インタビュアー:岸田 / ゲスト:實原、菅原、背古、松井

【ゲスト紹介】

岸田 きょうは4名のゲストにお越しいただいております。自己紹介をよろしくお願いします。

實原 實原和希です。25歳のときに舌がんになりました。手術で舌を右半分切除して、切除したところに、私の左の手首の肉を持ってきて、左の手首には足の皮膚を持ってきています。現在28歳です。

菅原 菅原祐美です。29歳のときに、ステージ2の左乳がんを患いました。治療は、術前抗がん剤治療、手術、放射線治療をし、ホルモン剤の服用と注射をするのと並行して、ゼローダという抗がん剤を服用してました。今は、ホルモン療法中です。現在、32歳で、若年性乳がんサポートコミュニティの『ピンクリング』東北支部を担当しており、『ピンクリング』を東北の地に広めようと試みてます。

背古 こんにちは、背古菜々美です。21歳のときに、ユーイング肉腫と診断されました。診断後すぐに、手術・放射線治療・抗がん剤治療をしました。治療は全部で1年間程で、現在は経過観察中です。現在、24歳です。

松井 松井基浩です。若年性がん患者団体『STAND UP!!』の代表をやってます。16歳のとき、T細胞性リンパ芽球性リンパ腫(悪性リンパ腫の一種)と診断され、抗がん剤治療をしました。外来での治療も合わせると、2年程していましたね。その後、医学部に入って、今は小児専門病院の血液腫瘍科で小児がんの子どもたちを診ています。現在は31歳です。

岸田 皆さまよろしくお願いします。

【家族】

岸田 まず、ご家族のことについてお伺いしたいと思います。当時、ご家族からどういうサポートがうれしかったか、もしくは、もっとこうしてほしかったことなどがありましたら、教えてください。

實原 私は、がんになったときは、転勤で佐賀に一人で暮らしていたんです。家族は両親と兄の4人家族で、両親は埼玉で暮らしていて、兄はベトナムに住んでいました。なので、がんになって遠方にいる両親に伝えるとき、どんな伝え方をすればいいかっていうところは、いろいろ悩んだりしました。言ったら言ったで、あわあわしちゃってあんまり会話とかもできないだろうと……。兄とは冷静に治療方法とかについて、すごい話しました。特に舌がんの場合、治療法によっては味覚がなくなるかもしれないし、しゃべれなくなるかもしれない、という中で、兄と話した結論は、味覚だけは失わないような治療をしようということ。最終的に切った方が味覚としては残りやすいという話だったんで、切っていいんじゃないかと思いました。というのも、今後、食事っていうのはすごい何万回とあるし、例えば女の子とデート行って、「ここ、すごい食べログで点数高いからおいしいでしょ?」って言うのと、一緒に「おいしいね!」って言うのだと、全然喜びも違う。その喜びたるや、しゃべれないぐらいじゃ挽回できないデートの楽しさがあるんじゃないかっていうことを議論して、手術することに決めました。

岸田 そうなんですね。でも、舌切ってるように見えないですよね。めちゃくちゃしゃべれてますし。

實原 そう、結果的に、しゃべれるようになっちゃったんですけど。どっちかと言えば、食事重視で治療したつもりです。

岸田 味覚を残すことを重視して、治療法を決めたんですね。菅原さんはいかがでしたか?

菅原 家族は両親と姉・兄がいます。当時は実家で暮らしていて、通院してる病院まで車で1時間半ぐらいかかるところなので、毎回そこの送り迎えをしてもらってました。

岸田 こうしてほしかったことなどはありますか?

菅原 宣告を受けたときに、病院側から「ご家族と来てください」と言われたので、「もう、がん決定だね」みたいな感じでちょっと明るく言ったんですね。その後、宣告を受けて、いざ紹介された病院に行くとき、母の運転でコンビニに寄ったんです。コンビニに寄って車に戻ったら、母が電話しながら号泣していて、私それまで泣いてなかったのに、母に先に泣かれて「泣きたいのは私だよ」っていう思いがあったので、泣くタイミングが分かんなくなっちゃったのはありました。けれども感謝しています。

岸田 ありがとうございます。背古さんはご家族のサポートなどいかがでしたか?

背古 はい。家族は両親と姉の4人家族です。当時ありがたかったのは、お母さんが、欠かさず1年間毎日来てくれたこと。

岸田 毎日?

背古 毎日来てくれました。それで抗がん剤を入れて、最初は病院食の匂いも気持ち悪いので、近くのお店で毎日ご飯を買ってきてくれました。でも何日かたって気持ち悪さが抜けても、病院食はあんまり好きじゃなかったから、気持ち悪いふりをして美味しいものを毎日食べてました(笑)。

岸田 あるある(笑)。お姉さんはどうでしたか?

背古 お姉ちゃんは、気まずいのかあんまり来てはくれなかったんですけど、私がディズニー大好きで、お姉ちゃんがディズニーの年間パスポートを持ってたので、プレゼントが運ばれてきてました。

岸田 お姉さんはいろいろお土産買ってきてくれたんですね。松井君はどうでしたか?

松井 家族は、両親と姉、現在は妻と子どもが二人います。当時、僕は高校生だったので、両親と家族のサポートなしには、とてもじゃないけど闘病できなかったかなというのは思っていて、本当に感謝しかないです。なので、してほしかったことっていうのは、あんまりなくて。本当に闘病中はほぼ毎日母親は来てくれました。退院してからも、学校まで1時間半ぐらい通学にかかってしまうので、近くに家を借りてくれたんですね。

岸田 え、すごい。

實原 さすが。

松井 1時間半の通学も無理だろうってなって、近くにアパート借りてもらって。なので、母は二重生活をこの1年半ぐらいしてたんですね。感謝しかないです。

岸田 高校生でほぼ1人暮らし?

松井 基本的には母が泊まってたんですよね。母は向こうの家には、姉の料理を作りに行ってました。

岸田 本当に。それすげえな。

松井 そうなんです。なので、その当時は母には当たることしかしてなかったんで…、AYA特有ですね。なのでストレスをかけつつ、いろいろやってもらいつつで、本当に頭が上がらないですね。

【闘病中の生活】

岸田  松井君は退院後の生活はどうでしたか?

松井 本当にひたすら勉強だけしてたので、家から微動だにしなかったですね。

岸田 ひたすら勉強して、そのまま現役で医大へ?

松井 そうですね。

岸田 すげー。松井君は勉強しかしていなかったと。菅原さんは、闘病中の生活はどうでしたか?

菅原 私は、闘病中に本屋に行ったとき、近藤麻理恵先生の片付けの本にくぎ付けになったんです。本を全部読むことってほとんどないんですけど、珍しく読んで。母とひたすら毎日、1年中ずっと家の片付けをしてました。けんかしながら。

岸田 ずっと、断捨離?

菅原 そうです。冬に抗がん剤治療が始まって、宮城なんで雪降ると外に出れないっていうのがあって。気持ち悪いのもありますし、家にこもるしかないってなったときに、何かがんとは違うところに夢中にならないと、って思っていたところに、たまたまその本を見つけました。なのでずっと朝から晩まで、ほとんど母とお片付けしてました。

岸田 片付けをして過ごしたんですね。實原君は闘病中やっていたことあります?

實原 私は、あんまり参考にならないと思うんですけど、ゴルフをずっとやってまして。

岸田 参考ならへんな(笑)

實原 ならないですか…。半年ぐらい会社を休まなきゃいけなくなって。確かに手術して歩けなくもなったし、しゃべれなくもなって、食事ができるのに2週間ぐらいかかったりしたんですけど、1カ月で退院して体は元気になる。でも、仕事復帰まであと4、5カ月かかる。ってなったら、平日は友達みんな仕事してるし、暇で暇でしょうがないから打ちっ放しに毎日行きました。結構田舎のほうなんで、打ちっ放しが安くて、座りながらYouTube見て、フォームを確認したりして。ずっとやってたら、がんになる前となった後でスコアが30以上違いましたね。だから、本当にゴルフだけは、闘病中打ち込めた。

岸田 レアなケースですね。セコさんは闘病中やっていたことはありますか?

背古 私は、ずっとマンガを読んでました。マンガをネットで買えるサイトがあって、最初はお母さんがそこで買ってくれたんです。自分のお金じゃなくマンガが買えるのでラッキーと思って、読んでました。

岸田 マンガでね、癒やしになってくれてたらいいのかなと思います。

【恋愛・結婚】

岸田 本日のメイン、恋愛・結婚についてです。まず實原君、闘病当時、彼女さんは?

實原 いないですね。

岸田 今は?

實原 いないです。

岸田 例えば次、彼女ができる時は、がんについて伝えますか?

實原 私の場合は、首に傷があるから、よっぽど暗いカウンターのバーとかじゃない限りは、むき出しになってるので分かるんですよね。だから言いますよね。

岸田 どの段階で言いますか?

實原 それは、出会い方にもよりますよね。マッチングアプリとかもあれば、紹介もあるし。昔の知り合いに声を掛けるのもあるし、いろいろありますね。呑みに行ければ、大体、生ビール2杯いって、イモの水割りぐらいのところですね、その辺で伝えます。

岸田 一緒に居酒屋に行って、3杯ぐらいお酒が入らないと?

實原 それが大体、くだけてきて、向こうのことも分かってきた頃かなと。基本的には聞き役にならなきゃいけないと思っていますが、私のほうに番が回ってきたら、ズバッと言いますね。

岸田 がんになってからは、恋愛はどうでしたか?

實原 いろいろありましたね。がんになった瞬間は、片思いをしてました。

岸田 おお!

實原 職場に毎日出入りしているヤクルトのお姉さん。ただ、お子さんもいらっしゃって、超きれいなお姉さんだったんで、いろんな職場でおじさんからセクハラとかされてるだろうから、私はピュアな男の子としてずっと接してきたわけですよ。毎日、来たら買う。たまに職場のみんなの分を一気に買うピュアな男の子って感じでいる中、がんになってさよならしなきゃいけなくなって。

岸田 当時、九州で働いていて、関東で治療するということになったと。

實原 だからそのときに、お手紙を書きましたよ。いろんな気持ちを伝えて、「僕はちょっと病気になってしまって、いつもヤクルト、シロタ株を飲んどけば大丈夫だったかもしれないけど、私はいつも黒酢を飲んでたからなってしまったのかもしれないです」っていう、お手紙を書いて。その職場の人に預けてたんですけど、お返しが来て、電話番号が書いてありました。その後のことは、ちょっとやめときましょう。

岸田 じゃあ、この辺にしときましょう。多分、皆さんの想像通りだと思います(笑)。

菅原 面白くしゃべれるって才能ですよね。今、どうしようって焦ってるんですけど…どうしよう…。

岸田 生の今の気持ちを伝えてもらえたら大丈夫です。菅原さんは当時、彼氏はいらっしゃいましたか?

菅原 いないです。ちょっと明るめに言っときます!

岸田 今も?

菅原 今もなしです。だいぶ前の未来予想図では、もう3人ぐらい子どもがいることになってるので、今は「こういう独身の男性がいて」って職場で話になったら、「紹介してくださいよ」ってなるべく食いつくようにしてます。でも、何の発展もなく、お会いしたこともない。

岸田 逆に、菅原さんが1歩前へ進もうと思うときに、がんだからっていうのは足かせになってますか?

菅原 なってますね。あるとき、友達同士で、3対3ぐらいでバーベキューをしたんです。そのとき、食べ物が焦げてきちゃって、「焦げてるの食べ過ぎるとがんになるんだってよ」とかって、軽くそういう話とかが出て。「そんなわけないよね」みたいな話をしてるので、私の心境は「いやいや、私なってる、なってる」、みたいな。そういうことがあったりすると、3歩ぐらい引いちゃうというか。「あー、なってるわけないと思ってるよね、みんな」、みたいな感じの心境になっちゃうので。もし気になる方がいて、がんをいつ言うかってなった場合は、お付き合いしましょうかという直前に、「がんですがどうしますか」みたいな質問をします。そうしようと思ってます。

岸田 お付き合いする前に、「私、がんですけど、それでも受け入れてくれますか」、と?

菅原 そうです。

岸田 大丈夫です!世の中の男性、心広いんで!

菅原 そうなんですね(笑)

岸田 菅原さんは今、ホルモン治療もされているということで、お子さんについて考えるとき、治療をどうするかも選択しないといけないじゃないですか。そういうときはどうしましたか?

菅原 抗がん剤治療をする前に、妊娠とかについて主治医から説明はあったんです。主治医とも話したんですけど、主治医からの結論は、「今いないから、いつ結婚するかも分かんないから、とりあえずいいんじゃないか」という話になり、私も自分の生命がどうこう、予後がどうこうとかいうことばかりに集中してたので、そこは躊躇なく、「そうします」って。今後、私は35歳までホルモン治療をすることになってるんです。チャンスがあれば、子ども欲しいなっていうのはありますけど、あまり先のことを考えていないのが現状です。今を考えてます。

岸田 そのときが来たら、また考えようと。

菅原 そうですね。

岸田 そういう人も多いと思います。ありがとうございます。背古さんは、闘病当時、お付き合いしている人がいらっしゃったということですけど、どう伝えましたか?

背古 もともと手術をしたときに、「良性の腫瘍だと思うので退院していいですよ」って言われて退院したんです。でも後日電話で、「がんセンターにやっぱり行ってください」って言われたんです。退院して、そのとき付き合ってた人と出掛けているときに、お母さんから電話が来て、「あんまり検査結果が良くなかったみたい」って言われて。お母さんの話を聞くと、私が1人のときに電話をしてしまったら、私がそのことを彼に言えないんじゃないかって思って、わざわざ、楽しくデートしているときに、電話してきて。で、ショックを隠せないので、その場で彼にも言うしかなかったって感じですね。

岸田 そのときの彼氏さんはどういう反応でしたか?

背古 彼もちょっとよく分からないって感じでした。

岸田 分からへんよね。当時、どちらも大学生?

背古 そうです。

岸田 そっか。それから検査していって、ユーイング肉腫っていうことが分かって、もう一回、抗がん剤治療に入っていくと思うんですけれども、闘病当時は彼氏さんは来てくれたりとか?

背古 抗がん剤中は、週に1回は来てくれてました。

岸田 それは、個人的に多い?

背古 多いとは思うんですけど、手術の時は1~2カ月入院していて、そのときは2日に1回来てたので、減ったと思いました。

岸田 そこからお別れになるきっかけは、がんが原因だったりするんですか?

背古 別れはがんが原因ではなくて、普通のカップルと同じようなことで別れることになったんですけど、別れたいなと思ったときに、私の中では治療中に支えてくれたのに申し訳ないという思いがすごく大きくて。両親も彼のこと知っていたので相談したら、「大体の男の子が1年も付き合ってる彼女が病気になって、別れるなんて言わないよ。だから、それを足かせにする必要はないよ」と言ってくれたので、それで別れようかなと思い、別れました。

岸田 確かに闘病してたとき、ずっと支えてくれてたらね、別れるのは申し訳ないとか思っちゃいますもんね。けど、そこをちゃんと決断したと。じゃあ、次のステップとして、お付き合いをするときは、どのタイミングで言いますか?

背古 それ以降できてないので、考えてなかったんですけど。でも、もし付き合うかなってなったときに、言ってそれが原因で振られたらすごくショックだと思うので、ちょっと仲良くなったら、もう言っちゃうかもしれない。

岸田 最初から言っておいて。ちょっと慣らしておく感じですね。ありがとうございます。では、松井君、現在、妻子持ちということで、きっかけ教えてもらっていいですか。

松井 きっかけは、僕自身16歳から闘病していて、本当に高校時代はひたすら全てを勉強にささげたっていう暗黒時代だったので、大学に入って全てから解放されたんですね。自分の性格上、何かこうやると決めたら、突き進むタイプなので、もう大学に入って今の奥さんを見つけ、どーんと突っ込んでいって、付き合いました。

岸田 おお!がんということは、どのタイミングで言ったんですか?

松井 本当に自分は特殊だと思うんですけど、患者会の代表やったりして、がんを全面に出して生活してきたので、何でもない話の中で、付き合う前に話していましたね。

岸田 すごいと思います。ありがとうございます。そこから、奥さんと結婚してお子さんが今、2人いらっしゃるということですけど、抗がん剤治療をやって、妊孕性への不安はなかったですか。

松井 向こうの親御さんから、「子どもとかどうなの?」と言われたんですね。それで初めて、そういえばそうだなと思ったんです。昔はそんなに妊孕性のことを話してる時代じゃなくて、僕には何の話もされてなくて。確かに、そういやそうだなと思って、漠然と不安にはなったんですね。幸い、医学部っていう特権を利用して、先生に言って検査してもらいました。

岸田 精子が動いてるかどうかの検査?

松井 そうですね。自分で見ましたね。

岸田 動いているから大丈夫だと。

松井 と思っていました。

岸田 今はお子さん2人に恵まれているということで、子育てしてて、後遺症とかで、つらいことはありますか?

松井 僕自身は、晩期合併症とか何もなく、本当に順調にいった人なので、子ども育てる中で何か今、困ってることは幸いないですね。

岸田 すごい。今、闘病中の人から見たら、松井君のそういった姿、実際に闘病乗り越えて、お子さんもできてるっていうのは、すごく勇気になると思います!

【辛いこと・克服】

岸田 闘病中や退院後につらかったとき、どういうふうに克服したのかを教えてください。

松井 つらかったことは、高校に戻ったときですね。やっぱり高校生ではげてるって結構なことで…。すごいいっぱい見られるんですよね。バスに並んでても、「なんだこいつは」みたいな目で見られるのが、高校生ながらすごい嫌でしたね。

岸田 そうですよね。ウィッグとかはどうでしたか?

松井 ウィッグの概念もあんまりなかったです。なので普通に帽子かぶってたんですけど。帽子かぶってても、「なんだあれ」ってなるわけですよ。

岸田 なりますよね。授業中は、帽子は取りました?

松井 かぶってましたけど、夏は暑かったです。

岸田 伸びてくるまで待つしかない?

松井 本当に待つしかなかった。だらだら治療が続いたので、しっかり生えそろうまで、結構、時間がかかりました。

岸田 通いながら外来で治療をしてましたからね。ありがとうございます。背古さんはどうでしたか?

背古 学校の友達のSNSを見るのが、一番つらかったですね。FacebookとかTwitterで、自分は入院しているけどみんなは私がいなくなっても変わらずそのグループで遊んだりして、写真とかを挙げてたので、それが一番つらかったですね。

岸田 そういうときはどうしたんですか?

背古 見ないようにしてました。

岸田 あまりFacebookとかTwitterを見ないようにしていたんですね。菅原さんはいかがですか?

菅原 つらかったこと…。術前の抗がん剤のときは、手術を目標に、半年ぐらい抗がん剤をやっていて、手術のときだけ1週間ぐらい入院をしたんですけど。その入院中が一番つらくて、ホームシックになりました。あと、手術という勝手に現れた目標が勝手に終わっちゃったので、次は何を目指すのかな…みたいな、そのときが一番つらかったと思います。

岸田 そうですよね。それはどう克服したんですか?

菅原 当時29歳なので、親とかには言わなかったですけど、外出の許可が出たので、「ちょっと来てくれたら外出できるから来てくれないかな」みたいな感じで言って、外出したりとか。いつも話を聞いてくださってた乳がん看護認定看護師さんや臨床心理士さんと、ひたすらしゃべって、私の心境を整理してもらった感じです。なので、2日ぐらい早く帰りました。「もう帰りたいです、限界なので」って言って、帰してもらいました。

岸田 そういうときに、医療者にも聞いてもらうことはありかもしれないですね。實原君はどうでしたか?

實原 私は、手術前に舌に大きい口内炎ができて、それが徐々に大きくなってるのも分かるので、もしかしたら首に転移が進んでるかもしれないっていう不安がありました。それと、これから1カ月2カ月、食べれない体になっちゃうかもしれないって考えたら、今食べれる物を食べとこうかとか、お酒飲みたいけど体に悪いんじゃないかって考えて。そんな感じの手術前が一番つらかったかな。

岸田 それはどう克服したんですか?

實原 ひたすら好きなものを食べました。カキとウニと日本酒のトライアングルが一番好きなんで、それをひたすら。がんになるってすごい最強の同情誘える言葉だから、大学時代の好きだった女の子とかに、「今しかないんだ」って誘って、オイスターバーに行って、オイスターと美女と白ワインのトライアングルにしてみたりとか。そういった三角形を常に作っていくっていうところで克服しました。

岸田 ありがとうございます。トライアングルが大事という(笑) ありがとうございます。

【質問コーナー】

岸田 会場の皆さまから質問などありますか?

会場からの質問 闘病中は家族が近くにいたと思うんですけど、家族に言うこと、言わないことって、どうやって線引きしてたりしてました?

菅原 私の場合は仕事をしてますし、本当に30歳前っていうこともあったので、治療のことやこういう結果だったとかっていうのも言ってますけど、努めて明るく言ってました。「大丈夫、大丈夫!」みたいな感じで言って、落ち込んでるっていうことは基本は言ってないです。

松井 僕は、高校生だったので、親が全部知ってるんですけど、その後に、それこそ妊孕性の問題とか出てきて、自分で検査してることに関しては言ってないですね。やっぱりこの年齢で、親に妊孕性のこととかは話しにくいなっていうのは思いました。

實原 僕は隠すことは何もないんで、特に線引きも何もなかったですね。

岸田 隠すこともない。言ってもいないんじゃない?

實原 ああ、そうですね。ただ実家に帰ってきてからは、診察の時は父親と一緒に行って、母親には刺激が強過ぎる話だったのでお留守番してもらってました。

岸田 お母さんと、お父さん・お兄さんとでは言うことが違った?

實原 そうかな。あんまり母親には話さなかったかもしれないですね。軽めにカジュアルに伝えといてっていうような伝言をしてました。

背古 私もつらい事は言えなかったですね。親の前では、あんまり泣いたりもしなかったと思います。

岸田 逆にどういうことだったら伝えてました?

背古 何が欲しいとか。

岸田 ですよね。これが、AYA世代のリアルみたいです。

岸田 あっという間にお時間となりました。ゲストの皆さま貴重なお話しを本当にありがとうございました。

ゲスト ありがとうございました。

※本ページは、経験者の体験談を扱っております。治療法や副作用などには個人差がございますので、医療情報に関しましては主治医や、かかりつけの病院へご相談、また科学的根拠に基づいたWebページや情報サイトを参照してください。
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