目次
- 発覚/告知テキスト / 動画
- 治療テキスト / 動画
- つらかったことテキスト / 動画
- 家族テキスト / 動画
- 仕事テキスト / 動画
- お金・保険テキスト / 動画
- つらかったことテキスト / 動画
- 反省・失敗テキスト / 動画
- キャンサーギフトテキスト / 動画
- 夢テキスト / 動画
- 闘病中のあなたへテキスト / 動画
※各セクションの「動画」をクリックすると、その箇所からYouTubeで見ることができます。
インタビュアー:岸田 / ゲスト:渡部
【発覚/告知】
岸田 本日のゲストは、渡部亮さんです。まずは自己紹介をお願いします。
渡部 こんにちは、渡部亮と申します。がんの種類は舌がんで、ステージⅣAでした。2015年8月、36歳のときから闘病生活を送っています。現在は経過観察中で、今は40歳です。
岸田 舌がんとのことですが、現在ははっきりとお話しされていますので、そのあたりのお話も後ほど伺いたいと思います。まずは、がんの発覚や告知に至るまでの経緯を教えてください。
渡部 私は、当時まったく自覚症状がありませんでした。趣味でサーフィンをしているのですが、2015年8月にたまたま耳に水が溜まり、近所の耳鼻咽喉科を受診しました。耳の水はすぐに取れたのですが、その際に医師から「他にどこか気になるところはありませんか」と聞かれました。ちょうど前の週に、首のリンパが腫れていたことを思い出してその話をすると、「では口の中も見てみましょう」となり、診察してもらいました。そこで、舌に腫瘍が見つかりました。扁桃腺の問題どころではなく、舌のほうに腫瘍があり、「これは悪性の可能性が高いので、すぐに大学病院を受診してください」と言われ、紹介状を書いてもらいました。

岸田 そのとき、口の中を見てもらったのは、何か検査をされたのでしょうか。
渡部 いえ、目視で見ただけでした。言われてみれば、治りにくい口内炎のようなものがずっとあって、いつまでも傷っぽいなとは思っていたのですが、痛みなどの症状はなかったので、そのまま放置していました。
岸田 最初はサーフィンをしていて耳に水が溜まり、それがきっかけで近くの耳鼻咽喉科に行き、たまたま舌も診てもらったら発覚した、という流れだったのですね。
渡部 本当にたまたまでした。診てくださった先生が、大学病院でそういった分野の勉強をされている先生だったようで、運がよかったと言えるかもしれません。翌週に大学病院を受診し、舌の組織を一部取って検査にかけました。その結果、がんの疑いがあると告げられたのは、発覚から2週間ほど後でした。
渡部 ただ、その時点ではまだ確定ではありませんでしたし、そもそも「舌にがんができる」という知識がなかったので、あまり深刻に考えていませんでした。根拠はありませんが、「まあ大丈夫だろう」という気持ちでいました。
岸田 大学病院ではお一人で告知を受けたとのことですが、「舌がんです」と言われたとき、やはりショックは大きかったですか。
渡部 実際に言われると、当時は「がん=死」というイメージが強かったので、「いよいよやばいな」と思いました。
ただ、そのとき主治医の先生から、「最初に見つかった時点ではステージⅠで、5年生存率は90パーセント以上です」と説明がありました。また、「舌も3分の1から4分の1程度切除するくらいで、発語明瞭度も80パーセントくらいまでは回復します」と言われました。その説明を聞いて、「それなら仕方ないかな」と、ある程度気持ちを切り替えることができました。
【治療】
岸田 治療は、どのような流れで行われたのでしょうか。
渡部 年齢が若いこともあり、進行が早いだろうという判断で、主治医の先生が発覚から1週間ほどで手術日を押さえてくださいました。あっという間に手術日が迫ってきた、という感覚でした。当時は放射線治療という選択肢も頭になく、「手術で少し切れば治るだろう」と、正直かなり楽観的に考えていました。最初の手術入院は、約2週間でした。
岸田 その後、10月に再発が見つかります。
渡部 最初の入院は8月中旬で、9月中旬に職場復帰しました。その間、毎週のように病院に通って経過観察をしていたのですが、その期間中に主治医から「切除した舌の断端に、がんが残っている可能性がある。断端陽性かもしれない」と告げられました。
不安を抱えながらセカンドオピニオンも受けつつ様子を見ていたところ、ある日、首のあたりにビー玉大のしこりのようなものがあることに気づきました。
再発の可能性を聞いていたこともあり、「いよいよ来たか」と思い、次の診察で主治医に伝えると、「がんの可能性がある」とのことで、すぐにCT検査や血液検査が行われ、「すぐ手術しましょう」という判断になりました。
岸田 ご自身の病院に通いながら、セカンドオピニオンも受けていたのは、どのような理由からでしょうか。
渡部 断端陽性と言われた時点で、最初に手術をした病院に対して少し不安がありました。仮に断端陽性でなかったとしても、「舌はもう少し切ったほうがいいのではないか」という思いがありました。
そこでセカンドオピニオン先では、「もし追加で切除した場合、どれくらい後遺症が出るのか」「後遺症を抑えた形で手術ができるのか」といった点を相談しました。QOLを重視するあまり切除範囲を抑えた結果、がんが残ってしまった可能性も考え、慎重に判断したかったのです。
岸田 セカンドオピニオン先は、どのように決められたのですか。
渡部 義理の母と義理の兄が医師で、妻もがん研究に関わっていたことがあり、家族がかなり真剣に調べてくれました。その中で、セカンドオピニオンを勧められました。
セカンドオピニオン先では、「今よりもう少し舌を切除し、場合によっては予防的に頸部郭清(首のリンパ節の切除)を行ったほうがいい」と言われました。結果的に治療方針自体は最初の病院と大きく変わらないとも感じましたが、最終的にはセカンドオピニオン先での手術を選びました。
理由としては、最初の病院に対する不安があったこと、そして症例数が多く、手術経験が豊富なほうが安心できると感じたからです。なお、最初の病院の先生も理解があり、「これを持ってセカンドオピニオンに行きなさい」と、すぐに資料を揃えて渡してくださった点は、とてもありがたかったです。
岸田 最初の病院からセカンドオピニオンまで、スムーズに進みましたか。
渡部 たまたま枠が空いていて、「2週間後に受けられます」と言われました。その後押しもあって、セカンドオピニオン先での手術を決断しました。
岸田 その2週間、不安はありませんでしたか。
渡部 正直、その頃は思考停止状態でした。家族任せ、医療者任せという感じで、あまり深く考えないようにしていました。
岸田 そのときの入院期間はどれくらいでしたか。
渡部 このときは、40日間入院しました。手術時間は約10時間に及びました。舌を半分切除し、失われた部分には腕の肉を移植しました。さらに、その腕の皮膚を取った部分には、鼠径部(股の付け根)の皮膚を移植するという手術でした。気管切開も行っています。
手術後はICUに5日間入り、その後一般病棟に移りましたが、そこで肺炎を併発し、約1週間隔離されることになり、退院が延びました。ある程度話せるようにならないと退院できないため、リハビリを続けながらの入院生活でした
当初は口から食事ができず、鼻から管を入れる経鼻経腸栄養を約2週間行いました。その後、三分がゆなど、形のない非常に柔らかい食事から再開しました。術後3週間ほど経っても写真を見ると腫れが残っており、入院中はほぼずっと腫れていたと思います。また、2週間ほど口を動かさなかったことで口がほとんど開かなくなり、まずは「口を開ける練習」からリハビリが始まりました。
【つらかったこと】
岸田 入院治療中、つらかったことや大変だったことはありましたか。
渡部 一番大変だったのは、コミュニケーションでした。話すことができないため、すべて筆談やジェスチャーで意思疎通を取る必要があり、その点がとても大変でした。ホワイトボードを用意したり、簡単な手話を勉強したりしながら、なんとか伝える工夫をしていました。
入院中には言語リハビリがあり、言語聴覚士の方がついてくださって、「あいうえお」の朗読からリハビリが始まりました。舌が半分なくなり、動かせない部分もあるため、自分では発音しているつもりでも、思ったとおりの音がまったく出ません。そのため、「失われた状態の中で、どうやって発声するか」を一から学び直すような形で、リハビリを続けていました。

渡部 発声の際には、舌の先を上あごにつけたり、舌で空間をふさいだ状態で音を出したり、一部分だけを当てたりと、実は私たちは無意識のうちに細かな動きをしています。
通常は、舌の両端が上あごについて中央が開くような形を自然につくっていますが、私の場合は舌が半分なくなっているため、空洞のようにぽっこり空いてしまいます。その空間をどう補って話すかを常にイメージしながら発声しなければなりませんでした。
リハビリでは、「どこが触れていて、どこが触れていないのか」を強く意識しました。昭和大学のリハビリが有名で、そこで専用の器具を作ってもらいました。入れ歯のような装置に電極が付いていて、舌がどこに当たっているかがモニターで分かる仕組みになっています。
そのモニターを見ながら、「この音を出すときには、どこが空いているのか」を視覚的に確認しつつ、発音の練習を重ねました。そうしないと、なかなか思ったとおりの言葉にはならなかったからです。人前で恥ずかしくなく話せるようになるまでには、約2年かかりました。家族と自然に会話ができるようになるまでも、半年から1年ほどの時間が必要でした。
【家族】
岸田 ご家族のお話に移りたいと思います。まず、ご両親やご実家について伺いたいのですが、がんになったとき、ご家族にはどのように打ち明けましたか。また、ご両親からどのようなサポートがあればよかったか、あるいは「こうしてほしかった」と思うことはありますか。
渡部 父は61歳で他界しており、今、親は母のみになります。家族構成としては、弟が一人いて、私自身は妻と、妻の両親、そして義兄がいます。
母にはあまり深く考えず、「病院に行ったら舌がんって言われちゃってさ」というような、軽い感じで伝えました。ただ、親にとってはかなりセンシティブな話題だったようで、「私が代わってあげたい」と言われるなど、かなり暗い反応になってしまいました。
一方で弟はとても冷静で、「寝ている間に舌をかんで、枕を血まみれにしていたことがあったよね」と言われました。舌は誰でもたまにかむものですし、治りが少し遅いこともあるので、私はあまり深く考えていなかったのですが、弟は以前からの兆候を冷静に分析していたようです。
最初の入院のときは、あまり来ないでほしいと伝えていたこともあり、家族の面会は少なめでした。ただ、2回目のがん研有明病院での入院のときには、家族もよく来てくれていました。特に妻は、生後半年ほどの娘を連れて、ほぼ毎日のように面会に来てくれていました。
岸田 奥さまには、どのように伝えたのでしょうか。一緒に告知を受けたわけではないですよね。
渡部 妻はがんの研究に携わっていたこともあり、がんに対する免疫がありましたので、素直にそのまま話しました。がんになったことを悔やむよりも、「最善の策を一緒に探そう」という姿勢でいてくれました。今振り返ると、妻がとてもしっかりしてくれていたおかげで、私自身が泣き崩れることもなく、気持ちを保てたのだと思います。
岸田 奥さまにしてもらって、特によかったことや、逆に「こうしてほしかったな」と思うことはありますか。
渡部 やはり一番うれしかったのは、ほぼ毎日のように面会に来てくれたことです。それは精神的にとても大きな支えになりました。また、比較的わがままも聞いてくれていたと思います。
岸田 娘さんが生まれてからのがん宣告でしたが、お子さんがいることで感じたことや、今後どのタイミングで伝えていくかなど、考えていることはありますか。
渡部 がんになったとき、娘は生後6カ月ほどでした。毎日のように病院に来て、私の姿を見ていたので、何かしら感じ取っていたのではないかと思います。言葉を話すようになってからは、本人が「がん」という言葉を口にすることもあり、ある程度理解しているのではないかと感じています。特別にこちらから説明しようと考えたことはありませんが、子どもなりに何かを感じ、理解しているのだと思います。
岸田 奥さまががんの研究者だったことは、心強かったですか。
渡部 はい、とても心強かったです。打ち明けること自体もあまり構えずにできましたし、何かあれば、相談というほどでなくても話を聞いてもらえたので、その存在は本当にありがたかったですね。
【仕事】
岸田 お仕事について、当時どのようにお休みをもらい、どのように社会復帰していったのかを伺えますか。
渡部 市役所勤務でしたので、がんが発覚した時点ですぐに上司に話をし、入院の手配などを取っていただきました。
最初は有給休暇を消化し、その後は休職扱いにしてもらいました。公務員の場合、休職は1年半ほど認められているため、比較的休みは取りやすかったと思います。
岸田 当時、市役所ではどのようなお仕事をされていたのですか。
渡部 教育委員会のスポーツ科に所属しており、スポーツイベントの企画運営や、スポーツ施設の管理運営などに携わっていました。当時は、どうしても自分でなければできない仕事がありましたので、それに戻るため、8月末に退院し、9月中旬には職場復帰しました。
ちょうどその頃、「手話ダンス」という事業を担当しており、高校生たちが参加する手話パフォーマンス甲子園の引率で、鳥取県まで行く必要がありました。これは自分が復帰して連れて行かなければならないと思い、無理をして復職しました。
岸田 そういった仕事をして帰ってきて、再発が発覚したのですね。
渡部 はい。溜まっていた仕事をこなしているうちに、再びがんが見つかり、再手術と入院が決まりました。そのときは、もう無理やり休まざるを得ない状況でした。命に関わることでしたので。
岸田 二度目の復職では、まずスノーボードに復帰されていますよね。大会があったからですか。
渡部 12月の時点で医師に相談し、「どうせ死ぬかもしれないなら、後悔しない人生にしよう」という気持ちもあり、仕事より先にスノーボードを選びました。
岸田 職場復帰はスムーズにできましたか。
渡部 正直、自分が思っていた以上に大変でした。まだ十分にしゃべれない状態にもかかわらず、復職後は以前と同じ業務を求められ、電話対応も他の職員と同じように行う必要がありました。
上司が同僚に状況を説明してくれているものだと思っていましたが、実際には十分に伝わっておらず、同僚は「復帰したなら、以前と同じように働けるはず」と思っていたようです。その認識のズレが大きな負担になりました。
当時は言葉が不自由で、コミュニケーション自体が億劫になっており、自分からあまり説明をしなかったこともありました。その点は今でも後悔しています。
一番つらかったのは、昼休みの1時間を使った電話当番でした。しゃべることが難しい自分にとって、誰にも代われず、1人で対応しなければならない状況は非常にプレッシャーでした。
岸田 そうした中で、最終的に退職を選ばれた理由は何だったのでしょうか。
渡部 2018年頃から、病気になったことで、自分がやりたかった仕事や、これまで担当してきた仕事を次々と外されていきました。上司なりの配慮だったのかもしれませんが、私自身には「仕事を取り上げられた」「閑職に追いやられた」という感覚が強く残りました。
本当は、「こういう仕事がしたい」「こういう形で関わりたい」という話を、もっとしておくべきだったと思っています。背景には、がんに対する偏見や誤解があると感じました。特に行政は減点法の評価が強く、少しでもできないことがあると、どんどんマイナス評価され、窓際に追いやられるような感覚がありました。これは個人の問題ではなく、社会の問題なのではないかと感じるようになりました。
岸田 偏見や誤解が、社会の仕組みや風潮として残っていると感じたからこそ退職し、それを変えようと市議に立候補されたのですね。
渡部 はい。岸田さんや、キャンサーペアレンツの西口さんの活動を見て、自分も社会に対して何か貢献したいという思いが強くなり、市議という選択肢に至りました。

【お金・保険】
岸田 お金について伺います。当時、治療費はどれくらいかかりましたか。
渡部 高額療養費制度があったので、かなり助けられましたが、1回目と2回目の手術を合わせると、全部でおよそ100万円くらいはかかったと思います。それ以外にも、当然ですが生活費などは別にかかっていました。
岸田 保険には入っていましたか。
渡部 健康保険には入っていましたが、がん保険には入っていませんでした。実は半年前にファイナンシャルプランナーの方と相談して、がん保険を見直したばかりで、「うちはがん家系じゃないので、がん保険はいりません」と断った直後だったんです。
渡部 ただ、親が入ってくれていた医療保険がたまたま比較的しっかり出たので、結果的には少し赤字が出る程度で済みました。
【つらかったこと】
岸田 つらかったことの克服について、肉体的な面、精神的な面、それぞれお聞かせください。
渡部 肉体的につらかったのは、退院後ですね。2回目の手術のあと、まず「しゃべれない」「食べられない」という状態になりました。病院では、上げ膳据え膳で食べやすい形に工夫された食事が出てきますが、いざ家庭に戻ると、すべてが食べやすいわけではありません。そのため、食事に人の倍以上の時間がかかってしまい、それが本当に大変でした。その中でも一番大変だったのは、やはり「しゃべること」でしたね。

渡部 しゃべることが本当に通じなくて、今でもトラウマとして残っている出来事があります。レターパックライトが全く発音できなくて、コンビニで店員さんが私のしゃべり方を聞いた瞬間に「すみません」と言って、バックヤードに入ってしまったんです。
そのとき、「社会から見放されたな」と感じました。孤独感や疎外感が一気に押し寄せてきて、このまま死んでしまおうかなと思うくらい、精神的に追い詰められました。
岸田 やはり、言いにくい行というのはあるんですか。今は全然普通にお話しされていますが、これは訓練によって良くなるものなのでしょうか。
渡部 4年たつと、このくらいにはなりますね。もちろん、ある程度のリハビリは必要だと思います。舌が半分なくても、ここまでしゃべれるようになるというのは、今の自分を見ていただければ分かってもらえるかなと思います。
岸田 腕や脚も切っていますが、肉体的な影響はいかがですか。動かしにくさなどは。
渡部 首の頸部郭清をすると、右肩の神経を触ってしまう関係で、肩が上がりにくくなるんです。今はもう動くようになりましたが、当初はほとんど動きませんでした。今も後遺症として残っているのは、腕の皮膚を取った影響で、親指のしびれですね。今もここは、じんわりとしびれている感覚があります。雨の日などは、ぎゅっと突っ張られているような感覚が常にあります。今は肩も上がるようになりましたが、当時はここから上がらず、リハビリを重ねて少しずつ上がるようになりました。
【反省・失敗】
岸田 反省や失敗について、あのときこうしておけばよかったな、と思うことはありますか。
渡部 はい。仕事のところでもお話ししましたが、もっと職場の仲間とコミュニケーションを取っておけばよかったなと思います。やはり、自分の口で伝えないと駄目だなと感じました。当時は本当にしゃべるのが嫌で、極力しゃべらないようにしていました。最低限、取らなければいけない場合は対応していましたが、取らなくても済む人とのコミュニケーションを避けてしまったのは失敗だったなと思います。同じ職場で直接仕事の関わりがなくても、同じ空間にいれば、実は相手は心配してくれているんだと思うんです。そこで、自分の言葉で伝えるということが、すごく大事なんだなと、今になって強く思いました。
【キャンサーギフト】
岸田 キャンサーギフト。がんになって失ったものもたくさんあると思いますが、あえて、得たもの・得たことは何でしょうか。
渡部 がんになって得たものは、一番は仲間、そして家族の存在に気付けたことだと思います。

渡部 家族の支えがなければ、がんを乗り越えることもできなかったと思います。スノーボードでまた活躍できたのも仲間の支えがあったからですし、選挙で当選できたのも、仲間の力があったからこそだと思っています。それまで、家族や仲間、友人という存在は「いて当たり前」だと思っていました。でも、それが実はどれだけありがたいことなのか。病気になって、初めて気付くことができました。
【夢】
岸田 夢。今の亮さんの夢、何でしょうか。
渡部 これまで、夢は比較的かなえられてきたかなと思っていますが、これから先にやりたい夢が二つあります。一つは、スノーボードの全日本技術選手権大会で優勝することです。がんではない人たちの中で自分が活躍することが、今まさに苦しんでいる人たちの励みになったり、勇気や希望につながると思っています。
だからこそ、これは何としても達成したい夢です。もう一つは、皆さんからご信託をいただき、市議会議員にならせていただいた立場としての夢です。がんに限らず、病気、障害、LGBT、いじめなど、さまざまな「生きづらさ」を抱えている人たちがいます。そうした人たちが、少しでも暮らしやすい社会をつくっていきたい。
誰かだけが生きやすい社会ではなく、誰もが生きやすい社会をつくること。それが、今の私の夢です。
【闘病中のあなたへ】
岸田 亮さんから、闘病中のあなたへメッセージをいただければと思います。
渡部 **「不撓不屈」**という言葉を選びました。苦労や困難にあっても、くじけず、折れずに立ち向かうという意味の言葉です。
渡部 諦めなければ、必ず夢はかないます。これはきれいごとではなく、私自身が身をもって感じてきたことです。

渡部 頑張りましょう。90分、楽しくお話しさせていただきました。ありがとうございます。
岸田 どうもありがとうございました。
※本ページは、経験者の体験談を扱っております。治療法や副作用などには個人差がございますので、医療情報に関しましては主治医や、かかりつけの病院へご相談、また科学的根拠に基づいたWebページや情報サイトを参照してください。
*がん経験談動画、及び音声データなどの無断転用、無断使用、商用利用をお断りしております。研究やその他でご利用になりたい場合は、お問い合わせまでご連絡をお願い致します。