インタビュアー:岸田 / ゲスト:濱中

【発覚・告知】

岸田 真帆ちゃん、自己紹介していただけますか。

濱中 濱中真帆と申します。24歳です。未分化胚細胞腫瘍というがんに16歳のときになりました。今は大学を卒業しまして、ソーシャルワーカーになるため来年1月末の国家試験に向けて勉強中です。

岸田 それでは真帆ちゃんの発覚から告知までについて教えてもらえますか?

濱中 はい。高校生のときにマラソンの時間が大っ嫌いで、友達と最後尾を2人で「嫌だねー」とか言いながら走ってたんです。ある日から突然、友達についていけなくなりました。しばらくして花粉症の時期に咳が出るようになって、「鼻水出るし、薬もらってこようかな」ぐらいの気持ちで病院に行って「体育の授業でこんなことがあったんです」みたいな話をしたんです。「じゃあ、とりあえずレントゲン撮っとこうか」って言われてレントゲンを撮り、その日は薬をもらって家に帰ったんです。そのあとすぐに病院から電話で呼び出され、次の日に行ってみたらレントゲンが貼ってあり、右肺が3分の2ぐらい真っ白なんですよ。普通は肺のあたりってちょっと透けてるな、という感じじゃないですか。その日のうちに大きい病院に行くんですけど、「ベッド今から空けるから、明日入院ね」みたいなことを言われ、「え、あっ、はーい」みたいな(笑)。そんな感じで入院生活がスタートしました。何日かしてCTを撮ったんです。そしたら卵巣も大きくなってるのがわかったらしく、そのあと両親が呼ばれて、先に「がんかもしれない」っていう告知を受けたらしいんです。 あとから聞いた話なんですけど、母は「本人には、がんって言わないでほしい」 って言ったらしいです。

岸田 へー。

濱中 でも当時の主治医は、「がんと知って闘う、立ち向かう勇気も必要だよ」って母に言ったらしくって、私はがんって告知されました。

岸田 真帆ちゃんは告知されたときは、がんっていうのが何かわかってた?

濱中 祖父母ががんだけど、長生きで別に死んでないですし、進行もゆっくりで今すぐ死ぬような病気じゃないんだろうなって思ってました。

【治療】

岸田 そこからすぐ治療が始まっていくわけですよね?

濱中 そうなんです。治療に入るんですけど、告知されたその日に婦人科に回され、そこで先生に「もう明後日手術だから」と言われて、そのときはさすがにキャパオーバーだったんでしょうね、泣いたんですよ。別にがんってことが悲しくて泣いたわけでも、入院生活が長引くと思ったわけでもなくて、いまだになんで泣いたのかわかんないんですけど。そのあとから、先生がすごいなんかビクビクしてて、たぶん看護師さんたちに、「あーあ、泣かした」って言われたんでしょうね。

岸田 (笑)。

濱中 そして手術を受けましたけど、目が悪くて何も覚えてないんですよね。

岸田 手術は怖くなかったの?

濱中 どうなんですかねー、もう覚えてない(笑)。手術の説明も「寝てる間に終わります」みたいにすごいざっくりしていて、だからそんなに怖いと思ってなかったんですよね。

岸田 どれぐらいの手術だったの?

濱中 2時間ぐらい? 時間かかってたらしいけど、あんまり覚えてない(笑)。

岸田 じゃあそれで手術して戻って、それからどれぐらい入院しました?

濱中 そのあとまた病棟に移って抗がん剤が始まるので、5日ぐらいじゃないですかね。そんなに長くはいなかったんですけど。

岸田 抗がん剤はどれぐらいだったんですか?

濱中 3週間で1クール(※1)を、4回やってるので、3か月分ぐらい?

岸田 がっつりやったってことよね。

濱中 そうそう。告知されたときに、治療が終わったあと何したいか、とか聞かれるんですよね。私は「学校に帰りたい」って言ったんです。当時高校1年生で、部活に入っててすごい楽しい毎日を送ってたから。そしたら治療スケジュールを詰めて、最短で退院できるように考えてくれましたね。

岸田 腫瘍はどうなったんですか?

濱中 抗がん剤が半分終わった時点で、CTでは確認できないぐらいになったとは言われていたんです。でも、結局4クール全部やりました。

岸田 そして、卵巣も摘出。

濱中 そうです。右側取って、左側は部分的に取って、という感じです。

【家族・友人】

岸田 ここから深いプライベートの話になっていきます。当時、家族が先に告知を受けて、という話もしてくれましたけれども、真帆ちゃんの家族はどういう感じでした?

濱中 最初は個室だったので母と一緒に病室で生活してて、最後抗がん剤をする病棟に移ったときは一人で大部屋に入ってましたけど、母は毎日来てくれましたし、父も仕事が忙しくない日は来てましたし、兄もたまに来てたりとかして、けっこうみんな来てくれましたね。

岸田 じゃあ、みんなすごくサポートしてくれたっていう感じですかね?

濱中 そうですね。抗がん剤をすると味覚障害とか、気分が乗らないとかいろいろあってごはんが食べれなかったりとかするじゃないですか? そういうときに「あれ食べたい」って言うと買ってきてくれたりしました。

岸田 いい家族関係の中で闘病生活を送ったって感じですね。

【恋愛】

岸田 その次、恋愛。なんでこのテーマを入れてるかというと、彼氏候補の人にがんと言うのかとか、やっぱりがんって恋愛観をすごく左右するんですよ。だから真帆ちゃんの当時の状況とかお伺いできたらなと。

濱中 当時、彼氏はいたんです。

岸田 おう! めっちゃいいやん。

濱中 ですけど、そのあと別れるんです、結局。お見舞いに来てくれたりするんですけど、来なくていいよって言ってしまって。自分の弱ってる姿なんて見てほしくないですし。でも結局来てしまって「えーっ」と思いました。髪が抜けちゃって、帽子をかぶって隠してるような時期で、自分のことでいっぱいだったので。ごはん食べるのも大変だし、かといって歩き回るのも大変だし、家族だったらまだいいけど、他人に気を遣ってる余裕なんかないから、こっちから連絡するまでちょっと待っててよ、ぐらいの気持ちだ ったので、「いっぱいいっぱいでごめんね」って言って。

岸田 そうね、自分でいっぱいいっぱいやったら相手できないもんね。

濱中 そう、だからそれで別れて。

岸田 そのときはその彼氏にがんっていうことはすぐ伝えたの?

濱中 うーん、たぶん言ってたんじゃないかな? あんまり記憶がないんですよね。

岸田 余裕ないもんね。

濱中 そう。そのあとも他の人とお付き合いをしたけど、1か月ぐらいで別れちゃうんですよ。

岸田 え? そのあとに?

濱中 退院してわりとすぐに、お付き合いをした人が1人いました。学校の先輩で、がんの詳しいことは言わなかったですけど、入院してたのも知ってました。お付き合いをしたんですけど、やっぱ退院してすぐって、いろいろ大変じゃないですか? 元の生活に戻るのも大変だし、さらに学校に朝から夕方までずーっと行くのもけっこうしんどかった。だから自分のことでいっぱいいっぱいで、「ごめんなさい」って言って。

岸田 そっか、そのタイミングやったらね。けっこう自分のことでいっぱいいっぱいかもしれへんね。今後お付き合いする人にはがんであったっていうことは言うの?

濱中 それもまた悩ましくて、がんだったって言うのは簡単なんだけど、私の場合は卵巣がんなので、将来につながるじゃないですか? 子どもが産めるのか? とか。それはその2人の間で解決できる問題じゃなくって、親も関わってくるって考えると、もう彼氏作るのめんどくさいからやめようかな、と思うときもあります。かといって作りたくないかっていうと、そういうわけじゃないんですけど。

岸田 そっかー、確かにそのへん難しいよねー。けど、真帆ちゃんまだ若いじゃないですか、まだ子ども作ってどうこうっていうのを考えないんじゃ?

濱中 どうなんでしょう? でも、うちの母がすごく結婚が早かったので、自分も早く家庭に入りたいっていうか結婚してそういう家庭を作りたいな、っていう気持ちはあるんです。相手がいれば今すぐいいかなっていう気持ちはあるんですけど、やっぱり自分の状況考えると……。

【学校】

岸田 次にどうやって学校に復帰したかとか、教えてもらえますか?

濱中 入院して復帰するまで春休みと夏休みを含めて半年間学校に行ってなかったんです。やっぱり進級とか卒業とか関わってくるんですけど、成績だけはどうにもならなかったんです。評価できる素材がないから仕方ないことだったんですけど、それでも周りの子と同じように卒業させてくれたんですよね。

岸田 へー。

濱中 私が通っていたのは公立の高校でしたが、進級するのに、たとえば出席日数足りないと、課題やれとかいうことも一切なくってすんなりクリアで、「君、そういうの気にしなくていいから」っていう感じで。なんなら指定校推薦で大学決まったあとは無理して来なくてもいいよ、みたいな。卒業も別に大丈夫だし、進路も決まったし、体調悪いときがあったら休んでいいよ、そんな感じでしたね。高校は。

岸田 柔軟に対応してくれたんですね。

【卒業後の生活】

岸田 高校、大学と行って、今の学校っていうとこまで、説明してくれる?

濱中 そうですね。大学を卒業して、就職ができなかったんです。そんなに就職に前向きだったわけでもないんですけど、結局就職決まらないまま卒業して、4月からフリーターになりました。その直後にうちの父が亡くなったんですよね。父は介護が必要なぐらい大変だったんで、家から出たくて就職をずっと探してたのに、「なんだ、家から出る理由がなくなっちゃったじゃん」みたいな。そのあと、いろいろバタバタして落ち着いたときに、この先の人生どうしよう? って思ったわけです。そのときに病院で働く母から、ソーシャルワーカーさんの話を聞きました。父が亡くなるちょっと前に、別の友人が亡くなるんですけど、その友人が福祉の道をめざしていたって聞いて、「ソーシャルワーカーって仕事があるよ」っていう母の言葉と、福祉をめざしていた友人の思いがふっとつながって、「福祉っていう仕事もいいな」って思って学校に見学に行ったんです。そこで、ここで勉強したいなっていう先生と出会って今の学校に入ったのが今年の4月です。

岸田 そうか、じゃあソーシャルワーカーの道に進みたいってことよね。

濱中 最初は病院で働く医療ソーシャルワーカーをめざしてたんですけど、病院だけじゃなくていろんなところでソーシャルワーカーって働いてるので、違うところもいいなって今は思ってます。

【仕事】

岸田 就職活動のときには、がんって言った?

濱中 はい。このあいだ採用試験を受けたんですが、その前に学校の実習で週5日8時間実際の現場で勉強してきました。それがすごい大変で、働くのきついんじゃないか、って思いはじめたんですよね。採用試験面接で最後に、「何かありますか?」って言われたときに、「3か月に1回病院に行ってるので、お休みをもらうと思います」っていう話と、「週5日8時間働ける自信がありません」って言いました。試験を受けたの水曜日だったんですけど、もう土曜日には不採用の通知が来ました。

岸田 そっかー。

濱中 そうなんですよ。そんなことが最近あって、普通の人で大変なことって、がんになった人にとってはより高いハードルだなって思って。それこそ普通の人が1週間元気に働いて、金曜日「ああ、疲れた」っていうのだと、私にとって金曜日はもう動けないぐらいの感じなので。

岸田 じゃあ、今後どうしていく?

濱中 迷ってます。学校の就職担当の先生と週3〜4日ぐらいの仕事だったらできるんじゃないかっていう話とか、病院で働きたいとかいろいろ話してたんですけど、「いやいや、週5フルタイム以外だと病院っていう選択肢はないよ」って言われちゃって。悩みつつ、病院で働きたいと思ってたけど、病院を諦めれば福祉の現場はいろいろあるので、そっちの方がまだ自分の体はもつのかなとか、そんなことを今考えてますけどね。

【辛いこと・克服】

岸田 大変な時期もあったと思うけど、肉体的、精神的につらかったとき、どう克服したのか教えてくれますか?

濱中 肉体的には今もつらいです。結局体力もないし。かといってトレーニングもそれ自体が大変で、全然肉体的なつらさは克服できてないなとは思いますね。

岸田 うーん。精神的には?

濱中 精神的には、もう悩むのやめましたね。やっぱり子どもが産めるかとか、周りについていけなかったりするのでへこむんですよね。「あーあ、みんな楽しそうだなー」って思うんですけど、たとえばこういう「がんノート」とか、「こっちには違う楽しみがある」っていうふうに思うようにしました。なんだろうな? 「もう、深く考えない」って感じですかね。最近になって、周りに「つらい」って言うようになったんですよ。実習がほんとに泣くほどしんどくって、指導者に隠れて泣いてたりとかもありました。それで、人に「自分に厳しいところあるよねー」ってそういうふうに言われて、「そんないい子でいる必要ないんだな」って思って。「がんになって大変な経験したけど、今すごいがんばってるんだね」っていうイメージが周囲から見た自分にあると思うんですよね。そのイメージに合うようにすごい努力をしてきたんです。大勢の人の前に立つときはやっぱりちゃんとしなくちゃとは思いますけど、一対一でくだらない話をしてるようなときは、「いやー、もう最近つらくて」とか言っていいかなって思うようになったので。

岸田 そういう自分のいい子像をやめて、自分がつらいときはちゃんと伝える、と。

濱中 そう、つらいときに「つらい」って言うのは大事だなって思いました。

【後遺症】

岸田 今、何か後遺症ってありますか?

濱中 2つあって、まず1つ目がそんなにひどくはないんですけど、難聴。

岸田 難聴?

濱中 私が使っていたお薬の中で、耳に害が残るようなお薬があったんですよね。それが原因で耳鳴りが365日24時間、常にある。キーンっていう音が、ずーっと鳴ってるんですよ。音楽聞いてたり、大きな音聞いてたりとか他に意識がそれるようなことがあると、あんまり気にならない。常にキーンって音がしてるんで最初は、「あ、耳鳴りしてるな」って意識しちゃうんですけど、慣れると常にそうだからあんまり気にならなくなる(笑)。

岸田 一つ目がそれ、二つ目は?

濱中 二つ目は、やっぱり卵巣を取ってしまったことによって女性ホルモンが足りてないっていうことですね。いわゆる女性の更年期っていう、だるいとか急に熱くなったりとか、眠れなくなるとか、うつっぽくなるとか、いろいろあるんですけど、そういうのが起こるっていうのがあります

岸田 それは卵巣が原因?

濱中 そもそも女性ホルモンを出してるのが卵巣だから、両方なくなってしまうと女性ホルモン出ないわけです。私の場合は腫瘍部分を切除してなんとか片方残っていますが、前にホルモンの値を測ったら、 40代女性並みだと言われました。 今の私の体って24歳の体なんですけど、40代女性のホルモン値だと合わないじゃないですか? その年相応のホルモンが出てないから体の中が、「ホルモン足りない。大変だ」とかいろいろあるんでしょうね。

岸田 あ、そうなんや。真帆ちゃん、20代に見えても、中身は40代。

濱中 (笑)。

岸田 なんかお薬とか飲まなくて大丈夫なの?

濱中 そうそう、それで足りない女性ホルモンを補うために今飲んでいるのが、低用量ピルっていう、よく避妊用っていわれるやつ。あれを毎日1錠飲んでる。それがまた高いんですよ。

岸田 高い?

濱中 お薬自体に保険が効かないんですよ。保険が効くやつもありますし、普通の女性ホルモン用のお薬もあるんですけど、その病院の先生に母が「娘に飲ませるとしたら、どれを飲ませますか?」って聞いたんですよ、そしたら「ピルを飲ませる」って言ったんです。それで母がピルを選んだんですけど、1か月約3千円のお薬代は全部自費です。この先何年飲むのかも決まってないし、医療費控除とかってお金が一定額は返ってくるじゃないですか? そういうのも一切使えないんですよ。

【反省】

岸田 あのときこうしておけば良かったなということはある?

濱中 高校に復帰して髪の毛が伸びてきてはいたんですけど、やっぱりまだウィッグを外すにはちょっと長さが足りなくて。でも修学旅行が近かったこともあってウィッグを外して無理やりエクステを付けて学校も通ってたんです。エクステの継ぎ目を帽子で隠して学校に通ってて、先生たちは基本的に何も言わないんですけど、「帽子を外しなさい」って必ず言う先生が1人いたんです。

岸田 厳しめの先生ね。

濱中 そうそう。エクステの継ぎ目が見えているのが嫌で帽子で隠していたのに、それを外して授業受けるんですよ。授業が終わって、さって帽子かぶって隠すんですけど、それがどうしても嫌で。おしゃれで帽子をかぶっているのとは違うので、どうしても帽子を取りたくなかったのに取らなくちゃいけない。ほんとに自殺したいぐらい嫌だったんですよ、それだけは。「それは嫌です」とはっきり言えばよかったと後悔していますね。

【キャンサーギフト】

岸田 次にキャンサーギフト。がんになって逆に何か得たものを「キャンサーギフト」って言ってるんですけど、真帆ちゃんの場合は何でしょうか?

濱中 一つ目は、ちゃんと生きるってことですね。後回しにして今度やろうとか、あんまり人生楽しんでなくてただ毎日を普通に生きてる、みたいな感じだったんですけど、あれこれやりたいっていうのは、ちゃんと周りに伝えたりだとか、自分でそのために努力をしたりだとかはするようになりましたね。

岸田 限りある時間だから、有効に使おうっていうのはすごくあると思うんですけど、他にも何かある?

濱中 あと、憧れだった影山ヒロノブさんに実際に会えたことですね。影山さんが出るライブに行けたときに楽屋裏まで入れてもらえて、「ファンなんです」って伝えたら、「ありがとう」って言ってくれて、ハグしてもらったりっていうのがきっかけで、ライブにけっこうお邪魔したりできるようになったの。憧れの人に会えるっていうのは、しんどいこともたくさんあったけど、がんになってよかったなって思っちゃう瞬間ですね。

岸田 ありがとうございます。今の真帆ちゃんの夢は?

濱中 そうですね。今専門学校に通ってるんですけど、入ったきっかけはがんになった患者さんの役に立ちたいって思ったからなんですよ。やっぱり自分が学校通ってて苦労したし、いろんながん患者さんに会うと苦労してる話をいっぱい聞くんですよね。私はそういういろんな人に会って自分が元気や勇気をもらったので、これからがんになった、なるかもしれないっていう人たちのためにこれからはがんばりたいなって思っています。心のよりどころじゃないですけど、思いをちゃんと吐き出せるような場所を作って あげたいなって今思ってます。

岸田 やっぱ自分が歩んで、そういうきっかけがあったからこそですね。

【今、闘病中のあなたへ】

岸田 真帆ちゃんから今闘病してる人たちに向けてのメッセージをお願いできますか?

濱中 「困難を変える方法はいくらでもある」という一言です。もともと、アメリカでレモネードスタンドを始めたアレックスちゃんという子がその活動の中で、「すっぱいレモンをもらったら、甘くておいしいレモネードを作ればいいのよ」っていう言葉を残してるんです。それの意味は、この困難を変える方法はいくらでもあるんだよっていうことなんですけど。

岸田 補足をすると、アメリカで小児がん啓発のために「レモネードスタンド」という活動があって、集めた募金で小児がんとかそういった研究に生かしたりしてるんですよね。

濱中 実際に私はがんになって大変な人生歩んでますけど、こうやって「がんノート」に出られたりだとか、憧れの人に会えたりだとか、がんっていう困難なことをいい方向に変える方法はいくらでもあるなと思って。

岸田 捉え方しだいということでもありますかね。たしかに真帆ちゃんもいろんなことをがんの治療受けてからすごい変えてるもんね。この経験がなかったら、今専門学校に通っているとかもなかったんじゃない?

濱中 ないですね。普通に就職して、まあ、就職できてるかわかりませんけど、たぶん自分のやりたいことを実行しようなんて思わなかったと思います。

岸田 だからそういうつらい困難とかいろんなことあっても、やっぱ自分の困難を変える方法っていうのを、みんな一つや二つは考えてそれを実行に移してほしいということですね。

 

 

※1 クール……抗がん剤は、投薬期間と休養期間を1セット(3~4週間)として行い、それを1クールと言う。

活動履歴 小児がん・若年性がん支援を目的とした「樋口宗孝がん研究基金」のスタッフとして活動中。 http://www.m2cc.co.jp/mhf4car/

※本ページは、経験者の体験談を扱っております。治療法や副作用などには個人差がございますので、医療情報に関しましては主治医や、かかりつけの病院へご相談、また科学的根拠に基づいたWebページや情報サイトを参照してください。
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