インタビュアー:岸田 / ゲスト:多和田

【発覚・告知】

岸田 今日は多和田奈津子さんに来ていただいております。自己紹介をお願いします。

多和田 はい。多和田奈津子と申します。甲状腺がんと悪性リンパ腫の経験者です。ステージは両方ともⅠでした。闘病したのは、甲状腺がんのほうは1988年の10月からで、リンパ腫のほうは1997年の10月からです。今は寛解をしている状態です。

岸田 発覚から告知までをお聞きしたいのですが、まずは甲状腺がんのときのお話をしていただけますでしょうか。

多和田 はい。甲状腺がんのときは、もともと甲状腺機能亢進症を患い、甲状腺がとても大きく、「がんができてるかもしれないので、触診をしてみてください」と言われていたので、何ともなしに触ることが日常になっていました。そしたらある日、大きな腫れの下にまた小さい腫れを感じ、母に相談をしたら、病院に行ってもう一回見てもらいましょうということで、それがきっかけで分かりました。

岸田 そのときどのような病院に行ったんですか。

多和田 もともとかかっていた子ども病院に行って、やはり甲状腺がんの可能性が高いということで、今度は子ども病院よりも私大病院や総合病院のほうがいいんじゃないかということで転院をして、そこで詳しく検査をしたところ、やはりがんの可能性が高く、手術をしました。

岸田 そのとき16歳ですが、告知されたときはどう思ったんですか。

多和田 全然、がんっていう病気を知らなかったので・・・。

岸田 そのときはご両親と一緒に告知を受けられたの?

多和田 そうです。私は両親立ち合いの下、告知を受けたんです。告知自体は、私はがんっていう病気にまがまがしさみたいなものを感じてなくて、そういう病気になってしまったんだなって思ったんですけど。親とか祖父母の反応を見てると泣いたりしてるんですよね。そういう状態を見て、がんっていう病気はすごく大変な病気なんだなっていうのを後で知るっていうような形で。治りやすい病気っていうか、「手術をすれば大丈夫ですよ」って言われてたので、私はそれでいいんだなって思ってたんですけど。後から重い感じがしましたね。

岸田 ステージⅠっていうのもこのときに言われたんですか。

多和田 そうですね。

【治療】

岸田 このときはどんな治療をしたんですか?

多和田 このときの治療は手術ですね。

岸田 手術の前に不安はありませんでしたか。

多和田 そうですね。実は私、12歳のときに扁桃腺肥大で手術をしてたので。

岸田 そうなんですね。

多和田 全身麻酔の感覚とか、手術後の痛さとか、そういうものは分かってたので。すごくその辺は憂鬱ではあったんですね。ただ、手術しなければならないっていう気持ちがあったので、とにかく早く切って、回復して、みんなと同じように進学をしたいっていう気持ちのほうが強かったです。決まってからは割と前向きに取り組んでたような気がします。

岸田 当時はセカンドオピニオンとかはなかったから、総合病院を紹介されて、そこで手術を受けたんですね。

多和田 そうですね。そのまんま、もう一つの見立てとかは考えなくて。

岸田 手術をして、一応、取り切ったと・・・。

多和田 はい。

岸田 その後薬を飲んだりとかは?

多和田 特にそういったものはなくて。ただ、リンパ節にも少し転移をしてたということで、リンパ節の一部も取りました。

岸田 ステージⅠなんですよね?転移してるけど。大丈夫なんですね?

多和田 そうなんですよね。ただ、肺に転移しやすいということがあったので、今でも肺の検査だけは定期的にやっています。

【発覚・告知】

岸田 続いて悪性リンパ腫の発覚から告知までを教えていただけますか。

多和田
はい。私は、10代の頃とは考えられないぐらい元気にはなっていたんですけれども。10代のときの、何ていうか、だるさというかそういうものがやってきて。何だろう、どうしたんだろうなって思ってたら、空咳とくしゃみ、それから熱がすごく出て。

夜中に寝汗をかいてパジャマを取り換えなければいけないぐらいの高熱が。38度ぐらいの熱が出て。会社に勤めてたので、じゃあ明日はもうお休みって言わなきゃいけないなって思ってると、朝に6度8分の微熱に戻ってるっていう生活が何週間か続いて。くしゃみと鼻水がどのぐらいすごいかっていうと、ボックスティッシュを会社に持っていって、しょっちゅうかんでるような状態だったので。

その状態を見かねた上司から「鼻アレルギーからせきが止まらない人がいるよ」っていうことを聞き、耳鼻科に行ったんですね。そんなこと言っても分からないだろうなって思ってたら、もう、ずばりすぐ分かってしまって。鼻をのぞいた途端に、先生が「腫瘍です」って言ったんですね。

岸田
まじで?

多和田 鼻の器具ありますよね。あれを鼻に当てただけで鼻血がつーと出てきたんですね。生温かいものが流れただけだったんですけど、その状態を見て「これはもう腫瘍です」と先生がつぶやいたんですね。腫瘍っていうのが甲状腺でよく使ってた言葉だったので、これはがんになってしまったんだと。またすぐ大きな病院に紹介状を書いていただいて、組織診したところ、悪性リンパ腫だと分かりました。

岸田 なるほど。そのときは1人で告知を受けたんですか。

多和田 そうですね。

岸田 告知されたときはどうでしたか。2回目の告知じゃないですか。

多和田 そうですね。しかも、前のがんは治りやすいと言われてたんですけど、今回は非常にたちの悪いがんと告知をされたので。これだけの症状があったら、何か大きな病気じゃないかなとは思ったんですけど。よく、白闇とか暗闇とかいろいろ言いますけど、私は奈落の底にすとんと落ちたような。自分だけこの世からいなくなったような感覚になったんですね。

【治療】

岸田 悪性リンパ腫の治療では放射線を受けたんですか。

多和田 はい。

普通、リンパ腫の治療っていうとお薬がメインになると思うんですけど、私の場合は、NK/T細胞性リンパ腫という、リンパ腫の中でも少ないタイプの種類で。それが高悪性度、重悪性度っておっしゃる先生もいらっしゃるんですけど、とにかく速く進むタイプということで。発覚当時はまだ限局期で、リンパ腫が他の所に転移していない状態だったので、放射線を先にやったほうが効果があるということを、この当時は確立されてなかったんですけど、たまたま主治医がアメリカでそういったお話を聞いていて、このやり方がいいんじゃないかとご提案いただきました。

岸田 アメリカで聞いてきたのをそのまま。その当時日本ではスタンダードじゃなかったけれども、最新の形を提案されたんですね。

多和田 だったんですかね。今では本当にそういう限局期であれば放射線を先にして、化学療法をするっていうことがスタンダードになってるんですけども。

岸田 放射線をどのくらいの期間やったんですか?

多和田 大体1カ月強ぐらいですかね。

岸田 毎日通い?

多和田 いえ。実は転院しちゃったんです。

岸田 病院を変えたの?

多和田 はい。セカンドオピニオンっていう言葉がないときだったんですけど、やっぱりもう一つの見立てがあまりにも酷な告知だったので、東京の病院に聞きに行ってしまって。

岸田 聞きに行ってしまって?

多和田 こっそり行ったんです。今で言うところのセカンドオピニオンの手続きをしないで。

岸田 紹介状書いてもらうんじゃなく?

多和田 はい。

岸田 もう一回受診しに行ったみたいな。

多和田 まずは受診しに行って。最終的には主治医とやりとりするんですけども。放射線の治療だけは最初診断してくれた所ではなくて、東京の病院でやりたいって言ったんです。

岸田 次の治療は?

多和田 放射線治療が終わった時点で1回評価があって、かなり小さくなっていたので、化学療法は家に近い所のほうがいいと勧められまして。もう本当に、顔から火が出そうになったんですけど、もう一度、最初に見立てをしてくれた病院に「戻りたい」と言って、化学療法はそちらのほうの病院でしました。

岸田 当時も違う病院行ったらもううちに戻ってくるな、みたいな雰囲気じゃないですか。

多和田 そうですね。そういうふうに思われると思って、私もそんなことを受け入れてくれるはずがないと思って。なのでもう「東京の病院で全てやってくれ」って、最初は言ってたんです。でも、「そんなことはない、希望すればもちろん受け入れてもらえますよ」といろんな医療者の方にアドバイスいただいたんです。正直な気持ちを伝えたら「じゃあやりましょう」っていうふうに。

岸田 また戻ったんですね。地元の病院に。
そこで化学療法をやって。

多和田 そうですね。

岸田 どれぐらいやりました?

多和田 5カ月ぐらいですかね。

岸田 5カ月やって、効果があった?

多和田 そうですね。がんが小さくなったかっていうのは、放射線でだいぶ小さくなってるのであまりよくは分からなかったですけど。ただ、大きくなるっていうことはなかったので効果はあったんだと思います。

岸田 そして、5月に。

多和田 自家末梢血幹細胞移植というんですが、いわゆる骨髄移植と違って、自分の中の細胞、赤ちゃんの細胞をあらかじめ冷凍保存しておいて。強い化学療法をしたときに細胞がリンパ球でも白血球でも赤血球でもなくなってしまうんです。感染症を防ぐために、あらかじめ取っておいた赤ちゃん細胞を体内に入れることで、白血球が立ち上がるのを助けるっていう移植があるんです。それを採取するための化学療法なんですね。

岸田 ん? 採取するための化学療法?

多和田 はい。自分の細胞を取るので、その前に細胞をまっさらにしないと赤ちゃんの細胞って出てこないんです。

岸田 そういうこと。だから・・・。

多和田 本当は骨髄の中にあるものが血液の中に出てくるのを取って・・・。

岸田 てことは、この化学療法で体をやっつけて、新しいやつが出てきたところを取る?

多和田 はい。普通の化学療法より強いものを使って。白血球をある程度下げないといけないので。

岸田 自分の細胞を取っておいて、化学療法をやって、細胞を全部死滅させて、その後自分の凍結した細胞を戻して、いい感じにするという感じか。それをやって。でも5月末に退院できるんですね。

【両親】

それでは、ご両親のことをお聞きしていきたいと思います。宣告のとき、ご両親はどうでしたか。

多和田 そうですね。甲状腺がんのときも、リンパ腫のときもそうだったんですけれど、やっぱり、母親のサポートっていうのが本当にありがたくて。例えば、甲状腺がんですと、全身麻酔が解けるときに、私の場合はすごく全身がしびれたんですね。それを自分でどうすることもできなくて、それを一晩中さすってくれたりとか、そういうのはやはり看護師さんには頼めないので。それも拝み込んで、一緒に仮眠ベッドで宿泊させてもらったんです。その1日だけでしたけど、さすってもらったっていうことが本当に緩和になって、ありがたかったですね。リンパ腫のときは、抗がん剤治療とかで味覚がおかしくなってしまうので、食事が取れなくて。でも、これだったら食べられるんじゃないかって差し入れをしてもらったりとかですね。そうやって元気付けてくれたところが本当にありがたかったですね。

岸田 ご両親も2回ともなると結構、ショックは受けてたんじゃないですか。

多和田 そうですね。やっぱり、甲状腺がんのときのショックがあまりにも衝撃的だったみたいです。

【恋愛・結婚】

岸田 恋愛、結婚についてお聞きします。
このときの恋愛、結婚となるとやっぱり多感な時期じゃないですか。今ではご結婚されてますけれども。

多和田 はい。

岸田 やっぱりがんだから恋愛しづらいとか、そういうイメージありましたか。

多和田 そうですね。甲状腺がんのときは、やっぱり傷が見えてしまうので。この傷を気にしない人とお付き合いしたいって思ってたんですよね。回復してからは、お友達の紹介とかでいろんな人と知り合ったんですけど、隠し切れないんですね。やっぱり見えてしまうので。なので、そういったことを気にしない人が良かったですね。

岸田 そういう方とお付き合いをしていたと。

多和田 はい。

岸田 そして?

多和田 リンパ腫のときは、再発しやすいタイプのがんで。寛解しているにもかかわらず、いつどうなるか分からないっていう気持ちに支配されてたので、なかなか恋愛に踏み出せないところがあって。外にも出ず、新しい女友達であってもちょっと警戒するみたいな。自分がリンパ腫っていうことを言ったら離れていってしまうんじゃないかとか。新しいお友達つくるのにもびくびくしていたので、なかなか踏み出せなかったんですけど。でも、そうも言ってられない。だんだん適齢期とかそういうこともあって。

岸田 そうですよね。

多和田 なので、またいろんな方に紹介していただいたりして。何回かお付き合いしたりしたんですけども、言い出せないんですよね。

岸田 言い出せないっていうのは、がんだったことを言い出せない?

多和田 そうなんです。好きとかそういうことは言えるんですけど、自分にどういう背景があって、どう生きてきたかっていうのをなかなか言い出せなくって。

岸田 そしてその後、いろいろあったかと思いますけれども。

多和田 いろいろあって。

岸田 そして今、結婚されてますよね。

多和田 はい。

岸田 何があったんすか。言い出せないんじゃなかったんですか。

多和田 楽だったんですよ。そういうことを説明しなくていいっていうことが。楽な人を見つけちゃったんです。

岸田 楽な人を見つけた。どうやって。

多和田 同じ患者会の活動をしている人で、同じ悪性リンパ腫の患者さんなんですね。なので出会ったときから自分がどういう状態かっていうのを知っていました。

岸田 そうなんですね。それで、晴れて結婚して、ゴールインすることになるのですが、その後、妊よう性の部分。子どもをつくる、つくれないとかね。ここに関してはどうなんですか。

多和田 そうですね。今は、妊よう性ゼロ、という形なんですけども。甲状腺がんのときは特にそういったことは言われなくて。ただ、リンパ腫のときはやはり化学療法をたくさんしますので、不妊になるのが8割ぐらいというふうには告知をされて、納得した上で治療を受けたので。

岸田 当時25歳でそれを言われるのってショックだったんじゃないですか。

多和田 そうですね。確かにショックはショックなんですけど。その頃、結婚もしてないですし、ましてや相手もいないような状態だったので。「その先のことを考えるよりも、今、生きてることのほうが大事だから」って母親にすごく説得されて。「頑張っていこうよ」っていうふうに、先に親に言われたことが、結構、私の中ではハードルを下げたのかなっていう気はしています。

岸田 そうなんですね。今、生きてることのほうが大事だよっていうことを親に言ってもらって、何とか救われたんですね。妊よう性に関しては、恋愛結婚していくところでハードルにはならなかったんすか。

多和田 そうですね。やっぱり新しくお付き合いするっていうのは、その部分もすごく引っ掛かっていて。自分が子どもを産めないって、要するに病気を告白できないっていうのは、そこにつながってくると思うんですよ。リンパ腫であるってなったら、子どもはどうなの?っていう話になるし、パートナーが理解してくれても、じゃあ、向こうの親はどういうふうに思うのか、とか。親だけではなくて親戚一同、どういうふうに認めてくれるのかな、とか。そういうことまでいっぱい考えてしまって。やっぱり踏み出せないっていうところはありましたね。

岸田 そういうのが踏み出せない原因でもあったっていうことですね。

多和田 そうですね。

岸田 悪性リンパ腫であった男性であればそういったことも分かってくれるし、旦那さんも分かっている状態で付き合い、結婚できたってことなんですかね?

多和田 そうですね。子どもを望もうとか、そういう話はしなかったので。

岸田 もう、暗黙の了解というか。

多和田 そうですね。

 

【辛かったこと】

岸田 当時、精神的、肉体的に辛かったとき、どう乗り越えたかをお聞かせください。

多和田 そうですね。肉体的には、やはり先ほどの麻酔のこととかですね。あと、吐き気とかいろいろありますけども、化学療法は。ただ、全身倦怠感っていうのが退院後もあるんですね。それがどうしていいのか分からなくて。

岸田 それが16歳のとき?

多和田 25ですね。

岸田 どう乗り越えるんですか。

多和田 もう、やり過ごすしかない。1日外出してみて、全身倦怠感出たら2日休んで。また回復してきたら、また1日出てみようっていうことの繰り返しでしたね。

岸田 どれぐらいで全身の倦怠感ってなくなりました?

多和田 1年くらいですかね。

岸田 結構かかるんですね。それで外に出れるようにもなってきたと。じゃあ、肉体的と精神的に辛かったときはそのとき?

多和田 そうですね。肉体と精神って一緒になってるなって、つくづく思うんですけど。やはりそういうときは精神的にも再発の恐怖と戦っているときだったので。すごく辛かったですね。

【キャンサーギフト】

多和田 今思えば、やはり仲間です。もう、普通であれば出会えないような土地の方とか、日本全国の方。年齢も、私の年齢ではない若い方もいらっしゃれば、年を召してる方もいらっしゃいますけども。そういうジェネレーションを関係なく、がんという共通のもので仲間がたくさん増えました。そのことでいろんな人の生き方というものを教えていただいたり、そのことが私の生活の糧になっていて、それが私のキャンサーギフトです。

【今、闘病中のあなたへ】

多和田 「諦めてもなお、新しい希望がある」です。

岸田 その心は。

多和田 私は、高校生の頃から諦めることが多い人生だったんですね。部活であったり彼氏であったり仕事であったり。でも、自分が想像していない、新しい希望というのがあることが分かりました。なので、元気になったから言える言葉かもしれませんけれども、生きていれば必ず新しい希望というのができてくるので、今、闘病している人も、何か分からないけれども目標を持って。応援しております。

岸田 いろんなことを諦めて失ってきた人生かもしれませんが、なっちゃんが結婚という新たな希望を手にしたように、諦めても新しい希望が芽生えるというメッセージでした。ありがとうございます。

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