インタビュアー:岸田 / ゲスト:ボーマン

【発覚・告知】

岸田 今日のゲストはボーマンさんです。

ボーマン ボーマン三枝です。私は2013年に乳がんが見つかって、約5年間、乳がんサバイバーとして生きています。現在は6年目です。

岸田 ありがとうございます。ではまず、がんがどのように発覚し告知をされたのか、教えてください。

ボーマン 2011年頃の29歳か30歳ぐらいのときに右胸にしこりを見つけたんですね。しこりイコールがんって頭によぎるじゃないですか。それで急いで近所の病院に行って診てもらったら、特にがんとは言われなくて経過観察となりました。その後は6カ月に1回のペースで病院に行って診てもらいました。

岸田 そのときは、マンモグラフィー等の検査はしなかったんですか?

ボーマン しなかったです。触診とエコーだけでした。

岸田 そこからしばらく何もせず?

ボーマン ずっと何もせず、6カ月に一度の検査だけでした。

岸田 そのとき不安じゃなかったですか?

ボーマン むしろ安心しましたよね。先生に診てもらって何でもないんだから、「じゃあ安心」って感じに思ってました。

岸田 エコーとか撮っても分からないもんなんですね。

ボーマン 今思うと「ちゃんとマンモグラフィーしてよ」って思うんですけど。でも、若い人にマンモグラフィーすると放射線被ばくのデメリットもあるので、もしかしたらそういうことも考えてくださってたのかもしれないです。

岸田 ありがとうございます。しこりはどのような感じでしたか?

ボーマン 感覚的にはパチンコ玉サイズぐらいのものがありました。そんなに固くはなく、グミみたいな柔らかいものが右のほうにある感じでした。

岸田 そうすると、2011年頃に右胸にしこりを発見して、告知されたのが2013年の6月。告知まで2年程度はありますが、どのように告知にいたったんですか?

ボーマン じつは2013年の3月に結婚をしまして。

岸田 おめでとうございます!

ボーマン それをきっかけに地元・岡山県を離れて埼玉県に来ました。でもやっぱりずっと、しこりのことは気になっていたので都内のクリニックに行って、そこで見つかりました。

岸田 クリニックはどうやって調べたんですか?

ボーマン ネットで良さそうなところを調べました。明るくて清潔感があって、優しそうなところ。

岸田 理想の男性みたいになってますね(笑)。そこはどうでしたか?

ボーマン そこは安心するために行ったような感じだったんですね。「大丈夫だよ」って言ってもらうために。だけど様子が違って。エコーとかした後に「針生検もしましょう」って。なんかいつもと様子違うなというのを感じたんですけど、「大丈夫だと思うけど、念のためにやっときましょうね」と言われて細胞を採って、結果は1週間後みたいな流れになって帰りました。

岸田 結果を聞きに行くときはどうでした?

ボーマン 一人で行ったんですけど、嫌な感じはしながらも半分は「大丈夫だったらいいな」と思ってました。

岸田 どういう感じで告知されました?

ボーマン 「ああ、やっぱりがんだね」って。「大丈夫だと思うけど」と1週間前には言ってくれたのに、「やっぱり」ってなんだよって思いました。

岸田 がんと告知されてどんな気分でした?

ボーマン 半分、死んだなって思いました、気持ち的に。ああ、もう駄目だと思いました。

岸田 その中で先生の話があったんですね。

ボーマン 正確には手術してみないと分かんないけど、針生検の結果は初期の可能性が高いから手術すれば治る可能性があると。そのときは「手術しなきゃいけないんだな…嫌だな…でも手術さえすれば治るのかな…」という感じでした。

【治療】

岸田 治療について教えてください。

ボーマン 全摘をしました。極めて初期とは言われてたんですけど、気になる影、石灰化というんですけど、結構、広範囲にばらついていて、部分切除できるような感じではなかったので。心配なものをを残すぐらいなら全部やっちゃってくださいと。

岸田 先生から提案されて?

ボーマン 「全部とっちゃおうか」と言われて。「それでお願いします」って。

岸田 即答?

ボーマン すぐ決めました。そこは悩むところではなかったですね。

岸田 まじか。結構悩む人も多いって聞きますよね。センチネルリンパ節もそのときに調べたんですか?

ボーマン 手術のときにセンチネルリンパ節生検というのをして、転移してなかったのでリンパ節郭清はしなかったです。

岸田 良かったですね。入院期間はどのくらいでしたか?

ボーマン 入院は1週間ぐらいだったと思います。私は若かったので、比較的回復も早くて。

岸田 すごい。そのとき、つらかったことはなかったですか。

ボーマン 手術を受けるのが怖くて…。それに、リアルに痛いじゃないですか。がんが残ってるのも嫌だけど、手術も嫌で。

岸田 そのときは、どうされたんですか?

ボーマン 同室の乳がんの方が手術終わっていたので、「私、手術は嫌なんです」という話を聞いてもらいました。「大丈夫、名医だし、あなたが悩んでも何も良くなることないから先生にお任せするのよ、大丈夫だ」と言われて、「そっか」と思いました。

岸田 支えてもらったんですね。その後手術はいかがでした?

ボーマン 手術当日は痛いけど、意外と翌日からマンガを読めちゃう余裕がありました。激痛は当日の3時間でしたね。3時間たったら意外と歩けるし、その日は朝に手術だったんですけど、夕方にはご飯も食べました。

岸田 まじか。そういうもんなんですね。

ボーマン でも、マンガ読んで笑うと痛いんですよ。いくら、笑いをかみ殺しても痛い。

岸田 確かに。ギャグマンガとか読んだら駄目ですよね。

ボーマン そう。それで手術して取ったものを病理検査にかけて、1カ月後に結果を聞きに行きました。

岸田 がんのタイプは?

ボーマン 非浸潤がんでした。

岸田 言われたときはどうでした?

ボーマン 本当にほっとしました、良かったって。

岸田 そのときもお一人で?

ボーマン 1人で行きました。

岸田 まじっすか。強いっすね。

ボーマン なんでそんな1人で行ってたんでしょうね、分かんないですけど。でも手術の日には主人も来たし、実家から母と姉も来て様子を見てくれました。

岸田 すごいっすね。それで、2018年6月に乳房再建手術を受けて、これから2020年に2回目の乳房再建手術、その何年後かに3回目の乳房再建手術をする予定だと。

ボーマン そうです。

岸田 ちなみに乳房再建手術っていうのは、どういうものですか?

ボーマン 手術でなくしたり変形した乳房を取り戻す手術です。やり方は本当にいろいろあるんですけど、シリコンを入れるか、最終的には自家組織といって、自分のおなかとかお尻とか足とかの脂肪を入れるというパターンもあって。私はそっちを目指してるんです。

岸田 1回目のときは自家組織を入れたんですか。

ボーマン 自家組織はまだ入らないんですよ。というのが、5年前に手術で乳房をとって、今は何もない状態。何かを入れるためにはここの皮膚を伸ばさなきゃいけないんですよね。なのでまず、手術の傷を切って、そこの下に風船を入れて皮膚を伸ばすという作業から始まります。

岸田 風船!?

ボーマン ティッシュエキスパンダーというんですが、それを大胸筋の下に入れて縫って、ちょっとずつその中に食塩水を入れて、皮膚を伸ばしていくという作業をしている途中です。

岸田 痛いですか?

ボーマン 痛い…。

岸田 ですよね。それはどのくらいの頻度で病院に行くんですが?

ボーマン 目指すサイズや、皮膚の厚さ、お水をどれだけ入れるかによって変わるんです。通常は月1回とかで、半年から1年ぐらいですかね。

岸田 大体は、もう片方の胸と同じサイズを目指すわけですよね。

ボーマン そういう人が多いと思います。でも私は本当に悩んで。せっかくこんなチャンスをもらったのだから、同じの作ってもつまんないなと思って。できればちょっと魅力的なものを作りたいなって妄想してます。

岸田 それもできるんですか?

ボーマン 先生のお考えとかにもよるので。でも、できてほしいですよね。

岸田 順調にいったら、2022年から2024年ぐらいには、理想的な三枝さんが。

ボーマン その予定です。

岸田 楽しみにしてます(笑)

 

【家族】

岸田 三枝さん家はどんな家族構成だったんですか?

ボーマン 母と姉2人と私です。

岸田 がんと知ったときに、どうお伝えしましたか?

ボーマン 距離が離れてるので、仕方がなく電話で伝えました。ただ、すごくショックを受けるだろうなと思ったので、何て伝えようか本当に悩んで。「病名はショッキングだけど、びっくりせずに聞いてね」って言ってから伝えました。

岸田 びっくりされてました?

ボーマン びっくりしてました。「手術すれば大丈夫みたいだから」と言ったら、「手術せんといけんのんじゃな」って…。

岸田 そのときに、こういうサポートが良かったとかはありますか?

ボーマン 離れていて、電話やメールでコミュニケーションを取っていたので、逆に過干渉にならなくて良かったです。手術のときには来てくれて、ほどよいサポートでした。

岸田 当時、しこりが見つかった頃は今の旦那さんとはお付き合いをしていたときだと思いますけど、どうでしたか?

ボーマン もちろん心配してくれてたんですけど、病院に行って大丈夫だったので、彼も安心してたと思います。

岸田 その後、ご結婚をされてから埼玉に引っ越して、乳がんが発覚したときには旦那さんにすぐ連絡しました?

ボーマン 帰りに電話で伝えました。でも本当によく覚えてなくて。なるべくあっさり言おうと思ったんですけど、帰り道に電話持ちながら、なかなか言えませんでした。無言で、言葉が出てこなかったですね。でも彼はかなり心配しながらも、そんなにパニックになることなく、落ち着いて受け止めてくれたと思います。

岸田 旦那さんからはどんなサポートがありました?

ボーマン 私は告知を受けてすごく落ち込んだんですけど、よく話を聞いてくれたし、一緒に絶望的になるんじゃなくて彼は彼の安定した位置にいてくれました。どん底から引きずりあげてもらったような気がします。

岸田 話を聞いてくれるだけでもありがたいですもんね。

ボーマン 一緒にパニックになったり悲しんだりは、もちろんするんですけど、ちゃんとしていてくれましたね。

【妊孕性】

岸田 妊よう性についてお聞かせください。手術以外の治療はしなかったんですか?

ボーマン 手術の後、私のがんはホルモン陽性といって女性ホルモンを餌にどんどん増殖するタイプだったので「5年間ホルモン療法をしましょう」と先生に言われました。ただ、5年の間は絶対に妊娠しては駄目だと。それですごく悩んで。31歳で病気が見つかって、手術が終わったら32歳で。そこから5年間したら37歳になっちゃうじゃないですか。決して妊娠を諦める年齢ではないんですけど、妊娠する率がどんどん下がっていくとか、ずっとそんなことばっかり頭に残ってしまって。私はすごく絶望的な気持ちになって、すぐにはホルモン療法をやりますと言えなくて。主人と相談して、主治医にも相談して、結局はホルモン療法はしないという決断をしました。

岸田 なかなかその決断するのって勇気がいると思うんですけど。

ボーマン でも、可能性だと思うんですよね。例えばホルモン療法を5年間しても、乳がんなるときはなるし、ならないときはならないし。しなくても妊娠するとは限らないし、ずっとしないかもしれないし。どこを目指してどれだけリスクを取っていくかというのを先生とかとも、本当によく相談して決めました。でも、5年前は妊よう性とかについての情報が全然なかったです。

岸田 ここ最近ですよね。妊娠・出産についての情報が出てきたのは。

ボーマン 「先生、私は将来子どもがほしいんですけど」って言ったら「駄目駄目、絶対駄目」とか言われたり。言葉も冷たかったし。もっと妊よう性についての情報がほしかったなって思います。

岸田 その後、お幾つのときにご出産されたんですか。

ボーマン 2015年、33歳の時ですね。今、長女は3歳です。次女はゼロ歳で、2017年の8月に生まれました。

岸田 ホルモン治療をやらないという選択をして、二人のお子さんに恵まれたんですね。その後はまた治療に戻ろうと思われないんですか?

ボーマン 長女を産んだときに思いました。ずっとそれは考えてて。ホルモン療法をしなかったことはずっと心に引っかかっていて。先生にも相談するし、患者会とかでもよく相談してました。

岸田 先生はどうでしたか?

ボーマン 「手術から何年も空けてホルモン療法する人ってあまりいないので、効果があるかは分かんない。それでもしてみるのも価値はあるかもしれないし、あなた次第だね」って感じでしたね。

岸田 そのときに、三枝さんは?

ボーマン 決めきれなくって、ホルモン療法へは進めませんでした。

岸田 難しい選択ですもんね。今もされていないと。

ボーマン 5年間、ずっとしてなくて。今はもうあまり悩んでなくて、もういいやって思ってます。

岸田 だから、今年から再建もし始めたっていうのもあるんですか?

ボーマン 5年が一つ区切りだなと思っていたのと、あと、子ども計画は2人で終わりなので、もうそろそろ自分のために手術をしようと思って踏み切りました。

岸田 妊よう性については、いろんな考え方がありますよね。自分の命を優先して治療を続ける方もいらっしゃれば、三枝さんのように、お子さんを持ちたいという希望もあって、治療しないという選択をされる方もいると思います。

ボーマン ホルモン療法をお休みして、子ども授かった人もいるし。ゆくゆくは結婚したいからホルモン療法してないっていう人もいますね。

岸田 悩みどころですよね。

【仕事】

岸田 岡山から埼玉に引っ越してきてから、お仕事は何かされてましたか。

ボーマン 当時は派遣社員で、老人福祉の現場で働いてました。

岸田 そのお仕事は乳がんが発覚してからどうしました。

ボーマン そこは元々契約が3カ月で…。ちょうど6月に契約満了を迎え、すっと終わりました。普通に正社員だったらそこから休業するもよし、時短とかしながら頑張っていくもいいんですけど、そんな選択肢は何もなく終わりました。

岸田 仕事はどうされたんですか?

ボーマン 手術は7月で、10月から違う事務仕事の派遣社員になって働きました。

岸田 早いですね。

ボーマン ずっと家にいるのも退屈で。

岸田 仕事でつらかったことはなかったですか?

ボーマン 朝の電車が怖かったです。人混みですね。

岸田 時間ずらしてもらうとかはしなかったんですね。

ボーマン しなかったですね。職場に病気のことも言ってなくて、普通に9時から17時とかで働いてました。

岸田 通勤以外で大変なことはありました?

ボーマン 全然。体調は悪くないし、検査も半年に1回だったので、差し障りなかったですね。

岸田 ありがとうございます。仕事復帰するために何か工夫されてました?

ボーマン 家の中で、パソコンで就活してました。どんなのあるかなみたいな。

岸田 事務だったらできるっていう感じですよね。肉体労働だったら厳しいし。

ボーマン 介護の仕事はしばらく無理だなって思いました。しばらくは重いもの持っちゃいけないので。

岸田 お仕事の復帰とご出産と子育てと、すごい!お子さんが生まれてからもお仕事は続けられました?

ボーマン 長女が生まれる前から産休に入って、1年ちょい休みました。

岸田 そのときも派遣社員ですか?

ボーマン 派遣社員なんですけど、お願いして、育休取りたいんだって言って取らしてもらいました。

岸田 すごい!交渉できるんですね。

ボーマン 理解のある会社で。ただ派遣社員なので、残念だけど戻る席はなくて、育休が明けるとまた就活しました。

岸田 世知辛いですね。

ボーマン でも育休取らせてもらっただけで、すごいありがたかったです。

岸田 正社員とかだったら、そのまま元の職場に戻れて、そのために頑張れるとかあると思うんですけど、戻る場所がないっていうのは精神的にきつくなかったですか?

ボーマン でも無職で職探しに埼玉来るぐらいなので、またご縁があるところを探そうと思って。

岸田 ボーマン家は行って考えるタイプ。

ボーマン ですね。あまり不安はなかったですね、仕事に関しては。

岸田 ポジティブですね。ありがとうございます。

【お金・保険】

岸田 当時、保険は入ってました?

ボーマン がん保険には入ってなくて。ただ幸い、高校生ぐらいのときから母親が医療保険に入れてくれてて。そのおかげで高額医療の医療費ぐらいは出て、賄えました。

岸田 でも、その他のお金も結構必要でしょう。

ボーマン それは母親に病気を伝えたときに、「お金のことは心配せんでええよ」って言ってくれたから…。

岸田 いいお母ちゃん!

ボーマン 保険も下りたし、むしろプラスみたいな。

岸田 全摘は、結構かかりました?

ボーマン このときは、10万とかですね。

岸田 今、乳房再建されてますけど、今のは保険の適用内ですか?

ボーマン 乳房再建は保険適用内と外があるんですけど、これは適用内です。

岸田 保険適用内っていっても、手術代かかりますよね。

ボーマン 高額療養費制度で収まりました。でもやっぱり保険に入っとけば良かったなって思います。当時は、死亡保障とか高額な医療保険って、子どもができてから入ればいいと思ってたんですね。

岸田 僕も結婚したら入ればいいと思ってました。

ボーマン だって結婚して私に何かあったところで、主人は自分でお金稼いで生きていけるわけだから、そこではまだいらないって思ってたんですよね。ただ1回がんになると、もう保険入りにくいじゃないですか。

岸田 入りにくいですね。最低でも5年待たないといけなかったりとかね。

ボーマン それで私は今、自分に何かあったら子どもたちに何も残せないなと思うので、入っておけば良かったって思いました。

岸田 若いときに入ろうとか、そんな思わないですもんね。

ボーマン 思わないですね。でも、結婚とか、社会人になって自分でお金稼げるようになったときとかのタイミングで、人生を見つめ直すことは必要ですね。

岸田 大事なことですね。

【辛いこと・克服】

岸田 身体的・精神的につらかったときに、どうやって克服してきましたか?

ボーマン つらかったことは、傷が痛くてなかなか買い物とかお布団干したりとか、髪の毛洗ったりとかができなくて。でもそれは頼り上手になりました。「ちょっと痛いから布団干して」とか。

岸田 髪の毛洗うのも結構大変だもんね。

ボーマン 入院中は看護師さんがしてくださるんですけど、帰ってきたら、旦那によろしくって。

岸田 旦那さんに髪の毛洗ったりとか、お布団干してとかっていうのをお願いしていたと。どのぐらいたったら大丈夫になりましたか?

ボーマン 1カ月ぐらいかけて日常生活に戻っていったっていう感じです。

岸田 今、再建手術して何週目ですか?

ボーマン 2~3週間目ぐらいです。

岸田 だいぶ良くなってきました?

ボーマン もう手とかも動かしていいですし、むしろ動かさないと固まっちゃうので。ただ、ヨガみたいにめっちゃ伸ばすのはまだ駄目って感じです。

岸田 精神的にはいかがでしたか?

ボーマン 精神的にはやっぱり、子どもを将来持てないかもしれないというのが当時はすごくつらくて。その間、仕事がないのでパソコンでいろいろ調べたりするんですけど、SNSとかを見ると友達とか同級生とかの幸せそうに子どもと過ごしてる写真がばんばん出てきて。それを見て、悲しくなったり嫌な気持ちになっている自分が本当に醜いなと思って。それでさらに自己嫌悪というか…。

岸田 そういうときどうしたんですか?

ボーマン そういう写真は見たくないけどSNSは見たいので、その人のフォローは一時的にやめました。嫌いになったとか嫌になったとかじゃなく。大事な人であることは変わりないけど、一時的に見ませんでした。

岸田 自分の精神状態が大切ですもんね、それは。どのぐらいでフォローしても大丈夫だなって思うようになりました?

ボーマン 今はちゃんとコメント付けれるぐらい、精神的には安定しているんですけど、でもやっぱり非浸潤がんって分かってホルモン療法しないからいつでも妊活OKってなっても、すぐにできるわけではないので、その期間もやっぱりちょっと嫌でしばし外してました。

岸田 立ち直れたっていうのは、お子さんがきっかけで?

ボーマン それぐらいのタイミングだったかな。

岸田 そうだったんですね。ありがとうございます。

【キャンサーギフト】

岸田 がんになって得たものってなんでしょうか。

ボーマン 人生とか、妊よう性とかと、本当に真剣に向き合うことができて。2人の子どもに恵まれたので、子どもたちがキャンサーギフトかなと思ってます。

岸田 人生と向き合って、がんと向き合って生まれたお子さんだから。

ボーマン そもそも、私も主人も結構働くのも好きだし、旅行とかも好きなので。子どものこととかあんまり考えなかったら、どんどん楽しく頑張って仕事して、あっという間に5年とか過ぎちゃってそうな気がして。

岸田 逆にすごい新しいですね。がんになって得られたものが子どもだったっていうのは、なかなか聞かないなって思って。今のお二人の娘さんがボーマン家にとって宝物であり、キャンサーギフトなんですね。

 

【夢】

岸田 現在の夢を教えてください。

ボーマン 私はがんになったことをきっかけに、当時自分がほしかったけどなかなか手に入らなかったものを乳がんになった人に提供したいと考えるようになりました。一つが乳がん経験者に向けた下着作り。そして仲間を作る場所づくり。あとは、自分の経験をブログで公表するなど、若年性乳がんの情報提供っていうのをしています。

岸田 三つの軸ですね。

ボーマン もっと乳がんについて勉強して、役に立てるように活動をしたいと思ってます。下着作りでは『乳がんになっても、胸を失っても、あなたが生きていて私はうれしい、あなたがいてくれて私はうれしい』ということで出しています。患者さんに寄り添いながら、一番近くで支える下着でありたいなと思っています。下着屋Cloveで検索してください。

【今、闘病中のあなたへ】

ボーマン 「あなたが生きていて私はうれしい」。病気になるとつらいし、治療も苦しいこととかあるんですけど、あなたが生きていることで喜んでる人がいる、私はうれしいと伝えたいなと思いました。

岸田 生きてるだけで三枝さんはうれしくなってしまうと。

ボーマン そういう感じです。生きていてくれたら喜びます。

岸田 一緒に、喜んでね。いろんなつらいことがありますけども、喜んでくれてる人もいるよというメッセージをいただきました。ありがとうございました。

 

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