インタビュアー:岸田 / ゲスト:水橋

【発覚・告知】

岸田 今日のゲストは水橋朱音さんです。

水橋 水橋朱音です。22歳で、埼玉県内の看護大学の2年生です。お願いします。

岸田 いつも朱音ちゃんって呼んでいるので、朱音ちゃんと呼ばせてもらいますね。

水橋 はい、大丈夫です。

岸田 朱音ちゃんは、今、「STAND UP!!」という若年性がん患者団体に所属しています。

水橋 そうです。フリーペーパーを作成しています。

岸田 ではさっそく、朱音ちゃんのがん種を、お聞かせください。水橋 鼻咽頭がんっていう、鼻の奥からのどの上にできるがんです。ステージは、リンパ節転移があったので3です。入院は、中学3年生14歳の夏ぐらいから、1年くらいしていました。

岸田 今から何年前ですか?

水橋 7年前、8年前ですかね。

岸田 そんなに前なんですね。転移はあったんですか?

水橋 リンパ節に転移して腫れていたので、がんに気づいたって感じです。

岸田 気づいたきっかけは?

水橋 きっかけは、中3の4月頃に、首が腫れているのに気づいて、ちょっと触ってみたら、コブみたいなのができているなっていうのが最初。で、1か月くらい放置して。

岸田 腫れたのがきっかけ?

水橋 腫れたのがきっかけで病院に行きました。体育祭が延期になり、日曜日に授業しなきゃいけなくなってしまい、めんどくさいと思って、首が腫れているのを言い訳にして帰ろうと思ったら、「ちょっと早く病院行ってきなさい!」と、先生に言われてしまって、仕方ない行こうかなと思ったことが、きっかけです。

岸田 地元の病院に行ったんですか?

水橋 そう、地元の整形外科だった気がします。1か月くらいそこ通って。

岸田 えっ、通い? 首、腫れてるんす
よね?

水橋 はい(笑)。痛みもなかったので。1か月経って、さすがにわからないから って市立病院に行って、超音波やって、 そこも1か月くらい通って。

岸田 うんうん。

水橋 そのくらいから痛みが強くなってて、そこでも結局わからないから、近くにあった大学の附属病院に行きました。

岸田 大学の附属病院に行って?

水橋 その日に急遽生検(※1)することになりました。病院側は、ほぼがんだと思っていたらしいんですけど、とりあえず私には、「何かわからないから検査しよう」と、1泊2日くらい入院して生 検をしました。もうそこの病院では診れないってわかっていたんで、「違う病院に行って入院をしましょう」みたいな話になり、この病気は4軒目の病院でやっとわかりました。

岸田 4軒も行ったの? 生検したのは4軒目?

水橋 3軒目の病院で生検したんですけど、そこでわかんなかったから、4軒目の病院で詳しく検査してみました。

岸田 けっこうレアながん?

水橋 レアですね。多分咽頭がん自体の患者数も少なく、プラス小児の咽頭って、あまり聞いたことがないと思うんですけど。

岸田 へー。

水橋 4軒目の病院で治療したんですけど、そこの病院では10年くらい前に1人診たくらいのレアケースで、私が2人目。

岸田 相当レアですね。4件目の病院で、どういうふうに告知されたんですか?

水橋 当時14歳だったので、先に親が呼ばれて告知を受けて、そのあとに私が呼ばれました。ホワイトボードに病名が書かれていて、鼻咽頭がんであることや、病院で2人目であること、髪の毛が抜けることとかも、先生から説明を受けました。

岸田 そのときはどう思ったんですか?

水橋 なんだこれって思いました(笑)。 まず、鼻咽頭がんってなんだ? みたいな感じ。ただ、告知を受けるころには、 けっこう痛みも出てて、夜も眠れない状況が長く続いていたので、病気がわかった、イコール治療ができる、イコール治るみたいな。

岸田 うんうん。

水橋 今まで何もできなかったので、治療ができるってことは、痛みもなくなるし、ホッとした気持ちのほうが大きかったですね。

【治療】

岸田 治療は何をしたんですか?

水橋 化学療法と、放射線で完治しました。

岸田 どんな化学療法をしたか覚えてます?

水橋 シスプラチンをやりましたね。

岸田 効きました?

水橋 効きました。なんか、効きすぎて、合併症とか起こった。

岸田 あとでちょっとお話ししますね。そのあと手術はしてない?

水橋 していないですね。

岸田 放射線療法は何か月やったんですか?

水橋 放射線治療は1か月くらい。

岸田 放射線を1か月? 抗がん剤は?

水橋 合併症が起こったので継続できなくって、抗がん剤の量を減らして無理やり1クール(※2)しました。

岸田 そうなんだ。入院は、シスプラチンしていたときだけですか?

水橋 いいえ。放射線治療もやって、結果1年ぐらい入院しましたね。

【後遺症】

岸田 さっき出た合併症の話。合併症になったきっかけって、何ですか?

水橋 きっかけは、抗がん剤をスタートして、その時点で腫瘍崩壊症候群っていうのになって。

岸田 どういうこと?

水橋 抗がん剤が効きすぎて、がん細胞が一気に壊れて起こる症状みたいな?

岸田 効きすぎて?

水橋 いいことだと思うんですけど。シスプラチンって腎臓に影響が出やすいといわれているんですけど、効きすぎて腎臓に影響が出すぎてしまって、腎不全になってしまったんです。

岸田 うわー。

水橋 (笑)。いいのか、ちょっと微妙なとこなんですけど。

岸田 効きすぎて腎不全になったって、いつわかったんですか?

水橋 抗がん剤したあと、2日目くらい
でした。

岸田 はやっ!

水橋 採血とか毎日するじゃないですか。そのタイミングで尿がまったく出ないし、点滴入れても出ない。採血の数値を見たら、腎臓の値が悪いなって、そのときは、急性腎不全っていう状態になって。はっきり言ってその時期、本当に覚えてないんですよね。腎臓が悪くなりすぎて、意識が朦朧としてみたいな。酸素が体に取り込めない状況で。

岸田 全身むくんじゃう?

水橋 もう、そんな感じ。

岸田 そっからどうしたんですか?

水橋 中断しました。

岸田 そうですよね……。

水橋 治療もまったくできないし、若いと進行も速いので、がんの危険は脱したけれど、また大きくなってしまいますし。腎臓は透析をするんですけど、とりあえず、CVっていうカテーテルを鎖骨のとこに入れて、血液を浄化する血液透析(※3)をしました。

岸田 何時間ぐらいやったとか、覚えてます?

水橋 けっこう長い時間やって、たしかしばらくは毎日5時間、6時間とかやっていて、徐々に落ち着いてくると、時間を短くしたりとか。週に3回、4回とか になってくるんですけど。

岸田 うーん。そっか、シスプラチンが効きすぎて。

水橋 腎臓が弱くなってしまったみたいです。

岸田 それで透析をしてよくなりました?

水橋 毎日やってた透析が、週3回になり、週2回になりました。

岸田 もうシスプラチンはしなかったんですか?

水橋 してなかったですね。ですので、 放射線治療を早い時期に切り替えてやりました。もともと最後にがんを叩くくらいの放射線をする予定だったんですけど、 抗がん剤ができないから、放射線治療的にはマックスまでやろう、ってなって、放射線治療をやったら、たまたまこれも私にはすごいよく効いて。

岸田 そうなんですね。

水橋 放射線治療は後遺症とかもなく、 よく効いて。

岸田 すべて効きやすいタイプだったんですね?(笑)

水橋 良かったと思いますよね(笑)。

岸田 そっから、放射線治療を1か月やって、退院したのは1年、その期間は何をしてたんですか?

水橋 その間も体調不良とかがありましたけど、腎臓がやっぱりなかなか治らなくって。急性腎不全だと回復する可能性があるんですけど、いつまでたっても回復しなかったので、慢性腎不全に移行してしまったんです。一生つきあっていかなければいけない状況になってしまったので、そっちの治療とか、食事制限や内服とか、体調も悪いことが多かったので、入院が長かったです。

岸田 腎臓を悪くすると、けっこう食事制限(※3)大変なんですよね?

水橋 ゆでた野菜しか出てこないですけど、それはいいかなって。たとえば、みそ汁だと、鍋に水をたっぷり入れて、野菜をゆでたら、水を捨てるんですよ。いい栄養とか出汁としても出るじゃないですか。でも、腎臓病の患者にとっては、それを取りすぎちゃいけないので、捨てて、新しい水を入れて。

岸田 あえてわざわざ栄養を取り除くみたいな?

水橋 んー、カリウムが野菜から出るので。カリウムは腎臓に悪いんです。だから食べるものからカリウムを取り除いたりとか、お肉とかも食べられないです。

岸田 そうなんですね。それを、約1年間がんばるわけですね。退院できた理由は、何ですか?

水橋 抗がん剤とかいろいろ終わって、そのあとは腎臓の治療をしたんですけど、 血液透析をしないで、保存療法として、 薬物、食事療法をしばらく続けていこうっていう話になって、透析をしないで保存療法を続けていたんですけど、どうしても悪くなってしまって。腹膜透析(※ 4)をやることになって、入院が延びたって感じですね。家でやるために、自分でやり方覚えなきゃいけないですし。

岸田 腹膜透析は、機械を家に置いて、 自宅でできるような透析ですね?

水橋 はい。血液透析は、病院に週3回行ってやらなきゃいけないんですけど、 腹膜透析は、自宅で夜間寝ている間に、全部機械が勝手に動いてくれてやってくれるんです。

岸田 朱音ちゃん元気だから、寝てる間にパーンって抜けて、ブッシャ―みたいな(笑)。

水橋 ないですないです、さすがに(笑)。

岸田 (笑)。じゃあ腹膜透析を1年後にできるようになり、それで退院?

水橋 そうですね。腹膜透析したら、体調が悪かったのが落ち着いて元気になったので、結局1年くらい入院して退院したんですね。

岸田 そこからはずっと、自分の家で透析をやってたんですか?

水橋 はい。自分の家で。腹膜透析自体は、15歳とかに始めて。腹膜透析って5年から7年しかもたないっていうんですよ。

岸田 そうなんですか?

水橋 カテーテルが入るので、感染しやすいんですね。腹膜を使うので、それが固くなってくると、もう使えなくなってきてしまう。というのもあって、5年くらいしかできなくて、私は5年腹膜透析 をやって、20歳のときに、腎臓移植をしました。

岸田 おっ、腎移植したんすね。ドナーが見つかったってことですか?

水橋 母から生体腎移植を受けました。 腎臓は2個あって、1個でも機能してくれるので、ちょっといただきました。今は透析もしてないですし、だからこそ、看護大学にも行きました。

岸田 今は普通に生活できるようになった?

水橋 もうほぼ、普通に生活をしていますね。

岸田 だけど、最初から腎移植するっていう選択肢はなかったんですか?

水橋 腎移植すると、拒絶反応を起こしてしまうので、免疫力を低下させる免疫抑制剤を飲むんですよ。免疫抑制剤を飲むってことは、がんが再発しやすくなるんですよ。

岸田 そうなんですか?

水橋 免疫力が低下するので。だいたい5年再発しなかったら再発の可能性が減るので、そのために、5年待たなければいけなかったんです。

岸田 だから、5年間は腹膜透析を?

水橋 はい。5年から8年くらいしか持たないので、タイミングよく5年やって、 透析をやめて移植ができたって感じですね。今は、免疫抑制剤だけ、飲み続けるくらいです。

【学校】

岸田 学校とかはどうしてました?

水橋 入院した病院に、特別支援学校があったので、地元の中学から転校して、院内学級に通っていました。

岸田 そうなんだ。じゃあ、院内学級に1年ぐらい通った感じ?

水橋 中3の卒業前の2月までは、院内学級で授業を受けていました。

岸田 院内学級は、どうでした?

水橋 院内学級は、あんまり好きじゃなかった。

岸田 好きじゃなかった?(笑)

水橋 みんな好きって言うんですけど (笑)。あんまり好きじゃなかったです。

岸田 まあ、いろんな人がいますからね。 何が嫌だったんですか?

水橋 普通の院内学級って1つの教室で いろんな学年が一緒に授業を受けるんですけど、けっこう大きい学校だったので、1学年に1つの教室だったんです。それで私1人、1つの教室で先生と1対1の授業を受けることが多くて。休憩時間も、 患者を1人にしちゃいけないので、ずっとつきっきり状態でした。気が休まらないというか……。

岸田 あっ、ひとり好き(笑)。

水橋 先生も気を遣ってしゃべりかけてくれるんですけど、私もそれに気を遣ってしゃべらなきゃいけないような。一生懸命話す内容を考えたりとか。

岸田 それは気が休まらないね。

水橋 そうですね。疲れましたし、人見知りだったので、それが嫌だった原因かなって今は思います。今だったら、体力も戻って問題ないですし、普通にしゃべったりもできると思うんです。けれど、 そのときは入院が慣れなくて、気を遣いますし、つきっきりだし……。

岸田 勉強自体はついていけましたか?

水橋 まったくついていけない(笑)。 中3なので、受験生だったんですよ。けっこう長い時期、寝たきりっていうか、 2か月ぐらいあんまり歩くこともできなかったりで、頭もボーっとしちゃうんですよね。前にやったことも覚えてないですし。でも学校があるってことは、リズムを作れるからすごい良かったなと思います。

岸田 高校はどうしたんですか?

水橋 最初は普通に高校受験するつもりだったんですけど、全然勉強もついていけないし、全然受験勉強するような体力や集中力もないし。最終的には高校卒業と同じにみなされる通信制高校にしました。

岸田 高校3年間は通信制で、そのあと大学受験はどうしましたか?

水橋 高校卒業後、すぐには大学に行かなかったんです。独学で勉強して、受験しました。

岸田 そうなんですね。で、今、看護師の卵をしているという感じなんですね。

水橋 そんな感じですね。

【辛いこと・克服】

岸田 治療を通して、身体的につらかっ たこと、精神的につらかったこと、あると思うんですけど……?

水橋 身体的は……シスプラチンって吐き気ひどくないですかね?

岸田 あー、ひどいですね。

水橋 みんな言う。もう寝返りを打ったら吐くくらいの感じだったんです。もう吐き続けますし、体力が低下するので、だるいとかもあって大変だったなって思いますね。

岸田 そっかー。それをどう乗り越えました?

水橋 吐き気は、薬とかもありますし。 でも、吐きたいのに吐けないってあるじゃないですか、食事を取ってないので。

岸田 わかります。ほんと、胃液がちょっと出るぐらいですよね。

水橋 そんな感じですよね。で、だんだん慣れてきて、吐くために水を飲みました。

岸田 そういうプロもいるんだ(笑)。

水橋 プロじゃない!(笑) 吐きたい気持ちはあるけど吐けない。でも、おなかの中にはなんもない。とりあえず飲めば、 胃には何か入るので、気持ち悪くもなるじゃないですか。

岸田 で、リバースする。

水橋 はい(笑)。他はお薬を使ってもらったりとか、だるかったら寝ているしかなかったです。それで、いつかは落ち着くとは思ったので、待っていたって感じ ですね。

岸田 精神的につらかったことは?

水橋 入院中、今までできていたことが、できなくなるもどかしさがありましたね。今までは、当たり前に自分のペースで歩くこともできましたし。中学生だったので、友達のブログとかを見ると、すごい楽しそうなのに、私はベッドの上だし。 できないっていうもどかしさはありましたね。

岸田 気分が下がって卑屈にならなかったんですか?

水橋 「なんで自分が……」とは、あんまり思ったことはなくて。うらやましいとは思うんですけど、思うたびに目標ができるんですよ。私は退院したらやる、みたいな。なので、やりたいことリストを書いて。友達の家に泊まりに行くとか書いて、そのためにがんばろうと思いましたね。

岸田 やりたいことリストは、けっこうできたんすか?

水橋 うん、ほぼ全部できました(笑)。

岸田 ほぼ全部! すごい!

 

 

 

【夢】

岸田 今、看護師の卵じゃないですか。
ご自分の経験からなりたいと思ったんですか?

水橋 看護師にはなりたくなかったです。

岸田 おっ(笑)。全国の看護師に謝ってください(笑)。

水橋 すいません(笑)。今はめざしているので。でもそのときは、大変そうだから。

岸田 看護師さんとかお医者さんとかね。

水橋 もう、女社会だから。

岸田 そこ何も言えません(笑)。

水橋 当時は、人のケアができるとは思えなかったです。尊敬っていう目では、もちろん見ていましたけど、自分はできないから、なれないなって。

岸田 じゃあ、なんでめざそうと思いはじめたんですか?

水橋 そうですね。自然と、尊敬がこういう人になりたいなって変わっていった。 だんだん気持ちが落ち着いてきたとき、いろんなことを思い出して、「あの看護師さんにすごいお世話になったな」、「あの言葉がすごい助かったな」とか。自分が病気になったのを、今どう活かせるかって思ったときに、いちばん看護師が思 い浮かんだ。逆に、「入院中にこうして ほしかった」とかもあったので、じゃあ 自分が看護師になったら、こういうふうにできたらいいなって。自分の病気を活かせる、かつ、そのお世話になった看護師さんと関わって、こういう理想像ができて進みました。

岸田 看護師として、何科に行きたいとかはありますか?

水橋 小児科を考えています。小児とか思春期の入院中の心のケアとか、退院後のフォローだったりとか、長期的に看られるようなことを、したいなと思います。

岸田 4年で卒業して、じゃあもう、社会に出ていくって感じね、どう?

水橋 すごい楽しいです!

【今、闘病中のあなたへ】

岸田 闘病中の方へメッセージをお願いします。

水橋 甘えること、頼ること、笑顔でいること!!です。

岸田 おー。

水橋 これ以上迷惑かけたくないとか思って、甘えられないかもしれないですけど、甘えたりとか頼ったほうが、相手はうれしいと思いますし、信頼されてるなって思うだろうし。まあ、最後は私が単純に願う。嫌なことがあっても笑顔でいる必要ないですけど、楽しいときは楽しんでいいかなって思います。

 

 

 

(※1) 生検……患部の一部を切り取って、顕微鏡などで調べる検査。

(※2) クール……抗がん剤は、投薬期間と休養期間を1セット(3~4週間)として行い、それを1クールという。

(※3)血液透析……血液を体外に取り出し、透析器を通して血液中の余分な体液を除去する方法。

(※4)腹膜透析……おなかの中に管(カテーテル)を通して透析液を入れ、血液中の不要な要素を除去する方法。

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