目次

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インタビュアー:岸田 / ゲスト:後藤

【オープニング】

岸田 ライブ配信開始ということで、「がんノートorigin」をスタートいたします。どうぞよろしくお願いいたします。改めまして、自己紹介をさせていただきます。NPO法人がんノートの代表理事を務めております、岸田と申します。本日、MCを担当させていただきます。私は25歳と27歳のときに、胚細胞腫瘍という比較的珍しいがんを経験しました。抗がん剤治療や手術などを経て、現在に至っております。

 当時、医療情報については医師や病院から多くの説明を受けることができましたが、それ以外の情報、たとえば「家族にどのように打ち明けたのか」「治療費やお金のことはどうしたのか」「仕事との両立はどうしていたのか」といった、患者側の実体験に基づく情報は、まだまだ少ないと感じていました。しかし、患者さん同士で話をすると、そうした問いには率直に答えてくださることが多く、これらの情報こそが非常に大切なのではないかと考えるようになりました。

 そこで、インターネットを通じてインタビューを行い、患者さんの声を共有する場として「がんノート」を立ち上げました。そして、この「がんノートorigin」は、その原点となる企画で、90分のロングインタビュー形式でお届けしています。本日は、骨髄異形成症候群を経験された後藤千英さんにお越しいただき、じっくりとお話を伺っていきたいと思います。後藤千英さん、どうぞよろしくお願いいたします。

後藤 よろしくお願いいたします。

岸田 それでは早速ですが、後藤千英さんの自己紹介をお願いしたいと思います。こちらにプロフィールをご用意しておりますので、読んでいただけますでしょうか。

後藤 はい。後藤千英と申します。名前は少し珍しく、「ちえい」と読みますが、普段は「ちえさん」や「ちえちゃん」と呼ばれることが多いです。職業は会社員で、出身は香川県高松市、現在は仕事の都合で広島に住んでいます。仕事は営業職で、家庭用品、いわゆる生活雑貨を扱う商社にて、販売業務を担当しております。

 病気は「骨髄異形成症候群」といい、あまり聞き慣れない方も多いかと思います。この病気は高齢の男性に多いとされており、患者さんの年齢の中央値も比較的高いのが特徴です。そのような病気を、私は17歳、高校2年生のときに診断されました。現在は44歳になります。

 私の場合、発症から実際に治療を受けるまでの期間が非常に長かったことが特徴です。骨髄異形成症候群は「症候群」と名の付く通り、症状や経過にさまざまなパターンがあります。その中で私は、長期間の経過観察を経て治療を受けるタイプでした。治療としては薬物療法を行い、最終的には骨髄移植、正確には造血幹細胞移植を受けました。現在は経過観察中ですが、元気に会社員として働いております。本日はどうぞよろしくお願いいたします。

岸田 よろしくお願いいたします。千英さんのお話を伺って、骨髄異形成症候群は男性の高齢者に多い病気なのだと、改めて感じました。

後藤 そうなんです。多くの病気には患者さんの年齢の中央値がありますが、この病気は特に高齢の方に多いとされています。また、「骨髄異形成症候群」と聞いても、すぐに血液の病気だとイメージできる方は少ないのではないかと思います。実際、私自身も告知を受けたときは、「それは一体何の病気なのか」という印象でした。今ご覧になっている方の中にも、同じように感じている方がいらっしゃるのではないかと思います。

岸田 正直なところ、私も以前は骨髄異形成症候群は、がんではないのではないかと思っていました。ただ、血液の数値によっては白血病に移行する可能性がある、という理解で合っていますでしょうか。

後藤 はい。血液の病気は互いに連続性があります。たとえば、再生不良性貧血という良性の疾患と骨髄異形成症候群には重なる部分がありますし、骨髄異形成症候群と急性骨髄性白血病にも共通点があります。

 いずれも骨髄という造血器のどの段階で異常が起きるかによって病名が変わる、という考え方になります。そのため、完全に切り離された病気というよりは、連続したスペクトラムの中にある疾患だと理解されています。

【発覚から告知まで】

岸田 なるほど、そのような病気なのですね。私自身も、今回あらためて勉強させていただきたいと思っておりますので、ぜひよろしくお願いいたします。

 それでは早速ですが、千英さんに、発覚から告知までのお話を伺っていきたいと思います。先ほどのお話では、17歳のときに発覚し、診断が確定したのは29歳頃だったということでしたが、どのような経緯で病気が見つかり、告知に至ったのかをお聞かせください。まず、17歳当時、どのようなきっかけで異変に気づかれたのでしょうか。

後藤 当時は1995年で、今思うとかなり昔の話になります。私自身は高校生で、1995年の1月、阪神・淡路大震災が起きた年でしたので、その時代背景も含めて強く記憶に残っています。

 その頃、私はバスケットボールに打ち込んでいて、比較的強豪校で本格的にプレーしていました。日々かなり激しい練習をしていたのですが、ある朝、目が覚めると突然、手の甲がぽこっと腫れていたんです。前日も本当に限界まで走り込んでいたので、「今日は休めるかもしれない」と、正直なところ少し安心した気持ちもありました。

後藤 これはさすがに無理だと思い、病院を受診しました。手が腫れていたので、打ち身なのか骨折なのかも分からない状態で、まず整形外科に行ったのですが、当時としては珍しく、その先生が血液検査をしてくださったんです。1995年頃は、今のように若い人が気軽に血液検査を受ける時代ではなかったと思います。

 その結果、「かなり強い貧血があるので、大きな病院を受診してください」と言われたのが、すべての始まりでした。

岸田 確かに、整形外科で血液検査をするというのは、あまりイメージがないですね。

後藤 そうなんです。高校生の女子が手を腫らして来たので、「レントゲンも撮るけれど、ついでに血液検査もしておこうか」という、本当に軽い判断だったと思います。でも今振り返ると、その先生は本当にファインプレーだったと思っています。

 その後、「血液内科」という診療科があることを、私はそのとき初めて知りました。

岸田 血液内科なんて、普通はなかなか知る機会がないですよね。

後藤 本当にそうで、「血液内科って何?」という状態でしたし、「そんな科、どこの病院にあるの?」という感覚でした。街中を歩いていても見かけませんからね。

 そこで、地元の総合病院を受診し、血液内科に行きました。初診だったので午前中に受診し、血液検査やレントゲンなどの比較的軽い検査を行いました。その結果を見た先生から、「これはもう少し詳しく調べたほうがいいですね」と言われ、その日の午後に「骨髄を調べさせてください」と告げられました。

岸田 それは怖いですね。

後藤 とても怖かったです。「骨髄って何?」という状態でしたし、高校生の女子にとっては、聞いたこともない検査でした。その日は母と一緒に来ていたのですが、「一度お昼を食べて、また戻ってきてください」と言われたんです。

 正直なところ、母に「もう午後は行かなくていいんじゃない?」、「怖いからやめよう」と言ってしまいました。

岸田 行かない、という選択肢も頭をよぎりますよね。

後藤 はい。本当は行きたくなかったのですが、母はやはり連れて行きました。「検査が終わったらケーキを食べに行こう」などと言われて、半ば引きずられるような形で戻りました。

 そこで、人生で初めて骨髄検査を受けることになりました。当時の骨髄検査は、今とは違っていて、太いボールペンの芯ほどの針を胸に刺して行う方法だったんです。

岸田 胸からですか。

後藤 はい。骨髄というのは骨の中にある組織で、そこに造血幹細胞があります。それを採取して調べる検査なのですが、当時は胸から行う先生もいました。私の主治医は胸から行う方法で、横になって「少し痛いですよ」と言われながら検査を受けました。

 実際には「少し」どころではなく、とても痛かったという記憶が今でも鮮明に残っています。

岸田 今は胸からはやらないんですね。

後藤 今は原則として胸からは行わないそうです。心臓に近く、リスクが高いためです。現在は主にお尻の大きな骨、大腿骨の付け根あたりから採取することが多いそうです。ただ、病状が進行するとそこから採れなくなり、やむを得ず胸から行う場合もあるそうですが、以前に比べるとかなり減っていると聞いています。

岸田 なるほど。そこで骨髄を採取して、その後はどうなったのでしょうか。

後藤 「1週間後くらいに、また来てください」と言われ、検査結果を聞きに行ったところ、「骨髄異形成症候群です」と告げられました。正直なところ、先ほど岸田さんがおっしゃっていた感想とまったく同じで、「それは何ですか?」という状態でした。母も「紙に書いてください。どういう漢字ですか」と先生にお願いし、先生がさらさらと病名を書いてくださったのを見て、「ああ……」と、よく分からないまま受け止めていた記憶があります。

 そのときが1月だったのですが、「もうすぐ春休みが来ますよね。その春休みには入院してください」と、最初に言われました。また、私がバスケットボールを本格的にやっていることを先生もご存じだったので、「バスケは今日からやめてください。もう走っている場合ではありません。今すぐやめてください」と言われたんです。

 それが本当にショックでした。昨日と今日で、私は何が変わったのだろう、と。昨日までと何も変わっていないはずなのに、急に「やめてください」と言われて、気持ちが追いつきませんでした。

岸田 手の甲が腫れたくらい、という感覚ですよね。

後藤 そうなんです。昨日まであれだけ必死に走っていた自分が、休みたいと思っていたくらいだったのに、「もうやめてください」と言われると、「え?」という気持ちになりました。

岸田 そのとき、骨髄異形成症候群という病名は、お母さまと千英さんに、その場で告げられたということですよね。

後藤 そうですね。当時は、今ほど丁寧に告知をする時代ではなかったと思いますが、その先生は割とはっきり伝える方でした。もし「白血病です」と言われていたら、もしかすると違う伝え方だったのかもしれませんが、いわばグレーゾーンの病気だったこともあって、比較的ストレートに告げられたのだと思います。

岸田 なるほど。そこから治療に入っていくわけですね。ここからは、治療から現在までのお話を伺っていきたいと思います。次のフリップはこちらになります。2009年……あれ、結構時間が飛んでいますね。

後藤 だいぶ飛びましたね。

岸田 1995年1月から、かなり時間が空いていますね。ちなみに1995年10月からは『新世紀エヴァンゲリオン』のテレビアニメが始まった年でもありますが、そのあたりはひとまず置いておいて、コメントもいただいておりますので、少し読ませていただきます。

 よしさんから「おはようございます。今日も楽しみです」、mikaさんからも「おはようございます。楽しみにしています」とコメントをいただいています。加地さん、Jitsuharaさんからもコメントをいただいており、「後藤さん、今日はオフィスからですか?」という質問も来ています。

後藤 分かりますか。今日はWi-Fi環境の良い場所に来ています。

岸田 Wi-Fi環境の良い場所からお届けしています。「整形外科の先生、すごいですね。何かピンと来たんでしょうね」というコメントや、「ご無沙汰しております。お元気そうで何よりです」といったメッセージも届いています。

 皆さん、ぜひコメントや質問をお寄せください。後ほど、千英さんにも質問していきたいと思いますので、引き続きよろしくお願いいたします。

【治療から現在まで】

岸田 それでは、治療から現在までについて伺っていきたいと思います。先ほどのお話では、1995年から一気に2009年へと時間が飛んでいましたが、これは私の推測ですが、その間は治療をされていなかったということでしょうか。

後藤 実は治療はしていませんでした。経過観察はしていましたが、本格的な治療は行っていなかったんです。1995年の診断から、いわゆるミレニアムを越えてしまっていますよね。

 当時、主治医の先生は、私の状態が徐々に悪化し、いずれ移植が必要になるだろうと考えていたそうです。高松の病院では当時、骨髄移植を行っていなかったこともあり、「出身大学のある病院に送らなければ助けられない」と思っていたと、後から聞きました。ただ、その予想を大きく裏切る形で、病気はあるものの急激に悪化することはなく、すぐに治療が必要な状態になるまでに、十数年かかったというのが実際の経過です。

 その間は本当に普通の生活をしていました。治療もなく、薬もなく、「こんなに大変な病気なのに、飲み薬すらないのか」と思ったこともありましたが、実際に行っていたのは経過観察のみでした。3か月に1回ほど病院に行って血液検査を受ける、その繰り返しです。

 ただ、大学生になり、社会人になると忙しくなりますよね。そうすると受診の間隔も徐々に空いていき、自分が病気であるという意識自体を、家族も含めて忘れてしまうような状態になっていました。

 私はもともとバスケットボールをしていたこともあり、運動が大好きでした。友人と富士山に登ったり、スポーツクラブでエアロビクスをしたり、ジムで走ったり、マラソンに出たりと、とにかくアクティブに過ごしていました。

岸田 バスケットボールはどうされたんですか。止めるように言われていましたよね。

後藤 「止めてください」と言われたので、いったんは休みました。ただ、体調に大きな変化がなかったので、「少しずつなら大丈夫かな」と思い、徐々に再開しました。先生には特に伝えず、無理のない範囲で続けて、卒業までプレーしていました。

 告知を受けたときもそうでしたが、「昨日と今日で、私は何が変わったのだろう」という感覚が強く、その延長線上で生活していたのだと思います。

岸田 当時は、骨髄異形成症候群に対する治療法自体がなかったということですよね。現在はどうなのでしょうか。

後藤 今も正直に言うと、この病気に対する決定的な治療法はありません。根治を目指せる治療は、造血幹細胞移植、いわゆる骨髄移植のみとされています。ただ、この病気は高齢の方に多いため、年齢的に移植の適応にならない方も多いのが現実です。現在は、移植の年齢上限はおおよそ65歳前後といわれています。

 そのため、経過観察を非常に長く続ける患者さんが多い病気でもあります。

岸田 ありがとうございます。ここで示しているのは、2022年4月17日現在の情報ですね。

後藤 はい。ですので、基本的な状況は1995年当時から大きく変わっていない部分もあります。

岸田 そうすると、経過観察を続けて、2009年2月に入っていくわけですね。

後藤 そうです。かなり時間が飛びますが、この頃、私は会社員として事務職をしていました。友人と遊びに行ったり、旅行をしたり、山に登ったりと、相変わらずアクティブな生活をしていました。

 ただ、仕事終わりに毎日のようにジムに通い、走って、運動して、シャワーを浴びて帰るという生活を続ける中で、次第に自分の体力が落ちていることを実感するようになりました。会社の階段を上るのがつらい、体調が思うように保てずイライラする、頭痛が続く、気力が湧かない、何もしたくない。そうした不調が少しずつ積み重なっていきました。

 「これは何かおかしい」と感じたとき、頭の片隅にあった記憶が一気によみがえりました。血液内科の先生の顔がふっと浮かび、「これはまずい」と直感的に思い、2009年2月頃、素直に血液内科を受診しました。

岸田 それまでも、体調を崩すことはあったと思います。例えばインフルエンザなどのときに、血液内科のことを思い出すことはなかったのでしょうか。

後藤 それはありませんでした。今振り返ると、2009年2月頃の体調不良は、重い風邪やインフルエンザとは明らかに質が違っていました。「これは本当にまずい」と、感覚的に分かったんです。本能に近いものだったかもしれません。

 ただ、血液の病気があるにもかかわらず、元気だった十数年の間も、インフルエンザには何度もかかっていました。毎年のようにA型とB型の両方にかかることもあり、一般的な人よりもかなり頻繁だったと思います。

岸田 それはすごいですね。

後藤 本当にそうで、つい先日も高校時代の友人と話していて、「毎年インフルエンザにかかっていたよね」と言われるくらい、決して体が強いほうではありませんでした。ただ、そうしたことは意識的に押し殺し、蓋をして、楽しく生活していたんです。

 けれども、この2009年2月の体調不良は、そうやって押し込められるようなものではありませんでした。「これは何か違う」と、本能的に感じて、素直に病院を受診しました。そのとき先生から、「よくこんな状態で今まで頑張っていましたね」と言われ、「入院しましょうか?」と、かなりあっさり言われたことがとても印象に残っています。

岸田 そこで、即入院という流れになったのですね。

後藤 そうなんです。ただ、先ほどもお話しした通り、この病気には根本的な治療法がありません。完全に治す方法は、病気になった造血幹細胞、いわば血液を作る工場そのものを入れ替える骨髄移植しかないんです。

 最初に「移植をしたほうがいい」と言われましたが、移植はやはり怖いですよね。ちょうどその頃、なぜか骨髄移植のドキュメンタリー番組を見てしまい、映し出されていた女性が本当に苦しそうで、その映像が強烈に頭に残りました。「これは自分には無理だ」と思い、「移植はしたくありません」と先生に伝えました。

 すると先生は、「では、今できることをやっていきましょう」と言ってくださり、免疫抑制療法を始めることになりました。これは再生不良性貧血の治療法として使われているものです。私の骨髄異形成症候群は、当初は再生不良性貧血に近いタイプだったこともあり、2009年3月から免疫抑制剤の服用を開始しました。

岸田 その時点では、移植は特に考えていなかったということですね。

後藤 私自身は考えていませんでした。ただ、主治医の先生は常に移植を視野に入れていたと思います。治す方法はそれしかないからです。ただ、本人があまりにも拒否していたので、「では、できることからやっていこう」という判断だったのだと思います。

岸田 その免疫抑制療法は、効果はあったのでしょうか。

後藤 正直に言うと、まったく効果はありませんでした。1日2回、12時間おきにネオーラルという免疫抑制剤を服用する治療で、赤血球の回復を目的としていましたが、血球はほとんど増えませんでした。

 一方で副作用だけはしっかり出ました。体毛が非常に濃くなる副作用があり、すね毛などは男性並みで、兄や弟よりも濃いくらいでした。まつ毛も一気に濃くなりましたが、肝心の血球はまったく改善しませんでした。

岸田 その治療を経て、病状は悪化していったということですね。

後藤 はい。どんどん悪化していきました。主治医の先生は最終的には移植しかないと考えていたので、まずは兄弟などの血縁者間移植を目指しました。血縁者であれば成功率が高く、タイミングも比較的合わせやすいからです。骨髄バンクの場合は、どうしても相手の事情に左右されてしまいますからね。

 ただし、移植にはHLAと呼ばれる白血球の型が一致する必要があります。一般的に知られているA型、B型、O型、AB型は赤血球の血液型ですが、移植では白血球の血液型を合わせる必要があります。

岸田 A型やO型は赤血球の型、ということですね。

後藤 そうです。輸血のときに使うのが赤血球の血液型で、移植のときはHLAという白血球の型を合わせます。

岸田 ここで、HLAについて簡単に整理したスライドをご紹介します。HLAとは人が持つ白血球の型で、造血幹細胞移植を行うには、この型が一致している必要があります。兄弟姉妹間で完全一致する確率は4分の1、25%とされています。一方、非血縁者の場合は確率が非常に低く、骨髄バンクに登録して探す必要があります。兄弟間で4分の1というのは、意外と低い数字ですね。

後藤 そうなんです。単純に考えると、兄弟が4人いれば誰かは合いそうですが、確率の問題なので必ずしもそうとは限りません。HLAは父親と母親からそれぞれ受け継ぐもので、現在は8つの型を基準に一致を確認します。

 父親が持つ8つの型のうち4つ、母親が持つ8つの型のうち4つを子どもが受け継いで生まれるため、兄弟間では比較的一致しやすい、という仕組みになっています。

岸田 なるほど、そういう仕組みなのですね。

後藤 私には兄と弟がいて、3人きょうだいです。3人もいれば誰かは合うだろうと思っていました。兄とは性格や見た目がよく似ていて、弟とはあまり似ていないのですが、血液型は同じでした。

 兄も弟も「大丈夫。どちらかが絶対に合っているから、助けられるから」と言ってくれていて、私自身も「どちらかとは一致しているはずだ」と思っていました。最悪、移植が必要になっても兄弟に助けてもらえる、と信じていたんです。

 ところがHLA検査の結果は、兄と弟は一致していたのに、私は一致しませんでした。つまり、兄と弟のどちらかがこの病気になればお互いに移植で助け合えるのに、私は兄弟間では移植ができない、という結果でした。その結果を聞いたのが、2009年4月1日、エイプリルフールでした。

岸田 エイプリルフールだったんですか。

後藤 はい。あまりに出来過ぎていて、苦し紛れに先生へ「嘘ではないんですか」と聞いてしまったほどです。本当にショックでした。どちらかとは必ず合うと思っていましたから。やりたくなかった移植が、さらにやりたくなくなりました。

岸田 その下に「輸血を受ける」とありますが、これはどういうことだったのでしょうか。

後藤 貧血が非常に強かったんです。以前お話しした、イライラする、体力が落ちる、パフォーマンスが維持できない、といった症状は、すべて貧血が原因で、ヘモグロビンがかなり低い状態でした。

 ただ、輸血には抵抗がありました。若年がん経験者の方は輸血に慣れている方も多いと思いますが、私の場合は最初すごく抵抗が強くて、「自分が受けていいのだろうか」という罪悪感のようなものがありました。輸血は事故や緊急の外科手術のときに行うもの、というイメージが強く、自分はどちらでもないのに、なぜ輸血なのか、と。

 しかし先生から「輸血を受けないと心不全を起こしますよ」と言われました。「なぜ心不全なのか」と驚いたのですが、そのときは知識がなく、ヘモグロビンは酸素を運ぶ役割があることも十分理解できていませんでした。酸素が不足している状態を補おうとして心臓が無理に働き、心臓に大きな負担がかかって、貧血で命を落とすこともある、と説明されました。そこで「死ぬの?」という恐怖が勝ち、渋々輸血を受けたのが最初です。

岸田 そこから9月に入って、「効果がなく服用中止」とありますが、これは先ほどのネオーラルのことですか。

後藤 はい。ネオーラルを半年ほど服用しましたが、ほとんど効果がありませんでした。免疫抑制剤ですので免疫力を抑える影響もあり、「やめましょう」という判断になりました。そうすると、やはり根本治療として移植を勧められる流れになります。

岸田 そうですよね。根本的な治療がない以上、移植を勧めるのは自然だと思います。ただ、そこで拒否していくわけですね。

後藤 はい。ドキュメンタリー番組の印象も強く、さらに兄弟と一致していなかったこともあって、「無理です」となりました。

岸田 その結果が次のフリップですね。1年後、「高熱が下がらず入院」となっています。

後藤 移植を1年拒否し続けた結果、高熱がまったく下がらなくなりました。外来で治療していましたが限界で、食事も取れず、先生からも「入院しましょうか」と言われて入院しました。そこで、この熱や症状が、ベーチェット病の所見に一致することが分かり、実際にベーチェット病と診断されました。

岸田 先ほどの症状は、骨髄異形成症候群の影響ではなく、ベーチェット病だったということですか。

後藤 高熱が出るという点が、ベーチェット病の症状の一つだった、ということです。結果として、病気が一つ追加されたような感覚でした。

岸田 ベーチェット病は指定難病で、高熱が下がらない病気、という理解で合っていますか。

後藤 いくつか特徴的な症状があり、高熱が下がらないことや、強い口内炎が出ることがあります。一般的な口内炎とは違い、粘膜に強い症状が出て、痛みが強く、食事が取れなくなることもあります。自己免疫疾患で、いわば自分の体が自分を攻撃してしまうような病気です。

岸田 自己免疫疾患で……。

後藤 そうですね。簡単に言うと、そのようなイメージです。

岸田 その後、10月に「血球回復目的」とありますが、これは輸血とは別の治療ですか。

後藤 はい。再生不良性貧血の治療の一つにATGという治療があり、「移植はしたくないと言うのであれば、ATGをやってみましょうか」と提案され、ATGも受けました。

岸田 ウサギATGという名前なんですね。

後藤 ウサギ由来だと聞いています。詳しい仕組みは私も分からないのですが、とにかく「ウサギATG」を行いました。昔は馬由来だったものが、今はウサギになっている、と聞いた記憶があります。

岸田 免疫抑制の治療を続けていく、という流れですね。そして次が2011年、「効果がなく治療中止」とあります。

後藤 はい。また効果がありませんでした。期待していた分、落胆も大きかったです。空振りが続いている感覚でした。ただ、それだけ病気が進行していたのだと思います。

 そして2011年3月、当時は骨髄異形成症候群のための治療薬がほとんどなかった中で、アザシチジンという薬が初めて発売されました。骨髄異形成症候群の患者向けの治療薬で、待望の薬でした。私も「これで治るかもしれない」と強く期待し、先生も「すぐ始めましょう」と言って、すぐに治療を開始しました。

岸田 新しい薬が出たなら、すぐに始めたくなりますよね。ただ、その下にすぐ「治療中止」と書かれていて……。

後藤 本当に「よし、来た」と思って頑張ったのですが、私の場合は血球がまったく上がりませんでした。アザシチジンで血球が回復する方はたくさんいらっしゃいますし、うまくいく例も多いのですが、私は効果なしと判定され、4~5クール程度で中止になりました。

岸田 空振りが続く、という感覚ですね。

後藤 はい。何をやっても結果が出ない、という状態でした。

岸田 今も骨髄異形成症候群の方は、アザシチジンを使うことが多いのでしょうか。

後藤 経過観察の段階を超えて、一定以上の症状が出てくると、基本的にはアザシチジンを使うことが多いと思います。多剤併用治療の土台になる薬の一つで、MDSの治療においては本当にありがたい薬です。私には効かなかった、というだけです。

岸田 MDSというのは、骨髄異形成症候群の略ですか。

後藤 はい。病名が長いので、MDSと呼ばれることが多いです。薬の製品名では「ビダーザ」といいますが、今でもMDSの治療では非常に重要な薬だと思います。

岸田 ただ千英さんの場合は効果がなく中止となり、ここで造血幹細胞移植を決意していくのですね。

後藤 はい。八方塞がりでしたし、この頃には体も限界でした。40度近い熱が出ることも多く、輸血も週に1回ほど必要になっていました。その状態になると、たとえば寝ているときに寝返りを打つだけでも動悸がするんです。

 お風呂も、湯船に入る前に椅子に座って休まないと入れない、湯船から上がるときに力を入れるだけで動悸がする、といった状態でした。今思うと、冬に大根おろしをするだけでも、心臓がダッシュした後のようにバクバクしていました。輸血を毎週していてもこの状態で、「このまま一生生きていくのは無理だ」と思いました。

岸田 私も抗がん剤治療後に似た感覚があったので、よく分かります。そこで、ようやく移植をしようと決意されたのですね。次のフリップはこちらです。2012年1月、数か月経ってセカンドオピニオンを受け、転院していく流れですね。移植を決めた後に、セカンドオピニオンを受けたのですか。

後藤 当時通っていた病院は、私が兄弟間でドナーが見つからなかったため、骨髄バンクに登録する必要がありました。ただ、移植はどこの病院でもできるわけではなく、指定病院があります。私の病院は当時、その指定病院ではなかったため、転院を考えました。どこで移植を受けるかを決めるために、セカンドオピニオンを受けることにしたんです。

 また、移植をしたくない気持ちが最後まで残っていたので、「もう一あがきできないか」という思いもありました。そうした目的も含めて、何か所かセカンドオピニオンを受けました。

岸田 何か所か行かれたのですね。

後藤 3か所ほど行ったと思います。

岸田 転院先を決めるにあたって、何か決め手はあったのでしょうか。

後藤 セカンドオピニオンを受けた病院の中に、ひときわフィーリングが合う先生がいらっしゃいました。そのときは母と二人で、3か所の病院でセカンドオピニオンを受けたのですが、どの先生もおっしゃることはほぼ同じで、状況としては厳しいことばかりでした。それは当然のことですし、現実を突き付けられる時間でもありました。

 セカンドオピニオンが終わった後、いつも母に「どこの病院の先生が良かった?」と聞くのですが、母は普段、「お母さんは分からへんわ」と言うタイプなんです。何を聞いてもそう答える人なんですね。ところがそのときだけ、「あそこの病院、あの先生のところが良い気がする」と、直感的な意見をはっきり言ったんです。

 そして、その母が挙げた病院と、私自身が「ここだ」と感じていた病院が、ぴたりと一致しました。

岸田 それはすごいですね。

後藤 本当に、「もうここだな、この先生だな」と思いました。その後、元の主治医の先生に相談して、「この病院に転院したいです」とお伝えしました。

 元の病院の主治医の先生も本当に素晴らしい方で、セカンドオピニオン先の病院を一緒に探してくださったり、転院についても快くサポートしてくれました。看護師さんも含めて、医療者の方々に本当に恵まれて、治療のスタートラインに立てたことは、今でもとても感謝しています。

岸田 ありがとうございます。そこで転院を決め、4月には卵子保存をされていますね。この点については、後ほど妊孕性のお話の中で、改めて伺いたいと思います。

 そして次のフリップになります。いよいよ造血幹細胞移植に進んでいくという流れですが、ドナーは見つかったのでしょうか。

後藤 見つかりました。本当に奇跡のようでした。ただ、私と完全に一致するドナーは、実は見つからなかったんです。先ほどお話しした通り、HLAは8つの型を合わせる必要がありますから。

岸田 8つ完全一致は、なかなか難しいですよね。

後藤 HLAはとても不思議で、日本人に多い型を持っている方の場合、完全一致のドナーが100人、200人と骨髄バンクに登録されていることもあるそうです。一方で、私のように完全一致の人が一人もいないケースもあります。HLAは遺伝子情報なので、先祖をたどっていくとつながっていく、非常に壮大な話なんですよね。

 私自身、HLA検査の結果で「日本人には少ない型です」と言われました。つまり、日本人らしくないHLAを持っているということになります。そう考えると、先祖がどこか大陸のほうから渡ってきたのかもしれませんね。

岸田 なるほど、どこかから渡ってきた、という感じですね。

後藤 そうだと思います。ただ、完全一致ではないものの、「一部だけ合わない」というドナーの方が2人いらっしゃいました。研究が進んだことで、DR座という部分が合わない場合であれば、完全一致とそれほど大きな差はない、ということが分かってきています。

 いわば、「ここは合わないけれど、ここは大丈夫」という状態でも移植が可能だ、という考え方ですね。その条件に当てはまるドナーの方が2人いらっしゃって、骨髄バンクから連絡がいき、同意をしてくださったことで、移植提供者が見つかりました。

 候補者が2人しかいなかったので、調整が始まってからは本当に早かったです。候補が多ければ比較しながら進めていきますが、今回は選択肢が限られていた分、非常にスピーディーでした。1月に患者登録をして、6月には移植という、わずか5か月での移植は、今振り返っても本当にありがたい、超スピード移植だったと思います。

岸田 移植後も大変なことは多かったと思いますが、退院されて、翌年の6月には職場復帰をされたんですね。1年ほどで復帰されたということになります。

後藤 そうなんです。ただ、私自身は決して早いほうではありません。移植後に復帰される方の中には、もっと早い方もいらっしゃいます。私は4か月ほど入院していましたが、最近では1か月半から2か月で退院される方もいます。

 ただ、退院後は通院の頻度が非常に高く、最初は週1回、毎週通う必要がありました。それが徐々に間隔が空いていき、1か月に1回程度になったタイミングで、職場復帰をしました。結果的に、移植からおよそ1年後の復帰でした。

岸田 ありがとうございます。お仕事の話は、後ほど改めて伺いたいと思います。では現在の状況についてですが、今はいかがでしょうか。

後藤 移植を受けたのが2012年で、今は2022年ですので、今年で移植から10年が経ちました。一般的には、がんは5年経過すると寛解と言われますが、血液の病気ということもあり、私は今も定期的に病院に通っています。

 以前は4か月に1回程度の通院でしたが、昨年の夏頃から血液データに少し気になる変化が出てきて、現在は経過観察の意味も含めて、月に1回、血液内科を受診しています。また、移植の影響で、後遺症とまでは言いませんが、女性ホルモンの補充療法を受けていたり、甲状腺に問題が出て薬を服用していたりもします。放射線治療の副作用ではないか、と先生からは言われています。

 それでも、移植前の体の状態を思い返すと、今は「何とかなる」と心から思える状態です。本当にありがたく、幸せだと感じています。

岸田 当時と比べると、今はかなり落ち着いた状態で過ごされているということですね。ここで、お写真を数枚ご提供いただいていますので、闘病前・闘病中・闘病後のお写真を、少し振り返ってみたいと思います。まずは闘病前のお写真です。

後藤 これは、いわば「謎の10年」の頃ですね。富士山に登りたくて、山登りを本当にたくさんしていました。実は、いまだに富士山には登れていないのですが、写真を探しているときに、「そういえば登っていたな」と思い出して、この写真を選びました。

岸田 かなりアクティブだった頃ですね。

後藤 そうですね。今もアクティブではありますが、当時は全然違いました。

岸田 続いて、治療中のお写真です。

後藤 正直に言うと、右側の写真を見たとき、「この顔が治らないなら、もう死んだほうがましだ」と思ってしまいました。それくらい衝撃的でした。

岸田 かなりインパクトがありますね。

後藤 こんな状態で外に出られるわけがない、と思いました。先生に「この顔は治りますか」と聞いても、「たぶん治ると思うよ」と、はっきりしない返事で。それがまた不安でした。

岸田 この写真は、どのタイミングのものですか。

後藤 左の写真は移植のときのもので、無菌室で撮影しています。周りには看護師さんや主治医、母も写っています。この数日後に、右の写真の状態になりました。

岸田 数日後で、ここまで変わるんですね。

後藤 はい。とても怖かったです。エンドキサンという抗がん剤が本当に強烈で。

岸田 エンドキサンを使われていたんですね。

後藤 移植の前には、前処置として放射線と抗がん剤を使います。いわば、自分の中にある血液を作る工場、私の場合は不良品ばかりを作ってしまう工場を、一度すべて壊すための治療です。エンドキサンという抗がん剤と、放射線を12グレイ浴びるという前処置を行いました。

 左側の写真は、まさにその前処置をしている最中のもので、その数日後に、右側の写真のような状態になりました。この落差は本当に激しく、右側の状態のときは、正直とてもつらかったです。

岸田 そこから、治療が終わると髪の毛はまた生えてきたのですね。

後藤 はい、生えてきました。抗がん剤というと、きれいに全部抜けるイメージがあるかもしれませんが、実際は中途半端に残る感じで、いわゆる落ち武者のような状態でした。

 切ってしまえばよかったのかもしれませんが、このとき、不思議と残った髪の毛がとても愛おしく感じられたんです。こんなに強い薬を浴びても残っている髪の毛を見て、「すごい生命力だな」と思っていました。剃ってしまう方も多いと思いますが、私はこの子たちが愛おしすぎて、そのまま残していました。

岸田 なるほど、そういう理由だったのですね。最終的には抜けたのですか。

後藤 はい、やはり最終的には抜けました。でも、本当に愛おしかったですね。顔もパンパンで、全身が湿疹だらけの状態でした。

岸田 その治療を経て、今はこのようなお写真ですね。今度は山ではなく、川ですね。

後藤 これはラフティングに行ったときの写真です。四国の吉野川は、ラフティングの聖地とも言われている場所で、とても楽しかったですね。

岸田 右下に写っているのが、千英さんですね。

後藤 はい、そうです。

岸田 今はもう、かなり元の状態に戻られているということですね。

後藤 本当に、ほぼ元に戻っています。

岸田 ありがとうございます。ここで、たくさんコメントもいただいていますので、いくつかご紹介させていただきます。
「身体のつらさで分かるんですね。やはり自分の身体で感じることは大切だと思いました」
「毎年インフルエンザにかかっていたというのは大変ですね」
「急性骨髄性白血病で亡くなった父も、当初は再生不良性貧血と診断されました。血液の病気はグレーな部分が多いですよね」
といった声をいただいています。

後藤 血液の病気は、本当に変化していくものなんですよね。

岸田 また、「HLA検査をする際、兄弟の方は進んで検査を受けてくれるのでしょうか」という質問も来ています。

後藤 はい。私の兄弟は、進んで検査を受けてくれました。骨髄検査のような大変なものではなく、採血で調べられますし、最近ではスワブといって、口の粘膜を採取する方法でもHLA検査ができますので、比較的簡単なんです。

岸田 スワブで調べられるのですね。

後藤 はい、とても簡単です。

岸田 ありがとうございます。
さらに、「骨髄移植を拒否していた期間は、どのようにお仕事をされていたのですか」という質問もいただいています。

後藤 基本的には、週に1回、輸血を受けるために病院に行き、輸血をしてから会社に行く、という生活でした。私は冗談半分で「ハイオクを満タンにする」と言っていましたが、輸血を受けてから仕事をして、翌週また午前中に休みを取って輸血を受ける、というサイクルを繰り返していました。

岸田 そうだったのですね。
ほかにも、「難病だと自治体からの手当もありますよね」「寝返りで動悸がするというのは本当に恐ろしい」「治療においてフィーリングは大事ですよね」「写真の髪型のインパクトがすごい」といったコメントもいただいています。

後藤 この写真は、「人生でこれ以上ひどい顔の時はもう来ないだろう」と思って、あえて撮ってもらったものなんです。ここを底辺にしよう、という気持ちでした。

岸田 確かに、なかなかここまでの写真はないですね。

後藤 本当になかなか出したくはない写真ですが、私にとってはここがスタートだと思っているので、大事に残している写真です。

岸田 ありがとうございます。当時の大変さが、とても伝わってきました。それではここから、残り30分ほどで、いくつかのテーマについてお話を伺っていきたいと思います。

【家族(親)】

岸田 それでは次に、家族について伺っていきたいと思います。これまでお母さまのお話は何度か出てきましたが、病院に一緒に行かれたりする中で、ご両親はどのようにサポートしてくださったのでしょうか。また、「こうしてほしかった」「逆に、こういう点は難しかった」と感じたことはありますか。

後藤 高校生のときに診断を受けた際は、母と一緒に病院へ行っていましたが、社会人になって体調が悪化した2009年頃は、私自身も20代半ばから後半で、もう一人の大人として生活していました。そうなると、親にはどうしても言いづらかったんです。一番の理由は、やはり心配をかけたくなかったからでした。

 まずは兄弟にだけ話をしました。「体調がおかしくて病院に行ったら、こういうことを言われた」と伝えました。骨髄移植の可能性もあり、いずれ助けてもらうかもしれないという思いもあったので、兄弟には正直に話しました。そして、「両親にはまだ言いたくない」という私の気持ちについても、兄弟の同意を得て、しばらくは親には伏せたまま過ごしていました。

 ただ、HLA検査を受けることや、輸血、治療が必要になってくると、さすがに隠し続けることはできません。それでも、どうしても母には言いたくなかったんです。母はとても心配性なので、まずは父にだけ話をしました。「母には、まだ言いたくない」と伝えると、父も「それでいいと思うよ」と言ってくれて、母にだけは伏せた状態がしばらく続きました。

 病院に呼ばれるときも、父だけに付き添ってもらい、父に話を聞いてもらう、という形を取っていました。ところが、あるとき先生が自宅に電話をかけてきてしまったんです。平日の昼間だったので、家にいたのは母で、母が電話に出てしまいました。

岸田 それは……大変ですね。

後藤 私の携帯電話には、「お母さん」「お母さん」と表示された着信が、ずらっと並ぶほど電話がかかってきました。「何が起きているの?」という状態ですよね。

 そこからは、急きょ家族会議になりました。当時、私は実家にいましたが、兄はすでに独立していたので、みんなが集まって、「実はこういう状況で、お母さんには心配をかけたくなくて、言わずにいた」という話をしました。すると母は、「ごめんね」と言ってくれて、その出来事をきっかけに、家族の絆がより深まったように感じました。

 正直、先生から電話がかかってきた瞬間は、血の気が引く思いでしたし、「それはさすがに困る」と思いました。事前に「母には伝えていない」とお話ししていたので、「わざとではないよね?」と思ってしまうくらいでした。でも、結果としては、家族全員が治療に向き合う覚悟を共有できるきっかけになった出来事でもありました。

岸田 結果として、家族の結束が強まったということですね。

後藤 本当にそうですね。当時は倒れそうになるくらい衝撃的でしたが、今振り返ると、あれはあれで必要な出来事だったのかもしれない、と思っています。

【恋愛・結婚】

岸田 家族との絆が深まっていったというお話を伺いましたが、続いて、恋愛や結婚について伺っていきたいと思います。千英さんは、現在は独身ですよね。

後藤 はい、独身です。私はもともと、ずっと元気でアクティブなタイプとして生きてきました。17歳のときに病気の診断を受けてはいますが、そのことを人に知られたくなかったんです。自分が病気であるという側面を、できるだけ表に出したくありませんでした。

岸田 たしかに、ずっと元気なキャラクターの印象がありますよね。

後藤 そうなんです。そのイメージがある一方で、実は病気を抱えているという事実を、誰にも知られたくなくて、本当に最小限の人にしか話していませんでした。だから、恋愛においても、そのことは基本的に話していなかったです。

岸田 えっ、そうなんですね。では、言わずにお付き合いをしていたということですか。カミングアウトは、しなかったのでしょうか。

後藤 治療の時期に入ると、恋愛については一度すべてフラットにしました。何もかも一度リセットして、恋愛はしない、という選択をしました。

岸田 完全にフラットにして、治療に専念する、ということですね。

後藤 はい。お付き合いしていた関係も含めて、すべて区切りをつけて、治療に集中しました。

岸田 そこから造血幹細胞移植も終えて、治療が一区切りついた後は、どう変化していったのでしょうか。

後藤 治療後は、こうして「がんノート」に出演させていただいたり、患者会の活動に関わったりするようになりました。以前は、この病気や経験を隠したいものだと思っていましたし、人生の履歴書があるとしたら、絶対に書きたくない出来事だと思っていました。

 でも今は、もし人生の履歴書を書くとしたら、間違いなく書くべき経験の一つだと思っています。この経験から得たものが本当に大きかったんです。だから今は、もし恋愛や結婚の話になれば、自然に話すと思いますし、話さなければならないことだとも感じています。

岸田 では、造血幹細胞移植を経験してからは、お付き合いする相手には伝える、というスタンスになったのですね。

後藤 そうですね。もう、隠すというより、自然と分かってしまう状況でもありますし。

岸田 たしかに、今は調べれば情報も出てきますしね。

後藤 そうなんです。最初はそれに対してすごく抵抗がありました。若くして病気になったことは、人生における汚点というか、黒い出来事だと感じていて、誰にも知られたくないと思っていました。でも今は、それが悪いことだとはまったく思わなくなりました。

岸田 その考えが変わった転換点は、何だったのでしょうか。

後藤 何でしょうね……不思議な達成感のようなものかもしれません。造血幹細胞移植という、生きるか死ぬかの修羅場を何度も乗り越えて、「生き地獄」と思うような治療を経験しました。そうした体験をしたことを隠すのは、むしろもったいないと感じるようになったんです。

 自然と、「これは隠すような人生じゃない」と思えるようになっていきました。

岸田 だから今は、オープンにされているということですね。

後藤 はい、まったく抵抗はありません。

岸田 差し支えなければですが、造血幹細胞移植後にお付き合いされた方はいらっしゃいますか。

後藤 ……いるような、いないような、ですね。

岸田 なるほど、大人な答えですね。その方には、もちろん病気のことは伝えていたんですよね。

後藤 はい、もちろんです。通院もありますし、隠す必要はありませんでした。

岸田 それが恋愛において、大きなハードルになることはない、ということですね。

後藤 はい、まったくないですね。

【妊よう性】

岸田 ありがとうございます。続いての話題は「妊孕性」についてです。いわゆる子どもを授かる力という点ですが、千英さんは移植前に、妊孕性温存として卵子保存をされたと伺っています。これは、どのようなタイミングで、どのような思いから決断されたのでしょうか。

後藤 造血幹細胞移植を受けたくないと思っていた理由の一つが、「子どもを産めなくなる」ということでした。移植を受けると、ほぼ100%、正確には99.9%の確率で妊娠は難しくなります、と説明されたとき、その事実を知らなかった私は、本当に衝撃を受けました。

 すでに病気を抱えている時点で、一般的な20代・30代の女性より大きなハンデを背負っているのに、そこからさらに可能性が下がるのか、と思うと、とてもつらかったです。

 そんなときに主治医から、「卵子保存という方法があります」と教えてもらいました。ただ、これは10年以上前の話なので、今とは状況が全く違います。当時は、卵子を保存できる施設自体がとても少なく、私の地元・高松や四国には対応できる施設がありませんでした。東京か大阪まで行かなければならない、という時代でした。この10年で、状況は本当に大きく変わったと思います。

 ちょうど転院先の病院で、血液内科と連携した不妊治療クリニックが、卵子や精子の保存についての勉強会を始めたタイミングだったんです。先生から「紹介状を書くから、すぐ行ってきて」と言われたのが、卵子保存を考える最初のきっかけでした。

 ただ、血液の病気の患者が移植前に卵子保存をするのは、かなりハードルが高いんです。というのも、移植の日程がすでに決まっているからです。

岸田 日程的な制約がある、ということですね。

後藤 そうです。女性の場合は、生理周期をコントロールしながら、卵子を採取できるタイミングを逆算して進めていかなければなりません。注射を打ちに通ったり、細かいスケジュール調整が必要になります。私は最終的に入院しながら卵子保存を行いました。

岸田 それでも、調整がうまくいって卵子保存ができた、ということですね。

後藤 はい。本当に運が良かったと思います。4月に1回だけ採卵を行い、その1回で一定数の卵子が採れたので、凍結保存することができました。もしこの1回でうまくいかなかったら、次の月にはもう移植スケジュールに影響が出てしまうため、諦めざるを得ない状況でした。そう考えると、本当にぎりぎりのタイミングで、うまくいったケースだったと思います。

岸田 今では妊孕性温存ができる施設も増え、助成金制度も整ってきていますが、当時は費用面も大変だったのではないでしょうか。

後藤 そうですね。全部で50万円ほどはかかっていたと思います。

【仕事】

岸田 ありがとうございます。お金の話については、また後ほど伺いたいと思います。続いては「仕事」についてです。先ほども質問がありましたが、治療中はお仕事をどのようにされていたのか、また復帰までに時間がかかった中で、どのようなことを感じられたのか、周囲の反応も含めてお話を伺えますでしょうか。

後藤 最初は事務職として働いていました。治療中は、午前中に病院へ行って、午後から出勤する、といった形で仕事を続けていました。

 ただ、造血幹細胞移植を終えた後は、状況が少し変わりました。事務職は、月単位で業務スケジュールがきっちり決まっていて、「この日はこれをやらなければならない」という仕事が多いですよね。一方で、移植後は通院の頻度も多く、いつ体調が崩れるか分からないという不安もありました。

 そこで、そのタイミングで営業職に職種を変えるという選択をしました。営業のほうが、自分である程度スケジュールを調整できるのではないかと考えたからです。体調がつらいときは無理をせずセーブし、調子が良いときにはしっかり動く、という働き方ができるようになりました。

 復帰してからは、もう移植後9年目になりますが、ずっと営業職として働いています。会社の中では、病気のことを皆が理解してくれているので、とても協力的です。取引先の中には知らない方もいますが、仕入れ先の方など、事情を知っている方もいて、そうした話を一つの話題にしながら営業活動をすることもあります。

岸田 話題にする、というのはどういうことですか。

後藤 最近は、若い世代でも病気を経験する方が増えているじゃないですか。そうした話題の流れで、「実は私もそうなんです」とお話しすることがあります。仕事を通じて知り合った方の中にも、岸田さんもご存じの方ですが、同じように若くして病気を経験している方がいたりして。

 そうすると、一気に距離が縮まるんですよね。同じような経験をしている、というだけで、自然と心が近づく感覚があります。

岸田 仕事の会話の中で、たまたま同じ経験をされている方がいると、共通の話題が生まれて、一気に距離が縮まる、ということですね。

後藤 そうなんです。

【お金・保険】

岸田 お仕事の場面でもカミングアウトをされつつ、周囲の理解を得ながら働いてこられたということですね。事務職では業務の締め切りや日程が固定されているため、営業職に変えて仕事量を調整している、というお話でした。ありがとうございます。
続いては「お金や保険」について伺いたいと思います。先ほど、妊孕性温存で50万円以上かかったというお話がありましたが、保険についてはどうされていましたか。10代の頃は、まだ保険には入っていなかったですよね。

後藤 そうですね。10代の頃は保険には入っていませんでした。ただ、空白の期間があって、就職したタイミングで一度、国内の生命保険会社の保険に加入しました。そのときは、診断から10年以上経っていたので、「何年以内にこの病気と診断されたか」といった告知条件もクリアできたんです。

岸田 なるほど。そこで国内の保険に入ったんですね。

後藤 はい。その後、2009年頃に「ちょっと体調がおかしいな」と感じ始めたタイミングで、持病がある人でも入れる、告知が比較的緩やかな保険にも加入しました。

岸田 いわゆる緩和型の保険ですね。

後藤 そうです。「何かあったら大変だな」と思ったときに、備えとして入りました。結果的には、保険はかなり助けになりました。なので、若い新入社員の方などには、「保険は入っておいたほうがいいよ」とよく話しています。

岸田 治療費についてですが、妊孕性温存で50万円以上、さらに骨髄バンクの利用もありますよね。骨髄移植には、どれくらい費用がかかるのでしょうか。

後藤 骨髄バンクの利用料は、やはりそれなりに高額です。バンクの利用料として、数十万円を直接、骨髄バンクに支払う必要があります。これは保険適用ではありません。ただ、所得によって多少の差はあります。

岸田 ということは、骨髄移植や抗がん剤、免疫抑制剤などの治療自体は、高額療養費制度で月の自己負担が8万円から10万円弱に抑えられていた、という理解でいいでしょうか。

後藤 そうですね。ただ、それ以外にバンクの利用料がかかりますし、ドナーの方が検査を受けた際の費用や、入院時の個室代なども、患者側が負担する仕組みになっています。

岸田 ドナーの方の費用も負担するんですね。

後藤 はい。そうした費用を含めると、トータルではかなりの金額になります。

岸田 それらの費用は、保険でカバーできましたか。それとも、自己負担が出ましたか。

後藤 保険と、仕事をしていたので傷病手当金を最初は利用しました。傷病手当金は1年半ほど受給できますが、それが終わると、また別の問題が出てきます。高額療養費制度があっても、月に8万〜10万円ほどの自己負担は継続してかかりますし、私が加入していた保険は、入院給付金は出ても、外来通院では給付が出なかったんです。

岸田 外来だと出ない保険もありますよね。

後藤 そうなんです。そこで、「これは厳しいな」と思い、障害年金の申請を考えました。社会保険事務所に行って相談したのですが、20代・30代で、見た目も普通の人が窓口に行くと、正直なところ、あまり理解されませんでした。「あなたは対象にならないのでは」と言われることもありました。

 申請書類はボリュームが多く、労務士さんに依頼する方も多いと思いますが、私は自分で書きました。医師に記入してもらう欄もあり、そこが非常に重要になります。ただ、先生方は忙しく、障害年金制度の詳細までは把握されていないことも多いので、自分で調べて、「ここをしっかり書いてください」とお願いしました。

 私は17歳のときの発症が初診日になるため、当時は保険にも入っておらず、年金も納めていませんでした。ただ、10代で発症した場合は国民年金の制度で守られる仕組みがあり、結果的に障害年金1級に該当しました。症状としては、重度の貧血で、日常生活がほぼ送れない状態でした。寝返りを打つだけで動悸がする、というような状況です。

岸田 その場合、月にどれくらい受給できるんですか。

後藤 国民年金の障害年金1級だと、月に8万円程度だったと思います。

岸田 それなら、治療費とほぼ相殺できますね。

後藤 はい。ちょうど高額療養費の自己負担分くらいをカバーできて、本当に助かりました。国の制度に支えてもらいながら、何とか乗り切れた、という感じです。
なので、障害年金は、該当する可能性があるなら、ぜひ一度申請を検討してみてほしい制度だと思っています。

岸田 もちろん、すべての方が該当するわけではありませんが、千英さんの場合は該当されたということですね。

後藤 そうですね。困ったときは、まず相談してみることが大事だと思います。

【辛い・克服】

岸田 ありがとうございます。では続いて、「つらさの克服」について伺っていきたいと思います。時間も限られてきましたので、ここはぜひお聞きしたいのですが、千英さんが「本当に辛かった」と感じたとき、身体や心の面で、どのように乗り越えてこられたのでしょうか。

後藤 一番つらかったのは、やはり無菌室に入っている間ですね。とても閉鎖的な空間で、会えるのは医師や看護師さんだけ。友人にも会えませんし、家族ともほとんど会えない状況でした。

 身体がつらいときは、眠ってしまうのが一番だと思うのですが、本当に限界のときは、逆に眠れないんです。つらすぎて眠れない、という状態ですね。そういうときは、何か特別なことをしていたわけではなくて、病室にある時計の秒針を、ただひたすら見ていました。

岸田 秒針を見続けて、耐えるということですね。

後藤 はい。「早く時間が過ぎてほしい」、それだけです。入院中に音楽を聴いたり、パソコンを持ち込んだりもしましたが、私の場合は感覚がとても敏感になっていて、音すらつらく感じてしまいました。

 本当に修行のような時間でした。何かをして気を紛らわせるというより、「ただ時間が過ぎるのを待つ」しかなかった。何もできないんです。ただ、時間が流れていくのを待つだけ。だから、「いつまでも雨は降り続けない」という感覚でしょうか。

岸田 とにかく耐える、ということですね。

後藤 そうですね。ひたすら耐える。忍耐です。

岸田 少し体育会系な感じですね(笑)。

後藤 結局は、そういうノリになってしまいますね。

【後遺症】

岸田 ありがとうございます。では次に、「後遺症」について伺っていきたいと思います。現在の体調はいかがでしょうか。何か目立った後遺症はありますか。

後藤 本当に、目立った後遺症はほとんどないんです。造血幹細胞移植後は、ドナーの方の血液で生きていくことになるので、GVHD(移植片対宿主病)という合併症を抱えながら生活されている方もいらっしゃいますが、私は幸いにも、目に見える症状はほとんどありませんでした。

 先ほど少し触れましたが、放射線治療の影響ではないかと言われているものとして、甲状腺の病気があります。橋本病を発症したことと、甲状腺に小さな腫瘍が見つかっています。生検は行いましたが、濾胞性腫瘍というタイプで、甲状腺を摘出しないと良性か悪性かがはっきりしないものだそうです。

 ただ、それについても、半年に1回エコー検査を行い、大きくなっていないかを確認するという形で経過観察をしています。あとは、最近少し血液の数値が怪しい、という点を除けば、日常生活はとても元気に送れています。そういう意味では、特に「これがつらい後遺症です」と言えるようなものはないですね。

岸田 先ほどのコメントにもありましたが、「何とかなるさ」という感覚で、今を過ごされているということですね。

後藤 はい、本当に「何とかなる」と思っています。

岸田 ただ、血液の数値があまり良くない状態が続くと、もし悪化した場合は……。

後藤 その場合は、再発ということになります。

岸田 骨髄異形成症候群の再発ですね。

後藤 そうです。

岸田 そうなると、また移植を検討する必要が出てくる、ということですか。

後藤 そうですね。つい最近も先生から「もう一度移植したくないよね?」と聞かれましたが、正直、したいわけがないですよね。

岸田 ただ、その可能性があることは分かりつつも、今は「何とかなるさ」という気持ちで過ごされている。

後藤 はい。もし本当にそうなったときに、そのとき考えればいい、と思っています。

【医療者へ】

岸田 ありがとうございます。続いて、「医療者へ」というテーマで伺いたいと思います。今日は、医療者を目指している学生さんや研修医の方、看護師の方、そして現役の医師の方など、本当にさまざまな医療者の方がこの配信を見てくださっています。そうした医療者の方々に向けて、「こうしてくれてうれしかったこと」や、「こうしてほしかった」という要望があれば、ぜひお聞かせください。

後藤 私が「この先生だ」と思った、転院先の主治医の先生の話になります。治療を始める前に、その先生が「後藤さん、一緒に行こう」と声をかけてくださって、無菌室に連れて行ってくれたんです。

 その病院では、ちょうど新しい無菌室が完成したばかりで、私はその無菌室を使う最初の患者でした。「新しくできたから、見に行こう」と言われて案内されたのですが、一般的にイメージされるような、ガラス越しに電話でしか会話ができない閉鎖的な無菌室ではなく、とても開放的で、環境としてはとても良いものでした。

 それでも、やはり怖かったんです。これから自分の身に何が起きるのか分からない、その不安は消えませんでした。そのときに、私が「先生、こんなところを見せられても、怖いものは怖いです」と正直に言ったんですね。

 すると先生が、こう言ってくれました。
 「僕らには自信と経験がある。だから、絶対に助けるから。」

岸田 それは……かっこいいですね。

後藤 本当にかっこいいですよね。「僕らには自信と経験があるから。後藤さん、必ず元気になって帰ってもらう」と言ってくれたんです。その言葉を聞いて、「この病院を選んで良かった」と心から思いました。

 その先生は血液内科の部長で、その先生のもとで働いている医師や看護師の皆さんも、同じマインドを持って、同じゴールに向かって支えてくれました。「後藤さんは、何も頑張らなくていいです。薬を飲むことだけ頑張ってください」と言ってくれたのも、とても印象に残っています。

岸田 それは、患者さんにとってすごく救われる言葉ですね。

後藤 本当にそう思います。医師や看護師の方の何気ない一言って、患者の心にものすごく残るんです。今でも、その言葉が私の励みになっていますし、感謝の気持ちはずっと消えません。これから医療の道に進まれる方にも、ぜひ知っておいてほしいのですが、患者の心の中は、想像以上にぐちゃぐちゃになっています。だから、医療者の言葉一つ一つが、とても強く響くんです。良い言葉も、悪い言葉も、どちらもです。私は、「言葉には魂がある」と思っています。患者は、良くも悪くも、その言葉に影響されてしまいます。だからこそ、言葉の力を意識して、患者の心をうまく支えてあげてほしいな、と思います。

【Cancer Gift】

岸田 言葉の大切さ、本当にそうですよね。医療者の方に限らず、見てくださっている皆さん一人ひとりが、言葉を大事にしていけたらと思います。
続いてのテーマは「Cancer Gift」です。がんになったことで、さまざまな出来事があったと思いますが、「がんになったからこそ得られたもの」「これは良かったのではないか」と思える出来事や気づきはありますか。

後藤 一番大きいのは、やはり「友達」ですね。私と岸田さんも、がんをきっかけに出会いましたが、同じように、がんになったことで出会えた友人が、日本中にいます。

岸田 本当に、全国にできますよね。患者さん同士のつながりが。

後藤 はい。北海道から沖縄まで、がんを経験した仲間がいて、そうした人たちとつながれることは、本当に大きなCancer Giftだと思っています。同じ経験をしているからこそ、思いを共有できますし、距離が一気に縮まります。

 仕事を通じて出会った若年がん経験者の方々もそうですが、こうした出会いは、普通に生活していたらなかなか得られないものです。本当にありがたいと思っています。

 もう一つは、人の面だけでなく、気持ちの面での変化です。「当たり前」だと思っていたことが、当たり前ではなかったのだと気づけたことですね。

 朝、目が覚めること。朝ごはんがおいしいこと。コーヒーを飲めること。これらは、みんな当たり前だと思っていますが、治療を経験すると、それが決して当たり前ではないことを実感します。体調が悪いと、朝ごはんも食べられないし、コーヒーも欲しくならない。夜ごはんも食べられない、という状況になります。

 元気で、心も身体も健康だからこそ、ごはんがおいしくて、コーヒーがおいしくて、仕事ができて、笑える。その一つ一つを実感できるようになったことは、私にとって大きなCancer Giftだと思っています。

【夢】

岸田 本当に、健康がなければ、さまざまな活動もできませんし、幸せを実感することも難しいですよね。心からそう思います。ありがとうございます。
それでは次に、千英さんの「今後の夢」について伺いたいと思います。これから、どのようなことをしていきたいと考えていますか。

後藤 さきほど写真でも少し触れましたが、富士山に登りたいという夢は、ずっと持っています。ただ、まだ実行できていなくて。いつかは必ず登りたいと思っています。
もし、この配信を見てくださっている方の中で、「一緒に登ってもいいよ」という方がいたら、ぜひ声をかけてほしいなと思います。

岸田 いいですね。千英さん、今は患者会の活動もされていますよね。

後藤 はい。「血液情報広場つばさ」という団体に所属しています。血液がんの患者さんに、治療に関する正しい情報を届けることを目的としたNPOで、そこで活動をしています。

 それとは別に、もう一つ大きな夢があります。先ほどお話しした妊孕性温存、卵子保存のことです。私自身、保存の際にとても高額な費用がかかりました。その経験から、4年ほど前から「これを保険適用にしてほしい」という声を上げてきました。

 岸田さんにもたくさん力を貸していただき、多方面の方々の尽力もあって、この4月から助成金制度が始まりました。本当に、みんなの力ってすごいなと感じています。ただ、これをもう一歩先に進めて、保険適用にできたらと思っています。
 保険になれば、より多くの人が卵子保存という選択肢にアクセスできるようになりますし、高額療養費制度の対象にもなります。そうなれば、患者さんにとっての負担は大きく減るはずです。

岸田 そうですね。今は助成金という形ですが、保険適用になれば3割負担になりますし、高額療養費制度も活用できます。患者さんにとっては、非常にありがたい仕組みになりますよね。

後藤 そうなんです。もちろん課題やハードルはあると思いますが、それでもチャレンジする価値はあると思っています。

【ペイシェントジャーニー】

岸田 ありがとうございます。続いて、千英さんのペイシェントジャーニーを振り返っていきたいと思います。このあと皆さんからのコメントも読ませていただきますので、まずはここまでの闘病の流れを一度整理していきます。

 千英さんのペイシェントジャーニーは、こちらのような形になっています。まず最初は高校生の頃、バスケットボールを本格的にされていた時期ですね。バスケをめちゃくちゃやっていたと。

 そこから、ある日、手の甲が腫れて病院を受診します。この時は「バスケの練習が休める」ということで、ヤッホー、という少しポジティブな気持ちもあったというお話でした。
 この図では、赤色がポジティブな出来事、青色がネガティブな出来事を表しています。

 その後、骨髄検査を行い、骨髄異形成症候群と告知されます。ここが大きなネガティブな転換点になります。

 時は進み、就職をされます。社会人として生活を送る中で、無気力感や体のだるさなどの症状が出てきて、再び入院することになります。その中でHLA検査を実施しますが、「兄弟とは合うだろう」と思っていたものの、実際には一致しなかったという結果を聞くことになります。

 そこからネオーラルという薬物療法を開始しますが、残念ながら効果は得られませんでした。さらに、ベーチェット病という指定難病を併発し、ATG療法も行いますが、こちらも十分な効果は得られなかった。

 その後、アザシチジンという新しい薬が発売され、期待を込めて治療を行いますが、これも千英さんには合わず、効果なしという判断になります。

 こうした経過を経て、造血幹細胞移植を決意されます。移植ができる病院を探す中でセカンドオピニオンを受け、先ほどお話にあった「信頼できる医療者」と出会うことができました。そして、そのタイミングで卵子保存も行うことができました。

 その後、造血幹細胞移植を実施し、さまざまな大変な時期を乗り越えて退院。職場復帰を果たし、現在は経過観察を続けながら生活をされている、という流れになります。

岸田 ここまで、ペイシェントジャーニーを振り返ってきましたが、千英さん、何か補足しておきたいことはありますか。

後藤 すごいですね。上下の振れ幅が激しい人生やなって思います。

岸田 本当に、ものすごい振れ幅ですよね。

後藤 これからは、もうずっと上だけで行きたいなと思います。ゼロ以上で。

岸田 上に行けば行くほどポジティブで、下に行けばネガティブ、という感じですね。

後藤 そうですね。もう下には行きたくないです。

岸田 ですよね。

後藤 でも、前半とは違って、これから先、何かがあったとしても、こんなに落ち込まないかもしれないなって思いました。マイナス10まで落ちることは、もう無いんちゃうかなって。何て言うんやろう……かわし方が分かったというか、そんな気がするんですよね。

岸田 「こうなっても、こういうふうに乗り切れるぞ」という感覚が、もう培われてきたということですね。ありがとうございます。

 ここでコメントもいただいております。Anneさんからのコメントや、よしさんの「ドナーを受けるにも、かなりお金がかかるんですね」という声、kajiさんの「障害年金ありがたいですよね」、やまやんさんの「ドナーさんの入院代も移植側が支払うなんて知らなかったです」というコメントもあります。また、「自信と経験があるって素晴らしい先生ですね」という声も届いています。

 さらに、「一緒に富士山登りましょう」というコメントも来ています。オレンジティの小磯さんからは、「富士山一緒に登りたいです。静岡出身なのに一度も登ったことがありません」といただいています。

後藤 行きましょう。

岸田 「みんなで登りましょう」というコメントもありますので、ぜひ登りたい方は、つばさのほうまで、千英さんのほうまで。

後藤 キッシーも登ろうよ、一緒に。

岸田 登りますか。

後藤 登りましょう。みんなで。

岸田 僕も登ったことないので、ぜひそういう機会があれば登りたいなと思います。みんなで登って、濃い時間を過ごせたらいいですね。そういった企画も、ぜひやってみたいなと思います。

 他にも、「リアルタイムで見たかったけど仕事で残念。後でゆっくり見ます」というコメントもいただいています。アーカイブでも視聴できますので、ぜひ後から見ていただけたらと思います。

 それではここから、次回の告知などに移っていきます。まず、この放送を支援してくださっている企業様のご紹介です。アフラック様、IBM様、I-TONGUE様、いつも支援してくださってありがとうございます。

 そして、コメントをくださった皆さん、見てくださっている皆さん、本当にありがとうございます。

 次回の告知です。5月の「がんノート origin」は、悪性リンパ腫の牧野さんをゲストにお迎えし、悪性リンパ腫の闘病についてお話を伺っていきたいと思います。

 最後に、ゲストへのメッセージ入力のお願いです。今見てくださっている方も、アーカイブでご覧になる方も、チャットボックスや概要欄に記載しているGoogleフォームから、今日の感想や千英さんへのメッセージをぜひお寄せください。いただいたメッセージは、後日、画像上の色紙として千英さんにお渡しする予定です。「こう感じた」「ここが心に残った」など、どんな言葉でも大丈夫です。ぜひご協力ください。

【今、闘病中のあなたへ】

岸田 それでは、最後の項目となります。「今、闘病中のあなたへ」ということで、現在、病院のベッドの上からご覧になっている方や、通院中の方など、多くの方が視聴されていると思います。千英さんから、ご自身の経験を通して、この言葉をいただいております。
『雨が降るから虹も出る』。この言葉に込めた意図や思いを、お聞かせいただけますでしょうか。

後藤 私は比較的前向きな性格だと思っておりますが、それでも治療や病気を経験する中で、強く落ち込んだり、すべてを投げ出したくなったりしたことは数え切れないほどありました。そのたびに前を向くことはできず、後ろを向いたり、下を向いたり、うずくまりながら時間を過ごしてきたように思います。
その時間は、私にとっては集中豪雨のような感覚でした。治療は非常に孤独で、最終的な決断はすべて自分自身で下さなければなりません。治療を受けるか受けないか、進むか立ち止まるか。周囲や医師は助言をしてくれますが、決めるのは自分です。

 特に若い世代にとっては、その決断が大きな負担になると思います。自分の命に関わる選択を、自信の持てない状態で行うことは、私自身も大きな戸惑いがありました。しかし、集中豪雨の中で一人うずくまっているように感じていても、雨はいつか必ず止むのだと、今は思えます。
そして、虹は必ず現れます。つらい時間はありますが、時間が解決してくれることも多く、明るい未来は必ずあると感じています。自分だけが後ろ向きなのではないかと思われる方も多いと思いますが、決してそうではありません。誰もが同じような時間を経て、再び社会へ戻ってきています。
その思いから、『雨が降るから虹も出る』という言葉を大切にしており、今回この言葉を選ばせていただきました。

岸田 千英さんが特につらかった時期には、時計の秒針を見つめながら耐えていた、というお話もありましたね。

後藤 はい、そうです。

岸田 その時間を乗り越え、現在は職場にも復帰され、こうしてがんノートにもご出演いただいています。外から見ると、とても活動的で、まさに虹が出ているように見えますが、その背景には多くの経験があったのだと改めて感じました。
千英さんのお話から、勇気をもらった方も多くいらっしゃると思います。本日は、がんノートをご視聴いただき、誠にありがとうございました。

岸田 これにて、がんノートoriginを終了いたします。長時間にわたりご視聴いただき、ありがとうございました。また次回お会いできればと思います。
それでは……。

後藤 ありがとうございました。

岸田 失礼いたします。

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