先が見えなくて不安になることもあるかもしれない、けど必ず最後はよくなるのでそれを信じて頑張ってほしい。つながってる人たちはきっと支えてくれる。

【略称】インタビュアー:岸田 / ゲスト:三井

更新日:2018年04月15日

【発覚・告知】

岸田 智栄子さんの急性骨髄性白血病がどのように発覚し、宣告されたのかというところまでをお願いいたします。

三井 発覚時は、実はほとんど症状がなかったんです。

岸田 29歳のときはね?

三井 そうですね。しいて言えば肩甲骨の辺りに一時的だったんですが、すごく強烈な痛みを感じたことがあるにはありました。ただ当時は私は結婚1年目で妊娠してたので、ホルモンとか、そういった体調の変化なのかなって。

岸田 痛かったのは、骨のどの辺りですか?

三井 肩甲骨の辺り。きりや鋭利な釘でちょっと骨をぐりぐりこすられるような、そんなような痛みが今にして思えばありましたね。本当に立っていられないぐらい痛いときもありましたね。でもそれ以外は、ぴんぴん動き回っていて、すぐにその痛みが引いてしまったので放っておきました。

岸田 そこから、なぜ病院に行こうと思ったんですか?

三井 当時は産婦人科に定期的に通っていたので、その際の採血で引っ掛かってしまい電話がかかってきたんです。「急きょ来てください」って言われて。「じゃあ、週明けに行きます」と言うと「いや、今すぐ来てください」と言われて。雨が降る寒い日だったんですけど、何だろうと思いながら行ったら「血液検査のデータがおかしい」と言われました。そこから大きい病院に紹介状を書いてもらいました。紹介先の病院でも最初はなかなか分からなかったんですけど、「貧血かな」って言って貧血の薬を出されて飲んでたんですが、そこからという感じです。病院はいくつか提示されたんですが「近いからここでいいか」みたいな感じで最終的には自分で選びました。

岸田 産婦人科のクリニックではできないと言われたときは、どんな気持ちでしたか?

三井 そのときは、おなかには子どもいたので、その子はどうなるのかなっていう気持ちはありましたね。

岸田 そのときは、数字がおかしいとしか言われてなかったんですか?

三井 そうですね。断定的なことは何も。

岸田 その後、大きい病院に行ったときの心境は「何だろうな」ぐらいですか?

三井 「何だろうな」と不安にはなりましたね。でもその時まで病気って無縁で、母親にも「妊娠したときに貧血だったよ」という話を聞いてたので、私も重度の貧血かなって思ってました。

岸田 それで大きな病院に行って、いろいろ検査されて、そこで宣告を受けたんですか。

三井 そうですね。そこでもすぐではなく、いろいろ検査して。最終的には骨髄穿刺という結構痛い骨髄を吸引する検査があるんですけど、それをやって分かったという感じですね。

岸田 骨髄。それはどこから?背中?

三井 今、通常は腰になってるんですけど、そこの病院は胸骨。
ここからきりみたいなやつで、ぎゅっと引かれるんですよ。めちゃくちゃ痛いんですけど。

岸田 それを引かれて骨髄採られる。

三井 「1週間後ぐらいに、その検査をやるから来てね」って言われたんですよ。そこから「え?これはただ事じゃないかもっ」というので不安でしたけどね。

岸田 でも、そのときはまだ何も宣告されてなく。

三井 宣告されてない。アンケートを渡されて、いろいろ書く中に最後の項目で「もしがんだったら宣告されたいですか?されたくないですか?」という項目欄があったんですよ。なんでこんなこと聞くんだろうって思って、そこでちょっと「ん?」って思いましたね。かなり不安になった瞬間でしたね。

岸田 宣告に丸付けた?

三井 もう治らない、もう余命が短いような感じだったら「宣告してほしい」で、まだまだ余裕があるんだったら「宣告しないでほしい」ってコメント付きで書いた気がします。

岸田 ほんまにちゃんと書いたんね。丸付けずにじゃなくて。

三井 真ん中ぐらいの中間地点に丸付けて。

岸田 一番面倒くさいやつや、先生から見たら「どっちやねん」みたいな。

三井 でも、それぐらい悩んでしまって。そんなリアルな質問されたことがなかったので。

岸田 それで検査受けて、その後に言われるわけですか、宣告を。

三井 そうですね。呼ばれて。

岸田 検査してから、どれぐらいの時間。

三井 検査から3日くらいで、最初の主治医の先生から「今後の方針をお伝えしたいから、別室に来てほしい」と言われたんです。「何だろ、今後の方針って?」。まだそのときは楽観的な自分がいて「貧血の薬飲めばいいだけでしょ。私は、3日ぐらいで退院するんだけど」と思ってて。「方針って何だろう?」と思って。当時の元相手と母と呼ばれて、そこで先生に説明されたという感じですね。母はもともと知ってたみたいで、今思えば、そのとき目が腫れてたんです。私は「なんで目腫れてるんだろう?」と思って。その前におじが亡くなったりしてたので「そのことだよ」と、ごまかしてくれてたんです。それから私だけが知らなくて、あとの2人は知ってて、最終的には3人が呼ばれその先生からボードに書かれて告知を受けました。

岸田 急性骨髄性白血病。

三井 そうですね。「今、あなたの病名を書きます」と言われて、黒板に「急性骨髄性白血病」と書かれて「えっ」となりましたね、そのときは。

岸田 聞いて、その後はどうしました?

三井 真っ白ですよね。だけど先生は、今後の治療方針とか治療内容の説明をすぐ始めてしまったので、気持ちを切り替える間もなく、それを聞かなきゃみたいな感じで。なんかよく分かんない、ぐちゃぐちゃな感じでしたね。

岸田 そのぐちゃぐちゃな中、すぐ治療に入っていきましょうっていう感じだったんですか?

三井 そうですね。急性なので「急がないといけないよ」というのは言われました。でもそのとき自分は元気で、肩甲骨の痛みもなくて。やっぱり治療内容を聞くと、すごく大変な治療内容だったので「なんでこんなに元気な体を痛めつけてまで治療しなきゃいけないんだろう?」と、そっちがつらかったですね。信じられないなっていう感じでした。

岸田 ありがとうございます。そんな中で、治療が2007年、今からちょうど10年ちょっと前に発覚して、そこから入院が8カ月。抗がん剤5クールに入っていくと。これは一番最初に説明をされて、そのまま入っていったって感じですか。

三井 そうですね。あまりに急だったので、3日ぐらいだったかな、猶予をいただいて。ちょっと病院の周りを散歩したりとか。やっぱ長期になるので必要な物を取りに行ったりとかしてました。

岸田 後でもちょっと触れると思うんですけれども、当時、妊娠されてるんですよね?

三井 そうです。初期だったんですけどね。

岸田 抗がん剤しながら?

三井 だから、そこがすごく大丈夫なのかなという不安があって。

岸田 めっちゃ不安ですよね。

三井 周りの家族とかにも心配されてたんですよね。だけど、やっぱそこは妊娠の段階にもよるんですけど初期だったので「あなたの体を優先させてください」というお医者さんからの説明で、そちらを優先せざるを得なかったっていう。

岸田 ということは、治療を優先したと。

三井 むしろ抗がん剤に耐えられないんでしょうね。

岸田 そうですよね。だって抗がん剤が胎児のほうに回っちゃいますからね。

三井 そうですね。だからいろんな処置とか、その間にはいろいろあったんですけど。

岸田 そういう感じで。お子さんは、抗がん剤治療の前に処置をした感じですか。

三井 そうですね。それのための猶予でした。

岸田 そのための3日間?

三井 猶予というか、その間、やっぱり治療は始められないじゃないですか。いろいろなことを一気に同時にはできないので、それで。

岸田 やったっていう感じ。

三井 最初は「嫌だ」って反抗したんですけど、難しい問題だと思います。

【家族】

岸田 次の話題、家族のことというところで。ここから、智栄子さんが耐えれるレベルで話していただければ。いろいろ話聞いてると、なかなかすごい人生送られてるよね。そこの話も触れていただければ幸いです。
まず家族構成としては、お父さん、お母さん。

三井 父、母、兄。

岸田 兄。

三井 一緒には暮らしてはないですけど、兄。

岸田 がんになったときに、ご両親にどうやって伝えましたか。

三井 というよりも、父は分かんないんですけど、母は私よりも先に知ってたんですよね。

岸田 目が腫れてるなっていうことでしたもんね。家族からのサポートはどうでしたか?

三井 普通に全力で。特に父と母とか、兄とかは全力で支えてくれてましたね。ショックだったとは思うんですけど、支えてくれてたと思います。

岸田 そして当時、お子さんもおなかにいらっしゃったということで、ご結婚されていると思うんですよ。

三井 そうですね、当時は。

岸田 当時は。

三井 告知当時は、すごく支えてくれてるなっていうのはありましたね。私が結構、真っ白になっちゃってたので、母と、元相手の人ですごい冷静に。

岸田 受け止めてくれました?

三井 最初から知ってたというのもあるのかもしれないですけど、その時は結構、励ましてもらったりしてたかなって。

岸田 すごい冷静に受け止めて、励ましてくれて。

三井 はい。だからそのときの一番身近な家族といったら、元夫になるわけで。すごく励ましてはくれてたので、夫のためにも必ず元気になるぞという気持ちで闘病はしていましたね。

岸田 闘病を頑張ろうということで、治療のために残念ながらもお子さんのこととか、いろいろあって。その後、旦那さんは逆にどこまで支えてくれてました?

三井 多分彼なりに一生懸命だったとは思うんですけど、私も分かんないですけれど。でも結論から言っちゃうと、受け入れられなくて去っていってしまったので、その当時はどういう心境だったのか分かんないです。

岸田 去っていかれたのって、どのタイミングですか?

三井 タイミングというのは難しいです。でも、一番最初は退院したときですね。自分自身の中で病んでる相手を置いて出ていくっていうことは、やっぱりできないと思ったみたいで。治療して退院するまでは見届けようと思ってたみたいなんです、どうやら。退院したら、私はそこからまた元気になったから、1からスタートしたいなって思ってたんですけど、退院するまでで自分の役目は終わったって思ったみたいで。

岸田 退院されてから、ここで離婚の。

三井 するまで、ずるずる引きずっちゃったんですよね。本当、頭が真っ白で忘れてしまったんですけど「とにかく、自分はここまでだと思ってやってきたんだよ」ということを言われたんですよ。

岸田 で、すごく。

三井 そういうことかって思ったんです。結構ショックでしたけど、相手の家族としての悩みもあるのかなって思ったんですよね。自分でもようやく治療終わって、ある意味、脱力っていう感じなので。あんまり、どうこうする気力もなかったっていうのもありました。普通に、また縁あって一緒になったんだから、一緒にまたやっていけたらいいなっていう気持ちで過ごしていました。

岸田 今は、ご離婚はもうされて。

三井 してます。

岸田 「がんと夫婦の在り方、難しいですね」とか、「無理しないでね」とか、コメントいただいてます。

【妊孕性】

岸田 妊孕性ってご存じの人も多いと思うんですけれども、がんになって自分で生殖機能とか、そういったところのことが低下することを妊孕性が低下する、もしくは生殖の機能がなくなってしまうことを妊孕性がなくなるということを言ったりするんですけれども。今はどうですか?妊孕性のところ。

三井 多分実際のところは、お医者さんにも私にも分からないっていうのが答えにはなっちゃうと思うんです。多分こういった治療を受けた女性患者の方はみんな同じだと思うんですけど、難しいですし、もし再発して新しい2度目の治療を受けるときには子どもは難しいっていうことを書かれた気がするんですよね。治療するときの書類に確かあって。サインもしなければいけなかったですし、そういうことも、子どもは難しいんだということを受け入れての治療という感じでしたね。悩みましたけどね。

岸田 悩みますよね。

三井 そうですね。そういう器官って一番ダメージを受けやすいらしくって。男性の場合は、また違うみたいなんですけど、女性の場合は、ほとんど難しいっていう感じですね。そこは一番つらいところではあるんですけど。

岸田 そうですよね。ここを受け入れるのって結構。だけど、自分の中で治療が優先だってことも受け入れるしかないなと思ったんですか。

三井 いや、受け入れられなかったですね。

岸田 ですよね。

三井 受け入れられない人がほとんどだとは思いますけどね。でも、あんまり考えてる時間もないので。どんどん次から次へと決断していかなければいけないので、難しい問題ではありますけど。

岸田 ここまで考える余裕もなく、次々に治療が進んでったっていうのが正直なところですかね?

三井 そうですね。状況が許すのであれば、事前に卵子保存とか、受精卵の保存とか、できる手だては今、あると思うんです。私の場合は、第1寛解期のときに体も元気だったので、できる状況ではあったんですけど、相手の方の同意が得れなかったので。

岸田 まじか。

三井 当時の産婦人科のガイドラインでは、結婚してる以上、相手の人の同意もないと無理。結婚してるなら受精卵として保存できるんですけど「それは嫌だ」と言われたんですよね。なので、せめて私の細胞だけでも採っておきたかったんです。私、卵子保存をやってる専門クリニックを闘病仲間の先輩に紹介していただいて、状況を全部話しに行ったんです。自分に時間がないっていうことも言ったんです。伝えたんですけど、そういう決まりがあるみたいで。ちょっと難しいって、「なんで?」と思ってるときに再発しちゃったっていう感じですね。

岸田 そっか。結婚されてる人はそうですよね、たぶん医療者側も同意得られるものだと思っていて、そういうふうに。

【恋愛・結婚】

岸田 もし恋愛・結婚するときに自分ががん患者だったら、どうですか言いますか?

三井 言います。

岸田 それは、なぜ言いますか?

三井 人対人なので、いきなり初めましてでっていうのはないですけど。ある程度、気心が知れた段階であればあんまり重くならない感じで言うかな。

岸田 普通に気心知れてきたタイミングで、がんの話とかをしていくっていう感じですか。

三井 そこも含めて私だと思ってるので。言うタイミングとか、同じ体験した女性同士でも「そういうのって、いつ言うんだろうね」とか話したりもするんです。いろんな方がいますね。1回目でばんばん言っちゃうとか、すごいアクティブな方もいらっしゃいましたけど。

岸田 今も結婚はしていきたい、出会いたいっていうのはいかがですか?

三井 一時期は、そういうのを全く考えられませんでしたね。はっきり言って「子どもは無理」と言われてるんですよね。とはいえ、今は将来のことも考えて、いろんな病院行ってる中で「医学のことは誰にも分からないので、完全にゼロではないけど」という言い方も婦人科の先生に言われたりもしてるんです。そういう中で以前に比べたら今は前向きですね、割と。一時期は全然、考えられなくて「自分が女性ではなくなってしまった」という、すごいコンプレックスのようなもの、ちょっと言葉ではうまく言えないんですけど、そういうものが多分ありました。相手との関係もあんまりうまくいってなかったから、なおさらそういうように思ってしまったのかもしれないんですけど。最近は一年一年重ねていく中で、吹っ切れてはないですけど。吹っ切るってことは、ずっとないと思うんですけど、一時期の30代前半の頃とかに比べたら、だいぶ。

岸田 ましに。

三井 言い方が難しいんですけど。新しいものをつくっていきたいなっていう感じになりつつはあります。

岸田 ありがとうございます。

【辛いこと・克服】

岸田 では、つらい、克服といったところで。いろんなつらいことがいっぱいあったと思うんですけど、精神的にと肉体的につらかったとき、どう克服しましたか。

三井 肉体的につらかったときは、看護師さんやお医者さん、医療従事者の方に背中をさすっていただいたりだとか、そういうことも含めて支えていただきました。

岸田 肉体的にさすってくれたりとかが、一番支えになったと。精神的には?

三井 精神的には、今、印象に残ってるのは、移植科のトップの先生が、毎晩、多分業務が全部終わられてからだと思うんですけど。夜9時、10時ぐらいに回って来てくださってたんです、一部屋一部屋、一人一人。そのときに「すごい治療うまくいってるからね、大丈夫だよ」と言って、背中をぽんとたたいてくれたり、すごい明るく励ましてくれてたんですよ。だから、自分としては本当にこの状況で大丈夫なのかな、治療うまくいってるのかなって、いつ終わるのかなってずっと不安だった中で、そういう言葉がすごく支えられました。

岸田 ありがとう。そういった医療者だったりとか、治療うまくいってるよという言葉とか、そういう言葉にすごく励まされますもんね。

三井 そうですね。

岸田 そのときの写真なのか分かんないですけど、イラストがありますので。こちらになります、どん。

 

 

三井 どう克服したかっていうことで、血液の闘病って、結構、長くって数カ月に及ぶことがほとんどなんです。半年とか、8カ月とか。外に出れないという状況が多かったんですけど、これはそういう中で時間を忘れるために自分で。

岸田 自分で描いたんですか、これ。

三井 自分で描いたんです。すいません、話のネタになるかなと思って、持ってきちゃったんですけど。

岸田 すごい。入院してるときに?

三井 入院してるとき、点滴を引きずりながら7階の病棟ロビーで。そのときは(病室から)出れる状況だったので。ロビーに出て7階から見下ろしたときに、ちょうど4月で桜の時期だったんですね。桜吹雪がぶわっと7階まで舞い上がってきて、すごいきれいだなと思って、簡単にばーっと下絵だけ描いてたんですよね。途中で治療に入っちゃって、状況も具合悪くなってしまったりして途中だったんですけど、退院後に続きを描いて完成させました。

岸田 すてきですって。絵本の挿絵みたい。

三井 ありがとうございます。

岸田 これ、病院の7階から見た。

三井 そうです。窓ガラス越しです。そうやって時間を忘れるように、自分で工夫してました。

岸田 すごい緑がいっぱいある、いい病院ですよね。ありがとうございます。そんな中で、こちらは闘病を克服するときに。

三井 [手にメッセージカードを持って]精神面をどう支えてもらいましたかっていうことで、これも知人のボランティアで知り合ったご夫婦からいただいたものなんですけど。2人でかな、作ってくださって、闘病中の私の病院までお手紙を届けてくれたものなんですが。こいのぼりの季節で、このメッセージにすごく励まされて、枕元にずっと貼って治療を乗り切ってました。

岸田 こういうメッセージとかをもらうとすごくね。

三井 これは本当に一部で、あとは今日いらっしゃってる友達とか、昔合唱部やってたんですけど、その合唱部の仲間も今日来てくれてるんです。みんなからいただいたお手紙だとか、歌のDVDとか、CDとか、そういったものにもすごく励まされました。

岸田 すごいな、それはすてきですね。

三井 病院のロビーで歌っちゃったりしたりして。

岸田 そういう友人だったり、いろんな人たちの支えって、すごく精神的になりますもんね。

三井 ありがたかったです。

 

【キャンサーギフト】

岸田 ありがとうございます。キャンサーギフトといったところで。キャンサーギフト、がんになって得たもの、得たこと、失うこともすごいたくさんあったと思うんですけれども、しいて言うなら、得たこと、得たものって何でしょうか。

三井 人の本当の優しさに触れれたことですかね。

岸田 深いですね。本当の優しさ。僕、出会ってるかな。本当の優しさ、どういうことですか。

三井 その言葉どおりではあるんですけど。最初は私、周りの友人とかに言えなかったんです。もう1人じゃどうしようもならないっていうときに、ごく限られた人ですけど周りに言ったりしたんです。そのときに、どう反応されるかなっていう不安もあったんです。結果、その中で関係が変わってしまって、今は関係がなくなってしまったということもあるんです。でも、その一方で、今、つながってる人たちっていうのは、すごく支えてくれる。全力でっていうのを感じてますね。もしかしたら、何もなかったら、そういうのも感じることができなかった、感じても気付かない、してもらっても気付かなかったかもしれないです。そういうことに気付けるようになったかなっていうことは感じますね。

岸田 さりげないことでもね。本当にやってくれたこととか、そういうところの優しさに気付けるようになったということですね。

【今、闘病中のあなたへ】

岸田 最後に、今、闘病中のあなたへメッセージを頂けますか?

三井 「大丈夫、必ず最後は全てがよくなるから」です。

岸田 その心をお願いします。

三井 これは、やはり私が再発してしまって、すごい混乱に陥ってしまったときに友人から掛けてもらった言葉です。いろいろあって、不安になることもあるかもしれないんですけども、私はこの言葉にすごく支えられたんですね。先が見えなくて不安になることもあると思うんですが、必ず最後はよくなりますので、それを信じて頑張って笑顔で、またどこかでお会いしたいなと思います。

岸田 ありがとうございます。智栄子さんが言ったら、すごい説得力がありますね。

三井 そうですか。

岸田 いろんな経験されて、それでも最後はよくなるということを言っていただけたら、本当に今の人たちにとっても希望になると思いますので。必ず最後は全てがよくなるからということで、智栄子さんもよくなるんですよね、今後ね。

三井 そうです。

岸田 今後、人生もっともっとよくね。

三井 よくなります。

 

※本ページは、経験者の体験談を扱っております。治療法や副作用などには個人差がございますので、医療情報に関しましては主治医や、かかりつけの病院へご相談、また科学的根拠に基づいたWebページや情報サイトを参照してください。
*インタビュー動画、及び音声データなどの無断転用、無断使用、商用利用をお断りしております。研究やその他でご利用になりたい場合は、お問い合わせまでご連絡をお願い致します。

関連したノート

support_img01

みなさまのご支援が、がん闘病者の生活を変える第一歩につながります。
今たたかう人を助けると共に、より健康と向き合う社会づくりを目指すサポーターを募集しています。

個人・法人のご支援について