インタビュアー:岸田 / ゲスト:有川

【発覚・告知】

岸田 今日のゲストは、胃がん経験者の有川さんにお越しいただきました。

有川 有川雅俊です。がん種は胃がんで、 2013年の2月に見つかりました。ステージは1Bです。

岸田 どうやってがんがわかったんですか?

有川 がんがわかる半年ぐらい前からけっこう胃が痛くて。痛いといってもちょっとご飯を食べたりとか、ちょっと飲みに行ったりすると治ってしまうので、なんかストレスが溜まってるのかな、ちょっと胃は痛めてるんだろうな、と思いながらもダラダラやっていたんですね。ある日、突然眠れないくらい胃が痛いときが1回だけあって、やっぱりちょっとおかしいなって。それで、「胃カメラを飲んだほうがいいかね」なんて妻と話していた1週間後くらいに、自宅で下血をしてしまって。それでそのまま病院に自分 で車で行ったら、「ま、胃潰瘍でしょ」 なんて医者に言われたんですよね。

岸田 えっ、自分で車に乗って行ったんですか?

有川 ええ、そうです。

岸田 救急車を呼ぼうとは思わなかった?

有川 はい、呼ぼうとは思わなかった。体調は普段の生活と変わらなかったんですよ。飯を食ってて、トイレに行きたいなって行ったら、黒い便が急にバッと出たので、「えっ、なにこれ?」と思って。

岸田 あー。

有川 でもまあそれ以外は何もないし、 非常に疲れるとかもなくて。だから僕も胃潰瘍かもしれないとか、十二指腸潰瘍かもしれないぐらいの自己判断だったわ けです。それで、最初に先生から、「若いんだからこんなの男の勲章だよ、仕事やりすぎでしょ」とか、「ちょっと寝ていれば治るよ、おかゆでも食べてなさい」って言われて、5日間ぐらいボーっと病院にいました。ボーっとしててもしようがないので、「また受診しに来るから退院していいですか?」なんて話をしていたら、「いいよ」って最初先生は言ってたんですよね。そうしたら、「退院させられなくなりました、がんです」っていきなり言われて。

岸田 え、いきなりですか?

有川 それでほんとにびっくりして、ちょっと立っていられなくて。まあ、ほとんど生きている感じはしなかったですね。 当時2人目の子どもが産まれて、ちょうど10か月でつかまり立ちをしはじめているころだったので、「人生これからどうなるんだ」とか、「そもそも生きていけるのか」って、本当にパニック状態になりました。そこから造影剤とか、いろいろな検査をしました。結局、大腸のポリープも大きいのが見つかって……。

岸田 え、それは大丈夫なんですか?

有川 それは大丈夫でした。でもいろいろボロボロだったんだなって思いましたけど。

岸田 全然男の勲章どころじゃなかった。

有川 いや本当に。死がいきなり出てくる。今は笑って話せるけど、告知されたときは本当に、「何を言ってるんだろう、 この先生」とかしか思えなかったですね。

【治療】

岸田 すぐ治療に入ったんですか?

有川 そうです。「摘出したものを検査しないとステージの最終確定もできません。残す方法はもうないです。脾臓がわりと胃とくっついていて転移しやすいので、もうリンパ節も大きく取ってしまいましょう」と、話をされて、選択肢はないですよね。その先生からは、ダブルトラクトといって栄養が通る道みたいなものをもう1個作る方法を薦められて。論文などではあんまり有意なものは出てないんだけれども、先生の経験では、「これから20年、30年生きることを考えたら、 ダブルトラクトのほうが生活のクオリテ ィが上がると思うから、そっちでやりたいんだ」と言われて。まあ、先生がそう言ってくださるならもうお願いするしかなかったんですけど。でも逆に先生が言い切ってくれたので、良かったのかなと思います。ただ手術は最初、3時間ぐらいで終わりますと言われていたのが、6時間ちょっとかかりました。

岸田 大手術だったんですね。

有川 そうですね、僕は寝ているからわからないですけど、待っている家族は3時間って言われてたのに出てこないし、「何が起こってるんだ」ってすごく心配したみたいで。僕はもう意識がなかった ので、あとから先生が出てきたときに、「小腸にも変な色のところがあったから取っといたよ」みたいに軽く言われて。 そんな軽く言われても、自分の体の中で今何が起こっているのかもまったくわからないのに。

岸田 オプション付きになったんですね。

有川 オプション付きに(笑)。そこも取ったから時間かかっちゃったみたいです。でも、嫁はそれですごく安心したって言ってましたけどね。

岸田 治療についてわからないことも多いと思うんですけど、先生は丁寧に説明してくれましたか?

有川 そうですね、もうズバッと。先生は「もうこれしかないです。これが最善です」ってパシッと言い切ってくれたので、「じゃあ、お願いします」と。

岸田 それぐらい、潔かったらいいですよね。

有川 ええ。いろいろなことを言われていろいろな選択肢が増えてくると、やっぱりどんどん不安になって。ネットを見て、「もうダメだ」みたいになるし ……。でも逆に先生が、「俺が切るからごちゃごちゃ言うな」、みたいな感じの方だったので。いい先生だったんだなと思っています。あとで胃がんの有名な先生だったことを知りました(笑)。

岸田 入院してから手術まで、どれぐらいの間が空きました?

有川 2月末に入院をして、5日後ぐら いにがんがわかって、3月13日にオペでした。だからがんと確定してから、2週間後にはオペを受けましたね。

岸田 2週間、けっこう不安でしたよね?

有川 そうですね。僕は、普段の生活で、 誰かの話を聞いたりして涙を流すっていうことがあんまりないし、ドラマとかを 見てもあんまり涙を流さないで、冷めた目で見てる人間なのに、そのときは、なにをしゃべっていても泣くし、見舞いに来てくれる友達に、「見舞いに来てくれてありがとう」とか言いながらすごく泣いてしまうような感じで。やっぱりすごく不安でしたね。

【家族】

岸田 治療のとき、支えてくれたのは、やっぱり家族ですか?

有川 そうですね。妻がいて、上が男の子で下が女の子。当時は、上が4歳で、下がまだ10か月ぐらい。妻が産休を取っていて、4月から復職するので、保育園の送り迎えとかをどうするかって話をしているなかで、そもそもそんなことよりも、自分が生きているのか生きていないのかが大事になるし、がん治療がどうなっていくんだろうかっていう状況で。まあ、そういう意味では僕も「自分が死んだら家族どうしていくんだろうか」とか、「生活費どうするんだとかということ をすごく考えました。やっぱりそういうとき、あんまり妻は弱音を吐かない。というか、わりと明るく「たいしたことねえじゃん」みたいなことをすごく言っていて、それは妻なりにすごく気を遣ってくれていたんだろうなと思います。妻も傷ついているんだけれども、あんまり必要以上に言わないようにしてくれてるというのが、すごく大きな支えだったなとも思います。あとはたとえば自分が結婚していないで一人暮らしだったら、もう仕事とかも辞めてしまって、まず一旦リセットしようと思ったかもしれないんですけど、やっぱり家族がいるからがんばらなきゃいけないなって。弱音を吐いてもいいんですけど、やっぱり子どもがいるから立ってられる、みたいなところが大きかった気がしますね。

岸田 お子さんへのカミングアウトとかはどうされたんですか?

有川 なんとなくですね。たぶん会話の中にがんっていう単語が出ていたかと。 あと、僕ががんになる1年前に僕の母に乳がんが見つかって。

岸田 有川さんのお母さんに?

有川 はい、母が乳がんで、それで全摘して抗がん剤をやっていたんです。それで抗がん剤が1年終わって、ここからはホルモン療法で、「いろいろ落ち着いたね」って言ってた矢先に、今度は僕ががんになっちゃったから。ばあちゃんががん治療をやっているなか、「ちょっとお父さんも体に悪いものができて、切ったから治ったけど、前みたいに走ったりするのは大変なんだ」っていう伝え方ですね。でもなんとなくわかってるのかなっていう気がしていました。

岸田 まだ4歳と10か月ですもんね。ご両親に対してカミングアウトするときはどうされました?

有川 がんがわかったときに言わざるをえなかったですね。

岸田 そうなんですね。話は変わりますが、奥様に指輪を渡したんですよね?

有川 はい。僕は妻と結婚したときに、 あまりお金に余裕がなくて、婚約指輪を作っていなかったんですね。まあ結婚指輪は作って、結婚式はやったんですけど。 それで、「あんたは婚約指輪を私に贈らなかったんだから、結婚10周年のときには指輪を作れ」って、冗談半分にずっと言っていて。

岸田 おー!

有川 入院中、まだステージとかもわからない段階だったので、このまま「指輪も渡せなかったな……」とか思いながら死ぬのはすごく後悔が残るなと思ったの で、最初に自分が退院して歩けるようになったときに、婚約指輪を作りに行きました。がん治療もあるからそんなにすごく高いものではないんですけれども、婚約指輪を作って、レストランを予約して、 そこで渡したんですね。僕は妻がそれまでわりと気丈にふるまっていたので、「あんた、こんなばかなことやってんじゃないよ」とか言って、半分茶化すのかなって思ってたんだけど、妻がすごく泣いて。妻もすごく傷ついていたし、やっぱりそこは言わなかっただけだったんだ、 渡せて良かったなって思いました。そんなくさいことを本当はしたくないし、けっこう男としては恥ずかしいじゃないですか。

岸田 たしかに。

有川 まあでも、そういうときはそういうことを言葉にしたり、何か行動するというのは大事なんだな、と改めて病気になって実感しました。

岸田 病気にならないとね、こういうことってなかなかできないですよね。

有川 できない、できない。

【仕事】

岸田 お仕事はどうしていますか?

有川 今、精神科のクリニックで働いていて、僕が担当しているのは精神科デイケアと言って、日中のリハビリテーションを行う場所です。精神科の治療ってただお薬を飲んで終わりなのではなくて、 生活を立て直すため、また同じようなことを再発しないために、ソーシャルワーカーが家に行ったり、いろんな手続きをやったりするのですが、その中で病気の安定や再発予防でいろんなアクティビティをやったりする部門で働いています。 あと当時は、精神科の訪問看護で、近隣と揉めたり生活が困窮している人のご自宅に行って、行政とのやりとりの間に入ったりしていて、それがソーシャルワーカーとしての僕の仕事です。社会福祉士と精神保健福祉士の両方の国家資格を持っています。

岸田 なんで2つ持ってるんですか?

有川 学校の単位の取り方で、受験資格が2つあったからとしか(笑)。

岸田 取り方(笑)。

有川 やっぱり精神科の仕事ってすごく興味があって、どちらかというと精神保健福祉士を元からやりたかったんですね。 今もそうですけれども、どうしても精神疾患は時代の偏見とか差別とかタブー視されてしまって。じゃあ、本当にその精神疾患を持っている人がそういうことなのかというと、すごく優しい人もたくさんいる。でも何かあるといけないから一緒にしておこうという、倫理的にもいろんな問題が今の日本にはものすごくたくさんあるんです。それでそういう人のところに行って、何か一緒にやれることがないのかなと思っていたので、社会福祉の学校で、精神保健福祉も学びたくて単位を取ったという感じです。

岸田 胃がんになったときは、お仕事をされているときですよね。

有川 はい、そうです。

岸田 会社の反応とかはどうでした?

有川 最初は胃潰瘍だと言われていたので、事務長に電話をして、「ちょっと下血しちゃって緊急入院になったので、明日から出勤できません。胃潰瘍で1か月ぐらい休めって言われました」って言ったら、「じゃあしようがない、わかりました」って言われたんですけど、胃がんだったので。

岸田 そこから休職したと思うんですけど、どのぐらい休んだのですか?

有川 僕は休みたかったんですけど、主治医が「若いんだから早く復職しろ」とか言って。

岸田 ああ(笑)。

有川 「ちょっと今歩くのも本当につらいんですけど」と言うと、「おかしいなあ」とか言って。「もう本当に歩けないです」って言ってるのに、「復職しろ」 とか言われて。結局がんの手術が終わって、退院して2か月弱ぐらいで復職をしました。

岸田 マジですか! 2か月弱!?それって早いほうですよね? だってバッサリ切ってますよね?

有川 そうです、おなかを20センチぐらい切ってて、本当に歩くのもつらいし、 あと貧血がすごくひどくて。こんなに電車とかに乗れなくなっちゃうんだって思うぐらいつらかったんですけど、「若いんだからガタガタ言うな」みたいな感じで(笑)。職場の方は「そんなんで復職していいの?」、「もうちょっと休んでいいんじゃないの?」って言ってくれていました。それで職場の上司とも話して、「復職しても1か月間は来たいときだけ来て、つらかったら帰っていいよ」となりました。そこまでひどい日は少なかったんですけど、通勤途中の電車でどうしてもおなかがくだってしまって今日は行けませんということは何回かありましたね。

岸田 家で安静にしていたいですよね。

有川 そうなんです。胃がんで周辺臓器を大きく取ったけど、ステージは軽い結果が出たので、ドクター的には勝ったも同然みたいな(笑)。「大丈夫だよ、何食ってもいいよ」って言われて。何食ってもって、「今水飲んでも吐いてますよ」 って言ってるのに、「もうあとは慣れろ」 って(笑)。

岸田 なかなかイケイケな感じですね (笑)。

有川 でもある意味、先生がそれぐらい軽口叩けるから、すごくいいほうにいってるんだって思えました。

【辛いこと・克服】

有川 治療中は食べるのが大変でした。 何を食べたらいいとか、どういうふうにしたらいいとか一つ一つ困りました。やっぱりそこは医師には相談しにくかったですね。ただ個人差は大きいみたいです。胃の全摘でも焼肉とかガンガン行って大丈夫な人もいるし、ほんのちょっとでも受け付けなくなってしまったという人も います。僕は炊きたてのご飯を食べるの がつらくなっちゃいました。

岸田 ああ、それはつらいですね。

有川 そうなんです。今も炊きたてのご飯の匂いを嗅ぐとすごく気持ち悪くなるときがあって。食べるための工夫としては、冷えたご飯にショウガとかを混ぜたり、酢飯とか、冷たいご飯とかにして食べる。医者からは、食べてはいけないものの制限もなくて、お酒も飲んでもいいですって言われているけど、術後からお酒を絶っています。食事については、胃の噴門部と幽門部っていう、胃の上のチャックと下のチャックのようなものが両方ないので、要は食べたものがガーッて落ちちゃうんです。そうすると、上手に食べ物が入らなくて、何回も嘔吐が止まらない。ちゃんと入っても、今度は消化吸収をあんまりしないので、おなかがくだってしまうんですよね。だから最近お会いする人には、常にノロウイルスにかかっている状態だと思ってもらうと目安になるって伝えてます。

岸田 けっこうシビアですね。

有川 あと、水を飲むのもすごく大変で、 最初のころは液体がザッと入った瞬間に、気持ち悪くなって全部吐いてしまって。だから「水を1日1リットルは飲みましょう」って言われても……。食事も分割食で1日6食ぐらいに分けて食べるんですけど、ほぼ6食全部吐くんですよね。だから、この状態がこれから一生続くのかと思うとやっぱりすごく不安でしたね。あとは、ダンピングっていうんですけど、食べたあと低血糖を起こしやすくて、今も仕事中急にガクッとなります。眠くない時間に、意識を失うくらいの眠気がくるときがあって。そのコントロールが大変でしたね。食べなければ貧血を起こすし、食べてもダンピングがくるので、その塩梅が微妙なんです。

岸田 胃全摘だからですか?

有川 そうですね。胃全摘の人のほうがダンピングは激しいと思いますけど、胃を切除している人であればあると思います。で、食べ吐きがすごく多いときに唯一吐かなかった食べ物はカロリーメイトでした。これはどんなに体調悪いときでも吐かなかったんです。でもこれも個人差がありますね。同じ胃がんの知り合い は、ゼリーのほうがいいって言ってたけど、僕は逆に喉越しが良すぎて吐いてました。

【キャンサーギフト】

岸田 がんになって得たことについてお話しいただきたいです。

有川 そうですね。自分が病気にならなければ出会わなかったような人と会えたり、物事の優先順位がすごくシンプルになってきたり。それまでは、なんとなくずっとダラダラ遅くまで残業して、なんか今日もかったるかったなとか言って酒飲んで、テレビをちょっと見て寝るみたいな生活を送っていたけど、やっぱり本当に大事なのは家族で、家族と過ごしたいなと思えば、飲み会とか断っても気にならない。あと、出なければいけないような会議とかもすべて断って、子どもと風呂に入ろうとか家事をやろうとか。今、自分に大事な時間って何だろうというのを考えるようになったのは、すごく大きいことだなと思います。今までそういうのがあまり上手にできてなくて、イライラして酒飲んで、子育ても適当にやっておけばいいやみたいなことをやっていたのが、休みの日はきちんとこういうふうに過ごそうとか、早く帰ろうとかというふうに意識が変わった。病気になってやっぱりうれしいとは思わないですし、悔しい思いもいっぱいしていますけど、でもそういうことに気が付けたとか、こんなに自分は助けてもらって生きているんだっていう人のありがたさを感じながら生きられるようになったというのは、何事にも代えがたいことだなと思っています。

【今、闘病中のあなたへ】

有川 星野道夫さんっていうアラスカの 自然や熊の写真を撮られていた方の言葉 で「人は誰もそれぞれの光を探し求める長い旅の途上なんだ」という一説がすごく好きです。やっぱり人の人生っていつかどこかで終わらざるをえないんだけれども、いつか終わるとしても、好きなことをやっていくことがすごく大事だ、と いうことをおっしゃっていて、この言葉が私自身の指針になっているなと思っています。あと、病気になってすごくつらい思いもしてるけれど、そんな中でもやっぱり希望というのはあるのかなと思っています。たとえば病室から出れない方とかもいらっしゃるとは思うんですけど、それでも、何かその中にも希望を、まあすごく大げさなものではなくて何かちょっと少し自分の背中を押してくれるものがそれぞれの人にあるんじゃないのかなと思っています。「病気になっても希望 はあります! 一緒に希望を探していきましょう!」

 

※本ページは、経験者の体験談を扱っております。治療法や副作用などには個人差がございますので、医療情報に関しましては主治医や、かかりつけの病院へご相談、また科学的根拠に基づいたWebページや情報サイトを参照してください。
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