノ、運転、温泉……多趣味ですね、守村さん。

守村 ありがとうございます。

岸田 運転とありますが、普段はどれくらい走られるんですか?

守村 最近だと、気が向いたら帯広まで行く、みたいなことをしています。

岸田 帯広ということは、北海道の中でも札幌からですよね?

守村 はい。4時間くらいなら気軽に運転しますね。

岸田 すごいですね。あと、温泉とありますが、北海道でおすすめの温泉はありますか?

守村 函館に向かう途中に“濁川(にごりかわ)温泉”というところがあって、すごく熱いお湯があるんですよ。中学生くらいの頃から、その熱い湯に挑戦するのにハマってますね。

【ペイシェントジャーニー】

岸田 熱い温泉に挑戦する……ストイックですね。このストイックさが後の話にもつながってくるわけですが。
さて、守村さんのがんの種類は「上咽頭がん」で、ステージは4。のちほど詳しく伺っていきます。告知年齢は23歳、現在24歳。治療は、手術・薬物療法・放射線治療など、さまざまな治療を受けてこられました。

 そんな守村さんのペイシェントジャーニーがこちらになります。上へ行くほどハッピー、下へ行くほどアンハッピーなグラフなのですが……かなり下がり続けていますね、守村さん。

守村 そうですね。だいぶつらかったので。

岸田 ありがとうございます。では、2019年・22歳頃から順に振り返っていきたいと思います。
卒業研究、そして大学院進学とありますが、どんな研究をされていたんですか?

守村 生き物について調べる研究で、学問的には生態学を専攻していました。

岸田 生態学……聞くと難しそうですが。

守村 『ダーウィンが来た!』みたいな感じです。

岸田 あのテレビ番組のような。それはリアルに来られると困りますけどね(笑)。

守村 さすがにもういないので(笑)。

岸田 夢に出てきたら怖いですね。そんな生態学を研究されていて、当時はまだ気持ちもポジティブだった。しかしそこから徐々に下がっていくわけです。
まず「白くて固い鼻水」。……白くて固い、とはどういう状態ですか?

守村 鼻の内側から“生えている”ような感じで、勢いよく鼻をかむと、ぶにぶにしたものが出てくるんです。それが6月〜7月くらいの間ずっと続いていました。鼻をかむたびに気持ち悪い“ぶにぶに”が出てきて、「何これ?」っていう状態でした。

岸田 鼻をかむと白いぶにぶにしたものが出てくる……。怖いですね。

守村 奥のほうに何かあるんだけど、手は届かない、そんな感じでした。

岸田 鼻の異変から始まり、ここからさらに下がっていきます。「病院を巡る」というところですが、いろんな病院に行かれたんですか?

守村 はい。鼻に異変があるなら耳鼻科、体調が悪いなら内科……という感じで、近所の病院をいくつも回りました。でも原因は分からず、体だけがどんどん疲れていく、そんな日々でした。

岸田 固い鼻水のような症状を見ても、お医者さんには原因が分からなかったんですね。

守村 はい。特に病名がつくわけでもなく、「疲れじゃない?」みたいな、曖昧なままでした。

岸田 若い世代では “なかなか病名がつかない状態” ってありがちですよね。そこからさらに調子が落ちて、次は「飲み込みが大変」とあります。食べ物を飲み込むのが?

守村 はい。食べるのも飲むのも、大きなものが喉を通らないくらい、喉がしんどくて細くなっていたんだと思います。鼻がおかしかったのに、今度は喉もおかしい、という状態まで悪化していました。

岸田 飲み込みが大変だと、気分も下がっていきますよね……。
さらに谷が深くなるポイントに、「首の痛み」と「発熱」があります。これはどんな痛みだったんですか?

守村 首全体が常に痛くて、頭が少し揺れるだけで痛いんです。ひどいときは車に乗るだけでコルセットが必要なくらいでした。

岸田 ヘルニアの人みたいな状態ですね。

守村 まさにそんな感じです。毎日、その姿勢を維持していないと痛い、という状態でした。

岸田 そしてそれが発熱にもつながっていたんですか?

守村 はい。毎朝のように熱が出て、二十何日間か続きました。

岸田 39度くらいですか?

守村 いえ、7度4分くらいがずっと続く感じです。

岸田 地味だけど、ずっと続くと本当にしんどいんですよね。

守村 内科で点滴を受けても、次の日にはまた熱が出る……。「体は回復したんじゃないの?」っていうのに、原因不明で、ただただつらかったです。

岸田 なるほど……。そんな中、つらさが限界で休学することに。学校に通うのが難しい状態だったんですね?

守村 はい。とても無理でした。車の揺れも首が耐えられないし、自転車に乗るなんて絶対に無理。食べ物も食べられない。研究のつらさと体のつらさが重なって、心もすっかり参ってしまって、研究どころではありませんでした。

岸田 ただ、ここから少し気持ちが上向いていきます。それはなぜかというと……「上咽頭がん」の告知。いろいろな要因があると思いますが、まず“告知で気持ちが上がる”というのは、さまざまな病院を巡って、ようやく良い病院に巡り会えた、ということも大きかったのでしょうか?

守村 そうですね。小さな病院では原因が分からなかったので、大きな病院でCTなどの画像を撮ってもらいました。すると、原因は分からないけれど“頭蓋骨の右側だけ穴が開いている”ということが分かったんです。

岸田 ちょっと待ってください……えらいパワーワード出ましたね。「頭蓋骨の右側に穴が開いている」。

守村 普通は左右対称で穴なんて開かないはずなのに、僕の場合は右側だけ大きく穴が開いていたんです。「こんなわけがない」となって、精密検査をしたところ、悪性腫瘍が頭蓋骨を溶かしていることが分かりました。悪性腫瘍、つまり“がん”なので、すぐ入院という流れでした。

岸田 がんが頭蓋骨をくり抜いていた、ということですよね?

守村 はい。浸食して骨を溶かしながら広がっている状態でした。

岸田 やばい……。当時、ステージ4だったんですよね?

守村 そうです。

岸田 転移もしていた?

守村 転移というよりは、“他の器官に影響を与えている状態”がステージ4になるので、頭蓋骨を溶かすほど広がっていた時点で、かなり危険な状況でした。「このままだと脳にも影響が出る」と言われ、すぐ入院になりました。

岸田 そりゃそうですよね……頭蓋骨が溶けていたら、脳も危ないですもんね。
ただ、皆さんこのグラフ、赤色がポジティブ、青色がネガティブ、白色はニュートラルなんですが、上咽頭がんの告知が“ポジティブ”に分類されているんです。どういう意味なんでしょうか?

守村 もちろん驚きました。でも、それまで半年以上、原因不明のつらい症状に苦しんできて……。“自分がなぜ苦しいのか”が分からなかったんです。

 なので、診断名がついて「原因が分かった」というのは一つ安心材料になりましたし、“がん”という名前が付く病気なら治療法も確立されているだろうという希望もありました。
 今まで漠然とした不安の中にいたところに、少し光が差したような感覚があったんです。それで気持ちが上がりました。

岸田 分からないままつらい時間が続くより、病名が分かって治療の道が見えた方が安心しますよね。それで上がったと。
そのあと、さらに少し上がるのが「手術」。開頭手術です。まず手術されたんですね。どんな手術だったんですか?

守村 がん細胞は右の鼻の奥にあったのですが、右脳に血を運ぶ血管のすぐそばにまで広がっていました。その状態で放射線治療をすると、血管が壊れて脳内で出血してしまう危険がありました。

 そこでまず、“その血管を塞いで安全を確保する”ために、別の場所から血液の通り道を作る“バイパス手術”を先に行いました。

岸田 めちゃくちゃ難しそうな手術ですね……。

守村 そうですね。確か世界で7例目とか、とても珍しい手術方法でした。

岸田 7例目!? とんでもない……。手術はうまくいったんですよね?

守村 はい。右腕から血管を採取して、右脳につながる新しい血管の経路を作りました。今は普通の人とは違うルートで右脳に血が流れています。

岸田 腕の血管を移植したんですね。

守村 自分の血管なので拒絶反応が起きないんです。

岸田 しかも手術は1日だけじゃなかったんですよね。何日かに分けて?

守村 はい。初日は全身麻酔で8時間かけて新しい血管をつくり、翌日は再び全身麻酔で、元の血管をカテーテルで塞ぐ手術をしました。

岸田 二日連続で大手術……。本当に大変だったと思います。

 そしてその後、薬物療法に入っていくわけですが、セタキセル・シスプラチン・5FUという抗がん剤を使用されたんですよね。抗がん剤というと、副作用で“下がる”ことが多いイメージなんですが、守村さんの場合は“上がっている”。これはどういうことなんでしょうか?

守村 やっと本格的な治療が始まったという安心感が大きかったですね。抗がん剤も、後半はつらいですが、序盤は「薬入ってるな」くらいの感覚で、そこまできつくなかったです。“ここから治すんだ”という気持ちで気分は落ち着いていました。

岸田 ただ、副作用は大変だったんじゃないですか。

守村 そうですね。髪が抜けること自体は正直どうでもよかったんですが……。劇薬が体に入ることで気分が悪くなって食事が食べられなかったり、薬の影響を出すために毎日2リットルの水を飲まないといけなかったり。腎臓や膀胱など、体の内側に負担がかかる感じがして、つらかったですね。

岸田 そうですよね。体重もずっと管理されて、少しでもオーバーしたらすぐ利尿剤を入れられて、どんどん出して……。

守村 はい。本当にたくさん出しました(笑)。

岸田 そんな治療が続く中で、気持ちのグラフは大きく下がっていきます。“一番の谷”ともいえるのが、放射線治療。70Gyほどの照射をしたと聞きましたが、この放射線治療はどれくらいの期間だったんですか?

守村 全部で35回、1カ月半くらいです。

岸田 なるほど。70Gyの照射……。そして、これがグラフの中で最も下がっているということは、一番つらい治療だったんですね?

守村 はい、一番きつかったです。

岸田 例えばどんなところがつらかったんでしょう。

守村 僕はこの辺(上咽頭)にがんがあって、この周囲に放射線を当てるんですが……その結果、唾液が出ない、喉が腫れる、などの副作用が出ます。その中で一番つらかったのが、“自分の唾で溺れる”という状況でした。

岸田 何それ……。頭蓋骨の穴に続いて、またもパワーワード。“自分の唾で溺れる”。

守村 喉が腫れすぎて細くなり、さらに放射線でどろどろの唾液になるんです。それが喉に詰まって呼吸ができなくなる。気道確保のためには全部吐くしかなくて、反射的に吐く。そのときに胃酸も一緒に上がってきて、胃酸で喉が焼けてまた腫れる……。これを毎日繰り返していました。

岸田 唾を飲み込もうとして飲み込めず、吐いたら胃液で焼かれる……そのループ?

守村 はい。吐いて“熱い”ってなる、これが毎日続いていました。後半は特につらかったです。

岸田 それは……つらい。どうするんですか、それは。耐えるしかない?

守村 耐えるしかないですね。治療が終わるのを待つだけです。

岸田 治療が終わったら、だいぶましにはなる?

守村 ただ、症状は遅れてやってくるので、治療が終わっても2週間くらいは喉の違和感や痛みが残っていました。

岸田 そうするとご飯なんて食べられないですよね。この時期。

守村 無理です。完全に無理でした。

岸田 どうしてたんですか? ご飯。

守村 ほぼ1カ月は点滴ですね。固形物は2カ月くらい食べられなかったので、病院のミキサー食のようなものを飲み込んでいました。

岸田 普通のご飯を食べられるようになるまでどれくらいかかったんですか。

守村 治療が終わって1カ月くらい経ってやっと“ぐちょぐちょのご飯”が食べられるようになって、それ以降少しずつですね。

岸田 2〜3カ月はかかった感じですね。

守村 そうですね。

岸田 そんな一番つらい時期を経て、そこから気持ちが少し上がっています。“希望が見えてくる”。治療が終わり、退院もして、その後は“就職活動”。大学院生ですもんね。就職活動は、どういう意味で気分が上がったんでしょうか?

守村 今まで病院のベッドで、コロナ禍もあって「基本、病室から出るな」と言われていて。1日のうち23時間はベッドにいる生活だったんですよ。

岸田 なんで23時間? 残りの1時間はどこへ?

守村 放射線治療のときだけですね(笑)。あとは点滴棒を引きずりながら移動するくらいで、ほとんど動けなかったんです。

 それに比べると、自分の足で歩けるようになり、画面越しとはいえ人事の方と会話ができる“社会活動”に戻れた感じがありました。就職活動は、社会にまた戻っていく入口で、とても刺激的で、楽しかったです。

岸田 リモート就活ですよね? 面接などもオンラインで。

守村 そうです。

岸田 今の就活ってどうなんですか? 普通の面接官と同じように、淡々とやり取りする感じ?

守村 はい。こんなに明るく話さず、もっと事務的に、質問に答えて“さよなら”って感じです。

岸田 そのときは黒い眼鏡?

守村 もちろん真面目モードで黒ですね(笑)。

岸田 真面目モードで就職活動を進めていく中で、気になることがあります。がんのことを就活時に企業へ伝えたかどうか。これは多くの学生さんが悩む部分だと思うんですが、守村さんはどうされましたか。

守村 僕は、伝えました。

岸田 伝えたんですね。企業さんの反応はどうでした? さまざまですか?

守村 最初は驚かれる、というのが一番多いですね。23歳でがん、というのはやはりイメージが湧きにくいようで、「どういうこと?」「どこが?」「なんで?」「どんな症状だったの?」と、かなり容赦なく聞いてくる方もいました。

岸田 それに対しては、淡々と答える感じですよね。

守村 そうですね。医師からの診断どおりに「就労可能です」「ただし通院は必要です」「働くことはできます」と、事実だけをお伝えしていました。

岸田 ありがとうございます。守村さんはしっかり説明されたんですね。
そしてそこから、グラフがまた下がっていきます。“満身創痍”。これはもう身体的にかなりきつかった?

守村 そうですね。気持ちは退院して盛り上がっているし、「就活だ!」という感じなんですが、身体が全くついてこなくて。抗がん剤が入ってからまだ4〜5カ月、放射線治療が終わったのも年末で、まだ回復が進んでいない時期でした。

 少し外を歩いただけで足が痛くなるし、横向きで寝ていたら気づいたら膝の内側に青あざ……。体が芯からボロボロなのを毎日痛感していました。「働きたいけど、本当に働けるのかな?」という不安もありましたね。

岸田 そんな中、“10社連続不採用”。心もだいぶきつくなっていたんじゃないですか?

守村 来るものはありましたね。「がんになった人間はみんな無価値なのかな」と思い込んでしまっていた時期もあります。

岸田 分かります。不採用が続くと、そう思ってしまうよね。でも、そのあと上がるんです。“内々定”。

守村 ありがとうございます。

岸田 内々定、おめでとうございます! どういう会社で、どんなご縁があったんですか?

守村 最初はあまり見ていなかった業界だったんですが、僕は看護師さんがすごくかっこいいと思っていて。社会機能や地域社会を支える仕事に魅力を感じていたので、いろいろと幅広く見ていました。

 その中で出会った会社の人事の方に「去年、がんでした」と伝えたところ、それはそれとして受け止めた上で、僕自身の“就労能力”を正当に評価してくれました。そこから選考を進めていくと、とてもスムーズに進んで内々定をいただきました。

岸田 良かった。本当に良かった。来年4月から働かれるんですよね?

守村 はい。

岸田 そして、そのためというのもあるんでしょうか。その後“本格的なリハビリ”を始めたと。
本格的、と書かれてますが……どんなリハビリを?

守村 まずは筋トレをかなり本格的に始めました。

岸田 筋トレ、好きなんですね。

守村 もともと好きなんですよ。退院したとき、今年の抱負として「毎日散歩をする」と決めて実践していて。今年の正月、体がボロボロだった頃から始めて、もう270日くらい散歩しています。少しずつ体が戻ってきて、動けるようになってきました。それで、来月からアルバイトも始める予定で、社会復帰に向けてようやく具体的に動き出しているところです。

岸田 なるほど。満身創痍の状態から、毎日の散歩で体を慣らして、また筋トレもできるようになってきたと。筋肉は全てを解決しますからね。

守村 はい。

【大変だったこと→乗り越えた方法】

岸田 それではここで、次のゲストエクストラに移っていきたいと思います。「大変だったこと・困ったこと」。守村さんには “情報収集” と “人生設計” と書いていただきました。この意図を教えていただけますか。

守村 まず、突然「あなたはがんです」と言われたとき、そもそも“がんとは何か”というところから始まって。さらに「上咽頭という部位があるらしい」「上咽頭がんって、70代で酒とタバコをやめられないおじさんの病気らしいけど、なんで自分が?」といった疑問がどんどん出てきました。

 治療法もよく分からない、治ったあとも通院が必要かもしれない、じゃあどこで働くのか──。がんと分かった瞬間から、分からないことが山ほど出てきて、そのたびに不安が押し寄せる。それが一番困ったことでした。

岸田 分かります。僕もこういう活動をしているので上咽頭の場所がどこか分かりますけど、普通の大学生だと「首の上あたりかな?」って思いますよね。でも実際は鼻の裏側というか、もっと奥の場所。

守村 そうなんですよね。

岸田 そして“人生設計”。がんをきっかけに大きく変わったということですか?

守村 そうですね。大学院に入って研究は大変だけれど頑張って、院卒でどこかの会社に入るつもりでいました。でも突然、通院が必要な基礎疾患持ちになってしまって。

 「じゃあ病院のそばじゃないとダメかな」「退院した直後は実家に戻るべきかな」など、生活や将来の選択肢を大きく考え直す必要があって……。人生設計を再構築するのは大変でした。

岸田 ありがとうございます。それをどう乗り越えていったのかというと──守村さんの場合は“積極的に周りに相談する”とあります。具体的にはどんなふうに?

守村 医療に関する専門知識や用語は、近い年齢の看護師さんに聞いたり、難しければ看護師長さんに聞いたり。治療方針が分からなければ医師に質問する。食事や栄養は栄養士さんに相談する。

 治療に関係ない悩みも、理学療法士さんに愚痴ったりしていました。人生設計については、友達の職場に“病気と戦いながら働いている人”がいると聞いて、その人たちがどんな制度を使って働いているのかを調べてもらったりもして。そうして周囲から情報を集め、自分ならどうしようかと考える──その積み重ねで乗り越えていきました。

岸田 看護師さんや看護師長さん、理学療法士さん、栄養士さん……本当にいろんな人に相談したんですね。家族にも頼った?

守村 もちろんです。ひたすら愚痴ってました(笑)。

【がんの経験から学んだこと】

岸田 続いて、守村さんに伺いたいのが「がんの経験から学んだこと」です。こちらに“生きているってすごい”という言葉をいただいています。とてもシンプルですが、すごく深い言葉ですよね。こちらについて、お話しいただけますか。

守村 僕も含めて、多くの人は、物心ついた頃から“教育を受けて、どこかの会社に就職して、老後がある”という人生を自然と想定していると思うんです。でも僕は、がんになって基礎疾患を持つ身になり、入院中には三つ隣の患者さんが亡くなることもありました。

 がんの場所によっては、喉を失う可能性もあった。さらに僕の場合、統計的には20%の確率で命を落としていた状況だったんです。
 そうした現実を目の当たりにすると、“当たり前に生きていること自体が、実はすごいことだ”と痛感しました。

 働いている友達の中には「税金高いな」と愚痴る人もいます。でも、親世代や患者会には“働いていたのに、がんが治らず、障害年金で暮らすしかなくなった”という方もたくさんいます。

 そんな方々でも、なんとか生きていける福祉制度が日本にはあって、そういう制度を使ってでもいいから“生き続けられること”そのものが、すごく価値あることだと感じました。

 だから、みんなそれぞれ不幸を感じることはあるかもしれないけど、少なくとも僕は、この経験を通して“生きているだけで幸せだな”と、強く思うようになりました。

岸田 ありがとうございます。本当に、がんを経験することで感じることって、深くて大きいですよね。
今日の守村さんのがんノートmini、皆さんいかがでしたでしょうか。低空飛行の時期が長かったと思いますが、その中にもポジティブな瞬間があり、治療、そして就職活動を経て、今の守村さんがいる。とても力強いお話でした。

 今、就職活動に悩んでいる方にも、何か参考になる部分があれば嬉しいなと思います。
 本日は守村さん、本当にありがとうございました。

守村 ありがとうございました。

※本ページは、経験者の体験談を扱っております。治療法や副作用などには個人差がございますので、医療情報に関しましては主治医や、かかりつけの病院へご相談、また科学的根拠に基づいたWebページや情報サイトを参照してください。
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