インタビュアー:岸田 / ゲスト:白井

【発覚・告知】

岸田 子宮体がんがわかったときのことを教えてください。

白井 そもそもがんとの出会いというか。 私、今の仕事の前は製薬会社に8年くらい勤めていたんですよ。その前にじつはイギリスでテレビ関係の仕事を少ししてまして。なぜ私がイギリスに行ったかっていうと、めちゃめちゃイギリスの音楽が好きだったから。

岸田 UKロック。

白井 UKロック。ブリティッシュビートみたいなところですね。私をイギリスへ導いてくれたバンドっていうのが、ビートルズとかザ・フーあたりの1960 年代のUKロックですね。そのザ・フーのボーカルのロジャー・ダルトリーっていう人が、「ティーンエイジキャンサートラスト」の後援者になっていて、イギリスでチャリティ活動をしていました。 ティーンエイジキャンサートラスト」っていうのは若年性がん患者のためのチ ャリティ団体で、若年性がん患者が過ごしやすい病棟を作ったりするためのお金集めとかをしている団体なんです。イギリスでそのコンサートに行けるような環境が魅力的で、私は徐々にイギリスに流れて向こうで仕事をしてしまったという。そこからちょっとがんとは関わりがあったんですが。

岸田 けど、そのときは関わりがあっただけですよね。

白井 はい。それから毎年イギリスに行くようになって、2007年かな、そのライブがあったのが4月くらいで、日本に帰ってきたら、なんか旅行疲れか体調悪いなって思って。そして友達と遊んで たある日、飲み会の帰りに高田馬場の駅で倒れまして。

岸田 マジですか。

白井 トイレで倒れまして。生理ですよね。生理がひどい状態で、出血多量で貧血になって。そこでおかしいことに気が付いて、病院に行ったのがきっかけなんです。それまでもちょっと生理不順があって、何度か検査はやってたんですけど。 普通、婦人科の検査に行くと子宮頸がんの検査なんですよね。

岸田 そんなイメージありますね。

白井 子宮頸がんって若い世代もなりやすいがんなので、子宮頸がんの検査はしてたんですけど、まったく白でOKだっ た。体調が悪かったり、生理不順があるけど、ん、ん、ん? っていうので数年過ごしてきたところで、バタリと倒れたということなんです。

岸田 じゃあ、倒れて、病院行って。

白井 病院に行って、先生に見てもらったら、もうちょっと詳しい検査をしようかと。いわゆる痛いほうの検査ですね。 めっちゃ痛いんですよ、子宮体がんの検査って。

岸田 正直子宮頸がんぐらいしかイメージがないので。

白井 そうですね。子宮体がんって、そもそも閉経後の方がなるようながんで。 実際、子宮体がんを罹患している人の中でも、 代でなっている人って1%もいないんですね。

岸田 超レアですね。じゃあその子宮体がんとわかって。

白井 子宮体がんは、治療の第一選択肢って、じつは外科手術なんです。

岸田 そうなんですか。抗がん剤とかはやりました?

白井 抗がん剤の話はまったくなく。たぶんガイドラインとかでも第一選択が外科手術なんじゃないかな。そこらへんは、 医療系のことなので。

岸田 医療系のことは病院や主治医さんに聞いてください。

白井 それで外科手術だって言われて。そう言われたら従わざるを得ないというか、私はそのときあんまり考えずに…… 治ることが第一じゃないですか。

岸田 そうですね。

白井 ひどくなる前に治そうと。たまたまですが、私その数年前に両祖母を子宮がんで亡くしてまして。その両祖母が、子宮頸がんか子宮体がんかっていうのも覚えてないぐらい、自分でも知識がなかったんですよ。それはさておき、おばあちゃんもそういうふうに亡くしたし、ひどくならないうちに早く治さなきゃっていう気持ちだけで、手術日をまず予約したんですよね。

岸田 じゃあ、そのとき子宮体がんです って、普通に告知されたんですか。

白井 うん、普通に。検査をしてから、先生になんとなく「もしかしたらね」って言われていて。検査結果を1週間後に聞いたら「やっぱりそうでした」と。結果が出るまでの1週間の間は、もしそうだったらどうしようかな、おばあちゃんも2人ともそうだったしな、っていうのを考えてましたね。

岸田 その間に心の準備を整えて。

白井 心の準備は、どちらかと言うとそんなにショックは受けていなかったのかもしれないです。とにかく治さないとっていうことだけしか頭になくて。

岸田 そこからへこむことはなかったんですか?

白井 へこむことはなかったけど、そのときに親戚のおばさんに、「たぶん治したあとが大変だよ」って言われたんですよ。そのときはその意味がわからずにそれを聞いてて。まだ20代でしたし。それがまたのちのちの話になるんですけどね。 そのときは自分は「治そう、治そう」と。

岸田 治すことにフォーカスしてたって 感じ。

白井 フォーカスしてて、あまりへこまずにとにかく治す。外科手術っていうんだったら手術だ。

岸田 強い、強い、そっか。

【治療】

岸田 じゃあそこで手術日が決定するわけですけど、何か月後だったんですか。

白井 実際倒れた日から手術までは1か月半ぐらいですかね。倒れてすぐに病院に行って。検査して、1週間後に結果がわかって、そのあとに小さな手術を1回やったんですよ。子宮内膜搔爬手術っていう、内膜を子宮からかき出す。でも先生が「やっぱり細胞が多いからかき出しきれない、これは全体的に取らなきゃ」って。実際摘出するまでは倒れた日から1か月半から2か月ぐらいだったと思います。

岸田 じゃあけっこうスピーディーに進んだほうじゃないですか?

白井 そうですね。おそらく手術も空きがあって、すぐ入れたんじゃないかな。

岸田 手術のとき、自分の中での選択ってどうだったんですか、決断は。

白井 まずは治そう。選択肢はなかったんじゃないかな。切る手術する、会社を休める日が何週間なのかな、とか。逆にそのことのほうを気にしてたかもしれないです。体力ってどのくらいで戻るんですか、とか。

岸田 マジですか。

白井 先生は、「いわゆる子宮筋腫とかで子宮を取る人と同じくらいの経過、子宮を取るっていうことに関しては同じだから」と。入院が2週間ぐらいで、自宅療養して1か月ちょっとで時差通勤ぐらいはできるんじゃないの、っていう感じのスケジュール感で、それに私も挑もうと思って。

岸田 ステージは聞きましたっけ?

白井 ステージは始めのほうです、番号忘れちゃったんです。忘れちゃうぐらい始め。たぶん1bとか。

岸田 そうなんですね。じゃあ、子宮体がんって見つかりにくいって言うし、ほんまにラッキーだったんですね。

白井 ラッキーだった。高田馬場で倒れたのはラッキー。

【家族】

岸田 家族の反応はいかがでしたか。

白井 母親は強かったです。ちょうど両祖母の介護も母がメインで、母にとって自分のお母さんのほうと義理のお母さんですよね、私の両祖母っていうのは。介護をしていて、子宮体がんのことも頸がんのこともある程度知ってたから、母はすごい強かったと思うんです。こういうとき、たぶん男の人のほうが弱いんじゃないですか。

岸田 弱いです。

白井 ですよね。たぶんうちは父親のほうがすごいショックを受けてて。娘ですから、一応。両親よりも先に大きな病気になったので、父のほうがたぶんショックを受けて、夜なんかちょっと泣いてたようだって母に聞きました。

岸田 告知を受けてすぐにご両親に連絡したんですか。

白井 母と一緒に病院に行きました。そのときまだ実家暮らしで、近所でいちばん大きな大学病院みたいなところに。というのは祖母もそこの病院に行って治療を受けたので、おばあちゃんと同じ主治医の外来の日を母が予約してくれて、それで一緒に行ったんですよ。なので検査のときも、告知されたときも母はいました。

岸田 そうなんですね。家族のサポートがあって良かったですか、やっぱり。

白井 もともと両親と仲が良かったんですけど、本当にありがたみを感じましたね。

岸田 具体的にはどんなこと?

白井 いてくれること。いてくれることがいちばん。寂しいじゃないですか。

 

 

 

【仕事】

岸田 そのときのお仕事はどうされたんですか?

白井 そのときは製薬会社に派遣で行ってたんです。そのあとに正社員にしてもらったんですけど。派遣だったので、病気になったら切られるかなって覚悟をして上司に言ったんですね、もう辞めるつもりで。がんになって手術もしないといけないので、って言ったら、待ちますからって言ってくれて。派遣社員なんですよ。

岸田 マジですか。いい会社!

白井 本当に。1か月以上待ってくれるって言ってくれて。それでお休みをいただいて。製薬会社だから理解があったっていうのもあるかもしれないですね。勤務時間も、手術したあとって体力が落ちて、満員電車に乗れないとか、ふらふらだけど見た目わからないから席も譲ってもらえないとかあるじゃないですか。だから時差通勤で10時くらいに会社に行って、夕方早めに帰らせてもらうのを、1年ぐらいやってたかもしれません。それもありがたかったですね。

岸田 でも、働いてないときはお金何も出ないですよね。無金状態。

白井 そうなんですけど、派遣社員っていうのは、傷病手当を派遣会社からもらうんですよ。今までの平均月給の6割ぐらいの傷病手当が出ました。実家暮らしだし、あとは手術とかしても、高額医療 で計算して10万円ぐらい払うっていう感じで切り抜けたと思います。

岸田 そうなんですね。どんな復帰スケジュールだったんですか?

白井 手術して2週間病院に入院、そのあと自宅療養1か月、時差通勤スタートで復帰。そして、10時出社4時上がりみたいな短い時間で半年、徐々に延ばしながらフルに戻るまでに1年くらい余裕を持たせてもらって、自分でももう大丈夫ですっていうところで普通の通勤に変えたって感じですね。

岸田 そのスケジュールは自分にも負担はなく良かったって感じですか。

白井 うん。体力的に負担なくできたと思います。ただ私は実家にいたので、時短で働いているお給料でも暮らすには十分だったんですけど、もしその当時一人暮らしだったら、もしかしたら無理にでもフルで働いたかもしれないですよね。 家賃払ってということを考えると。だからそれも助かったところの1つかもしれ ないですね。

【辛いこと・克服】

岸田 肉体的につらかったのはやっぱり手術ですか?

白井 切ったこと。おなかが痛い。私は もう6年、7年経ってるけど、今でも低気圧のときとかめっちゃおなか痛いし、 古傷が痛むっていうんですかね。

岸田 あります、あります。

白井 どんな感じって言われると、おなかの中心で雑巾を絞られているみたいな感じ。

岸田 それは痛いですね。僕はちょっとデコピンされるくらいなので。

白井 デコピンされるくらい。それもちょっと痛いと思う。でもなんだろう、お天気で左右されるというか、痛いときは、痛いな今日は、って思います。

岸田 それを克服する方法とかあるんですか?

白井 みなさん時間が経つとって言うんですけど、私はもしかしたら長いほうなのかな。今でも、もたつき感があるというか。でも日常生活のときはケロッと忘れているので。「そういえば私ってずっとなんかちょっと痛いんだよな」みたいな、そのくらい。

岸田 慣れますもんね。

白井 慣れちゃうんですよ。じつはこれって本当はないものなんだよな、このもたつき感、痛み、鈍痛って言うんですかね。ときどき思い出すけど、別にあっても支障はないしっていう程度ですから、 肉体的な痛みというのは、つらさというのはそういうところだけかもしれない。

岸田 じゃあ、精神的にきつかったこと は?

白井 やっぱり、手術の前に親戚のおばさんに言われた「きっと治ったあとが大変だと思うから」っていうことですね。 やっぱり子宮取っちゃうっていうことは ……。

岸田 子どもがお生まれにならない。

白井 そうなんですよね。サバイバーの話でよくあるのは抗がん剤をやったから 将来子どもができるか不安だっていう話じゃないですか。それって、もしかした ら5%くらいは可能性あるかも、10%あるかも、50%かもっていう、ちょっと残っている%に対する悩みだけど。取っちゃうともう0%ですよね、子ども100%できませんっていう状態。そこがやっぱりその後の人生でつらいところになるっていうのを、おばさんが案じてくれた。元気になって1年ぐらい経って、やっとこれでサバイブしたんだっていう気持ちになって、考えはじめました。

岸田 人生プランの練り直しですよね。

白井 だってまだその時点で30歳乗るか 乗らないかぐらいです。仕事もやって、それから結婚して子どもを産んでっていう、ちょっとぐらいは将来を考えてたわけですよね。でもそこで人生のプランの中から、出産と子育てということを除く。 子育てはさて置き、まず出産のことを除くことになるわけじゃないですか。当時付き合ってた人がいたりとか、これから付き合おうとする人が、いたとしても。 病気を支えてくれますよね、まず。でも落ち着いてくると、現実がどうなるかっていう今後を考えると、ちょっとそこまでは背負えないかなとか。相手の後ろに 親戚とか両親とかがいるわけじゃないで すか。あんな子どもが産めない嫁さんなんかダメだよみたいなね、そう言う人も 世の中にいるわけで。その当時の彼がそうだったわけじゃないけど、そういうのを気にしたりしはじめて、何事もうまくいかなくなっていくみたいな。そこらへんですよね、精神的なダメージって。

岸田 じゃあ、その当時の方とは。

白井 徐々に疎遠に。一思いに、ぐさっといったほうが楽ですけどね。

岸田 そうですね。たしかに。そこの問題ってやっぱりいちばん難しいですよね。

白井 だって解決できないじゃないですか。

岸田 できないですよね。

白井 まず1つ思ったのは、たくさんお金を貯めること。その時、アメリカで 代理母出産したっていうニュースがあったので、お金さえ貯めておけば、何かのチャンスで代理母出産だったら結婚してくれるよっていう人が現れたらもしかして、とか考えて。1人で養子は取れるのかって調べてみたり。ダメみたいですね、 あれって。調べそこなってるかもしれな いので、情報は正しくないかもしれない です。でもいろんなことを考えましたね。 子ども嫌いなわけじゃないし、子育てもしたかったので、代理母出産、養子とかを考えはじめたのが、元気になって1年2年くらい経ったあと

岸田 それで気分的には落ちなかったんですか。

白井 落ちましたよ。1人でいるときより、誰かと関わったときのほうが落ちてたと思います。先のことを考えられない、 今いいって言ってくれてる人でも、リアルに将来を考えたらやっぱり嫌だって言うかもしれないし。だったら40歳ぐらいまでおとなしく過ごそうかなとか。さす がに40歳になれば、私に子どもを産んで ほしいって言う人はいなくなるじゃないですか。晩婚として。そういう結婚もありかなとかいろいろ。

岸田 今それで彼氏できるなってとき、言うタイミングは最初にするのか、それとも最後に?

白井 最初。だってそのあとがきついもん。

岸田 じゃあもういい感じになったら。

白井 この人好意持ってくれそうだなってなったら、もう、すぐ言う。

岸田 すぐ、どう言うんですか。

白井 何年か前に病気してとか、病気の種類も言って、手術してまったく元気なんだけど、子ども産めないこととか。普通に。

岸田 けどそれ言うときがいちばん勇気いりますよね?

白井 しようがないかなって。あとのキツさを考えると、手前で言っておいたほうがましかな。相手に期待持たせても悪いし、あとで言うのもね、隠してたみたいで嫌だし。

岸田 卵子は摘出とかできないんですか。

白井 私は子宮の真ん中だけ取ってるので、卵巣は元気なんですよ。排卵はあるみたいです。だからもしかしたら将来的に、代理母に卵子を預ければっていうのは、海外ではできるみたいですけどね。

岸田 そっか。そうなるともうプラン的にはこのまま。

白井 子どもを産むことを私に期待しない人と出会えたらいいじゃないですか。 一生ひとりぼっちも寂しいですからね。

岸田 寂しいですね、それはたしかに。

白井 でしょう、まだピチピチなんだから。

岸田 ピッチピチですよ(笑)。じゃあ、子どもを産めないっていうショックがあっても、それを乗り越えるにはやっぱり自分で人生プランを修正して。

白井 人生プランを修正して、しかたないことは、しかたないっていう切り替えをしたときぐらいから大丈夫になったんじゃゃないかなって思います。

岸田 あとはお金を貯めること。

白井 そう。もしものときのためにね。 自分の人生の中でチャンスが来たときに、 そこに挑めない、お金とか何かの理由で そのチャンスを逃したら、やっぱり後悔するから。備えをするっていうこと。けっこう、計画好きの備え好きかもしれない。

【キャンサーギフト】

岸田 がんになって得たものは、白井さんの場合何だったんですか。

白井 サバイバーになったことで、サバイバーの立場からがんのいろんなことに向き合ったり関わったりできることかな。 若年性のがん患者団体「STAND UP!!」の仲間と出会えたのも、サバイバ ーになったからでもある。

岸田 活動しようとか、外に出てみようみたいなきっかけっていうのは?

白井 ミュージシャンがそういう活動を応援しているっていうのも1つの影響だったし、イギリスっていう国が好きで、「チャリティ大国」っていわれるぐらい みんなの意識が高いことに影響されて、 私は何ができるんだろう、私が貢献できるところってなんだろうって。こうやって活動的になって、自分が外に行って見聞を広げようと思ったのは、キャンサーギフトの1つかもしれませんね。罹患する前にただライブを見に行ってたときの自分と、罹患してからあらためてチャリティライブを見に行ったときの自分では、 視点が変わったと思います 。

岸田 そうですよね、当事者として参加するわけですもんね。

白井 自分がサバイバーになったことで、いろんなサバイバーの仲間と出会うことができて。いろんな人からいろんな気持ちを聞くようになって、独りよがりでただライブに行ってたときと違って、友達の思いとか、本当は何が必要なのかとか、 いろんな人の気持ちがわかるようになった。仲間と出会うことによって視点が広がるっていうのもキャンサーギフト。こうやってお話ししてるのも。

岸田 視点が広がる。そうですね。

【今、闘病中のあなたへ】

岸田 白井さんから、今闘病している人にメッセージをお願いします。

白井 先程から何度か出てきているUKロックの話なんですけど、ザ・フーっていうバンドが好きすぎて、洋書で出てた彼らのクロニクル本を翻訳したいと思って、出版者とか筆者に連絡して、日本で権利をいただいて。

岸田 クロニクル本ってなんですか。

白井 時系列の歴史が書いてあるような 本、そのバンドの歴史本ですね。それを書いた人に連絡を取って、日本で出版社が決まったら出してもいいよって言われて。ちょうどそれが闘病してたときだったんですよ。それでやりとげるぞって言って、友達と共訳しているんですけど、一緒に2人でがんばって。ベッドの上、あと家に帰ってから。時短で働いてたときに余ってる時間を療養せずに翻訳してたんです。いつか出すぞって言って、叶ったのがこの本です。私は自分で子どもを産めないけど、産んだ第1冊なので大切な子です、これが。

岸田 大切な子ですね。

白井 ちょっと話の前置きが長かったんですけど、このバンドのボーカルのロジャーダルトリーさんが、いつもライブの最後に言う言葉が、「Be Happy ! Be Lucky!」っていう言葉なんですよ。その言葉がすごい好きなので、 それが私からのメッセージです。「これからみんな幸せになってね、いいことも あるよ」っていう、「ビーハッピー ビーラッキー」。ロジャーの言葉を借りただけなんですけれども。

岸田 今、闘病している方たちにも。

白井 そう、みんなもBe Happy Be Luckyで。ロジャーもついてるから。

 

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