インタビュアー:岸田 / ゲスト:関口

【発覚・告知】

岸田 自己紹介をお願いしてから闘病について話してもらおうと思います。

関口 関口陽介です。がん種は小児がんのひとつである横紋筋肉腫です。腫瘍が見つかったときにはまだ転移はなかったんですけど、治療を始めるときに転移が見つかって、がんのステージでいうと4。発覚したのは2008年で、現在8年目に突入しています。

岸田 どういうふうに横紋筋肉腫ってわかったのか、説明をお願いします。

関口 難しいですね。私が発症したのは、約7年前の21歳のときでした。横紋筋肉腫は小児のがんですが、20代、30代でも稀に起こります。3分の2ぐらいは10歳以下で発症する、といわれています。横紋筋肉腫はいろんなところに発症し、目の後ろだったり、私のように臓器の中に近いところや、サバイバー仲間のなかには首にできた人もいます。

岸田 どうしてがんがわかったんですか?

関口 私の場合、かなり特殊な経過をたどりました。最初はおなかの違和感、おなかが痛い、お尻が痛いで始まりました。最初はそれが何でだかわからないまま、ただ腫瘍らしきものがCTやMRIで見つかっているっていう状況でした。

岸田 何だかわからないまま……。

関口 腹部に違和感があって、それがどんどんどんどん大きくなって、わからないまま破裂しました。

岸田 え、先に破裂したんですか?

関口 はい、破裂(笑)。

岸田 破裂したってどうやってわかったのですか?

関口 どんどん大きくなってくると痛みが強くなってきて、さすがにこれおかしいぞ、ってことになったのと、血液検査の値が急にドカンと変化して。

岸田 すごく痛いんじゃないですか?

関口 痛かったですね。出血したため手術になったんですけど、その直前の1日、2日は覚えてないこともけっこう多くて、朦朧としていた感じですね。

岸田 痛くて病院行ったんですか?

関口 違和感があって、最初地元の病院に行ったんですけど原因がわからなくて、大学病院を受診したら腫瘍が見つかりました。それがどんどんどんどん大きくなって、痛みに耐えられなくなって、入院になりました。入院している間にその破裂疑いが起こって、急遽手術になりました。

岸田 破裂してから告知を受けるまでの経過を教えてください。

関口 まず破裂疑いで手術になりました。そのあとちょっとトラブルがあってもう一回手術をして、3週間後ぐらいに検査の結果が判明して、「横紋筋肉腫でした」と診断が下りました。でもよく考えてみてください。今となってはいろいろ知識を持っている僕らですけど、いきなり「横紋筋肉腫でした」って言われて、何を思いますか? それががんだって思いますか?

岸田 思わないですよね。何かでっかい筋肉の塊ができたんだ、ぐらいしか思わないかなあ。

関口 だから、その横紋筋肉腫っていう結果を聞いたときに、頭ん中が「?」になって、それがいわゆるがんっていうのにつながらなかったんですよね。「すごい珍しいよ」とは言われてたので、大変な病気なんだろうなあとは思ってても、告知を受けてもがんとは結びつかなかったですね。

岸田 告知を受けて、いちばん初めに何を思いましたか?

関口 告知を受ける前まで1か月以上入院していたんですよね。それから「今後、治療のために1年くらいかかりますよ」って言われて、そのことにけっこうショックを受けました。

岸田 がんになってしまったとへこむよりは、まだ治療が続くのか、と思ったんですね。

関口 最初の手術のときは、腫瘍の破裂疑いで始まって、緊急で6時間ぐらいかかりました。腹部だったので直腸と一緒に腫瘍を摘出して、人工肛門になりました。

岸田 破裂したのは、がんが大きくなりすぎて?

関口 一部破けてそこから出血が始まりました。それがすごい量だったらしく、すぐにでも手術しなければ死んでしまうみたいな。

岸田 2回目というのは?

関口 じつは1回目の手術が終わったときに、おしっこが出なかったんです。いろいろ調べたら、ドレーンからおしっこらしき液体が大量に出ていたんです。たぶん、尿路のどこかが傷ついているんじゃないかと言われました。大変な手術のあとなのに、あちこち連れていかれ、いろんな検査をした結果、尿管が途中で損傷していて、おしっこが漏れ出してることがわかりました。

岸田 おしっこが体内に漏れ出した? それは大丈夫だったんですか?

関口 さすがにそれでは生活できないので、尿路を変更するために人工膀胱を造りました。普通、尿管は膀胱につながっていますが、それを膀胱じゃなくて、おなかに出して、そこに袋を貼って生活しています。

【治療】

岸田 治療は何をしたんですか?

関口 抗がん剤、放射線、手術、3つともやってます。2回の手術のあと抗がん剤をやって、途中で放射線を挟み、また 抗がん剤をやる感じで進んでいきました。

岸田 それぞれ何か月間くらい治療にかかったんですか?

関口 病名が発覚したのは2008年の11月中頃でした。抗がん剤の治療が11月 の終わり、12月、1月、2月と4クール (※1)、翌月から放射線が1か月半ぐらい。5月に入って、また抗がん剤治療を6月、7月、8月、9月ぐらいまでやって、そこでちょっとまた問題が起こってしまい……。

岸田 転移が見つかったんですか?

関口 最初の手術を受けたときは骨盤内だけにしかなかったんですけど、破裂しちゃった故に、抗がん剤をスタートするときに肺と肝臓に転移らしきものがCTで見つかっています。

岸田 放射線はどこに当てましたか?

関口 肺と肝臓に転移があったので、首の下からおなかの付け根まで。当たってないのは頭と足だけです。抗がん剤治療は6月、7月、8月くらいまでは耐えられてて、あと3クールぐらいだったんですね。だから、9月、10月、11月で終わるぞ!って、それでちょうど1年ですね。だけど途中で腸閉塞になってしまって。

岸田 腸閉塞はあるあるですよね。

関口 手術をして、放射線をおなかに当ててて、かつ膀胱が使われていないので、腸が下に落っこちたらしくて。

岸田 腸が下に落っこちる?

関口 膀胱には尿が溜まるので、普通はそれが支えになるんですけど、僕の場合は膀胱がしぼんだままなので、腸の位置が下がった。そして、ちょうどその位置がいちばん放射線照射が強かったところだったので、放射線と手術の影響で、腸閉塞になってしまったと思われます。

岸田 もうかなり大変だったんでしょうね。

関口 大変でしたね。治療の前半にも何回か腸閉塞をやってるんですけど。最初のうちは、治れば治ったで終わりだったんですよ。抗がん剤もちゃんとできた。でもそのときは治らなくて。腸閉塞っていろんな処置があるんですけど、まず何をするかっていうと、食べない、飲まない。それでも治らないから、今度は鼻から2メートルぐらい小腸の前半ぐらいまで管を入れて、腸内の圧力を下げて、腸の炎症を抑えようって。そして治って落ち着いたら管を抜くというのをやりました。

岸田 けっこう時間かかりました?

関口 普通はそれで治る場合もあるんですけど、治らなかった。いつまで経っても管が入りっぱなし。その間、当然食べちゃいけない。普通だったら手術するんですよ。でも、もうすでに2回手術していて、放射線もおなかに浴びてたから、 外科医が切りたがらなかったんですよ。 切っても、またそれが腸閉塞の原因になったりするので。

岸田 結局どうやって治したんですか?

関口 9月の初めぐらいから、ちょこちょこ良くなったり悪くなったり。1回は管を抜くことができたんですけど、またすぐなっちゃって、10月、11月、12月はずっと管を入れっぱなしで、「治らないね、治らないね」っていう状態でした。「ここまで治んなければしようがない、手術しかない」ってことで手術しました。

岸田 そのあとまた抗がん剤治療ですか?

関口 もともとあと3クールの抗がん剤だったところを、腸閉塞があるからできないってことでやめていたんです。そこで主治医から提案されたのが、別の薬を使ってみようと。もともとあと3か月ぐらいで終わるはずが、新しい薬で1か月×6クールを提案されました。

岸田 けっこう大変ですね。まだやるのかって。

関口 それはやっぱり思いましたね。治療を開始してかなり早い段階で、1年の予定だったのが最初の3〜4か月で画像上からはがんが消失して。

岸田 そこからまた半年の抗がん剤治療は続けたのですか?

関口 新しい薬を半年間、やりました。「明確なエビデンスはないよ」とは言われましたが。ただ、ドクターの感覚的には、「やったほうがいいと思う」と。「やらないって選択肢はもちろんありだけど、 どうしますか?」みたいなことは言われたけど、ドクターだけでなく両親も「やったほうがいいよ」って空気を醸し出しているので、これはやんなきゃダメなのかなあっていう感じでした。

岸田 それで治療は終わりですか?

関口 治療はそれで終わりました。腸閉塞の治療がなければ、約1年で終わるはずだったんですけど、結果的にだいたい2年ぐらいかかりましたかね。腹部に違和感が出たのが2008年9月の終わりごろで、治療が終わったのが2010年の10月の初めぐらい。完全に治療が終わるまで2年。

岸田 この写真は当時の?

関口 この写真は、腸閉塞の絶飲食時代のときのクリスマス会の写真。絶飲食は年末年始を挟んでいました。小児科に入院していて、入院が長い子どもたちがたくさんいるので、 12月の終わりにクリスマス会みたいなのを病棟で開催してて、そのときの写真です。鼻から管が入ってて。

岸田 腸内の圧を下げるためにですね。


【学校・仕事】

岸田 発症した当時は大学生ですよね。

関口 そうですね。大学3年生です。

岸田 がんが見つかって、どうしたんですか? 休学届けを出したんですか?

関口 うちの学部は、各学年ごとに進級が決まります。病気が見つかったのがちょうど9月だから後期の授業に全然出られなかったんですけど、前期に進級できるギリギリのところまで単位を取れてたんです。本当にあと1単位だったから、 先生に相談して、レポートだけでいいことにしてもらって、病院の中でレポートを書いて、一応進級させてもらいました。次の年は丸々休学しました。

岸田 交渉するのは大事ですね。途中であきらめるんじゃなくて、「どうにかならないですか?」って。次の年は1年休学して、またその次の年に戻ってこれたんですか?

関口 休学していた1年間ってほとんどずっと入院してたんですね。そのあとの4月から9月も、治療していたんですけど、このときは1か月に1週間入院して、残りは自宅。だから、なんとかがんばってひと月のうち4分の3は大学行ける状態だから、大学に通いつつ治療も受けるという生活をしてました。

岸田 大学に行きながら治療も受けると。 めちゃくちゃきつかったんじゃないですか?

関口 今考えると、相当きつかったと思います。当時はキャンパスで私に会ったら、「なんだ、こいつは?」みたいなかっこうをしていたと思うんですよね。そんなに強い抗がん剤じゃなかったけど、 多少脱毛があったし、白血球の数もすごく少なかったんで感染症の心配もあって、帽子をかぶってマスクして、人工肛門を圧迫するようなウエストがきつい服装ができないからダボダボのパーカーを着て、下はジャージみたいな。華の大学生がそんなことしていいのかみたいな(笑)。 マスクして帽子かぶってるから、目しか見えないじゃないですか。昔の友人に声をかけても誰だか認識されないみたいなことがありました。

岸田 学校に行きながら治療もがんばって。大学院まで行って、そこからは?

関口 また博士課程に入り、今3年目です。じつは、4月から就職が決まっていて。

岸田 就職活動をしていたときはがんだと言うことは面接で言ってましたか?

関口 そうですね。がんって言ったのかな。「病気を持っています」と「障害を持ってます」は最初の段階で言いました。 でもエントリーシートにもストレートには書いてない。濁してる。大学時代にこういう経験をして、みたいな。人事の方との面接になったときは、もう「こういう障害があります」と。

岸田 随分、勇気が必要だったのでは?

関口 がんって言っても問題ない世の中にはなってないんですよね、まだ。言っても受け入れてくれる会社は、たぶんたくさんあります。一方で、そうじゃない会社のほうがもっとたくさんあるから、どっちがいいっていうのは言えないと思います。言っても受かるんだったら、入社してからを考えるとそのほうが絶対良いと思う。配慮されすぎみたいなことも起こるかもしれないけど、何も知らないで接してるよりは、一応そういうことをわかったうえで接してるほうが、絶対お互い幸せだと思うんです。「なんで言わなかった?」ということも起こりますよね。不利になるからに決まってるんですけどね。

【お金・保険】

岸田 当時保険は入っていましたか?

関口 まだ大学生だったんで、いわゆるがん保険みたいなのは入ってなかった。 医療保険に何か入ってたらしいです。このへんは私、あんまり関知してなくって、お金のことに関しては親が、「そこは心配しなくていい」と言ってくれたので任せていました。

岸田 トータルどれぐらいお金かかったか、自分では把握はしてない?

関口 基本的にすべて保険の範囲内に収まったと聞いています。治療は全て保険適用で、先進医療とかそういうことはしてなかったので。

岸田 がんって障害年金が適用されないことが多いんですよ。義足とか付けない限りは。関口さんの場合は、どうですか?

関口 人工肛門とか人工膀胱の場合、どちらか片方だけだと厚生年金しかもらえないんで、私でもおそらく難しい。ダブルだと等級が上がって基礎年金の対象になるんです。障害者手帳の申請で親も年金課に行ったらしいんですけど、「出ませんよ」って軽く言われてしまって。お金に困ってるわけでもないし、あえて調べようとも思わなかったので、5年以上放置していました。

岸田 厚生年金しか出ないことも多いけど、関口さんのように人工肛門と人工膀胱の組み合わせなど、いろんなことが組み合わさると基礎年金と厚生年金の両方が出るケースがありますよね。

関口 オストメイト、人工肛門、人工膀胱を持ってる人は、一度年金事務所などで調べてみるといいと思います。

【辛いこと・克服】

岸田 つらいっていっても2種類あると思うんですね。身体的につらかったこと、 精神的につらかったこと。

関口 身体的につらかったのは、やっぱり痛みがきつかったことでしょうね。

岸田 どのときの痛みですか?

関口 最初に破裂したとき。8時間おきに点滴で痛み止めを打ってたんですが、6時間ぐらいたってくると、だんだん痛くなってきて。痛みは術後もかなり続いていました。腹筋にグッて力を入れると 激痛が走る、それが1年ぐらい続いたんです。

岸田 それはどう克服したんですか?

関口 もう時間が解決するしかない。ただ、破裂したときに思ったのは、痛み止めは使うべきということ。最初のうちは、あんまり飲まなかったんですけど。「痛いときは飲んだほうがいいですよ」って言われて。まさにそのとおりかなって。

岸田 次に、精神的につらかったとき。

関口 やっぱり食べられなかった3か月間ですよね。いちばんそこが精神的につらかった。いつになったら食べられるかっていうのが、まったく見えなかったんですよね。特に2か月とか3か月経ってくると、これは今後どうなっちゃうんだ? 抗がん剤って一応スケジュールがあるじゃないですか。

岸田 ありますね。

関口 どんなにつらくても、時が経てば終わるんですよ。だけど、食べられないって、治らない限り続くし、食べられない=点滴をずっとやらなければいけない。それで先が見えなかったのがいちばんつらかったです。

岸田 それをどう克服しました?

関口 何してたのかなあ。病室でいろんな物投げたりとか。私をよく知る人なら、そんなの想像できないみたいなことをけっこうやってしまいました。

岸田 後先見えないけど、とりあえずがんばった?

関口 そうですね。がんばった。あとは緩和ケアの人たちに、話を聞いてもらい ました。

【今、闘病中のあなたへ】

関口 「人生何がプラスになるかわからない」。「塞翁が馬」と言いますけど、自分が人工膀胱になって何か唯一得したなって思うのは、抗がん剤治療中に大量輸液を受けても、トイレに行かなくてすむこと。本当にひどいときは、1日7リットルくらいおしっこが出て、普通の人だったら20回くらいトイレに行かなきゃい けない。でも、人工膀胱ならつないでおけば寝られるから。最初に治療を始めたとき、腸閉塞が理由で、予定されてた抗がん剤が急遽切り替わった。それだけ見るとすごくマイナスなんですけど、結果的に奏効して、腫瘍が消えた。

岸田 逆にね。

関口 だから、そう考えると、もしそこで腸閉塞っていうつらい思いをしなければ別の治療をしていて、もしかしたら治らなかったかもしれなかったわけで。あと私は数学を専攻してたんですけど、数学という学問だったからこそ病気でも戻れたこと。大学で何しようかと考えたときに、そこまで強い思いで数学を選んだという感じではないんです。その選択が、 がんになっちゃったことによって結果的に正しかったんじゃないかなって思ったり。ネガティブな部分って、闘病しているとたくさん起こると思うんですね。だ けど、そういうネガティブなことが、ポジティブに変わるかもしれないっていうのが、丸7年経って思うことかな。就職先だって、がんにならなければ絶対選ばなかったし、本当に何がどう作用していくかなんてわからない。がんになるっていうのは絶対マイナスなことだと捉えがちで、実際そうなんですけど、必ずしもそういうマイナスなことだけじゃないということを伝えたいです。

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