目次

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インタビュアー:岸田 / ゲスト:渡辺

【宣告】

岸田 どのように発覚して、告知されていったかをお願いします。

渡辺 2013年頃に耳下腺嚢胞と診断されて2014年1月に大学病院で手術をしたんですが、その後も何度か腫れてきて治療や手術をしたりしたんですが、6月末に滑膜肉腫と診断されました。

渡辺 滑膜肉腫自体が耳下腺にできることが、そもそも例がなくて、見つかるのがちょっと遅くなり過ぎたかなっていうところでした。

岸田 見つかるまでで結構、大変な経験をされているんですけれども、振り返っていきたいと思います。2013年の8月から、耳下腺の嚢胞・・・。

渡辺 そうですね。そのとき、周りが見ても『こぶとりじいさん』みたいに、パンパンに腫れてて。

岸田 目に見えるぐらい腫れてきて、それはどれぐらいの期間で腫れてきました?

渡辺 徐々に。自分が気が付かないぐらい。

岸田 その頃は耳下腺嚢胞と..

渡辺 がんの仲間かもしれないけれども、陽性ですよっていう状態でした。

岸田 そこで、大学病院の手術室を借りて手術してもらって、陽性だから取ろうということになったと。そうしたら、1月から9月、秋口なってきたら、また腫れてくるということですね。

渡辺 そうですね。マスクしていられない、みたいな。触れているだけでも痛い、みたいな。神経を針で常につつかれているぐらい痛いんですけど。よく我慢していたなっていうぐらいでした。

岸田 痛いし、腫れてくるし。手術して取ります。それはチェックしなかったんですか。

渡辺 チェックしたんですけど、なかなか結果が出なかった。

渡辺 病理検査で出なくて、多分、病院の先生方も、滑膜肉腫がここにできるっていうこと自体が、想定してなかったみたい。

渡辺 その名医の先生も、長年医療の現場に立ってた中でも、見たことがないっていうことで。

渡辺 見落としたっていうわけでもないですけれども、本当に。

岸田 そこから再び腫れてきて、2014年11月にピシバニール投与。これは抗がん剤。

渡辺 ピシバニール自体が、口の中にできるがんとかに対して使われる抗がん剤の一種らしくて。

岸田 使った後、再び腫れてくると。意味なかった。

渡辺 そうですね。効果、一瞬あったような感じがしたんですけど、また腫れてきました。

岸田 もう一回やるんですね。

渡辺 そうです。一回、血腫や嚢胞、これを抜いてからそこに入れるという。

岸田 それを1月に入れたけど、2月から3月、また繰り返し腫れてくると。

渡辺 そうですね。2回目は、ほぼ効果がないようなもんでした。このときは何かが触れるだけで痛い、みたいな状態でした。

岸田 痛かったと。そんな中、繰り返しやっていって、その後、3月・4月になってきたら、某総合大学病院に転院。ここまでやって、うちでは手に負えないから、こっちの総合大学病院に行ってくれと。

渡辺 そうですね。

岸田 大学病院に転院して、そしてその5月、さっき言った血腫洗浄術。

渡辺 切って、広げて、かき出してみようっていう。

渡辺 そのときは、ちょうど仕事も夜勤明けて、この紹介状を持ってこっち来たときに、いきなり研究員みたいな先生方に、囲まれて、何だこれってみんなしゃべってるんです。

渡辺 その後にベッドに連れていかれて、これから中のたまっている物、出してみますって始まって。

渡辺 局所麻酔は使ってたみたいですけど「痛いです、痛いです」ってずっと言ってたんですけど「ちょっと待ってくださいね」って言って「もう少しですから」って言ってやっていくうちに「でも、これ、全部は取れないな」みたいな。

岸田 話されてるわけ。まじ、いい迷惑ですね、患者からしたら。

渡辺 この痛みは本当、歴代の中でも結構。

岸田 血腫洗浄術をやって診断が付いたと。

 

渡辺 病院行って、滑膜肉腫っていうちょっとやっかいな病気で、このままにしておくと命に関わるものなんで、早急に手術しなきゃいけないって診断結果が出ました。

岸田 滑膜肉腫っていう言葉を聞いたとき、どうでしたか。

渡辺 まず名前。そもそも肉腫っていうものが、がんっていうことも初めて知って、名前も分からないんで、先生の話、聞いてても全然ちんぷんかんぷんで。

渡辺 やっとネットで調べて、とにかく危険な病気なんだっていうことは分かりました。

岸田 ショックを受けたとかっていうよりは、検索して、危険な病気なんだって思ったってことですね。

渡辺 そうですね。命に関わるというところが結構、引っ掛かり、ちょっとびっくりしました。

岸田 そして摘出手術を受けていきます。この摘出手術はがっつり。

渡辺 そうですね。そのときは今よりも、もうちょっと腫れてたんですけど、顔面神経まひ、神経も取るっていうことになって、がっつりと、首周りぐらいまでを大きく手術しました。

岸田 大きく。それで摘出して、その後、放射線治療を行っていくんですね。

渡辺 朝の8時ぐらいに入って、終わったのが夜の11時とか。

渡辺 取る先生と、太ももから筋肉、移植したんですけど、8時から23時なんで、十数時間に及ぶ大手術で、意識が戻ったときには、開けたら奥さんがいてっていうような状態で、口の中にいろいろな器具が入った状態で、喉にも痰が絡むっていう状態で、とにかくしゃべれないし、苦しいしで、本当、この手術で結構、つらかったんだっていう。

岸田 どれぐらいで退院するんですか。数週間で退院していく感じですか。

渡辺 ここはずっと入院してました。

岸田 放射線治療をどれぐらいやったんですか。

渡辺 ここでの放射線は、1カ月丸々。

岸田 そして、その後に抗がん剤をしていくと。

渡辺 そうですね。ここでも退院しないで、入院したまま。

岸田 それも、どれぐらいやったんですか。

渡辺 3クールです。3カ月間、行いました。

岸田 そんな中、ようやく退院。

渡辺 ここ、1年ぐらい。空いてるんですけれども、また休職してたので、退院して、そこから毎月一遍、レントゲン検査をしながら、順調にいってるなっていうところで、9月に、残念なお知らせなんですけれどもということで、肺転移が発覚しました。

渡辺 この転移の発覚が一番、精神面では落ち込んだなっていう。

渡辺 肺に転移したことで、5年生存率っていう話をさせてもらうと、30パーセントから40パーセントぐらいになりますということで、私がこれまで診た経験の中では、出た時点で非常に危ない状況になりますというふうには言われました。

岸田 言われたときは、頭、真っ白とかですか。

渡辺 そうでした。

渡辺 ここにたどり着くまででも、自分は自分で滑膜肉腫って何なんだろうとか、ものすごい調べたんで、そこを調べてる過程の中でも不安感とかが募ってきて、そこで肺転移するか、しないかっていうところが、一つの分岐点だったみたいなんですよね。

渡辺 それも勉強している中で理解してきて、そんな中で肺に転移していますってことだったんで、なおさら落ち込みました

岸田 そうですよね。予後が悪いというか、そういう話をされるわけですもんね。そして、肺のがんの摘出手術をして、それで結構、いろいろ大変な思いもされ。そんな中、抗がん剤治療も、またスタートするんですか。

渡辺 そうですね。肺摘出手術を行っても、既に体の中に。

渡辺 耳下腺から肺に出ている、その時点で散らばっているっていうこと。

渡辺 散らばっているから全体的に、予防という形で抗がん剤をしなきゃいけないということで。

岸田 抗がん剤、2017年にして、今は経過観察に至るって書いてるんですけど、今のところはどうなんですか。

渡辺 今のところは順調に。何とか。クリアできてっていうところまで来れました。

岸田 そうすると、17年から今、2020。抗がん剤してから3年近くたつと。

渡辺 3年です。肺転移して、抗がん剤が終わって、もうすぐ3年です。

渡辺 あと残り2年、順調にいけば、一応5年生存率っていう中では寛解っていう、一つの区切りになるっていうところです。

【家族】

岸田 ご家族のこと、話をしていきたいんですけども、家族構成を簡単にお願いできますか。

渡辺 家族は、今、現在は私と、娘と、奥さんで、3人で暮らしてまして、その前までは父と、母と、あとは兄と姉が。

岸田 そんな中で、家族に。まず奥さまだったり、お子さんの話はまた後でしていくんですが、家族に、ご両親とご兄弟に、どうやってがんを伝えたんですか。

渡辺 そのときは、ちょうど自分が病院で滑膜肉腫っていう診断を受けましたっていうのを、自宅に戻って、先生に言われたとおりのことをそのまま伝えて。

渡辺 その当時、既にお父さんもお母さんも定年暮らしで、仕事もしてなくて、自宅で暮らすっていう生活だったんで、うちの両親もその当時、脳梗塞にかかってて、手足が不自由で、お母さんもお母さんで乳がんにかかったりとか、がんにかかった人のつらさを分かってくれて、かつ、でも年も年だしで、何をしてやったらいいんだろう、みたいな。

渡辺 すごい残念っていうか、悲しい気持ちにはなってただろうなっていうところでした。

岸田 ご両親は定年退職されていて、サポートってどうなるんですか。例えば。

渡辺 当時、実家暮らしだったんで、食事だったりは当たり前に。あとはお金の面でも少し、支援してもらったりはありましたかね。

岸田 次、ご兄弟。どう伝えたんですか。

渡辺 そのときは、みんな実家から出てたんで、電話づてで、がんになったっていうことを伝えてって感じです。直接、会いにとかっていうよりは。

岸田 結構、びっくりされました? どうですか。

渡辺 そうですね。びっくりしたっていうよりも、私と同じで、滑膜肉腫ってそもそも何なのかっていう。

渡辺 とにかく命に関わるような病気だったんだっていうことだけ知って、その後に、徐々に兄も姉も、自身で調べてくれたりとかして、だんだん内容が分かってきたというような。

岸田 ご兄弟のサポートだったり、こうしてくれたっていうのは、どうです?

渡辺 東京の兄が何もしてやれないけれどもっていうので、またかかってきたというぐらい、とにかく電話で大丈夫か、みたいに。

渡辺 あとは愚痴もすごい聞いてくれて、今、思うと、本当、毎日ではなかったんですけども、2、3日に一遍とか、励ましてくれて、悩み聞いてくれたのは、すごい。うれしかったです。

岸田 ちゃんと、愚痴もいっぱい聞いてくださって。そんなご家族の話なんですけど、奥さんと結婚してどれぐらい。がんになったときは。

渡辺 結婚して半年。新婚ほやほやの中で、子どももその後、生まれるっていう中だったんで、私自身もがんになって、コントロールできるものじゃないんですけども、申し訳ないっていう気持ちには、本当になりました。

岸田 どういうサポートがあったりとか

渡辺 その当時は、入院してたときも、毎日顔を出しに来てくれてました。

渡辺 子どもはおじいちゃん・おばあちゃんに見てもらいながら、毎日、看病というか、面会に来てくれて、常にそばにいてくれたなっていうような。

岸田 すごい。いい奥さんですね。奥さんも働かれて。

渡辺 子どもが生まれるぎりぎりまで、社員として頑張ってたんで。

渡辺 当時は仕事、終わってから顔出すねとか、そういうときもありました。

岸田 本当に、そういう奥さまのサポートもあり、そして、お子さんはそのとき、お生まれになったということで、多分、今はがんって言っても分からないと思うんですけれども、どういう時点でお子さんに伝えますか。

渡辺 お父さん、病気なんだなっていうのは、何となく理解はしてるみたいなんです。

渡辺 どこかのタイミングで伝えなきゃいけないなっていうのはあるんですけども、今は寛解してる状態なんで、徐々に。

渡辺 今、私自身もその辺、模索しながらなんですけど、伝えていくところは、今はまだ考えているところです。

【仕事】

岸田 その中で仕事のこと。

渡辺 仕事は、工場で金属加工の仕事をしてて、実は結婚もそうですし、結婚を機に転職っていう形を取って仕事を変えたんですよね。

渡辺 ただ、会社のほうには正直に、こういう病気になって、こういう状況ですっていうことを伝えて、そうしたら休職しますか、どうしますかって話を出してくださって、休職させてもらって。

渡辺 今までお話しした中でも、休職・復職、休職・復職を繰り返し、そんな中で毎回、リセット、また始まった、リセット、始まったっていう状況でした。

岸田 当時の会社の理解、上司の理解はあったっていうことですか。

渡辺 まず取りあえず、がんなんだねっていうことで、休職するっていうんであれば休職で、また結果とか状況を伝えながら、復帰できるときを教えてくださいっていうふうに、そこは本当に、今、思い返すとありがたかったなっていう。

渡辺 自分の中でも助かったっていうふうな。

岸田 会社の理解、滑膜肉腫っていうのは知らなかったけれども、がんに対する理解はしてくれて、休んだり、仕事行ったり、休んだり、仕事行ったりをさせてくれたっていうことですね。

【お金のこと】

岸田 そんな中、お金や保険のこと。これ、切って切り離せないと思うんです。

渡辺 治療費は150いかないぐらいで、あと生活費とかいろいろ含めると、200ぐらいいったかなっていうところでした。

岸田 保険は入ってたんですか。

渡辺 がん保険が入ってなくて、医療保険。がん保険は入ってなかったんですけど、生命保険に入ってて、そこから一回病気になったときに、入院だとか手術が必要なものになった場合は、一時金が出るっていうもので、それで何とか手術代は。

渡辺 そこで抗がん剤特約とか、そういったものは付いてなかったんですよね。一回こっきりでしか。

岸田 どうするんですか、それ。

渡辺 そこは、先ほどの傷病手当金だとか、あとは会社のほうでも労働組合があって、組合の保険もたまたま、私も入ってて、その保険だったり、それでかき集めて。

渡辺 あとは、貯金も切り崩してっていうようなときでした。

渡辺 あと、一番お金がかかったって中でも、一つ、そこ、家族も絡んでくるんですけれども、引っ越したんですよね。

岸田 トータル、そういったものも合わせたら、200万ぐらいじゃ利かないですよね。

渡辺 細かくは計算してないんですけども、もしかすると、もっとかかってるかもしれないです。

【つらい時と克服】

岸田 どのタイミングが一番つらかったですか。それに対する克服、どうしていきましたか。

渡辺 つらいときは、最初の手術のときですね。つらいときの克服は家族のサポート、あとは奥さんのサポートが一番大きかったです。

渡辺 年齢的に働き世代なんで、友人も友人で心配して来てくれたりもあったんですけれども、どうしても仕事もあるし、貴重な休日を使ってっていうのもなかなか大変だったんで、身近にいる家族や兄弟、あと、一番は奥さんと子どもが支えになりました。

渡辺 あとは、長くならないようになんですけど、2回社会復帰っていうときに、20代の頃からサーフィンずっとやってて、それが一つの支えにもなったな、みたいな。

岸田 コメントに「現実を受け止めて、治療に前向きになれるまで、どのくらいの時間がかかりましたか」という質問いただいています。

渡辺 それは全て終わってから。

岸田 2013年から宣告されて、前向きに受け入れられるようになったのが、全て終わったとき。

渡辺 そうですね。本当に抗がん剤、肺転移手術を終わって、何もかもなくなりましたっていう。そこからすごい。調子良くなったというところでした。やっと、これからスタートだ、みたいな。

【後遺症】

岸田 そんな中で後遺症、何かありますか。

渡辺 足の上げが悪いとかがあって、その痛みとか、神経痛です、どっちかっていうと。肺も取ってる。

渡辺 神経の後遺症と、最近は、前々からそうなんですけれども、よく風邪ひきがち、免疫力がかなり落ちたというのはあります。痛感しました。

【反省、失敗】

岸田 反省・失敗。あのとき、こうしておけばよかったなということ、ありますか。

渡辺 反省・失敗は、この病気の複雑さもあったんですけれども、周りの人たちの、言葉の受け取り方や、受け捉え方、あとは伝え方に失敗してしまったなって。

渡辺 例えば、職場の先輩や上司の方たちにも本当に伝えたかったことが伝えられなくて、こっちもこっちで、そういうこと言ってるわけじゃないんだよってネガティブに捉えちゃったりしちゃって。

岸田 本当はどう伝えたかったんだけれども、どう捉えられたんですか。

渡辺 一般的な会話の中で言うと、これから年齢的に、子ども2人目とか考えてる?とか、どうするの?とか、そういう話とかって、当たり前に飛ぶ内容じゃないですか。

渡辺 だけど、そこで何気ない会話が、こういう状況でそういうこと考えられないのにとか。

渡辺 受け止められる言葉を悪く捉えてしまって、そこに対して悪いっていうか、気に掛けてないような言葉でしてしまったっていうところもあったり。

岸田 ちょっと気まずくなる、みたいな。

渡辺 そうですね。どうしてもそこにプライベートな事情を混ぜてしまって、伝えてしまったりとかで、ぎくしゃくしてしまった人間関係もあったりとか。

【医療者に対して】

岸田 医療者に対して感謝とか、もしくは要望とかあったりしますか。

渡辺 今でも開業医の先生に、耳の様子がおかしいです、診てもらえますかって行くと、リスクのほうが先に来るのか、怖くて、なかなか触ってくれないんですよね。

渡辺 耳の穴の構造が変わってしまってるんで、何かあったときにって、なかなか診てくれない。

渡辺 わがままかもしれないですけども、踏み込んで診てほしいな、みたいな。

【得たもの、メッセージ、夢】

岸田 がんになって得たもの・得たこと、どうでしょうか。それを、今の、闘病中のあなたへのメッセージ、夢。

渡辺 今は娘が大人になるまで僕も頑張るしかないっていう。頑張っても生きて、いっぱい思い出を作ったりして、生きるしかない、それが夢です。

渡辺 今、闘病中のあなたへ、なんですけれども、今、つらい、過去つらかった体験談は、いろいろな形になって、いつか周りの人の助けにきっとなるっていうことです。

渡辺 それが私自身も感じたんですけれども、今、つらい、過去つらい自分を救うことにもなるなって思いました。

岸田 周りの人の、きっと助けになると。

渡辺 この希少ながんにかかったっていう情報が全然ないんで。

渡辺 でも、その情報を求めてる人ってたくさんいるっていうのを知って、この言葉が思い浮かびました。

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