インタビュアー:岸田 / ゲスト:箕輪

【発覚・告知】

岸田 今日のゲストは、箕輪恵さんです。

箕輪 はい、箕輪恵と申します。がん種は乳がんで、見つかったときのステージは2bです。今から6年前の2008年の春、3月に見つかりました。

岸田 今はどうしている感じですか?

箕輪 今は年に1回の検査だけで、特に 薬も飲んでいないし、何もしていないです。

岸田 どうやってがんがわかったんですか?

箕輪 私、あかすりが大好きで、仕事のあとによく、あかすりに行ってたんですよ。でも仕事が忙しくなっちゃって半年ぐらい行けなくて、久しぶりに行ったとき、あかすりのおばちゃんが胸を触って「これ何?」って。そう言われて気になって家に帰って調べたら、乳がんなんじゃないか、となって。びっくりして次の日に病院に行くことにしたんです。

岸田 あかすりに感謝ですね。

箕輪 ほんとに。

岸田 次の日に病院に行ったということですが、そのとき仕事はどうしたんですか?

箕輪 仕事は転職して2年目で、すごく楽しくてやりがいがあって、むちゃくちゃ忙しかったんですね。乳がんなんじゃないかという話になったから、治療しないといけなくて。そうすると、お休みしないといけないから、上司と一緒にその調整をどうしようかと話しました。初めて仕事で悩んだことです。

岸田 どういうお仕事をしていたんですか?

箕輪 インターネット通販の会社で、バイヤーの仕事をしていました。私はめっちゃ元気で、本当に誰よりも元気で、マラソンも走っちゃうぐらいだったから、最初は信じてもらえなくて。

岸田 病院に行ってから会社に行ったんですか?

箕輪 会社に行って「ちょっと病院行ってくるわ」って言って。

岸田 それで病院に。

箕輪 そう。「ほぼほぼ、がんでしょう」 みたいな感じになって。「週明けに大きい病院でちゃんと診てもらってください」と言われて。翌週、国立がん研究センター中央病院に行くわけなんですけど。 大号泣で会社に戻ってきました。

岸田 仕事をしないといけないと思って戻ったんですか?

箕輪 そう(笑)。職場の人に伝えたら 「冗談は休み休み言え、寝言は寝て言え」って言われて。いやいやそうじゃなくて、来週からどうしようってなって。そこからは仕事を休みがちになり、検査を優先させてもらって、商談とかも全部上司に出てもらったりしました。

岸田 胸の状態はどうなんですか。コリコリっていう感じなんですか?

箕輪 動かない。根を張って、動かない。

岸田 それは、箕輪さんの場合は、ですよね。

箕輪 そうそう、私の場合は。見つかったとき、4・9センチだったんですけど。

岸田 4・9センチってどうなんですか、大きいんですか?

箕輪 けっこう大きめだったみたいで。 それでびっくりしました。

【仕事と治療】

岸田 治療はどんなことをしたんですか。

箕輪 治療は抗がん剤治療をだいたい半年かけてやり、そのあとに手術、そして放射線治療、ホルモン治療として薬を5年間服用。これが一応私がやった治療です。

岸田 じゃあ、週が明けて月曜日に大きな病院に行きました。そこでそのまますぐ抗がん剤ですか?

箕輪 抗がん剤が始まるまでに1か月かかったんです。その間にがんの顔つきとか、悪性度とか、そういうのを調べる検査をいろいろやって。

岸田 3月の下旬にわかって、4月の下旬に治療が始まる。その1か月間もお仕事行ってたんですよね。

箕輪 行きながら検査したりしてました。

岸田 じゃあ抗がん剤治療で半年間っておっしゃってましたけど、通院ですか?

箕輪 はい。入院はしないで通院で。最初は3週間に1回の投与で、それが4クール(※1)かな。それが終わったら次は1週間に1回、それが12クール。それで全部で半年間。

岸田 半年間、気が気じゃないですね。

箕輪 そう、大丈夫なのかなって。でも抗がん剤でがんを叩いてから手術をしましょう、という説明を受けてたから、よくなるためにやってるんだと思いながらやりました。

岸田 仕事も行きながら?

箕輪 実は治療が始まる前に休職しちゃったんです。治療に専念したくて。

岸田 いつまで休職したんですか?

箕輪 抗がん剤が終わるまで。

岸田 手術が終わって、そこからホルモン治療ですよね。

箕輪 手術が終わってからは放射線治療。毎日の通院でしてました。

岸田 それが終わるまでずっと仕事は辞めてたんですよね。

箕輪 そうです。ずっと辞めてました。

岸田 そのあと、復帰はされたんですよね。

箕輪 今はまた同じ会社で働いているんだけれども、丸々1年は離れてました。

岸田 治療を始めてから1年間は治療に専念して、そのあとに。

箕輪 治療中に会社は一回辞めてるんで す。で、今の会社にアルバイトで戻ったの。そんなシステムはなかったんだけど、「週3くらいで働かせてもらえないかしら」って言ったら、いいよって言ってくれたから。

岸田 理解のある会社ですね。

箕輪 うん、ありがたいですね。

岸田 治療で休んでいるときの写真です

箕輪 いちばん右が私なんですけど。抗がん剤治療真っ最中で、同僚の結婚式に行ったんですよ。

岸田 よくそんな元気ありましたね。

箕輪 元気出さなきゃ、外に出る機会を作ろう作ろうと思って。それで、ウィッグをつけて、お化粧をがんばって、行ったんです。そしたら当時の社長に、どこかでお会いしましたっけって言われた(笑)。顔色が悪かったから、すごいメイクをがんばっていたので。

岸田 頑張りすぎたメイクで、誰かわからなかったんですね(笑)。抗がん剤のときも外に出てもいいんですよね。

箕輪 はい、私は大丈夫だった。でも、具合が悪いときは出られなかったけど。

岸田 そのときによって波がありますからね。ちょっと白血球が下がってきたら強制的に出られないっていうときもありますけどね。その次の写真、これは?

箕輪 2009年3月の東京マラソンなんですけど、放射線治療が終わって1か月で、10キロ走ったあとです。完走メダルを持っています 。

岸田 結婚式のときといい、このときといい、自分でハードモードにしてないですか、大丈夫ですか(笑)。

箕輪 これは、抗がん剤治療中にエントリーがあったの。東京マラソンって8月がエントリーで、本当に抗がん剤の真っ 最中で、走るなんてとんでもなかったん だけど、でもまた走れるようになりたいと思って。この前の年とその前年は、東京マラソンのフルマラソンに2回連続で当たっていたの。これは3回目で、10キロ。

岸田 すごいですね。さっきの写真もそうですけど、抗がん剤をやってたときって、髪は抜けないんですか。

箕輪 これはウィッグで、さっきのもウィッグです。これね、109で買ったウィッグなの。1万5000円ぐらい。

岸田 全然わからないですね。

【恋愛・結婚】

岸田 次に、ちょっと個人的に聞きたかった、恋愛についてですね。

箕輪 当時、私婚約していたんです。がんがわかったから、結婚をやめたほうがいいのかなと思って。

岸田 がんのことは恋人には言ったんですよね。

箕輪 言いました。言ったうえで、「ちょっと大変だから、別に今結婚しなくてもいいかなって思うから、やめましょう」って、こちらから言ったんです。そしたら、「そんなことで断るくらいだったら、プロポーズしないよ」って言ってくれて。6月に籍を入れたんです。すごくうれしかった。

岸田 3月に告知されて4月から治療が始まって、6月に籍を入れるっていうことは、抗がん剤真っ只中のときに。

箕輪 籍を入れて。本当に本当に励みになりました。

岸田 家族にももちろん伝えたわけですよね。

箕輪 言いました。そのとき一人暮らしをしていたので、母にも父にも、なかな か言い出せなくて。姉にだけ先に言ったような気がします。母もびっくりしちゃって。当たり前ですよね。子どもががんになるってなかなか、考えないことだから。でも、母はもう仕事を辞めていたので、すぐ次の検査からはついてきてくれ ました。実はそのとき、家族とは疎遠だったんですよ。姉と父と母は実家で3人で暮らしていて、私だけ都内で一人暮らしをしていて。でも、なんだかわからないけど、私ががんになってからすごく仲良くなった気がする。久々に、もう何年ぶりかで家族旅行とか行っちゃったり。

岸田 それ、わかります。僕もがんを告知されてから親孝行をしたいと思って、そういうのに行くようにしました。

箕輪 そうだよね。温泉に行ったんだけど、私を元気づけようと家族中ががんばってくれて。お姉ちゃんが車を運転する 係で、私は楽しむ係。母がお金の係って言ったのに、母は財布を持ってくるのを忘れて(笑)。

岸田 箕輪家、なんか、すごいですね。

箕輪 うん。本当に元気づけられる家族です。笑顔になって、みんな。そんな家族です。

岸田 お父さんもちゃんと励ましてくれました?

箕輪 父は、お酒飲んでた(笑)。

岸田 男ってね、そういうとき、どうしていいかわからなかったりする人も多いですからね。

【お金・保険】

岸田 次に、わかる範囲でいいんですけど、治療費がどのぐらいかかったかとか、 保険に入ってたのかどうか、お聞きしたいんですけど。

箕輪 私は保険に入ってなくて。 29歳だから入る人は入ってると思うんだけど、まったくそういう考えがなくて。だからそれまでの貯金を使って治療をしました。高額療養費制度(※2)を使うから、それを上限に。

岸田 高額療養費制度は、所得によって3段階くらいに分かれるんですよね(※ 注 平成27年度から 70歳未満の場合は5段階区分に変更されました)。箕輪さんの場合は、単純に8万円×12か月。

箕輪 はい、マックスでもそうでした。でも、貯金がどんどんなくなっていくことに対しての危機感は、ものすごく感じて。休職していたので、半年間は会社の健康保険組合から傷病手当(※3)が出 るんだけれども。

岸田 給料の6割ぐらいね。

箕輪 そうそう。でもそれだけでは当然生活費も足りないし。じつは6月に入籍はしたけど、一緒に住んだところで嫁らしいことは何もできないので、治療が終わるまでは別居してたんですね。だから 一人暮らしを継続してたんですよ。実家に帰ろうかなと思ったんだけど、病院も遠くなっちゃうから、一人暮らしを継続して、できることは自分でやっていこう と。病気だから特別とか、そういうのをあんまり思わずに生きていきたいなと、 なんか生意気なことを思っていて。

岸田 いいと思います。じゃあ、全部貯金で、一応いけたということですよね。

箕輪 なんとか。あとはもう、もうこれ以上この先何かをすることになったら、親に援助をしてもらおうかなと思ってました。

【辛いこと・克服】

岸田 精神的につらかったとき、どう克服して今に至ったのかを。

箕輪 つらいことって、がんにならなくてもいっぱいあると思って。今がんだから、その状況がすごくつらいけど、でも今までのことを考えたら、すごくつらいことって他にもあったよなって。そういうふうに思うと、私、けっこう寝ると忘れるタイプなんですよ。だから寝られてたときは全然良かったんですね。でも、 寝ると朝が来ないんじゃないかとか思っちゃう時期がやっぱりあって。寝るのもすごい怖くて、震えてきちゃったりとか。

そのとき通ったのが、腫瘍精神科でした。がんセンターにあって、そこでいろいろと話を聞いてもらって、薬をもらって、ケアをしてもらった。その助けがあって、治療も乗り越えられたのかなと。あとはやっぱりがん友達の存在。そのころになると、同じような状況のがん友達が1人見つかっていたので、その子といろいろ話しながら、こういうのつらいね、ああいうのつらいね、でもこういうふうにやろうね、とか言いながら、治療をしていった気がします。

岸田 やっぱり鬱っぽくなっちゃいました?

箕輪 なりましたね、手術の前までかな。

岸田 そのときに腫瘍精神科に通って治療を受けたということですよね?

箕輪 眠れるような薬や、落ち着かせるような薬をもらって。

岸田 効き目はありました?

箕輪 あったように思います。

岸田 じゃあその腫瘍精神科に通って、なんとか安定を保って手術して、一応乗り越えた。

箕輪 乗り切った。

岸田 では、身体的につらかったことって何ですか?

箕輪 私は全摘出じゃなくて温存だったんですけど、やっぱり胸の形が変わることがつらかったです。手術の前の日とか、まじまじお風呂場の鏡で見ちゃったもんね。これが明日には、入院して手術したら、なくなっちゃったり変わっちゃったりするのかなとか。胸って別に片方なくても、たとえば息ができないとか、食事が取れないとか、そういう臓器ではないんです。別にそういうことではないけれど、でもやっぱり女性としては……。生きてるんだから文句言うなよ」って 言われるとそれまでなんだけど。やっぱ りすごくつらかったな。今も、ちょっと右がちょっと小さいので、下着のパッドで調整しています。そういうことに対する気持ちのつらさかな。あとはもう体力の低下っていうのは、抗がん剤をやれば落ちるので。

岸田 あれはどうなんですか、リンパ浮腫。乳がんの方だと近くのリンパを取る場合もあると思うので、そのときに右側が腫れたりだとか、そういうのがあるのかなと思ったんですけど。

箕輪 私も右の脇にリンパ転移していたので、リンパを取ったんですね。なので、今でも基本的に右腕で重たいものは持たないようにしているし、でも今のところは浮腫は大丈夫そうです。

【反省】

岸田 箕輪さんが、あのときこうしておけば良かった、ということを。

箕輪 もう少し広く情報を取る努力をしなきゃいけなかったなと思うし、いろんな人がいろんなことを言ってくれたことに、ある程度ちゃんと耳を傾けることが 必要だったなって。たとえばみんなに「お酒を控えなさい」と言われてたんだけど、でも私、お酒はすごい大好きで、結局治療中もやめてなかったんです。

岸田 治療中とかはね、自分の好きなことをしたいですしね。

箕輪 でもやっぱり飲みすぎちゃったりはいけなかったなと思って。「もうこれぐらいにしておきなよ」って言われるのに飲んじゃったりとか、おおいに反省です。

岸田 治療中に。

箕輪 そう。ある店の瓶ビールを飲み干して。朝の4時半ぐらいだったかな。友達に「もう本当になんで私、がんになっちゃったんだろ」みたいな、くだを巻きながら。あれだけは本当に反省してます。

【医療従事者への感謝&要望】

岸田 医療従事者へ今後こうしてほしいとか、何かありますか?

箕輪 私、まず本当に感謝っていうのがあります。看護師さんのことを好きになっちゃう男の人がいるのは、すごくわかる気がする。あんなに優しくされたら好きになっちゃうなって思うぐらい、入院してたときに話も聞いてくれたし、様子見に来てくれたり。でも、先生には要望があって。こちらはすごく気になっちゃうから聞きたいことがいっぱいあるんだ けど、淡々と答えられるのよね、当たり前なんだけど。でもそうされると、すごくこなしてる感をなんとなく感じてしまうときがあって。もう少し丁寧にしてくれたらいいのにな、って思う瞬間が何度かありました。毎回じゃないけど。

岸田 難しいですね。先生は1日に何十人も診ますからね。

箕輪 そうそう。当然、私だけじゃないし、私がすごいお金を払って診てもらってるわけでもないし。でも壁を感じてしまうときもやっぱりあって。当時の自分は、先生に聞くしかないと思ってたから。そういう態度にショックを受けちゃったりとかもして。

岸田 そのときは先生に聞くしかないと 思ってたけど、そのあとは他の人にも聞いたってことですか。

箕輪 はい。診察時間内には先生になかなか聞けなくて。ナースステーションみたいなところに行って、「これ、この前先生に聞けなかったんだけど、これってどうですか?」みたいなこととか、看護 師さんにフォローしてもらってました。

岸田 そうですね。そういうときは、周りの医療従事者の方を頼って。

箕輪 そう。

【キャンサーギフト】

岸田 がんになって失うものも多いんですけれども、何か得たもの、得たこと、 キャンサーギフトが箕輪さんの場合は何だったのか。

箕輪 やっぱりこういう、岸田くんとの出会いとか。これはすごく大きいと思いますね。こうやって何かモノを発信することなんて、まず私が普通に生きていたらあり得ないし。それから、私が今所属している若年性がん患者団体の「STA ND UP!!」(※4)。もう300名を超える若年性がんの仲間が所属している団体で、そこの仲間に出会えたのも、自分ががんになったから出会えたわけで、 がんにならなければ知ることもなかった人たちです。私が今のこの2015年の人のおつきあいの中でいちばん多いのは、 じつはがん関連の人だなって、昨日フェイスブックのお友達を見ていて思ったの。 がんになってから、もう7年経っていて、当然直近の人たちのつながりがあるから 当たり前といえば当たり前なんだけれど も。私、がん患者じゃなかったら今何やってるんだろうな、誰と一緒にいるのかなっていうぐらい。それから、「リレー ・フォー・ライフ」(※5)っていうがん患者を応援しようっていうイベントが 日本全国であるんですけど。私は千葉の実行委員会の一員としてやらせてもらっていて、それもがんにならなかったら、「リレー・フォー・ライフ」っていうイベントすらたぶん知らなかったと思うし。 でもそれじゃいけないから、広めようと思って実行委員をやってるんですけど。

岸田 「リレー・フォー・ライフ」って、 各地域、いろんな場所であるんですけれ ども、 24時間がんと闘っているっていう意味で、トラックを歩きつづけたり、文化祭みたいな感じで校庭にいろんなテントが張ってあって。そういうチャリティ活動ですよね。

箕輪 そうです。それに向けて今は、準備しています。

岸田 そういう人たちに巡り合えたということが、箕輪さんにとってのキャンサーギフトだったんですね。

【今、闘病中のあなたへ】

岸田 今、治療をがんばっている方に向けて、ちょっとだけ先にがんになった箕輪さんからのメッセージを。

箕輪 「素直に生きよう」です。やっぱり、無理しちゃいけない。やらなきゃとか、治療がんばらなきゃとか、でも、できないことはできないから。自分にそのときできることを精一杯やればいいんじゃないかなと思って。自分の気持ちにも素直に、身体を動かしてあげることがいいんだなって、私はがんを通じて思ったので、これでお願いします。

 

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